あの世から覗いて
   照れて居るだろう
 親父の顔が目に浮かぶ
      
〔状況〕・・・40年間 埋もれていた 亡き 父の手記
   今から100年前!!・・・次男の私が60歳なのだから当然と言えば当然なのだが、父が少年時代を過ごしたのは、今から100年も前・昔の話に成ってしまったのか・・・と感慨深い (大学ノート5冊にびっしり)
  父 母が 百年前の人と識り 茫然とする 寒月の夜

〔手記が書かれた経緯などについて〕
67歳の父が病気療養の為に東京の病院(当時学生だった私が住み込み同然にアルバイトしていた日通病院)に入院した折、病室で暇を持て余し気味な親父が、ふと、以前息子(私)が勧めた言葉を思い出し、書き綴り始めた”手すさび”が、その切っ掛けであった。
その年の2月から4月迄の凡そ3か月の間中、どうやらベッドの上で一刻の時間も惜しみつつ、恰も、むさぼる様な勢いで書き通して居たのに違い無い。何故なら、その分量は原稿用紙に換算すれば、なんと3千枚以上に相当する大分量、本人も最後に『後にも先にも出来ない事をやった。記念塔なんだ』と感慨を記してある、中味は兎も角、分量だけは大著・大作の部類であろう。
息子以外の誰に読ませる為でもなく、(その息子も35年間読まずに放置したのだが)何の慾も得も無く、ただ純粋に懐かしく面白くて、激変著しい時代を生きて来た1個人の、それも信州でも特異な山裏地方(諏訪盆地から奥まった、広々とした八ヶ岳山麓とは別の、霧ヶ峰や蓼科高原への出入り口に当たる山あいの、縊路とも云うべき狭小部落での暮らし)を、恰も目の前で繰り広げられているが如く、四季折々・日々日常の情景が書き綴られている。

人は己の人生を振り返る時、苦しく辛かった事は忘れ去り、楽しく嬉しかった事ばかりが思い出されると謂う。が、思うに我が父が、こうも美しく、難地と謂うに相応しい山間の地で生まれ育ったにも拘らず、その故郷の暮らしや時代を、寧ろ清々とした筆致で振り返れたのには、それなりの縁因が在ったからに相違ない。父の人柄もあるが、殊に大きい要因の1つは、二男であった父自身は青年期で村を離れ、生計としての農業に携わる事の無い儘、幼少年時代と青春期だけを過ごした事実である。だから如何に苦しかったとは謂え、在地の人々が生涯せおい続ける土地への思いと比べれば、その”山裏”への思いの丈の内容は自ずと異なる筈である。或る意味で”部外者”と成った父にとっては、飽く迄も山裏は「懐かしき故郷」・「思い出の聖地」として、どこか浮き浮きした愉快心と共に父の胸中を占拠している塩梅である。ま、いずれにせよ叙述にとっては幸いな事情と謂うべきか・・・。
因みに息子(小生)は、その景観や雰囲気から判断して【山裏】と表記しているが、イッチー(父・市夫)は絶対に”裏”の字は使わず、専ら【山浦】と記し徹してある。まあ確かに、其処に住み、生きて居る人間にとっては”裏”である訳は無い。その共感は、読めば読む程、理解が深まれば深まる程、強くなる。
だがまあ、現代人へのインパクトとしては矢張り、「山裏!」であろう。(御免。)

没後すでに30年・・・明治42年(1909年)に産声を挙げ、激動の大正・昭和時代を生き、昭和57年(1982年)に73歳の生涯を閉じた其の前半生を、人間模様も赤裸々に記してある。だが何と言っても出色なのは矢張り、特異な山裏時代の年代記である。山裏風土記といってもよい程の、今となっては貴重な資料的要素も十分に含んでいる。
現代社会では既に忘れ去られ、もはや失われてしまったかの如き観のある〔地域の感動力〕、その原点が育てられてゆく様が、恰も今一緒に暮らして居るかの如く、生き生きと蘇って来る。

〔お断り〕
従って公開しようと思うのは、父の子供時代〜青春時代・即ち100年前の「山裏の暮らし」が中心である。他にも面白い話が沢山記されているのだが、それは小生の余力次第となる。
なお原典?(大学ノート5冊)には一応サブタイトルが、一区切り(一節)毎に記されている。但し、最初から全体像が構想された上での記述では無いから、時間的な前後のズレや内容のバラつきは仕方あるまい。とは謂え後からにせよ、その見出し(目次)の存在は有り難い。
以下に先ず、そのサブタイトル(目次)だけを紹介して措く。その中から幾つを取捨選択し、アップロード出来るか??甚だ自信は無いのだが、さて何うなります事やら・・・
尚、この大学ノート5冊を【原本】とするなら、その6年後(没する年)に病院のベット上で、可愛い孫達へ「オジイタンのお話」として、特に”子供時代の遊び”だけを取り上げ、改めてノート筆記をしてくれた【別冊】が在る。三分の二位の処で終っており、まさに孫達への置き土産となった訳なのだが・・・。
無論、原本とほぼ同じ事柄が殆んどである。然し幸いな事に、幼い孫達を想定して書いた為に(6年前の原本に比べ)、より丁寧に、当然の事として省いてしまう様な詳細な記述がふんだんに出て来て、今となっては非常に貴重な意味を持つのである。又同じ事柄や人物に対する感じ方も、6年前(68歳時)と死期を自覚して居たであろう73歳時では自ずから異なる。従って、同じ様なタイトルで原本と重複する事柄であっても、敢えて二重に採録した。又、♪印を付しつつ、部分的に挿入してもある。(殊に第1部の「村童の遊び編」には多い)やや鬱陶しいと感じられる向きも在ろうが、お許し願いたい。


〔サブタイトル・目次〕
【A=1冊目】
(一)中学へ入る
(二)不遇の学生
(三)  〃
(四)小学校時代・・・1、スケート 1、釣り 1、頭のハリッコ 1、メンコ
(五)兄の思い出・・・1、裸馬 1、剣術 1、バイオリン 1、女装 1信仰
(五ノ2)中学の思いで・・・1、ノート 1、苦悶 1、通知簿 1、就職
(五ノ3)東京生活・・・1、東京に出る 1、農林省 1、観兵式 1、省内の 人々 1、一平兄と 1、学生ども 1、一平兄去る 1、発病 1、故郷へ
(六)幼年時代の思い出・・・1、アトアト 1、クソベーシ 1、女先生 1、河干し  1、陣棒ぬき 1、棒ベース
(七)分教場時代
(八)稚児時代と共に・・・1、おぼろげな回想 1、ツバメの子 1、ものさし刀 1、せみとり(小泉山) 1、クワガタ 1、鯉とり 1、水あそび 1、衣を埋める 1、妹のケガ

【B=2冊目】
(八の続き)1、河乾し遊び 1、漁法・ヤナ 1、自然玩具(赤ん棒) 1、鰌すくい 1、タニシ(ツバ)掘り 1、秋の夜刈り 1、籾叩き 1、稲こき 1、ランプと電灯 1、臼ひき
(九)1、薪タキモノとり 1、炭やき(バラズミ焼き) 1、運動会
(十)風物誌・・・1、馬車(交通機関) 1、富山の薬屋 1、ゴゼんさま(贅女) 1、笠伏せ 1、源公一家
(11)養蚕・・・コボソダテ、 桑もぎ、 蚕尻とり、ヒキ拾い、ヤトイ、 マユかき、 繭運び、 畑の草取り作業
(12)馬・・・ウマヤ、 馬耕、 代掻き、 馬堆肥(メエノコ)作り、 風呂
(13)幼児懐古・・・火とぼし、 冬橇(坂氷)、 試胆会、 集団窃盗、 ほいろ(焙炉)、 穴蔵、 学校道の雪掻き、 ゴム靴、 首っちょ、 ネコかき、 真綿むき、 座繰り、 ハタヘリ、 機織り、 母姉の冬仕事、

【C=3冊目】
(14)  堰浚え、 タチッコとり、 乞食、 飴屋、 オシンコ作り、  
(15)御柱・・・深神山曳き、 上り祭り、 山出し、 木落し、 河越え、 里曳き、
(16)正月・小正月・・・年末、 元旦、 御年始廻り、 厄払い、 どんど焼き、 厄投げ、 おやど、 若衆やど、 節分、 こと八日、 十五日の粥、
(17)春の農事・・・苗代田、 畦ぬり、 代掻き、 田植え、 鯉子放し、 田の草取り、 ベロ虫除け、 水田管理、
(18)闘病・・・伊藤養民先生、 諸先生めぐり、 蛇とり、 野沢君、 描画行、 木川新太郎兄、
(19)農林省・・・手紙の齟齬、 電話珍談、 工事の広場、出勤簿、 誤過、 忘年会、
(20)諏中の思い出・・・一年、 二年、 三年、 四年、

【D=4冊目】
健康への念願・・・西式強健術、 岡田式正座法、 白隠益軒の数息観、
代用教員拝命・・・代用教員になる、 下宿、 滝沢君の指導、
二度目の門出・・・チヨン会、 伊藤君、 再び滝沢君について、 佐平事件、 小口正夫君、 詩吟と書道会、 浅川君と剣舞、 下宿追放される、 自炊生活始まる、 遠藤先生酒の教え、
教員生活を考える・・・小口安人先生の御人柄、検定試験、伊藤正和君、土屋甚次郎君、自炊の宿、女の逆立ち、リレー、南部忠平選手、靴スケート、小平重紀、茶箪笥、
教え子たち・・・貧困の家々、(以下は仮名)下田啓一、今井笑、宮坂寛人、五味今朝男、崇島あさゑ、宮島俊子、北沢さゑ子、町田みさを、市ノ瀬まき
その他・・・陸川堆雲居士、乞食画師
転機

【E=5冊目】
サブタイトル無し・・・結婚、夫婦愛、家庭の幸福と苦難など

【F=別冊】
鋸目立てのおじさん、水車の精米、笠伏せ、ワラつき水車、ハヤ釣り、ドジョウ掬い、田鯉とり、集団行事・・・火とぼし、
《集団遊びの色々》
(1)カーボシ(河干し)
(2)陣取り
(3)頭の張りっこ
(4)ベース(野球)
(5)お宿
(6)度胸試し
メンコ、水浴び、棒ベース(棒野球)、テグスとり、こま廻し(ヅングリコマ作り)、分教場時代







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