《第5部》
      風物詩 編

       〔現代社会の原風景〕     
少し角度を変えて、風物移り語りと行こうか。そうなると、詰り、新しい風が吹く毎に消えて行った情景として・・・人力車、馬車、騎馬の医者、富山の薬屋、御前さま、笠伏せ、など直ぐ浮ぶものであり、 新時代への 移動情景 と謂えば・・・ 村に 電燈入りの当時、
連鎖劇 (それまで村芝居、浄瑠璃 ) などが 思い出される。



107、〔乗合馬車 (乗り物の変遷
その当時の乗物と言えば、近距離用は 【人力車】、遠距離用は 【馬車】しか無かった。それ以下の距離は徒歩に決まっていた。だから茅野駅から蓼科の親湯・滝の湯・小さいの湯へまで行く客人達と、茅野から上諏訪へ行く客人達(これは近距離か中距離に当るので全員では無く、どうしても歩くには少しキツイと云う条件の人達)のみの物で在った。そして今のトラックに当る物は「ウンソウ」 と呼ばれる 【馬力車】が、何処の道も 溢れる程に動いて 物資の
運搬に当っていた。部落に1、2戸は 必ず専門家が在った。

今、茅野駅から 蓼科方面行きは 当然の事として、有料道路を通っている。
道そのものに大きな変化がある。俺が母や姉に付いて『日陰の畑』へ草取や桑もぎに行った頃は、今のバス道路線が、その道であった。家の畑は裏山の北向きの傾斜面に在った処から、こんな名称が付いたのであろう。畑の面積は大きかったが、桑も作物も他の畑に比べて一段と悪い事は子供心にも見えた。その代り、どんな暑い夏の日でも、此処だけは、そう強い陽射では無かったので、特に真夏の草取などはホッとしたものだ。
此処へ来て一番楽しみは、温泉行きの客を乗せた 【馬車の定期便】が 通るのを 眺める事であった。大抵、二台が続いて 登り降りした様だった。そして
行き違う何かが来たり、先行する物で追い越さねば困る物を前にした折にはあの豆腐屋さんの吹くラッパを 調子を付けて「ピーポー」と鳴らすのである。
当時、温泉行き馬車は、最も速くスマートな、最先端の乗物だったのである。乗客の数に拠り、一頭立て 二頭立てとなり、予備馬がそれ等と一緒に走って、適当な所で引き綱(鞍掛け綱)を交替して、走り継ぐのである。
馬は側面覆いを掛けられて進行方向より他は見られ無くしてある。世に謂う『馬車馬式』 と 云う言葉は、此処から来ているのであろう、と思う。

俺は 幼い頃、上諏訪へ行く為に 父と二人で 『馬車』 に 乗った事が 有ったので、この印象は 濃く 残っている。あんな贅沢な物へ、そう何度も 乗る訳が 無いからである。 その時、どう云う 金を 出した のかは 不明だが、父が あの大きい二銭の銅貨を、馬丁さんに遣っているのを見ている。乗車賃なのか、チップなのかは 定かで無い。あの頃には、二銭銅貨一つ有れば、諏訪上社大明神の御祭に行って土産も買えた上に、充分に食べ物が買い食い出来た記憶は 確かであった 時代だから、或いは 乗車賃だったかも知れぬ。今の、あそこの区間の バス代から言っても、ちょうど釣合う様にも思える。
【乗合馬車】 だので、車の中は、今のバス席の 縦2列型で、どうも、そう多くは 座れそうも無かった感じであった。2列合せて 精々10人位では無かったろうかなあ。あの折の馬車は 引き馬は 栗毛で、予備馬は 白まだら馬であった 時の事が 記憶に有る。あの時は、途中では替え馬しなかったから、あんな距離は一匹で充分だったのかも知れぬ。そして、あの馬車が還る時に交替させて来るのだったかも知れない。疲れて速度が落ちると、長い鞭を頭上でピシッ、ピシッと鳴らして警告していた。あの 「ピーポー」 のラッパの音を、母は よく、「あれはな バーシャー、バーシャーって 謂ってるだぞ。」 と 話して呉れたっけ。ピー(高)ポー(低)である。
最も奇妙だったのは、走りながら糞をしたのだった。あの時だけだったのか、何時も ああなのか、そこは ハッキリしない。と言う事は、「日陰の畑」で見る馬車と、自分が乗った馬車に限って、糞をする為に停止した光景を 見た覚えが無いのは、どうした事だったのだろう。そして又、馬力車や駄馬は、大小便いずれの場合も、必ず停止して用をする。学校の行き帰りにも、日に何頭となく同道もし、行き交いもするが、時折、歩きながら調子を付けて 屁を放つ 場合は有る。時たま、ひょっとすると、やりながら歩いたノも、そう言うと 有ったな。
その頃、上諏訪と言えば、毎年、父の旧同僚(警察官)清水栄次郎さん宅へエビス講の花火見物に招かれて行ったのと、病院(日赤)の近くの知人の宅へ伺った位しか 覚えて居無い。

                           
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108移り世 (人力車夫運送引き屋
【人力車】は、俺には経験は無い。矢ヶ崎だかのお医者さんが一度、木戸先から乗り込んで来た様な記憶は有るが、これは曖昧。と言うのは、おらが村へ来られる「お医者さま」は、隣部落神ノ原の代々の医家「原さま」で、その方はギュッ、ギュッと鞍の音をさせて、馬丁に引かせて白い美しいお馬で往診して下さったのだから。「お医者さま」 と云う人は、馬に乗って おいでなさる ものとばかり思って居たら、矢ヶ崎の養民先生は、人力車で来られて、ビックリした様な記憶が残っている。でも「日陰の畑」で見れば結構、人力車も 黒い万十笠のおじさんが、黒一色のキシャッとした軽装で 足取り軽やかに上下していたのが見えた。従って今考えれば、人力車で来る人は 贅沢な人か、ハイカラの人か、お金持の ヨソの人 であった のだろう。
【馬力車屋:ウンソウ ヒキ】の家は、俺の村では 宮原に束人サ と 重兵衛サ、日向原で 馬吉サ の三軒在った。それのみを 仕事にして 生計を立てて 居られる 方である。”時代の移り変わり”で 面白いと思ったのは、菊沢の母の生家の隣家が 「ウンソウヤさん」 だった。そしてその息子さんは、バス会社が出来たら 一番に応募して、バスの運転手さんに 成られた事である。又それと、一寸話が逸れるが、俺が中学に入学した折、上諏訪駅前の【人力車夫】をしていた若い方が在って、列車が着くと出口に一列に並んで客待していた一人であった。その方が、バス会社発足の折、やはりバスの運転手さんに成られた。そうしてお二人共、つい此の間まで先輩格で勤務されて居られるのをお見掛けして、感無量の事があった。

”移り世”と謂えば、村の『末ジイサン』も、若い頃は 「ウンソウひき」 だったそうである。力が有り 体も大きかったので、馬を手放してからは 力仕事の お手伝いさん をして 歩いた。暮れの餅搗きには 末爺さんが来られて、幾臼も 母を相手に 搗いていった 白髪長身の爺さんを 思い浮かべる。
姉に「手返し」を教えるとて、自由自在にあの重い杵(きね)を操っての下で、母が姉の手を取って一生懸命うすの周囲を動き、末爺さんが母の注文通りに杵を打ち下ろす様が、まざまざと浮び上って来る。思えば何時も何時も、あの爺さんの搗いた御餅を食べて育った様なものである。また、土蔵を囲繞した薪の山をコナす(細かく刻む)のを 手伝っても 呉れたのだった。力の必要な作業には大抵、末爺さんが顔を見せて呉れていた。
「ウンソウヒキ」で人付き合いが多く、自ずと人柄が練れていたのか、幼な心にも 大層 《ヤサシイ、オダヤカナ》 方だと思った。
然し、子供さん方は中々元気だったが、よく信用し合って交際し合っていた。それだけに一度、思い掛け無い事件が一つ起きた。
〔イッチー危機一髪!〕
俺は末爺さんの長男の金一さんにずっと御守をして貰ったのだそうである。気は荒くは無かったらしいが、素晴らしく大物だったらしい。何でも或る時から小泉山の峰辺りから、柳川の谷と村道を越して、採取した赤土(壁塗り用)を 引き降ろす為の 鉄ワイヤー(滑車ロープ)が通じた。その当初の頃の 話だと言う事だ。誰も監視して居無かったのか、俺と云う 赤ん坊を負んぶした 幼い金一さんは、山の上から見たら、下の道が、直ぐ近くに見えただろうし、またそれ程深く 理論的に 物の考えられる 年齢でも無かったろう。
下へ向って行く 「運び鍵」 に 掴まってしまったのである。 《之は困った。》 と 思った時には、もう、自分の体は 千仭(せんじん)の谷の上空に 宙吊りに成って居たであろう。手を離せば粉みじんに成る位の事は、生きる物の本能で直感できたであろうから、必死に 鉄枠に 掴み付く。
谷に居た人、山から見た人、道路から見掛けた人々の 驚きは 大きかった事だろう。恐らく、『息を呑む』 と謂う事は、こうした時の光景であったろう。
背中に負んぶされて居た俺は、何も覚えて居無い処を観ると、ほんの赤ん坊であったに違い無い。つまり、金一さんにしてみれば、荷にもならぬ軽量な者だったので、ヒョッとそんな気分に誘われたのでもあろう。 それか有らぬか、俺のお守は、前の家のお姐さん「梅サ」に変更されてしまった。
あの時、何かの拍子が狂ったら、この世の中から二つの生命が永久に消えていたのである。それ後、その二つの命から派生された幾つかの魂も、浮世に遊泳しなくて済んだのだ。恨むべきか、喜ぶべきか。

                           
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109贅女:ゴゼ 【盲目の ゴゼンさま
皆が 【ゴゼンサマ】と言っていた、あの老婆 (幼い者が見た目だから、案外 若かったかも知れないが)は、どう字を当てるのであろうか。やって呉れた事は「浄ルリ」とか云うものだったろうか。
目の不自由な方で、杖を頼りに戸毎に訪れて、その一節を縁側に腰掛けて、三味線を弾きつつ語って呉れる。時間で言ったら多分2、3分だろうか。家人は皿に洗米を一掬い持って唱し終えるを待ち、「ごくろうさまです。」と言いながら、御前さまが胸に掛けた袋の口を開くのを見て、そこへ入れてあげる。
「ありがとうございました。」と言いながら御前さまは腰を上げて、次の家へ行くのである。特に所望すると長くもやって呉れるらしい。そして村中巡り終ると、区長さんの家に宿を取る事になっていたらしい。物好きな事かと思ったが今考えてみると、村の「キメ」で、そうなっていたのだということ。
夕方、御前さまが 来られると、お風呂を立てて あげる。夕飯を あげ終る頃になると、下座敷一杯に 村人が集って来た。
母が 「さあ、こっちまで、楽っくり しておくれ。」 と言って、土蔵の中から一杯座布団を担いで来させて、二室ブチ抜きにして 皆が座り直す。
御前さまは上座に座られて、今度は一つ纏まったお話を一曲(何曲やったのかは知らぬ)語られるのである。多分、二時間以上やった事だろう。そんな話(の内容)は、全然知らない。其処へ集まった友人が嬉しくて遊んで居た事であろう。そうか(さも無くば)又、疲れて「もう、寝ろ」と寝てしまったか。そして翌日は、隣部落へ巡回して行かれた事であろう。
    三味止んで 蠅は贅女から 子等の背へ
                     贅女西へ 子等は散り散り 秋も暮る

※入院患者(隣ベット)の佐藤さんから、「御前さま」について・・・新潟県には盲目の女の人を 何人もまとめて面倒みている、と言うより 飼っている組織が在る。座主は、こう云う女達に命じて諸国へ稼ぎに送り出す。笠、杖、草履、脚絆、衣料などを与えて、歩けない気候の時は家に籠らせて置き、他の折は行脚させる。旅宿も決め、大体の巡行日数も予告し、日常生活費は自由に使わせ、余分は銭にして持ち帰らせ、収入とする商売であると言う。或る一定の規律が在って、それは厳重に守られて、続いているそうである。
【ゴゼ】 と呼ぶ 女達だと言う。『贅女』 らしい字だとか。そして、あの三味線を弾きながら語るのは 『祭文語り:サイモン語り』 と 謂うのだ と言う。

                           
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110富山の薬売り
一年中の 何時頃 来たのかは 覚えて居無いが、之は余ほど最近まで続いたらしい事の一つに、【越中富山の薬屋さん】 の 「行商」 が 有った。
之は広い地域で在った事だから、諏訪地方だけの話では勿論ないが、矢張り幼き頃の思い出の一幕であった。
どこの家にも部屋の片隅に必ず新聞紙四つ折り大の紙袋が吊って有った。そして、腰が痛い、風邪をひいた、手を切った、虫に刺された、と言えば、決まって此の袋を開けて、それ相当の小袋を探し出して服用し、貼布し、傷口を塞いだものであった。風邪などは其れでOKだった。
物腰の丁寧な薬屋さんが年に一回(だと思ったが)、廻って来た。すばらしい大きな四角い箱を、紺の大風呂敷に包んで背負い、更にその上に、もう一つ大きな四角い箱を、これも紺風呂敷に包んだのを重ねて、ねっこんねっこんと長い木戸を愛想よく入って来られた。子供だけしか居無い家でも、その袋を出してやると中味を吟味して、また適当の員数にして、横長開きに綴った帳面に 腰の矢立(やたて)で細かく記して、次の家に廻って行く。
俺の家には 度々宿を取って、面白い海の話や、越後方面 (正確には越中、越前とも謂うのか)の珍しい話などを語って呉れた。多分お代は家人が、その折に支払った事であろう。そして置いていく薬の種類や量の多少は、黙って居ても、その家々の事情に合せて取り繕って呉れた事であろうし、頼めば多くも置いて行った事だったのであろう。
その置き薬の中に適応の物が無かった折に、「流しの薬屋」から求めた薬で、酷い目に遭った事が有る。あれは何才の頃だったか。俺が姉に掴まえられて、動きの取れなかった折だったから、かなり幼い頃だったに違い無い。
「ドモ」 と 云う皮膚病がよく流行して、顔面に出れば 白く皮膚が カサカサに荒れて次第に広がり、頭髪の中に入れば「シラクモ」(白雲?白蜘蛛?)とか言って遠目にも其れと判る様になった。田舎の子供は何かと言うと体を擦り合って遊ぶ種類が多いので感染し易く、流行し出すと堪らなかった。
若い行商人が、あんな田舎の村へ 行商に来たのだし、余り沢山も 荷物など持って居無かった事から考えれば、まやかし物に決まっていたのに、人が丸いと言うか、人は皆んな仏様に見える方だので、「とても効くドモの薬で、安く置いていってやる。」と言ったので姉(姉だって俺より6つばかり年上だけだ)は大嬉しで買った。
俺もうるさいドモが直ぐ治ると思えば嬉しくて直ぐ姉の言うなりに、姉の膝の上に仰向けになって付けて貰った。付けたら直ちにヒリヒリ熱くなって来た。
「熱いよう!」と言ったら「それだで、効くだ!」と言って、俺の手を払う。でも痛い程熱い感じだ。姉は「我慢しろ!手を出すな!」と言って、俺を押さえ付けて措いて、力を込めて皮膚に擦り込んで呉れる。俺は堪らなくなって起き上がり、「痛い!痛い!」と騒いだ。余り騒いでいるので姉も「どう、見せろやれ!」と言って見た処が、血が赤く滲み出して来た。驚いたり、困ったと思ったらしく「いびっちゃ、いけねえぞ!」と言い残して、畑へ家人を探しに行った。
母と兄が来た時には相当だったろう。驚いた。俺も自分の顔は見えなかったので、急いで鏡を見て驚いた。鼻の真上、額の中央、左右眉毛の間が、血を吹いてボックリ盛り上がっているではないか。65歳の今だに、其処が雛の様な形になって残っている。
横に逸れたが、その頃の治療は 之で片付いていったと言うか、片付けてしまったのである。「ドモ」に限らず、皮膚病など病とは考え無かったのであろう。
第一、今から考えたら 驚く事は、村には必ず 何処にも、村外れの 野の中にアバラ屋で人の住まない掘建て小屋が在った。其れには子供も怖がって近づかない処があった。曰く、『隔離病舎』。詰り、誰か村人が病気になり、手当しても好くならない。どうにも遣り様が無くなって、「こりゃあ お医者に診て貰うより外ないぞ。」 と言って 診て貰うと、手の付けられない程に成ってしまった 重態な 伝染病だと云う事になる。そう成れば、其処へ行かねばならない。
そんな事は何年に一回であるが、村人からは大変な恐れられ様で、その病舎の近辺は勿論、患者の出た家など大騒ぎ遠ざけられる。だから其処へ入れられれば、大体死ぬまで家人からお守りをされる程度で終るのが落ちだったらしい。文明の風が、そよそよと吹き始めてからは無用の小屋になり、消えていった。そう云う物の使われた一時も有ったと謂う、農村の昔語りである。

                           
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111行商とフーテン達 【飴屋、乞食、おシンコ人形
【アメ屋】・・・懐かしい、あの恰好・・・浅いタライを 頭上に載せ、そのタライの縁にぐるりと小旗を立てて飾り、中に飴を入れてあるのだ。ウチワ太鼓を叩き、面白い節廻しで調子を取りながら、首を硬直させて周囲を見廻しつつ、一戸一戸に巡り歩いたものだった。買うでもない子供達が、ゾロゾロと後を付いて村の中を遊歩する。あの飴、幾等だったのか?幾ら出せば何本くれたのか?何だか、白い細長い飴 だった様な気がするが、家々を巡った処を見ると、買ったのは矢張り、父母が買って呉れた のだった のかも 知れ無い。
俺の家は屋号が 『引込屋』 と謂う位だったので 木戸が長くて、軒下まで来るまでに大体、訪問者を観察し終えるのであった。だから【飴屋さん】が、遠い木戸先の所では太鼓をブラリと下げて持ち、足の運びもサッサと連歩で途中まで入って来る。そして軒端から 5、60m迄きた時、やおら改まって太鼓を持ち直し、足並みを緩めて 歌いながら近づいて来るのが、よく眼に浮かぶ光景だ。歌の文句も太鼓の打音の調子も、すっかり薄れている。
男か女かも定かで無いが、エプロンの様な物が前に有った様にも思うし、脚絆も草鞋も有った様な記憶が有る処からすれば女かも知れ無い。それとも、その服装は 【越後のワカメ屋さん】 と 混同して居るのかも知れ無い。
そして帰って行く時は、家での用事が済んだ段階で、太鼓も歌も無しにして、サッサとした足取りで木戸を出て行った様だった。
乞食も様々
一番よく来たのは【コジキ】だ。文字通り「物貰い」だ。姿も形も遣る事も、それこそ千差万別だった。世が平和だったのか、物資が豊富な時代だったのか、何うして、あんな者を、村へ流れ込むのを禁じ無かったのか。その事の方が、今考えて解し兼ねる事である。
一番多いのは何と言っても、哀れな申し開きをして、衣装も態々酷い汚らしい恰好をした者であった。その言い訳は、それこそ様々であった。だが忙しくて、そんな事を一々聞いて居る暇は無い。だから 何でも 来れば 母や姉が、洗米を 茶飲み茶碗一杯か 御飯茶碗に 適当に掬って、施してやった。
父が居れば、時には説教して遣ったりもしていた。一度、父に叱られた者が在ったが 之は子供心にも残っている位だから 《ひどい野郎だ!》と思った。
若い者がスタスタと入って来た。例によって、よく来る「三日でも四日でも好いから使って下さい。何でも遣りますから」 の類だろうと思って 待機して居た。するや、軒下に着くと一拍子、声高々と 『瓜や〜ナスビが〜♪は〜なざア〜かり、花盛り♪(チョイ)』 と やった。たった一節だけであった。そして縁先に突っ立った。まるで、”之で何か出せ!”と謂わんばかりの態度にも見えた。
母が何時も通りに、茶飲み茶碗で掬った洗米を 出そうとすると、父が中から出て来た。父も何処からか俺達の言葉を聞いて覗いて居たのかも知れぬ。
(元巡査だった)父の訊問が始まった。父だった所為か、怒鳴り返しもせず、問いに答えて居た様だった。終いは、「これから直ぐ村を出て行け。この後の各戸巡りは止めろ。未だ村の中を流して居たら、何うとか此うとかするぞ!」と云う様な事だった。その時の様子では素直に出て行った様で、別に父と争ったり喚いたりの記憶は残って居無い。然し此の一件からも判る様に、中には、巡査だった父がピンと来る様なタチの良からぬ者も在り、男気の無い家などと観ると 強請したかも知れ無い。
【猿まわし】はよく来た。着物を着た子猿を肩に乗せて来て、ただ縁側で2、3遍 ”宙返り”させる位で、洗米の袋の口を開けていた様だった。芸をさせる、などと云う高級な事は一度も見た事が無い。
【オコンコさま】も来た。之はボンヤリで、ぼけ記憶だが、赤ん坊より大きい様なキツネ形をした背負物を背って来て、縁側に下ろし、白い顔をした狐が首を動かした様な気がする。本体の人間は何人位だったのかは全然記憶に無いのは、如何した事だろうか。之も胡乱なフーテンの類であろう。
オシンコ細工
戸別訪問の行商では無いが、心から楽しいものに 『オシンコ造り爺さん』 が居た。(オシンコ細工とは、米粉を粘土状にして作る造形細工。)顔が赤銅色の爺さんだったが、面白い事 言いながら注文する 【オシンコ人形】 を作って呉れた。辻に「屋台」を下ろして腰を掛け、村中から集って来る子供達に作って呉れたのである。何でも言う物を作って呉れた。何でもと言ったって、田舎の子供の事だ。爺さんと会話して居る裡に結局、爺さんの得意な物に乗り換えられたと云う事は有ったろうと今想う。
「そんなモンは駄目だ」と云う言葉に遭った記憶が無いから 楽しかったのだ。
濃い赤色、濃い緑色が、強く印象に残っている。特に、あの緑の葉が一寸着いた、真っ赤な人参は 印象深い。兎の 赤い目も 思い出す。
子供の注文の無い時は、手の込んだ素晴らしいノを作って、傍の藁つとに建ててある。見に来た人が買って行くのである。何とも愛想の有る生々しい芸であった。買って来るより、見て居る方が嬉しかった。指先から生れて出る様にムクムクと形が出来上って行くのが、堪らなく不思議であった。
ちょうど絵を描く人が画面を色彩していく様に、あの幾色ものシンコを掌の何処に挟んで持っているのだろうか?と思ったり、丸で作った物に色が着いていく様な妙な感じで見詰めたものである。
座敷に飾って置くと、数日して硬くヒビ割れて来るのが切なかった。食べる物では無く、飾る物なのである。細かい芸であった。人参だって、そうだな、全長3、4cmだったろうし、兎だって4cmちょっと位だったろう。出来上ると、細い竹の串に刺して呉れるのである。

                           
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112笠伏せ
そう 定時に有った訳では無いもの らしかったが、楽しいものの一つで有ったのに 【笠伏せ:カサぶせ 】と 云う事が在った。
どう云う所から誰が持って来たのか、又は、そう云う商人が在って巡って来たのか、そう云う事については、父に訊いた事も無かったので 不明であるが、
付いて見に行った 子供にとっては、胸のわくわくする 面白い事であった。
炬燵だったか 机だったかは 判然としないが、兎に角、一同が車座になって中央に板があり、其処に 幾つもの 皿様の物( 金属製だった様で黒かった) と ”白墨” が 転がっていた。そして一人が品物を提示すると、皆(と言っても、其れが欲しいと考えた人)が、その皿を取って白墨で勝手に値踏みして書き込む。それを伏せて中央の机の上に出す。皆が出し終ると係が、その全部を次々に起こして調べ、高値の人に落ちる訳である。
今考えると、必要品も在ったかも知れないが、珍しい物が多かった様な気がする。他所の人が持って行くのを見て、《ああ、好い物を買ったなあ》と思ったり、《あれが欲しい》と思った事もあって、仲間には入れ無いが、わくわくして見て居た。子供達の姿が胸に浮ばずに、大人の塊だけが思い出に有る事を考えると、俺は特別に父が見学がてら連れて行って呉れたのかも知れない。
それで特に覚えているのは、外側は白木(素木)で 6、7本入った 色鉛筆のセットを買って貰ったのだ。其れが学校に持って行った処、かなり上等品らしく、他の友達のより色も良く、付きも良く、特に木が適当に軟らかくて削り具合が良く、友も褒め、先生も 「何処で買ったか」 と言う様な事を 訊かれて、大層いい気持になった事を記憶する。そして其れは、かなり大きく成る迄、小さく減る迄、大切にした覚えがある。
その宿をした家が「束人:ツカトさん」の家だった事から考えると、特殊な手引が有って、やって来た商人が在ったのかも知れない。この家は「ウンソウひき」さんだから、毎日、市街地である茅野町・上諏訪方面にまで、荷物の運搬をして歩く商売だからである。何処でも、遠くまで物を届けたい時は、頼みに行けば持ちに来て、その家の門まで届けて、その返事や、時には、その返礼まで持って来て呉れたのである。買物など都合さえ付けば、買って来て(勿論、大きな品物だが) 呉れも した ものである。
今考えてみれば、辺地の人達にとって、この「笠伏せ」は、如何にも夢の湧く様な、楽しいものの 一場面であった訳だ。

♪小学校三年生の頃 かと思う。朝起きると、昨夜 おとうさんが 【笠伏せ】 で 買って来て呉れたと言う、素晴らしい 「色エンピツの一箱」 が 在った。その頃、”色エンピツ” と言えば、ピカピカと クドクドしく 色別けに外装された物で、その割合に芯が堅めで、余り 色着きは 良くありませんでした。
先ず、お父さんが 口では言わなかったが、《市公は 絵が好きだな》 と 考えて呉れて 居たらしい事が、とても感激でした。 ソッと 蓋を開けてみて、瞬間
《これは凄い!》 と 感じた。外装の無い 白木の軸に、何と有ったか覚えて居無いが、しっかり 品名か社名が刻印されていた。切口の色は鮮やかで、軸の割合に芯が太めだった事も 嬉しかった。後に作った画は 自分ながら素晴らしいと思える色調だった。大切に 永く使った記憶が残っている。
お話したかったのは、【カサブセ】と云う、農村の呑気な夜で無ければ見られない行事の事です。
夕食過ぎた 冬の夜に、或る家に皆集まって 茶菓子と漬物で 賑やかに談笑して居ると、誰が何うするのか解ら無いが、炬燵の上に 「茶ブ台」 と云う板を乗せると、『ブリキで作って、黒く塗った 皿の裏に 取っ手の付いた様な物』と「白墨:チョーク」が出されれる。そして其処へ一品、何かが出る。欲しいと思う人は、その皿を一枚取って白墨で何かする(希望値段だったに違い無い)。そして皿を伏せて、滑べらせる様に押し出すのです。それを誰かが、選別して決めたのでしょう。そして品物を渡したものと思います。そこは子供には解りません。大勢集って賑やかだった夜、皿を伏せて 滑らした音 しか 記憶には有りません。元締めは何処の誰が、どうやって開くのか全く知ら無かった。
色エンピツ を 父から 買って貰ったのは、家で当番をやった時から ズッと後の事なので、うっかり ボヤーン見て居た事しか お話できません。

                           
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113あっぱれ源公
”荷物運び” と 云う事が出たので、それに関係した 愉快な人が 村に居たので思い出す。姓は覚えて居無いが、名は 「源之丞」 とか言ったよう記憶する。通称、『源公:げんこう』 と言って居た。大八車(だいはちグルマ:全てが材木製で、長い柄の付いた 長大な 2輪の荷車) が 唯一の商売道具で、俺の家の 持山の一隅に 粗末な、小さな一室だけの小屋を立て、野宿の時の様な 「コモ」 を吊るした便所で苦にせず、山の流水で煮炊き洗濯一切は済ませ、結構、家の周囲には野菜も作り、子供も育てて 生活して居た人である。
見るからの頑強な風貌であったが、この上のない程のお人好しで、恐らく怒る事は知らぬ人だったらしい。どの程度の計算は出来たのかは知らぬが、世の中に鬼は無く、人から依頼された荷物をキチンと届けて手数料を貰って一家を支え、おかみさんが、智恵は兎に角として、気性のきつい人であったから、おのずと村童達まで「ゲン公」扱いにして、その一家一族は皆、その程度の評価をして付き合って居た。惣領の息子さんも、体躯も力も素晴らしかったが、やはり少し不足していた。『朝十』と言う名だった為に、その後も、他所の人で「アサジュウ」と呼ぶ人が在れば、何だか疎ましく感じて仕方無かった。
「朝十のカカサ(母親)みた様だ(みたいだ)。」 とか、「源公くれえ(位)だぞ、そんな事する者は」 とか 言う程のコトバさえ 出す人が在った。
『源公の力量は素晴らしい!』 と 云う事は、村中が 噂には 聞いて居たが、
どれ程の力持かは 測り知れ無かった。処が俺達の幼い頃、偶然、或る一つ実証が 行われた事が有って、はた又一段と、その噂は 高くなった。
「源公」の家の前は、村往還道路で、此処を通らねば 上も下も 大廻りしない限り、隣村へは通ずる事が出来無い。或る折、其処の石橋が具合が悪くなったので 架け替え修理をすべく、橋の部分だけ取り外して、通行人は 下の川を渡ったり 廻り道を して利用していた。
その折、運悪く、隣村に大火が発生した。急の場合で夜中に若連が勢い込んでスッ飛んで行った。が、その橋場に差し掛かってしまった。さて困った。
普通の車であったら荷をバラにして車を渡して積み改めると云う事が考えられる。だが【腕用ポンプ】(消火ポンプ車)では、そう云う訳にもゆかぬ。さりとて重量が余りにも超大型だので、皆で力を合わせて持ち合う事も出来無い。
思案に暮れてガヤガヤ大騒ぎして居たら、上の「源公」が騒ぎで眼を醒まして出て来た。そして、「オレが背に乗せて東から西へ移してやる」と言い出した。余りにも突飛な発案に、驚くよりも寧ろ、馬鹿げた話と相手にせぬ者達の方が多かった。だが、至急を要する重大事が目前にぶら下がっている。藁一本でも掴めるものなら掴みたい時だけに、決断力の有る人が「やらせてみろ!」と云う事になった。「源公」は、『河へ降りて背中を東道路面と同じ高さに屈めるから、その背にポンプを乗せろ』 と言う。
【ポンプ】は、作動する時は車両と胴体に分離して安置して措いてから、左右に分れて大勢で腕力で、「ワイショワイショ!ワイショワイショ!」と 煽るのだ。
その車両を外した大きな本体を、力を合せて全力で「源公」の背に乗せた。
「源公」は、皆が固唾を呑んで見守る中、一歩、また一歩と注意深く西道路側に着けた。急いでそっち側に移動した全員は、それを受取って歓声を上げて感謝し、車両に乗せて一目散に火事現場に飛び付け、先着の他部落の消防衆に協力して、一大功名が立てられたのである。
巷間よく、『火事の時、夢中で運んだ物は、事が済んでから、それが余りにも重量過ぎて、どうして此んな物が運べたか?自分ながら驚く。』 とは 伝え言うが、此の場合は、それとは違う。
眠りから醒めて、起きて来て、場所と物を観、そして行った動作である。実力で無くて何であろう。俺達は伝え聞いたのだが、その現場を目撃したのは今、村に生きて居る俺の兄達の年配の村人なのである。「源公」はもう亡く、息子の「朝十」氏も、もう七十には成っている事だろう。父親の跡をそっくり受けて生活したが、とうとう独身であった。
源公一家
「源公」氏には 4児が育てられたが、次男の忠一は 俺より一つ上だったが、おとなしい子で 年下の者にまで いじめられて、よく泣いて居た。 兄と同じく、先生は 席だけ作って置くだけで、一切自由に ポッと座らせて措いた。
一人娘の かずは 母似と言うか、口も激しく反抗もして見せる、意地だけは 兄二人より ややマシと言う事か。
あの両親にして!と思われたのは、末子の 末男と云う子で、俺の妹の志貴と同年であったが、家へ 何かと言うと来て遊んだが、女の様にやさしくて 悧巧であった。この人は 卒業すると、善光寺の在る長野市に 印刻屋の弟子と成って【入奉公:いりボウコウ】し、お盆に帰って来ると 妹に会いに来て、家中の者と語り合った。妹の姓名をゴム印に作って 持って来て呉れた事もあった。
然し物心つくに連れて、自分の家が恥しく思われて来たのか、段々と遠のき、その裡に 妹が24歳で亡くなってからは 消息は無くなった。
兎に角、名物一家であった。 その後の事は、家の人の話に拠ると、誰かに入知恵された朝十氏は、妹を上諏訪の遊廊に売る形になったのだと言う。
そして、当人が 大変嬉しそうに 語る処には、
「俺が行くとなあ、とてもウメエおごっつぉう、いっぺえ出して呉れて、酒なんかナンボでも出して呉れて、泊っていっても好いなんて言ってさ。おら、酔っちまって、寝ちまって夜けえって来た。」 と 言うのである。
妹を 女郎に売った と云う感じ方を して居るのか しないのか、女郎と云う事がどんな事なのかは 知ら無いにしても、喜んで村人に話して歩くと云うのを聞いて、憐れになってしまった。
まあ、せめて、朝十氏一代で、あの種の悲劇は終ってよかった。やがての日、あの二代続きのその小屋も消えてゆく事であろう。あの一家の発生も、何時か兄に聞いてみようと思う。

ここに一人、お隣の玉川村の粟沢に、『茂重:もじゅう』と云う大家が在った。
”西郷さん”と云う方の銅像に似た恰好のお人で、髯が濃く、着流しでバシャバシャと歩いているので、「源公」一家とは違って 完全な ”バカ” と 云うタイプだった。従って、村人との交流と程の事は無く、ただ流れ歩いて恵みを受けて生きて居たに過ぎ無かった。こちらは、やや動物に近い性格を表現するので人々も なるべく関係するのを好まず、適当に村を 泳がせて置いた。 どこで誰が教えたのか、煙草を吸う事を覚えて 「タボコ、クレ。」 と言っては歩いた。
子供も遠くの方から「モジュウ!」と叫んでは慌てて逃げた位のものである。「モジュウ」と後方で叫ばれると、何かバカにされたと云う感情が起こるのか、大勢で続け様に言うと、こごんで(屈んで)石を拾って投げ返して寄越した。時には2、3歩逆戻りして追って来る様な恰好をする時もあった。そう云う時は俺達も真剣になって一目散に逃げ散ったものだった。
所謂、ウロウロする と云う形で、何の目的も無く、風の様に 時も定めず 通過するのであった。汚い感じの男だった。
どう云う仕方で 父が呼んだのかは 解らぬが、縁側に腰掛ける父の肩を 揉む時があった。「茂重は力が有って好い。」 と笑って居たが。終って御礼の心算だろう。遣ると、貰う時も あったろうが、首を横に振って 「タボコ、クレ。」 と 2、3度言って、紙に入れて捻ってやると嬉しそうに大きな背を猫背にしてスタコラ行ってしまう時もあった。

                           
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114デンキが点いた日  (ランプ から 電燈 へ)
中学時代に変わった物の一つに”灯り”がある。即ち(旧制)中学一年の夏になって(1923年の事)、村に【電燈】が灯った事である。
その日が来る迄、ずーっと子供の仕事になっていた事に、「朝の雨戸繰り」、夕方の 『ホヤ掃除』、「夕方の雨戸閉め」 が 有った のである。
夕方になって、家人が野良から引き揚げて来る頃になると、俺は姉の手伝いをして、勝手横の小部屋に吊るしてある【ランプ】を持ち出して来る。ランプの『ホヤ』 を外して、昨夜中で 黒く成ったガラス筒を、棒の先に布を巻き付けて糸で結えた物で、掃除するのである。黒く汚れたのが 透明になるのが とても楽しく、嬉しい作業であった。
そして下部の油壷に、石油缶からポンプで石油を満たすのである。捻じ込み式になっている壷の上の燈芯部を外して、吸い上げポンプ(今の一斗缶から移す位の大きさの物)のピストンの針金を 上下すると、可愛い 軽い金属音がして 缶の石油が 壷の中に注ぎ込まれる。
壷にはガラス製、金属製の物が在った。そして燈芯の炭化部分を綺麗にして、芯の高さを調節し、綺麗にしたホヤを挿して、部屋部屋へ配布して、その部屋の中心部に下っているカギに吊るして廻るのである。
夜が明けると、ランプは硝子製である上に石油が入っている物だから、一部屋に集めて保管する。
俺は勉強する折は、上座敷へ 独居して 机の隅に ローソクを両側に立てて
やったのである。その方が安値だったのか、ランプの底部が暗いので 使いにくかった のかは、はっきりしない。
因みに、移動用は『提灯:ちょうちん』と【カンテラ】である。カンテラは、石油を入れた「ガラス張りの四角い手提げ燈」である。

「電気が来るぞ!」 と 云う話は 実にすばらしい話であった。よほど以前から
村のあちこちに、大きい材木(デンシン柱と言った)が運ばれた。
そのうちに測量があり、各戸に柱を立てる約束が 取り交わされてから、工夫達が村に入って来て、電柱建てが始まった。村へ入る最初の取付柱が、遥か下の河原から俺の家の畑に決まった。その遠い 低い所から、どうやって電線が張られるか? と 好奇心で 待って居たものだ。
其処から村中に電線が張り巡らされた。そして今か今かと待ったのである。
俺が中学から帰宅すると、姉が 「今夜、デンキが ツクっちゅうぞ。」 と言った。
その時の俺の絵日記には、カバンを掛けた儘の俺と、遠くの方に小さく姉と、真中に大きく 【電燈】が ブラ下っている。多分、帰宅した時には、もう点灯してあったかも知れ無い。只、覚えている事は、姉と母と三人で、その明るさの 凄さに 目を見張った事である。
姉が新聞を持ち、「こう。まあ。まあ。まあ。まだ、めえる(見える)わや!」 と、段々後ずさりしながら 驚嘆して居た。
母は、「こんなに離れても 糸が通る!」と言って、針と糸を持って喜んで居た。 俺は、眩しい電光に唯々感嘆して居たっけ。
その場面だけが、強く残っている。だが、あとの光景は何も覚えて居無い、と云うのは 何ういう事だろうか。多分、第一印象と云うものが、如何に 後に 残像するか、と云う事か。

                           
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115関東大震災三沢勝衛先生 【諏中時代の一頁】
諏訪中学時代の思い出は、若い思い出のひとコマとして、数えれば幾等でも出て来る。一年生の関東大震災、校庭整備と寄宿舎の火事。二年生の諏訪湖一周マラソン、平石山登山マラソン、競技大会、意地っ張り鉄棒。三年生の大運動会と牛山伝造先生の御叱り、塚田君の葛藤。四年生の豊田の火事出動、野外軍事教練。五年生の諸行事、上諏訪への下宿などなど、ちょっと思うだけでも、直ぐにアレコレ浮んで出て来る。
先ず一年生の時に、名物学者・『三沢勝衛先生』 を 偲ぶ 一つの件が有る。
あの 【関東大震災】 である。
俺の1年2部(組)の教室では、ちょうど三沢先生が地理の授業中であった。何をやっていたかは分らないが、あの1年の校舎は中古で総二階の四教室建て。1部2部が二階で、その階が渡り廊下で庭に、下駄箱に、正面玄関に繋がる出口になっていた。3部4部は階段で降りる一階だが、石垣に東側を、柵と河で西側は塞がれ、実情は地下室同様であった。

ぐらぐら と 地震が来た。遠鳴りの様に わあーと 騒ぐ音がして、隣りの1部も、もちろん下の3、4部も ガタガタと 渡り廊下を 庭に飛び出した。
が、三沢先生は、ゆらゆら揺られて よろけながら「僕が言う様にして下さい。」と言って、左手で俺達を抑える恰好をして、右手で大きな鎖付きの懐中時計を見て居た。先生は、よろけながら、揺れの大きな古二階教室の教壇を踏ん張って居られる。校庭はもう大騒ぎである。
「落ち着いて、大切な物はカバンに入れて待ちなさい。」 と 言われる。
その裡に 揺れが 止まった。先生が、サッと 手を挙げられた。
「さあ、飛ばないで、静かに歩いて、僕の後に付いて来なさい。庭へ出ても、僕の後に付いて下さいよ。」 と言われて、廊下を通り、下駄箱に出て、上履の儘、大勢のガヤガヤ騒いで居る方へは行かず、広庭の方へ導いて下さった。
この少し経ってから、揺れ返しの大地震が来た。そしてその時、倒れる物、崩れる物が出たのである。正面玄関の周囲に騒いで居た連中は、屋根の瓦が落ちると言って、広庭の方へ逃げて来た。街の方からは何かが崩れたらしく土煙が上がっていた。湖水の向うの岡谷の方では大きな土煙が見えた、とか言って騒いでいた。 之が 大正12年9月1日の 関東大震災 当日の、諏訪の 俺達の姿であった のである。
家へ帰って聞いたら、母と姉は「日陰の畑」の桑畑の草取り作業をして居たが、珍しい事を語って呉れた。母達が桑に掴まってグラグラして居たら、空を舞っていた小鳥や雀達が舞えなくなって、堕ちる様に降りてしまったと言う。想像もしない現象である。空気も一緒に揺れるのだと思った。
テレビも無い時代だので『東京が 大火災になって、死人が出ている、それこそ生地獄だそうだ』 と 云う話が、ジワジワと 伝わって来た。その中に、
『朝鮮人が暴動を起こして、井戸の中に 毒を投げ込んで 歩いているそうだから、朝鮮人には注意しろ!』 と 云う事も 伝わって来た。
上諏訪の駅前は、婦人会の人達が「炊き出し」の御握りを作って、機関車の周囲や列車の屋根に迄しがみ付いて乗って来る焼け出された罹災民を迎えて居た。
俺達の1年2部へも、小池英次とか小平利夫君など罹災中学生として転入して来た。192人だかで在った同年生が205人に増加したのであった。
岡谷でも下諏訪でも、大きな製糸工場の煙突や倉庫が倒壊したとか云う話がされたものだった。

                           
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116諏中伝統の 矯風会 【時代風潮も顕わな自治】
あの『靴屋サ』の影は、俺達の印象に濃い。俺達の授業時間も休み時間も、体操場入口脇に古い小さな腰掛に掛けて、膝掛けの汚れた大布を垂らし、足台一つに 金槌一丁で 一日中、生徒の古靴を叩いて呉れて居た姿は懐かしい。人の好さそうで、何処か凄味の有る眼付もある愛苦しい爺さんだった。赤銅色と謂うのは、ああ云う顔を謂うのだろうと思う標本の様な顔を艶々光らせて、誰が傍へしゃがみ込んで話かけても、必ず何とか相手にして呉れながら、靴底を叩く手は休め無かった。何百人否何千人のドタ靴直しをして呉れた事だろうか。あの粗末な露天仕事場で、冬は日当りの良い所へ移動しては、あの体育館の付属物みたいに成って居た名物爺さんだった。
そしてその体育館では「諏中伝統」の【矯風会】が取り行われたのだったけ。

【矯風会:きょうふうカイ】は、夜になるのを予定に組んで夕方から開かれる。
全校生徒が体操場に集合する。職員は感知せず。学生の自治会なのである。一年から四年まで、前方から順々に板の間に座らされて、五年生が垣根の様に周囲を立った姿勢で取り捲くから、入場しただけで一年生など縮み上ってしまう。五年生は威嚇の為に矢鱈と柔道着を着てしまったり、必要も無いのに竹刀を杖に突いて、「静かにしろ!」とか、「頭が高けエぞ!」などと怒鳴る度に、柔道着は足をドスンと踏み鳴らし、竹刀をゴツンと床に音させるのである。そして所謂、矯風会の雰囲気を盛り上がらせたものだった。
一名ずつ理由を求められて、皆の全面に出向かせ、その言い訳をさせるのである。その一つ一つは、

「お前は何月何日、五年生が後から追い越した時、帽子を脱って挨拶
  しなかったぞ。どう云う心算か!」
「お前は何月何日、女学生と並んで諏訪湖畔を歩いて居たぞ。どこの誰
  だか、はっきり言って、これからもやるか!」
「お前は帽子の二本の白線幅が広過ぎるぞ。その理由をはっきりさせろ!」

「お前は何月何日の三時頃、五人とボートに乗ったな。その中に女学生が
  居たぞ。諏中の校風を知って居て、態とやったのか!」
「お前の教科書か参考書には女学生の名前がハッキリ書いてある儘だと
  言うが、そのふざけた行為は誰の許可でやったか!」
「お前は時々、上級生が居無ければ、ボタンを外して街を歩くと言うが、
  それは本当か!」
「お前は何月何日、エムボタンを外した儘で外を歩いて居たと聞くが、
  自分に覚えがあるか。無いとすれば、そう云う事を度々やっている
  と云う事になるぞ。はっきりしろ!」

と云う様な調子で、低学年はボタンが外れた儘で居たとか、上級生に行き会った時に挨拶の仕方が不遜だったとか、上級生の下級生に対する女性への焼餅感情のものや、愉快なものばかりであった。
だから返事も、「従兄妹だ。」 とか、「妹と用事に行く途中だった。」 とか、
「全然気が付かなかった。これからは注意します」と云う様な他愛も無いものばかりであった。真っ暗になると、五年生はグルリと提灯など点けてしまって、余分に大声を張り上げたものだった。そして解散は九時頃か、それ過ぎであった。自宅に着けば十一時を過ぎていた。
俺達が五年生の時は、四年生に一人、滑稽ノが居て面白かった。
          ♪ 以下、【諏中時代の思い出】 については、いずれ折をみて、何処かに 紹介の心算。






        ・・・以上、第5部 〔風物詩〕 編・・・おしまい


                   
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