明日は、曹操そうそうとの面接試 験である。

「ーー・・・どんな人物かな・・・・・

時に西暦201年、日本では邪馬台国やまたいこくに女王・ 卑弥呼ひみこ
誕生したばかりの時。所はユーラシア大陸の東・・・・中国。

大漢帝国も末期の、初秋の日の事であった。
《今を時めく、群雄ナンバーワンの
曹操孟徳そうそうもうとくとは、
       一体どれ程の器、どれ程の男なのだろうか・・・

  ★  ★  ★  ★
この青年は今、後世三国時代と呼 ばれる壮大なる史劇の中
へ、知らず知らずの裡に、足を踏み入れようとしていたのである。
のち『正史・三国志』に
4848名登場して 来る内の 一人として
又、その 〔〕・〔〕・〔しょく〕の
三国を統一する
大帝
として
司馬宣王 (しばせんのう) と表記 される事となる男の、若き
旅立ちの日であった・・・・・

三国統一志
     〔第1部〕 

    《乱世の英雄たち


    〔第1章〕 
 凄ご過ぎる男

      【第1節
  

     天下悠々



「ーーどんな人物かな・・・【この青年にしてみれば曹操との
出会いを期待する楽しみも有るが、又その反面、些か警戒する
気持も強かった。ーー曹操孟徳ーー『三国志演義』では・・・・
400年に渡って続いていた「
漢王 朝」を、悪知恵と非情さとで乗っ
取って亡ぼした
最大の悪者とされる。曰(いわ)く、
清平せいへい姦賊かんぞく、乱世 ノ英傑えいけつーー
治世ならば【姦雄
乱世ゆえに 【
英雄・・・・だから現代でも中国の人々 からは
最も毛嫌いされ、蔑(さげすま)れている人間である。
 ちなみに【この青年が 「極悪人・曹操」から、面接を受けるよう
呼び出された今(西暦201年現在の、中国大陸の勢力分布は
およそ次ぎの如くである。
201年勢力図
前後4百年に渡って続いて来た大漢帝国は、もはや名ばか
りの滅亡寸前に在った。 全国各地には天下統一を狙う群雄達が
割拠して居り、互いを潰し合いつつ自己勢力を拡大してゆく、サバ
イバル戦に突入していた。・・・・そんな中、
曹 操は、周囲のライバルを次々に撃ち破って台頭。
漢王室の少年帝を自陣営に取り込む事にも
成功。昨年、10倍
の差が有る最大の敵・
袁紹えんしょう官渡戦かんとせんで撃破。
まさに今から天下
統一に挑戦
しようとしていた。 是れに対して、亡びゆく漢王朝を
復興すべく
立ち上がった英雄達が居た。劉備」「関羽」 「張 飛」の
義兄弟である。 更に、この3人を「姦雄・曹操」に立ち向かわせ、
その対抗勢力として中国の西方にの国〕を建てさせようとする
神の如き頭脳を持った天才軍師・
諸葛亮孔明が登場して来る。
(※のち・・・・【この青年★★★★は、その諸葛亮孔明の、唯一最大の宿敵と成る・・・・)
又、中国の南(長江の中・下流)には、是れもまた新興勢力である
孫権が在り、曹操の野望の前に立ちはだかりつつあっ
た。
それらを全て叩き潰して天下を併呑し、完全なる統一王朝を
創り上げようとしているのが、この
曹操と云う男なのだ
だから彼の評判は、当時から既に極めて悪かった。
この青年★★★★】 の
耳に聞こえて来る「曹操孟徳」の噂や評判も
ことごとくヒドイモノであった。
《できるなら、採用は御免蒙ごめんこうむりたいもんだな。
          どうも、余り好い印象を持てないからなア〜〜!!》
面接は、曹操の方から一方的にこの青 年★★★★】に命じて寄越したもの
であり、どうも気乗りがしない
ーーなにせ曹操と言えば当時知らぬ
者とて居無い
悪の総本山
と見做されていた。 8年前の
徐州戦では、父親を殺された腹いせの報復に、何の関わりも無い
無辜の民50万を大虐殺
している男だっ た。
曹操は男女数万人を泗水しすいに投げ込んで殺害し、 川はその為に
流れなくなった。更に泗水から南に向かい、諸県 を攻撃し、之らを
みな攻め亡ぼした。鶏や犬までも絶
えはて、荒れ涯てた村里には
通行する者の影さえも無か
った。』 と言われている・・・曹瞞伝
又、曹操は厳しい性格 であったから、掾属えんぞく(彼の属官) 達は職務に関
連して、しばしば杖で叩かれる事があり、
カキは常に毒薬を所持し
死んでも恥辱を受けまいと
決意していた・・・・《正史・カキ伝》とか、

曹操は嫌悪のたちが強い性質で、我慢できぬ相手が
居れば皆処刑
した』・・・・正史・崔エン〈王に炎〉伝
そのうえ更に、【この青年★★★★】の耳には、狡猾がしこさや酷薄さも縷々
きこえていた。ーー『或る時、陣中の兵糧が欠如し始めた。士気の
低下を懸念した曹操は、そこで担当官に相談した。するとその者 は
「升目を小さくした物を用いて計れば、たっぷり有る様に見えましょう」
と言った。「グッドアイデア!よかろう、やれ!」と許可した・・・処が
やがて将兵達の間に、曹操は部下達を欺いて配給を減らしている
と云う噂が立ってしまった。そこで曹 操は、例の担当官を呼んだ。 
「ここは一つ、君に役立って貰う事にしよう。」 と言い様、直ちに彼を
斬り殺してしまった。 「君に死んで貰って連中を鎮めねばならぬ。
そうでなくては収まりがつかぬからな」と嘯く曹操。 そしてその者の
首を陣中に晒し、「これなる者は、升目を小さくして官穀を盗みし者
である。因って是れを軍門に斬れり」と布告した。曹瞞伝etc.etc)
ーー
悪逆非道天上天下てんじょうてんが唯我独尊ゆいがどくそん・・・・・
恐ろしい独裁者であると云う専っぱらの噂である。
そもそも、この
青年
伝え聞く、その人格に〔
〕が無い。
曹操の人柄ひとがら軽佻浮薄けいちょうふはくで威厳に欠けていた。音玉おんぎょく大好きで
いつも側に芸人の類いを侍らせ、朝から晩まで愉しんだ。 重々
しい衣冠を身に着けて人前に出るのが君子としての礼儀だと云う
のに、軽やかな絹の着物を着て、腰には小さな皮袋を何個もぶら
下げ、その中には細々とした雑多な物を直ぐ取り出せる様に入れ
ていた。時には略式の冠を被って賓客に会うと云う非礼千万な事
もあった。人と談論する時は常にふざけた調子で話をし、丸っきり
包み隠す処が無かった。→→〈尽無所隠
上機嫌で大笑いすると
顔を料理鉢や碗の中に突っ込んで
頭巾は御馳走でビチャビチャ
になった。曹操の軽薄さは、概ね、この様であった。』 《曹瞞伝》
《・・・・無教養まる出しではないか・・・!!

それに対し、【この青年の父親の生活態度こそは、人々をして
【正統なる士大夫したいふ】と絶賛 させるものであった。
父親は、その子らに対しても《》にのっとって厳格に臨み、為に、
家は常に粛然としていた。子らが加冠・元服を済ませ成人になっ
ても、父に命ぜられない限り、決して父の元に進み出ず、座らず
問い掛けと関係ない 事は一言も発しなかった。

軽佻浮薄けいちょうふはくを最も嫌い、ビシリと筋目の通った生き方である。だから
この青年にしてみれば、
《ーー曹操
・・・・何程の者 ぞ》 と云う事になる。

「ま、仕方ないか・・・!」
こう言って彼は歴史に登場し、こう言って歴史から去っていった。
全ては、成り行きである。
小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。
何処に在っても、不都合なくピッタリと納まる人物ーー何でもよい。
雑役夫でもよいし、皇帝にも成れる。歴史の流れが、いずれ彼を
押し出すであろう・・・・のちに、激烈なる死闘を繰り広げて成立した
』・ 』・ 『しょく』の三国時代を統一する大帝の、若き日
の姿である。
「ま、仕方ないか・・・・」
曹操に呼び出された【この青年は、大らかな表情でそうつぶやいた。
そのおとがいには、二キビが二つ三つ吹き出している。完全武装した
曹操の使者群を前にして、齢の割には気負いも無い、泰然とした
声音こわねであった。
この青年 
司馬しば  仲 達ちゅうたつ】 ・・・・・
        
いんの都が在ったと信じられていた
河内かだい郡》を本貫ほんがん(本籍の所有地)
とする、名門・司馬家の二男坊である。
             現在
君主、重臣・生没年表
ちなみに、中国の人名は、20世紀・ 辛亥しんがい革命でしん王朝が倒さ
れる迄はずっと、
せい』+『 』+『あざなの三者がワンセット
で、1人の人物名であった。
そしてこの三者の使い分けには厳しい
掟・社会規範
が存在した。
中でも特に【
】は最も重要視され、と りわけ大切なものとされた。
本人が死んだ後も、この【名】は今度は《・・・日 本ではイミナと読んだ
・・・・と呼ばれて永く大切に 扱われた。だから【名】は、滅多な事では
使ってはならないのであった。

この若者の場合は『司馬が』、 『懿が』、『
仲達』、と云う
事になる。
もし相手が彼を「懿!」と、大切な【名】で呼びつけ たら、
彼に殺されても当然の事なのだ。それ位、中国の人々にとっては
【名】は重大なものなのであった。

故に、もし彼を「懿!」と名で呼び捨てる者が在ると すれば、それは
敵の罵り声か、もしくは皇帝・両親・師 のみである。

【名】は大事にとっておいて普段は【あざな】 の方を呼ぶ。他人同士
の会話でも「仲達」と言い、決して
「司馬懿」とは言わない。また今後
彼が出世すれば、今度は官職名で呼ぶ。
尚、この【あざな】は、元服する時(原則的には 自分で) 付ける。実際には
父親の指示が大きかったようだ。 (彼の8人兄弟には皆、”達”が
付けらているように)又、長男(はくもうなど)や末っ子(ようなど)を
表 わす漢字を組み合わせたり、重要である【】と 関連ずけた漢字
を選んだ。
・・・では元服前はどう呼んだかといえば、父親がつけた
よう
みょうとしての「字」で呼んだ。但し《幼い時の字》は、史書には記さ
ないから、後世にはマズ伝わらない。極く稀れに
正史以外の書に
曹操孟徳の幼名が『阿瞞あまん』 だったり、李通文達が「万億」であったと
知れるだけである。
               
ところで硬い事を言えば、我々外国人が 当然として使 用している
人名表記法には、問題が在る?識らぬ事とは謂え、本来の厳しい
掟を犯してしまっているのである。
・・・例えば『司馬懿仲達しばいちゅうたつ』、『劉備玄徳りゅうびげんとく』、 曹操孟徳そうそうもうとく』、と言う事は、
あってはならないのだし、『諸葛亮孔明しょかつりょうこうめい』と言う事も、又あり得なかっ
たのだ。ーー詰り、最重要である【、普段使用の
をくっ付けるなど、 トンデモナイ事なのだ!
そして又、〈〉と【】とが続く、『劉備りゅうび』、 『そうそう』、『関羽かんう』、 『孫権そんけん』、
諸葛亮しょかつりょう』、
張飛ちょうひ』、などと云う呼び方も存在しなかったのである。
但し・・・・【】を飛ばした、〈姓〉と〈字〉 の組み 合わせは許される。
《司馬仲達》・《曹孟徳》・ 《劉玄徳》・《諸葛孔明》・《関雲長》ならOK
処が我々は、これらを混同して使い、馴れ親しん で来てしまっている
・・・ま、仕方あるまい。かく言う 筆者も、何が何やらサッパリ解らない。
硬い事は抜きにして是迄通り、耳慣れた表記を用いてゆく事としよう。

                
なお現代中国の 名前であるがーー
                 2002年七月の新華社電によると・・・・

中国人の姓のうち、最も多いのは 《》で、全人口 の7.9%に達する
事が、中国科学院の調査で判った。ほぼ1億人に相当すると言う。
(日本人が全員、同んなじ名字になる数だ!)
第2位の《》7.4%、3位の《》7.1% を合わせるとこの三者だけで
2億7千万人(米国以上)になる。同電では世界でもべスト3の姓と
報じている。 報道によると、現代の中国人が使用している姓は、約
3千5百あるが、このうち百の姓に人口の87%が集中している。
人口比で1パーセントを超える姓は計19で、べスト3に続いてーー

りょう」「 ちん」「よう」「ちょう」 「こう」「 しゅう」「」。地域差もあり、北方では「王」、
南方では「陳」がc純刀Bその中間の長江流域では「李」がトップ。
広東省では「りょう」や 「」、福建省では「てい」などの比率が高く、省に
よる違いも大きい。歴史的な文献に残る姓は、少数民族を含めて
1万2千に達しているが、多くは既に消滅した・・・・とい う。

 ちなみに日本人の姓のべスト100 はーー
   
鈴木佐藤田中山本渡辺高橋小林中村伊藤斉藤
   
加藤山田吉田佐々木井上木村松本清水山口
   
長谷川小川中島山崎橋本池田石川内田岡田
   
青木金子近藤阿部和田太田小島島田遠藤田村
   
高木中野小山野田福田大塚岡本横山後藤
   
前田藤井三浦石井小野片山吉村上野宮本
   
横田西川武田中川北村大野竹内原田松岡矢野
   
村上安藤西村菊池森田上野野村田辺石田
   
中山松田丸山広瀬山下久保松村新井井上大島
   
野口福島黒田増田今井桜井石原服部藤原市川

              
なお当然の事だが、【皇 帝】だけは別格であった。無論、即位
する迄は人間であるから姓名は有る。 然し一旦即位するや、
人ではなくなる。天から地上に降された《
天子てんし》とよばれる。
直接的には「陛下へいか」、一人称では《ちん》と云う特別な呼称が用いられる。
死後には〈オクリナ〉が送られ『諡号しごう』で呼ばれる。(武帝・霊帝など)
またまつられて『廟号びょうごう』で呼ばれる事ともなる。(太祖・太宗など)
但しおくりなの方は、皇帝独占のものではなく、生前功績のあった者
にも贈られた。例えば、高柔こうじゅうと云う人物には「元侯」とおくりなされた
事が判っている。


                            
         
        
    
さて、面接に向かって嫌々ながらも、旅だった

司馬しば  仲 達ちゅうたつ】であるが・・・・実はーー曹操からの招聘しょうへい
これが初 めてでは無かったのである。ひと月ほど前にも、正式な
使者が訪れてい たのであった。だが、それを拒否した。然も使者
には会おうともせず、仮病を使ったのである。今を時めく時代の
超大物に対して、図太いと言うか、野放図と言うか

『私はヨイヨイに成ってしまいました』 と、告げたのだ。

風痺ふうひニシテ、起居ききょ スル能ワズと、見え透いた返事 を持ち帰らせ、
知らん振りした儘なのであった・・・・

自宅は曹操のお膝元、潁川えいせんである。曹操は激怒した。

「小生意気な小僧め
引っ くくってでも連れて参れ。それでも拒む
なら、構わぬ、殺してしまえ
」と云う、前幕があっての今日である。
「曹操のことだ、こんどこばめばられるな。気には喰わぬが
られ
たんじゃあ始まらんか・・・・ま、仕方あるまい・・・。」
それが、言の葉に出たのである。
「父上、おいとまに参りました。」 
 父親の司馬ぼうは、
質樸二シテ率直、公平二シテ方正ナ人柄デ、私邸デモ酒ノ席二
在ッテモ礼二従イテ威儀ヲス
。』・・・・と云う人物であった。 
子等に対しても礼を厳格に求め、今も何時もと少しも 変わらぬ
態度であった。そのお陰で仲達は、大曹操の前 でも、己をいつも
通りの自然体に委ねられる事となる。
「おお、おお、ゆくかい?」

祖父の司馬儁しゅんが、自慢の孫をでる様に、柔 らかいまなざし
腰を浮かせた。190センチ余の巨躯であった。「ハイ、ゆきます。」
祖父には二コッと面拝した。頴川の太守を勤めあげ、 海千山千の
人生を送って来たが、今は孫達の栄達を 愉しみに生きている。
「ーー修羅の道じゃぞ。」 父の司馬防は、京兆尹けいちょういん(都の警視総監)
だけに、 今の時代を識っている。 名門・司馬家の期待の星である
仲達が、これから仕官する相手は【曹操】である。彼は司馬家から
観れば、所謂いわゆる濁流だくりゅう」の出であ る。
当時世間は、宮廷内に跋扈ばっこした【宦官かんがん】の 家系を《濁
流》と看做みな
した。(宦官については、第2章 で詳述)曹操の祖父はその宦官であった。
宦官は生殖器を奪 われているのだから当然、我が子を設ける事は
出来な い。だから養子を取った。 ※(桓帝が、彼等の忠誠に免じて
養子縁組を許可)
その養子が曹操の父の曹嵩そうすうである。その曹嵩は
あるまい事か、国家の最高官職であり国軍最高司令官・
国防大臣
である『太尉たいい』を、1億銭で
買っているーー政治の腐敗、ここに
極まれり・・・・だが同時に、宦官の資力の巨大さをも示す。
それに比べて、わが司馬家は《清流せいりゅう》である。 清流とは・・・・
宦官の横暴に逆らい、漢王朝の正統な官僚とし て忠義を尽くす、
高位の家柄の人士を指す。世が世で在れば、立場は逆なのだ。

だからその事もあって、最初に仲達が 曹操からの招聘を拒絶した
時も、司馬防は何も言わなかったのだった。
「天と地とが、この中に在りまする。」
仲達は、己の胸に手を当ててみせた。

「ーー出来た・・・な。ーーあとは、『じん』 じゃな。」

明るい顔で恬淡てんたんと答える我が息子に、防は誇らしさを 覚えた。この
防は、名臣列伝(漢書)を丸暗記する位、 人間を大事にしている。
「勝ち残ります。」  仲達は、あっさり言った。だが、この言葉は、今
ふと口から出た言霊ことだまでは無かった。  

ーー《
てん》・・・それが、仲達の全思想、全存在 であった。
この若者は、自分を言い表すのに、それが一番しっく
り来ると
感じている。だがそれは、学問として既に巷間こうかん 言われている
〈天〉ではない。仲達自身が、己だけで勝手に感じ、気ままに思う
概念 の総体が《
》なのである。

おさがたおおきなもの、己にだけ解る、確固としたもの、その限り無く
巨きな力が恒に己を愛し、時に後押しし、また導きもする、最も好ま
しい、不抜の理念・・・・・それは自分、司馬懿仲達自身でもある。
己と一体化した巨大な自負心・・・彼は、それに
拠ってここ迄生き、
又それに拠ってこれからも生きるで あろう。
「既に、この父を超えたお前の事だ。儂には何の
懸念けねんも心配も無い。
思うが儘にするがよい! 」 「ゆくからには、存分にやりまする。」
不遜ではなく、彼にはそれなりの、どっしりとした自 信が有る。
と云うよりは、その本物の自信を持つ者だけ に与えられ、見る事を
許される夢であろう。 「然し、気に喰わねば、帰って来ます。」
「そなたは余程の曹操ぎらいじゃのう。」

祖父の司馬儁しばしゅんが、ホクホクしながら目を細めた。
「嫌いではありませんが、好きにはなれませぬ。」
「うんうん、よいわさ、よいわさ。」 今を時めく曹操にすら、決して
尾を振らぬその気概が頼もしかった。
「そなたが言うと、それが決して強がりでなく聞こえて来るから
不思議じゃのう・・・ま、それが、そなたの器量と云うもんじゃて。」            
仲達、時に23歳。西暦では201年・・・・《》とか云う世界の涯て
の蛮地では【卑弥呼ひみこ】なる 女王が生まれた頃の事である・・・・

               

この歳に成るまでブラブラと、気侭きままな日々を過ごして来た。長兄の
司馬朗」(伯達)は既に高官として其の秀才ぶりを謳われている。
《俺はじっくりゆくさ・・・・》青春の、 この数年間を囲った無聊ぶりょうこそが
今の彼を培った・・・と言ってもよいだろう。世間から見れば『無駄』
と思われる悠長な時間の消費 も、若く春秋に富む時代の『心ある
無駄』である時、 それは決して、人生の遠廻りでは無い。 そこで、
じっくり腰を落として己と向き合い、世界と向 き合う事を経た者こそ
人としての器が拡まるであろう・・・・その事を、父の防は解ってくれ
ていた。お陰で《己の》に辿り着く事も出来た。無論父は、そんな
仲達の内面世界までを解っていた訳 ではない。但、仲達がこの世
に存する、有りと有らゆる書物を貪欲な迄にあさる姿と、この戦乱の
時代状況を見 極めんと、己の身の置き処を模索している事だけは
解っ た。 又、【軍を司る】と云う意味の『司馬家』本来の 【】に於い
ても、その修練の凄まじさを 知っていた。司馬とは軍事の最高司令
官である。一介の武辺であっ てはならぬのだ。
「百万の軍を動かしてみたい・・・」と、我が子が漏らした事があった。
「動かして何うする?」座興の心算つもりで尋ねると、15歳の少年は言っ
たものだ。 「国を平らかにします」と。

そんな仲達にも弱点が有った。‥‥女である。女色に迷うたぐいの
事ではない。そのたおやかな存在そのものに弱いのである。
その代表が母であった。謹厳実直な無骨の父に対し限り無く優しい
愛に満ちた人である。想えば、母の怒った顔を見た記憶がない。
ともすれば、 むさ苦しい男系家族の中に在って、常に一族が活気に
溢れている源は、この馥よかな母の存在があったからかも知れない。
使用人を含め、母の周囲にはいつも人々が嬉々として集まっている。
懐が深く、何くれとなく人々に気を使いつつ、一族を切り盛りしている。
単に主の妻と云う立場だけで人々が集まるのではなく、その人柄を
慕われ、《あの人の傍に居たい!》と誰しもが魅せられる温かさを
持つ女性であった。 偶たま一度立ち寄った旅芸人なども、つい夫人
に会いたくて、もう十数年来必ず顔を出し続けている。戦禍を逃れて
移住してさえ、居所を追って会いに来ていた。

『庶民の妻でも、皇后でも納まる女性ひとだ』と、父は評する。
男で在ったなら、どんなであったか?

仲達は寧ろ、母親の血を濃く継いでいるのかも知れない。
そんな母が、仲達に初めて尋ねた。「ーーあなた、うするの?」

曹操からの招聘しょうへいが来る前の、昨年の春の事であった。これには参った。
「そろそろ・・・ですか、ね。」 とだけ答えたが、
仲達の心の中に《世に出る》 ことが、現実味を帯び始めた。

後から想えば、時宜じぎを得た母の一言であった・・・・。

そして仲達は直ちに推挙され、一足飛びに河内郡の財務長官に
就いた。流石に名門の家柄がモノを言っている。
『家柄・人柄・風貌』の推薦試験はトップで合格。
ーーーできた!
任官したばかりの新人なのに、まあ良く切れる。数字に滅法強い
上に、博学で世情にも詳しいと来ていた。郡の現状を把む為の
情報収集と積極的な現地視察・・・・それを立ち所に処理分析し、
先を見通し、予算に具体化していく大胆さと緻密さ。
然も、その才をひけらかす事なく、古い組織を建て直しながら、
その功績は全て部下のものとする。普通、ポッと出の新人が、
これだれの事を一気にやったら、必ず
ドコカから反発や反感を
こうむるものである。それなのに、何処どこからも苦情ひとつ出て来な
かったと云うのだから、 これはもう、凄いの一言に尽きる。
                                   しゅうら ん
事に当たっての処理能力、人心収攬の才、そして無欲さ・・・・
仲達はハナから、この職に長く留まる心算は無かったのだ。彼に
とっては、これはほんの小手調べ、軽い練習の範疇とするもので
あった。 (事実、すぐ辞職している)
結果、感謝されこそすれ、どの部局からも文句ひとつ上がらぬ
予算配分が完成し、その増収が実現したのだった。
評判の悪かろうはずがない。たちまち噂となった。
「今度の長官は、若いのに
凄い」ーーその折も折、この時点で、
その中央平原を制していたのは、 誰あろう【曹操孟徳】その人で
あったの だ。曹操は此の時、古来より中国の心臓部である《中原ちゅうげん
の事実上の統治者であった。そして仲達がその名を売った河内かだい
とは、曹操の拠城である『許都きょと』から、ほんの河南尹かなんいん ひとつへだてた
だけの近距離であったのである。天下を視野に収め、傑れた人材を
咽から手が出る程に 欲しがっている曹操が、その情報を掴むのは
早かった。
アザナに全員『たつ』が付け
られた、《司馬の八達はったつ》と世に謳われる8人兄弟のうち長男で族長
と成るべき【司馬朗・伯達】は既に、曹操の下へ出仕し、その秀逸
ぶりは曹操自身もつとに識る処であった。2男の仲達は、その兄が
足元にも及ばないと言うのだ。

「君の弟は、聡亮明允そうりょうめいいんにして剛断英特ごうだんえいとく!とても
君の及ぶ処ではないな!」
友人の崔エンさいえん(王に炎)に、
面と向かって言われてい る。
常ニ慨然がいぜんトシテ天下ヲうれウルノ心アリ

                          ーー晉書しんじょ宣帝紀せんていぎーー


 
宝石03        宝石03        宝石03



・・・ところで、『三国志』は2つ存在する。
 1つは
正 史・三国志であり、
              もう1つは
三国志演 義えんぎである。
この両者は全くの別物である。乃ちーー
                 
正 史』の方はーー三国時代 の人「陳 寿ちんじゅ」が、リアルタイムで
記した純然たる《歴史書》であり、史実だけが厳密に書かれている。
それに対し『
演 義』は、三国時代から1000年も後の十四世紀に、
羅貫 中らかんちゅう」の手によって創られた、善懲悪の《娯楽・読み物小説》
である。(更に後には「
毛宗崗もうそうこう」版)
だから其の中味は、史実を全く無視して換骨奪胎かんこつだったいし、 粉飾ふんしょく誇張
された、完全なるエンターテイメントである。
処が現代では、この『演義』の作り話しが、あたかも史実であるかの
如くに誤解され、そして又、「演義」だけが『三国志』と呼ばれて
                                 しまっている。 
然し、はっきり言って
三国志演 義は、その
八十パーセントは虚構出鱈目でたらめである。
又、三国志とは うたっているが、実際のところは、
其の
九十パーセントが蜀一国だけの事を扱っているに
過ぎない。もっと言えば、
劉備・関羽・張飛の義兄弟を主人公に、
諸葛孔明をスーパーヒーローに仕立て上げる為に、捏造ねつぞうされた
『虚構の歴史小説』である。
だから、他の二国や登場する全ての人物達は、その実像を
じ曲げられ、単なる彼等の引き立て役を与えられて登場
して来るのみなのである。ーーにもかかわらず、其れが本当の歴史
として多くの人々に信じられている・・・・・

本書三国統一志は、それ等の誤解を正しつつ、虚構では
決して味わえ無い、『歴史の真の面白さ』・『よりクオリテ
の高い
知的愉悦』を、読者諸氏と共有したいと願うものである。
そうした思いや、本書の 手法・構成などは、巻末の『モノローグ』に
納めて有る。本来なら『はしがき』に当たる部分であり(出来得るならば)、第2節の前に、ぜひ先にお読み戴きたいと念ずる次第である・・・・・
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       若しくは
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