《第2部》
     行事・風習 編

          〔大正月〕      
48、〔元旦
元旦の朝は、どうしてこう新年という気分になれるのか不思議である。昨日は夕方まで家中で門松から注連縄作り、チョコ作りなどをしたのに、この朝は、薄暗いうちに起きると、何となく気分が清々しく、「ワカミズ」と云う水を井戸の釣り瓶で汲み上げて洗顔すると妙に新しくなった様な気がするのだった。
若水で洗顔して家に入ると囲炉裏に父が座って、母はその向い側のお勝手の座に炊事をしている。
「おとっさま、おめでとう。」 「おっかさま、おめでとう。」
と、手をついて頭を下げる。兄弟姉妹は互いに「おめでとう。」とこっちは好い加減に言っといて、目指す所は「年神様」だ。大急ぎで行ってみると、未だ明けきらない上座敷には、大根と釘で作った台座にローソクが立てられて灯っている。夜、俺達が寝てから飾った御供物が一杯上っている。
両手を突いて頭を畳につけて御参りして、ホクホクしながら御膳の上や床の間一杯に飾って上げてある物を眺める。
イの一番に待ち望んでいる美味しい御供物は【串柿】だ!お正月だけにしか貰えない唯一の正月お菓子の一つである。お菓子など種類も無し、百姓屋では平常、そんな物、買っては置かない。いつ行ってもお菓子の有るのは、小学校の先生をやっている登君の家だけで、村で評判である。
串柿一つ 貰えれば、それこそ 大したものだったのに、正月は 凄い。五つも
ズラリと串刺しになったノが、横に四列、高さ五重になったノに縄が掛かってギシッと締めてあるではないか。その重量感のある、豪勢と云う容態の塊を見るのが、何とも言えない楽しみであった。
一つ取って小さい皿に乗せて珍客に出す御馳走となっているのに、この朝は父の気前は大したものだ。ごちょごちょと床前に嬉しそうに固まって蠢いている子供達の所へ来て「ほれ。」「ほれ。」と串ごと丸々一本ずつ渡して呉れるのである!とても大きな宝物を貰ったようで無性に嬉しかったものだ。
他にも「みかん」など珍しい品物も色々あったのだが、何と言っても「蒸し菓子」より高いと謂われる「串柿」を一度に、こんなに入手できるのは三百六十五日のうち、この朝だけなのであった。
そして大急ぎで下駄をはいて、その新しい感触を楽しむ。足袋も、真新しいノを母が「年神様」の前で、店のレッテルや仕付け糸を解いて、手渡して呉れるのを又はいて座敷を飛び廻る。
「お雑煮」が出来たぞ、という合図に行ってみると、外が黒く中が真っ赤な椀に、ほやほやと「コ」(昆布、人参など野菜や鮭などの具)の一杯乗った煮餅が入っている。大きな箸を持って庭に出る。
「お松さま」と呼ばれている昨日までに飾り付けた門松の「おやす」(後出)の中へ、上手に千切ってお供えする。姉が家中の膳を母の勝手の座を中心にして半円形にズラズラと並べてくれた各自の座に着く。
熱い雑煮をを吹き吹き食べる。いい味だ。いつもお菜(野沢菜)くらいでの御飯だけを食べている生活では、素晴らしい御馳走なのだ。
昨夜は、大きな鮭の切り身で【年取り】の御馳走。今朝は黒豆や人参やソボロ昆布、竹輪などが一杯入った雑煮餅だ。
腹を叩いて「へい、へいらねえ。」と、そっくり返って膳をしまう。
「おお屋のおばあに、おめでとう ゆって来る。」と飛び出す。目的は新年の挨拶ではなく、「お年玉」が目当てなのである。
「おばあ、」「おうイチ公か」「しんねんおめでとう」「おう。おめでとう。」
用意してあった紙包みを呉れる。目的を果たせば後は用は無い。大急ぎで飛び去って、家の木戸へ来て、早速紙包みを破いて見る。慌てて其れを裸で掴み、飛び上がって小躍りしながら家へ飛び込む。
大急ぎで学校の支度をしなければいけない。他所行きの着物を着て、袴をはいて、新しい足袋に新しい下駄を履いて、ぞろぞろ学校へ学校へと子供行列が続く。新年の朝日がキラリと輝く。この朝は十時までに学校へ着けばいいので、遊びに行くようなものだ。
「年の始め」の式歌をうたって、「地紙」の形をした甘い懐かしい味の食パン(菓子)二個入った袋を一つずつ先生に手渡されて、遊びながら帰って来れば、家ではお昼の餅を焼いている所である、

                           
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49年の暮れ
暮れの二十九日は”苦餅”、三十一日は”一夜餅”と謂って嫌ったが、(その両日を除いて)正月に食べる餅が何日も掛けて搗(つ)かれ、四角に切られて大きな箱に詰められ、凍る(しみ↑る)のを防ぐ様に布団に包んで暖かい寝部屋の隅に置かれた。
門松は、家の持山へ行って、三階か五階に枝の出張った若松を見つけて伐って来たり、お飾りに使う松の枝を沢山採って来た。
門口の一歩外れた正面に新木を削り、白木の松杭を打ち込み、すっきりした大きな三階松を2本建て、その間に注連縄(しめなわ)を張り、白い切絹紙を垂らすと、いかにも神々しく見える。持山の無い家は皆、村山へ行って枝松を貰って来て門口に打ち付けたり、曲っていても我慢して大きい枝松を飾った。山の無い家で軸松を建てれば、盗品と云う事は村中で直ぐ判るから、縁起の正月は滅多にやる人は無い。だから庭に主軸の有る門松の飾れる家は、そう幾軒もは無い訳である。三十一日は一夜松(一夜待つ)、二十九日は九松(苦待つ)と謂って之も嫌うので、大抵は三十日に飾ってしまう。
そして三十一日は・・・母姉達は、「お年取り」の御馳走と元旦の朝の用意に俎板の音も忙しそう。食器や御膳など、平常は使わぬ祭事用の道具出しに、土蔵との行き来に慌ただしい姿を見せている。父や俺達は、各部屋へ飾り着ける物を作る。まず「おやす」だ。そして「おしめ」だ。(原本は挿絵入り)
【おやす】と云うのは、正月中の御馳走を神様に差上げる為の、藁で作った入物である。作り方は、二本の藁を十文字に組みながらよじる。その二本毎を組んで一方は下へ、一方は横へと次々に編み足して行くと、上辺が一本の綱状で、その綱から下へ下りっぱなしの藁のさがる(相撲取りのサガリの密度の濃い様な形体の)横長の物が出来る。それをクルリと円筒にして、両端を編み閉じ、下方を結び付けると、円錐型の筒状の入物に成る訳である。
その「おやす」は門松の中程へ対に結え付ける。門松二本の間は白木の新しい横棒でつなげ、その下へ特製の大きい注連縄が張り渡され、大きめに作った「ご幣」が白く美しく清々しく吊るされて元旦を待つのである。
【おしめ】と云うのは、綺麗にしごいた藁で、少し長めの縄の様な物をナウ(藁を手の掌で縒り合わせる事)。そして、その途中途中から二本の藁を抜き出る様に三ヶ所作る。そして最後をナイ締めてしまう。そして三本の抜き藁と、ナイ始めとナイ終りの二本、全部で五本を合せると、丁度テニスのラケット型の(中に三筋通った)藁細工が出来上る。その柄(元)を別の藁で締めると完成。
それに紙のご幣を挿し込み、枝松を一本添えて出来上がり。その「おしめ」を馬小屋、便所、味噌蔵、井戸端と全部の室毎に、釘を打って吊るす。そして「年神様」をお迎えする上座敷には、天照皇太神宮の軸物を掛けて、特別製の大きな「おしめ」に大きな枝松を付けて、床の間の中央に飾り付ける。

                           
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50二年詣り〕 (モチ鍋の匂い)
明神様の祭には幾つもあった。先ず二年詣り、四月の酉(とり)の祭り、七年に一度の御柱(おんばしら)祭りである。
(ここに謂う”明神様”とは・・・上諏訪に在る諏訪大社(上社:かみしゃ)を指す。下諏訪にも在る(下社)が、父・イッチーの山裏地方からは「上社」の方が近い。)
二年詣りは、12月31日と1月1日の間の時間帯で、一回お詣りする事により、一度で二年分のお詣りが出来るのである。どうも大きく成ってからの”二年詣で”と、幼い折の”二年参り” が 混んがらがって しまっているが、大きく成ってからの二年参りは、歩く方が主で濃度のある記憶は無い。幼い時の二年参りで一つ残っているのは【餅鍋】であった。連れて行って貰ったのは父だか兄だか分らない。ただ、あの座敷の中の雰囲気だけが印象に有るのだ。
電燈の無い時代の夜歩きは、全て”闇歩き”である。道で行き会えば黒い影に向って互いに「コンバンワ」と声を掛け合う。その声で相手を判断して、次を話すか捨てるかの決心をして擦れ違う。村内だので皆、声で何処の家の誰と云う事は判然と分かるのである。月の無い晩でも少し歩いていると、全く差し支えなく歩けるものである。提灯つけて歩くなどと云うのは特別な人で、普通の者は無灯で、どんな遠くへでも出掛けて行く。
だから、村から明神さま迄は15、6キロしかないから、その位の時間を自分の脚力と相談して家を出る。途中に用事の無い限り、大体似た時刻に家を出るから、どんなに暗くても 路上は黒い動く人影と 下駄の音と 語ろう声で、前後して賑やかである。家を遠ざかるに従い、近郷から明神様に向う人達で 次第に賑やかになっていく。
山浦の銀座・「矢ヶ崎」に出ると、北山浦、南山浦あわせて六ヶ村の人々の足が集まるので、もう夜とは名ばかり。店々は真夜中で元旦を控えているので、戸は閉めてあるが、話し声と 下駄の音は、そして 人と人と 触れ合いの態は相当のものになっていく。

茅野駅を抜けると、もう雑踏と云う状況になる。寒天屋(てんや)街の「中河原」に出る頃は、もうすっかり夜の祭りである。気の早い人はもう縁起物を担いで帰って来る人もチラホラする様になると、”前宮”はもう1キロばかりだ。
道は左側に石垣が見え始めて、前宮の大樹林にかかる。前宮の燈明は見えるが、丁寧に左側の階段を昇って参詣する人は、そう多くは無く、大抵の子連れや家族ぐるみは柏手うち、遥拝で済まして、もう4キロ程先の”本宮”目指して進みに進むのである。
暗い田畑と山林に挟まれた道を進むうちに、「神宮寺」の部落へ入る。もう近在の人々で、今年分の参拝を済ませて家に帰って一休みして、来年早々来る段取りの人々が戻って来る。本宮1キロほど手前になると、所謂ごった返しの混雑である。もう夢中で家人の手に掴まって、只々足を踏まれない様に気を付けて、歩きに歩くのみである。持っている物を落しても、下駄が片方ぬげても、それは拾えるかどうかは保証できない程である。
二の鳥居を通過するともう、縁起をチャラチャラ音をさせて帰って来る参拝者が混雑を賑やかにして呉れる。そしてやがて、両側の飴屋さんの店舗が明るく見え始めて、雑踏はいよいよ繁くなって来る。
休み茶屋の大きな家を右手に仰いで大鳥居に近づく。御洗水で形ばかりの口を漱ぎ、一の鳥居の階段を通過する。社篝(かがりび)はあちこちで大きな焔を上げて燃え、その周囲に黒い人垣が蠢いている。長い渡り回廊を互いに体を擦り合わせながら、歩くと云うより段々と自然に移動されて奥へ進む。
ここはもう一方通行に制限されて、一年目の参詣の済んだ人々は遥か下に見える神楽殿 周囲の闇に 真っ黒に波うっている。
拝殿入口の歌舞伎門では出入両方の客の押し合いで大混雑だが皆、神妙に押し黙って静かに揺れ動きながら、吸い込まれて、吐き出されていく。
やっとの事で拝殿の広場に出る。右左にに燃え立つ大篝火の火の粉は、真っ黒い大空へ高々と吸い込まれて昇り、何とも言えぬ神々しさを体に感じたものである。父(兄)の手にしっかり掴まって拝殿近くまで行き、適当な所で諦めて、拝む。何と祈ったかは知らぬが、心を凝らして拝んだものだったろう。
楽しいのは、これからである。

拝殿を出ると、今度は直ぐ真下に見える広場へ石段を注意して踏みながら降りる。大きな二本の御柱(おんばしら)が篝火に浮き出して宙天高く闇に頭を隠している。頭上に、回廊を渡って行く参拝者の下駄の音の雑踏を聞きつつ人混みを縫って、大鳥居に向う。杉の大木の闇の黒い下を、やっと潜り抜けて境内を出る。茶屋に行く。
見渡す屋内は先客が座敷一杯に素晴らしい臭いを漂よわせて食べて居る。
運んで呉れた皿の物を鍋に入れ、背中から降ろした風呂敷包から白い切餅を出す。此処は相当な金額を払うらしいので、誰でも入ると云う訳では無い。大部分の人達は闇に佇んで雑談に花を咲かせて時を待つのである。
葱と肉と餅が煮えて、この行一番の頂点と云う場面である。これはもう小学校も低学年の内の様な記憶である。友達と連れだって来た頃は、こんな所へは寄らず、軒を列ねる飴屋の光景を眺め歩いて時刻を待った覚えがある。
食気を満たして心を豊かにして居ると、やがて、社篝(かがりび)の奥から越年の大太鼓が鳴り響いて来る。一番の功徳は、この大太鼓の音を中心にして、拝み続ける事が、真の二年詣りだと聴かされ、長じては、それを目論んだものである。茶屋を起って再び新年の拝殿に向って拝みに歩を進めるのである。真夜中の参拝である。縁起物を担ぐ人、飴屋は大賑わいである。
一枚の白飴は直径10cm程の円形で、厚さ2、3mmか、それが10枚一包みになっていて一銭の赤銅貨一個だったような記憶だったが。
途中、舐めながら歩き帰る飴を一枚くらい出して、後は風呂敷に包んで首ったまに括り付けて帰途につくのである。
家では、除夜の鐘を聞いたあと茶を飲みながら、俺達が帰るのを待って居て呉れるので、一緒に語り、そして床に入る。もう今朝は正月なのだ。一眠りすれば、「おめでとう」を言って、お年玉が貰えるのだ。

                           
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51ごねんしゅうまあり
親戚同志は「ご年しゅうまあり」(御年始廻り)と云う事をする。誰でも好いから又、幾人でも好いから、都合のつく折に出掛けて行って、新年の挨拶を交し、御馳走になって帰って来るのである。
「切り餅」なら20切位を新聞紙に包み、何か添えて持って行く。行く人数や、泊って来る予定やら 色々考え合せて 適当に持参して、「お呼ばれ」に行き、ゆっくり歓談して帰るのである。
これは年中行事の、そして「お義理」の第一番と云う訳である。珍しい物を買い求めて置くのも、美味しい御馳走を沢山作り溜めて置くのも、そう云う不時に来る親類衆を持て成す用意である。特別の用事の無い限りは、小正月までの間に大体すませるのである。
但し、一、二、三の「三が日」のどれかが、その家の主人の生れ年の「エト」と同じ日に当たれば「年日:としび」と謂って、都合上、前年の内に予告しておいて、親類中を一斉にお呼びして”お御馳走”を済ませる習慣が有る。詰り、一日が「子:ね」、二日が「丑:うし」、三日が「寅:とら」の日だとする。親類の中の誰か主人が、子年生れか丑年生れか寅年生れだと 年日になるのである。
この行事が有った為に、今考えて一番うれしい思い出は、従兄弟(いとこ)同志が皆んな本当に従兄弟なんだ!と云う近親感が持てた事である。従兄弟が死んだ時、一番の大切な客は「従兄弟衆」と謂って、特別待遇をする風習が有るが、これは当然、関連づいた大事な事だと思う。
あの時代は、寄れば、そして複数集まれば、然も庭の使えない時期ともあれば当然、遊びは集団親睦の最も素晴らしい「カルタ遊び」が持たれる。テレビがあって各自離れて勝手に楽しむのとは違う。
「いろはカルタ」であれば、全員一本の神経に統一できなければ出来ぬ事であり、我がまま言っては遊べないのだ。「合わせカルタ」ともなれば、もっと各人の間関係が近しい触れ合いに為らざるを得無くなり、やっている裡に相手の人柄まで感得してしまう。「坊主めくり」にしたって勝手は許されぬ。規約を破ったら成立たない。「家族合わせ」などは、本当に人柄まるだし処か、血の環りの善悪まで読み取られてしまう。そうして、相互に忘れられない親しい印象が集積されて成長して行くのだ。
俺は菊沢が母の実家であり、その菊沢区内に母の兄弟が在るので、正月は幾日も泊り続けて遊び、本当にこの従兄弟達は今だに懐しいものである。

                           
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52大正月
大正月(元日〜七日)は、色々の「年とり」をまじえていく。”蟹”と云う字なのか「かに」と4、5cmの紙片に書いて、新年の「おしめ」並みに張って祝う「かに年」や、「いわし年」は鰯の頭部だけを串に刺して、これも同じ様に要所に飾り付ける「鰯の年とり」が有ったっけ。何日だったか、そして家人は何を食べたのかは、のん気過ぎて覚えていない。
一月七日が「七日正月」で、これが正月の一区切り。この日の「お松様」への接待が終ると門松を取り外し、家内の祝い飾りを全部はずして、まとめて村の中央の辻へ持って行って積み上げて置く。これは小正月になって子供達が、粗末にしない様に「お焚き上げ」をして呉れるのである。
こうして「大正月」が終るのだ。各自家々で夫々の生活に入る。その間にも「ごねんしゅう」に来る親類もあり、又こっちから行く場合だってある。いずれにしても冬籠りの生活であるから、一日位どうこう言う事は何も無いから、楽しく迎えて歓談を交わすのである。そして一年中の出来事の報告や情報交換や混み入った家庭事情の打明け話、さては嫁取り相談、病人の心配など、血の通った親類ならではの親睦の懇親会の場になるのである。
そして学校も、その村の諸行事には積極的に参加して、村の習慣に合致させて休み日を取って呉れたものである。昔は村にある鎮守様ごとに祝日が異なっていたので、その都度、校長先生も、村長さんも、その部落へ出張してくれた。そして学校もその部落の為に休業にして呉れたので、秋になれば休日が幾日も有ったものだった。

                           
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          小正月

山裏独自のどんど焼き諸風習
 (註) 小正月は15日だが、俺の村では【どんど焼き】は13、14、15 の三夜(三回)
     行われた。それに付随する行事も三様であった。


53どんど焼き(1)  【その準備】
小正月などは勿論その休みになったものだ。子供達は12日迄の間に、その(小正月の)用意をするのである。
村の辻には「番屋」と言って、戸も障子も無い、二間(約4m)四角の分厚い板で囲った「番小屋」が在る。在ると言っても「下古田」では俺達の部落だけだった。他の2部落は其れが無かったので、何事も小じんまりと型だけに終らしていた。俺達の番小屋は、三方板壁、辻に向った入口には二尺五寸(70cm)程の前壁(敷居)が在って、地面からガサガサ這い込めぬ様に成っており、皆そこを股いで入り、中は風も吹き通らず外部の塵も入らない。床の板の間の中央には炉が切って在るので、誰か「炬燵やぐら」と「炬燵布団」さえ持ち寄って呉れれば何時でも炬燵が掛かるのであるから、冬は、誰かが、その用意はして呉れてあった。その「番屋」の在る「辻」が子供達の集合場所、即ちどんど焼きの会場となるのである。
12日に村の役人様のお許しを貰って、大きな松の木を組み立てる。上部の枝は伐らずに青々と付け、その下部の枝は全部きれいに払い落して、三つ組みにしっかり建てる。高さは大人の背の二倍程の三角形が出来る。その所々に横の桟を三段位こしらえて、頑丈に組み上げる。
その後、今度は、村の竹を作っている家に行って、祝いに使うと言って3、4本、高さ4、5mの竹を譲って貰って来る。

54
どんど焼き(2)  【厄祝い(厄払い)
【13日】の朝・・・村中の子供達・一年生から高等科二年生までの男子全員が参加して「厄払い」巡りを慣行する。先ず大太鼓を太い棒に通して吊し、力のある高学年生が二人で差し担ぎにする。チビ達は大竹5、6本をユサユサと爽やかな葉ずれの音を立てながら交替で重そうに担ぎ、行列を作る。親方は、役人様から作って貰った横閉じの手帳を持って、行列の殿りに重々しく随いて歩く。子わっぱ達は大はしゃぎで後になり先になり、ころころ嬉しそうに、親方の指示する家に入って行くのである。子供連中の目星を着ける家は、昨年中に赤ちゃんの生まれた家、昨年中に嫁取り・婿取りした家、又は昨年中に何か慶事の有った家である。他の家々は”一般”としてある。一般の家からは、下さるだけだが、目星しい家からは大きく”ねだる”のである。
その場合・・・先ずユサユサユサと竹の葉擦れ音を立てながら、細粒の足音がゾロゾロ。すると大太鼓が、付き添って居る叩き手によってドンドンドンと打ち鳴らされ、皆一斉に、「祝っとくれ〜ッ」と門口に進む。
木戸の長い家は遠くから賑やかである。「祝っとくれ〜」「ドンドンドンドン」が繰り返されている裡に障子が開いてお施しが出る。親方の所へ持って飛んで行く。親方は記帳する。処が子供も、村の若衆に”穴蔵”(後述)などで散々、悪知恵を付けられているから、若衆なみの生意気な事も言うのである。
「ヨメさま、居ねえだかえ?」 すると 仕方ない。若い嫁さまが、恥しそうに出て来て、顔赤らめながら縁側に手を突いて、「よろしくお願いします。」 と言う。
すると、豆の様なチビが、「ヨメさまからも 貰れえてえなあ。」 と ぬかす。
慌てて嫁さま、中へ引っ込んで又、包んで持って来る。障子の中では家人達が何かざわざわ言って居る声もする。
家によっては、目指して来たのに一般並しか出さぬ家も在る。すると、「祝っとくれ。」「ドンドンドンドン。」を何回でも繰り返して居る。うるさいやら可笑しいやらで根負けした家人が又、ちょっぴり色を着ける。それでも、その合計が余り少ない時は、親方は腰を上げない。子わっぱ連はココゾとばかり盛んに気勢を挙げる。根負けする家も在れば、中には、子供の方で根負けして退散する家も在る。
俺の”お年玉”をねだる「おお屋」のバアさんは、平常も子供をからかって口をきく婆さんだから、面白半分に子供を意地らかせる。ガキどもをいじくりイビる事を唯一の生き甲斐にして居た節さえ有るバアさまだから中々に手ごわい。
包み紙を開いてみたら何と「穴あき銭一枚」しか入っていないではないか。親方は吹き出してしまった。「もう一枚ねだれ!」と司令が出る。散々騒がせた後、真っ黒い”おはぐろ”の歯を大きく開けて笑いながら、「うるせえ野郎共!ほれ!」と又包紙。更に一厘きりだ。散々野次ったり騒いだりして、こっちがすっかり音を挙げた頃にもう一枚・・・詰り、三厘ねだり取ったきりで終幕となった。それ以来「三厘ババア」と異名を取った笑い話がある。

                           
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55どんど焼き(3)  【燃やし小屋作り】
こうして集まった金は、親方衆から 「ソーデーさま」(総代様)に 渡される。
辻の番屋の横には前日迄に各戸から奉納を仰いで子供達が集荷して来た、【燃やし小屋】造り用の「焚き物」が山と積まれて在る。「桑ぜ」「豆殻」「雑枝」「その他」いろいろの薪類である。
総代さまと親方衆が矢ヶ崎の商店街へ菓子買いに行った隙に高等一年生が先導者になって、どんど焼きの為に燃やす「小屋造り」が始まるのである。
村の勇ましいおじさんは「道祖大明神」と云う幟を見上げて言う。
「お前だちなあ、火が此の幟を越すくれえに成りゃあ、オレ、おごるぞ。」と言って励ますだか扇動するだか判らぬ事まで言う。それ等の言葉を聞けば、みんな一層元気付いて、如何にして此の【どんどん焼き】を素晴らしい大火焔に仕立てるかと工夫を凝らすのである。
火勢が真っ盛りになった頃に、最頂上から真っ赤になった火の束が落下すると、その火の子が、下から昇る焔に煽られて宙天高く昇る事は、毎年見ているのだから、一体どの薪の束を最頂上へ、程よく結え付けるかに拠って決まるのだ。針金などで強く結え付け過ぎると、火の束だけ上に取り残されて、最頂点が過ぎてからバカの様にバラバラと落ちて来るし、弱い縄で結えると、火焔が最強にならぬ裡に落下して来て、上昇が思わしくないのだ。難しい。
そうなると、何を、どれ程の量で、如何なる順位に積み上げるのが、焔の立ちを最上にするかの研究が大切なのである。だから高等一年衆の頭脳の加減で大体その年の火焔の凄まじさ、見事さは決まってしまうと云う処だ。
内装の詰めに苦心を尽してから、外装は景気をつける「音」や「閃き」の工夫である。「音」の主役は何と言っても”青竹の節の弾ける音”が一番だから、「厄払い」に担ぎ廻ったあの大竹を大切に三晩分(どんど焼きは三夜連続)に分けて置いて、使い分けるのである。音の二番は豆殻の弾ける音。そして、「パリパリパリッ」と云う閃光には、青松葉と藁の軽いノを仕掛けるのだ。
散々の苦労作が終った頃、近くの家の軒下を借りた親方衆の”菓子配り”が始まる。大太鼓を打ち鳴らして村中の女子供をも呼集する。子守姿の女子達(あまんとう)が菓子分配所に来て、小さい袋に入れた何がしかの「おごうふ」御護符を頂いて帰ってから、男子(こぞうたち)に学年順に呼ばれて分けて貰うのである。僅かな物量だが嬉しいものである。

                           
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56めーだま繭玉)〕
村では、雪の降る前に早々と野山を探して枝振りの好いネコヤナギ : 猫柳、モチ柳の大きなノを選んで採って来て、池か用水に漬けて枯れぬ工夫をして此の日まで蓄えて置いたのである。そして2、3日前までに【マユ玉】を作って、この柳の枝一杯に下げて、座敷の一隅に下向きに下げて小正月のどんどん焼きの日を待っていたのである。
「メーダマ:繭玉」と云うのは、この年一ヶ年の豊作を神に祈る為のものであるから、一番多い形は「稲の穂」と云う物で、頭は太円く根元にゆくに従って細くなる形である。又、名の所以となっている文字通りの「蚕の繭」に似せた楕円形。それを幾分デフォルメして中央を少し凹ませた物。その他、長細くして中間を三ヶ所くらい指で凹ませて豆を型どった「ササゲ」、稲穂型の下部を鋏で三ヶ所程切り込んだ「茄子」、楕円形の中に何か字を入れた「小判」、後は鳥害を防ぐ意味で「鳥」の形を作って焼き殺すんだと祈る物・・・様々な物を皆で楽しそうに語らいながら作るのは嬉しい光景であった。
母が大きな木鉢の中で米の粉を熱湯で練り上げて、適当な固まりに千切って呉れるもので家中で作るのである。幼い児のノは、作って捻って工夫している裡に手の汚れで真っ黒になってしまうが、母や兄姉達がニコニコしながら仲間に入れて呉れる。年の近い兄姉が「こんな汚ねえヤツ食えねえぞ。」と言っても皆でかばって同じ中に混ぜ込んで置く。
出来上ると父が「セイロ:蒸籠」で茹で上げてくれる。それを冷まして、いよいよ枝先に差していくのである。相当な重みになるので床に届く程のたわわな光景になって、家の中が賑やかに華やいでくる。親類から依頼されて予約された分も作るのだから可也の本数になる。
この行事の行われる部落は、山浦広しと雖もそうそう矢鱈にあるので無いから、菊沢の従兄姉達は、この小正月が楽しみで「ごねんしゅう」に来て泊っていくにであった。
装飾用の大枝は、それは美事なものである。四方八方に垂れた分枝に一杯である。但し、辻に持って行って焼くには、そう拡散した物は適切で無い。柄の部分が出来るだけ長く、穂先はなるべくまとまった形に成っている物が好い。だから其れは、山野から採って来る際よく枝振りを選んで伐り取って来る必要がある。ただ漠然と伐って来ても、良い枝は採れないのである。

                           
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57どんど焼き(4)  【第一夜
子供達は、頭の張りっこだの、陣棒抜き、棒ベース、又は番屋内でカルタ取りなど散々やって、村中から集まった門松、注連縄、小松類の今日の分は小屋に使ってしまったので、あと二晩用に残した分(焚き物)をすっかり整理すると、夕方早く自宅に帰り、早夕飯を済ませて辻に集合する。すると・・・
村中からは辻にメーダマの枝を担いだ人達が小屋の周囲に一杯つめかけて来て居る。時間を見計らって親方は子方に司令を出す。大太鼓をドンドン叩いて皆声を揃えて呼び掛けるのである。(どんどん焼き:どんど焼きの名の所以かも知れぬ)
「メーダマ、ヤケーコイヤーイッ」:(繭玉焼きに来いやーい!)と。何回も何回も皆で大騒ぎすること約二十分もすると、高一年生か親方かがマッチを持って小屋の底部、奥深い所に点火する。
真の闇の中、人々の顔と立姿の上方に薄っすらと白い繭玉の枝が見え出して来る。と思う間も無く、燃えるべく作った小屋である。周囲の人の輪をクッキリと浮かべ出して来る。燃える音も繁くなって来る。
燃える態を見たい人々は辻を埋め尽し、三方からの枝道の向うまで一杯である。もう熱くて近くでは見ては居られない。人々の輪は次第次第に大きく拡げられていく。火柱は、その都度太くなっていく。竹の弾ける音は勇ましい。時折、見所作りの為に上載せした「細薪」の火の粉の束がザッと転げ落ちる。真っ赤な火の子の群が渦を巻いて沖天に華々しく舞い上がっていく。群衆から思わず、嘆声が出る。
もう、辻の小屋を取り巻いて居た人の輪は、川端や人家の軒、三方の道の方へ後ずさりして、なお顔を袖で蔽って燃える小屋の熱気を防いで、袖の下から覗き見する恰好で眺めて居る。竹の節の割れて弾ける音、ザーッと舞い上がる群れ火の粉!!
だがやがて・・・徐々に火勢も弱まり、焚き物達は次第に「オキ」(熾き炭)に変わって、底部に赤い粉と化して、深く掘って措いた小屋の底の穴もすっかり埋め尽され、却って小高く盛り上がった「オキ」の山が出来ている。一旦、後ずさりした人の輪が段々と縮まり、その中には、気の早い男の子が顔を袖に包んで身を屈め、長い「メーダマ」の枝を及び腰で差し出し、「メーダマヤキ」一番をやろうと、ずり寄って行く。一人、二人と増していく。三人、五人と増えていく。顔の火照りを何かで蔽いながら焼き始める人達が次第に長い柳の枝をオキの上に置きに寄って来るが、余りの熱気に、先の大切な繭玉が皆、焼け千切れているのを見定められずに、折角の繭玉をオキの中に置き落とし、真っ黒に焦げて煙を立てているノが一杯だ。それを又、掻き取ろうとオキの山近く飛び込んで長い柳の棒でやるが、オキの山の熱気は強く、堪らず飛び去ってしまう。
あれやこれやの悲喜劇を繰り返している裡に、頃よしと見て親方は大きな棒を持ち出して、熱気に負けずに飛び込んで、「オキ」の山の部分を拡散して呉れる。群衆は大喜びで周囲に近寄り、てんでに熱気を袖で防ぎつつも、担いで来た「メーダマ」の柳の枝を「オキ」の上に乗せて焼くのである。
ホクホク美味しそうに熱そうに頬張って居る男の子たち、焼け加減を見ようと頑張る大人たち。大体、慣れない人は全部オキの中に落してしまう。それは、枝に差してある繭玉は不揃いになっているからで、平らなオキの上で適度に焼ける繭玉は全体の中で唯一つに決まっている理である。
処が、熱い熱気を防ぎながらだから、そんな細かい見極めは付かない。熱い熱いで、それの防御の方に気を取られて、どの繭玉が上手くオキに乗っかったかなど、大体の見当だけである。そのうえ何となく、三つか四つ一緒に焼きたい心理から、あれもこれもとオキの上に押し付ける。無理に押し付けられた方の細枝はオキの中に埋め沈められるから、焼け切れるのが当り前だ。
いくら生き木だとて柳の細枝である。真っ赤に焼けた「オキ」の中へ突っ込まれれば、枝だけが溶けて繭玉が刺さり、見る間に燃えてゆくのは、これこそ『火を見るより明らか』である。所詮、全部を一緒に焼こうと考える事自体が無理な話なのである。
全部を好く焼いて、担いで帰ろうと云うには、半分黒く成りかけたオキ炭の上で、一個一個、丁寧に、気長く方向転換させながら、焼いていくしか手が無いのだ。だから慣れた村の人達は、一つ焼いては枝から離して懐中に入れ、又次を焼く・・・と云う方法で焼くのだ。だから、早く焼こうと焦る人は、半部はオキに呉れて帰るより仕方無い。上手く焼こうと云う”通”は、小屋が燃え落ちて周囲が暗くなってから出て来るのである。人群れも疎らになり、オキも半黒く手頃に落ち着いて来るので、足許までオキに近づいて、「適度」に焼ける。
慌てて焼いたノは、芯は焼けぬのに周囲だけ炭化してしまっているか、芯まで炭に成って食べられない。周囲が薄こんがりと焼け色づいて、中までホヤホヤと美味しく焼くには後者の方法しか無いのである。では「オキ」の中には何百個と云うメーダマが埋まっているから、それを収穫したら素晴らしいと思うかも知れぬが、そんな物は完全に炭化していて、もはや繭玉では無い。
村人が全部帰ってしまうと、親方はバケツで用水を汲み上げて、オキの残りに掛けて消す。そして、これから、楽しい「ヤド」に皆で引き上げるのである。

                           
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58おやど
「ヤド」とも「おヤド」とも謂う楽しい行事が有るのだ。これは余り小さい者は加えずに、四、五年生以上の男子生徒が高二生まで仲間を組み、始める遊びの集団である。大体一つの炬燵へ全員入れる位の人数で行う。一度の集団は十人位のものだったろうと思う。強制では無かったが、社会的交際の養成時代の事だから親達は、心を込めて子供の為に努力したのだと思う。
その参加人数によって、各自の順番が決まる。小正月から始まって、二十日正月、三十日正月と云う時に割り当てて、全員が平均に「宿」が出来る様に仕組む。だから、その当番に当った晩は家人は、晩の他の用事は何とか差し繰るか、どうしても避けられない用事の場合は、子供に頼んで日割り変更をして貰い、家中で御馳走を用意して歓待して呉れる。
多人数すぎる時は、グループが二つも出来る時もある。やっぱり楽しく遊べるのが目的だから、炬燵にあたれる人数に適しない過剰人員では困るからである。或る程度は親方が干渉していたのかも知れない。年によって違った事を思い出す。女の子達も仲好だけで、男子ほど大袈裟ではないが二、三やっている者も在ったとか聞いたが、それは飽くまで便宜的自由結合であった。
家中で室を用意して呉れて、炬燵を掛けて、待って居てくれる。皆でドヤドヤと「コンバンワ」と挨拶して上がり込む。
原則は家人は別だが、何か特にその家人が特技を持っている様な折には、子供から要請が出れば顔を出しても好い事になっていた。
各自の遊び道具を皆が持ち寄って来て遊び合うのである。「軍人将棋」「いろはカルタ」「家族合わせ」「トランプ」「坊主めくり」・・・さては、その遊びに飽きて、炬燵から出て腕相撲、脚相撲、だるま相撲などが始まるのである。
時間を見計らって家人が、中休みの【お茶】を入れて呉れる。これが一つの魅力でもあった。その家によって、お葉漬(野沢菜漬)の味も違い、煮物の中身も種々。珍しい漬物が出たり、美味しいおやつが出たりもする。遊び疲れて、お腹の空いた所へ出るお茶は美味しいものだ。一人一人に皿など配らない。好きな物を取って食べるのである。その代り、ミカンとか柿とか云う特殊な物は、個々に手渡して下さるので頂戴する。話しが弾んで楽しく食べる。
家によっては(豪勢すぎて)ビックリする様な物が出る場合があるが、そう云う場合は必ず、申し開きの様な言葉が付け加えられた。大人の間で何か、或る程度、度を越さない、と云う様な申し合わせが在ったのかも知れない。
それが済むと、大体十時頃か、「オゴッツォ サマ エ。」と挨拶して散会となるのである。
俺の家でやった時、悪ふざけが過ぎて、炬燵の上からゴロゴロ転がりっコしている裡に、誰かが誰かに勢いよく押されて上座敷と下座敷の間の帯戸を一枚割ってしまった事があったが、あれは昔の大工さんが丹精こめて作った物で、どう仕様も無く、ずっと後々までその儘になっていた。

                           
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59どんど焼き(5)  【第二夜:厄投げ】
第二日の「メーダマヤキ」は特殊日である。この日は、小屋作りは前日と同じであるが、「祝っとくれ〜」は無い。その代りに小屋に火を着ける少し前頃に【厄投げ】と云うノが有る。
それは、男は25才、42才。女子は19才、33才に成った村人は厄年と謂われている。昔から、厄年は病むとか何か災難が有るとか言い伝えられているので、日本全国に、厄払いをして呉れる寺院や神社が方々にある。あれと同じ意味で、村の道祖神さまにお願いして厄を落して貰おうというのである。
その場合、自分の年と同じ数だけ何かを道祖神に捧げて厄を払って貰うのである。穴あき銭を四十二個投げる人、金額で二十四銭投げる人、みかんを二十四個投げる人、一銭で十九銭を投げる人、それは自由で様々である。
家から藁束を一つ携げて来て、辻の神火で其れに火を着け、道祖神の祠(石造り)に供え、その後に、供物を色々と混ぜて、数の厄投げをするのである。その目的は勿論、そこに来集している群衆に振る舞う意味だが、男の子供は、それをさせじと悪辣な手を打つのである。
「銭拾い専門」と「みかん拾い専門」「その他専門」に内密に言い渡してある。そして小方(低学年)は他の人達が拾うのを邪魔する係に立ててある。三方の分岐道からその人達の来るのをメーダマヤキなどそっち退けで、今夜は頑張るのである。藁を携げて来るから直ぐ分別できる。
親方は指令を出した後は素知らぬ顔をして、泰然と構えている。子分どもは鵜の目鷹の目で押黙って、群衆の中に紛れ込んで居る。年齢的にも大き過ぎて”見っともない”高学年衆は、祠の後が青垣になっているので、その暗がりに陣取って、後方へ漏れて来る物を全部掻き取ってやろうと構えて居る。
それに、もう一役。捧げた火の藁を処理する役も大事の役である。それを片付けたり、照明に使ったりするのである。折角捧げた藁火だので、厄投げの人の気分を損ねぬ程度に横に除けたり消火したり、裏後方の隠密部隊の方への燈として高くかざしてやったりするのである。
地豆(落花生:殻付きピーナツ)は中々多い。みかんも多い。金は大切だ。その当時の五銭は大金である。
厄投げが来ると、道祖神の祠の前は、地面を這い廻る男女子供の慌てふためいて掻き取る騒ぎで大混乱の渦が一瞬起こるのである。そして、家から持ち寄った蜜柑箱には、みかんの山、地豆の山が出来る。【どんどん焼き】の後始末は前夜と同じである。
こうして、その夜の「おヤド」は忽ち、たら腹の夜になるのである。だから、この晩(第二夜)は先ず、その厄払いの供物を頂いて腹をこしらえて、それから遊びに入るのである。
【第三日】も同じ事を繰り返して楽しむ。この日は、厄投げも無し。厄祝いも無し。平穏のメーダマヤキで、今度は自分達がゆっくり楽しむ晩である。
そして、その翌日は、燃え残りの薪物や消し炭を片着けて置くと、村の誰かが来て、何がしかで買って呉れる。これは全部、子供達の三日間の「駄賃」となって菓子を買って分けて食べるのである。斯様に、小正月は楽しい。「ヤド」は【二十日:はつか正月】、【三十日:みそか正月】など、名を付けて続行する。

                           
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60若衆やど
二十日正月、三十日正月は、特別な事は覚えていない。「おヤド」をやった位だ。ただ、大人と言ってよいか、「若い衆のおやど」と云うのは別にある。これは女人衆が、子供の「宿」と同じ様にやる。大きい人達だので、主に百人一首の会である。これは、俺は、若い衆の仲間に入る機会を失ったので、本当の事は知らないで聞き知った事だ。これは山浦全部で共通した事らしく、従って他村との交流も出来た訳である。
若い女衆も、そこは心得て居て、何時、どんな人が来ても、快く迎え入れて
語り合うと云うエチケットは、十分覚悟して居るのだそうである。
男い若衆は、種々の情報網から、今夜は 何処の部落の、どの家で 女衆の
「おやど」が有るか手にする。すると三、四人で組んで行く。その家では雨戸を閉めないで障子だけにして、楽しくカルタをして話して居る。
「こんばんは。」と言って男衆が上がっていく。ニコニコ迎えて一緒に話したり、百人一首の仲間入りをして楽しむ。女衆は其処で続けるが、男衆は其処を出て、又次へ行く。隣部落位は当たり前、達者な人になると遠くの他村まで一晩中歩き廻るのだと謂う。
特に町に遠く、正月だと言っても上諏訪だ茅野だと商店街の在る町からは遠い、山奥の部落になると、これが本当に子供達の「おやど」並みに、村全部の風習にまで成っているとも聞いた。そして、それが縁探し、嫁探し、婿あての場であった と謂う。俺の部落などでも、そうした風習のみが 唯一の楽しみであり、社交の場となるのは無理からぬ事である。従って、正月中に若い衆の百人一首大会などは、やっぱり八ヶ岳山麓の村落でも行われた事を、村の若い衆が話して居る所は聞いた。
勿論それは若衆全部では無く、やっぱり発展家仲間の人達の事であり、そんなこと関心も持たぬ人達だって多勢ある訳であるし、女衆にしてもそうである。
夏の盆踊りなども、こうした若い人達の社交場であった。物好きの母達は、寺の庭や学校の庭、辻の広場で輪を作って踊っている女衆の後で、着ている衣装の批評をしたり、声の美しさの評判をしたり、中には御丁寧に、手を触れんばかりに近くへ寄って、衣装の模様など、提灯を差し付けて眺めて居る光景などを、よく子供ながら見かけたものだった。

                           
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61節分    【2月3日】
まあ、こうして一月が終ると、二月に入って節分がある。これは日本中どこでも同じであろうが、そのやり方は地方でマチマチであろう。
俺達の村では、節分の夕飯を炊いた「竈:かまど」の消し炭を使って、割った薪の縦面に、横に十一本の筋を書き、それを家の昇り口の裏口と表口に、斜めに立て懸けて置く。父が囲炉裏で、大きな「ホーロク」を掛けて大豆を沢山いって(煎って)呉れる。
子供達の嬉しい晩である。特に男の子は大喜びである。暮れかかると、父か母が、「早く豆撒けよ。遅くなると他所の鬼がみんな入って来るぞ。」と言う。
大きな一升枡へ豆を一杯入れて、ニコニコ出陣である。先ず一番に上座敷、そして下座敷と順次に各部屋を大声張り上げて「鬼は外、福は内」を繰り返し、バラバラと天井に面白がって叩き付ける。外へ向って投げる。母屋を全部終ると、大急ぎで雨戸を閉めてしまう。そして馬屋、便所、井戸端、土蔵の軒下まで行って遣って来るのである。
薪の「十一」の横棒は、鬼がその家へ上がり込もうとすると其処に目がある。年の月を表わす目である。鬼は大急ぎで、その目の数と一年の月の数と合っているか確かめようと数え始める。十二ヶ月だが、俺の間違いかな?と自信を失って、そわそわし始める。「どれ、もう一度」と考えて、じっくり数えるが、どうも数が一つ足りない様な気がする。不可しいな、変だなと一層そわそわして慌てて来る。又数え直す。そうこうして上にあがれないで、昇り框(かまち)でマゴマゴしている時に、元気の良い子供達が、角の為に最も悪い「煎り豆」をぶっつけて来る。その上、「鬼は外じゃあ!」と叱鳴られる。堪らず逃げ出す・・・為だと謂う。
皆で、母の手作りの御馳走の夕食を済ませてから炬燵に集って、「年づかみ」をやる。自分の年と同じ数の豆が、枡の中から一掴みで掴み上げられると、その年は幸福が来ると謂う。同じでなくとも年数に近ければ近い程、幸福は近いと謂うのである。
皆でワアワア騒ぎながら、掴みっこをしてみる。みんなで一遊びしてから、豆の茶を入れ、煎り豆をポリポリ噛みながら茶飲み話に耽る。

                           
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62こと八日:ようか〕    【2月8日】
鬼払いをして、福を内に招き入れて、また八日が来る。この日を「ことようか」と謂う。この朝は、心を込めて餅を搗き、村の道祖神さまに一ヶ年の豊作をお願いするのである。なるべく早く、なるべく素晴らしい餅を上げる程、良い年にして貰えるのである。従って先陣争いである。かと言って、手の掛かった「餅」でないといけない。
母も父も早起きして、昨夜、洗って水を切って措いたザルの餅米を、下釜に湯を沸騰させた上に「セイロ:蒸籠」を乗せて、餅米を「敷布」に入れて、セイロに入れ蓋をする。どんどん焚いて湯気を上げる。母は一寸蓋を除けて、蒸し具合を指先で捻って試す。
「好い様だぜ。」の声に、父は湯気の濛々と立つ熱い敷き布ごとの蒸し米を
臼(うす)に空けて、急いで杵(きね)でコナし始める。或る程度の粘りが出ると、父が「いいぞ。」と母に告げる。母は台所の臼の傍に降りて来て「手返し:テゲエシ」をしながら、父から餅をペッタンペッタンと搗(つ)いて貰う。
その間に姉と俺達は昨夜の裡に煮て置いた小豆(あずき)を「すり鉢」に移して、砂糖を混ぜながら餡(あん)を作る。搗きあげたホヤホヤの真っ白い餅が持って来られて、母が上手い手付でクリッ、クリッと一個ずつの大きさに千切って餡の中に転がして呉れる。姉は手早く、餡をまびり付ける。
五つ、六つ出来た処で、「さあ、早く上げて来いよ。」と父か母が言う。
俺は母の餡コロ餅を入れた重箱を裸で片手に持ち、片手に箸を持って庭に出る。未だ薄暗い。胸をわくわくしながら、折角早く作って貰って、辻の道祖神へ行く迄に他家に追い越されては残念である。辻へ急ぐ。行って見る。
有る。もう有る。《待てよ・・・》丹念に上げられてある餅を見極める。
《よし、上手いぞ。》上っているのは、みんな「おはぎ」だ。
《よし。搗き餅では俺ら家(え)が第一番だ!》 嬉しくて、大急ぎで千切って、道祖神の屋根、柱、上り口と矢鱈目鱈に、なるべく沢山、神様に差し上げた。そして得々と帰宅して曰く、
「搗き餅じゃ、オラエ(俺の家)が真っ先だった!」 父も母も姉も満足そうに
「そうか。」とニッコリするのである。愉快な思い出ではある。

                           
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63十五日かゆ    【2月15日】
今日は十五日だ。朝起きて洗顔して囲炉裏端へ行ってみると、父は大鍋を掛けて「おかゆ」をグツグツ煮ている。ご飯は釜で焚くのであるが、この朝だけは鍋で煮るのである。白い湯気が美味しそうに泡を立てている。普通の御飯でないので、水が たぶたぶしている。そのうちに、父が上座敷に上げてあった
「ぬるで」の箸(はし)を神棚からから下ろしてくる。これは「ヌルデ」と言って、漆(うるし)の種族らしく、漆とそっくりの房の実が稔り、熟すると、その実がびっしり塩を吹く珍しい木である。俺達は、よく此の房の実の塩をペロペロと舐めたものだ。商店の塩とは違って、果物の吹き出す塩だので、丁度いたずら小僧の舐め加減の塩味であった。
幹が径10cm位の大きい木に成る木で、何処へでも生えた。その「ヌルデ」の木の枝で、大人が親指と人差指でつくる輪程の太さの所を二本採って来て、20cmに切り揃え、皮をきれいに剥ぎ、片端を削いで尖らせ、反対端は四つに割り裂く。そう云う箸を一膳作って、一晩神棚に上げて、神様にして措く。それを今朝使うのである。
その四ツ割にした所(箸の上部)へ、「メーダマ」を一個ずつ挟み込む。その二本を父が大きな手で持つと、母は切餅を2cm四角位に細かく切ったノを盆に入れて持って来る。それをグツグツ煮えている鍋の「おかゆ」の中へパッと空ける。父は早速それを掻き混ぜる。この時皆で、
「十五日のオケーは(お粥は)、あっちもこっちも、粘りっ付け、粘りっ付け!」と言うのである。皆で鍋を見詰めて、父の動かす手に合せる様に繰り返し繰り返し言うのである。そして、切り刻んだ切餅が粘り溶けてきた頃を見計らって、父は鍋を火から下ろす。さて、朝の「かゆ」である。
母が大きな木で作った「杓子:しゃくし」で盛って呉れる。うまいのだ。小さいと思った切餅は大きく膨らんで体中に米粒の子分を一杯くっ付けているのだ。一杯のお椀の中にその二種類の歯ごたえのある「おかゆ」が、とても美味しかった。軟らかい御飯と粘っこい餅の対照の朝食・・・何とも懐かしい味だった。
そして、先刻「十五日おかゆ」を掻き廻した太い「ぬるで箸」は、挟んだ繭玉を抜き取って綺麗に洗い、再び神棚にあげて置く。そして其れは農家の一番の仕事始めとも謂うべき、春の田の「苗代:なわしろ田」の水口に、青い「サワラ」の葉を添えてお祭りするのである。どの家にの苗代田にも、それが必ず祭られて、今年一ヶ年の豊作が祈られるシンボルと成るのである。

                           
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64酉の祭り     【4月某日】
明神さま(諏訪大社、上社の事を謂う)のお祭りで、もう一つは ”酉(とり)の祭り”である。あれは四月のどう云う日なのかな。下社(下諏訪町)では2月1日の「遷座祭」、7月の「お舟祭り」がある。あのお舟祭りに当る程のものであろう。
これは、時は春であり、昼日中の祭りなので、明るい祭りである。
お祭りの行事は何をやったのか、そんな事は子供の俺達には関係ない。
春になって、学年も進んで、そして気候のポカポカした祭りである。大きな二銭銅貨一つ貰えれば大威張りである。あのデッカイ大包みの飴が二つも買える額だ。とても嬉しい訳だ。少し細かい小型の”半銭”と云うのだって、子供の小遣いには上等であった。第一、小遣い持ってお祭りに行く!と云う、その事が一つの贅沢な話なんだからである。そもそも、お祭りと云うのは、普段着を脱いで、改まった着物を着て、みんなで、その場を さんざめいて 歩き廻る事が、お祭りの楽しみなのだからだ。
俺は幼い時から、勝手に飛び出して、好きな所を歩き廻って好きな物を凝然と眺め尽す事が好きだったらしい。従って家の人も、独りで明神さまへ酉の祭り見物に行くと言ったって、平気で許して呉れたらしい。どうも気儘に人垣の間を潜り抜けて、飛び廻った記憶が強い。何しろ、田圃と畑と山しか目に入らぬ日常なので、少しでも人が大勢歩いて居たり、商店が何軒も並んでいれば、やたら嬉しいのである。心がウキウキして来るのである。
村を出外れると、”鬼場”(おにば:村落名)に出る。真っ先に「床屋」がある。大きな鏡だけでも珍しい!そこへ胸に大きい布を掛けられた人が、何とも言い様の無い、ややこしい形をした、大きな椅子に腰掛けて、若い小綺麗(と幼いながら思った)な床屋さんが、奇妙な手つきでチャキチャキ、チャキチャキと髪をいじくり廻して居る。幾ら見ても飽きないが、そんな事をして居たら明神さまは未だ15、6キロ先だ。
少し行くと、肉屋「守安:モリヤス」が在る。ヌーボーとした愛想のある金歯を覗かせたおじさんが居て、店の中では硝子窓の中で、白い上衣を着た御弟子さんが肉を刻んでいる。土間には俺達の背より大きな骨ごとくっ付いた肉の塊が二ツ三ツぶら下げてある。西裏側の露天馬つなぎ場には、みすぼらしい馬が二頭ほど、阿呆けた恰好で何か食っていた。
すぐ又先の御座石の森の傍へ進むと、蹄鉄屋と車大工が隣り合っている。「車大工」さんは爺さんと息子さん二人で、フイゴを動かしたり、大きな鉄の輪を二人で交互に叩いたりして居る。リズムに合せてトンテン、トンテンやるのが面白かった。爺さんはフイゴの傍に座ったきりで、一寸向きを変えるだけで、小さい鎚で叩くが、息子さんは柄の長い大きな鎚で振り上げて大きく打つ。
大きな、一抱えも二抱えもある木の輪に、焼いた鉄輪をジ、ジ、ジッと煙を立てながら嵌め込む作業は珍しい光景だ。農家と違って、その道具や半欠片の様な諸物がゴッタゴタに、諸方に立て掛けてある大きな仕事場が屋根の下の三分の二を占めている感じだ。残り三分の一位の小室に縮こまって、婆さんと嫁さんが針仕事か何かやって居た。こんな小さく狭苦しい所に、この四人が一年中暮すのかなあと、余計な心配しながら、もう一度、両方の広さを見較べたりして見たものだ。「蹄鉄屋」も「豆腐屋」も「粉屋」も見たいが、そんな事して居ると、村の出外れで半日終ってしまう。惜しそうに足にブレーキを掛けながら左右の店を覗きつつ、段々と明神さまに行く。だからサッサと行けば一時間半位で行き着く処だのに、早朝出てもたっぷり半日掛かってしまう。まあ、明神さまの何処へ行って何をすると云う目当は無いのだが、先ず、ヤットコ社篝の南東の公園に着いて、背中のムスビを出して、神宮寺の町を見下ろしながら一休みする。

公園のあちこちには、様々な屋台店が喚き散らしている。子供は買った物を吹き鳴らしてうろつき歩いて居る。幟旗が道筋を知らせる様に長々と続いて見える。何処かで見世物小屋が打ち鳴らす石油缶のガンガラガンと云う雑音が聞こえて来る。腹を膨らまして、さて歩きだ。先ず、公園内の屋台廻りだ。買うでもなし、欲しいでもなし、只に眼の保養である。
平地から北側に降りると、掛小屋が一杯ある。大きな布看板一杯に色彩した内容案内の幕が、小屋を囲繞して張り巡らされている。その一枚一枚を丹念に見たり読んだりして居ると、呼び込みの声が賑やかく群衆の頭上を散ってゆく。入いるでなし、入る気もなし、只何となく小屋を取り巻いて時を楽しんでいる人々が、ギッシリと顔を並べて口を開いて居る。俺もその一人だ。
中国の岩山の奥の淵で獲れた大山椒魚は、その淵の底には何時も人骨が一杯あるのを、大きな鋼の網で何百人かの力を合わせて捕ったのだとか。
顔は人間であるが体は牛である、四国讃岐の山奥で見つけた怪獣だとか。
「今ちょうど、台の上にあがって皆さんに声を掛けている処だよ。」と言うと、その説明に答える様に、「ア〜〜イ〜〜。」と女の様な声が聞こえる。一度、その声に吊られて入って損をした。
「ア〜〜イ〜〜」と言ったのは、奥で山椒魚の尾を引っくり返したり、頭の位置を変えたりして居る女が発している声で、皆「なあんだ。」と異口同音にガッカリして居る。説明されて台の上に乗っているのは猿の干物か、牛の子の乾物か、一握り程の犬の子ぐらいの毛の生えた干物だ。
大体、小屋掛けされている見世物と云うのは、この類を出ないのだが、世の中には人が多いと謂う訳で、毎年毎年同じ催し物が掛かって、然も群衆は金を払ってゾロゾロ引っ切り無しに出入りしているのだもの。
粟沢の観音さまの祭りに来る物と同じ類の物ばかりだが、見て廻る俺も、それを承知で巡覧して歩く。やりもしない、見せもしない、其処に居もしない様な珍しい芸当や、珍物の絵が、煌びやかに小屋の周囲に展開されているので、誰でも、つられ、又一度入った事のある者も「今度は!」と思ったりして、結構たぶらかされて浪費させられているのである。

散々歩き廻って、陽の加減で時刻を計り帰路に着く。そして又、道々、珍しい職業の店頭に立ち止まって、眼を剥き出して見入るのだ。そうして、機会ある毎に社会見学をして、中学へ進んだ頃は、明神さまへの15,6キロの道筋、何処に何が在って、どんな職業をやっていて、どんな年恰好の人々が、どんな道具をどんな風に操って、何を作り、何をしているか、皆そらんじる迄になってしまう。今こうして65歳に成っても、今の道路は何う変化したか解らぬが、昔の道筋を説明させたら大体の角々、街々の出入口の店舗、人家の佇まい、山河の景観は言えると思う。
だから「蹄鉄屋とは?」と聞かれれば、矢ヶ崎の大房のおじさんが首から汚い大前掛姿で、三尺(90cm)もある大きな鉄鋏を握った顔が浮び、庭には順番を待つ二、三頭の馬が、或いは荷車から外され、或いは荷鞍を下されて、カイバ袋に顔を突っ込んで「ゴリゴリゴリ」と美味そうな音を立てつつ静かに待機して様子が見える。そして、おじさんが、馬の片足を曲げて抱え込み、大鋏で新しく鋳造した蹄鉄を「ジーッ」と音を立てて馬の足に当てがっている姿が見える様だ。
街中を通ると、前を流れる用水の上に架けた橋の上に、大きなタライを持ち出した菓子屋のおじさんが、タライ一杯に入れた「煮小豆」を膝小僧まで衣服を捲くし上げた素足でグチャグチャ、グチャグチャ踏み潰している光景。
それだけなら未だしも、時々、チョッ、チョッと用水の水を加え足し入れながら、やっているのだ。あの美しい「蒸し菓子」や「まん十」の”アンコ”は、ああして作るのか!と感心して通ったものだ。俺の兄は多分、いつかの時に、この光景を見たに違い無い。”アンコ”の入った菓子は絶対に汚いと言って、口にしなかった事を覚えている。兄は潔癖だったらしく、もう一つ「おにぎり」も汚いと言って食べなかったっけ。
今考えてみると、俺の様な子供を時折、見かける事があって、思わず苦笑する。詰り俺は、《あれ、これは面白い事してるな!》と思うと、見知らぬ街の中の店頭であろうと、他家の軒先であろうと、その家の人の心など構わず、凝然と佇ち止まって、心ゆくまで打ち眺めて居たのだったと思う。勿論、ポカンと口を開いて居たのだろうが・・・。

                           
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最大の子供祭り火とぼし 別伝
              《田植えが済んだ直後の頃》

65、〔火とぼし チョイチョイ〕 (里中での前夜祭)
「火とぼし」:(火を点す=火ともし)と云う行事は、俺達の部落(むら)と隣部落以外、広い 八ヶ岳山麓中 どこにも聞いた事のない 珍行事である。
隣部落の火とぼしは何の様に行うかは知らぬが、俺達の部落のは大々的で大きな小泉山の頂上で行われ、遠く茅野方面から望見できるものであり、特に俺達の部落の小字(こあざ:宮原地区)では更にもう一度村内で、練習的な小さい「火とぼし」が、その前に行われるのである。俺達の部落は何か他の部落と違った古めかしい行事が有るのはどう云う訳か。正月の門松を焼く「どんどん焼き」だって、他の部落には滅多に無いものである。
部落の持山で、部落の役人衆の許容の下、大袈裟に取行われるのである。学校も勿論容かいの余地なしである。小学校高等二年生を「おやかた」と呼び、この行事の全責任者で統率者である。従う者は小学一年生から高等科一学年までの部落の総員である。女子は仲間では無い。
俺は卒業せずに中途で中学生に成ってしまい、「親方」になる資格を喪失したので、その細かい内容については存知する機を無くした。多分費用は村から出たのだろう。他に思い当る出所が思い着かない。
この行事に最も大切で、欠くべからざる物に「麻空:をがら」、「麻殻:をがら」、「おんがら」が在る。ヲ:麻(あさ)は村の農家では生活の必需品であったらしく、俺の村にも一面の地に「麻畑:ヲバタケ」と謂う地名が残っている。
麻を水に晒して皮を剥き「ヲ」にして布に織り、下駄の緒に使い、履物の大切な部分とし、残滓の木質部が「おんがら」と成って「茅葺:かやぶき屋根」の大切な下部(基礎の支え・下地の骨)に組み込まれるのである。
俺達の時にはもう、木綿が世に氾濫した時代で、野良着は勿論、あの「蚊帳」まで木綿作りの物が一般になってしまった時代だったし、「茅葺」家が採光と養蚕の関係でどんどん板葺屋根に改築された時代だったので、「おんがら」の葺き替えた古いのを探しに、なるべく深山に近い、文明の風の当り難い村々へ行かねばならなかった。
親方が先頭に立って大八車を三、四台連ねて、上級生だけで遠く八ヶ岳山麓近い村へ「おんがら」買いに日曜日を使って行って来るのである。何十年もの間、屋根裏に潜んで身にススを沁み込ませた真っ黒なススまみれの「おんがら」を拝む様な気持で買って来たのである。俺は一度位しか此の隊伍には加わった覚えしか無いので、話しが出来ない。

田植えが済んだ直後あたりに先ず、小字(宮原地区)だけの「火とぼし」が、前方の大丘陵台地へ登る、大きな坂道で取行われた。小じんまりした集団だので和気あいあいの中に行われたのだった。
坂の一番下の部位を「二本松」の陣と為し設え(その呼称は、実際の小泉山の地名を真似てある)、四年生以下の可愛い豆竜たちが屯し、少し上がった所を「赤岩」と名付けて五年生の陣地。その上に「下中段:シタちゅうだん」として六年生の場所。その上が「上中段:ウエちゅだん」と謂って高等科一年生の拠り所。そして誰にも上がれない坂の最上部の「親方の館」となる。
其処へ、村の家々から出して貰った藁や「クワゼ」(桑の滓の枯枝)、豆殻などを適当に配分する。村の衆の許しを得て伐採して来た大きな松の木を、一つの陣地当り三本ずつ分けて、三又に組んで「燃やし小屋」の骨格とする。それに学年独自の工夫で、なるべく夜空に大袈裟に燃え上がるよう、火の子が猛烈に美しく昇るよう、燃材料を詰め込む訳である。
二本松陣は、初めてで経験の浅い者の上に力も無いので、上級生が手伝いに来て呉れる。そして周囲には、景気よくパリパリと音のするよう、近辺から青葉若葉竹などで飾り上げる。
それが済むと「おんがら」を学年に応じて分配して貰い、一人三、四本あて「タイマツ」を作るのである。小屋を巻き上げたり、タイマツを結んだりする縄は、各自の家の穴蔵で自分の手で作(ナ)った縄を持ち寄るのである。上級生の縄はもう大人のナッた物と変りなく均一で丈夫な物だが、下級生の縄は不均一で細く情けない物が多い。
これで用意完了すると、夜を待つばかりだので皆で遊びに入るのである。大体この時の種目は「陣棒抜き」である。既述したから省く。どうも御飯には各自家へ帰ったように思うが、どうだったろうか?場所が村の端だので、その方が便利であり、おやつも家で食べて来たのか、菓子を分け合った記憶も無い。
夜になると勢揃いして、全小屋に一斉に火を着け、全員が一本ずつタイマツに火をつけて、坂の下から上へ、上から下へと、『火とぼしチョイチョイ!』 と大声で揃い呼びながら、全部のタイマツの燃え尽きる迄やるのである。
「火をいじるな!」「火をもてあそぶな!」と厳禁される年代の悪童達が、この胸のすく大火焚きをやり、火の子のタイマツを夜空に振りかざすのだから、嬉しいのなんのって、他部落の子供達の羨望の的であったに違い無い。
親方が責任を以て後始末をして、低学年の者達は早く帰宅させてチョンになる。その翌日にでも炭を売ったのかどうか?

                           
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66火とぼし 準備 【山頂での準備と楽しみ】(子供だけの世界)
本番の火とぼしは小泉山で行う。宮原、鬼場、日向原の三字、つまり下古田区の男子小学校生徒(尋常小学校1年生:6才〜高等小学校2年生:13才)全員で行う。それだけ、宮原だけの火とぼしとは規模が違うのである。
「おんがら」の買い出しも大掛りである。それに今度は山頂で行うので、皆が弁当持参である。だから家人は、農家としては最高の、この上なしの御馳走を作って呉れる訳である。その弁当を学校用の鞄に詰め込み、作業用の刃物を持ち、山ゆえに水筒を携げて、丈夫な本式の縄を決められた長さだけ肩に斜に掛けて、各自が村の辻に大集合する。
大八車に積んだ「おんがら」は、この辻で各学年に分配し、責任を以て山頂まで背負い上げる訳である。急坂だので車は引き上げられないからである。
さて、その「おんがら」だが、軽くて平地では荷とも何ともならぬ物だが、急坂に掛かってからは苦しい。と言うのは、その急坂、場所によっては手を突いて這い上る程の所も在る。尤も、山をグルッと一周りする心算で、その馬道を通れば坂も急ではないが、一刻も早く頂上に着きたいのだから、短絡線(最短距離)の正面を真直角近い角度で、蛇行登攀しようと謂うのだ。
人間だけの道だので人一人が通るだけの幅の上に、若葉が一杯に生い茂って来た最中だ。「おんがら」は長さが体の両側へ、少なくとも7、80センチは張り出している。致し方ない。蟹の横歩きで一足一足踏み登るのだ。何千歩になるか判らぬ距離なのだ。疲れて一寸でも正面を向いて歩くと、途端にバリバリ、バリバリッと 「おんがら」の折れる音がする。後で「タイマツ」にする大事な「おんがら」 だ。一寸でも長くして山頂へ上げたい良心が有るから、慌てて又汗だくの蟹行進をせねばならぬ。殆んど全員が背負って、長い行列で登っているから、自分一人ばかりで止まって休んでは居られない。
「おやかた」達は町へ買い物(山頂で分けて呉れるおやつ)に行ってしまっている。文字通り汗びっしょりで山頂に着く。荷を下ろして上半身裸になって汗を拭き、涼風に当りながら、いつ見ても懐かしい諏訪の平一円を見下ろすのである。一休みした頃、高等一年生が皆の指揮を執って呉れる。

「二本松」とは、この松が有るから付けられた名称であろう。幹周りが三抱え程の枝を張った大松が二本、根元が殆んど密着した形で聳え、その周囲は広い広い大芝生である。その広場一杯に、何十人の背負い上げたオンガラが自由自在の恰好で散在しているのだ。
その芝生の延長が北へ五百米ほど伸びた所が「親方」の陣取る場所。其処には二本松と同樹齢ほどの 大松樹が五本ほど聳えて、その根元に大きな
【秋葉大明神】と刻字した大石碑が有るのだ。其処を頂上の平の北端として、その向うは急斜面の松木立ちになって、柳川の谷へ落ちているのだ。
高一年生は託された親方の弁当などを其処(石碑)へ置き、一同に各任地(陣地)へ赴く指令を出す。皆、各自の所持物を「おんがら」の荷物から外し持って、連れだって散っていく。
【二本松】に残るのは四年生以下の者達だけである。
五年生の【赤岩】と謂うのは、二本松から秋葉大明神と反対の南方へ斜めに更に頂上に登る坂の中腹に在る。其処は、赤土が大きく口を開いた様に露出している場所である。その名も、この意味から来たものらしい。
そして六年生は【下中段】と称す、それを更に一段と昇った所で、別に目印は無いが、昨年度の跡を見付けて陣取る。高等科一年生は、その坂の頂上近い所まで登り、【上中段】と称して陣取る。
村の総代様からの許可が公然と出ているので、もう、伐採は自由勝手たる事である。でも、良心的な仕事をしないと、来年の行事に差し支え有るやも知れぬと云う気持は、各自胸に自然と有るので、無茶をする者は居ない。
親方が町から帰って来る前に或る程度の作業は指令が下っており、六年の陣である「下中段」をはじめ「赤岩」・「二本松」へは、「上中段」の高一年生の監督の目が届く。そして二本松へは指導役になって降りて来て、世話を焼きながら指導して、『燃やし小屋』造り が 始まる。
「小屋の位置は幾つ、何処と何処へ造れ!」「場所は村の人達によく見える此処にせよ!」 「この位の長さの松を、どの方面の林から伐って来い!」
「どっちの向きの木は傷めてはならぬぞ!」と、一々細かく懇切丁寧に教えて呉れるのである。他の段陣の者共は互いに相談し合い、解り兼ねる事は一つ年上の段へ聞きに行き、自分勝手で乱暴な、伝統を崩す事の無い様にと真面目に真剣に作業に取り掛かるのである。
考えてみれば、貴い自活の訓練場である。山の頂上であるから、村から薪や焚き着けの枯物を貰えない。全部を山の中の枯枝集めで賄わなければならない。小学一年生には一年生なりきの作業が有るのだ。一年生が山の奥へ分け入って、枯れ落葉を拾い集めて来る仕事を、本気になってやっている。美しい光景である。
各グループに一つ位ずつ小屋が出来上った頃、昼近くになると、総代様に連れられた親方達(高等科二年生達)が大きな風呂敷包を背負って、下の道から上って来る。面白いもので、あの様な環境に放り込まれると、普段は怖いばかりで、親しみも別に感じない「おやかた」連中が 何だか、何時も自分達を庇護して呉れている者が家に戻って来て呉れた様な、妙な親近感と安堵感がムクムクと湧き上って来たものだった。
張合いで作業を続けている中に、「休憩!」の合図が出る。「おやつ」が出るぞ!と嬉しくなって集って話が弾む。
「上中段!」と呼ばれて、高一年生達が偉そうに帽子や手拭を持って本部へ行く。そしてほくそ笑みながら、何か入った帽子や手拭包みを抱えて自分の陣地へ駆け上がって行く。こうして各自の手に秋葉大明神の「御護符:オゴウフ」が届くと、全山の空気が和やかになっていくのである。
そして続いて第一回の食事が始まるのだ。各自、それは美味しそうなお菜や味付けおにぎりを得意そうに食べ、仲良し同志は分け合ったり、貰い合ったりして、一番楽しい時を過ごすのである。
それが過ぎると、「タイマツ」作りが始まる。上級生は、低学年衆のタイマツを作って呉れる。そして先ず、一、二年生を山から降ろすのだ。上級生が二、三人防御役兼保護者となって付き添い、タイマツに火を着けて持たせてやるのである。山火事を出したら一大事だからである。又、怪我や火傷しても困るからだ。(真っ昼間に松明を持たせるには、重大な意味や知恵がある)
全作業が終って、後は火祭りの時刻を待つばかりとなった処で遊びに入るのだ。相撲大会、陣棒抜き、頭の張りっこ・・・それこそ学校の休み時間と同じ事である。気持ちのよい真夏の午後、芝原の山の頂上でやる遊びは楽しい。
散々遊んだ頃、「第二回食事!」の合図が出る。残りの物全部を腹中に収めて、学校カバンの中はすっからかんの身軽さになる。
すると 辺りには夕靄(もや)が立ち籠めて来る。遠い里の燈りがポツポツ見え始め、二本松に「夜タカ」が飛び交って鳴き出すと、ちょっと淋しくなりかける。 「全員支度!」の指令だ出る。高等一年生は忙しそうに低学年の間に入って来て、腰を摩って点検したり、背負うのを手伝ってくれる。
「いいか。忘れ物すると取りに来られねえからな。しっかり調べろよ。」と、それはそれは親切に点検をして呉れる。そして総員が物を全部身に着け、休んだ場所跡をしっかり確めた上で集合だ。
その頃、村では・・・村員みなが「今か、今か」と、山頂を眺めつつ夕食を急いでいるのである。山頂に火が灯りだすと、女子子供は皆、辻に見物に集まるのだ。

                           
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67火とぼし 本番 (山頂火焔 と 松明くだり
「火をつけろーッ!!」の親方の命令一下、全山頂に並んだ幾つもの小屋に火が着け廻られる。これは上級生の仕事だ。許された者以外はマッチ持参が許されないのである。(高等科の)大きい人が火の着いたタイマツを持って走りつつ、小屋に点火して廻る姿は勇壮に見えた。
一斉に燃え上がった火の柱の間を、何十人の持つタイマツの火が、村の衆の方へ向って振り上げられ、振り下されしつつ、『ヨ〜イサッ、コラサ!ヨ〜イサッ、コラサッ!』 と叫んで往復するのである。そして小屋が燃え落ちる・・・。
と次は、山を下る「タイマツの大行列」の始まりである。三部落夫々の、村への持ち帰り用に造られた「曳行 大タイマツ」 の 用意も出来た。火の用心 O Kとなると小学三年生を先頭に、各自タイマツを持って、黒い色に変った若葉の下に、次々にと潜り込んで行くのである。
上から見ると、黒く見える若葉がタイマツの光に当って、目の醒める様な鮮明な若葉色に映え出す・・・あの光景は何とも言えぬ。
三つの部落の曳行 大タイマツのうち先ず、最も(山麓に)近い宮原のタイマツの尻にだけ火が着けられ、行列の殿りに曳かれてゆく。下山の途々、親方衆が飛び散る火の粉を揉み消し、火の用心をしつつ、長い長い急坂のトンネルを抜けてゆく。やがて村の直ぐ上の林に出ると、村の家々の燈火の点々が懐かしく間近に迫って来る。そして、其処の坂にタイマツの行列が見え始めると、村人は「それ、来たぞ!」と安堵した嬉しさの声を吐き、女子供は急いで沿道に並んで、村に入って来るのを待つのである。
その村人達の待つ人並みの中を通過する時の、それこそ何とも言葉に出来ない誇らしやかな気持というか、優越感とは違うが、満足な胸一杯の気分で、真っ黒い両側の立像がタイマツの光芒に、次々と懐かしい顔に浮き出して来る様子は、嬉しい限りのものであった。
そして、最も近い宮原の字の辻に到着する。宮原の子供のタイマツは全て、その辻の中央に積まれて燃え上がる。その火をグルリと取り巻いた顔の輪の中で、次の字である日向原と鬼場の辻へ向う子供達は、夫々の曳行大タイマツに初めて点火する。そして、互いに「さよなら」しながら、北と西の暗い闇の中へと消え込んでゆく。後へ残った宮原の子等も、程なくタイマツの消え落ちるを待って、姉妹や兄父などと連れだって家々に帰って行く・・・。


こうした行事の中で、その年々によって色々の変事や出来事も幾つかある。自分が悲しい思い出であった一つには、六年の時に当ると思われる年の親方に悪い奴が在って、皆が山を降りて行かねばならぬ様な遊び(カーボシ)をさせられて、大はしゃぎで遊び尽して、昼食を楽しみに帰山した事がある。
皆また楽しい母の心尽しの弁当を開いて驚いた。皆の特製のオカズは全部やられているのだ。誰いうとなく、後で、その親方の名が出た時、「あいつか。やりそうな奴だ。」と一同いやしめ思ってものだ。
俺は毎朝、早起きしては裏の柳川で「ハヤ」釣りを楽しんだ。そして「火とぼし」が近づいてからは、学校の弁当にも持って行かず、家でも食べずに、天井の「魚指し」穴に一杯ためた。そして母が前日から、美味しく軟らかく煮付けて下さって弁当箱へ一杯つめて得々と持参し、仲良しにも分け、大切に賞味して、未だ半分以上残して置いたのだった。それをやられてしまったのだもの、口惜しいと言うより悲しかったのである。
又、その事よりもまだ前の頃だった訳になるが、広夫さんが親方時代に「神ヶ洞」の上河原へ河干しに繰り出しての帰りだったと思える。
皆は大廻りして帰山する心算だったのに、広夫さん達は親方の「秋葉神社」から真下に俯瞰できる松林の下方に急降下に柳川に向って走り降っている斜面に出来ている「崩崖:ボケ」を登攀しようと試みたらしいのである。
俺達が騒ぎを聞いて逆戻りしてみたら、見上げる大崩崖(ボケ)の遥か上方に、一人の人が逆さ大の字に動かなくなって居るではないか!
崩崖は、一歩踏み込んでもザーッと、切っ先鋭い大小の砕石破片が流れ(小ナダレ)を起こして流下する恐ろしい所である。あんな所になぜ踏み込んだのだろうか。多分、今にして考えれば、崖の片方の端沿いに、木の根の露出したのや、倒れ込んだ樹木に掴まりながら、崖と崩れかけた山の境目を伝って登攀しているうちに、ふと足を滑らし、手が離れ、ザラザラザラッと流下するに従い、破砕石の流渦は広夫さんを呑み込んでしまい、上方から落下し続ける鋭角の石片に体を打たれ、顔面を打たれてしまったのであろう。
やがて村人が駆け付けて戸板担ぎに乗せられた広夫さんの顔面は血どろ真赤で、死んだ様に動かなかった。その後治って帰宅した広夫さんの顔は、鼻の下に大きな切り傷が残されて、今でもそのままである。
もう一つは俺が幼児の頃の言い伝えであるが、その人の顔を見る度、その家の前を通る度、その家の母親の顔を見る度、その事件を思い出すのは多分、俺ばかりでなく、耳にした村人全員の心であろうから、子供の時とは謂え、或る年齢に成ってからの失敗と云うものは、嫌なものだと思った。
事は簡単である。親方になった時、部下に買って呉れる金で雉のつがいを買って飼育していると云う事である。
「あの雉はな。親方の時に菓子の銭をへつって買っただっちゅうぞ。」
俺達が遊び盛りの頃まで、ささやき合われたのだから、堪ったものではない。以前に通ってみたら家も代が変り、その人も亡いが、通る度に思い出して苦笑しているのだ。

                           
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68秋祭り
体操場は村の娯楽場でもあった(兄達の剣道場でもあった様に)事を思い出す。村祭の日は、学校の庭を囲んで祀られている十五社神社が両側に亭亭と天を突く大檜数本を従えて鎮座し、南側に「用足し場」(公民館)が在り、その裏の草原に何かの祠が二つ、蚕玉神社の大石碑が一基ある。この場所が村の文化の中心で、この場所で催しが行われたのである。今日に残像しているのは、体操場の東壁に接して高い台が設えられ、そこで人形使い(浄瑠璃と云うものかも知れぬ)が、三味線の歌に合わせて人形を操って見せた光景が、である。何か盲目の女の人が、大川の出水の折、渡り損ねて愛しい人だかに、先に一足違いで堰き止められて、柱にしがみ付いてヨヨと泣き崩れる場があった・・・。
そういう日は、朝は学校生徒は羽織袴に清々しい衣服の一張羅を着せられて十五社様に集って、本校から御出張の校長先生や村長さんの来席を仰いで、村人代表と一緒に神様の参拝式を行い、終わって扇子の地紙型をした甘いチョッピリ砂糖のこびり付いた二つ組のパンとも菓子ともつかぬ物を一袋ずつ頂戴して帰宅すれば、あと一日中、素晴らしい日になるのだ。学校は休みだし、小遣銭は貰えるし、自由に物の求められる露店が校庭に幾つも何種類も出張って、夜までガス灯つけて相手になってくれるし、どこの家でも年に一度の美味しい御馳走は作るし、親父達は「用足し場」に行って酒を飲んで上機嫌で居て恐い者は無し、年に一度の【秋祭り】はすばらしい・・・。
夜になると、昼間中かかって若い衆が掛けてくれた棒で支えた急造りの野外スクリーンが出来て、「活動写真」(映画)が上映されるし、時には隣村から親戚衆が来訪もして呉れる。

春蚕(はるご)さま、夏蚕さま、秋蚕さま、晩秋蚕の四度の養蚕が済んで、今度は田の収穫の秋を迎えると云う端境期に【蚕玉祭り】が行われる。これは主として主婦連が寄って、労をねぎらい合うらしかった。あの石碑の前に大きな「蚕玉大明神」と染め抜いた赤い提灯が飾られて、各家々では「組」の女衆が一戸に寄って、米の粉を熱湯で練って団子を作る。それは普通の団子と違って、繭の形に似せて作るのである。皆が擂り鉢の周囲に集って、面白い世間話を交わしながら、せっせと、先ず千切り取ったのを長楕円にし、中間を一寸首らし、その両端に一寸指跡を凹ませば出来る。全部でき上った処で大きなセイロ(釜の湯気の上に竹簾を底に敷いた底なしの蓋の桶を置く)に入れて蒸す。大きなカブト鉢に甘塩く、美味しく味付けした黄粉・キナコ(大豆の粉)を入れ、その中へ蒸し上げた熱い水っぽい繭玉(メーダマ)をまぶし込んで出来上がりを幾つもの皿に盛り上げて、饗宴の場へ並べる。
菓子あり、煮物あり、漬物あり、折には男衆の心尽しの魚類も出て賑やかな膳立である。その周囲に集って女衆と子供達で雑談に花を咲かせつつ、食らいまくるのである。百姓の唯一の楽しみは、労働時の偏食を一気に回復しようとする「食う」ことである。そして 「ああ、うまかったよう。おごっツォさまえ。」 で散会する時は、一日も暮れ方であるのだ。


【粟沢の 観音様の祭り】は (時季の記述無し)、近郷近在の 者どもが集まる大きな祭りで、大きなサーカスが必ずあり、その外にも種々の見世物小屋が一杯かかった。覗き絵、猿芝居、小鳥の芸小屋、変形人間の珍芸、大山椒魚と人魚の掛け小屋、大学生の歌集売り、地廻りの掛け芝居、そして森に響く幼童の鳴らす玩具鳴物の声・・・ その雑踏もだが、兄との思い出は、夜遅くなって辺りも大分落ち着いてからも尚、兄はバイオリンを弾いて歌集を売って居る大学生の傍に佇んで、バイオリンの音に聴き入って居た姿である。
村の人の姿は殆んど見えず、右往左往しているのは粟沢近辺の人達だろうと思われ、時々兄の袖を引いては無言で帰村を促すのだが、体はグラッと揺れても返事はして呉れなかった。俺の言う事は何でも聞いて呉れる兄だったが、この場合だけは通じなかった。多分兄は、多三男さんや保三さんが大工で身銭を稼いで買ったバイオリンが羨ましかったのだろうと、今、思う。
とは謂え、あの頃の兄は、力一杯主力戦闘員で働き、冬は屋敷の庭や床下の穴蔵に籠って、せっせと草履を作って稼いで居たのだから、やっぱり父の圧力が、そう云う方面の自由にはさせて貰えなかったのかも知れない。夜、夕食後頃、大工仕事から帰った多三男さんだったか保三さんだったかがバイオリンを携げて来て、裏の縁側で弾いて聴かせて貰って居た事を思い起す。

                           
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69運動会
秋の行事で、小学校の運動会がある。
養蚕の最後の「晩秋蚕」の後片付けも済み、畑仕事も済み、後は秋の稲の取り入れ作業だけと云う頃、多分10月の11、12日頃だったかと思われる折に、行われたように思う。別に根拠は無いが、何かの折に「運動会は10月の11、12日頃」と聞かされた印象が、何処かに残っていた感じである。
運動会が何うして印象強いかと謂うと、小学校一年生の時から「市公」は必ず三等以内に入って賞品を持ち帰ったからである。覚えている品物では ”ゴムまり”が一番残っている。その他は手帳らしい物だったのだろう。
足が速かったのか、それとも心臓が(心理的でなく、肉体的にだ)達者だったのか、飛び出しでも速かったのか、兎に角、分教場時代は毎年もらったのは、何かおまけ(分教場だったから)でも有ったのか、それは解らないが。
朝は御飯だけ食べれば敷きゴザだけ持って行けば良いのだった。自分の座席に友人と共に敷き詰めて、一日中そこが根城になるのである。
その頃は今程、理論的な体育祭では無く、慰安会を兼ねた様な、レクリエーション大会の様な楽しさであり、種目だった。従って俺が賞を貰ったのも、そうしたものでの入賞であって、脚力や体力の故では無かったかも知れない。
何しろ、一直線に並んで飛んで行くと、四つ程並べられた盆の中に水を張って在って、その中を泳ぎ廻っている「ドジョウ」を捉えて帰って来るものとか。
途中に、盆にメリケン粉を盛ったのを幾つも置く。その底に「ゲンジ豆」(焙豆を砂糖衣かけた物)を沈ませて有る。その手前に水桶盆がある。走って行って、水の中に顔を突っ込み、直ぐ粉盆の中を口で捜し、豆を咥えて決勝線に駆け込むもの。専ら観衆の爆笑を狙ったもので、競技者はイイ迷惑のみで、自らは可笑しさなど寸分も感じないのだ。今の PTA運動会とか 部落体育祭級の競技のみであった。
高学年男子の毎年行事は「お面一本!」であった。各自、自宅から藁で作った1m程の棒で、鉢巻の真正面(額の中央)に着けた飾りを叩き落とすのであった。勇ましいものであったが、今の母親が見たら必ず「もし眼でも叩いたら、先生どうして呉れます!」と出る代物が大モテらしく、毎年の最後を飾る集団競技だった。
開会当初は校庭周囲は敷きゴザだけで父兄の数も疎らであるが、只の徒歩競技が終る頃から座席は人が追々詰って来る。十一時と言っていいか、お昼一時間前と言い表わしてよいか、そう云う時間には、もう周囲は謂うに及ばず土手の斜面、堤の上まで、それこそ全児童の家庭以上の敷き座席がギッシリになっている。そして下の道路沿いには、果物屋、菓子屋、玩具屋など、村祭り屋台店を上廻る店が出て、そこには親が、入学前の子供達に何やかやを楽しみながら、買い与えているのである。学童も名目は禁じてあったろうと思うが、親達の座席を出入りしたり、露店の近くを覗き歩いたりする姿もチラホラして、微笑ましい限りであった。
そして本日一番の楽しみ、昼食休みが来るのである。児童席は総ガランになって、その全員は父兄席の中に溶け込んでしまうのである。父か母か姉が、妹や弟を連れて、家中の食事とオヤツを背負って、遠い5、6キロの道を来て呉れたのである。お御馳走タップリの昼食に、嬉しいオヤツ(その頃は今の様な珍品は無い)が一杯ある。まさに密集した会食祭りである。歌こそ出ないが、もうお年寄は僅かなお酒で好い顔色になり、声も次第に朗らかになって来て、もう素晴らしい露天の大饗宴である。
この時季で一番嬉しい物の一つに柿がある。農家故に何処の家にも柿の木など一杯ある。でも皆”渋柿”である。そして其れは「サワシ」にはするが、多忙の間にやって貰えるだけであり、それも何か、この商人が売って呉れる柿は味が違った様であり、硬さも新鮮の感じであった。
稲こきの田圃での柿、運動会での此の柿。何とも忘れ得ぬ楽しみであった。誰も同じらしく、見る人見る人、どの友だち学童の大小いずれを問わず、殆んどの者達が(甘)「柿」を齧り歩いているのが目立った。
この昼の時間は楽しかった所為か、随分たっぷり有った様に思えた。
学校側でも、昼食の前後は みな 抱腹絶倒のか、丹精したチームものなど、
観衆向きのものが多く、親子共に、眼を輝かして見入ったものであった。
変っていたのは先生方の仮装行列など有ったが、冷笑したり兎角の批判など聞いた覚えは無く、村中挙げて喜んで呉れた感じだった。子供達だって勿論清らかな純粋な表現で、後々まで楽しみを味わい合った。
終幕は何うだったか、そう云う事は覚えては居ないが、多分、相当数最後までのこって、校長先生の音頭か何かで一同で万歳の三唱でもして開散となった事であろう。三等賞までの入賞者は、先生方の机の前に並んで、紅白の水引紙の印刷してある紙に包んだ賞品を貰い、父兄席に飛び込んで行っては置いて来たものだ。
終って、上級生が掃除をしたであろうが、それも残像に無い。開散後になって却って子連れの家族が屋台店の前に群がった事は覚えている。敷きゴザを丸めたいた学童たちの姿が、ばかに 活き活きと 目に残っている。

                           
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70甘酒祭り
十二月初旬頃だと思われるが、そこで懐かしい「甘酒祭り」がある。
「一代に一度」と云う位の割合で、”司祭当番”が巡回して来るのだと聞いた。俺の家で当番に当ったのは小学校4、5年頃かと、おぼろ気に思い起こされる。何う云う手順で、誰が来て、どの様にして、甘酒を造ったのかは全然記憶に無い。ただ、土蔵と母屋の間に展開している、あの広い庭 (夏には大きな作物畑になる所)一杯に ”ネコ” (絨毯の様に 厚手に編み上げた、大きな藁ムシロ・藁ゴザ)を敷き詰めて、両側に大釜を設えて煮物をしていた煙の立つ風景と、ネコの広い中を友人達と跳ね廻った思いが、パノラマと成って記憶の絵を繰り広げているのである。
先ず兎に角、村中の人が朝から夕方まで、腹一杯飲んで飲んで飲み飽きて、未だ明朝、触れ(口伝えで言い継ぐ)で、『今朝、子供達は登校前に飲んでいく様に』と出る程の量の甘酒を、前日までの間に造って置く訳だ。
そしてその味たるや、自家で時折に造る小造りの物とは丸で違った「あまさ」と「コク」が有るのだったろう。美味かったもの。
その日は村中、御飯は炊かない。先ず朝、甘いだけでは口が不可しく成って、そうは入らぬ(飲めぬ)ので、自家製の漬物を持参して、それを抓まんでは、熱い甘酒汁を大きな茶碗に好きなだけ頂く訳である。其処で来合わせた人々と語り、笑い、骨伸ばしをしていく。充分飲んだら、自宅に帰って予定の事をする。昼食になると又、出掛けて甘酒を飲みに行く。
午後に一度、その家独自の 特別な ”お振舞”一品が 出される。メニューは、その家の自由である。だから、甘酒の好きでない人でも、その時間帯には行って 御馳走になった方が 好いのである。
年寄衆や話好きな大人の方々は、其処で一日暮らす人も大勢ある訳である。そして其処が、年に一度の村の話題の情報交換場にもなる訳である。だから一寸した事件でも、この甘酒祭り直前に在った事は、賑やかく村中に喧伝されてしまうのは必定である。
家々のお振舞品は、その当時はよく覚えていて、あの家では、この家ではと色々語り合ったものだが、今は全く記憶に無い。唯、自分の家の時だけは、自分が主役に成った様な気がしたのか、馬肉の豆腐汁を出したのを記憶している。今思うても、唾の浮く様な色合を思い起こす。そう言えば何処かの家で、シジミ汁を頂いた事もあった様だ。
夕方は余り押し詰らない様に腹一杯頂いて、各自の漬物、煮物などの容器のドンブリとか重箱を集めて持ち帰って、夜の帷が降りると云う事である。
翌朝の、登校前の 「甘酒残り頂戴」は、大抵の年に行われたらしく、カバンを傍に置いて並んで飲んだ情景の記憶は深い。
その家の囲炉裏の周囲に当番衆が居て、一日中、甘酒を沸かして(素造りの濃いノに適度に水を混ぜて煮直すと、甘味も一段と良く成り、口当りも頃合に成る)居て、入れ替わり立ち替わり来る人達に汲んで渡して下さる。潮時には庭から室から一杯の賑やかさだが、その中間の時刻には、囲炉裏近くに少々しか人影は無くなる。
全く、「食」の楽しみに生きる、ほのぼのした田舎の生活の絵である。あれから五十年経った今、どうなっているのだろうか。懐かしい雰囲気に、もう一度ひたってみたい郷愁が湧く。




   ・・・以上、第2部 〔行事・風習〕 編・・・おしまい


                           
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