竜
三国統一志


                第T部 
    《乱世の英雄たち
  神獣
      第4章 
        きょ   ら い     めっ    しょう 去来滅生

     亡び、来たる超人達



      プロローグ 



ーー・・・宇宙のかなた、ブラックホールの中に、ひとつの銀河が生まれようとしていた・・・・。無限大の磁力を持つ中心核が、周囲に散らばる星々を、強力な力で吸い寄せ渦巻き状に集まり始めていたのである。だがそれは、未だ光を放つことも無く、誰も気付かぬ裡に、密かに進行していった。
−−そして、ついに・・・・・巨大彗星は突如、眩い光を放つや、新しい〔国家〕と成って三国志の混沌カオスの中に出現するのであったその間、たったの10年ーー・・・・・
   【呉の国の誕生であった!!
官渡戦(西暦200年)のわず5年前★ ★ ★・・・・・その時点に於いてすら、未だ呉の国などと云うものは存在して居無かったのである。長江の南に広がる、『江東』・『江南』の壮大な大地は、小豪族が乱立割拠して居るだけの、忘れられた〕遠地に過ぎ無かったのである。当時、長江下流域の東呉の地は、(ようしゅう)
揚州と云う超バカでかい州の一部として十束じゅっぱひとからげにされていた。つまり、都の在る中原諸州から見れば、文化の遅れた僻地(へきち)と見做みなされていたのである。その証拠に、流罪るざいとなった罪人達が次々と送り込まれる《流刑の地》に指定されていた程であった。それも長江の北であり、揚州の大部分を占める長江の南部に至っては中国とは観られては居無かったのである 全土図それ故、朝廷の直接支配は及ばず、官位を持たぬ小豪族達がウヨウヨ居ると云う状態であり、群雄と呼ばれる様な、飛び抜けた勢力は存在して居無かったのである。では、本当に未開の地であったかと言えば決してそんな事は無い。そもそも中国の古代文明は・・・・ 黄河の大曲折だいきょくせつ (支流の渭水いすいを含む) 地域を中心に、B.C4000年ごろの
仰韶ヤオシャオ文化》だけを、その起源として栄えて来た、と見做みなされていた。だが20世紀になってから次々と新発見(遺跡発掘)がなされ、其れ以外にも古代文明が各地に在った事が判っている。1976年に、長江下流の河姆渡かぼと(呉郡★★に当たる地)で、高床式たかゆかしきの廊下の付いた住居跡や田耕用のスキなどが出土した。時代はB.C4千年のものだった。いわゆる 《河姆渡かぼと文化》 である。詰り、黄河文明と全く同じ時に、長江下流にも立派な文明が存在していたのだ。それも〔仰韶〕が、アワキビを主食として、竪穴式たてあなしきの掘っ立て小屋だった時、東呉の地では米(水稲)を主食として、高床の木造建築に住んで居たのである。ーー但しその後・・・・三国志時代までには・・・上述の如き状態と成っていたのは事実である。然し、東呉の地には、《河姆渡文明》に由来するであろう「仰韶文明」とは異なる、文化や風俗が当然あった。同じ中国、同じ後漢時代とは言え、チョット違うのである。特に女性の地位については、大いに異なる。(後述する)中央政権(朝廷)の支配力が微弱である分、人々はどこか伸び伸び、溌剌はつらつした処が見える。中原ちゅうげんに対する、良い意味での反発・挑戦的フロンティア精神スピリッツに溢れている・・・・そんな江東・江南(両地域を合わせて河表こうひょうと呼ぶ)に、アッと言う間に呉の国】を打ち樹立たてのは・・・・孫氏2代目★★★孫策であった!!
ーー然して・・・その父親・初代孫堅の存在無くしては彼も無く、又、彼を継いだ、3代目孫権無くば、三国時代は成立して居無かったであろう。 更に言えば・・・・2代目・孫策の義兄弟と成り、3代目・孫権を叱咤激励して支え続けた周瑜公瑾の存在無くしては赤壁の大勝利も無く三国時代そのものも出現して居無かった・・・と言えよう。

江東こうとうの虎】→【小覇王しょうはおう】→【碧眼児へきがんじ・・・・孫氏3代に渡る〔怒涛の10年抜きには、呉の国は語れない。 と、同時に、周瑜その人の活躍無くしては、三国志世界は語り継げぬのである・・・・・。
  【第59節】 巨大彗星 出現! (初代・孫堅伝) →へ