【第58節】
世に謂う・・・・【官渡の戦い】 が動き出した。
三国志初期に於ける、最大のハイライト・
ターニングポイントと成る大決戦である!
時に西暦200年、建安五年の事である。而して人々は、『至弱ヲ以ッテ至強ニ当タル』・・・・と、観て居た。
「しめた!出て来たか!!」それが、曹操の第一声であった。『袁紹軍10余万、業卩城ヲ発進。南征ノ途ニ就ク!』 の
急報に接した時、曹操だけは、ガバと立ち上がって、会心の膝打ちをしていた。
〈ああ、是れで、袁紹を奔らせて、
死中に活を得られるぞ・・・・!!〉
曹操にしてみれば、望む処であった。袁紹自身が本軍を率いて出て来さえすれば、知力を尽くして撃破する「目」が出て来る。楽では無いが、其処に勝機が生まれる。こちらは兵数こそ4万弱と少ないが、常に死線を乗り越え危うい戦闘を勝ち抜いて来た歴戦部隊である。機動力を駆使した実戦の機微には精通している。咄嗟の戦法・臨機応変な戦術・采配には絶対の自信が有る。
事実、窮地を脱して勝利に結び付けてしまう様な、際どい戦いを幾度も潜り抜けて来て居た。−−例えば、2年前の「張繍」との戦い・・・曹操は背後(荊州北部)の安全を確保する為、前回大失態した(傾国の美女・鄒氏との情欲に溺れて、降伏した筈の張繍に隙を突かれ敗走。長男の曹ミなどが戦死)敵(張繍)を穰城に包囲した。ところが、荊州牧の劉表が張繍に味方して逆包囲され、帰途を絶たれてしまった。更に悪い事には、袁紹の軍師田豊が、「すぐ許都を襲って、献帝を奪え!」と進言しているとの情報が飛び込んで来た。そこで曹操は急いで許都に退き上げようとした。だが、張繍の兵が背後に迫り、応戦しながらで遅々としか後退出来無かった。然し曹操は、許都で気を揉んで居る「荀ケ」に手紙を出した。
『敵が儂を追いかけて来る。1日に数里(1里=415m)を行軍するだけだが、安心せよ。「安衆」に到着すれば、間違い無く、張繍を撃ち破って見せる。』ーー安衆に到着すると張繍は劉表の兵と合流して要害を守り、曹操は前後に敵を受けた。絶体絶命の大ピンチである。だが此処からが曹操の本領発揮、才腕の見せ処と成るのであった。・・・・何と!曹操軍が、
〔地上から消えてしまった!〕のである・・・・。
《地上を進めなければ、地面の下を通ればよいではないか。》
トンデモナイ発想である。そして其れを、即座に実行させてしまう曹操の物凄さ・・・・! (※第20節に詳述)
「先般、敵軍が必ず敗れると予測されたのは、何故でしょうか?」と、荀ケ。
「敵は、我が帰還軍を遮って、我が軍を必死の状況に追い込んでしまったのだ。それ故わしは勝利を予知したのじゃ。」 是れは、ほんの一例に過ぎ無い。
《曹操様なら、何とかして下さる!!》・・・・此の、将兵達の絶対の信頼感こそが、曹操軍の財産であり、士気の高さと自信とに結び付いていたのであった。
−−だが、だが然しーーさしもの曹操と雖ども、もしジンワリと持久戦に持ち込まれ、なし崩しの消耗戦に出て来られたらならば・・・・こちらに〔勝利の目〕は絶無である。決戦する前に食糧備蓄が尽き、自壊の渕へと追い込まれてしまう・・・・総大将(袁紹)が遥か後方に在って支隊を次々と投入して来られれば、手の打ち用が無い。
「なにィ〜?田豊が投獄されただと!ウホッ!益々もって朗報じゃな!彼だけは要注意人物だった。下手をすれば儂の死神になる処だったわい。その慧眼智略の田豊を斥けて置いて迂闊迂闊と遣って来るとは・・・・袁紹こそ我が命の恩人じゃな!」
何としても、敵をおびき出す。これが、これ迄の最大の課題であった。袁紹自身に黄河を押し渡らせ、こちらのエリア内で戦わせる。
「そうか、来たか!よ〜しよしよし。是れで、こちらの思う壷じゃ!」曹操は何度も、してやったり!とばかりに頷いて見せた。是れ迄の【陽動戦略】が実を結んだ・・・と言えよう。昨年来の曹操側の動きは、全て〔その為〕のものであった。
そこで我々は、「その為に」曹操が採った、昨年の動きを検証して措く事としよう。先ず、2月には・・・・許都の真北80キロの黄河南岸の【官渡】に、迎撃拠点を構築させて、曹操みずからが着陣して見せた。と同時に、その下流100キロの南岸・・・・敵の(予想)渡河地点に当たる【白馬】にも、城砦を構築して兵力を配置した。「さあ、攻めて来いよ!」と言わんばかりの、迎撃用の布陣を敷いて見せたのであった。それでも腰を上げぬ袁紹に対し、
4月・・・・敢えて此方から、「曹仁」と「史渙」に黄河を押し渡らせて、敵将・圭固を攻撃させた。圭固は袁紹に援助を求めるため北上、途中の「犬城」付近で遭遇戦となり、惨敗して斬り捨てられた。それを見た曹操は、自ずから黄河を渡り【射犬城】を包囲陥落させる。守将の薛洪と繆尚が軍を率いて降伏帰順し列侯に封じた。この時、かつて曹操を裏切り、「地の涯て迄も追い詰めてやる!」と言わしめた〔魏仲〕が捕えられた。
・・・・然し曹操は、彼のその才を買って、直ちに河内太守に取り立て、この河北の軍と政を、そっくり彼に委ねた。いずれ袁紹本軍が出て来れば、ひとたまりも無い小城とは謂え、思い切った人事を平然とやって退ける曹操こそ豪胆である。「使い捨て」とは知りつつも、魏仲は一度は捨てた命とばかりに、忠節を尽くすであろう。魏仲に射犬城を任せると、曹操は【敖倉】=ごうそう(漢王朝の穀物倉庫群が設置されていた事に由来した地名)に転進し、尚も袁紹の〔前庭〕を荒らし廻る。8月には黄河北岸の
袁紹側の拠点である【黎陽城】に進軍し攻撃を仕掛けた。更に其処から『臧霸』らを青州方面に派遣して東方を制圧させ、後顧の憂いを絶った。自国領内(冀州)の鼻先で、ここ迄やられては、流石に袁紹も重い腰を上げざるを得無かった。だが曹操は【黎陽周辺】でひと暴れすると、『于禁』を残してサッと退き揚げている。無論、于禁には、「敵の大軍が来たら、構わず退却して来よ。」と指示した上での事ではあった。それにしても、全く疲れを知らぬ精力的な動きである。ムダとさえ思える様な息つく暇もないスバシッコく、コチョコチョした動きの連続である。
其れも偏に袁紹を苛立たせて誘き出す心理戦の為であったとは幕僚達も、「後」で気付くことである。
11月にはーーこれ迄、あれほど煮え湯を呑まされ続けて来ていた、荊州北部の【張繍】が臆面も無く、抜けしゃあしゃあと、全軍率いて帰順して来た・・・・ふつう考えれば『張繍』は絶対に「曹操」とは、くっ付けない。此れまでズ〜っと仇敵の関係で、死闘を繰り返して来て居た。加うるに、個人的感情としても、長男や典韋など大切な者達を殺されている。だから当然の事として袁紹は、曹操の直ぐ後背に、丸で疫病神か背後霊の如くに、へばり付いて居る「張繍」に使者を送って同盟と後方撹乱するよう持ち掛けて来た。小軍閥の張繍は大喜びで其の要請に応えようとした。その瞬間参謀の【賈 言羽】が、事前相談無しに、使者に対して公然と返答を与えてしまったのである!「とっとと帰って袁本初に断って下され!兄弟(袁術)さえ受け入れる事の出来無い者が、何んで、天下の国士を受け入れられましょうぞ、とね!」
「ーーあ、あ、あわわわ・・・・お、お、おい・・・・!?」
張繍はビックリして、腰を抜かさんばかりの大仰天。袁紹の誘いを蹴って、一体どこへ行こうと言うのか!?すぐ南で、既に友好関係に在る「劉表」か?はたまた遥か長江を下って、成長著しい【呉】の「孫策」か・・・・?怒った使者団が席を蹴って去った直後、2人きりになった張繍は、心底不安に成って問訊した。
「何であそこ迄、はっきり言ってしまうのだ?」全幅の信頼を寄せている軍師の賈クではあったが張繍には納得がゆかない。
「こう成ったからには儂は一体誰に付いたら善いと言うのだ?」
「曹公に従うのが一番ですな。」
「ゲ!そ、そ、曹操〜??
あの曹操に付くのか!?」
「左様で御座います。それが最良にして最善の途です。」
「−−し、然し・・・袁紹は強く曹操は弱いぞ。その上、儂と曹操は仇敵の間柄ではないか。事もあろうに、彼に従うのはどんな もので あろう ・・・?」
「それこそ、曹公に従うべき理由なのです。そもそも曹公は献帝を奉じて天下に号令して居ります。これが従うべき第1の理由です袁紹は強大でありますから、我が方が少数の軍勢を連れて従ったとしても、我等を尊重しないに違いありませぬ。曹公の方は勢・弱小ですから、我等を味方に付ければ歓ぶに相違ありません。これが従うべき第2の理由です。そもそも天下支配の志を持つ者は個人的な怨みを忘れ、当然、徳義を四海の外まで輝かせようとするものです。これが従うべき第3の理由です。どうか殿には、躊躇らわれる事のありませぬように!」ーーはたして、会うや曹操は、大喜びして【賈 言羽】の手を握って言った。「儂に天下の人々の信頼と尊重を与えて呉れる者は君だ!」 直ちに上表して執金吾に任命都亭侯に封じ、名目上だが冀州牧(袁紹の地位)に就任させた。現実的には側に控えさせ、司空軍事=参謀として活躍させた。この「張繍・賈ク」のドンデン帰順に因り、背後を脅かしていた不安材料も消えた事となり、いよいよ曹操陣営は、準備万全と成っていった。−−とは言え後背の危惧・懸念材料は、これだけでは未だ未だ、完全に払拭されたとは、尚、言い切れなかったのである。 就中、許都(潁川郡)の南に隣接する、広大な汝南郡(豫州)に在る者達の動向は、死命を制し兼ねない、重大なものであった!!其処には、
【李通】が居た彼は今、曹操から裨将軍に任命され、建功侯に取り立てられている。−−3年前、曹操が張繍戦で女体(鄒氏)に溺れて大敗を喫した時(第20節)、汝南から駆けつけて是れを救い、反撃を加えて曹操を無事帰還させた実績を持つ。袁紹は当然、曹操の後背地である「李通」にも諜略の手を廻していた。使者を送り彼を征南将軍に任命し、(曹操より厚遇) 寝返りを誘ったのだ。だが李通は、是れを拒絶した。ところが親族や配下の者達は、涙を流して言うのだった。「今、孤立し危険な状況の中で独り守備して居り、強力な援助も有りません。一門の滅亡は忽ちの内に訪れましょう。早く袁紹に従う方が宜しいと存知ます!」
これに対し李通は、剣の柄に手を掛けて怒鳴りつけた。
「曹公は賢明な方で必ず天下を平定される。袁紹は強力で威勢がよいが、人物の任用使用が出鱈目じゃ。最後は公に捕えらればかりだぞ。儂は死んでも裏切らぬ!」
言いざま即座に使者を斬り、その首と袁紹が持たせた官印と綬(印綬)を、曹操に送り届けて来た。これだけども足りぬと思ったか李通は続いて、郡内の反曹操派であった瞿恭・江宮こうきゅう・沈成らを攻め潰し、彼等の首をも送って来た。
同じ頃、揚州盧江郡太守の【劉勲】が、軍勢(敗残兵)を引き連れて帰順して来たので、列侯に封ずる。一時は江東の地を半ば平定しかけた 「劉勲」 であったが、(呉の)孫策の快進撃の前に為す術無く破れ(詳細は第5章)ての帰属劇だった。−−・・・とは言え、この期に及んで、劣勢と謂われる曹操側に付く者が相次ぐのは、一体どうした事か・・・・?
ーー実はここに・・・・【曹操の兵力について】、
通説の1万余に、異議を唱える先生が居る。『正史・三国志』の補注を担当している、『裴松之』氏である。氏は、4つの理由を根拠に、曹操軍の兵力は決して1万余などと云う弱少な兵力では無かった!・・と反駁している。
相当に説得力のある、炯眼と思える内容である故、此処に紹介して、読者諸氏の、今後の推断の一助にして戴きたい。(※ちなみに筆者は4万〜5万程度と記したが、はっきり言って自信が無い。)
−−【裴松之】によれば・・・・
『魏の武帝(曹操)は、最初に兵を挙げた時、既に5千の軍勢を持っていた。以後百戦百勝、負けた事は10回に2、3回に過ぎぬ。ただ一度、黄巾を破っただけで、将兵30余万を受け入れており、その他、併合した者は記し切れぬ程である。征伐戦闘によって損耗したとしても、これ程少ない筈が無い。そもそも陣営を築いて対峙し合うのに、鋒を交えて決戦するのとは異なる。「正史」に〔袁紹の軍勢は10余万、陣営は東西数十里(25キロ)に渡っていた〕と言っている。曹操が如何に機に臨み変に応じ、不世出の才略を持っていたとしても、どうして数千の兵力を以って、長期に亘って抵抗する事が可能であろうか。論理的に言っても、そうで無かったと密かに考える。袁紹は数十里に渡って屯営を作り、曹操は陣営を分けて其れと相対する事が出来た。・・・・是れが、兵力が少なかった筈は無いと云う理由の第1である。
袁紹がもし、10倍の軍勢を持っていたならば、道理からして当然全力を挙げて包囲陣を固め、出入りを断ち切らせるに違い無い。それなのに公は、除晃らにその輸送車を襲撃させているし、曹公自身で出撃して淳于瓊らを攻撃し、軍旗を翻しながら往復しても、全く抵抗や妨碍に会っていない。明らかに、袁紹の方では制御できなかったのだ。是れが、余り少なかった筈は無いと云う理由の第2である。
諸書には全て、曹操側が穴埋めにした袁紹の軍勢(捕虜)は8万だったとか、或いは7万だったとか言っている。そもそも、8万人が逃げ散ったなら、8千人でよく捕縛し得るものではないのに、袁紹の大軍勢は皆、手を拱いて捕えられた。どうして力づくで彼等を制御し得たであろうか。是れが、余り少なかった筈は無いと云う理由の第3である。
記述する者(正史の陳寿)が、数の少なさによって見事さを示したいと考えたのであって事実を記録したものではない。
(第4の理由に)「鐘遙伝」を調べると、『曹公が袁紹と対峙して居る時、鐘遙は司隷校尉であったが、2000余匹の馬を送って軍に補給した』と言っている。「正史」と「世語」ではいずれも、曹公はその時600余匹の騎馬を持っていたと言っているが、鐘遙の送った軍馬は一体、どこへ消えてしまったのか・・・・!?』
ーー以上、全面的にでは無いにせよ、示唆に富む内容を含んでいよう。また、議論の多い処でもあるが・・・・いずれにせよ、最終的に判断を下すのは、読者自身に委ねられる、根本的かつ重大な、未解決の課題ではある・・・・。
12月・・・劉備が裏切り、除州(下丕城)で自立を宣言して見せたそして、今年の1月・・・・献帝の〔密勅事件=曹操暗殺計画〕を利用して、クーデタア派(朝廷派)を一網打尽に粛清する。直後、自ずから除州へ進攻。劉備を追い出し、「麋・甘」両夫人を捕え、【関羽】を帰順させた。そして厚遇し官渡の戦場へ同道。関羽の秘めるその神武を期待している・・・・。
−−だが・・・・不気味な情報も入って来ていた。僅か5年で江表(江東・江南地帯)を平定した呉の【孫策】が袁・曹激突(官渡戦)の間隙を突いて全軍6万を率いて〔許都襲撃・献帝奪取〕 を狙って、着々と軍容を整えている・・・・と、謂うのだ!ーー是れに対する策など有ろうか・・・・!?
一方・・・袁紹には〔側背の不安要素〕は皆無であった。伊達に『四世三公』の最大名門・《河朔の雄》と謂われて居るのでは無かった。袁紹自身に多少甘い処はあったにせよ、彼を支える家臣団(参謀・部将)の分厚さは、其れを補って余りある。そうした家臣団を従えて、袁紹は今ついに、曹操との決戦に臨まんとしていた。−−処で地図上では、両軍の動きは次の如くに成る予定である。
袁紹軍が本拠地・【業卩城】から真っ直ぐ南下すれば、献帝の居る【許都】にぶち当たる。だが、その間に横たわる〔黄河〕が、此の直線ルートでは急流に過ぎて、渡河点としては相応しく無い。
従って、袁紹軍の渡河地点は、其れより100キロほど下流(東)の【黎陽】を選ぶ事になる。そして其の「黎陽」の対岸が【白馬】である。つまり曹操側の最前線基地は、この白馬となる。本陣である【官渡城】からは100キロほど東北に在り其の間に戦術的空間が、若干の余地を残して存在する・・・・事となる。実戦はどう成るか判らぬが、いずれにせよ、官渡の戦いの前哨戦は先ず、この【白馬】を巡る攻防戦から始まろうとしていた。歴史の針は、刻一刻と【官渡の大決戦】に向けて動いている。
★☆☆☆☆★☆☆☆☆★☆☆☆☆★
ーー《許都》の王宮・・・その一室で、2人の男が話し込んで居た
少府の【孔融】と、曹操から後方の全てを委ねられてている、参謀総長の【荀ケ】であった。
「袁紹は、広大な領土と強大な兵力を有している。田豊と許攸は智謀の士であり、袁紹の為に計策を建てている。審配と逢紀は忠義の臣であって、政治を担っている。顔良と文醜は、三軍に冠たる勇士であって、軍兵をきっちり統帥しておる・・・・。これでは、曹操が勝つ事は殆んど難しいと思うのだが、君の見通しは何うなんだ?本当に大丈夫なのかね!?」
孔融の此の観測が当時の一般的判断としては普通とされていたーーかくて・・・・袁紹軍、圧倒的優位のまま『袁』と『曹』の両者はついにその雌雄を決すべくーー
《官渡の地》で激突する・・・・・。
その袁紹軍のどこかに【劉備】は、客将として居る。そして曹操陣内には【関羽】が在り、この官渡戦で目覚しい活躍をする事となる。ーー然して・・・3兄弟のうち末弟の【張飛】は行方不明長兄と次弟は敵味方に別れて対陣する事態を迎えてしまった・・・
ーー袁紹と曹操・・・・劉備に関羽、そして張飛ーー
彼等、英雄たちの明日や如何に・・・・・・!?
☆【第1章】へいってみようかな・・・・・・・・
【第1節】 《天下悠々》 →へ
☆・・・・歴史順どおりに【第2章】へいこう
【第2章】 《プロローグ》 →へ
★ このまま先へ進もう・・・・・
【第4章】 《プロローグ》 →へ