第21節
八面六臂
      ー

準備期間を終えた3月(198年)、曹操 は3たび全軍を率いると
侍中の荀或に留守を任せ、「許都」を発ったと仲達は聴いている。
目指すは、張繍軍の拠城じょうである。途中さしたる抵抗も
無く『宛』を抜き、ついに〔穣〕に到達した。
〔穣城〕は城市と云うより、砦に近い戦闘重視の小城であった。
宛城に較べれば、格段に規模は小さかった。その代わり、城の
周囲は、
賈 クが考案した水濠と塹壕とが巧みに組み合わされ、
土塁や障害物が至る所に配置されていた。さながら其れは・・・・
寸分の隙も無い針ネズミの如くであった。そのうえ地理的にも、
同盟する劉表(荊州)の首都である《
襄陽じょうよう》とは僅か70キロと
近かった。・・・・曹軍と互角以上の兵力を有する荊州軍にすれば
己の庭先で如何様にも動き廻れ、背後に廻り込んで
逆包囲する
事さえ容易であった。
ーーそれを承知の上で、 曹操は決着を付けに来たのである。
予想していたとは言え、北の袁紹が、グイと大きな動きを
起こしていたのだ。・・・・情報に依れば、袁紹の宿敵【
公孫讃】は
直接の一大決戦を避け、
易京えききょうと命名した地に、十段構えの巨大
要塞
(大土塁要塞)を構築。その城内に 10年分!の食糧を備蓄
して籠城。みずから出撃する意図は放棄したらしい・・・・      
                (※詳しくは、第3章51節〜夢か現か、バベルの城にて)
と云う事はーーその気に成りさえすれば袁紹は、何時でも黄河を
押し渡って南下し得る環境が整ってしまったと言う事だ。公孫讃
向けに守備部隊を残し置いたとしてさえ、その兵力は曹軍の8倍
以上はあろう。
袁紹が重い腰 を上げぬ裡に・・・
》ーーだが、そんな曹操の腹
の内を見透かした如く、張繍軍は堅く城門を閉ざし、長期の籠城
戦術に徹して動かない。
を包囲する事1ヶ月・・・・ジリジリする曹操に、嫌な
ニュースが2つ同時に飛び込んで来た

1つは、モタモタしている間(5月上荀)に、荊州軍が背後に廻り
込み、帰途に当たる 《安衆あんしゅう県》 を抑え込んでしまったのである。
ーー退路を断たれたのだ。2つ目は更に重大な情報・・・最も
恐れていた
袁紹の南下が開始されるやも知れず!!と、
云うものであった。
「すわっ!何を差し置いても許都に戻らねばならなぬぞ
!!
窮地に追い込まれた曹操。撤退作戦ほど難しいモノは無い!と
云う事は、骨身に浸みて識っている。そこで、この男は、2段構え
の撤収戦術をアイデアした。
先ず、撤退と見せ掛けて軍を退く。それを視て、必ず敵は追撃
して来よう。だが第1回目は飽くまでニセの撤退で、敵を充分に
呼び込み、待ち構えて叩き潰す。その後続いて2度目に、今度は
本物の撤収作戦に移る。一度叩きのめされた敵は、其れに懲りて
直ぐには追って来ないであろう・・・・。
「と、殿、あれを御覧下され曹操軍が包囲を解き、退却し始め
ましたぞ
」「おお、真じゃ曹操め、我が鉄壁の守りに堪え兼ね
諦めて逃げ出したわ
」  張繍軍の幕僚達は、城壁上から手を
打って小躍りした。  「よ〜し、馬引け〜い直ちに全軍城を出て
追い討ちを掛けるぞ!一旦逃げ始めた軍隊ほど弱いものは無い。
我が方の大勝、間違い無しじゃ

勇躍する張繍。だが賈クかくがまた、押しちどめた。
「なりませぬぞ!いま追撃してはなりませぬ。
追撃すれ ば負けるに決まっておりまする。」
「ーーん??ワハハハハ・・・我が軍師よ、こればかりは、そなたの
進言とは申せ、採用する訳には参らぬわい。前回こそは軽率だっ
たが、2度と同じ轍は踏まぬ。今度こそ曹操に、我が武勇を示して
呉れようぞまあ我が軍 師も、今回だけは儂に任せてゆっくりと
酒でも傾けな
がら、高みの見物と洒落込んで居て下され。
                                  うと
《やはり策士と云う 者は、実戦には疎いわい・・・・》
一斉に出撃した張繍、
ボコボコにされ て逃げ戻って来た。
大勝間違い無しとばかり、敵の殿軍でんぐんに襲い掛かった。処が何と、
殿しんがりのはずの最後尾に、
曹操が居たのである。てっきり曹操は、
軍の先頭に在って、必死に逃亡中と思いきや、眼の前にデンと
構えて、デブ野郎が、おいでおいでと手招いているではないか

「ーー何じゃ、これは??」
時すでに遅し。2度も苦汁を呑まされ、雪辱に燃えた曹軍の将兵
が、ワッと張繍を取り囲んだ。 その先頭に、大金棒をブン廻す、
超デブが見えた。
虎痴こちであった。
  
ーー
許猪きょちょハ先陣 トナリ、五けたニ上ル首ヲ斬ッタ・・・・
ケチョンケチョン、メッタギッタにやられた張繍軍は、まとまって退却
する事すら儘ならず、四方八方に蹴散けちらされ、青息吐息の為体ていたらく・・・
先ほど迄の大言壮語は何処へやら・・・・実戦豊富な筈の【 張繍】、
半べそ顔でねている。処が【賈ク】は、ボロ雑巾の様な主君に
断言したのである。
「勝てますぞ
今すぐ、急いでもう一度戦えば、必ず勝てます
張繍、開いた口が塞がらない。儂を虚仮コケにするのか、と云う眼付き
である。
「確かに儂は、君の意見を採用しなかった為に、こんな羽目に陥っ
た。だが今、敗北した後で、どうしてもう1度追撃するのだ?」
「戦いの状況には変化が有るもの。 急いで出掛ければ、勝利は
間違い無いでしょう。」
先っきはゆくなと言い、今度は絶対勝てると言う軍師。何が何やら
解らぬが賈クの言った事を無視した為に、このザマに成った事だけ
は確かであった。もうヤケクソの阪神半疑はタイガース、どうせ負け
ついでだ・・・・張繍は散り散りになった味方を急いで掻き集めると、
再び追撃戦に出ていった。 ーーアララ、するや今度は嘘の様に、
曹軍は弱かった。殿軍は苦もなく壊滅し、本軍の後尾も次々に崩れ
去っていくではないか
流石に曹操の中護軍に迄は手が届か無
かったが、先ほどの大敗を帳消しにして余りある大戦果となった。
ーーこの後の曹軍への対処は、ひとまず「
安衆あんしゅう」で手薬煉てぐすねしいて
待ち受けている荊州軍に任せておけばよかろう。 一息入れたら、
今度はじっくり南北から挟み撃ち。息の根を止めてやる・・・・!!
大勝利の興奮に、鼻の穴を脹らませる張繍。
《それにしても何で賈クには此の結果が見えていたのであろう

大満悦で立ち戻った張繍は、早速それを尋ねてみる。
「儂は精鋭を引き連れ、撤退する敵を追撃したのに、君は、必ず
 敗北すると予言した。逃げ帰った後、今度は敗軍を引き連れ、
 勝ち誇る敵軍を襲撃したのに、君は必ず勝つと予言した。何も
 かも君の予言通りになったけれど、どうして常識に反しながら、
 どちらも実現したのであろうか?是非、その訳を教えて欲しい!」 
賈クは別にどうと云う風も無く、淡々として答えた。
「是れは分かり易い事です。張繍
どのは戦さ上手ではあられますが、
曹公には叶いません。
たとえ主君と雖も、その人物の力量はキッチリと区別し、〔張繍は
曹操の下に位置する
〕 と観た上で、戦いの流れを把握する客観
的な判断・・・・
「敵軍は撤退し始めたと云うものの、必ずや曹公自身が殿りとなっ
て、追撃を絶つに相違ありません。 追撃の兵が精鋭であっても、
大将が曹公と張繍殿とでは叶わず、そのうえ敵の兵士もまた精鋭
なのです。だから敗北間違い無しと予知しました。曹公は我が軍
攻撃に当たって、策戦の誤りが有った訳では無く、力を出し尽くさ
ぬ裡に撤退したのですから、『
国内に何か事件が起こった』に違い
ありません。張繍どのを撃ち破った後は、軍兵に軽装させ、全速
で進むに相違無く、たとえ諸将を殿りに残し、その将軍が勇猛で
在ったとしましても、やはり張繍殿には叶いません。だから、敗残
の兵を使って戦ったとしても、勝利間違い無しと思ったのです。」

「ーーウ〜ン・・・儂は曹操に叶わぬ・・か・・
そうズバリと言われた張繍。すっかり感服し、以後は益々賈クを
全面的に信頼してゆくのだった。
それにしても気に成るのはーー
国内に起 こったに違い無い、何らかの事件である。

実は・・・袁紹側から脱走して来た兵士(間諜)が、許都の荀ケに
重大な情報をもたらしたのである。
袁紹の参謀・田豊でんほうが、許都襲撃計画を作成して上申した
模様!』・・・・と云うものであった。是れは十二分に有り得る事で
ある。願わくば、袁紹が其れを採用せぬ事であるが、もう一人の
重臣【
沮授そじゅ】も、この計画を後押ししていると言う・・・・
万難ヲ排シテ、即刻、御帰還アルベ シ
曹操が己の分身とも頼む荀ケからの急報である。短い故に其の
重大さが一層伝わって来る。 ーー今から2年前ですら、両者の
実力差は歴然としていた。それをつくづく感じさせられたのは・・・・
《献帝奉戴》直後に、袁紹に『太尉』の官職を授与した時であった。
曹操が自分より上位の『大将軍』に就いたと聞いた袁紹は大激怒。
今にも実力行使で攻め込まんばかりの剣幕であった。
《ヤバイ!》・・・・いま攻め込まれたら、太刀打ちの仕様も無い。
それ程までに戦力には雲泥の差があった。曹操は直ちに、この
措置を撤回。袁紹の怒りを静める為に、大将軍職を譲ったばかり
か、将作大匠の孔融を業卩城に遣わし、「大将軍」に加え「ぼく
業卩侯ぎょうこう」、更には《
三賜さんし殊 礼しゅれい》まで追贈したのであった。
三賜とは弓矢・黄鉞おうえつ虎賁こほん百人ーー春秋時代の昔、晋の文公が
周王から拝受した故事にならい、軍権及び刑殺権を認める委任
状に他ならない。朝廷に成り代わり、華北一円を平定せよ!・・・
つまり、袁紹の軍事行動は全て正義の戦い・官軍の行為と見なす
ーーと云うお墨付きまで与えたのであった。 そこまで持ち上げ、
機嫌を伺い、友好関係を演出せねばならぬ程、『
袁紹の実力』は
恐ろしかったのである。
2年前ですら、こうだったのだ。現在では、その勢力は更に拡充
され、ほぼ 〔
10 vs 1〕 とされていた・・・・
さて、その退却中の曹操軍、散々な目に遭っていた。
賈クのお陰で手ひどい損害を被った上に、荊州軍に廻り込まれ、
退路を塞がれてしまっている。前門と後門を挟まれ、その間に
突然現れる伏兵の奇襲に悩まされ、前進も儘成らぬ悪戦苦闘・・・
もうすぐ、荊州軍が先回りしている「
安衆あんしゅう」に辿り着く筈であるが
この進軍速度では、もう張繍軍の一部は、既に曹軍を追い越し、
荊州軍との合流を果たしていよう・・・・果たして、そのイヤな予想
通りーー安衆の行く手には既に、抜き難い大要塞が築かれ、敵の
大軍が待ち受けていた。そして背後からは、これまた連合した敵
の足音が迫っていた。・・・・だが、こんな状況下、曹操は荀ケに
手紙を送り届けている。勝っても負けても、無事でも窮地であろう
とも、この2人の通信書簡は生涯続く。
賊が儂を追いかけて来る。一日に数里を行軍 するだけだが、
 儂は推断する。ーー安衆に到着すれば、間違い無く、儂は
 張繍を撃ち破る
』 だから安心して居れ・・・・これは決して
希望的観測でも、虚勢を張った負け惜しみでも無かった。そして
又、精神的な根性論でも無かったのだ。
曹操と云う〔
新機軸しんきじくの泉〕は、前代未聞・かつて誰もが着想しない
破天荒な戦術を、その胸中に秘していたのである。どんな苦境
に直面しようとも決して諦めず、それを打開する為には、常識を
捨て去り、既存の思考枠に拘泥しない・・・何とも凄い男では在る。
《ーー敵がゆく手に立ち塞がるのであれば・・・・
       ↓
敵と戦わずに避ければいいではないか。
 地上にドッカリ構え居るのであれば・・・・
       ↓
       ↓
       ↓
・・・・
地上をゆかなければよ い・・・
世界広しと雖も、追い詰められたドダン場に於いて、こんな柔軟
な、夢みたいな事を本気で考え出す者は、この曹操孟徳
を置いて外には居無いであろう・・・・
ーー隧道ずいどう大作戦
・・・
即ち、敵の股倉にトンネルを
いて、知らぬ間に背後へくぐり抜けてしまうーーこれであった

それだけでは無い。 泡を喰らって急追して来たら、トンネルの
出口で待ち伏せて、奇襲を喰らわせる。トンネルの前後を崩壊
させて、生き埋めに閉じこめる・・・・
夜中、要害ノ地ニ穴ヲ掘ッテ地下道ヲ作リ、
 輜重ヲ全部通シ、奇襲ノ軍ヲ伏セテ置イタ。
 折シモ夜ガ明ケタ。賊ハ公
(曹操)ガ逃走シタト
 思イ込ミ、全軍ヲ挙ゲテ追撃シテ来タ。其処デ
 奇襲ノ兵ヲ放チ、歩兵ト騎兵デ挟ミ撃チニシ、
 散々ニ之ヲ撃チ破ッタ。
  ーー『正史・武帝 紀』ーー
かくて絶体絶命の大ピンチは、敵の壊滅的な大敗北と帰し、
曹操は最後の最後に、一発大逆転のグランドスラムを決めて
見せたのであった・・・
!!
7月、曹操は会心の笑みを湛えながら、「許都」に凱旋した。
「先般、賊軍が必ず敗れると予測されたのは、何故でしょうか?」
「敵は我が帰還の軍を遮って、我が軍を必死の状況に追い込ん
で戦った。それ故儂は、勝利を予知したのじゃ」
好い星・運天は、連鎖を呼ぶのだろう。「荀ケ」が神経を磨り減ら
して心配しまくっていた【
袁紹】の動向・・・・
情報に依れば、
田豊でんほう】が献策した〔許都襲撃計画〕は、息子の
病気
を理由に却下されたとの事。ーーと云う事は・・・北・東・南の
3敵のうち、北の【袁紹】と、南の【張繍】は、暫くは大丈夫。ならば・・・
《このすきに、東の
呂布りょふつぶして仕舞おう

全く疲れと云う事を知らぬ、精力絶倫、神出鬼没の男・曹操孟徳!
まさに八面六臂はちめんろっぴの大展開へと突入していくのだった


9月ーー今度は曹操、 数年来の宿敵・呂 布りょふ討滅の為、
全軍を率いて真東の〔
徐州〕へと、許都を出陣し てゆく。
尚、呂布の生 涯については、〔第3章48節〕や〔第4章60節〕・
 『史上最強のさすらい者』などにて詳述する。此処では、略史のみ掲げるものとする。
10月ーー途中、【劉 備】と合流する。劉備は2年前(196年
建安元年)、呂布に徐州を乗っ取られて、曹操の懐に飛び込んで
来ていた。「殺してしまいなされ」とする【郭嘉かくか】や【程cていいく】らの進言
を無視して曹操は、劉備を宣伝広告塔として厚遇し続け、今では
ぼくに任じて措いてやった居たのである。
合流後、呂布の出城の一つ「ぼう城」を難なく下し、いよいよ呂布
の拠城《
下丕卩かひ》へと向かう。 ※(へんが正字)
ーー己の武勇を過信した呂布は、参謀の
陳宮ちんきゅう(元々は曹操の総参謀
だったが、荀ケの登場によって軽視されたと感じ出奔) からの諫言を採らず、
城外で3度戦って3度とも破れ、遂に
籠城する。
処が又、この籠城が頑強そのものであった。何度攻め掛かっても
その都度つど跳ね返され、一向にらちが明かず、連戦と遠征が続いた
将兵達の疲労は増すばかり・・・・
10、11、12月ーー
包囲戦を続行するが、呂布は城楼にドッカリと腰掛けて、こちら
嘲笑あざわらう余裕さえ見せる。真冬に向かって将兵の志気も落ち込
む一方であった。
「・・・・むを得ぬ。撤退しよう。」 こうも予想外の長期戦となっ
てしまうと、袁 紹の動向も気に掛かる・・・・
然しこの時、軍師の
荀 攸じゅんゆうは語気を強めて言った。
三軍ハ、将ヲ以テしゅス。主おとウレバ、軍すなわ奮意ふんい無シ
「呂布は勇猛なだけの男で、知謀には欠けます。まして相手は
3戦3敗して、内心は怯えて居りまする。 戦いは何と謂っても
大将しだい
その総帥が弱気では、何で将兵が奮い立ちましょ
うや
? 呂布軍の鋭気が回復していない今こそ、絶好の機会。
ここでこそ、一段と攻撃を強めれば、必ずや城を陥とせます。
撤退を考えるなどの弱気はなりませぬぞ

12月中旬ーー《ならば!》とばかり、泗水しすい沂水きんすいの水を引き
込み、下丕卩城を水攻めにした。ーーするや・・・・元々、寄せ集
まりだった呂布軍は内部崩壊し、裏切りに会った陳宮は捕縛され
呂布も遂には唯一騎、門外へ出て降伏。 グルグル巻きに捕縛
される。だが軍神の如き己の武勇を売り込もうとする呂布。
曹操も一瞬、呂布の武勇を惜しんで、麾下きかにしようかと躊躇ためらう。
その時すかさず「即刻殺すべきだ!」と叫んだのは劉備であった。
ついの事、7度も主を裏切って来た呂布が、曹操に受け容れられ
る筈も無く、呂布奉先は其の場でくびり殺された。
その代わり曹操は、のち「魏の五星将」ナンバーワンとなる勇将
張遼ちょうりょう】を得る。かくて、東の脅威だった『呂布』は地上から消えた。

ーーだが、此処〔
徐州の民心〕は、6年前に曹操が行った、あの
徐州大虐殺】を決して赦しては居無かった。父親の復讐と称して、
無辜の民幾十万のホロコーストを平然と実行した大魔王
・・・・
それを慚愧の裡に自覚する曹操は、此の徐州統治に、名士でも
無い〔
地元★★軍人グループ〕を全面抜擢ばってき、委任して見せる。彼等は
その”大恩”に感激し、 以後この
徐州を忠実に守り通し、曹操の
覇権確立の大きな原動力と成っていく・・・・

ーー思えば、この198年(官渡の大決戦2年前)と云う年は・・・・
その前半を『』で張繍と戦い、後半は『』で呂布と戦って来た。
・・・・残るはいよいよ最大最強の敵・我に10倍する
北の巨人
との直接対決である。だが現状では、とてもまともには戦えない・・・

華北の巨人ーー袁紹本初・・・・黄河以北の全中国を
ほぼ手中に納め、残す相手は「易京」に立て籠もる『公孫讃』のみ。
その兵力
50万!
河南の超新星ーー曹操孟徳・・・・東の『呂布』を亡
ぼし、残すは南の『張繍』だが、既に大打撃を与えてあり、もはや
最後の鉄槌を下すのみ。だがーーこちらの兵力は、僅か
5万
 ーー
50万 VSバーサス 5万・・・・!!
世間では、この両者の開きを
至強至 弱言い合いーー
曹操の政権は風前の灯だと観ている。
翌、建安四年199年と云う年は・・・・  
『華北の巨人』と『河南の超新星』とが激突する為に、天が両者に
与えた準備期間・・・つまり・・・・【
嵐の前の静けさ】と云う 様相を呈
していく。その1年と云う自由時間を、どちらがより有効に使うか?
ーーと言うより、現状では袁紹からは相手にもされぬ様な曹操が、
この1年の間にどれ程の準備を成し得るか? と云う年であった。
そして、来るべき決戦のゆくえは、其の前年に当たる、この建安
4年(199年)の中にほの見えて来ていた・・・・と仲達は思う。
先ず、余裕綽々しゃくしゃくの【袁紹】ーー・・・中国最北端のゆう州を支配して
いた「
公孫讃こうそんさん」を、〔易京えききょうの大要塞〕に追い詰めていた。
『10年間は籠城できる!』と豪語するだけあって、その巨大モニュ
メントは・・・分厚い城壁と深い塹壕とを交互に10段ずつ凸凹状態
に構えた、即ち、本丸の周囲を20段のバリアで覆い尽くした、
                     難攻不落の巨大要塞であった。
10年間生き残っていれば、群雄は互いに傷付き合い、気息奄々きそくえんえん
と成り涯てて居よう。その時こそ要塞から撃って出て、天下に号令
するのだ
』 ・・・・・誠にユニークな発想に基づく、彼独自の戦略
構想である。それにしても虫の好い話しだ。だが、こんな事を真面
目に考えざるを得無い程の、深い事情が、彼には在ったのだ。
        (公孫讃の生涯については、第3章中の『夢か現かバベルの城』、
                               『人間不信・中国版マクベス』で詳述)
この年の
3月ーーそんな自己中心的な公孫讃の野望を、袁紹は
情け容赦も無く、粉々に打ち砕く。そして・・・一時は〔
白馬将 軍〕と
畏怖された【
公孫讃こうそんさん伯珪はくけい】は、〔易京〕 と云う砂上の楼閣と共に、
無惨に崩れ去る・・・・
かくて袁紹は、華北の完全平定を達成。黄河以北の広大な
土地と人民を全てその手に納め、実に中国全土の3分の1を領有
するに至った。押しも押されもせぬ、堂々たる
覇王が誕生した
のである。 その兵力は更に膨張し、
60万余と成る。全国各地の
群雄達が大連合したとしてさえ、これには及ばない。ましてや独力
で対抗しようなぞ蟷螂とうろうおの、片腹痛い話となっていた・・・・

ーーこれに対抗せんとする『
曹操孟徳』、その全知全能、全身
全霊を傾注して、生涯最大の危機に臨まんとする。但し彼の周囲
に悲壮感は全く無い。
この 『
非常ナル人』は、この状況を危機として感得するより、
《人生最大のチヤンス!》 と、捉えている観が強い。
                       ちょうせい    けつ
 ーー
非常ノ人、超世ノ傑・・・・    ー『正史・陳寿評』ー
そんな曹操、この年、みずから設定した2つの課題を、同時並行
的にこなしてゆく。 その1つはーー政治戦略として、又、同時に
軍事戦略として、敵に揺さぶりを掛け続け、精神的に余裕を与え
無い事であった。こと此処にまで漕ぎ着けたからには・・・・曹操が
今、最も恐れるのは「攻められる事」より、『
攻め
ラレヌこ と』であっ
たの だ
今の大差の儘、じっくりと構えられてしまう事を最も恐れ
た。巨大な相手が動かず、こちらもただ待って居たのでは、ジリ貧
と成り、離反や寝返りが続々と吹き出し、いずれは内部崩壊して
自滅する・・・・ 又、心理的にも将兵は萎縮して、いざと言う時に
逃げ腰となろう。それを防ぐ為にも、こちらが主導権を握って仕掛
け、常に相手を徴発し続けるのだ。
4月、曹操は、袁紹の全ての官位を剥奪した。献帝の勅命を
使えば、たちどころに袁紹は『逆賊』である。袁紹の主たる官位は
大将軍』と『 ぼく』の2つであった。そのうち冀州牧については
許都遷都の功労者であった、廷臣の「
董昭とうしょう」を、新たに任官させた
のである。 冀州は袁紹の本拠地であるから、董昭の任官は単に
名目上の事でしかなく、明らかな
嫌がらせである。 だが、同時に
「2人出現した冀州牧の正統性」 となれば、飽くまで勅命を受けた
董昭のものとなる。
又、「大将軍」については剥奪するに留め、曹操はいずれ自分が
就任する為の下準備に入っていた。 つまり、現在の肩書である
「司空」・「車騎将軍」を辞任する方向で動いてゆく。既に、前月の
3月には、車騎将軍職を、献帝の外戚・『
董承とうしょう』に譲り渡していた。
それより前の2月には、司空職の辞任を申し出るが、これは献帝
から慰留され、その儘になっていた。いずれ近々曹操は、袁紹が
最も自慢のタネにしている『
大将軍』を名乗る事となろう。袁紹の、
怒髪点を突いた憤怒の形相が、目に見える様である・・・・

2つ目の課題はーー何と言っても、いざ激突と成った時に備えた
防御ラインの構築・防衛基地の建設〕であった。この時期の曹操
は、黄河と許都との間をこまめに往復し、しきりに何かを模索して
いる様子であった・・・・


ーー以下、官渡大決戦の1年前に当たる★★★★★☆★★★☆☆☆☆、この199年に於ける、
曹操孟徳の行動を、月を追って検証して措く事にしよう。
絶対的不利・人生最大の危機に直面した此の男が、如何に精力
的で疲れを知らず、小まめに動き廻っていたかが、よ〜く分かる
であろう・・・・。

2月徐州(呂布戦)の事後処置を終えた曹操は帰途に
つき、一旦、中間地点の「昌邑しょうゆう城」に駐屯。だがこの時、黄河の
北岸の『射犬しゃけん』で、謀叛が勃発。スイ固と云う者が、親曹操派の
上司を殺害し、袁紹側に付いたのである。事件現場は黄河の向
こう側だから、在り得無い事ではなかった。が、その「射犬」の位
置は、袁紹が南下する場合、許都を〔西から〕襲う、重大な渡河
地点と成り得る。これは非常にマズイ何故なら、兵力の少ない
曹操としては、何としてでも
敵の進撃ルートを一本に限定する事
・・・・是れこそが必須不可欠な、絶対条件と成るからであった。
とても、多方面からの襲撃を、防ぎきれるものでは無かった。
故に防御ライン構築の最大の狙いはーー
袁軍の来攻ルートを一本に限定させる事!
あり、其処へ敵を誘い込む! 為の工作に在った。
ちなみに曹操が設定しようとしている迎撃ルート、即ち、袁軍の
推定侵攻ルートとは・・・・『許都』の真北90キロ地点の〔
官渡
に、迎撃拠点を置き、其処へ
北東から攻め込ませて対峙し・・・・
この〔官渡の地〕を以って、最終決戦場とする!
・・・・と、云うものであった。その為には何としてでも、西からの
ルート
は、選択の余地無しに、潰して措かねばならない。
4月「昌邑」から「許都」へ帰還した曹操は、その足で
直ちに西北に向かい、黄河の南岸まで進出。
曹仁】と【史渙しかん】を渡河させ、謀反人・スイ固を攻撃させた。慌て
た 「スイ固」は、自分だけ射犬城を脱出したが、その移動中に
遭遇戦となり、犬城で斬首された。
スイ固のあざな白兎はくと。以前、みこは彼に忠告した。
「将軍の字は
であるのに、この邑の名はです。兎が犬と出
会えば、勢いビックリするのが当然。早速にも他へお移りになる
べきです。」 だが彼は聞き入れず、その結果戦死したのだ。
                             ーー『典略』ーー
それを確認した曹操。自身も渡河すると「射犬城」を包囲、再び
降伏させた。そして、この
北岸の要地・河内郡の太守には【
魏仲ぎちゅう
を取り立て、軍政を委ねた。・・・・実はこの「
魏仲」、曹操 を裏切っ
た、〔お尋ね者〕=ウォンテッドの逃亡犯であったのだ。・・・その昔
曹操は彼を可愛がり、孝廉こうれんにも推挙してやるなど、大いに目を
掛けた。だからえん州がそむいた時(6年前・徐州大虐殺後の3城死守の時)
「魏仲だけは先ず儂を見捨てぬであろう」 と信頼していた。処が
彼は呂布側に寝返り、逃亡したのであった。 激怒した曹操は、
「おのれ魏仲め、南方のえつか、北方のにでも逃れぬ限り、貴様
を捨て置かんぞ!」 と周囲に喚き散らしていた。
その魏仲が、この射犬城に居たのである。当然、高手小手たかてこてに縛り
上げられ、曹操の眼の前に引き擦り出された。すっかり観念して、
その場での手討を覚悟した魏仲。処が「その才が有れば好し!」
と縄目を解かれたばかりか、まさかの郡太守抜擢!口あんぐり・・・
そして大感動・・・・
 ーー彼は命を捨ててでも、此処を守り通す
であろう。蓋し、守り通さねば、彼にはもう社会的生存の可能性は
無いのである・・・・
6月ーーアホ皇帝の 【
袁術えんじゅつ】が淮南わいなんの地で、文字通り
野垂れ死に
した。『呂布』・『公孫讃』に続く群雄の退場であった。
歴史は急速に、冷厳な〔
淘汰の時〕を迎えていたのである。
 この【
袁術】は2年前、ヤケッパチで曹操領内に首を突っ込んで
ボコボコにされて逃走した後、ヨタヨタと飢餓地帯をウロついた挙
句、一縷の期待を抱いて、再び北上して来たのである。終生、犬
猿の仲であった異腹の兄・
袁 紹】を、この期に及んで頼ろうとした
のである。だが遙か黄河を越えて幾千里、とても『業卩城』の袁紹
の所までは行き着けない・・・と、諦めた袁術は、せめて「青州」に
行こうとする。その時期、青州には刺史として、袁紹の長男である
袁譚が居たのである。其処で合流すれば何とかなろう・・・フラフラ
北上し始めた。
いかに『墓場ノ骸骨』 ー孔融評ーとは言え、袁譚と合流すれば
小ウルサイ。 そこで曹操、その合流を阻止する為、手元に置いて
居た【
劉備】を、徐州に派遣した。
・・・・するや、「劉備を自由にしてはなりません
」と軍師の郭嘉かくか
駆け付けて来た。
程cていいくも飛び込んで来る。程cなどは常々、「なぜ
直ちに殺してしまわぬのじゃ、理解に苦しむ」と周囲に漏らして居た。
備、雄才有リテはなはダ衆ノ心ヲ得、
              ついニ人ノ下 ラザラン!

曹操は後悔して、直ちに後を追わせたが後の祭り。曹操を出し抜
いた「劉備」は、刺史を殺害して徐州を乗っ取って(再占拠)しまった。
「儂は未だ未だ甘いのう・・・」さぞや切歯扼腕したであろう曹操だが
もはや覆水盆に返らずと割り切って防衛ラインの構築に専念していく。

ーーだが、刻々と
其の 時が迫って来る緊迫感に、 将兵達の表情の
下には不安が募る・・・それを敏感に察した曹操、諸将を前に言う。
「儂は若き日々、奴とは深い付き合いがあったから、
                    袁紹の人物はよ〜く解って居る。」
  われ、紹ノ 人為ひととなりヲ  知ル。  だいナレドモ しょう
  いろ はげシケレドモきも ク、忌克きこくニシテ 少ナシ。
  兵 多ケレドモ分画ぶんかく あきラカラズ。将 おごリテ 政令いつナラズ。
  土地 広シトいえドモ、又、糧食 豊カナリトいえドモ、
  まさもっテ ガ ほうスニ なり。

 「
奴は、志は大きいが智恵は小さく、顔付は厳 しいが肝は細く、
  人を妬んで上に出ようとして、威厳に欠ける。兵数は多いが、
  ケジメがはっきりしておらず、将が威張りたくっている上に、
  政治上の命令は一貫性が無い。土地は広く食糧は豊かでも、
  まさに儂への捧げ物と成るだけの事じゃ

これを単なる景気づけと観るか、自信の現れと観るか?
8月曹操は大胆不敵にも、黄河を渡ると、何と袁紹の
拠城・業卩から僅か70キロ南の「黎陽れいよう」付近にまで、軍を進
めて見せたのである!! 無論、交戦の意志などは無い。
では何で、そんな危険まで犯して敵前上陸をして見せたのか?
ーーその意図は・・・・この時、渡河地点の一つである《
延津えんしん》に、
兵二千の【
于 禁うきん】を守備部隊として残し置いた、その措置の中に
こそ窺い知る事が出来よう。と同時に、その時、曹操自身が渡河
して見せた、《
白馬津はくばしん》に秘密が有る。
この半年後の翌年2月に、その
白馬津はくばしん延津えんしんこそ、袁紹軍が
実際に渡河した地点★★★★★★★★★となるのだった。然も曹操は、此の2地点に
敵(袁軍)の兵力を分散させ、緒戦に勝利するのである・・・・
 つまりーー大軍が渡河するのには、此の2つの
渡し場)が
最適なんだぜ! と身を以って示し、ご丁寧にも渡し場(港)の
拡張整備までして措いて「さあ、此処から攻め込んで来い!」と
誘導する為の伏線★★だったのだ。主導権はこちらが取り、あらかじ
設定した迎撃ルートに敵を誘い込む。そして敵に選択の余地を
与えず、否応なく《
官渡の決戦場》に引っ張り込む・・・・
9月曹操は「許都」に帰還するも、兵力を裂いて、
                〔官渡城〕へ分派する。
11月・・・な、なんと、あの、
   【賈ク・張繍コンビ】が、ぬけしゃあしゃあと
               帰順して来たのである

ーー事の経緯・顛末は、次の如くであった・・・・
先ず、袁紹が動いたのである。袁紹とて、
公孫讃を亡ぼした後、
只ボーッと手をこまねいていた訳では無い。曹操の後背を脅かす
策として、しきりに同盟・友好関係の構築を画策し有りと在らゆる
方面に外交攻勢の使者を送り込んでいた。
その第一候補は、曹操に煮え湯を呑ませ続け、彼の長男の命
まで奪った【
張繍ちょうしゅう】であった。曹操にとっては怨み骨髄に達する、
不倶戴天の仇敵なのだから、絶対に途中で裏切ったり、寝返る
事は不可能の保障付き。然も、曹操の直ぐ背後に在るのだから、
これ程有効かつ有利な同盟相手は無い。
その使者の訪問を受けた「張繍」・・・・2つ返事で同盟にサイン
しようとした。当然である。ーー処がそこで・・・・軍師の【賈ク
】が、
トンデモナイ言葉を使節団にのたくったのである。

「サッサと帰って、袁本初に断って下され。兄弟さえ受け容れら
れない者が、何で天下の国士を受け容れられましょうぞ、とね!」
、あワワワワ・・」 張繍、それを聞いてビックラ仰天。
怒った使節団が席を蹴って退出するや、半べそ状態で賈クに尋く。
「お、おい!何ちゅう事を言って呉れるんだ!気でもれたか!
一体どう云う心算じゃ?ありゃ、幾ら何でも言い過ぎだぞ。あ〜、
これで儂は、袁紹にまで睨まれてしまうではないか。んもう〜、
全体、儂はどうすれば良いんじゃ?う〜、もうオロオロしてしまう
ばかりではないか・・・・」
それに対して希代の策士は、平然として希代の策を開陳して見せる。
    
「ーー
曹公に従うのが一番ですな・・・・!
「ーー
ゲッそ、曹操〜お、お前、これ何本に見える?
気は確かか!?曹操は絶対に負けるぞ!第一、儂等は曹操の仇
ではないか。嫡男を殺してるんだぞ〜
!?
其れこそ、曹氏に従 うべき理由なのです・・・
「ええ
何でだ?ーー・・・ええい、もうこうなれば、
お前と心中しても好いと、腹はくくったがな、ちゃんと訳だけは
聴かせて呉れ!」
「ーーでは、お聴かせ致しましょう。」 そこで賈クは兼ねてより
企図して居た”遠謀深慮”を披瀝して見せる。

      そも そ
「・・・・抑も曹公は、天子を奉じて天下に号令しております。
 これが従うべき第1の理由ですな。
 袁紹は強大でありますから、我が方が少数の軍勢を連れて
 従ったとしても、我等を尊重しないに違いありませぬ。曹公の
 方は、勢・弱小ですから、我等を味方に付ければ喜ぶに相違
 ありません。これが従うべき第2の理由です。
 
紹ハ強盛ナリ、我 少衆ヲ以テ 之ニ従エバ、必ズ我ヲ以テ
 重シト為サズ。曹公ハ衆弱ク、其ノ我ヲ得ルヤ 必ズ喜バン。

 第3の理由は、天下支配の志を持つような人物であれば当然、
 個人的な怨みを忘れ、徳義を四海の外まで輝かせようとする
 ものなのです。ーー御納得戴けましたかな・・・?」
「ウ〜ン・・・なる程なあ〜〜
曹操の弱味に付け込むと云う訳
じゃな。”今がしゅんの売り”って事か?・・・ウム、是れって、もしか
したらイケルかもな・・・

「どうか張繍殿には、躊躇ためらう事のありませぬように。」

賈クはこれ迄、己の全知全能を傾けた策謀に因って、曹操を
《あわや!》 と云う処まで再三追い詰めた。だが追い詰めは
したものの結局は、及ばなかった。それが事実だった。・・・・・
そんな曹操に、賈クは神威を感じ取っていたのである。
ひと言で謂えば・・・・
     賈クかくは、曹操のうつわれたのだ
軍勢を率いて出頭するや、賈クの読みはズバリ的中。曹操は
是れ迄の積もる怨念などサラリと捨てて(オクビにも出さず)、
賈クの手を握って言った。
我ガ信ヲシテ、
        天下ニ重カラシム者ハ、子ナ リ

直ちに執金吾しつこんご (近衛兵司令官) に任命、都亭侯とていこうに封じ、ぼく
栄転させた。 (これで、冀州牧は3人になった)
そして即刻、幕僚として迎えると『参司空軍 事』の地位に就けて
重用し始めたのである。此の時、賈ク53歳。曹操の丁度ひと廻り
上である。77歳に死去する迄の20余年を曹魏2代に仕える。
特に曹操の時代では、常に主要戦役に於ける策謀の中心で在り
続け、高級軍事参謀として曹魏の命運を左右してゆく事となる。
張繍の方も歓迎の大宴会に招かれ、娘は請 われて曹操の子
「曹均」の嫁となり『揚武将軍』号を拝受した。ーーギブ・アンド・テイク・・・・無論2人は、来たる官渡の大決戦で大活躍する。
12月曹操は許都を後 にすると、いよいよ本格的に
官渡城に 入城し、陣地の強化に集中する。
ーー翌、建安5年(西暦200年)10月23日・・・・

その【運命の日】まで、残す時間はあと300日
 どんな生と死が有り、如何なる栄枯盛衰が、
       待ち受けているのであろうか・・・
!?
        
さて、ここ で三国統一志は、一大決断を
迫られる。
 このまま本篇で《
》を追 い続けるか・・・・
 それとも本篇から一時離れて《
》を 追うか・・・・
歴史には常に『光』と『影』が在る。新たに興る者と、忘れ去られ、
亡びゆく者とが在る・・・・
建安けんあん〉の
がーー 「曹操孟徳そうそうもうとく」 であるならば・・・・
その《
》はーー後漢王朝最後の皇帝〔献帝けんてい劉協りゅうきょう
                             その人であった。   
−−だが・・・・筆者、考慮おもんぱかるに・・・・この後、ヒーロー達の
大激突が始まってからでは、【
献帝】と云う 〔影の存在〕の 生き様
や苦悩、すなわち
ラスト・エンペラー史を、まとめて述べるチャンスは、
巡って来そうに無い・・・・ーーよし、決めた

敢えて此処で本篇を暫く離れ、『
献帝の前半生』 を追う事に
しよう。 即ち、「光」と「影」が巡り会う迄・・・・『ミニ献帝記』 を
描こうと思う。 ーーかつて誰も描く事の無かった、
                       め せん
亡びゆく者の目線から 観た三国志が在っても
いいではないか・・・
それは同時に、仲達が曹操に出会う前
の、《
失われた10年間》・《三国志前史》・・・・三国時代出現の
背景、原因を描く事ともなるであろう。と同時に、我々の情報量
と質も高められよう。・・・・・然る後、本篇に戻る。

・・・・と云う訳で・・・・
三国統一志の読者諸氏には、此処で、
歴史の時空を”ワープ”して戴く事になる。

ーー設定座標軸は・・・・
仲達の居る 今から11年前の、
 
    189年、8月27日、午後八時三十分
場所は、献帝の父・霊帝が崩御したばかりの、
洛陽宮郊外の
とある荒 野
 その時、《劉協》は未 だ9歳の少年である筈だ。

プットインーー《
189・8・27РМ8・30》・洛陽宮郊外》・
              《
荒野》・《劉協》・《9歳》・《のち献帝》・・・
では、【第2章】へ、ワープのカウントダウン開始

  ・・・・十、九、八、七、六、五・・・とと・・・
               その前に、忘れていた事が有った・・・・
         『モノローグ』 へ→

(既に【モノローグ】部分をお読み戴いた向きには、
                       カウントダウン続行O・K)
             
       ↓
・・・・3、2、1、イグニッション、スタート!・・・・ワープ!!

【第2章】  「悪」と「影」の伝説  へ・・・・→