《第6部》
   
山猿華の東京へ 

         農林省役人時代
中央線の牛込と云う駅が消え、飯田橋と云う新しい駅が生れつつあったっけ


117、〔初登庁
農林省は思えば、思い出は夢の様に尽きないのだが。
可笑しかったと後では思うが、顔から火の出る事ばかりの連続だった。
それ迄の田舎暮しでは 【電話】 などと云うモノは、柱に掛かっているモノや、他人が掛けて居るのは見かけた事は 度々あると云う程度だったので、両角の叔父は、俺を高島小学校に連れて行って(校長だった)、
「きっと なあ、農林省とも なれば、一切は 電話で 遣り取りされる だろうから、電話の掛け方ぐらい覚えて行け。」 と言って、教えて呉れた。
一つ、受話器と云う物を掛け釘から外せ。
二つ、その釘を押えてから右手で取っ手をガリガリ廻す。
三つ、受話器を耳に当てろ。 四つ、「何番ですか?」と向うから訊かれる。
五つ、「何番へお願いします」と言って、先方の番号を知らせる。
六つ、「承知しました。暫らくお待ち下さい」と言うから、受話器を掛けて待って居る。七つ、「チリチリン」と鳴るから急いで受話器を耳に当てると向うが出るから、話をする。八つ、済んだら、それでよい・・・と実演して見せて呉れた。
だが、まさか 俺が入省初めから 電話の方へ なんか 廻るものか と思って、
《後学の為》 と考えて、「ハイハイ」 と 適当に 返事を して措いた。
次に両角おじさんは、
「出世の 第一条件はな、何と言っても 上役の人に、あの子は 感心な子だと認められる事が大切だ。何事も、人より余分に 仕事は する様に心掛けろよ。
そして何時も、人が出勤するより 三十分位は 早目に行ってな。他の人達が出て来る頃には、皆の机の上なんか、よく雑巾かけたり ハタキかけて措く様にしろ。常に常に、そうした心持でやって居ればな、何時かきっと、「あの子は」 と 必ず人の目に留まるよ。そうすれば 出世も早い と 謂うものだ。着る物だってな、人より質素な物にして、未だ未だ中学生の心算で、この金ボタンの服で行け。」 と 新しい学生服を 渡して呉れた。
そして、「何時も 人より早く出勤して、全ぶ部屋を綺麗にして しまうだぞ。」 と教えて呉れた。 勿論、《実行して見せる!》と心に誓った。

信也さん(親籍筋)に連れられて農林省に初登庁した日、農務局の中の農政課が、局長直下の課で局長室に隣接していた。そこの荷見課長の前に出て辞令と云う物を頂いた。そして、信也さんの宅に御厄介のまま初出勤した。
両角おじさんの言う通り早く出た。門衛の方くらいしか居無い。人気の無い部屋へ入って、さてハタキや雑巾を探したが中々見当たらない。やっと雑巾が隣の方の机の下に在ったので、机の上を拭きだした。少しすると、俺よりも少し年下かなと思われる人が来て、「あ、僕がやりますから。」と言って、やって呉れた。次の日は、「長田さんにやって頂くと、僕が困ります。」と言う。段々と解って来ると、隣の少年は、俺の専属の給仕さんだと云う事が判り、このグループの係の給仕は、他のもう一人の少年が 遣って呉れる事も判った。
「僕が困ります」と言う訳だ。早朝で、他の人々に見られ無かったから良かったものの、皆いる処でやったら、とんだ御笑い草だった訳である。
諏訪の地方事務所と東京の本省とは違った訳だ。彼等が自分の部下であると判ってみると、むず痒い様な妙な事になったが、慣れると云う事は恐ろしいもので、それで当り前になり、相沢君に依頼したり、やって貰う事が、さして面映ゆくも無く成って行ったのである。

                     
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118部下の給仕君たち
名前は忘れたが、局長室の隣が給仕君の部屋兼出勤簿の在る所であった。登庁した者は全員、其処に有る自己の頁をめくり、毎日、認印を押捺するのである。給仕室の頭上に特に大きな時計が有り、時刻は毎日厳密に合せていた。そして「カチッ」と正刻を指すと、給仕君はガチャンと開き戸を閉じて、錠をガチッと掛けてしまう。必ずと謂う位毎朝、2、3人飛び込んで来て、その閉じられた硝子戸を叩き、救いを求める人が在るのは何うした事か。
それには又、必ずと謂ってよい程、給仕君は無返事である。それほど判然、叩いても無駄だと解っていたら、叩かねばいいのにと思うのだが、必ず叩いて何とか理由を言って、哀願して行くのである。だが 給仕君は 悠然と構えて、「何時も、こうですよ。」と他人事の様に笑って言う。そして引出からゴム印の箱を おもむろに取り出して、歪まぬ様にキチンと 正しく枠に合せて、器用に紫色のインクで ゴム印を 押していく。『遅刻』 の印である。朱肉の所は、もう押捺した認印。他の白紙箇所には既に、「日曜日」 「祭日」 「休み」 「賜暇」 と云うゴム印が押され、埋まっているのである。 押してしまうと錠を外し、再び観音開きの戸を開けて、元の通りと云う事になる。戸を開いてしまってからは、遅刻した人は観念して、室の前の廊下を素通りして行くのである。

あの給仕君、きびきびは して居たが、顔色は良く無く 蒼白であった。性格は活発で、よく同方向に帰る時は、「○○まで一緒に帰りましょう。」と言って、誘って呉れたりもした。俺が金ボタンの詰襟を着て居た所為か、田舎っぽくて、お人好しに見えたのか、給仕君達は、よく懐いて呉れた。他の課の給仕君達も大勢きて、話し掛けて呉れたりもした。年齢は俺より下が割合に多かった。大抵、給仕さん方は皆、夜間中学で勉強して居るのであった。
俺と相向きになって居た 施行係付の給仕さんは 香取正明君 と言い、給仕仲間でも中々の切れ者らしく、大人の人達からも信望が有り、仕事もよく呑み込んで居て、歳は一つ下だが夜間中学生であり、俺の仕事は全て大先生で、よく手を取って教えて呉れた。(♪註:他の箇所の記述・・・この人は俺より年上だったが、嫌がらせ一つ言わず、何やかやと 田舎者を導いて呉れた。給仕仲間の切れ者で、明るい親切な、夜間中学の三年生だ。)字も美しい素晴らしいし、決して高慢ちきな処も無いし、他の給仕達が外れた事を言うと、先輩らしく 戒めてやったりして居た。俺と同じ年頃なのに、東京の人達は苦労して居るんだなと、つくづく考えさせられた。
施行係主任の永山さんが、四十近いお人だが、「長田君は、いいな。地方の普通の中学を出身して来た方々は出世が早いから、なあ。僕ら夜間出はダメだよ。」と言われた事は、悲しく強く心に響いたものであった。仕事の内容は、ずっと立派でも、そう云うものかなと考えさせられた。
そして「いくら勉強してもね、判任文官試験は受けられないよ。資格ないもの。長田君、早くね、判任官だけは取りなよ。石崎係長も両角係長も皆、そうなんだ。属三等だからなあ。地方の県庁へ廻れば課長だものな。」と励まして呉れたのだった。

                     
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119下宿からの徒歩登庁 【飯田橋という新駅が完成】
信也さん宅に3、4日お世話になりつつ、役所の帰りに 宿探しを 一緒にして頂き、【飯田町】に 炭屋の二階を 見付けて頂いて 移った。
月俸35円である。徒歩で通えるのだ。電車通りを少し進むと九段下に出る。其処を 御堀に沿って中央気象台の横を通り、日比谷公園手前から 東京駅寄りに進むと 農林省だった。
必要経費は食費のみである。あとは節約して行こうと心に決め(罹病した兄の医療費を貯める為)、その主旨は信也さんにもお伝えして置いた。
二階は 俺の処が三畳間、左側が四畳半で若夫婦、右側も四畳半で 大きな書店に勤めていると謂う 独身者だった。主家には 法政大学の英文科の一人息子さんと、実直な老夫婦だった。室代は覚えて居無いが、『一畳3円』 とか謂う事を言って、母と姉が驚いた事から 多分、一ヶ月9円か10円 取られたであろうと思う。それは兎も角、起床して驚いたのは、北側から朝日が昇るではないか!驚いて早速故郷へその旨を書いた。

東京駅へは近かったし、宮城は目の先だったしする辺りは変って居無い。そう云う事から謂えば、俺の通っていた時に、一つの中央線の駅が消え、一つの新しい駅が 生まれつつあったけ。曰く、『牛込駅』 と 『飯田橋駅』。
九段から続いた台地が四谷の堀で段丘が出来、その二つの段丘にハシゴを掛けた様になったのが【牛込駅】だった。靖国神社の坂の上を四谷へと進み、茂みの土手下の方に見下ろすと、其処に牛込駅が在り、その向う側、濠端を隔てて、四谷の道が 縦に走っていたものだ。飯田町の 森の段丘から 転がり落ちぬ様に注意して、長い石段をコツコツ降りると、坂の下と言うより 蔭の茂みの中に、その段丘の裾を伝って 新宿方面から走って来た 電車が停まっていた。詰り、坂の降り口が牛込駅だった訳だ。
下車した客はカタコトと下駄を鳴らして、半分は濠の向うの神楽坂方面に斜めに散る。もう半分は直ちに、見上げる長い石段を、上の飯田町の段丘まで昇り詰めて、四方に散ると云う様子だった。
そして 九段坂下から進んで来たチンチン電車道は、牛込駅より 少し東京駅寄りの ガードを潜って 神楽坂方面に出た。だから、電車に乗る必要の無い 散歩人口は、このガードと駅石段の間に、なだらかに 神楽坂と対照的に勾配した坂を通って四谷へ、又 神楽坂の繁華街へと、足を進めたものだった。
その坂と高架ガードの交差点、即ち、その坂が改札口に成る様に、【飯田橋】と云う新駅が出来たのである。
そんな通勤時の面白い残像の一つで、どうしてあんな事が、こんなに意識の底に 濃く焼き付いて居るんだろう と思う事の一つ・・・冬の朝、飯屋で朝食を済ませて、九段坂下から御堀端を伝って行くと、霜の冷える様な寒々とした疎らの植木の根方に屈み込んで、田舎で謂う「乞食」の類いが、穴缶に針金の釣手を付けた物を、有り合わせの横木に吊るして枯木葉や紙屑を燃やしつつ、真っ白い湯気を立てて、フウフウしながら煮て居る風景だ。
《あの中に何が入っているだろうな?美味しそうだな!》と、何時も思いながら通り過ぎたものだ。こんなに強く焼き付いて残像している処を観ると、毎朝と云う位にやって居たに違い無い。
今考えると、一幅の日本画に成る風景だった。朝日も未だはっきりしない、辺りに人影も無い(日中でも、あの大きな道には人通りは少なく、時々大きな車両が飛ばして通る様な道だったっけ)堀端のしじまに、これも亦動かぬ屈まった人が、じーッと湯気を見詰めて動かぬ景観、やっぱり絵だったな。

                     
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120省内の人々
俺の仕事は 【施行係】 と云う仕事であった。それも農林省の中の 農務局の中の農政課から全国の都道府県知事と全国の農事試験場宛に定期的に、その決定事項・問合せ事項等々を発送する係である。
だから殆んど毎日、また時には 日に何度も、全国都道府県知事宛、全国農事試験場長宛の 刷り込み封筒の一束を取出して、各局課長経由の印鑑の押された書類で施行係長石崎属官(属三等:判任官)の検印の済んだ物を三人のタイピストに分配してタイプし、それを打ったタイピストと原稿(その書類)との読合せをし、誤り無きを確認できた書類を封入し、給仕に渡す。給仕は一緒に糊付して呉れて(本筋は俺が封すべきだが)、篭に入れて発送部へ回送する仕事である。特別の物で無い限りは、四時半までに出来た仕事で打ち切ってよい事になっている。残りの30分は本日の後片付と明日の仕事の準備をし、五時10分前頃になると時計と睨めっこして居て、チーンと来たら、飛び出して良いのである。
特殊な物、即ち一律で無い物は、石崎さん付の2老人(とは謂うが一人は50歳位の老眼鏡かけた大柄の梅沢さん。もう一人は小林さんと謂う小柄で長野県佐久出身だという、着物に袴スタイルの40歳位の方)の書記係がお居でて、毛筆手紙なり筒封書なりをこなして下さった。
施行の金庫係の永山さんと謂うおじさんは、「長田君はいいな。地方の県立中学出身者は出世が早いよ。ぼくら私立出はだめだよ。」 と悲観めいて居たが、この方も 実直な いい方だった。)
隣合せて会計係が在り、名は忘れたが属三等の(ああ、金子さんだった)係長の下にソロバン達者の若者二人、春日井さんと前田さんが居たのだ。取っ付きは好く無かったが、黒い顔の前田さんは妙に俺を可愛がって呉れた。
「長田君、ボクと一緒に箱根の旧街道歩いて見ようや。」と言われた。
楽しい一日だったな。夏目漱石の小説を思い出す様な甘酒茶屋で、白髪のお婆さんから甘酒を貰って、筧のさしかけの腰掛けで二人きりでススキ混りの小梨藪に射すぬく陽を眺めながら啜った味、そしてその風懐。もう一度あの道を歩きたいと、何時も、そして何度も思う。あの道、今どうなっちゃったかな。その茶屋の写真は前田さんが写って今、古いブックに在る筈だ。
そして農政課の中で、このグループ七名が 『庶務』 として 行動を共にして、課内の他の係と諸付き合いをして居たのである。
あ、いけない。タイプの班が居た。タイプ班は書庫係の永山さんの机と隣合って和文が三人並び、原田英文タイピストは課長付だったので、行動の時は大抵そっちの方へ行く方が多かった。
俺付のタイピストは四人いたが皆、遥かに年上連中なので、冷やかされ通しだった。須山さんはドングリ眼と言うか短身肥満の肉体型で、泳ぎ廻るキャッキャッ嬢。斎藤嬢は細身で縁無し眼鏡、低音で控え目、眼がキラッと光るが恐い目では無く、笑った目で静かに冷やかして笑わせる型。もう一人は名前は忘れたが入省まだ二年目だとかの何処となし、擦れっ枯しの色の見えない純真らしく、おっとりして居る、百人並の顔のお嬢さん。
そして英文タイプの原田さんが、その、あの、ちょっと。と謂うのは、女学校出の秀才とかで、オボオボして居る赤ん坊の様な言葉を使う娘。歳は18歳とか。誰が言ったのか、妙なこと噂し始めたので、俺と顔が会うと真っ赤になり無口になってしまう。向う様は、それこそ東京のお嬢さん。俺は真っ黒焼の上、ニキビがゴリゴリに噴出している田舎っぺなのに、誰が此んな悪戯し始めたのか。でもチョッピリ、悪い気持はしなかった。誰も注意しないでいる様な時に、チラッとその姿の上に眼を落してドキドキッとしたりもした。

                     
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121電話珍談  【ピンチ!初めて見る電話器】
タイピスト嬢たちは仕事の上では真面目にやって呉れたり、足りない所は弟の様に手伝って庇って呉れたが、暇が有ると、田舎っぺを からかいに来た。
「コ ン ボ コ。ははっ。可愛いわねえ。赤ちゃんのこと、誰でも コンボコ って言うの?駄目! 私ら言ったんでは 感じ 出無いの。長田さん、あんたが言う時、とっても可愛いの。ね。ね。言ってみて!」
よせやい、全く。いやんなるよ。
「あっ!今言ったこと、なにっ? なにっ!」
「何にも、ゆやあ しねえよ。」
「言ったわよ。 言ったわよ。 何にも ユヤーシネーヨ の外にさ。」
「ほらっ!今ここに来たばっかしの時、ここへ腰掛けた時、座りながら、掛声の様なこと言ったわよ!あのこと度々長田さん言うわよ。」 その時は 何を言ったのか 自分には 判らなかったが、後でそれが「ああ、ごしてえ な。」 だった。
  (♪ごしてえorごしたい:疲れた!の意の 諏訪地方の方言。「腰痛い」からの変容か?)

そんな或る日、心配していた事が 到々 やって来た。
「長田さん、お電話ですよ。発送から。」 と、大きな部屋の向うから 声が掛かって来たのだ。其処こそ 農政課 57人室の中央で、衆人監視の真っ只中に
”電話” が在る。行ってみた。すると、何たる事か。高島小学校で見た、そして教えて貰った、あんな 『手廻し電話』 なんて 何処にも無い!!
恐る 恐る、顔を 赤らめながら、その机に近づいて、【両方が握り拳の様になったノ】 を 持つと、何処で幽かに 「もしもし、長田さんですか?」 と謂う。
(両法の握り拳の)どっちの方で謂ってるのか、よく解らないので、中間の所へ顔を寄せて、「はい、長田です。」 と言った。
何か声の様な 音がして来たが、どっちへ耳を着けて、どっちに口を向けたら良いか 解らぬので、「すぐ行きますから。」 と言って電話を掛けた(置いた)。
急いで廊下を越えて、発送係へ行った。
「態々来て頂かなくても 良かったですよ。実はね。」 と 簡単に済んだ。何の事は無い。ホッとして思わず、自分に 言い訳した。
《上諏訪まで毎日 通った脚だ。廊下の 二本や三本 何だ!》 と。だが流石に広い農政課の万座の中で、独り自分だけが、笑い物に成る事態を想像すると、俄然 恥しくなった。古狸のタイピスト嬢達なぞは、死ぬまで俺をオモチャにし続けるに決まっている。他人事とばかり、タカを括って居たツケが 廻って来てしまったのだ。かと言って今更、「見た事も無いので、教えて下さい」 などとは 誰にも 言い出せない。
だが既に実際1回、掛かって来たのだから、こうして居る間にも 2回目が 来るやも知れぬ。 さあ、どうする!? 九回裏 二死満塁の 大ピンチに 追い込まれた。こうなれば最早、残る手段は唯一つ。
再び自分の机に戻った直後からは、電話の廻りへ、用も無いのに行きまくり、人が電話を掛ける処を、素知らぬ素振りで、目と耳に全神経を傾けて、必死の思いで 盗み覚えた ものだった。
解ってみたら、自分は脚に自信が有るにしても、相互の間で考えると、時間の浪費が大きいと解って、それからは直ぐ電話を使う様になってしまった。
それにしても、あの時は 冷や汗三斗だった。ほんとに ヤバ かった なあ。
今でも、自分ながら 笑える。

                     
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122都会生活の一日〕 (起床から寝る迄)
六月半ば過ぎた東京は眠れなかった。直ぐ其処が電車通り、あのパチパチッと云う電光の青光りと、轟々と謂う あの車両の、地球を擦る音が耳に着いて眠れず、随分の睡眠不足に悩まされた。
先ず【朝食】であるが、起きて洗顔し、両角叔父から買って貰った 金ボタンの学生服に 鳥打帽を被り、直ぐそばの飯屋に行く。予算は 10銭である。飯の大が4銭、小が2銭、みそ汁が2銭、漬物が1銭、菜は色々ある。 煮豆、切身魚、焼豆腐、肉野菜など、高いのは 8銭位から 5銭位まで、予算と腹加減に合せて 各自一品ずつ注文して、揃った処でパクパク やらかすのである。
俺の行く頃は新聞配達、納豆売り、労働者がラッシュアワーだ。どじょう汁は懐かしいが 割合に高かった らしく、滅多に食べなかった。 みそ汁、焼豆腐、沢庵漬、飯の大盛と小皿一つずつ位が、大抵の朝だった。美味しい物も食べたかったが、田舎の兄の痛ましい顔(罹病)を思い出して我慢した。
【昼食】は、全員 「省内食堂」 で食べる。給仕連中は、”食う”と云う事が一番楽しみらしく、今日は何にするかなどと、昼食少し前になるとアチコチに屯して、嬉しそうに囁き合って居る。そして高等官食堂の窓口へ行って上等品を注文したりして、喜々として食べて居た。食券を月給日に沢山買って置いて、好きな物を タラフク食う 楽しい食堂だった訳だが、俺は 《ここが我慢の し処》 だったのだ。昼食は、「皿そば」(10銭)に決めていた。青色がかった涼しそうな美味しいソバだった。田舎の食事を想えば、未だ未だ贅沢だと思って甘んじて、兄の体を思って貯金の増えるのを唯一途に考え続けた。
中央大学夜間部の法律が一番、苦学生には良いとか勧められて、文官試験を将来 受ける態勢も取った。なるほど省内で会う大学生は殆んど皆、中央大学の、あの白光りする 校章の帽子を 被って居た。
地下室は省内許可の諸商人の店舗であった。其処で、海軍ラシャのバリッとしたマントだけは買った。貫一お宮の芝居(金色夜叉:こんじきヤシャと謂う小説)ではないが矢張り、マント姿は嬉しかったらしい記憶が湧く。
【夕食】は、宿の近くの飯屋でも食べたが、大橋図書館(九段坂下の明治図書館株式会社の隣)の食堂で勉強の後、食べて帰る事が便利である事が判り、終いには夕食は、其処の定食(15銭)にする事に大体一定してしまった。
大体一日の食費35銭である。時代はキャラメル一個5銭と10銭。バット(煙草)一箱7銭であった。朝日(煙草)は吸い口付なので15銭と云う処。電車は一度乗って7銭払えば、地面に降りる迄(下車)は、それでよかった。乗換は何回やってもタダ。丁度今で謂えば、ホームで乗換して居る限り、一日中でも良いと謂う処だった。
楽しみは、夕食後、母の縫って呉れた 一張羅の 紺絣(こんがすり)の着物を着流して、牛込駅を左に見て、神楽坂の雑踏を彷徨う眼の保養の時だった。
タモトの中で 4、50銭 どこ 入った ガマ口を しっかり握って、右の 似顔絵描きを《上手いもんだなあ!》 と 立ち覗き、左の ガス燈の 古本屋の棚を 《良い物あるなあ!》 と 見るだけで 足を移し、甘栗屋の ガランガランと 香ばしい臭いも、《無駄遣いは一切せぬ!》 と 云う 自家憲法の 特訓を持って居るから、食品としては映らず、機会として見て過ぎるだけ。美しい花を 雑踏に打ち乱されまじと、頭上高く翳しつつ 連れだって泳ぎ行く 若い人々。そう云う中を 面白く揺られ流されつつ、一往復して再び 牛込坂を登って、宿に帰った。
東京見物なんか、一生ここで暮らすのだから何時でも可能。それより何より、この都会の轟音と腐臭から一時で好いから遠去かりたいと、休日だけは郊外に出る事にしていた。でも、嬉しい本に釣られて、自分では求められない高価な本を大橋図書館に一日籠って読み耽った事も幾日か有ったっけ。
明治絵画館に入って、あの歴史の大作を、歴史を胸に描きつつ、ひねもす仔細に再度、三度と見直して歩いた時は、田舎では出来無い事だとつくづく思いながら、その幸福感に浸った感慨もあった。
田舎では出来無い最も素晴らしいものは、やっぱり帝展などの展覧会だった。まだ何の素養も無い若僧には勿体ない事だったが、新聞などで見た白黒の絵では感じ様も無い迫気。2、3枚袋に入った絵葉書版では求められない威圧感。あの規模の大きさと彩色の生々しい光芒から押し迫る力感。ああ、素晴らしいなあ!と思った。彫刻も同じ事だった。それも何度でも何十分でも好きなだけ、じーっと凝視め続ける事の出来る豊かさ。よかった。
大橋図書館で拝む様な高価な本、読みたいなと憬れた本が、時を問わず、時間の制限も無く、只の入館料だけで飽読できる様に、こうした文化の皺の中にゆっくりと蹲って楽しめる事は素晴らしいと思った。

                     
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123豪球投手〕     【いきなりエース投手に】
就職してから間も無く、農林省と特許許可局の間に空地が出来た。それは、その直ぐ先の川に、新しい大橋が架かって、其処が大きな通りに成るとの事だった。川の方では、橋を架ける下準備として、長い唐松材の様な大木が、何本も何十本も、川底に 打ち込まれていった。杭打ち機の ハンマーの音がドカンドカンと響き渡った。そこの空地が勿体無かったので、キャッチボールが昼休みに始まった。野球は分教場の校庭で、幼い頃から散々やった事なので、つい手が出る。やっている裡に、誰いうと無く 「長田君の球いいよ。」 と云う事になって、顧問級が顔を出す様になった。
宮川係長が農政課のキャプテンだと謂う。その人が、「長田君どう、僕と今日キャッチボールやろう。」 と迄なった。到々これは行けるぞ、と云う事になってしまった。その裡に、それまでのナンバーワンの 早大出 野球部員の?崎と言う背の高い君が連れて来られて、「長田君とやってみろ」と云う事になった。そして、その君の目にも叶ったらしく、以後、課専用のグラブが俺の机の横に常備されるまでになって、毎日昼休みには 楽しく遊べて、運動に不足は しなくなった。その頃は、とっくに信也さん宅は出て、飯田町の自分の宿からの通勤の身だった。
天気の好い日曜日は、よく宮川係長 (全然関係の無い別の係だが、そこは課長直属だったので何かと謂うと都合の好い事が多かった。仕事の上では関係の無い様な他の係長に紹介されたり可愛がって貰ったり、課長まで「長田君。」と名を覚えて呉れた)が、一連を引き連れて代々木の練兵場へ草野球に連れて行って呉れた。
東京人は妙な事に驚くものだと思った。「長田君の直球は凄い。」「兎に角、豪球だ。」「肩が素晴らしい。」とか、終いには、「いい所で、やって来たんじゃないかい?謙遜するなよ。」なんて、とんだ買い被りの話まで出てしまった。
(♪註:別の箇所では・・・宮川係長に見出されて農政課の第二投手(第一は早大出の選手で大柄な豪傑)に祭り上げられて、好天候の折は青山練兵場に連れて行かれて遊ばせて貰った。大らかな係長は磊落な方で、電車の行き帰り常に傍に付いて可愛がり、ポケットからピーナッツを掴み出しては俺に食わせた。競馬の馬の様に。昼休みには裏の特許局との境の空地に出て、名は忘れてしまったが、その第一投手とキャッチボールをやった。「強球だ」と言うのだ。別に小学校の草野球以外、球を手にした事も無い自分が「強球だ!」とは、東京に住む当時の人間が如何に軟弱か示す様なものだった。

昼休みにキャッチボールやった通りは、何と謂う通りに成ったのか?橋の名は「鎌倉橋」と謂う名称になるとか云う話もあった。神田橋の直ぐ次の橋の筈だった。もう45年も前の話だ。時も流れたばかりで無く、東京が大都市化し、更に空襲で米軍乱爆で焼け果てた跡、再建されて更に過密都市化している。トンデモナイ昔話で、浦島太郎の話以上に可笑しい事に成ってしまったなあ。でも何か、名残の影が有るかとは思うのだが。★ 思えば、亡き父(長田君)は 此の手記を、何十年ぶりかの東京(文京区大塚の日通病院のベット)で書いて居た、のである。

                     
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124昭和新帝と鉢合わせ〕   【昭和帝即位の観兵式】
田舎っぺ大将が 何とも素晴らしい感慨は、あの 御即位の 代々木練兵場の観兵式の拝観の行事だった。★1928年(昭和3年)11月:即位記念 陸軍観兵式
最敬礼をして拝んだ事しか無い天皇陛下の御真影(ごしんえい:肖像写真)の事を思うと、バチが当りはしないかとさえ思えた。
農林省に 拝観席の割当てが来た。段々分けられて農政課へも何枚か来た。年は給仕達と同じ位だが、肩書は レッキとした 『農林省雇:やとい』 である。
立派な お役人様だから当然、局長課長らとクジが引けた。引いたら 当った。
『服装は 苦しからず』 と謂うので、一行の中に 学生服で参加した。
「軍隊」と云うのは、小学校時代、父に連れられて上諏訪へ、湖水を渡る(結氷した諏訪湖面)松本だか何処だかの騎兵が砲を引いている所を見たのと、シベリア出兵に、辻の「正十サ」が村人に送られて「ここは御国の何百里♪」を歌いながら馬に乗って村を出て行った思い出と、中学五年の時、松本連隊に見学入隊して、兵舎の中で 二週間だか暮した のみである。
その田舎者が、日本陸軍の粋を集めた 代々木練兵場の 閲兵式を見たのだから、眼ん玉が飛んび出す程おったまげて、口を開いたまま見た有様が想像される。 それより何よりも、身の置き処の無い程の緊張感に包まれたのは、
白馬に跨った昭和の新帝が、金ピカ連中を引具して、農林省連中 その他の着席している桟敷へ向って、閲兵をされながら、静々と近づいて来られるではないか・・・!!今の時代こそ、こんな呑気な書き方をして居るが、それこそ、この当時としては、教育勅語を逆さに開いてしまった為に辞表を出したり、天皇陛下の写真が焼かれたとて割腹して御詫びした時代だ。俺がでんぐり返らずに居られるかってんだよ。本当に「夢では無いか」と云う事を味わったのは、あの時だった。
俺達の桟敷の前で直角に曲がられて(真正面から参られて)左に行かれた。生きた天皇陛下を見たんだもの、白い馬に乗られた天皇陛下が実際に目の前で動いて居るんだもの、之が驚かずに居られるものですか。あんな近くで、あんな御立派なお姿をゆっくりと拝んだのは、これから後の人生でも俺には恵まれ無かった。若々しい本当に御立派な天子さまだったなあ。
拝観が済んでから、その観兵式に御乗馬なさった御馬さんが練兵場に繋がれて、皆の見物が許された。遠くから見たら白かったが、そばで見たら上杉謙信の馬の絵の様な、網の目の様な斑点が尻っぺたにくっ付いていた。でも、菊の御紋章の付いた、厚い素晴らしい毛布の外套を羽織って、藁だか草だか食べて居たっけ。

                     
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125役所の厳しさ〕      【慚愧に耐えぬ失敗】
役所と云う所は厳しい所だと思ったのは、石崎係長が、優しく教えて下さった事が印象に強い。
「小言を言う訳でも無いし、誰が 注意せいと 言った訳では 無いがね。わしが給仕君達に教えている事でね。君も此れから此処で、大勢の人と付き合って行くからには、或る程度 身に着けて措いた方が 良いじゃないか と思うからね。気を悪くしないで聞いて呉れ給え。
何時も給仕君に僕はね、名前を呼ばれたら、呼ばれた人の方へ向ってサッと立ってね。ハッと短く はっきり答え、手は 自分の椅子に掛けて、その後方に立つ様に。そこで何か言うようであったら、其処で聞いても良いが、出来る事なら、椅子を机に押し込んで、急いで呼ばれた人の方へ歩いて行く様にと、話してやって居るんだよ。」 と 云う 御忠告であった。
自分は、よく反省してみると、席に座ったままで、上役の方へ 首だけ向けて「ハーイ。」 と 田舎式の、のんびりムードの 返事を していたのだ。 時には、
その儘で「何か用事ですかあ?」 と、そのまま遠くから問い返して居たり、「あ、ちょっと。」 と言われて 始めて「どっこいしょ」 と 腰を物憂げに持ち上げて、そろりそろりと 行っていた事を考え込んだものだった、ものであった。
それからは気を付けて、周囲を見廻して観て居ると、皆それぞれ大同小異、石崎さんの 御言葉の線で 動いて居られる。香取君が キビキビ見えたのも、その型通りであった印象であった。相沢君にしても、斎藤君にしても、特に局長付の給仕君なんか、刃物に接する様な素早さでパキパキして居るのだった。そして、その御言葉に沿える様に努力していった事は勿論であった。
その時の農務局長・松村慎一郎さんは、俺が退職して後だったが、農林省政務次官に成られた。諏訪中学出身の先輩・小平権一さんは、その当時 米穀課長さんで、ワイシャツとの間の ズボンの前方に手を突っ込んだ妙な恰好をして、モソリモソリと廊下を歩いて居られたが、後、満州国の農務大臣級に成られた。あの当時も、何とかと謂う一つの研究を成し遂げて、有名な者に成って居るとの話だった。「学者ですね。」と言って居られた。帝大の農科を卒業して改めて法科を出られた人で、当時には珍しい法・農学士と云う肩書が名簿の上に付してあった。野沢平蔵君と同じ諏訪郡米沢村の出身で、後で野沢君に語った時、知っていると言った。
失敗
一つ、悲しい失敗が有る。着任して半年も経たぬ時の事であった。農政課長に注意され、副産課長の処まで行って謝罪して来た事が有った。
タイピストは自分の打ったタイプに責任を持つ為に、改めて施行係の俺の処へ原稿を返却しながら読み合わせをして、原文とタイプ文に誤記ありや無しを確め合った上で、原稿は永山大人(書庫係)に渡し、タイプ文は俺が、全国の県知事なり農事試験場長宛に発送する訳である。
その中の一つ。食用蛙の 卵の注文を、全国農事試験場長から取りまとめ、本省で改めて 全体を睨み合わせ 配分した事があった。県は何処の県だったか記憶に無いが、奥羽地方の試験場だった様な記憶で、
『受領して孵化した処、完全に近く成功したのに、蛙の数の絶対数が、ばかに少ない。県内各地の注文に合わない。不可しいと思って(調べたら)、送られて来た数(そのもの)が、モロ少なかった!と謂うのだ。着荷した時点で直ぐ気付けば良かったが、本省を信用して居るので、うっかり通知書を見落としていた。この数の狂いは、何処で生じたのか調査して呉れ!』 と 来た。
副産課では調べたが、自課関係では誤は生じる点が無い。かもすれば、タイプの誤記と云う事もある。と謂うので段々調査を進めてみたら、
『タイプの誤記で、それを防ぐ為に施行係の所で、タイピストと原稿の読合せを遣らせている筈だ。』 と云う処へ 落ちたのである。
詰り、『お前達の読合せは、文字を見てやっているのか!』と叱られたと同じ事になったのである。余程、気を付けた心算だったが、タイピストは皆、古狸の姐さんばかりで、読み合わせしても、文章の内容など心を込めて見て居無かったのでは無かったろうか。
課長さんの御言葉は、「まあ、気を付けて呉れ給え。」 だけだったが、何とも表現しようの無い 恥しさであった。この失態は、それから後も、俺が農林省に居る裡中、身を責め続けた事件だったが、古狸嬢たちは 何の御感じも無い態度であったのは悲しく、考えてみれば、《監督の目を効かす と云う事は 難しいものだな 》 と、つくづく 考えさせられた。

                     
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126華やかな忘年会〕     【清潔で美しい芸者】
楽しい華やかな思い出も有った。農林省の忘年会、農政課分会だった。
坂田 一等事務官、荷見 農政課長などが統率する 課員一同、総勢 何十人かなあ。箱根 強羅の旅館で行われた。土地不案内の上、入省初めての事だので、只 人の後を付いて行っただけなので、何処を何う通って行ったのか、箱根の何と謂う所なのかも、皆目 記憶に無い。
ただ残っているのは、一つ、珍しいトロロの料理が出た事。二つ、芸者の踊りと云うものが優雅で上品だった事。三つ、酒乱と云う仕草の恐ろしさ。四つ、一等書記官と云う人も、酔って膝を崩せば愉快に成るが、あれ正気なのかな?と思って事だけである。
その一、「トロロ」。広い大広間へズラズラッと膳が出て、間に給仕のおばさん達が着いて居たが、お膳の中に妙な物、丸い容器に 濃いトロロが ポッテリと溢れる程に入っていて、その真ん中に生卵の黄味が美しく浮んでいる。
こんなトロロ、どうやって御飯に掛けるのかな?と見て居たら、皆カシャカシャ掻き混ぜて、一口すすっては 酒を呑んでいる。「ヘヘエーッ」 と思った。
『所 変われば』 と 謂うが、信州の 山奥の トロロ君とは、およそ縁遠い姿で、お目に掛かったので 驚いた。
その裡に、正面に一杯に建て拡げて在った 金屏風の前に、しなしな しな と綺麗な人々が登場して来た。東京から今 着いたのだと云う 【芸者】だと謂う。
幼い頃、大家(おおや)の織之助さんが、芸者買いが好きで、よく芸者買いに行くと聞かされて居たので或る時、俺は、二銭の大きな銅貨を持って行って、「これで上諏訪のゲイシャを買って来て呉れ」と言ったと謂う話を聞かされた。その後に成人してから見たのは、お祭の屋台の上でやる 「芸者の手踊り」 とか、上諏訪の街で見かけた、首まで真っ白にオシロイを塗って、朝、寝巻き姿で歯磨き楊枝を咥えていた 『芸者だち』 の 姿であった。
だが此の芸者は、俺の様な田舎者が見ても、清潔感の溢れる美しい人達であった。その上、その演ずる踊りが、声も出さぬが、感心する姿であった。
最後に、みんな一列に揃って、丁寧にお辞儀をして、しずしずと引き揚げて行った。これから未だ、別の御座敷に車で行くんだと謂う。その後には金屏風が片付けられて、ガシャガシャ騒ぎ立てる三味線持参の女衆が、席の間に散り込んで、盛んに歌声の酒宴に溶け込んでいったのだった。だが、去って、居無くなった後も、あの姿は 美しく眼底に 焼き付いている。

みんな賑やかに 飲んで 騒いで 面白く、可笑しく 楽しんで居た処、突然、皆ワッと異様な声を出したので、おや?と思って見たら、俺のコンパと言うのでは無いが、早大出の第一投手が、あの長大な躯に三味線を斜に持って、同じ係で古先輩の、眼鏡の細い華奢な中年の○○さん(名を失念した)をなじっている。3、4人が割って入って何か止めているらしい。
何か意見の食い違いだろうと思っている裡に、中年の方の声が一際高まって、金縁の眼鏡が キラリと光った瞬間、若い早大御大、三味線を 大上段に振り被った。アッと思う間も無く、パシッと三味線は上の唐紙を外した欄間下の鴨居を叩いてしまったから 堪らない。三味線が、頭と棹の二つに折れて、弦だけで繋がっている。それを堺に、関係の無い皆まで色を変えた。
それは二人の仲では無くて、三味線をへし折ってしまった事である。直ぐピンと高い弁償代が胸に来たのだろう。それからガヤガヤと二群に離れて何か話し合ったらしい。三味線の問題と、喧嘩の問題とのグループなのであろう。
重だった人達は何うしたのか?当人同士は何うなったのか?そして自分は其の晩どう過ごしたのかも、何も記憶には残って居無いのである。昔の事って、こんなものか。

                     
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127カルチャーショック!〕   【故郷への ビックリ報告】
高尾山遠足へ行ったのは、春日井さんと 前田さんと、俺に 給仕の香取君と
タイピストは 須山さんと 斎藤さんの 6人だった様に覚えている。
写真を見ねば判らぬが、前田さんが撮って呉れた写真が在った筈だ。
『与瀬駅』 の 庭と、高尾山頂の茶屋の中と、見晴台の、3所が有ったと思う。ピチピチしたクリクリ小僧の俺が可愛く写って居る。与瀬駅は今の何処になるのかな。小さな田舎駅だった。東京連中が日帰りピクニックに手頃な距離だったのだろう。タイピストは遠足も出勤も全て和服に袴姿であった。
この遠足の時の俺は、既に「飯田町」の下宿を出て、郊外の【東中野駅】近くに引越して、従兄の 丸茂一平君と二人で、清水昌光君の家を借りて自炊をして居た時の事だ。
何が切っ掛で、どう話が進展したのかは全然覚えて居無いが、東京帝国大学農学部に行っていた 従兄の 一平君と、『二人で自炊生活をする』 事になり、二人で探したら、長野県も諏訪の 原村出身の人で、歳は未だ 俺より一つ上だけだが、大変な努力家で、一軒家を借りて ラッキョウの行商をやっている 清水昌光君と謂う人が、『二階がそっくり、今の処 空いて居て、当分来たり 住む予定は 無いから、入れても好い』と云う所が在った。
行って見たら、気さくで 懐かしい故郷の人だし、学生さんと 官吏さんなら 大丈夫と 喜んで呉れるし したので、其処に移り住んだのだ。多分二人とも、その方が、より経済的に済むとでも考えたからやった事であったろう。だが、今思えば不思議でならないが、そもそも、其れまで「一日35銭の食費と三畳間一ヶ月9円の部屋代」よりも、更に安あがりとは一体、どんな計算なんであったのだろうか??唯、こう云う事は覚えている。
俺が八百屋へ行って、「大根一本下さい。」と言ったら、店主が、
「学生さん、一本なんて大根買って 何に するんですか?」 と聞かれ、
「汁の実にするのさ。」 と言ったら、
「何十人の汁 作るか 知らないが 一本とは。」 と言ったので、
「二人分。」 と言ったら、「之で好い」 と言って、其処に 半分に切り落したノを 更に半分にして、
「之で十分ですよ。まだ 多過ぎますよ。」 と言われ、ビックリ して家へ帰り、
早速、『東京では、切った大根を店で売っている!』 と、ハガキに書いて 田舎へ 出したものだ。
又、朝、豆腐屋が来たので、「一丁くれ。」 と言うと、「一丁?」 と繰り返し、
「何するのです?」 と 又聞く。「汁の実。」 と言ったら、
「おなべ出しなさい。」 と言う。何するんだろうと 鍋を出したら、「何人分?」 と聞いたから、「二人だ。」 と言ったら、
やっとこ 此方の 新米自炊っぽ と見当ついたらしく、ニッコリ笑って、手の平へ乗る様な 小さい切れっ端を 持って来て、掌の上でチョンチョン、チョンチョンと細かにして、ポイと鍋に入れて呉れた。之にも驚いた。
お菜買いに行ったら、もっとビックリした。もう食べるばかりに豆が煮えて、然も小さい皿へ盛り付けて値が着いているではないか!
何だか、百姓の生活とは凡そ掛け離れている。矢ヶ崎の豆屋と鬼場の豆腐屋が、菓子屋を連れてオラ家の台所へせせり込んだ様な、妙なと謂うか、せせこましいと謂うか、狭苦しいと謂うか、はた又簡便とも表現するのか、全くヘンテコリンな感じが暫く続いた事を、何度もハガキに書いては、信州へ報告したものだった。大根が2銭だったか豆腐が1銭だったかは、てんで忘れてしまったが、後々わかった清水君のサッパリした気性から観て、部屋代だって安いものだったに違い無い。後悔先に立たずだが、多分、ここで俺は栄養失調と云う状況と、ツベルクリン反応無実施時代の犠牲の挟み打ちに遭ったのではないかと今、考えてみるのだ。
因みに、清水君は独身であり、朝食は飯屋で済ませて、昼食は出先の食堂。夕食も飯屋と云う生活だので、自分の家は寝布団ひと塊と雑物の梱:コリだけと云う暮し。早朝に、前夜作って措いた材料を裏庭の煮物小屋で煮揚げ、荷車に積み込んで、一日中かかって売り捌いて、夕方帰って来る。そして翌朝煮付ける材料作り(ラッキョウの切り出しと、紅ショウガ作りと福神漬け作り)を済ませて就寝と云う日々の、汗の繰り返し。全く俺にとっては、生きた修身の様な素晴らしい青年像に映った人だった。この人と一生付き合って、そして彼の最後の日を送って、俺が今生き残って居るのだ。

                     
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128質問攻め
この頃の【東中野駅】は、線路と平行して路がずっと出口(西は線路を股いで行車の間を縫って越す)から『中野』方面に向って走っていたが、真っ暗で、電車が通る時だけ、明るく照らし出される程で、その暗がりの途中にヤキドリの屋台のおっさんが店車を止めて、帰りのサラリーマンの嗅覚を惑わして居たものだった。
或る時、何かの用事で上京した兄を、このヤキドリ屋台で持成した事がある。実は俺も一平兄貴から、そのヤキドリの何であるかと云う事と、その美味さと安さを教えられたのだが。田舎では 小鳥を こんなにして食べる事(ヤキトリ:焼き鳥?)は、殆んど無いので、食べてから兄は 矢張り と謂うか、案の定 と謂うか、「おじさん。この鳥なんの鳥だえ?」 と聞き出して、今度は俺が、恥しい思いをした 覚えが有る。
この様な失敗をやっては、一平兄貴に叱られた事は一再では無かった。一平兄は高等学校時代を仙台で過ごし、そして天下の帝国大学生だから、自らは澄まして居たので在ったろう。俺は、その兄貴分から何でも教わろうと一生懸命な一学研なのである。二人で揃って新宿方面へ出る事も、二人で一緒の電車で帰る事も有ったのだ。二人並んで電車に座る。
一平兄は 澄まして 本を読んで居る。俺は東京の電車が 屋根の上を走って、幾つもの広告板が 林立して居る中を 行くのだから、珍しく眺めて居るのだ。そして読むとも無く、その文字を 小さい声で読んで行くのだ。
○○学校、○○印刷、○○病院・・・産婦人科、不感症?
「あっ!不感症!やあ、不感症って何の事でえ??やあ、やあ、不感症って何の事??不感症! 不感症!!」
今日に限って一平兄は黙して語らず。ああ、これは何か大事な考え事してるんだなと思って、黙ってしまった。降りる時、何時もなら「さあ、」 とか「降りるぞ。」 とか声を掛けるか、或いは黙って 俺に目配せして呉れるのに、この日は何を怒ったのか、ツンツン先に降りて、さっさと人混みを掻き分ける様に行ってしまう。仕方無く、口笛吹きながら独りで、遠く行く一平兄貴を追って行った。家へ着いたら、其処に一平兄は恐い顔して立って居る。そしていきなり、
「バカヤロウ!!」 、「何テコト 電車の中で言ウダ!!」
後で、清水君と兄貴と 話しているのを聞いて、大凡その見当は付いた。そして清水君はゲラゲラ笑いながら、「長田、大したもんだな。」と冷やかして置いて、説明して呉れた。
そして、「不感症とは何の事だ!?」と帝国大学生に日中の満員電車の中で声高に何度も繰り返し真面目に質問しても、まともに返事の仕様も無い事と、兄貴が 『隣座席の田舎子僧が、何誰かに喚いて居るが、あの子僧と 私とは 何の関わりも無い、見ず知らずの 赤の他人で ござんす。』 と云う風を 見せたくもなるのは 当り前だと、よくよく わかった。
そこで又、俺は、《田舎者は 口を慎むべきだ》 と 卑怯風を ひいた ものだ。

                     
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129共同生活の破綻
だが然し、やがて此の二人の共同生活には齟齬が生じた。飯田町に独居していた時は、好きな時に、そして好きな折に、外出して美術を鑑賞し、古本屋に立ち読みを楽しみ、図書館で学習をして来たが、矢張り兄貴(従兄)と共同生活をすれば、自分の意志通りに出来る時間は少なくなった。詰り、お付き合いで行動しなければならない時間の方が多くなった。
一平兄貴は学生である。来るのは、暇を持て余したと謂っては申訳無いが、何となしに訪れたと云う感じの時間の費やし方、過ごし方をする人々であり、男女学生であった。それでも一平兄貴の最初の恋人は、淑やかな優しい女学生だった。松本の出身で 「ヨシコさん 」と謂って、この人が来た時には 俺は下の清水君の小物部屋へ降りて 勉強してやった。音も声も立てず一日中、静かに過ごして行かれた方だった。田舎から持って来た松茸でマツタケ御飯を炊いて下さった、優しく「長田さん、長田さん」と実弟の様にして下さった人だった。だがやがて、その恋人は来なくなり、次には音楽学校の学生が彼女らしく振舞い始めた。 俺から観れば、美人とも 女としての魅力も 無さそうな、三溝さんとは正反対の感じの人だった。そして、その武蔵野音楽学校の女連隊は、しょっちゅう襲って来て、「この坊や可愛いわ」 と やられた。
とてもの事、判任官試験を目指して努力する 苦学勤労青年の生活とは、何と謂っても合わないものが、何時も出て来た。男女学生が混成されてのトランプ遊び。男友人の将棋遊び。一緒に出ようと遠出に同伴を誘われる。それが夜となく昼となく、のべつ幕なしの時も続く。こんな詰らぬ遊び学生の暇潰しに、俺も常に陪席させられて、日曜日は殆んど全滅させられた時も有ったんだもの。そう云う時にこそ、田舎の兄の事が悲しく胸を衝いたのだった。俺は今、兄の病気を何とかして上げなければならないと必死なのに。その為には一日も早く出世して行かねばと、判任官試験学習の事が頭一杯になった。全く、遣り切れないと云う時も在った。
自然、そう云う気持ちは、自分の日記に 何とは無しに 書き綴られて行く。
或る日、役所から帰ったら、紙片に何やら書いて、俺の机上に置いて有る。見ると、兄貴が俺の日記を読んでしまったと告白してある。そして、
『そんな気持ちが在るなら、なぜ素直に言って呉れ無かったのか?』 と書いて、『もう暫らく待て。考えるから。』 とある。
だって五つも年上で、然も兄貴分で世話に成っている人が、やっている事について、それも、次々と、自然の様に積み重ねれれて行く、その事に、さて何時、忠告とか御願めいた事が言えるものか、と思った。悲しかったし、申し訳ないと思ったし、何う仕様も無い心情に押し潰された。
兎に角やがて、一平兄は下宿を出られた。俺は、清水君の辛苦を思うと、広い二階の独占は忍びなくなり、下の三畳で暮す事にして、後家さんと娘の人に譲った。そして間も無く、あの高尾山行きがあり、その翌日には、人生が急転直下する時が来るのであった。

                     
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130奈落の底へ急転直下〕     【故郷へ錦を飾れず】
つらつら 考えて観れば、3、4週間程前から 風邪っぽい気分がして、午後になれば 何だか熱っぽい様な、だるい様な日は 続いて居た様な 気はする。
あの従兄との 半年以上もの付合で、不規則 極まる生活が続き、精神的にも不満の連続が、或る意味でのノイローゼでも起していただろうし、自炊生活は、より以上の栄養失調を招来していたであろう。アレやコレやで段々と蝕まれて来て居たらしい。特段の記憶は無いが、あの高尾山遠足の行楽の一日も、決して爽快なものでは無かったに違い無い。
兎に角、次の日の夜、寝て居る裡に息苦しくなったと謂うか、吸う息が充分吸えず、ただ吐くだけの感じで、息が詰まってしまいそう・・・。清水君は慌てて、表通りに店を張っている借家持ちの大店・矢島さんに相談し、矢島さんの懇意の医者を連れて来て下さった。若いが春日先生とか言ったっけ。兎に角、息苦しい事を訴えると、
「これはエライ事ですよ!これで昨日高尾山へ登ったんですって?若いとは謂え、えらい事が出来たものですね。【肋膜炎】ですよ。肋膜炎も、もう漿水がうんと溜まっていますよ。それが心臓と肺を圧迫しているから息苦しいのですよ。普通なら注射で散らすか、注射で徐々に取り去るのですが、この状態では、どうも急激過ぎるが、他に手が有りませんよ。」 と 言うのだ。
やがて、細筆の軸ほどの太い管をズブッと横腹にくすいで(突き刺して)、洗い桶を勝手口から持って来させ、それへ ジャージャー、ジャージャーと 吐き出させた。驚いたなあ、もう。あのブリキの洗い桶に八分目も緑青色と見えた水が採れた。楽になった。
然し、後で聞いた話だが、「幾ら急いだとは謂っても、無茶な事をしたものだ。或る程度の外は、徐々に採るべきだったのに、一気にすっかり取り去ったものだから、肋膜が癒着してしまって、一寸始末わるいなあ!」 と 医者の言。

それからは色々と 省関係の事、知人の事、親籍の人の事も有っただろうが、何も記憶には無い。当時としては再起不能の大病で、とても東京で治せる病では無いから、帰る事にした。
省からの辞令には 、『転地療養の件、許可す。月俸 43円。』 と あった。
そして兄が引き揚げ荷物の整理に来て呉れて、柳行李など買って来て、墨で字を書いて呉れたり、色々やって呉れた。
口惜しくて泣けて泣けて致し方無かった。俺が我慢して中学を卒業したのも、勇んで東京に出たのも、会計を切り詰めながら頑張ったのも、嘘の無い処、本当に兄の為に 治療方法を考えてやろうと、遠大の計画の下に、今日まで苦心して、歯を食い縛って 遣って来たのである。三畳間にベッタリ寝て、恨めしい運命に泣きつつ、兄のせっせと遣って呉れて居る折の一時、俺の、兄さんに対して持っていた夢が 消えて悲しい事を 語った・・・。
かくて俺は、真っ白くシーツの掛かった 寝台車へ乗せられて、故郷へ 連れ戻されて しまったのである。
人は錦を飾って故郷に還ると謂うのに、悲しい限りであった。






   ・・・以上、第6部、山猿 〔華の東京へ〕 編・・・おしまい


            
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