《第3部》
     おんばしら

        〔七年に一度・日本三大奇祭


71、〔深神 山曳き〕  原始林の 雪の有る 笹深い樹海に 踏み込んで居た
俺のように、村の若い衆に仲間入りする事の出来無かった(尋常小学校時代は親方にならずに旧制中学に行ってしまい、中学生活では若衆入りは出来ず、中学卒業すぐ上京してしまった)者にとっては村の風習を語る経験も無し 資格は無いが、たった一度だけ 御柱(おんばしら)の第一頁を参加して観た、幼稚な感覚があるので辿ってみる。
それは、(尋常)小学校四年が終り、四月一日から本校通いの五年生として上級生仲間に入れる春に丁度、御柱があった。その印象・光景なのである。兄に随いて行ったのだと思う。兄は丁度21歳と云う青年の盛りで、行事の主格衆の年頃だったのだ。だから俺を誘って呉れたのだと思う。      
それは「山出し」と云う祭りパートの第一幕の中でも、本当の第一頁である。つまり八ヶ岳中腹の自然林の中から伐り倒したまま放置し、或る程度の水気を取った素木を、御柱祭の第一歩として正式に踏み出す地点である、爼原(まないたはら)の「綱置場:つなおきば」まで曳き出す(引き出す)基礎の、それこそ最初の作業なのである。
先ず夕食を済ませた若衆連は消防手の「ハッピ」姿も凛々しく、真っ暗な夜道を出発するのである。多分、気勢を挙げる祝杯くらいは勿論やっての事だったろう。”下古田”とか”第四部部隊”と云う様な文字の入った「高渠:たかはり」を高々と押し立てて用足場(公民館)の庭を出発するのである。高渠と云うのは直径3、4センチで長さ1メートル程の長細い大きな灯燈(ちょうちん)で、その底の方に太い竹竿の長いノが着いている。中に入れる蝋燭(ろうそく)も、びっくりする程の太長い物を使う。竿の長さは二間(約4m)程あるのだ。
火事の有る場合は、それが「我が部隊ここに在り!」と他分団に誇る為の物であり、統率を執る為の物である。昼火事なれば消灯で、夜火事の場合だけ点灯して、「ポンプ」の先頭に立って気勢を挙げて突っ走るのだ。
下古田区の「区旗」、第七消防分団と云う「分団旗」、その中心に村の誇りの「バレン」。これは連隊旗に匹敵するか、手柄の有った場合は”金筋”と云う名誉ある印の”金ピカ”の一本が加えられるものだった。それに、この「タカハリ」が進むのである。その持手は夫々、勇名の有る人に決定されていくのであるらしい。夜だから、一番目立つ勇ましいのが「タカハリ」であった。
「高渠」四本ほどが空高く掲げられ、その備えはやっぱり「区名」「消防分団名」の入った提灯(弓張り、と謂って芝居の十手の捕り方が差し出すあの型)を持った人を混えた群団が、黒い塊になって八ヶ岳山麓へ向って、20キロの大行進を行くのである。 次から次と 部落を通過して、御柱山へ 御柱山へと、一途に 人の脚は進む。
※ 通称 御柱山は、正式には 御小屋山(おこやさん)と謂い、上社の所有林である。

七つ八つの部落を過ぎた頃、振り返って見てハッとした。
何という美しい、素晴らしい光景だろう。遥か裾野の方から、然も、あちらから こちらから、四方八方から豆の様に小さく、小豆の様に遠く、ゴマ粒の様に細かく、消えつつ 見えつつ 狐火の様に、闇の中に遥かにチラチラ チラチラ、自分の方へ向って登って来るではないか!少なくも十ヶ村以上の村の、その各々の村にある七、八の部落の各々が、詰り100部落以上の青壮年達が今、俺達の此の群団と同じ様に登って来るのだ。壮大と謂うか荘重と謂うか、素晴らしい眺めに眼を瞠ったのだった。
それに気付いてから、時折振り返っては、その素晴らしい光景を楽しみ観賞しつつ、登りに登って行った。そして何処かで休み、何処かで勢揃いの建直しなどもやった事だろうが、それ以外の途中の事は記憶に無い。・・・やがて東の空が白々とし始めた頃、原始林の雪の有る笹深い樹海に踏み込んで居た事で記憶が明るく醒めるのだ。
家人から厳重に支度して貰った脚ごしらえだから、平気で若衆の中に混ってザクザクと、笹と雪と藪を踏み敷き踏み砕いて登って行く。何も無い所でも山を登る事は楽ではないが、一踏み一踏みが、胸突く原始林の笹藪だ。体中汗だくになった。大人に追い付いて行かないと、とんだ場所で、とんだ人達の中に紛れ込んでしまう、と云う事があるので、必死である。吐く白い息が、太く大きく自分にもハッキリ判る。へこたれずに此の大人の群と一緒に動くのだから、俺は相当、鍛練された悪戯小僧だったらしい。
そして笹は全く自分の身長に届く深さになるほど進み登った頃、その笹藪の中に長々と、それこそ文字通り大蛇の様に横たわっていた大木に辿り着いた。これが 我が豊平・玉川2ヶ村が奉仕する「前宮二」の【御柱】なのである。

《大きな物だ!》と今更の様に驚いた。樅(もみ)の巨木である柱の傍に寄ってみたが、自分より遥かに高い。高いと言うのは、その横たわっているその太さである。自分達が幼い頃みた御柱と云うのは、すっかり表皮が剥げ去り、剥け落ちて真の芯だけの御柱だった。それが今は、小枝や苔の着いた御柱だのだ。これが何十キロの道を曳行されて行く裡に皮が剥げ、肉が削がれ、更に骨近くまで痩せて明神さまに着くのである。おそらく、直径など原木の半分になってしまうであろう。その原木だから凄いのだ。
略式の綱を掛ける所だけ造られ、不要の邪魔枝は払われるが、そんな細かい手を加えていない。曳き降ろして行く裡に枝など、すっかり削り取られてしまうし、化粧は「おんばしら」として曳き出される折にされるから構わないのだ。
朝日が原始林の上空に輝き出した。準備は整って、いよいよ曳き降ろす事になった。 「さあ、やれやあ。」 の組頭(くみとう)さんの掛け声で、「金オンベ」 連中が勇ましく揃って、御柱の上に這い上り、躍り上った。
さあ、いよいよ、古木が ”御神木”として、今、此処で 生まれるのである。

※「オンベ」は、御幣(ごへい)の語が訛ってオンヘイからオンベと呼ばれる様になったと想像される。形状は神主がお祓いする時に用いるハタキの様な物だが、一枚一枚をより長くより房々とさせている。本来は、江戸火消が振る「マトイ」的役割や部将が振る軍扇的意味をも含んで、綱曳きの号令・合図 代わりに叫び歌う 「木遣り」の衆が持つ神具。周囲によく見える様に大型である。他の人々も必携では無いが、祭り参加のシンボルとして、片手に持てる ミニ仕様を持参する。)

                   
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72暗黙の掟
旭の輝く深叢に金オンベが翻り、千両の声が張り上げられる。俺の村の五郎サが歌った。後に続いて他の金オンベ衆が声を揃えて後続する。
「金オンベ」と云うのは、村々で「木遣り歌」を競演して、音量、音声、節廻し、声調など、誰でも之は好いと賞讃できる人を二人位ずつ決めて、村の費用で金紙で作った長さ一丈(3m)程の大きな「オンベ」を持たせ、御柱祭り中、奉仕して貰う役目なのである。だから今、この「オコヤ」の神叢域・八場所で夫々美声が張り上げられて、(八本の)神木が生まれているのである。子供ながら神々しいと云う感に打たれたものだった。
此の笹藪の原始林から巨木を曳き出し、平地の遥か向うの「綱置場」と謂う、曳き始める為に装着する「神綱」が置かれている場所まで、この原木を曳き付けるのである。因みに、その綱置場からの本格的な曳行が、正式な【山出し】(祭り)の開始となる訳なのである。 但し、その曳行には 最後まで、或る凄まじい一つの条件が有るのだ。
祭りに移って、綱置場から「本宮一」の御柱、「前宮一」の御柱、「本宮二」の御柱、「前宮二」の御柱と云う順序で次々に、(上社本宮と 上社前宮の 2宮四隅に建てる) 八本の御柱が 曳き始められると、如何なる事由が有ろうとも絶対にその順序を崩す事、つまり言葉を換えれば、後の御柱が前の御柱を追い越す事は出来ない鉄則である。
なぜ鉄則と謂うかとなれば、後の御柱の先が 前の御柱の尻に食い込んだ となると、両曳行者間に 血の雨が降る のが 昔からの”仕来たり”と成って来ているからである。《自分達の御神体が汚穢れされた!》と云う情感になるのであろう。それに群衆心理が加わって、理屈では何うにもならぬ事件が持ち上がる実例が、過去に積み重ねられているからである。
二ヶ村が一本に奉仕しているのであるから、併せて四ヶ村民の群衆心理だ。相当数の理性が在っても、大衆の中には血の収まらない人間と云う者は必ず在るものである。群衆心理の動きは、それが恐ろしいのである。
伝統的な村民性と云うものが有って、何処何処の組合せグループは怖いと云う評判は勿論でる。そうなると、そのグループに前後されたグループは何事も我慢に我慢をする。でも度が過ぎると、中には従順な村民性と謂われる中にだって必ず硬骨漢は在る。それが発火点となると、怪我人が出たり、時には死人も出る 争乱が起きる のである。だから、諏訪の山浦の御柱祭りは 別名
「ケンカ祭り」の異名が有るのだ。

さて、その様な厳格な 曳行規約なり 申合せの有る 御柱祭りに 唯一ヶ所、
『各自勝手の事、追越も自由たる事』とされているのが、この「オコヤ」原始林伐採所から、第一出発点の「綱置場」までの 曳行区間なのである。だから、勇壮な光景が現出するのだ。此処だけはお祭りでは無く、各村若衆の汗と気力の先陣争い、実力争いなのだ。あの超巨大木が、粗略な荒縄と粗雑な結び付けのみで全力疾走するのである!
各々の沢から曳き降ろされた御柱が、笹藪の林中から引き出されると、老人や子供など外して、血気旺んな若集のみの精悍な力の塊で土煙りを挙げて、綱置場めがけて突進するのである。各所に轟く突撃ラッパの勇壮な吹鳴に、若い血は湧きに湧いて迸り散り、一点地に向って燃え滾りつつ突入する。
遠く古い昔の騎馬武者・徒歩武者を混じえた突撃と云うのは、この様なものであったのではないだろか。
さて、こうして凄まじい突撃が開始されると、「深山神域」で御柱に奉仕した「ヨキ取り衆」の”ヨキ”には、再び注連(しめ)を交えた「刃止づつみ」(鞘ごと包む皮紐)が巻かれて肩に担がれて行く。「ヨキ」と云うのは、大木を伐採する時に使用する長柄の刃物で、振り上げて渾身の力で振り下ろす勢いで材の芯に叩き込む様に刃を喰い込ませる道具である。
「ヨキ衆」の任務は、先刻の深山での巨木の調整に奉仕し、綱を結い付ける場所を作り、御柱の姿に仕立てる作業をして、お祭中は常に主導部の直下に在って必要な時に「鞘」を払って奉仕し、終われば大切に鞘に収めて担ぎつつ、祭の行進に随くのである。そして最後の御柱建立の「建て御柱」の行事に、化粧御柱に仕立てて建立する、華やかな、そして重要な奉仕があるので、「ヨキ取り」に選ばれる事は名誉である。大体、棟梁衆の中から気性品性技量などから人選され推挙されて出るのである。

                   
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 ここで便宜上、御柱祭の全体像・概要を示して措く事とする。
諏訪大社の御柱祭は7年に1度、寅(とら)年 と 申(さる)年に行われる。1200年前の桓武天皇の時に始まったとされるが定かでは無い。
諏訪大社は上諏訪市に【上社:かみしゃ】と下諏訪町に【下社:しもしゃ】の2宮が在る。そして上社には「本宮」と「前宮」とが在り、下社には「秋宮」と「春宮」とが在る。
御柱はその4宮の四隅に夫れ夫れ建てられる。従って合計本数は4宮×4隅=16本である。イッチーの部落は上社の氏子であるから、本文は殆んどが上社の御柱の話である。よって此処では 上社について のみの概要とする。尚、日程は常に上社が少しずつ先行する。祭りは3日ずつ、1か月間の農作業期間(田植など)を挟んで大きく2幕に分けられる。前幕は4月頭初に行われる「山出し:やまだし」であり、後幕は5月頭初に行われる「里曳き:さとびき」である。
【山出し】は、八ヶ岳山麓の「綱置場」 から、大社に近い「御柱屋敷」 迄の約12キロの曳行である。途中に幾つかの難所が在り、それが祭りの見どころハイライトとなる。
【里曳き】は 区間が僅か2キロ前後しか無い為に、3日間を掛けて ゆっくりと、様々な出し物などを交えながら進行する。


73、〔のぼり祭り
これからの祭りは、互いに一ヶ月ほどの間を置いて「山出し」祭りと「里曳き」祭りが行われる。先ず 四月初頭に行われるのが「山出し」祭りである。そしてその ”山出し”は、「のぼり祭り」 と 「くだり祭り」 に 分かれる。
ちなみに、この山出しの道筋は、昔からずっと決定されている一本が在るだけで、言い換えれば、参加するのは山麓全村14ヶ村だが、祭事に関連する地域は、その一本の沿道に限られるのである。従って、その沿道の家では7年毎に親戚を招待するべく用意するのである。大きな行事になるのである。
俺の家は幸いと、「山出し」祭りでは目抜きになる 玉川村の菊沢の母の里であり、その沿道に母の姉の婚家「丸屋商店」、母の弟の養子先「丸源蚕種製造所」、そして実家「飾り屋」在ったので、素晴らしい環境に恵まれて見物が出来たのである。
母の実家は 沿道に隠居屋、「丸屋」は 矢張り道を挟んで一方は隠居屋 兼 宿屋、他方が店舗 と 母屋 と云う、素晴らしく御柱祭向きの親戚なのである。家中を空にして、この菊沢へ招待されて詰めるのである。そしてたっぷり見物させて貰えた訳である。
さて では、【のぼり祭り】 とは何んなノか。その原型は若衆が御柱曳行に奉仕する為の昇り行列が、お祭り形式に変っていったものである。つまり、村中で編み上げた曳行綱を”長持”にして(遥か東の高地に在る”綱置場”まで)担ぎ上げる事と、若衆の着替衣装や弁当その他の使用道具を長持にして同様に担ぎ上げる事を、祭り化して来たのである。・・・要するに、綱置場から始まる一本の同じ道筋(御柱街道)を、御柱が曳行されて、八ヶ岳の長い裾野を「くだって」来るのとは逆に、下の方から長持行列で「のぼって」行くのである。故に先行する此の祭事を「のぼり祭り」と謂い、実際に御柱が曳航される祭事を「くだり祭り」と呼ぶのである。両方共に「山出し」祭事と観る訳だ。
現実的には曳行用の綱は前日迄に馬力で綱置場へ運んでしまい、若衆の当日の弁当、飲用水(酒)などは当日、年寄衆か、行列不参加の者達が綱置場へ村から直行してしまって呉れるので、行列を作って持って行く物は何も無くなっている。そこで、お祭り気分を盛り上げる為に、若衆は幾日も掛かって(昼間は田畑の作業をして、夜間に)長持ち箱を作り、適当の重量にする為に、中に石や薪を入れ、三人ごと一組を組んで、毎夜毎夜、昼間の作業の労も厭わず(長持ち踊りの)練習を積むのである。
太い生木の長さ二間(約4m)程の物を、綺麗に皮を剥ぎ磨き上げ、その先にT字にもう一本を組み結んで棹を作る。更に、その中間よりやや前寄りに、長持ち箱を吊るす。そして太い元方を一人、T字の両方へ一人ずつ並んで入り、都合三人で練り(歩き)の練習をするのである。
生き木なので棹だけでも重いのに、ギーッギーッと優雅に撓い、気分の出る音を加える為に重量を加えるのだから、三人の肩にめり込む 重みは 若衆の丈夫な者でないと出来るものではない。
そして毎晩、年寄衆が混って、歌う調子の取り方を指導したり、節廻しの指導したり、担ぎ方の要領を伝授して呉れる事が、暗い田圃道や村中道で、一定時間続けられる。詰りは、やがての日、大観衆の眼が注がれる中を練り歩いても、人に嘲笑われない様には仕上げて措かねばならぬ目標が掛かっているのだ。子供の俺達が見て居ても、その技量は千差万別で、上手な人達ノは何とも謂えず自然のリズムに乗っていて安心して見物できるものだ。そうした本格的な、部落を代表する様な立派な物を2、3棹用意するのである。

                   
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74ふざけ長持ち
そして人足さえ許せば、「ふざけ長持」も作って、観衆を沸かせようと企むのである。子供や女衆は、そう云う長持が又とても嬉しいので、お祭り気分を満喫させて呉れるのである。だから何組かの若衆トリオは、本式の長持箱の代りに、そうしたふざけた飾り物を作って担ぐのである。
本長持には大きな房々したオンベの下に「前宮第二御柱御用」と謂う立派な立札を掲げて、勿体ない様な美麗な布で全面を蔽い垂らし、見ただけでも神々しい長持に仕上げて置くのである。そして三人組は、或る一つのテーマを持ったトリオとして化粧し、変装し、支度されて、各自一本ずつの杖を用意して、脚支度だけは厳重に、一日中もつ様に草履脚絆で装備される。
大体、その沿道を使用せねばならぬ村の人達が此の「のぼり祭り」に参加した。だがその一方、道筋からは遠い 俺達の北山浦の各部落の如きは、この「山出し行列」には参加せずに、専ら5月に行われる「里曳き」の祭りの”練り”に参加する習わしになってしまっていた。
さて、その沿道が参加する行事だが、段々と変化していって何時の間にか、「のぼり祭り」の長持は、本長持を少なくして 「ふざけ長持」を 専ら持ち出す様になって来たらしい。そして、担ぎ手の都合も有ってか、綱長持などは此の行列に組み込んで、面白い恰好の担ぎ手を増す傾向も出て来た。その上に、農家の多い村々よりも、商家の若衆の多い村々の人達が「のぼり祭り」に参加になった為、余計にも力は適当に誤魔化せ、下手が却って愛嬌につながる「ふざけ長持」にウェイトが掛かる理由にもなった事だろう。

それこそ女衆は赤面して逃げ出す様な代物が天下御免と登場して、三人が立ち止まっては「ウェーイッ」と高々と差し上げるのだから、道の両側を埋め尽して居る観衆は大爆笑に沸き返り、目的は十二分に達せられるのだ。
そもそも沿道の観衆は殆んどが、両側の個人々々の座敷に固定された客だので、演出者は単純に同じ仕草を繰り返して坂道(御柱街道)を登って行きさえすれば、責任は充分果たせるのだから好都合である。
よくもまあ、どうしてあれまで丹念に仕上げた?と思われる様なふざけた化粧の数々が、限りも無く登場する。同じ雲助にしても土人にしても乞食にしても土地柄も異なり、考案者も違い、用具その他がみな異なるので、何組出現しても決してダブッた感じを与えず、観衆は夫々に新しい感嘆と爆笑と拍手で迎えて見て居るのである。
腰にぶら下げている緒飾りと言ってよいか諸道具だって、一体何日かかって作ったのだろう?と思われる様な、エロ、グロ極まり無い物を一杯に吊るして振り廻したり、観衆に愛嬌を振り撒いたりして行く。
道々の家々で酒盛りして居る人達は、次から次と出て来るこの行列に、茶碗酒を惜しみなく振る舞うので、行列の動きは益々奇妙奇態劣になって、祭りの沿道の賑わいは、終日華やいで賑やかである。
自分が一度でも若衆仲間に入れる折さえ有れば、もっと筋の通った事が書けるのだが、幼い眼に映っただけの事で終る。
そして、その翌日は本番の「山出し」になるのだが、綱置場からの曳き出しの光景は残念ながら観た事が無い。もうこの体に成ってしまっては再確認は覚束ない。誰かに又きく事にしよう。

                   
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75おんな神・下社の曳行法
成人になって下社(下諏訪町:秋宮と 春宮の 2宮が在る)の御曳行に入って見た事から推してみると(イッチーの部落は上社の氏子)、順序に従って・・・

「メド穴」を改装し、背型を刻み、元綱を確固と締め、その綱に曳き綱、子綱を二本延長していくと、曳き子達(一般の氏子達)は持参した各自の「曳き手」を曳き綱へ結び付けて、皆一同に出発用意をする。「金オンベ」が代わる代わる声張り上げて「木遣り」を叫ぶ。その度に皆「ヨイショ!ヨイショ!」と曳き綱を引っ張る。その裡に潮時を観て「元綱衆」が「さあ、曳いて呉りょう!」と合図する。「デコ衆」が一斉にデコを揃えて御柱の下を左右にゴロンゴロンと始動の弾みをつける。その調子を見、発声一番「金おんべbP」が「木遣り」を歌うと、今度は全綱衆が力を込めて引っ張る。
しずしずと、大蛇の如き巨木が動き出す。動き出すまでは「デコ衆」は両側から御柱を間にして立ち、デコと称する楢か樫の丈夫な生木の皮を剥いだ六尺棒を以て、交互に御柱の底へ入れて、こじ上げ、左右にゴロンゴロンと動かして居て、曳き子衆の曳く力が有効に働く様に援助している。その掛け声は両側交互に「ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ」と血気盛りの衆が、昔の火消し衆そっくりの身支度でやるのだから迫力充分である。
これは、生まの巨木が自身の重みで地面を掘ってめり込み、地球に密着してしまうから、それを防がぬ事にはビクとも動かぬのである。文字通り、テコでも動かぬとは此の状態を謂うのであろう。
下社の場合は町人衆が氏子であるし、お祭り気分で曳行するので、丸一年前に伐採して放置するが、上社の御柱は生木その儘だから、見た目は同じでも重量の差は大きいのである。
動き出すとテコ衆20人近くの、村々の一粒選りの強の者ばかりはサッと御柱の上に飛び乗るのである。鳶職はだしの人達だから凄い。御柱の上に20人程のテコ衆が立ったまま並んで乗ったのをズルズルズルズルと曳き動かすのだから、二ヶ村の人数総動員と云う力は大したものである。
動き始めた御柱の上でテコ衆は手に手に持ったテコを天に向けて一斉に林立させ、「ヨイショヨイショ!ヨイショヨイショ!」と掛け声をかけて進むのだ。
滑り止めに御柱の上部には、先から尻まで×××型の彫り込みをヨキ衆が刻んで呉れて在るが、運送車や人が六ヶ年の間踏み固めた天下の大道を抉り返し掘り起こして進む御柱なのだ。上も下も腹も背も有ったもの物では無い。進行中の地球の表面の加減では、どっちへ転ぶかよろけるか解ったものでは無い。豪傑必ずしも神経が効くとは限らぬ。振り落とされる者、再び飛び乗った拍子に上の衆を突き落としてしまう人。又飛び乗る者。器用な人は身をくねらし巧妙に乗り続ける。そして何かの拍子で御柱は止まる。大急ぎで飛び降りてしまう。予定の時刻が過ぎても予定の場所まで来ていない時、前の御柱との間隔が開き過ぎた折などは「司令部」の要請が出て、デコ衆は動いても上には乗らずに、デコで一斉に御柱の背を叩きつつ、「ヨイショヨイショ!ヨイショヨイショ!」と曳き子の気勢に合せて曳行する。

                   
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76英雄伝説誕生の場    【上社・華のメドデコ衆
「元綱衆」と云うのは、これ天下一の豪の者、御柱祭りには命を賭けて居る様な怖ろしい人達だ。御柱の鼻先の曳き綱の元を御柱の穴に結え着けてある箇所が大蛇が蹲った様な恰好になっている。其処にドッカと座り込んで動かぬのだ。そして、それに続いて「メドデコ」が二本、直径20cmもあろうと云う生木の丈夫なノが、掘り込んだ穴に左右に分かれてカタツムリの角の様に天に向って突き出している。其れに太い針金を混じて作った頑丈な縄を吊るし輪にして掛け、片方に3、4人位の、文字通り荒くれ男達が形相も凄まじく、乗ると言うより、齧り付いて離れない。
※ このV字型に突き出した「メドデコ」は上社だけの仕掛である。下社の曳行では採用していない。故に、上社は男神様なので、この突起は男性の象徴を表わしている、などと謂う説もあるが、別に禁止されている訳では無いから、実際上のコースが狭い関係で使われぬのが実相であろう。
(尚、真冬の諏訪湖上に発生する「御見渡り」現象は、上社の男神が下社の女神へ逢いに行く為に出来る跡だとする。)

「あいつは何処から何処までメドドコに乗り続けた!」と言われれば、後々まで名が噂される程の恐ろしい場所だ。他と争ってその場所を勝ち取る度胸と腕力が必要で、若衆の勇名の轟かせ場所であるのだ。
だから、血気な者に対する心配は、その家族が最も深く憂い、その危険度を一番強く認識している。奥さんが主人を上手く騙して、幼い子供を負んぶさせてしまい、メドデコ乗りを防いだと云う村人も在る。
さて、この「メドデコ衆」は、只ぼんやりぶら下がって楽しんで居るのでは無く、大きな一つの役目も果たしているのである。つまり御柱の本体を絶えず揺り動かして行くのである。重量が大きくなると、一旦静止した物を始動させる事は容易では無い。その始動、即ち、曳き子衆が地球に密着した巨木を曳き出すのに、始動を掛けて呉れるのである。止まっている時は「メドデコ」を左右に揺り動かす事をする。そして動き出すと、御柱の先頭高々と競り上がって、群衆の頭上一際目立つのが、この「メドデコ衆」である。手に手にオンベを振りかざして気勢を挙げて突進するのである。
曳き子連は老人、子供、中老年の村人が奉仕し、各自が店で求めて来た色とりどりの小作りのオンベを片手に高く差し上げながら、声を揃えて「ヨイサ、コラサ!ヨイサ、コラサ!」とか、「ヨイサ、ヨイサ!ヨイサ、ヨイサ!」と唱えながら曳行する。力を合わせると云う事は大したもの。一人一人は、それほど力を入れているとは思えない力の入れ方でありながら、あの生木の巨木、それに大人を30人近くも乗せて、ズルズルズルズルと進行するから妙である。あの曳行綱のみの重量だけでも大したものである。一本の綱に何百人ついているだろうか。勇壮と言う外ない。

                   
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77血の雨が降る ケンカ祭り
俺達の代になってからは、ケンカは人殺しに繋がる祭りだと謂うので、警察は大動員をして、ケンカの未然防止に必死になっていた事を、まざまざと見た。そしてグループによっては、「ケンカ」を仕掛けたくて焦って居ると謂う評判を取っているのが、はっきり在るのである。そして、『警察がうるせいで、ケンカになったら直ぐハッピを裏返せよ。』と云う不文律が若衆には浸み渡っている。
そして実は、その最も怖れられて居たのが俺達の村のグループだと判った。だから、その旗印・目印を見れば、その前後のグループは黙認態勢を取って、胸を抑えているとの事である。ケンカをしようと思えば、全員が祭りの興奮状態に置かれて居るから、幾らでも機会は作れるのだ。最も多い切っ掛けは、前後どちらかの御柱が接近し過ぎ、互いの曳き綱が重なってしまう事態が起った時である。
《俺達の御神体が汚された!》ひいては《俺達が馬鹿にされた!》と謂う感情が引き金となり、そこへ群衆心理がオッ被さって爆発し、遂に大喧嘩が勃発するのだ!だから家でも、「ケンカが始まったと聞いたら、逃げて来いよ。」とは第一に注意される事であった。
自分が此の目で見た一例を挙げると・・・ 警察官が腕を組み合って、後部を前進させまじと頑張っている。村の旗手”某氏”は 決死の眼差も物凄く、あの大きな村旗の棹尻を、警官連中の靴の踵めがけて 突き立て 突き立て、自分は後ろ向きで、俺達の村の綱衆を励ます様な恰好をしながら、頭の中では警官の足を「ヨイショ、ヨイショ」の掛声を叫び立てて、矢鱈めったら突きまくっているのである。その警官が「何をするんだ。」などと間違っても言ったものなら、「それ来た!」とばかりに捌け口を待っていた群衆は警官群めがけて殺到するのはお決まりである。警官は物も言わず痛そうに除けて離れていく・・・
どえらい祭りである事は、この小さな窓だけでも十分わかると思う。

この「集団喧嘩」の練習か?下準備か?村の大人の真似か?は分からぬが、小さい部落と部落の間では、子供同士のケンカをよくやったのだ。遠い敵に投げる「石モッコ」の作り方は、小学校中学年に成ると教わり、河原や山や野原で散々練習する。切っ先の鋭い尖石の、最も効果的な投げ方も伝授される。秋の田圃が片付いた時になると、どちらからともなく、けし掛ける。
最初は低学年の口先の罵り合いから始まり、だんだん村童が集合するに連れて接近戦に移行し、その年のメンバーによって攻め込まれたり攻め入ったりする。最後はどちらかの部落の軒近くまで追い詰めて、親方や高学年連中の肉弾戦になると、観戦の女児群が村人の救いを求めに走る。大人が出て来て、逃げ還ると云う処で幕になる。
俺も、小さい癖に 高学年の中に 好んで巻き込まれて行き、後を振り返れば自分の部落は遥か彼方、間には藪原、桑畑の連続、水田の平原の続くのを見て《若し、形勢逆転に成ったら何うしようか!?》なども時には考えたりして、また時には引くに退かれぬ気分で親方衆の後を追う時もあった。
その代り 時には、親方が組み敷いてぶん殴っている相手、それこそ見た事も無い、他所の村の珍しい顔の人の背中を、怖さに震える手で、声まで震えて「コンチクショウ!コンチクショウ!」と、無意識に何処かで拾って来た石で、殴ってみた事もある。帰り道、親方が、「組み敷いた野郎、食い付きやがって。」と見せた親指からは、白い骨が見えていた事も印象の一つである・・・
ま、ガキの頃からこんな具合だったから 俺達のグループは強かった訳だ。

俺達の幼い頃は、女人禁制であった。女は御柱の綱には手は掛けられなかったものだ。ましてや長々と延びている曳行綱を股いで渡る(横切る)などは絶対に出来る事では無かった。男でも、この綱を股ぐ事は戒められていたのである。

                   
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78難所・穴山の大曲〕     【秘密兵器 登場】
街なかと言うか、両側が民家と云う部落に入った時は、「メドデコ衆」の神経がピンと張り切る。一つ舵を切り間違えると、柱であろうが雨戸であろうが、戸障子など見る間、板塀などアッと言う間に「メリメリメリメリッ」と曳き倒されて行ってしまう。何と言ったって曳き子の綱は、群衆に埋った中を、大歓声の渦の中を百五十米もの遠くを、勢いつけて動いているのだ。「塀が危ない。ストップ!」と云う訳にはいかない。周囲の群衆が騒げば騒ぐ程、曳き子達は励まして呉れると勘違いして愈々力が入ると謂うものだ。
一郷挙げての御神事の奉仕祭での出来事だ。誰に苦情の持って行き場所も無い、泣き寝入りである。沿道の田や畑はもう覚悟の上だろうが、酷い跡に成ってしまう。曳き綱だって道ばかり通っては居られない。御柱は道を通す気でも、カーブになって曲っていたりすれば、本体の御柱を素直に通す為に、その方向に綱を曳かねば動かぬ折は、青垣でも畑でも庭園でも綱を引き込んで、その方向に力を伸ばして貰わん事には、御柱がトンデモナイ方向へ尻を振り、その害の方がトンダ事件を起こす事になる。
「司令部」が常に曳き綱の先頭に立って、諸事の取り仕切りをして居るのだ。
「司令部」とは、村旗を翻し、高梁をかざし、村中の部落旗、消防分団旗を林立して、素晴らしい景観を呈したものである。村長と消防組頭等の人々である。若衆は背に丸く大きく村名が入り、襟に各分団名を染め抜いた消防団のハッピに胸腹掛け、股脚(ももひき)の横に紺地に赤い縦筋の通った粋な火消し姿で奉仕。それも、御柱用として全部新調し、付属装飾品には各自銘々が粋を凝らしたいでたちである。
一般(ヒラ)はハッピの腕に一本筋が走り、部長級は二本、分団長は三本、組頭(くみとう)サマは四本と云う、郷一般お揃いだので又、それが美しい。
御柱道は、長大物が通過するのだから、なるべく直線コースになる様に取ってはあるが、それでも所々難所は在る。何時もの一ヶ所は【穴山の辻】と謂う。此処は文字通り直角に曲っていて、然も其処は村の中心の辻とあって、大きな石の塔が幾つも建っている。道の両側は民家が密集している。
長い綱を引っ張って、その方向に御柱を動かすのが定法だが、それは出来無い。そう云う場合の為に【追い綱】と云う仕掛が有る。本綱とは違って特別の場合だけ使うのみだから、強靭に細めに、然も短く出来ているノを尻に付けて、御柱を挟んで左右に分けて曳く物である。この時は、お祭り気分は抜きで、全員の大人が真剣に取り掛かる。
本綱の方は司令部と曳き子衆のチームワークに任せ、若衆は本綱の根元に注意深く陣取って、舵を執る者と、二手の 【追い掛け綱】の曳き手と なって総力を注ぐ。予定には取ってあるだろうが、此処は相当な時間を食う。大体の態勢の取れた処で、曳き綱を進行方向に延ばし、改めて曳き子衆に綱に着いて貰うのだ。そして此処で登場するのが「木遣り衆」である。

                   
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79金オンベ への 挑戦        【祭りの花形・木遣り衆
電柱の上部や人家の屋根のあちこちに陣取った「木遣り衆」が、一斉に声を揃えて曳き子衆全員に届けと、前後延々三百米にも及ぶ雑踏と騒音の頭上へ向けて呼び掛け、歌い続ける。
但し、普通で(単に)声が大きいなどと云う事だけでは、この場には通じない。練習の時などで、美声だ、素晴らしい、などと云う生易しい声では通用しない。それこそ聞く耳を両手で塞ぐ位の、強い大声量でなくては駄目なのである。ましてや美声の者一人の声では、群衆は綱に手を着けようともしない。あんなキンキン声が?と云う様な、所謂「通る声」が人気を博するのである。
御柱は移動する。その移動する御柱に向って、群衆の天上から声を振り撒くには、なるべく高い沿道の屋根に登らなくては効き目が無い。平常は屋根などへ登ったものなら、それこそ「屋根が傷む!」と言って大目玉を喰う。だが御柱の時は、壁でも塀でも青垣でも庭樹でも構わず踏台にして、ボリボリ、ガリガリと「木遣り衆」が競い登る。それも目星しい家は一日中代わり番子に登り通しである。その訳は、御柱は八本。その一本一本の延長が前後合せて4、5百米に亘る群衆を控えている。その群衆を動かそうと、「木遣り衆」は五、六名ずつ隊伍を組んで四、五ヶ所に分散陣取って、移動する先へ先へと位置を移して行くのである。だから適所と思しき家の屋根は終日踏みにじられていくのだ。特に着飾らせた美声少年などは、お付添いの親御がつかれて生卵を割って吸わせたり砂糖水を飲ませたりしている。
「金オンベ」を中心に、声自慢、のど自慢の人達は皆、屋根の上に駆け上がって、先唱者に合せて斉唱して気勢を挙げるのである。

実は、かく申す某も、四年生から五年生への御柱の時は、村の衆が練習する折、自家の屋根に登る事を許されて(将来の 金おんべ候補者として、村の衆から認められて)、盛んに練習したものだった。夜の星を仰いで、高い暗い屋根に上がり練習すると、同級生や仲間連が大勢、軒下や庭に集って来て、「イッチーしっかりやれ!」と激励され、一級上で「金オンベ氏」の弟さんが遣りだすと、「イッチー負けるな!」とやられて、本当に本気になって来たものだった。まさか中学へ行ってしまおうなどとは思いもしなかったのだから、将来を掛けて少年の夢が生まれつつあったかも知れぬ。

こうして第1日目の 「上り祭り」で 長持行列が昇った 同じ道筋を、第2日目は逆に 「下り祭り」で 御柱が 曳き下ろされて 通るのである。詰り、その以前に、御柱山(御小屋山)から伐り出されて「綱置場」まで運ばれていた御柱は、この第2日目に「綱置場」から出発して、明神さま(諏訪大社)迄の中間にある【寝の神】(今は”子の神”と書く)に全部を曳き着け、八本揃えて注連(しめ)を張り、一晩お休み願って、皆、家に戻る。

※ 現在は観光や安全対策から、寝の神(子の神)地点では簡略な祈祷をするだけで素通りし、その日の裡に市街地まで曳行している。

                   
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80祭最大の見せ場・木落し
山出し祭りの第3日目(最終日)は、「寝の神」で一晩お休みなった御柱を、山出しの最終目標地点である、上社本宮の手前2、5キロにある【御柱屋敷】の安置所まで曳き付けるのだ。但し此の区間には崖あり川ありの最大の難所が待ち受けている。だので、御柱祭りとっては最高の見せ場・最大のクライマックスを迎える訳だ。こうして、若衆も観衆も祭りに酔い痴れる、最高潮の一日が始まるのである。
子の神(寝の神)から本当の人道は、右に向って粟沢の観音様を通り柳川橋を渡って、山浦銀座と謂われる矢ヶ崎商店を抜け、塚原を通って茅野駅に出るのであるが、御柱は寝の神から一直線に下って上川(かみがわ)の大きな崖を飛び降り、一直線に神宮寺に向い、途中、人道を態々外れて田圃の中を競争で宮川の高い石垣を引き上げ、河にザブンと落し、対岸の高い石垣を再び曳き上げて休憩所(御柱屋敷)に安置するのである。
この柳川沿いの高い断崖から転ばし落す所を【木落し】と謂う。宮川の石垣の河を曳き渡すのを【河越え】と謂う。この二場所が、この祭りのクライマックスであり、怪我人、死人がでたり、喧嘩で人殺し事が起きたりした所である。
子の神から木落し迄の道は、今でこそ学校も出来、住宅団地も造成されたが元は「長峰」と謂って、人家が全然なく、畑と山林が両側に延々と続いて所で、「人殺し」だ有るとか「追い剥ぎ」が出るとか言って怖がられていた所で、全く、御柱の折だけの道であった。
子の神から木落し迄は、祭り気分は抜きで、グングン曳行してしまう。やっぱり祭りだから、「曳き子衆」も「メドデコ衆」も 「司令部」も 「テコ衆」も皆、心得ていて、気分を出すべき所は十分出し、気分出す価値の無い所は、ドンドンと走る位に過ぎてしまう。
さて、「木落し」だ。何と言ったって一番怖いのはイザコザ、詰り喧嘩の糸口の出来る事だ。それは大抵、後の御柱の綱の先が、前の御柱の尻部に掛かったとか、掛からないとか云う事で、始まるものである。そこには 村の全責任を負う責任者も居るかわりに、豪の者、「旗持衆」も居る訳である。旗は目印、「村」の象徴である。連隊旗である。つまり軍隊の連隊旗手なのだから強い奴輩である。《もう命も何くそ、やるならやろうじゃねえか!》と云う気魄の、恐ろしい中壮年層が陣取って居るからである。だから村と村との間には、県内外各地から呼招されて来た警察官がぎっしり隊伍を組んで、両群の接触を防御して居るのである。

そして御柱は、第一の山場、【木落し】にかかる。昔は汽車まで止めた。が、最近はそう云う野蛮的な行為はやらなくなった。今は、木落しの崖は、自然か故意かは知らぬが、滑らかになってしまって、凄絶さは無くなってしまった。
つまり、命知らずの若衆と云う者が無くなっての事だと思う。
俺達の頃の崖は本当に文字通りの”断崖”で、その上から、あの巨木がガクンと曳き降ろされたのだ。鼻崖の直下には抉り込まれた凹地が在り、大人が五、六人は 雨宿り出来る 大きな物で、その前が一度わずかの踊り場となり、更に坂が、下の鉄道線路まで降りているのである。そして御柱道は、その線路を横切って、斜め右方の道路に進むのである。
この日は、この絶景を見んものと、見渡す限りの 野も畑も土手も、屋根も樹木まで、それこそ 「地面が見えぬ」 とは 此の状況なのである。よく 甘い汁が地面か物に零れて、一日位経って行ってみると、小石と言わず藁屑と言わず、あらゆる物が真っ黒い蟻の幕で蔽われる景色を見る事がある。あれを人間がやるのだから、謂い様の無い景観だ。何百と言うか何千と言うか否、何万か何十万かと言いたいのだ。唯その「木落し坂」の赤い土の色が僅かに残されているだけだ。
そして、一本の巨木が、断崖の中段に、真っ逆さまに頭部を メ リ 込ませて、その綱が 線路を跨いで 長々と街の中に、曳き子と共に 先方を消している。「メドデコ」の命知らず連中だけが、その頭部に、獲物の大きな虫の頭に、喰い付いて離れぬ蟻の様に、必死で毟り付いて、気勢を挙げている。
「テコ衆」は、綱の曳き具合で、何処へ尻を振るかも知れぬ 獲物の尻の力を警戒する様に、近くを テコをかざして飛び廻って 必死の形相だ。
「オンベ」の波は、長い綱に沿って、掛声と共に揺れに揺れている。
「木遣り衆」は、替り番子に 必死に声を張り上げて、
「皆様ァ〜偏に〜ィ〜イ〜、おねが〜〜いだア〜〜!」 とか、
「もう一息〜だに〜ィ〜い〜、おねが〜いだア〜〜!」 とか、
「力を〜ォ〜オ〜揃えて〜ェえ〜、おねが〜いだ〜〜!」 と 歌い続ける。
巨大な生木が 自分の重みで赤土に メ リ 込んでしまったのだから 容易には動かぬ。坂の上では、後続の御柱が、追い掛け綱を使って坂の頂上に達し、二、三十流の旗指物は、颯々と風を孕んで旗めいて、仰ぐ遥かの上に待機して居るが、下手に綱を伸ばすと喧嘩になるので、グルグル蛇がとぐろを巻く様に、坂の上に積上げて、前の御柱を 威嚇 気味である。
何千人の 必死の力は やがて、その巨木を ズルズルッ、ズルズルと 動かし、やがて鉄路に 木屑と土塊を一杯すり着けて、人垣の中に消え去っていく。

                   
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81クライマックス!!
と、見るや、坂の上に、後続部隊のラッパ隊が、ピカピカの ラッパを 陽に輝かせながら、「突撃ラッパ」 の 吹奏だ。雪崩の様に駈け下る司令部に続いて、血気の若衆と、待ちに待った 曳き子衆によって、二本の曳き綱は スルスル、スルスルと 坂を降り、先刻の御柱綱とは 全く異なった方向に向って、呑気に見物して居た 大群衆の中に 突入して行く。さあ大変!
地面を埋めた 崖坂の真正面に 陣取って、畑の中に 安閑と 座り込んで居た観衆は、青くなって 飛び散って 逃げる。
詰り、司令部が、前者の失敗を繰り返さじ!と練り上げた曳行戦術だ。
「いいか。御柱が落ちる時に、思わず 気を抜いて しまうから、ドスンと落って メ リ 込むのだ。進軍ラッパが鳴ったら、”止め”のラッパの鳴るまで 後なんか見るな。力を、そして、足を弛めずに、曳き過ぎてもいいから、畑の中へ曳き込む勢いで曳いてお呉れ。」 と云う指令だ。
全曳き子衆に 指令が徹底した と見るや、勇ましい進軍ラッパ だ。
続いて、「木遣り」 一声。
「此処は〜アァ〜、木落し〜ィ〜イ〜、おねぇが〜い〜だァ〜あ〜〜!」
あの重い曳き綱は ピンと張られて、元綱近くに居た人々は、中空高くブラ下がってしまって、バラッ、バラッ、バラバラッと振り落された。落ちた人達は直ぐ後から 御柱が落下して来る事が 解っているから、必死で左右の土手際へと這い逃げる。二十米近い場所まで 人が振り落されて、綱は 中天高く ピンと上ってしまって、群衆が 「危ない!」 と 絶叫する中を、御柱の頭が、静かに 徐々に 崖先に ズリ 出して来た。
遥か百米向うの、仰ぐ坂の上へ 現われた御柱には、命知らずの「メドデコ衆」が、綱に 毟り付いて 離れようとしない。元綱に座ってアグラを掻いて居る人は気狂か!と驚く。
ズルズルッ、ズルズルと魔物の様に頭部を崖先に乗り出して来た時の、人々の驚きは言語に絶する。更に驚かすのは、その御柱に「テコ衆」がズラズラと立ち乗りして、天高くテコを揃えて差し上げ、「ヨイショ、ヨイショ!ヨイショ、ヨイショ!」と叫んで居るではないか。ガクンとしたら皆、生巨木の下で擦り潰されるのは必定ではないか!見物人の方が寒気を感じて見て居るのだ。

だが然し、司令の徹底さは流石だ。元綱の方は無人の場が出来ている上に、斜めに引っ張る不自然な力の入れ方にも関わらず、御柱は一寸、二寸、三寸と止まらずに、微かに動き続ける。
見物人の坂の両側が急に騒ぎ散り出した。見ると、下方の曳き手の力不足を計算に入れた司令部は、「追掛け綱」を使っていたのだ。その追い掛け綱に挟まれた坂の上の群衆が、騒然と逃げ出したと見えた途端だ。
首を長く 崖鼻に突き出した恰好の御柱が、下向きに なりだした。「テコ衆」が軽業師の様に、飛猿の様に左右に舞い散った。振り落されたのだ。そして、背からテコ衆を振り落とした巨体は、ガクッと鼻を突いた。刹那、勇猛を謳われる ”メドデコ 衆”の 半分近くが 振り払われた。「アッ!!」 と 全観衆が息を飲み、その振り落された人達を 見張る。
と、更に恐ろしい事には、鼻を突いたと思った御柱は止まらずに、大きな赤土の小山を鼻先で突き立てながら、寧ろ速度を やや速めた儘、尚も下降して行くではないか。 《今落ちた人達は大丈夫か!?》 と、知らぬ間に立ち上がって見遣ると、全員が、逃げる処か、滑り降りる御柱に追い縋って、メドデコの縄に齧り付いて行くではないか!
《一体どうなるのか!?》 ・・・思わず祈る様な気持で 固唾を呑む群衆。然し案ずる要は無かった。逆に 飛び掛かる位だから、下敷きになる様な ”のろま” は 一人も 居無かったのだ。 と、休戦ラッパだ。上手くいった。
全員が 万歳!万歳!で、綱を放して 踊り上がって 成功を 祝し合う。
時間で謂ったら、ほんの僅かだったが、その緊張の長かった事はエラかった。その時にはもう、次の御柱衆の旗印の林立が坂の上に見えている。
曳き降ろした曳綱は道に沿って弧を描きながらも、先刻の御柱の様に延ばして追い掛け綱を利用しつつ、方向を次第に変えながら、狭い部屋並の場所を茅野の街中に 出て行くのである。
現在は、駅の方と連絡を密に取りつつ、列車通過時刻の間を縫って、鉄道を渡る事になったという。まあ、木落しも崖が崩れて低くなり、坂も勾配が緩くなってしまった様で、危険は無くなったそうだ。もう軍隊で無法に鍛練される場も無くなった人達が、レクリエーションにやる祭りだもの、それでいい時代になって来たのだ。さ、又、昔話を 続けようか。

現在も、「下社」の場合は、”木落し坂”(砥川へ落ち込む長い急崖)が確保されており、こと【木落し】場面については、文句無しに下社の方が壮絶・勇壮さで勝っている。まあ上社側も、何とか 昔に近づけ様とは しているらしいが・・・。

                   
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82もう一つの見せ場・河越え
木落しから本通りまでの約五百米ばかりは、特に窮屈な街だが、其処を抜けると再び田圃中の一本道になる。そして第二の山場、曳きっくらの先陣争い、【河越え】が有るのだ。これ迄は、本体はおろか、曳き綱の僅か1ミリだとて相手側に食い込めば、忽ち血の雨が降るが如き、厳格な規範遵守が徹底されて来たのだが、最終の此の区間だけは解き放たれ、許されるのである。

(※御小屋山から俎原(綱置場)の先陣争いは、原木が御神体に成る以前の事として、未だ正式とは謂えないから、御柱祭り唯一の公式競争なのである。)

昔から定められた地点が在って、其処を通過したら、『順序は無礼講で、道は通らず 広い田圃を自由に突き抜けて、好きな場所から 河中へ曳き落として置場(安置場)に曳き揚げてよい!』 との 規則なのだ。
だから、規定場所(スタートライン)を通過した御柱は、司令部の旗印の後を追い、突撃ラッパに煽られて、あの巨木が枯れ木の如く田の中を突進して行く。先陣が渡った河下に飛び着けて、「追い越してやる!!」と云うのが此の見せ場だから凄まじい。
とは謂うものの、六ヶ年間、各年丹精こめて築いた作って来た田の畦が踏み荒らされ、あの巨木の重いノが通った跡は大きな損害なのだ。多分、何かの埋合せはして貰えるだろうが、当の家に成ってみれば酷い話だと思う。

宮川と云う河は、水量はそう多い方では無いが、山から出て来て平野を流れる特徴として、川底が田圃面より遥かに高い”天井川”である。その上、山から来る川は梅雨時には決まって大洪水が有るので、その水が田圃を荒らさぬ様にと、両側に高々と石垣を高積して、大きな、見上げる様な土手が築かれているものである。
その石垣を曳き揚げて河底に落し、川を渡らせて、再び対岸の石垣を曳き揚げて、その陰の 御柱休所(御柱屋敷)へ 納めるのである。だが、難しい。
土面の上で行った先刻の「木落し」でさえ、巨木は如何なる転がり方をするか判らず、一足遅れて転がる方向に狂いが出れば、怪我人は当然であるのだ。ましてや今度は、硬い石垣の上を丸太材を操るのだから、下敷きになる危険性は、今度の山場の方が、尚一層 増すのだ。水量は少ないとは言っても、河幅は七、八十米はある上に、石垣で両側が制限されているから、大人の胸位の水位は有る。曲りの淀みなどは当然、身長を越す深さである。
司令部には経験豊かな老壮年が集って、必死の指示を与えつつ曳き子衆、テコ衆にお願いに走り廻り、声を嗄らして叫び続けるのである。
御柱の通過しそうな所を抜いた(除いた)土手の上は、これ又観衆の渦だ。

メ ドデ コ 衆は、此処でも必死。大体正常位で河に入る御柱の方が珍しい。大抵、メドデコ衆を咥えた御柱は横倒しに河に滑り落ちる。するとメドデコ衆の片半分は水中に没入だ。ズブ濡れになって這い出す。時には舵の取り違えか、曳き子衆の力の入れ違いが有れば、河中に逆さまに伏さって、メドデコ全衆水没なら未だしも、罷り間違えば水中下敷きにならぬとも限らぬ。
綱も曳き子衆も濡れる時があるが、曳き子衆はなるべく濡れぬ様、うまく廻り道して遣って貰い、その間に若衆だけで、言い換えれば消防団員だけで、水中作業は遣って退けて呉れる。ここは技巧の要る場所だので、割合に時間は喰う。でも渡れば其処が終点だので一生懸命頑張るのである。
そして「里曳き」まで一休みである。二日間奉仕した「山出し」で 一先ず幕にし、御柱には 注連(しめ)を張って お休み願い、郷の村々は 一ヶ月の農作業に入るのである。

                   
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83〔祭の後半・里曳き
【里曳き】は五月(初頭)である。やらねばならぬ農事をせっせと片付けながら、若衆は毎晩「里曳き」に街を練り廻す「長持ち行列」の練習に一生懸命である。若衆はグループ毎に相談して自分達の変装の心用意をおさおさ怠り無く練っているのである。長持ちも村中の協力で美麗な品の良い物が作製されていく。
下古田部落で作った「長持ち道中」は五組あったが、俺の兄とそのコンビの義臣さんは女衆に成る事に決まり、姉や母の衣装を借用し、女装に必要な小物は母達が買い求めて来て作っている。「女の髷鬘:まげかつら」も買い、化粧品も化粧も覚えたりして脚絆も美しい女色と云う凝ったものである。誰が考案したものかは知らぬが、このトリオの仮装は素晴らし当りだった。当りと言うのは、いよいよ本番になって女装をして、更に白粉に口紅をつけた上に花笠を着け、姐さん被りにしたら、さあ大変、誰が見ても「これ、男!?」と云うものが出来上ってしまったのである!
地顔を知っている村の衆さえ驚いた位だから、さあ、祭りに出てからの評判は大したものだった。通り掛かる人々、特に若い衆が、「ヤイヤイ、ヤイヤイ!」とただ見惚れるばかりだった事は、俺も、祭りに付いて廻ったので本当に鼻が高く、帰宅しては、その人々の評を家人に話して笑い合ったものだ。「あいつ、すげい美人だなぁや!あれぇ男かや?」と道中じゅう騒がれた。小柄だった二人は女らしさを余分に多くし、二人とも鼻筋通った優しい顔立だった為、その艶やかさは凄かった。その写真は今、宮原に残っている。
兄達コンビは紅い手甲、桃色の下襦袢。そして後棒の人は脚を踏ん張って汗を拭き拭き担がねばならぬので、対(つい)と云う訳にはゆかず、粋な男衆姿であった。又、別の、年下の若衆三人は幾日も掛かって苦心して、徳川時代の「坊刈り」に頭髪を作り、濃い所を頭頂、前髪、両耳上、後頭部に残し、地を剃り上げ、完全な「オボコ人形」に仕立て、大きい涎掛けを着けさせた”大赤ん坊”組が出来た。
こんな風に「のぼり祭り」に行列参加しなかった部落の人々は、精を凝らして様々な「長持ち衆」を繰り出して、御柱沿道の雑踏の中へ出て行くのである。
里曳きの御柱曳行は距離も僅かだし、道も平坦で、難は何処にも無いので、特に話す事は無いが、前宮の四本は前宮の神域に曳き揚げ(行程は1キロ弱)、本宮の四本は其処から更に一部落先まで曳かねばならぬ(本宮への行程は2、5キロ)。
二日目は御柱は神域の四隅に「建て御柱」の儀が行われる。これは特殊な技術が要るので、氏子の中の鳶の様な専門の人々によって、直立にして「冠落し」と謂って、頂上を「ヨキ」で尖らせて清め、行事は終了するのである。

この里曳きの二日間を目当てに、神域の周辺には大々的な見世物の小屋掛けが有る。それは大掛かりなものが来た。
大曲馬団、猛獣使い、曲乗り、珍芸、見世物各種である。曲馬団などは児童保護法など無い時代だから、本当に銭の為には獣以上、奴隷以上の酷い仕込みをした曲芸だ。到底、今の日本では見られぬ様な、女・子供・大人の凄いのが在ったから、今、どんな世界的なと宣伝されても驚かない俺達である。





  ・・・以上、第3部・〔おんばしら〕 編・・・おしまい



                   
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