第2節      す      か
豪傑達の棲み処
                                 

さて、曹操との対面である。
漢朝暦・建安けんあん六年(西暦201年)の
事であっ た。場所は許都きょと』城内謁見えっけんの間・・・・広々としているが、
機能重視で、存外質素な観すらある。
「いやあ、お待たせしましたな。」 太い円柱の向うから、無造作に
人影が歩み出て来た。長身を荘重に運んで来る。

「君が司馬の仲達くんか! 初めてお目に掛かります。私は
  荀或じゅんいくと申します。いやあ、ほんとによく来て呉れましたね。」
まるで百年来の知己ちきの如くに、親しく手を差し伸べて来たのは、
誰あろう・・・・曹操の側近中の側近、その右腕とも知恵袋とも
謂われるナンバーワン参謀、
荀ケ文若じゅんいくぶんじゃくその人であった。
曹操は彼と出会った瞬間
「君は我が子房しぼうじゃ!」(前漢高祖・劉邦の
名軍師・張良ちょうりょうと言って欣喜雀躍きんきじゃくやくしたと言われている。歳は自分より
十六も上の39歳の筈 である。近くで見ると、中々に渋い、すこぶ
付きの美男子であった。
「ーー恐れ入ります。」 もともと『偉ニシテ美ナリ』と謂われる上に
歴戦の重みが加わり、その風貌を更に凛乎りんことしたものにしていた。 
仲達も、曹操の家臣団については、充分に下調べしてある。        
      
 【
荀ケ文若じゅんいくぶんじゃく 】・・・・・ここ『きょ』が郷里で、十年前・191年・
29歳の時、八歳上の曹操に身を投じた。
彼の初めての仕官は、同郷のぼく韓馥かんぷく】の 招きに応じたもの
だったが、到着する寸前、気の小さい韓馥は、州を【袁紹えんしょう】に
譲ってしまった。その為そのまま、なりゆきで袁紹の家臣となる羽目
となった。だが袁紹の人物を見切った筍ケじゅんいくは、直ぐにそのもとを去り、
曹操の元へ身を寄せたのである。
「私が曹公とのに、君を推挙しました。」 眼の前の人物は、戦術は謂
わずもがな、常に的確な大戦略構想を示し、壮大な政治方針をも
主君に示し続けて来ている。仲達の観る処・・・曹操が今在るのは
その半分以上、この人物のお陰だと言ってもよい。

  青          青          青

出仕した荀ケじゅんいくは、さっそく三年後のじょ州戦(七年前の194年)で、
曹操の命を救っている。
ーー父親を徐州牧【陶謙とうけん】の配下に殺 されたと聞く や、すっかり
マジギレした曹操は、たちまち復讐の鬼と化し、前後の見境みさかいも全く無い
まま、ただ闇雲やみくもに徐州へと攻め込んだ。そしてその恨みを晴らす為、
全くおかど違いな、無辜むこの民数十万を大虐殺したのだった。
その凄まじさは、中国史上、他に類を見ない大惨劇であった。
切り立った両岸から人々を川へ突き落とし(坑殺こうさつ)、生きとし生ける
もの全てを、その地上から消し去ってしまったのである。
 けだし、
軍事戦略には全く無関係な、っぱら個人的な復讐・腹いせに
過ぎなかった。これで曹操の評判は確定した・・・・血も涙も無い
冷血な殺人魔・・・!!若気わかげいたりでは片付けられぬ、

曹操生涯の不覚、戦史上の大汚点を残す事となった。仲達も
その事を想うと虫酸むしずが走る。 

ーーだがこの時、空っぽにして来た本拠地・えん州で、それを慚愧ざんき
させるが如く、大反逆が勃発ぼっぱつしたのである!その叛乱の遠因には
間接的だが、この荀ケも絡んでいた。叛乱劇の首謀者となった
陳宮ちんきゅう】 は、それまで荀或の立場・大軍師に在って、「俺は曹公の
張良ちょうりょうに成るんじゃ!」と張り切っていた人物であったのだ。処が
荀ケの出現で、張良役はすっかり陳宮の身から遠のいてしっまた。
つまり、されたのである。これで陳宮は甚く己の自尊心を傷つけ
られ、曹操に恨みを抱いた。 
「ーー今に見ておれ・・・!」と機を窺って、そして実行したのである。
今でこそ『人使いの達人』などと評される曹操だが、この頃は未だ、
重要幕僚に怨みを買われてしまう様な、未熟な青二才だった事が
判る。周囲の諫言かんげんに耳を貸そうともせず、目茶苦茶な殺人魔と成る
様だから、未熟も未熟、大馬鹿者でしかなかったと謂えよう。

 陳宮と共に裏切った【張貘ちょうばく】もまた、若い時には 曹操と《奔走ほんそうの友
としての大親友だった事を想うと、 この頃の曹操は、よほど覇業はぎょう
あせ っていたのである。事実、その頃は未だ、曹操だけが覇者はしゃ 候補
ではなかった。所謂【群雄】の全てにその資格が有る頃だったのだ。

−−さて陳宮はその手段として、それまで曹操と死闘を演じていた、
天下最強の巨獣・【
呂 布りょふ】を君主に担ぎ込んで、その軍事方面を
担わせ、己はその軍師と成り、曹操の根拠地『えん州』乗っ取りを
発動したのである。
 この情勢の変化に、衰州の諸郡県はことごとく呂布側に寝返えった。
何 しろそれまでの曹操は《力ずく一辺当》であまねく周囲に脅威を感じ
させていたのである。地元豪族の「袁忠えんちゅう」や「桓曄かんよう」を脅迫して追い
出し、そのやり方に異議を発した大名士めいしの【辺譲へんじょう】を 無実の罪で
処刑してしまうなど、地元の士大夫したいふの反感と失望を買っていたので
ある。その上、呂布と謂えば天下最強の騎馬軍団を誇っていたし
陳宮自身が元々えん州の土着大豪族だったから、この地方一帯に
多大な影響力を有していた。だから陳宮の読み通り・・・・諸郡県の
寝返りも当然の趨勢すうせいではあったのだ。ーー結果、
曹操は帰るべき
根拠地を失い、野垂のたれ死にの危機にさらされてしまった・・・!!

一方、そんな動きを未だ知らずに、けん城に残って居た荀ケの元にも
張貘ちょうばくの使者・劉翊りゅうよくがやって来た。
呂布りょふ将軍が曹使君しくんの陶謙征伐の加勢に来られました。
             速やかに兵糧を供給して下さいますように!」
人々は皆戸惑とまどい、躊躇ためらった。だが荀ケは、張貘ちょうばくが謀叛したのだと
悟り、即刻兵を整え、備えを固めると、早馬を走らせて東群とうぐん太守の
夏侯 惇かこうとん】を呼び寄せた。甄城けんじょうの留守に残されていた兵力は少ない
上、隊長や上級官吏の多くは陳宮の謀略に加担していると云う内
情であった。夏侯惇は到着したその夜、電光石火の荒技で叛乱を
計画した者達数十人を処刑し、かろうじて甄城の陥落を阻止した。
 死地を彷徨さまよう曹操が、必死に情報を求めさせたところ・・・・
かろうじてけんはん東阿とうあの三城だけは踏ん張っていると云う。
     
《ナムサン!俺が帰るまで、何が何でも頑張っていて呉れよ!》
・・・・・果たして、その祈りは天に通ずるか?
中でもけん城には、荀ケはじめ主要人物が集まって居ると云う。
蜂の巣を突っ突いたかの如き大混乱の中、そのけん城へ刺史しし
郭貢かくこうが、数万の大兵力を率いて現われた。そして荀ケじゅんいくに会見を
求めて来た。夏侯惇かこうとんらは、荀或が出てゆく事に反対した。相手は
既に呂布と共謀しているとの噂が専っぱらであったのだ。
「貴公は現在一州のしずめ、行けば危ないに決まっておる。
                        行ってはなりませぬぞ!」
「いや大丈夫です。郭貢かくこう張貘ちょうばくらは、立場上からしても<平素から
結託していた筈は無い。こんなにも早々と現われたのは、きっと
彼の態度が未決定ゆえに違いありませぬ。その、態度未決定の
今の内に説得すれば、何とかなりましょう。仮令味方に着かずとも
中立の立場で様子を観させる事位は出来まする。もし初めから
疑って掛かったならば、彼は腹を立てて敵対する決心を固めて
                              しまいましょう。」
荀ケじゅんいくは独り悠然と城を出ると、郭貢かくこう と会見を果した。
 郭貢は、その恐れる様子も無い堂々とした荀ケの姿を見て、
《このけん城は未だ容易には攻め陥されまい》と判断し、兵を退き
揚げると、以後はどちらにも付かず、傍観を決め込んで動く事は
無かった。 更に荀ケは残る2城も危ないと観た。特にはん城を守る
キ允きいんは、その母・弟・妻子を呂布に捕らえられ、頻りに誘降を勧め
られているらしい。そこで荀或は地元出身の最長老将軍【程cていいく】に
ひと肌脱いで貰うよう話をもちかけた。
「いまえん州は叛旗をひるがえし、唯この三城が存在するだけです。
陳宮らが、強力な軍隊で向かって来たとき、三城に深い心の結び
つきが無い限り、三城は必ず動揺しましょう。 貴殿には、民の
人望が有り申す。帰郷して彼等を説得すれば、だいたい大丈夫
だと考えまするが、如何でしょう。」

最古参の程cていいく、一も二も無く出張ってゆき、声涙下る大演説を
為し、遂にはん城・東阿とうあ城ともに《三城死 守》の大功績が成就された
のであった。死地を脱し、何とか帰還を果した曹操は、荀ケを拝む
様に感謝し、抱きついて号泣した。
「君の力が無ければ、わしは帰る場所も無かったところであったぞよ!」
更に仲達が、この荀ケに感服しているのは、
皇帝奉戴こうていほうたい逸早いちはやく強力に推し進 めさせた、その先見性に
満ちた政治能力であった。
ーー今から五年前の196年(建安元年)、西方を流浪していた
献帝けんてい劉協りゅうきょう15歳】を、その 政権内に迎える事を、曹操に決断
させたのは、この荀或であった。ーー当時既に、後漢王朝は何の
実力も無い、単に名目だけの虚像と化していた。 多くの群雄は、
己の自由行動を拘束してしまう厄介者としてしか、漢王室を観て
いなかった・・・・だが荀ケの観方は違っていた。

衰えたりとは謂え、その四百年間に渡ってつちかわれて来た
朝廷の権威』には、計り知れない 政治的影響力と、人民の支持
が有ると看破していたのだ。事実、献帝擁立を果たした直後から、
曹操の立場と評価はガラリと変わった。徐州の大汚点なども消し
飛んでしまった。
一夜にして、曹操の居る場所が国の中心、つまり中国そのものに
成ったのである。そしてその瞬間以来、彼に敵対する者は全て逆賊、
正義は曹操の手のみに帰したのである。だから曹操政権の在る、
このきょの 城市は『きょ
』なのである。(京の町が京都・と呼ばれた如く)
 一番最近では、つい昨年の《官渡かんとの大決戦》 における
荀ケの存在であった。
主戦場図
我に10倍する華北(ぎょう)の大名門・袁紹えんしょう軍との、生き残りを
賭けた乾坤一擲けんこんいってきの大決戦(※詳細は第四章で 完全網羅)では・・・・
己の立てた戦略に絶対の自信を持ち続け、又それに基づく意志の
強固さを発揮して見せている。
《ーー俺なら何うしていたか・・・》
                           
そう考えるのが仲達と云う若者の矜持きょうじであり、人との接し方である。
流石さすがの曹操も長期化する対陣に弱気と成り、決戦直前には後方を
守る荀ケに『撤退したいが何う思う?』と泣き言を書き寄越した。
それに対して荀ケは一発かつを入れ、主君を叱咤激励しったげきれいしている。
「我が苦しい時は、敵も苦しいのですぞ!
先に退いた方が負けです。如何なる事が有ろうとも、絶対に退い
てはなりませぬ!」  曹操もそれに応えて歯を喰い縛り、ついに
大逆転勝利を得たと伝え聞いている。袁紹軍は誰が観ても、戦っ
てはならぬ大敵であった。
が、《よくを制す》、『至弱しじゃくを以て至強しきょうに当たる』・・・・その
歴史の生き証人・中心人物が、眼の前に突如現われた訳である。
《いつか、直に聴いてみたいものだ。本当に勝つ自信が
                   有ったのか?その根拠は・・・・?》
どうやら此処は、仲達にとって、活きた勉強の出来る、宝の山で
                                  あるらしい。
「有難うございます。」・・・・
一敗地にまみれて退却したとは謂え、その袁紹は現在も尚、黄河の
向こう・北の業卩城ぎょうじょう本貫地ほんがんちに 大兵力を擁して生きている。
・・・・と云う事は、仲達が招かれた今この瞬間も、この許都城内は
将に戦時体制真っ只中なのである。にも拘らず、荀ケは軍務多忙
の裡にも、観るべき人材は観ていたのである。

「ホントかね?どちらかと言えば、有難迷惑だったんだろ?」
相手もる者で有る。
「いや、いいんだ、いいんだよ。曹公との毀誉きよあい半ばするお方
                            だからねエ〜・・・・。」
この【荀ケじゅんいく】の、もう一つの功績は・・・ 人材推挙の確かさであった。
郭嘉かくか戯志才ぎしさい厳象げんしょう韋康いこう荀攸じゅんゆう鐘遙しょうゆうなどなど、いま曹操の帷幕いばく
に在り、その名をあまねく天下に知られる俊秀たちは、全てこの荀或の
推挙に応じて参入して来た
名士めいし》たちである。然も彼自身は一門
の栄達を厳として排し、公正無私に徹している。
名士中の名士であるーー・・・・と、筆者は記したが、これは慣用句
としての超有名人と謂う意味では無い。(後に詳述するが)この時代に
使われた【
名士めいし】の意味は、例え様も無く重大で《極めて特殊な
三国時代特有の地位を表すものなのである・・・・

「お疲れであろうから、本日はゆるりとしていただき、殿には明日
 お会いして下され。宜しいかな?」
「無為の若輩者、特に急ぎは致しませぬ。」
「ハハハハ、それは好い。確かに君たち若者には、未だ未だ、
 たっぷり時間が有ろうからね。」

『ーー文書の担当官に就けるなど以ての外ですぞ・・・・!』
 と、曹操には伝えてある。
「おお、そうじゃ!休んで貰う前に、幾人か、いま居る者達に
 お引き会わせしておきましょう。身供みどもについて参られよ。」
荀ケは飽まで懇切で、礼を厚くしてくれる。

《ーーこの人柄は本物だな・・・・》
彼の居る、曹操の帷幕いばくの雰囲気が察せられるようであった。

「先ずは、将軍達に会って戴こうかな・・・・みな夫れ夫れに忙しい
 方々でね。未だ居るとよいが・・・・。」
と、向こうからドカドカと、一群の豪傑達が歩いて来た。甲冑かっちゅう姿に、
戦場の臭いがみ込んでいる様な、見るからに武張ぶばった連中である。

*      *      *
「やあ、荀軍師。お、これが例の・・・。」
とけわけさばけた感じの将軍が、かぶとひさしごしに眼を向けた。
左に黒い眼帯をした独眼である。眼帯の掛かる左顔面は、かなり
つぶれている。それで無くともすごみがある。
「おお、戻られますか。丁度よかったわい。こちらは夏侯かこう将軍じゃ。」
ーー夏侯 惇かこうとん・・・・巨獣・呂布りょふとの戦闘中に流れ矢が
眼に刺さると「もったいなや!親から貰った体の一部じゃ、なんで
粗末に出来ようぞ!」と、目玉ごと引っこ抜き、ムシャムシャ喰って
しまつた豪勇である。(演義に拠れば)  その一方、同族将軍の
夏侯かこう えん】と区別 する為に、自分に付けられたアダナもう 夏侯かこう
と呼ばれる事を物凄く忌み嫌い、銅の鏡を見る度にそれを叩き割る、
と云う繊細な一面をも持つ。又、曹操の学問好きに影響されてか、
陣中にも師を呼び寄せ、学問を修めると云う文人堅気かたぎでもあった。
そして時には、兵卒等と一緒にモッコを担いで土木工事に加わる
と云った、愛敬をも併せ持つ。とにかく、曹操がこの世で最も信頼
している、旗挙げ以来のえ抜きの親族・身内であった。全兵士
から敬愛される、曹操軍最大の重鎮である。戦暦は数え切れない。

「司馬・懿・仲達と申しまする。以後、宜しくお見識り置き下さい。」
独眼がグイと髭面ひげづらを近づけて来た。
仲達はりきむ事も無く、真っ直ぐに相手の眼を受け入れた。
「ウム、成る程。なかなかに良い面魂つらだましいをしておるわい。ま、宜しくな。」

独眼が茶目っぽく笑うと、ドカリと肩を叩いて来た。物凄えリキであった!

「こちらはてい将軍。一番の元勲でいらっしゃる。」
ーーていcいく 仲 徳ちゅうとく・・・・なんと此の時、 60歳
バリバリの現役・第一線の実動将軍であった。と同時に、荀ケにも
劣らぬ超一流の軍師参謀でもある。然もデカイ。身長192センチ・
八尺三寸。脂ぎった老人肌に真っ白な鬚髯ほうひげがふっさりと、大貫禄を
かもし出している。むしろこの爺サマは、今後マスマス活躍してゆく事と
成る。或る種・化け物族に属する、超元気じるしのご老体であった。
彼の元の名は【程立ていりつ】であつたが・・・・曹操の命を救った例の
三城死守》の活躍の後、曹操から改名を勧 められた。
ーー彼は若い時、よく同じ夢を見た。泰山たいざんに登って両手で太陽を
捧げ抱く、と云う夢だ。その話を、察っしのいい荀ケが、曹操に
                                 伝えたのだ。
「それは目出度い。今後は、名前の中でも太陽を捧げて、
                つの上にを抱いて『
cいく』とせよ。」
無論、太陽は曹操を指す。ゴリゴリと、結構処世の術にも長けて
いると思いきや、『性、剛戻ごうれい二シテ、人ト多クさかラウ。 人、c謀叛むほん
告グ。太祖、賜待しゅたいスル事マスマス厚シ
』てな具合で、存外トラブル
メーカーの頑固ジジイでもあった。
  
但、曹操の信頼は深く、彼への誹謗には全く耳を貸さず讒訴ざんそされ
れば却って待遇を厚くして見せるのであった。
程cていいくは又、昨年の《官渡戦》でも、戦わずにして勇名を馳せている。
・・・・緒戦、大挙渡河して来る袁紹軍十万の前に、程cの けん城は
守兵わずか700。彼を惜しんだ曹操は、二千の増援部隊を送ろうと
した。処が此の爺サマ、それを蹴っ飛ばしたのだ。
余計な心配はして呉れるな!敵は守兵が少ないと観れば、素通り
する筈だ。援兵など寄越せば敵の気を引き、城兵と援兵の両方共が
無駄死にしてしまう。有難迷惑だから、絶対に援軍なんぞ寄越さず、
うっ茶ら化して置いて呉れ
!』 ーーそして、その通りになった。
程cていいく
きもは、孟賁もうふん夏育かいく (戦国時代の秦の勇士)以上だな!」と
曹操、参謀の賈クかく(言に羽)に漏して嘆息したと伝えられる。

「ウヒョヒョ、未だ未だ青いのう。じっくり相手をしてやりたい処じゃが、
いつか又ゆっくりと会えるじゃろうて。ま、今度あう時まで達者でおれよ。」 「はい、御老体もお元気で!」
「ーー? にゃ、にゃにい?! い、今、何と申しおった!」
「あ、バカ、そ、それは禁句じゃ! いえ、その、何、ま、つまり・・・
 宜しくと云う事ですな。」
「ホレホレ、よ〜く見ておけ!どうじゃ、儂はこの通り、何時でも
 ビンビンじゃわい。」
この爺様将軍、結構軽い処も有るらしい。しきりに力瘤ちからこぶふくらませ
見せつけた。
「朝起ち、夕起ち、そっちの方もバリバリじゃぞ!」
ガハハハハ・・・と、武将達が笑いあった。
「ーーふう、盲夏侯と御老体の二つは禁句だと言って
                        置くべきだったわい・・・・」
「そして、この方は徐将軍じゃ。」
猪首いくびの武張った面構つらがまえだが、実直そうな清廉せいれんさが漂っている。
ーー徐 晃じょこう 公 明こうめい・・・・
             曹軍《五虎 将》の一人に挙げられている。
「貴重なお時間を頂き、かたじけなく存じます。」
・・・・・26年後・・・・・仲達の指揮下に入り、その作戦指令に因って
戦死させられるなど、今の二人は知る由もない。
           
「こやつ、全く臆しておらんわい。大したもんだ!流石に、筍軍師の
 オメガネに叶っただけの事は在る。見込みが有りそうではないか。
 ま、頑張るんだな。」
ひげづら
髭面達が、豪傑笑いを残して去っていった。一刻後には馬上の
人と成り、夫れ夫れ前線に散ってゆくのであろう。

「よかった、よかった。私とて近頃は、なかなか会えぬ方々
                           じゃからねえ・・・・。」
荀ケは多忙にも拘らず、次々と許都城内に在る、主だった人々を
紹介して廻って呉れた。余程、曹操の威令がゆき渡っているので
あろうか、会う人々ごとに、丁重に迎えて呉れた。それに又、同道
して呉れる荀ケの人柄に負う処も大きい様だ。
彼は、真底の低い人物であった。どんな官職や地位に
在る者にも礼儀正しく、慇懃いんぎんであり、威張らぬ態度は同じであった。
 いずれにせよ、こんな海の物とも山の物とも知れぬ若僧に対し、
異例とも謂うべき供応振りである事は、仲達にも察しが付く。長兄・
司馬朗の温厚な人格や仕事振りも、多少は影響しているかも知れ
ぬが、何と言つても、この荀ケの触れ込みが相当なものであつたに
違いない。会う者毎に「ほう、これがその若者か!」と云った顔付で
好意の眼を向けて呉れる。悪い気はしない。 みな超一流の者達
だから変なやっかみなど微塵も無い。次代を背負うであろう若者の
登場を快く受入れ大切に育ててやろうと云う雰囲気が伝わって来る。

青指輪          青指輪          青指輪
ーー可笑おかしかったのは、在都将軍、
許猪きょちょ】との対面であった。ちょごんべんが正字)
彼は、仲達が己の半生の中で会った、最大の肥満巨躯であった。
正史には、『其ノ腰回リ十』・140cmとある。当時は胸囲ではなく、
腰の大きさで体格を表わした。腹廻りではなく、最もくびれた腰骨の
周囲が140cmと云う事は、胸囲では二メートル近い巨体である。
ちなみに、十囲じゅういと云う表記は、もう此の上は御座居ません

勘弁シテ下サイと言 う、超ビッグサイズを指す。
そんな山の如き巨漢が、仲達を紹介されると、身の置き所も無い
位に畏まり、汗まで掻いて恐縮しまくっていた。
 巨岩の上に、チョコンと顔が乗っかっている観があり、いったい
本人が何処に居るのか判らぬ呈であった。
ーー許 猪 仲 康きょちょちゅうこう・・・・曹操に臣従する前は、
汝南郡で、若者や一族数千人が集まる砦を守る、地域の親分に
祭り上げられていた。或る時、一万余の野盗に砦を包囲され、城内
奮戦したが矢玉が尽きてしまった。そこで許猪きょちょは、
『湯呑みカマス大の』巨岩を、投げつけやすい様に分銅ふんどう型に加工させ
た上、砦の四隅に集めさせ、それを独りでブン投げては、敵をグチャ
グチャに潰し廻った。敵はド胆を抜かれて、攻撃を中止した。何しろ
五人掛りでも、やっとこさ持ち上げる様な大石が、ヒョイヒョイ降って
来ては、人馬諸共もろともグシャッ、グシャッとやられるんだから、これはもう
たまったもんでは無い。半里も遠退とおのいて、ただ手をこまねいて居るしか
無かった。・・・・だが、城内の兵糧が欠乏したので、一旦和睦する事
となり、砦の外で、牛と食糧とを交換した。処が牛の奴は、直ぐに
逃げ戻って来た。そこはお人好しの許猪、片っぽずつに牛の尻尾しっぽ
つかむや 「お〜い、忘れもんだぞーい」 と、二頭の牛をズルズルと、
後ろ向きのまんま、百メートルも引きっていった。
「ーーへっ
??」・・・・眼が点に成った敵は、次の瞬間、
「ひぇ、ひぇエ〜!、バケモンだああ〜 ?」 と、
一目散 に逃げ出した。
城内に帰って来た許猪きょちょは、首を傾げて言った。
「おい、気イつけろ! どうも此の辺にバケモンが居るらしいぞ。」

32才なのに、その表情は村童と云った趣で、愛嬌あいきょうすら有る。
力は虎の如くでありながら、普段はボ〜ッとしている(痴)ので、
皆は虎 痴こちと呼んでいる。曹操がネーミングし、旗挙げ早々から
呼んで来 ていたから、コッチの〈虎痴こち〉が本名だと思い込んでいる
者も多い。ーー言い得て妙である。
当人は、相手にそう呼ばれても、別に怒るでも無く、「お〜よ」と 
ノンビリ答えるか、さも無なくば、相変わらずポケ〜っとして
いるだけである。一度にブタ一頭、丸ごと喰うとか言われているし、
子供と本気に成って遊ぶ。だが然し・・・・ひとたび戦場に立てば、
その怪力で、鬼神の如き修羅の場を生むに違い無い。

曹操は許猪きょちょと出逢うや「こいつはわし樊カイはんかい(高祖の待衛)じゃ!」
と可愛がり、即日《都尉とい》の位を与え、ボデイガードの任に就けた。
この宿直待衛じえいの任務には、先輩に【
典韋てんい】と言う超豪勇が居たから、
ずっとサブであった。この先輩は、
幕下ノ壮士二典君てんくんアリ、双戟そうげき八十きん
と 謳われ、性格は極めて忠義で慎み深く、固い節義と侠気の
持ち主であった。20キロの双戟そうげきを操り、昼は一日中かたわらに侍立し、
夜は天幕の傍近く泊まり、其の場で食事も大小便も済まし、自分の
寝床に帰る事は稀だった。 許猪は、この先輩を見習って、主君を
警護するとは如何なるものかを自覚していった。
・・・・だが典韋は3年前(197年)、曹操を守る楯と成って、主君を
脱出させる為に、全身に数十ヶ所の傷を受けながら、最期には
独りで百人の敵を道連れに闘い、壮烈な死を遂げた。《後述》
 以後は、許猪が常に左右に侍し、出入りにも同行している為、
誰も手を出そうとは思わない、強烈なボデイガードである。
いつもポケ〜ッとした顔で、もっそりモッソリしか動かない許猪だが
先輩の死に様を身を以て知っているだけに、実は内心、何時でも
死ねる覚悟を秘しているのであった。ーー事実、昨年の《官渡戦》
では、敵に内応した曹操暗殺グループを、ひと睨みでビビらせ、
ブルった暗殺集団を、忽ちの裡に叩っ斬って潰滅させていた。
《ーー想像も着かぬ様な人間が居るもんだ・・・・!》
自分は世に出たのだ、とつくづく実感したものである。

もう一人の印象深い人物は・・・・・宮中総長官(少府しょうふ)の
孔融こうゆうであった。
49歳の彼は、儒教の開祖『孔子こうしサマの第20代目の子孫で、
硬骨漢として知られている。曹操に対しても真っ向からズケズケと、
漢王室の意向を言い切っていると云う。
無論、朝廷の宮殿は別棟だが、たまたま所用で幕府に顔を出して
いた。荀或とは《名士》同志、特に 昵懇じっこんの間柄らしい。
ーーだが・・・・その孔 融 文 挙こうゆうぶんきょだけは、それ迄の人々とは
明らかに雰囲気が違っていた。新参者を値踏みする如き、何処と
ない警戒心が感じられた。のち『建安けんあん七子しちし』と呼ばれる、詩文学
サロンを主宰し、そのリーダーをも自認しているらしい。 どうも、
曹操に仕えると云う感覚は稀薄に思われた。 この人物にとって
皇帝の師である》 と云う自負は、漢王室至上、漢王朝の
代弁者を以て、その言動の源としている風にさえ思えた。
【孔融文挙はおとこでゴザる!】 と、曹操に啖呵たんかを切って
見せたと云うヤクザ先生ぶりも内包している。この気骨と忠節心
飾り物に成り掛かっている後漢王室にとっては、願っても無い頼も
しさである。ーー・・・と云う事は・・・・・!?
いささか、浮き世離れしているなあ・・・》可愛げの無い児が、そのまま
大人に成ってしまって様な『一途いちずな危うさ』を、初対面の仲達は感得
したものだった。 
ーー・・・それにしても、面白い一日であった。
「夢の様な一日」と、言ってよい位である。 会う者会う人、全て
天下に其の名をとどろかす者達ぞろであった。中には一見しただけで
それと判る著名人も居た。噂と違い予想外の風貌の者も在った。
今、想うだに愉快である。生きている実感がある。流石に天下は
広いとも思う。《ーーだが然し・・・・》と、仲達は思う。
こうして独りになると、己のうち鬱勃うつぼつとして、愉しからざる思いが、
頭をもたげて来るのである。最高級の寝台に身を投げ出し、天井を
見つめながら仲達は考える。己が何を考えているのか、仲達には
解っている。既に数年来、この人生の命題は、彼の中で意馬心猿いましんえん
し続けている。ーー問題は・・・・《己の天》は、この司馬懿仲達に、
何を指し示そうとしているか、である。
後漢王朝は、事実上すでに終わっている。いみじくも 過る17年前、
黄巾党こうきんとう・農民軍】が、その旗印 に引用した蒼天そうてんスデニ死ス
である。それだけは確かだが、次が見えぬ。
《天の廃する処、支うべからず!》・・・・この一辞が、仲達の奥処おくが
深くわだかまっているのである。 蓋し曹操は、その漢王朝を尊奉すると
公言している。この儒教至上社会に在って、勤皇尊帝を掲げる事で
かろうじて人心を収攬している現実ーーだが恐らく本心は、魏王朝
に拠る天下統一であろう。・・・・広く禹域ういき(中国全土)を観てみよ。
官渡戦で袁紹を破ったとは謂え、その勝利が確定したとは言い難く
基本的には【群雄割拠の時勢】と言ってよいだろう。 だとすれば、
官渡戦の逆も亦あり得 るではないかーー《俺は、ひっょとすると、
その廃天の中に身を置こうとしているのかも知れぬ・・・・・》
気がつくと、邯鄲かんたんが庭一面にすだいていた。
「・・・何を迷う、司馬懿仲達!」  声に出して、己を俯瞰ふかんして観る。

ーーそうだ、今、俺は迷っている。だから、迷っていると云う、
                         この事実から出発しよう。
《ーー天はいまだ、仲達に道を示さず・・・!》
慎重に現実を見定めよう・・・と、すると・・・・矢張り、覇業の最も
近くに在るのはーー曹操・・ か・・・・
姦雄であるを敢えて否定しない、濁流系の此の男の下に仕えて
みよ、と云う事か?今の俺が、最も実力を出し切れる舞台・・・・
それが此処ここなのか・・・!再度、来訪して来た使者の口上ではーー
『宮中ノ図書官員』に就け、と言って来ている。事も有ろうに、あの
【孔融】が我が物顔に出入りする宮廷の、それも文書整理係とは・・・
《ーー曹操め、俺ほどの者を・・・・!》
いや、己の才覚ひとつで、直ぐにでも他の部署に転出して見せる
自信は有る。「ーー・・・俺は、木魚もくぎょにも、大鐘おおがねにも成れる。」
だが果たして曹操、この俺を使いこなせるか

《ーー曹操孟徳、なに程の者ぞ
》 この矜持きょうじだけは忘れまい。
いざとなれば、口実を設けて、おさらばすれば済む事だ。
それに、天子なる人間】・【皇帝と云う実存には、
少なからぬ興味も有る・・・・。
仲達は起き上がると、濡縁ぬれえんに出て、空を仰いだ。
ーーえ渡る満月に、群雲むらくもが通り過ぎる・・・・。全ては明日だ。
明日、曹操に直に会って判る事だ。それからまた、考えればいい。
先ずは曹操孟徳、どんな男か見極 めてやろうぞ!

その夜、仲達は、けれん無く熟睡した。





仲達が正式に呼び出された朝・・・・・目醒めは爽やかであった。
たとえまきの上でも眠れる男である。こんな日だと云うのに、ちゃんと
勃起ぼっきしている。
「リキむな、リキむな。向こうにしてみれば、よく有る日頃の
 一場面に過ぎんのだからナ・・・・。」 一応、己を戒めてみる。
「ーーさて、どう出ようか・・・・奇をてらうか、それとも愚鈍でも装うか?
いやいや、止めておこう。相手は幾多の修羅場を掻い潜り、膨大な
数の人間を観て来た人物だ。小賢こざかしい真似はすまい。ま、詰まる処、
在りのまま、自然体でゆくしかあるまい・・・・」
とは思いつつも、やはり、己の何処かに興奮がある。
《好いではないか、これ亦愉またたのしからずや、だ。》
それにしても、どんな出逢いになるのであろうか?
大広間に文武百官居並ぶ中で、荘重に声を掛けて来るのか、
それとも直に2人だけの差しの対面となるのか・・・・・
「ーーこいつあ、歴史の名場面だな!」 都大路を歩きつつ、そう
思った自分が眩しくて、仲達は、ふと天を仰いだ。
この若者の門出を祝うかの様に、秋晴れの碧空へきくうは、あくまで澄み
渡っている・・・・・
曹操幕府ーー宮殿とは別棟の、大建造物の中央部に、
急遽設けられた。と云うのも、曹操が又一段、栄光の階段を昇った
のである。曹操は、仲達が最初の招聘を受けてから間も無い頃、
司空しくう》を返上し、《大将軍》と成ったのである。初めて献帝を擁した
時、曹操は大将軍に就いたが、袁紹えんしょうが激怒したのである。
四世三公よんせさんこうの最大名門たる自分が、曹操ごときポッと出の新参者の
下位に置かれる事に、どうしても我慢ならなかったのである。その
時点では、軍事力も経済力も、明らかに袁紹側の方が10倍以上も
強大であった。 献帝けんてい奉戴ほうたいしたとは謂え、未だ未だ政権の基盤も
整わぬ曹操は、袁紹との無用な摩擦を避ける為、いともあっさり
《大将軍》を袁紹に譲り、己は《司空》の座に甘んじた。名は呉れて
やり、実を取ったのであった。・・・・だが去年、【官渡かんとの大決戦】で
袁紹を大破した今、誰はばかる事があろう。 名実共に、天下の第一
人者である事を、《大将軍》に返り咲く事に依って、改めて内外に
示したのである。今や、『曹魏幕府』が、天下の中心であっ た。

ーーその、曹操幕府・・・・帷幕いばくは、沸き立っていた。
絶えず人々が出入りし、城下の市場並みである。 大廊下を肩を
ぶつけ合いそうにして人物が往来し、列柱の脇では、議論の輪が
其処此処に出来ている。武将も居れば、文官も居る。大声こそ出さ
ないが、活気に溢れていた。いつ何どき、誰に「お声」が掛かるか
判らない時局、次々と指令が下り、返答がなされ、又新たな命令が
降りてくる・・・・
「こりゃ丸で、がまの中だな・・!」  国土は広く、政局は絶えず
動いている。国境すら日毎に変わる状況では、版図内の政務も
等閑なおざりには出来ない。いわんや、周囲には未だ、あまたの敵対勢力が、虎視眈眈こしたんたんと機をうかがっている。息を抜けば《破滅》が待っているのだ。
そんな息詰まる時代状況を創り出し続ける震源が、此処に在った。

取次ぐと・・・・大廊下の向こうに、「荀或」が顔を出した。背伸びして
人の肩越しに、こっちへ来いと手招いている。会釈して歩み寄ると
「殿はこちらじゃ」と言いながら、出て来た部屋の大扉を開け放った。
広い部屋の中央には、巨大な方卓が据えられ、その周囲に人間が
溢れ返っている。或る者は立ち、或る者は論じ、また或る者は筆を
走らせている。正面の壁には、巨大な中国全土の絵地図が掛けら
れている。(現代から観れば、中原以外かなり不正確だが)部屋の
空気は、出入りする者の多さに、淀む事無く、流れ動いている。皆
きびきびしているが、殺気立っている訳ではない。同じ大目標を持ち
ながら、夫れ夫れが各部署毎に、自負を抱いて動く。
各人が『人生、意気二感ズ』と云った面持ちで、活然としている。
仲達がいま踏み込んだこの空間は、あたかつむかぜを想わせた。

ーーそして、その嵐の中心に、




       
曹操・・・・・・居た

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