懐風藻
                                  

三冊書いた。万年筆で書く自信がついた。肩に痛みが来ない。それと書いてみて、書かなければ、わからない思いがけないものを見届けた。一冊めを書いていた時の頭の状況と三冊めを終る頃の俺の頭の中の状況とは丸で違っていると云う事に気がついた。
つまり、表現はうまく出来ないが、一冊めを書き初める頃の頭の中にある思藻というか材料というか、三冊めの終り頃にきての思藻というものは全く異なった状況に成って来ていた事がわかった様な気がする。
はじめの頃は、書くという事は、あちらこちらに散らばっている記憶の数々を拾い集めてザルの中にというか、敷物の上に並べていくというような、つながりの様な関連は全く無い短い糸を、つないでは巻き付け、つないでは巻いて行ったという感じであった。
ところが仕舞になると、一本の糸口が掴めると、だんだん手繰ればするするスルスルと解けて出て来るという様な状況の感じで、しかも、その手繰り出されて来る事々は、手許に現われて来る迄は、まるで考えても見なかった様な、ここ数年どころか何十年も忘却の外に放り出されていた様な古い、旧い事象が、つるつるツルツル手繰り出されて来る不思議さであった。これには驚いた。書けていく自分が、自身が驚いて書いていくのだ。それだから、書き出して夢中で書く時間が長く続けば続く程、意外な事象が丸で昨日の事の様に浮き上がって来る。
だから、湧いて来た思藻を手繰り続けていても、客人が訪れたりすると、そこで途切れる。途切れた糸は、客人が帰って、さてなと回想しても、遠くへ薄ぼけて行ってしまい、強いて書く。すると丸で異色の継目になってぎこちない。だんだん縒りが戻りかける。また看護婦が巡回して問答し検診して、周囲の人達の話し掛けに答えているうちに昼食となる。と、その次に書き足そうとして、又、全然、木に竹の継目の分が出来る。でも我慢して何とか、読み続けられる様な形を立て直して続ける。
こういう所はお前が読んでいって直ぐ判るであろうと思う。十年十五年のキャリアを持った作家は書く時間が、だんだん夜に傾斜していってしまうと告白していたのを読んだ事があるが、書いてみて、その心境の極く一部ではあるが肯ける様な気がする。
何かこう、大きな桶の中に長い長い思藻が続いて浮きつ沈みつしているとして、初めの頃は何作書いても、それは考えて書く、作って書く、こしらえていく作業で、詰りは、浮き沈みしている桶一杯の古い、そして長い、厚い層の一番上に浮いて見えている部分部分を拾い眺めて、一生懸命に繋ぎ合わせている単なる技工師で、それが十作二十作百作と書いては人に叩かれ、書いては叩かれしていくうちに、水の面に見えている思藻は、何百万分の一の部分であって、水面下に沈んで連続している続き草を手繰り上げる必要のある事を、理論でなく肉体で感じ取った時、はじめて創作の緒口に到達するんだな・・・という様な幽かな光をチラッと見た様な気がした。

こんな事を感じたというのは多分、昭和49年(1974年)2月の俺であったからこそ解った事で、恐らく昭和47年頃の、ましてや昭和30年頃の俺には、その臭いさえも嗅げなかったと思う。それは俺が、夢中で書き書いて来た生活の中で、一日、一月と心境が変わって来たことだ。今から20年前の「書」をかいていた俺は、今から15年前の「書」をかいた俺とは雲泥の差の心境であり、更に10年前の、”いくらか”書というものへ入ってみたいと思った頃の俺の心境とは全く異なる。
ましてや、ここ5、6年前の俺の「書道」についての開眼は自分でも恥しい程、前の自分が悔いられるしする。そして今、5、6年前に読んだ書の本の意味の解釈が、全く、新しく珍しい程に再認識されるものばかりである。こういう解釈が、もう5年ほど前に出来る域に達していたら、今の俺の「書」は、もっと先の方を歩いているだろうにと、悔いても悔いても追いつかぬ感慨である。
白隠禅師の言った『如何なる日常茶飯の経験も、決して人生にとって、無駄であったということはない』という意味の事を謂っていたが、この俺は、今、65歳の今になって「本当だなあ」とつくづく思っている。そして、何ということだろう。これでは幾穢に成ったら本当の書がかけるのかと、いよいよ生きねばならぬ意欲がもりもりと湧いて来た。

〔おうた児に教えられ〕 という事を 実践したんだな。幾年前だったかお前が「おやじ、何時でもいい。気の向いた時、昔の事を思い出しら書いてみろ」と言った。多分あれは、あまり以前では無かったと思う。何故かというと、あの時の俺の気持ちは、こう自身つぶやいた。
「それもおもしろい手すさび事だなあ。だが今、俺は『書道』に手を掛け初めた。これでも一応切りになったら、やってみよう」と。
この時の気持ちを分析してみると、一つ面白い事を発見する。というのは、その時点で、まだ俺は「書道」には或る「頂点」があると考えたことだ。つまり何となく、展覧会入選とか師範合格とかいう様な、或る終点らしいものがあると内心考えたらしい。だから「一応切りになったら」と自身に言い聞かせている。
だが今の俺は全く違っている。「書道」というものは、そんな有限なものではないということを、つくづく感じている。師範をとってから見た「書道」の位置、八段に到達してみた「書道」の位置は、現在の己の姿が余りにも未熟で恥ずかしい姿である事を痛い程身に感じている。
だから、お前は何んな心算で、あんな事を言ってくれたかは兎に角として、昭和49年の2月、俺をして、一つの眼を開かせてくれた事は事実であり、これこそ、おうた児に教えられた大きな一つであった。
で、俺は目標も低俗だったし、一時的なものだったにしても、早くから「書」に興味を持って来た自分の心持を正直に踏んで、重ねて来たからこそ、即ち、小枝が沢山あったからこそ幹もあったんだと思っている。裾野ばかりでは富士山には成らぬものな。

家に帰れば、これを再び書き直す意志も無くなると思うが、もしかして、そのような折でもあったら又、そうする機が無いとは限らぬ。その為に一つ、ここはもっとこう、ここはこのようにとか、その外、視界の拡げ方でもいい、何か書いてくれ・・・。
一度呑み込んだ経験というものが、こんなに深い底の方に、自分さえ分からぬ底の底に、ちゃんと沈み込んでいるものである事を今更おどろいている。少年時代に吸った空気を吐き出しつつ、隣ベッドの佐藤さんに強引に教授された俳句を作る道程で、不思議さに打たれている。

星澄んで 夜刈りは鎌の 音ばかり (もう40年も前に消えた習慣だ)
高原の 朝もやの下に 駅舎あり (今は大きな駅になってしまった)
見下ろせば 朝もや里を おほいおり
青あらし 谷湧きかえり 気澄めり (もう木は無く、その頂には住宅団地さえあり)
三味止んで 蠅はゴゼ(贅女)から 子等の背へ (あの音、あのゴゼんさま・・・)
蕨狩り 一息つけば 苔布団 (もう別荘地に売られてしまった)
ひっそりと 湧出にゆあみ する小鳥 (お前にも一度見せたい光景)
贅女西へ 子等は散り散り 秋も暮る (ここら辺へ田人君の新宅が建つそうな)
山頂は とばりも降りて 蚊喰鳥ヨタカ鳴き
里の灯よ 嶺は蚊喰鳥と 夕靄と (火とぼしの晩方だ。懐かしいなあ)
火祭りや 点火の子ども 早走り (よかったなあ)
夕立の しぶきを踏みて 桑籠ビク重し (中学の時代、苦労したんだ)
夕立は せく桑籠の人 宿らせて
草除りは 耳の雲雀と 動く手と
雲雀の声ばかり 畑で草を除る (楽しそうだが汗と土埃で どろんこだぜ)
凍土に 下駄はさまれた 道くらし
両岸の草 水晶や 寒の堰 (宮原のあの用水だよ)
春近し ツララまぶしき 日向ぼこ (宮原の今のあの軒下でだよ)
ぬくもり日 ツララが落ちて 地にささり
留守居して ツララが解ける 音をきく
凍みる暁明のみ知らぬか ミソサザイ (早暁の あの小鳥の声 いいな)
昼の夢 さましてツララ 砕けたり
煌めきの 玉の暖簾や 雪とける (宮原の あの今の儘の軒端が なつかしい)

こんなことをして、不眠の夜を消して来たが、思いがけない旧い旧い感情の目覚めを呼び戻して、自分ながら驚いている。経験は多い程いいなあ。



                           父より



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