《第1部》
     村童の遊び
        
本校通い時代

小学校一年から四年までは家の裏の分教場で学び、村人の一人一人、一軒一軒の台所の味噌桶の在り場所も知っている二人の先生、小林千代丸老師と塚原葦穂(赤彦の弟)先生の奥さん君伊先生から、村童が次々と順繰りに送り駕籠に乗せられて送ってもらう様に、本校の五年生へと手渡されていったものだった。だから(6歳〜9歳の)分教場時代は、いたずらと謂えば先生に対するイタズラで、遊びは帰宅後のイタズラへと連なった。
五年生(10歳)になって本校に通う様になってからは、イタズラは大抵、学校往復の道筋凡そ一里(4キロ)程の、下古田(しもふった)の部落の出外れから塩之目(しおのめ)部落の入口までの長い長い、人家の全く無い広々と続いた山川田畑の間で行われたドラマであったのだ。そこには大人不在のボス専横の場が生まれ、家人不関の悪行が繰り広げられたのである。

※ 戦前の学制・・・6歳からの尋常小学校6年間(11歳まで)が義務教育。その上に高等小学校(高等科)」が2(or3)年間。尋常高学年との併設校が殆んどで、現在ではピンと来ないが、正式には「尋常高等小学校」と謂った。
中学校への受験資格は尋常6年終了時に発生。故に高等小学生は1年生から受験可。「中学校」は5年制だが、4年時から「高等学校(3学年制)」受験が可能だった。更にその上に「大学」が存在した。尚、成績優秀者には「飛び級」の制度もあった。

、〔アトアト
平和な世の中に突然突風の如く吹く風が有るが、その様な事に「アト、アト」がある。・・・同級生だけで恐い上級生は無し、今日は伸び伸びと帰れると皆はしゃいで、思い思いな事を勝手に声高で喚きながら、塩之目の部落を出外れて田圃道をワイワイと明るく、外になり内になりながら5、6人一団となって動く童の固まりが、サツサツと、のどかに流れて過ぎて行く。長い平道もやがて終って「クセイ木」の辺まで来ると、もう憩いの林であるクソベーシも遥か彼方に見え、やがてションベン坂の急谷底も下り登りして、坂上に出る。
そしてガヤガヤとクソベーシ目指し、いそいそ楽しそうに進む。・・・と、突如としてクソベーシの辺から「アトアトーッ」という声!そら〜っと一団は忽ち崩れて次第に長く伸びて行く。昨夜の友は今日の敵だ。最後になったら、何かが頭の上に降るのだ。最後になるまじと後を見ながらカバンを横抱きにして1キロか半キロか、それこそ無我夢中で走る。先方の上級生が誰だか判らない。従ってどんなものが降るか見当はつかぬ。『一番後になった者には、何かの頂きもの有るぞ』と云う上級の御宣告だから致し方ない。
俺はそういう時は絶対安全の確信が有ったから慌てない。先ずおもむろにグループの中に誰が居たかを頭の中でザッとたぐる。「今日は新一が居るな」とか「今日は金人が居る」とか「ああ八重二が居るわ」と読んでおいて飛び出す。脚には、運動会で一年の時から必ず賞品を家へ持って帰る自信が有るから、そして、兎に角ビリにさえならなければいいし、中位で着けばいいとタカを括って走る。着いてみると大抵一級上の奴等だ。不文律で、一級でも上は上級生なのだ(但し六年生には権利なし)。そして又、高一(高等小学校1年生)の奴等、前年迄の腹いせにやたらとコイツを飛ばす。そして降されるものも手強いのが降るのだ。一番簡単なのがゴツン一個。それで又一団は賑やかな遊びの渦に入る。
酷いのは「今日はどの位元気か見せろ」には可哀想。泣きそうになる直前、「いやなら、あそこへ行く馬のス(尾の毛)一本抜いて来い。」
之は冬になって、小鳥の罠作りの材料にする。

                          
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、〔緑の大宮殿
この林は下古田(しもふった)の部落へは1キロもある上に、深い谷の底に隠れている。塩之目部落からは、もう3キロ近くも下って来ている。その他には皆、柳川を隔てて小泉山が南に、深い幅7百米近い切割谷を隔て、又山林を去って遠くに北の部落が隠れているだけ。四方家なし。そこを一足奥へ行けば、それこそ大人とは全く絶縁の松の多い雑木林である。道を外れて山伝いに下れば秋は栗、茸あり、夏は恰好の緑の楽園なのだ。
従ってだ。遥かに茅野の街から二里の道を上がって来た人、また上の部落から此処を経て茅野方面へ降りる人、誰だって丁度よい無人開放の脱糞場である訳である。道から一寸入った近くは、そう云う人達が老若男女を問わず放出した悠々たる大物があっちこっちにあるのである。文字通りのクソベーシである。・・・だが、その入口だけ注意すれば、その他は、
遥かなる何キロに亘る緑のジュータンと青葉のカーテンが果てしも無く続く、村童達にとっては大自然が与えて呉れた緑なす大宮殿なのであった。特別に何の急用の無い限り、誰もが丸で自分の控え室の様な当然の顔をして奥に入り、カバンを下ろして先着連に加わって、好きな遊びに耽るのである。
高い木のテッペンに登ってギューッと重みで枝を垂れさして、足を苔に着けると又、蹴ってスーッと上昇する者。高い高い松の葉蔭に乗って無心に遠くを眺めて居る奴。汗びっしょりになってジュータンの苔土俵で力比べしている連中。ひっくり返って豆本に眼を血走らせている者等々・・・。 そして其処では珍しい行事は大抵行われる。学習も行われる。本校の先生方の癖やアダ名はそこで総学習されるのである。時にはトンデモナイ学習をして、2,3日して本校の職員室に呼び出される事がある。
俺達の学年の先生であり、俺にとっては隣の兄さんでもある長田節夫先生は、ひどい近視眼である。その先生は本当にステッキは盲人の杖代りに使われて歩行されているが、御自分はそれを自然に見せようとして御苦心なさって居られる処がよく分かる。その先生が(1キロか半キロ)向こうにお見えになった時、道一杯に新しい馬糞を一杯並べて、その上に薄く砂をかけて、全員木陰に身を潜めて見定めるのである。
でも俺は断った。近親感が大き過ぎて到底、お可哀想で出来なかった。
お裁縫の先生が若くして新任された。矢ヶ崎から通われる、その先生がこの道を通われる事が判った。その林の少し下った梨の木坂の中途に(雑草と蔓草が茂った)大きな藪がある。その藪の中にもぐって先生が通ったら、「姐さ、ヤイヤイ、これサに来いヤイ。」と声色を使って云うのだ。
いろいろと、嫌だ、ヤレ、と大勢に呼び掛けられているうちに、どうやら、いくらか低い人達の所へ落ち着きそうになったが、それが俺の学級の者になるらしい空気になってきた。後の事が見え透いた様で、俺は少し恐いみたいな胸騒ぎめいた気持になってきたので、何と言って断って来たか判らないが、抜け出して帰宅した。 その後どうなったかは、はっきり覚えていない。

この林は下古田連中の大会議場であり、大娯楽場であり、大劇場であり、暴非行の計画兼実施の出発所でもあったのである。
「あしたは、みんな刃の付いたナイフを持って来い。そして塩之目尻のヘーシ(林)で待ってろ。」と命が下る。
だが実施の直前までは下々には何事が企画されているのか解らない。大石良雄の心境かも知れん。そして当日、もちろん放課後だ。
「みんないいか。人参畑にゃあ裸足でヘーレ(入れ)。なるべく足跡つけるな。そうしてな、葉を痛めねえ様に、そうーっとハジイ(端へ)寄せといて、上手に首を切って引っこ抜く。抜いたら葉を元の穴のトケエ(所へ)、判らねえ様に上手く置く。元あった様に広げてな。これから行きゃあ人参のある畑ァ、いっぺえ在る。何処でもいい。そしてションベン坂の下の川できれえに洗って待ってろ。」・・・川で洗った抜きたての人参は甘くて美味かった。新鮮と空腹とマッチして、あんな美味いものはない。太い、細いの、黄色のもの、真赤のも、すごく甘いの、それ程でもないの、てんでに交換し合って食う齧る。
「残ったらコケエ(此処へ)持って来い。」
ションベン坂の中腹に齧り残りの滓が積まれた。
「みんなで引っ掛けろ!」
みんな輪になってジャアジャア、ジャアジャアと小便かけた。筒先を器用に廻して万遍なく掛ける者、崩れかかったのへ攻撃をかけて転がす者、「もっとそっち寄れ。」と遅れた奴は放水し乍ら輪の一隅へ割り込んで来る。
それで終り。なんだあ。済んでしまえば、他愛もない事だ。後はケロリとして平日の学校と同じこと。
後日談だが、四日ばかり経ってから塩之目の人から「きっと下古田のガキ共にチゲエネエ! と学校に捩じ込まれて、誰だちだか上級生が職員室の黒板の下へ中腰に半日立たされたとか。

”アレ”だって、無頓着で出す限りに於いては何ともない。それが何より分かるのは河原の水泳だ。サルマタや越中を着けて泳ぐのは大人のやる事で、全部が「フリ」だ。マル出しだ。だが妙なもので、改めて見せろと言われると恥しいのである。それをやられるのである。
「今日は品評会をやる。」みんなイヤーな顔になる。高等二年生が審査員で、草か何か斜に口に咥えちゃって、どっかと座り込み、冷やかし表情たっぷりで、「まず五年生並べろ。」
ニヤニヤ出す奴、悲しそうに沈む者、ウェへ、ワハッ!と陽気なの、それぞれ半ば隠し気味に出していると、
「はっきり根元から出さねえと、較べられねぇじゃあねえか。」と真顔で叱鳴っておいて、あわてて後へ向いて噴き出している審査員。
「これは少し身長不足だな。」 と言いながら順位を後位に落される。
「これは割合よく伸びている。」 と言って二、三人上位へ上げる。持った草の先で一つ一つ突ついては評するので、皆その度にお尻を引っ込めて笑う。
「これ、丈は なから好いが 強さが どうかな。」 と言って、草で輪を作ったのをぶら下げる。「よせっ〜」と言って振り落とす。
一応評し終えると、一等、二等、三等とエンピツで速書きしたノートの端をベッタリ唾をつけて、モノにベタッと貼り付ける。と同時に皆、ギャアー!と言って退散する。何かの拍子で審査員が尖っている時なんか、色々と添加物をぶら下げられて、辺り一周を課せられる折もある。
それをやったからといって、別に家に帰って家人に言いつける程でもないし、お互いにあっさりしていて、道端で一寸立小便した位にしか思っていないから罪は無い。

                          
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、〔カーボシ
「今日はカーボシ(河干し)するか。」「おうやるか。」「やるじゃあ。」位で衆議一決。その日は道草せずに真っ直ぐ自分の家に帰り、別に強制的ではないし集まる人数を決めてあるでもない。やりたいと思う者がジョレン、箕(みの)、古布切、ゴザの古いの、古むしろ、鍬(くわ)、金箕など、思い思いの家で間に合う物を持って大体の場所へ集合する。
川の瀬加減を見て、堰き止める場所を決定したら一斉に活動開始だ。大きな石を並べ、その間詰めに小さい石、より小石を、そして砂利を集めて置いていく。そして大きく水の洩る所へ持参の古ムシロなど入れて砂利で押える。未だ不足ならば付近の土手の草根の土塊をこいで(引き抜いて)来て叩き込む。
即ち、流れは片方の側に流されて、今まで大流れしていた所が流水を止める。水の倍増した流域は、石を除いて流水をスムーズにする。
「さあ、とるか。」「おう。」さあ、楽しい魚とりが始まる。今までどうどうと音を立てていた淵などには大きなのがスーィッスーィッと見える。
「ヤイッ!いいぞーッ!」と歓声が上がる
一番いるのが何と云っても「ヘソカンジイ」とも「ヘソッコ」と云う、腹に吸盤の付いた小柄な魚。流れの速い此ういう谷川の石に吸い付いて生活する奴だから多く住んでいる訳だ。誰にでも、徐々に水の無い方へ方へと追い詰めて掴めば楽に獲れる。他のハヤやアメッコ(アメの小さいの)は貴い代りにすばしっこくて簡単には獲れない。が、これが居るとなると総勢がその周りに集って来、大はしゃぎだ。この時間が最も長く又楽しい。そして大体なら之で終りである。が、時には大きな淵を干し上げて、大きな獲物を沢山ねらう場合もある。淵と云うのは地面の窪みであるから、下流にくだる水は或る一定度より降らない。それ故どんな自然の事故が有っても其処だけは無事なので、思いの外の大物が秘んで居るのは理の当然だ。それを狙う訳だ。
それには劇物を流し込むのだ。その劇物とは、何処の家の田圃にも消毒用に必ず買い込んで用意してある生石灰である。それの散布される以前に盗用する悪戯だ。見つかれば、それこそ大目玉だ。が、それを承知でやるんだから悪童と言うべきだ。
先ず、襲撃する家を決める。見張りを決める。状況をよく偵察して、場所と人数と人を割り当てる。トンマの奴や弱気の者や常識の無い(機転の利かぬ)者はダメである。そして上級生が該当者になり容器を携えて組んで密行する。
生石灰と云うのは一寸でも水気を吸うと忽ち熱を発する恐ろしい物だ。指に傷があって、血の出た手でやると大火傷する。ましてや濡れた手でも掴んだものなら酷い事になる。
広い田圃の中のノをやる、昼日中のドロボウだからスゲェもんだ。
幸運にも(?)成功すれば大凱歌だ。淵に放り込む。火山の噴火口の様な白煙が上がる。人通りの有る所ならば少しずつ少しずつ、人に気付かれぬ様に徐々に沈めていく。ジュッ!ジュッーと白煙を上げて淵の底に消えてゆく。しばらく其の作業が続いていると、みんなが眼ん玉を剥き出して睨み付けている淵の其処此処にスルルルー!スルルルルル!と白い腹が動き出す。効いてきたぞと皆、胸を躍らせる。
余り多く撒き過ぎると硬直して死んでしまって、食べて不味くなるので、浮上しては沈んでいく程度にして措く。すると、もう流れ込む水は止めてあるので、やがては苦しくて、浮き上がって下流へ出ようと淵の底から出て来る。大きいの程耐久力が有って始末が悪い。そこが子供の可愛い処。時には大人が通り掛かる事もある。
「この野郎共、いたずらしてるな。怒られるぞ。」とは言うが、かつては自分達がやった経験の有る人達だ。ニヤニヤしながら行ってしまう。でも、それも見張りの知恵である。もし盗んだ家付近の人だったら、知らせが出て、皆一斉にスッ飛ブ態勢は手筈が決まっていた。
面白いもので、自分の家のノを手引きする奴も出て来る時がある。親と子は、趣味も生きる目的も違う訳だ。
消石灰と云って、散布する為に既にホカした(水を混じて熱を放出させ増量されている)のも在って、そちらでもいいが効き目が少し違うのが魅力。
終った処で、適当に分配して、それぞれ家に持ち帰って行く事でチョン。

                          
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              分教場時代

、〔たたずまい
分教場時代というのは、小学校一年生から4年生までの学校生活で、部落も自分の部落と、もう一つ 他の部落の合流した組織で、4年生が親方であり、
先生は お二人とも村落住み着きの親しい間柄であるから、寺子屋も かくやと思われる、懐かしくも愛らしい時代である。先生は家庭環境は知り尽くして居られるし、こっちも先生の家の事情は知悉しているのだ。
1学年人員は男女合せて、多い組で18人、少ない組で11人位だから、合せても 1 教室に2列で20人少々出る位だ。(全校では約50人位かな) (♪)1、2年の担任は、4人のお母さん先生だが、立派に師範学校出を出られた方ですし3、4年担任は、村の鎮守様の神主も兼ねる お爺さん先生である。

学校は一棟の体育館と大棟の校舎は萱葺(かやぶき)で教室二つと小使室が含まれ、小使室にはヨボヨボのお爺さまが独居していて、先生の火鉢や弁当時の湯を大鉄瓶を自在鍵で一日中沸かして呉れている。職員室の反対側に在る宿直室には時たま男先生が泊る様だ。
先ず朝。誰も行かない早い裡に教室へ行くと真っ暗だ。そこで一間(約2米)幅ごとに仕切った蝶つがいの雨戸を、一本の支え棒(先が割り込み式)でヨイショッと押し上げて、棒でつっかえをする。段々と次々に全部開けてしまうと、初めて今日の教室の幕開けで、後から続いて来た者も手伝って、やってしまう頃には、もう二三人集って各自の席の腰掛の後にカバンが掛けられたのが見え始まる。皆んなが揃って相当の時間が経ったと思う頃になると、登校された先生が窓から身を乗り出されて、大きな風鈴(教会の鐘の様な形で取っ手が付いている)をヂャリーン、ヂャリーンともチリーン、チリーンとも聞こえる音を響かせる。庭中に散らばって居たガキどもが下駄箱のある玄関口へ向って吸い込まれて行くのである。〜♪)
[註〕♪〜♪部分は 6年後、孫達へ書いてくれた【別冊】よりの挿入である。

先生が始業のリンを振る。公使さん(小使=コズケイさま)は村の後家さまか独身老人で、せいぜい自分の御飯炊き位しか用事はあるまい。そのヨボヨボの孤独老人を意地らかして激怒させ、ドモリつつ叱鳴るが可笑しくてカラカッタのだから罪な事をしたものだ。
職員室は室ではなく廊下の一部が凹んだ処に大きな机(四本脚の付いた板)が置かれて在り、それにお二人が相対して書物されるのだが、そう云う処は見た事はないし、その上に紙らしい代物が有る事も珍しい。その廊下寄りに丸い大きなブリキの置火鉢(底に輪が三つ付いている)を間にして、お二人がひねもす何か談笑して居られる。夏分は、そうだな、机を挟んで着かれ、お二人とも二つの足を下の横渡し棒に置いて居られたっけ。
村の若い衆に教えられた事は、「雑巾かける様な風をしてな、女先生の足元に潜って行ってみろ。真っ黒いでっけいやっつがめえる(見える)ぞ。」と悪知恵をつける。てんでに実行してみるので可愛いものだった。お二人とも袴を穿かれていられるので全くムダなのに、罪な事を唆したものだ。
大体、やる悪さは殆んど本校へ行った上級生か村の青年(若い衆=わけえショウ)から知恵づけられたものだった。その中で、危険極まる悪戯が一つあった。・・・冬、教室の真ん中に(例の)火鉢が一つ入いる。先生が世話をやかれて居られて、間に火箸で無意識の様に火鉢に近づかれて灰を掻き廻すのは誰でもやりたい仕草である。そこを狙った事なのだが・・・。
「先生の顔へ飛び付いて面白えぞ。」というのは、インク瓶に水を入れて蓋をしっかりして始業前に灰の中に埋めて置けば、始まって先生が火鉢に近づいて上から覗き込んで灰を掻き始める頃、うまく「ポーン」と噴水するというのだ。俺達の組でも誰が仕掛けたかは覚えて居無いが、女の先生の時にやった事を覚えている。うまく先生が避けられたからよかったが、あれが真ともに来たら、眼を顔面を大ヤケドしたであろう。今考えれば、度の過ぎた事を教えたものだった。
女の先生は長女の方が未だ入学前だったから、可也お若かった訳だが、印象では四十五、六歳には年を踏んで居たものだった。だから卒業して何年経っても四十五、六歳であった訳だ。だから今で云う産休をなさった時は、村の一寸気の利いた若者が代理に来た。兄さんが教員をやっていると云う方も来たし、父さんが昔先生なさったとか云う方も見えた事があった。そういう先生はおっかなかった事を覚えている。一人の方は脇見をしたり隣と話をしていると、使い残りのハクボク(チョーク)か、使い古して小さくなって掃除の折拾い溜めてある(習字の時の)墨・消しゴムの最小にチビた物・ボタンなど、子供が拾ってチョーク箱に放り込んだ物を手当たり次第、力一杯に教壇上からピューッと投げ付けるのだった。だから当る者は大抵、何の関係も無い者へ飛んだ。怖くて、その人の授業は、そんな事ばかり噂していた覚えがある。
もう一人は年も若かったし、四歳上の高等科卒業生(今なら中学2年終了と云う処)の方で、この人は優しくて一時は上級生として付き合った人だけに兄さんと云う感じで楽しかった。

                          
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、〔体操の時間
今考えると、体操の時間が一番愉快な光景だった訳だと想像する。老先生は和服しか無いから、それに袴を着けて「オイッチ二、オイッチニ」と掛声をかけながら先頭に立って一、二周する。そして何だか二、三回そこいらを動かせばいい。やる事を言い付けて職員室に引き上げる。
(♪)先生はお二人とも和服姿ですが、特に男先生は何処までも袖のヒラヒラする大きな着物なのか、だぶだぶと着られていた。体操の時間は、先生が先に立って老体を左右に揺すり乍ら、「ホイショ、ヨイショ、ホイショ、ヨイショ」と、村人の働いている畑中を通って裏山の中の”寺山”と称する処まで行く。
そこは寺院の持所で、亭々たる赤松の大木が美しい樹膚を見せてあちこちに突っ立っている他は雑木が無く、一面に青芝がふんわりと、みっちり生え揃っていて、寝転ぶと大人でさえ良い気分に成れそうな緑の絨毯の大広間である。先生は着くと一拍子、ごろりんと横になり 「さあ、遊んでよし!」 と 命令を下されて、気持よさそうに 高い松の梢から 青空を透かし見ながら、目をつむってしまわれる。
子供達は大きい松の幹に抱きついて、何とかして攀じ登ろうとする奴、相撲を始める奴、鬼ごっこを始める者が、夫々の場所を陣取って始められる。帰宅後の遊びの大っぴらの再現で山中が大はしゃぎである。
かなり遊んだ頃、先生は起き上がり、先生を中心に集合させて「体操はじめ」と言われて、手足を三四度 でたらめの様に振ってから 「前へ進め!」 と先頭から出発させ、先生は殿(しんがり)で学校めがけて駈け下りてゆくのだ。

夏はよかった。学校下の河原へ川遊びに行ったり、裏の寺山(亭々たる松が疎らに在り、その下は素晴らしいムクムクしたもうせんそっち退けの苔一面の涼しい山)へ、例の掛け声で 先生が先頭になって 校庭を出発する。先生の行司で、大自然の土俵で、一時間相撲とるのである。
先生に用事の有る時は「河原へ降りて遊んで来い!」と命令が出る。嬉しい体操の時間である。崖下の柳川へ行って、やりたい放題をして遊べるからである。女子は女子で、その辺の近くで大きな石に腹を押し付けて温ったまったり、五六人かたまって砂山遊びしたり、真っ昼間、天下晴れて裸で河原で遊べるなんて、平生そう出来る女子は少ないのだから、さぞかし、この時間を待ち望んだ女子は多かったと思う。男は平常住み馴れた遊び場に放たれたのだから、特別の人を除いては、てんでに下流上流にと、互いの得意の淵や滝壺めがけて飛び込んで行ってしまう。坂の降り口近くの藪一杯には、丸めた着物が放り出され、ムンムンと夫々の家の臭いを発散しながら、手を触れると「アツイ!」と言う程に太陽の光に晒されている。
よくしたもので、次の時間に、そう余り喰い込む者は無く帰って来るのである。私の学級は他の学級より多い方だったが、それでも男子10人と女子10人であった。今でもその一人一人の姿が顔が、特徴ある表情が、ありありと思い起こす事が出来る。〜♪)

                          
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、〔老先生
女先生の体操は思い出せない。二年一緒だった訳だが、徒手体操の面影も、遊びも脳裏に無いのは何うしてだろうか。体操は男の先生が四年間やったのかも知れない。
写生の時間に、蓮華草を描いている時、(よく俺のそばへ来て、お世話を焼いて下さった記憶はある。何年の時か判らぬが)花びらを苦心していた時、チョイチョイと素晴らしいものを描いて下さって、感銘おくあたわずと考えられる場面を覚えている。あの絵、もし残っておれば、先生の御手がその紙に残っている筈なのだが・・・。
老先生は大きい声で (こわい声でなく、只太いだけ)「これ、これ」 とか「市はイチイチとして居ないとダメだぞ。」とか言うだけで叱った処は記憶に無いが、女の先生は、隅の柱の所へ連れていって、あの稜角の処へ後頭部を「コラッ、コラッ」と言いながら額を押し上げてコツンコツンとやられるのが唯一の方法で、やられた後、後頭部を摩りながら席に帰って来る人達の痛そうな顔が目に浮かぶ。
老先生は仕事を命じておいて、よく教壇の教机でコックリコックリされて居た。算数をやれと言うからやったが、どうにもならず、「おいッ!おいっタラ!先生やいッ!算術みて呉りょう!おいっ!」と揺するのだが、「うう、うんうん。」とトロロン、トロロンと云う調子。
(♪)肩を突ついて揺り起こし、やった算数を検べて貰う事がよくあった。だが子供も決して特別な事をして居るとも思わず、従って家庭に帰って、そんな事を言う奴も居なかった。男先生は年寄だから、家の爺さんの様に居眠りするのは当たり前だと思って居た、と思う。〜♪)

右手の三年が算術の時は、左側の四年は習字と云う式の授業だった。墨の塗りっこやったて「コラコラ」と言う声と目だけで、黒板で算術をやって居た老先生はやさしかったなあ・・・。
女の先生の教壇の机の中へゴト(殿様ガエル)を一杯入れて置いたり、教室の入口の所へ水一杯のバケツを置いてみたり、老先生の机の向う脚を教壇スレスレに置いて、先生ごとひっくり返したり、多分みんな上級の本校へ行っている生徒の入れ知恵だったろうと思う。正月の「お宿」遊びと、若い衆の冬の働き場所「穴蔵」と、本校の先輩の指導と誘導で、幼年時代からエロ話は訓練されていったものだ。

                          
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、〔冬の分教場
冬は体操場(体育館と云う事だが、一隅にはオルガンが有って音楽室も兼ねていた)でコマ廻し、フザケッコ、陣取りがよくやられたものだ。
「フザケッコ」と云うのは、何とも言い様の無い遊びで、ルールも何も無く、唯ギャーギャー狂い合って体の温もりを発散し合うもので、山の中の童達の蠢き合う遊びと云うか、寒さ防ぎの自らなる工夫の産物か。
冬の一番いい遊びは「陣取り」だ。正しい名称は違ったかも知れない。体操場の対角線の隅を使って紅白に別れ、大将が一番奥に一つ目印を持って、残り全員で之を守る。棒倒し運動の変型と云うか工夫したものである。一節の休み時間に汗ビッショリになって、奥の奴等は頭からポッポと湯気を立て、肌けた衣服を繕いながら教室に移動するのである。女子でも勇ましいのが居る時は、反対の対角線でやる事もある。冬の女子の袂(元禄袖)の中には必ずオテンコ(これも母や姉自家製の御手玉)がある。学校でも帰宅後でも、そればかりである。男は威張り散らして居たし、女は当然そういうものと親も本人も先生も不思議がらずに通していた。
「ヅングリゴマ」は、自分で木を段々削ってを作り、底に頭の丸い釘をチョンと打ち込み、手頃の棒の先にボロ布を結え付け(ハタキの形)、始動を両手で廻し、その叩き紐でピシッ!ピシッ!とやって勢いをつけて遊ぶのである。少人数の生徒だから結構できる。一、二年の小めっくい奴等は教室の廊下や職員室前の踊り場(六畳位の広さ)か、其処から体操場に通ずる下駄箱前の廊下(三間位)で何やかやと蠢いて騒いで楽しんで居るし、女生徒は体操場の四隅にしゃがみ込んでオテンコ(お手玉)つきをして居る。男子が「尼んとう(達)どけ」とやられると、何うにもならなかった。下手にでしゃばってウロウロして居ると、「オンナの尻マクリ」と言って袴の裾をパカッと捲くり上げられる。その頃はズロースとサルマタ等と云う物は凡そ天下に在る物ではなかったから、「ヤッーッ。」と慌てて下ろして逃げなければならなかったものだ。
大きいコマ、小さいコマ、太いコマ、細身のコマ、色の美しいの、汚いの、様々のコマが乱れ飛び、わざわざ打ち付けっこなどもして遊んだ。

                          
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、〔づんぐりゴマ〕        孫達へ書いてくれた【別冊】より
広場で、大勢で入り混じって個人個人で楽しむものにコマがある。「ヅングリゴマ」とは誰が付けた呼び名か知らぬが、如何にもコマの形を象徴していて面白い名だ。名なんぞ兎に角として、簡単に見えて実に難しく、手の込んだのが、このヅングリゴマ造りである。
先ず5立方cm位の真四角の六面体を切り出す。そして自分の好みのコマの形を予想して、丸い漏斗(じょうご)状に削り出していくのだが、四方八方から観て平均に漏斗状にする事は中々難しいものである。
周囲が出来たら、頂上部(漏斗の入口)に丸い凹みの円形を造るのだが、この彫り込みは又、尚更に難しい。が、幾日か掛かって出来た時の嬉しさは又格別である。
これだけでも良いが、若し大人から頭頂部の円い短釘でも頂けて、尾尻の頂に上手くチョンと打ち込めたら、素晴らしいノが出来上る。
コマの廻し棒は、ハタキの長い様な形の物で、糸で縒り合せた適当な長さ(そのコマに巻き付けて、少なくとも5巻きは出来る長さ)の紐を、一本の棒に結えつける。乗馬のムチと想えばよい。
先ず其の紐でコマの胴体を巻き廻し、地上に底を置いて、手で軽く支え、勢いを付けて紐をほどく。するとコマは忽ち生物と変じて地上に廻り出す。が、未だ勢いが不足で、自立するだけには成っておらん。そこで空かさず、長ムチで追い打ちを掛けて、腹を横なぐりにする。するとコマは愈々勢い付いて、激しく自立して廻り出す。
コマ製作時の苦心が表現されるのは、正に此の時である。良いノは、丸で静止して居る様に、少しの振れも見せずに、凄い空気の渦を作って、自転している。下手なノはグラグラ揺れに揺れて、瞬間も自立して呉れない。だから眺め渡すと、その動きはそれこそ千差万別の景観である。
出来の良い物同士が近づくと、相撲を始める。いずれかから他へ向かって近づいて行く。そして、2つが触れた瞬間、力の無い方(比較的小型の方)が弾き飛ばされていくのである。勝負あった!と云う処である。
勝負なんか別として、相手が居ようが居まいが、自分のコマの回転を眺めつつ、打ち続けて遊んで居る楽しさは、自作のせいか、余分に楽しいものである。極大な物を作ってみる者、極小物を作って誇る者。そんな楽しみも亦、コマの楽しみの一つであった。
地面は成るべく小石の少ない広場が好いので、村の辻とか、寺の境内とかを選ぶ。そして冬になると体育館が占領されて、何十人と云う子供が思い思いの自製を持ち込んで、コマを叩き廻すので、女の子供は隅の方に固って座り込み、お手玉に興ずる。
女の子供は小言は言い乍らも諦めて、それが女性の運命の様な顔をして、素直では無くとも黙って男に広い体育館の休憩時間を与えていたものである。
コマが始まると女子どもは狭い廊下の両側一杯にギッシリと並び座り込んで、これも楽しそうに賑やかな唄を歌い乍ら、オテンコを競い合って居たものだ。
分教場は先生が二人きりで、家庭持ちのお母さん先生と、隠居暮しの御爺さん先生でしたので、職員室と云う物は無く、体育館へ行く廊下と、教室(2室のみ)へ向う中間の、広めの踊り場の横に3畳位の部屋(間仕切りのミゾは有るが、戸の立った処を見た人は居ない)が在るだけだ。
女どもは、その先生の居られる御膝下まで割り込んで、オテンコをついて遊んで居るが、2先生はお小言をいうで無し、話し掛けもするで無く御二人で何かお話して居られる、実に昔話の様な長閑な学校生活であった。〜♪)

                          
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、〔ボク爺っさ
「小使さま」のことを俺達の頃は「ボク」とか「ボクじっさ」と言ったが下僕の僕の事から来た呼び名だったのかも知れない。あのヨボヨボの御爺さんには自分の家と云うものは無かったように記憶する。小使室には何時も囲炉裏に火は絶えず、大きな鉄瓶が自在鍵に掛かって湯気を上げていた。その囲炉裏端にしゃがみ込んで、雑談したり、時には何か爺さんに話し掛けたりもした。自分の食事用の何かは、その傍の木炭コンロでジクジク幽かな音を立て、小使室特有の臭いを発散していたものだった。
「小うるせえガキ共!」と云う様な不機嫌な顔をしていて、ムダ口はきいて呉れず、からかうとヨボヨボの体を顔にまで表現して振えて怒ったので、その仕業が面白くてからかったものだった。火を必要とする事、焼く事が要る遊びには此処が唯一の場所だったので「ボクぢっさ」は諦めていたのであろう。
冬場に教室で使う火鉢の火(熾き炭)は、ボク爺さん(ボク爺っさ、ボクじじいと呼んだ)が小使室の自在鍵の大鉄瓶の下へ、ドッサリ熾こして措いて、学校中の火器を見張って加減して呉れて居た。
放課後は教室の掃除は上級生がした。きれいになって先生に報告すませると障子をキチンと締めて、雨戸を下ろして帰るのだが、雨戸は突っかい棒(支え棒)を外せばバタンと降りて教室は真っ暗になるから居る事は出来ない。したがって放課後掃除すませてから学校に残って云々という事は出来ない。どういう時に「小使ケエさま」がそれをやったのか、子供がやるのはお手伝いだったのか定かには覚えていない。朝早く行けば、又忘れ物をして夕方取りに行けば、その戸を押し上げて、突っかえ棒で支えて開けるのである。悪さをしようと思えば庭に出て、窓の下を棒を持って、その支え棒を叩き外して走れば、教室は一瞬にして真っ暗闇になると云うものだ。考えてみた事はあるが、流石にやったのを見た事も聞いた事も無い処を見れば、やはり過ぎた事は出来ぬ年齢の為だろう。

職員室の反対側(六畳間)が宿直室で老先生の万年宿直室の訳である。畳があって燈がつくのは其処だけだので、青年の連中が何か会合して話し合う様に使われた。遊びでなく、真面目な催しだけだったように記憶する。老先生は特別の事以外は畑一枚隔てた職員住宅(自宅の様なものだが)に帰ってしまうし、女の先生は少し離れた場所に自宅が在って(御主人は県下の大先生)そこからお通いになっておられた。

                          
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10、〔女先生
女の先生は島木赤彦先生の弟嫁と云う事になる訳であるし、島木先生のお父様・浅茅先生は此の分教場の先生をなさっておられ、当時の老先生の家から暫く通われたのち、その頃の自家に新築されて移られたのか、亡くなられて違う方が建てられたのか、その辺の処は又、(小生の)兄に訊いてみる事にしよう。というのは、浅茅先生は小生の父とは懇意であったらしく、赤彦先生が長野師範学校生徒時代に小生の父に宛てた礼状が在るし(俊彦としてある)、小生の兄の名前は浅茅先生が付けて下さったものである。「達人・たっと」と謂う。浅茅先生の老夫人は子供心にも御立派な方だと思った、田舎離れのした白髪の御老母で在られた。そのせいか、女先生はお正月に小生宅へ御年始に来られたような事を覚えているが、どうだったか・・・。
(♪)女先生で思い出す事は、私が絵を描く事が好きだった所為か、私には何時も三重丸を下さった。お手本を写すのが主だったが、時折写生もやって下さった。或る時、どうしても蓮華草の花びらの形が描けないで困って居た時、「どれ、どれ」と仰って手本を示して下さった事がある。実に簡単に造作も無く描かれたたが、その形が余りにも本物の形象そっくりなのに、本当に驚いた事がある。その一枚は、中学卒業して東京に出るまで大切にしまってあった筈である。
もう一つは、この先生の唯一無二の特徴ある叱り方であるが、何か私がやったらしく、珍しく呼び出されて「コラ、言わんか。どうした。どうした」と叱言を仰り乍ら、柱の四角の角に頭の後をコツンコツンと押し付けつつ訊問された事である。痛い痛いと相当あとまで擦っていた奴や、ぷっくりコブタンの出来た奴もあったのだが、俺のは加減したのか痛いには痛かったが、そう傷痕を残す程では無かった。
体操とて何んな事をしたかは覚えて居ない。体育館へオルガンを持って来られて、何かお遊戯の様な事はやったような記憶は有るが・・・〜♪)

古老の話によると島木赤彦は此の小使室の一隅(北側に部屋が在って、其処が宿直兼家族部屋だったとの事)で、浅茅先生の御子息として誕生されたのだと聞かされていた。それが有名になって後世、上諏訪生れとかいう世評になって、村人は至極怒っているが、これが世の中と云うものか。赤彦先生の同年配の村人も老いたが、「あれゃーえれえ野郎だった」と青年時代の逸話を幾つも聞かされたり、父から兄から又聞きしたりした。唯残念な事は、上の部落に「トロッコ」と言われる、俺達の眼にも風采の上がらぬ、そこいらの地方新聞の記者とかいう人が、父や女先生の宅から、上手く騙して赤彦先生の遺物を持ち去ってしまった事である。そんな奴は何時か、ひどい目か碌な目は見ないぞと今でも思えばゴウが沸くのだ。

体操場は村の娯楽場でもあった(兄達の剣道場でもあった様に)事を思い出す。村祭の日は、学校の庭を囲んで祀られている十五社神社が両側に亭亭と天を突く大檜数本を従えて鎮座し、南側に「用足し場」(公民館)が在り、その裏の草原に何かの祠が二つ、蚕玉神社の大石碑が一基ある。この場所が村の文化の中心で、この場所で催しが行われたのである。今日に残像しているのは・・・(以下は別の〔行事・風習編〕に収める予定)

                          
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       再び 本校 通い 時代

11、〔カーボシ・その2〕   8年後に 孫達へ書いてくれた【別冊】より
夏の遊びで一番楽しいものの一つが、このカーボシだ。
好きな者同士が(でも多勢ほど大仕掛に出来るので、大抵は低高学年合同になるが)約束の時刻に河原に集合する。そして皆でゾロゾロと道具を担いで、水加減の適当な場所を見定めに遡上する。
夏だので村の全田圃に水が引き込まれた上に、河水の減退期なので、あの広い柳川(やながわ)も川幅の半分程は干上がっている。
場所が決定すると、大きな石を選んで、流路を干上がった方へと変えるべく、堰き止め策に出る。高学年が大石を並べると、低学年が小さいノを運んで隙間を塞ぐ。大凡の流れが干上がった方へ流れ始めると、洩れた水だけが原流に流れるのみになる。そこで最後の仕上にジョレンで土手の芝土を切り取って来て塞ぐ。時にはムシロや古い炬燵など持って来て有って其れ等を一面に当てる。殆んど洩水が少なくなると、さあ皆んなで漁だ。
取り合えずの目星である「ハヤ」などを見つけ、先に捕まえる。低学年は未だそれ程魚掴みが上手で無いので、浅瀬に見える小魚を取るが、高学年は干上がったとは謂え未だ青い水を湛えている淵に挑むのだ。
大石にへばり付いて慎重に探り手を深く入れている裡に、ササーッと大きい「アメ」(アメウヲ)が逃げ出して違う大石の下に入る。淵の周囲に頭を並べて凝視めて居る小ども(低学年)達が思わずワァーッと歓声を挙げる。さあ一匹いるぞ!となると、”おおども”(高学年)は「やっちゃえ!」と加勢する。
他の大石の方へは逃げられぬ様に、手柵足柵を作り、一人が探り出す。
出た!!「ソレッ!ソレッ!ソレッ!ソレソレッ!」と体中を目玉にして浅瀬を追い出し、追い上げる。田に飼われた鯉とは違って、その飛び跳ねる力は凄くて、なかなか掴めない。でも、もう此処より外には逃げ場は無い奴だので、最後は体毎おっ被せる様にして、ようやっと掴み上げる。
大きい!凄い!!こう云うノは「河干し」以外の方法では、先ず手に入らぬ代物だので、大きな歓声が挙る。
このアメノウオは極めて稀の、大人の玄人が「サグリ」と謂って、涛々と流れて、腕を石の下に入れると顔まで河波が掛かる程の激流の中で、手探りで掴み取る方法でしか獲れない代物である。
この様にして一ヶ所か二か所やると、たんまり楽しくなる。低学年の時の分け前は可愛いモロッコ一匹位だが、それでも堪能する。
区切った場所の加減で長い流域が上手く干せた時は獲物も多い。それと、平素ではとても取り組む気には成れない様な大淵を手掛けて、皆でバケツリレーで水を汲み出した様な時は、複数のアメウヲが入手できる場合もある。
もう1つ、之は悪い事だが、そう云う大淵に挑もうという時にやる一手が有る。
それは河堤を掻き上がった所に、田の消毒に使う生石灰の山が在るか見付ける。どの家でも必ず田の一部に2、3俵の生石灰を積んである。
平素は「河童」が居るとまで謂われる青く澄んだ深淵は、到底バケツリレーで水を運び出し切れる代物では無い。故にもう、この手しか無いのである。
遠くを見つめて居る見張り番、近くを見て居る見張り番の列を作り、二人位がバケツを下げて盗りに出る。藪の影、土手の陰、大木の根の陰と、忍びの使いの補助役の合図に耳を傾け、眼ん玉をギョロつかせて河原まで運び下すのである。・・・やがて・・・一掴みの生石灰を撒いて暫く経つと、小めっくい奴は早々と息苦しくなるらしく、ヒョロヒョロッと浮き出て浅瀬に泳ぎ出して来る。急いで拾い上げて、清水の溜りへ放り込んでやる。出なくなると又一掴みバラバラッと撒く。待つ。今度は数は少ないが少し大きい奴が、速い勢いで水中を迷い出す。でも段々と鈍くなる処を掬い上げる。そして、「よし!やるぞ!」と二掴み三掴み投げ込むと、待つこと暫し・・・出た!「でかいぞ!」と歓声。それこそシェーッ、シェーッと云う速さで、淵を左に右に突っ走る。
あまり撒くと獲物が死後固くなって不味いので、出来るだけ少量で仕留める様にしては居るが、もう待ち切れないと、「もっと撒け!」檄が飛ぶ。
檄と同時に”大ども”が裸で淵に飛び込み、浅瀬に追い上げるか、ザルで掬うかの方途に出て、一つ二つと取り上げていくのだ。
この方法は正式には禁じられている方法であるので、極く内密にやるか、皆にしっかり緘口令を出して措いてでないとやらない。
と云うのは、魚種を根こそぎにさらってしまうからだ。獲物は数も凄い上に、平常は姿を見せず深淵で大きく成っているアメノウヲの赤ん坊(俺達はアメッコと謂って珍重がるもの)まで狩り尽してしまうからである。
生石灰で取った魚は美味く無い。時間が経つに従って、身が硬直してしまうし、ざまが悪い。

                         
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12、〔陣取り〕      8年後に 孫達へ書いてくれた【別冊】より
賑やかなのは「陣取り」だ。似た恰好の者同士二人宛んで互いにジャンケンする。そして東西に別れて勝負する。
仕組みは至極簡単だが面白い。両軍は互いに身近な物を本陣として、それに敵方にタッチされたら負けと云う事だ。杉の大木の根株、石碑の台座、路傍の大石、道祖神の神体等々、何でも可だので(但し遠くからよく見える物)決めて、敵方が見聞に来る。その下見の時しか、その近辺をウロウロする事は禁制となっているので、周囲を見極めて来て、どの方面から攻め込むと一番いいのか考案するのだ。・・・いざ、戦闘開始!!近くに来た敵の名前を正確に名指されると討死であって、しおしお国に帰るのである。「イッチー!(市夫)のぼる!(登)八重二(ヤエジ!)」などだ。
姿は見られても、本陣に飛び付くのと名を指すのが同時の時は成功(落城)である。だから、なるべく近くまで足音を忍ばせて姿を見せずに近寄り、本陣めがけてタッチするか、近くから急に飛び出してダッシュし、相手が慌てふためいて、名を呼び損なって、あたふたする裡に正面から飛び込むか、方法や工夫は様々だ。
一番困るのはジャンケンに負けて、敵方に先に見晴らしの良い所を取られ、其処へ本陣を張られ時である。原っぱのド真ん中の一本楓などには参ってしまう。その時は、(密集攻撃禁止の)禁制を破らない程度の人数で殆んど同時に飛び込んで、マゴマゴさせて、敵番兵の口をドモらせて一本取るか、変装して見分けの付かぬ姿にして正面から堂々と行くかも一方法である。
面白いと言うのは、その変装の千変万化の態である。だが、番兵(大将)に成る位の奴は勘の良いのが選ばれるので、中々見破られる率が多い。永い付き合いの結果で、一人一人の歩き方はほぼ判るし、歳恰好と背丈だけでも見当は付くし、咳払いでもして呉れたら名乗ったも同じで直ぐ判る。頭部をスッポリ隠して体を筵に簾巻きにしてゴロゴロと転げて来る奴もいる。この時は出ている足首の型で見当が付いたりする。
こうして観ると我々は子供乍ら、永い間に相当の処まで友達の性格、身のこなしの特徴、欠点、気性の表現など、観取っているものだったと思い当る。
仲間の衣服のありったけをボロの様に身につづれ纏って、やっとこやっとこ遣って来ても凝視して観ていると、結構歩き方に癖が表れてしまうもので、たまには判らぬフリをして皆をワイワイ嬉こばせて置いて、もう一歩と云う所で「タダハル!」とやらかす番人の面白さもある。
番人の個癖も時に狙い処の一つになる事もある。慌てると直ぐとドモって、口先が詰まってしまう奴もある。解って居ながら自分でモガイテ一本取られる奴がある。「ウッ、ジュジュジュジュム」は落第、やられる。正しくは「進」なのだからだ。言い直しても未だ「ジュジュム、ジュジュム!」とやっている。
一番てこずるのは、ボロを纏い着けた様な体を、見た事も無い格好をして歩き乍ら、又その歩き方を色々に変え乍ら半かがみで来られる時だ。
そして、結構半日を楽しく過ごして夕陽を追って寺山の松の巣へ帰るカラスと一緒に、各自ねぐらに向って散っていくのである。〜♪)

                          
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13、〔陣棒抜き〕       註:上記の「陣取り」と同じ遊び
遊びで稚気てるのは「陣棒抜き」だ。紅白に別れて両陣で、陣地を公開し、その中心へ一本、何でもいいから棒(目印)を立てて置く。引っ張れば簡単に抜ける様にして措くのと、何処からでも容易に見える場である事が申合いだ。大将は一人。所謂番人だ。誰か其処へ近づいて、大将が、その来た敵の「名前」を呼ばない裡に、其れを抜き取るが勝負だ。
曰く「イッチー!」「ノボル!」「ススムッ!」「ヤエジッ!」等と。
その為に工夫があるのだ。面かくしをするのである。そこが面白いのだ。何しろ、個人の歩き癖、体格、特徴ある体の一部分、笑い声、などを知悉する必要があるからだ。首から上を完全に蔽われた時は体格、それでも判断できぬ折は歩き方、それも誤魔化して来たら足脚の傷か衣服の模様。それも着替えられて判別できなかったら、素早く後へ廻って、後頭部の毛の生え際の特徴、そこも隠れていたら飛び付いて脇の下をくすぐって声を出さす。そして、その声でで「あっ!ススム!」と言って、タッチ寸前で防ぎ止めると云う仕業。一人ばかりではない。あちらからも、こちらからも、神出鬼没に繰り出すから、大将の神経は黄色い声を張り上げて、尖り放しだ。
衣服を交換し、履物を取り替え、歩き方を変え、する。であるから的側は成るべく見通しの効く広場のド真ん中を選ぶ。そうでないと、変装を丁寧にされて、物蔭から突然飛び出されて突進されたら忽ち落城だもの。
場所柄に因ってハンディ付けをするので又面白い。「顔は隠してはいけない」とか、「衣服だけは上衣だけ変えてもよし」とか、樹木の多い所、凸凹の激しい場所、等によって変化する。
特にこの遊びで愉快なのは、お互い同士知り尽している仲間同士でなければ出来ない程度から、初対面級の集まりでも出来る位の競技まで出来る処である。実に幅のある遊びで、しかも道具も要らぬ。それでいて十分笑える楽しいものである事だ。子供知恵は無限であると思う。

                          
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14、〔棒ベース
特殊な道具を使うのには「棒ベース」があった。これは誰もが必ず一組や二組は自分で作った道具を持っているのだ。そして、こんな小道具、万年筆のキャップ程の一本の棒切と、その三倍位の棒切が千変万化の技を生み出すのである。地面に短棒の倍の長さで幅は棒の二、三倍もあれば足りる舟形の穴窪を掘ればいいのだから簡単だ。
(♪)そもそも、少しの広場ででも、場所を見つけて、何とか遊ぼうと云うのが子供の実態であろう。このボーベースもその一つだ。道路くらいの細狭い場所でも結構楽しめる競技である。道具の長さはまちまちで、大きいノも、工夫によっては懐中物さえあるが、一本の棒を丹念に皮を剥いて鎌で削って細工したのを、更に1対4か1対3の比率に切断し、きれいに角を取って丸め、仕上げる。一対一の個人競技で、交互に打者と守備になって技を競うのである。先ず地面に舟形の穴(縦20cm位、横幅3cm位)を掘る。其処が競技の中心地である。大体の方向は決めて措く。でないと、守り手は何処に居てよいのか迷うからである。一動作毎に成績が決まってゆく。〜♪)
一ゲームは三技あって、それをアウトになる迄いくらでも継続できるのだ。そして得点が累計されるのである。
第一技は、舟形穴の向う端に短棒を横に渡し、長棒で之を力一杯前方へ押し弾く。守備は遥か前方に待機して居て、それを手で受け取れればアウトで攻守交替だから、攻者は頭上を越す大打か、フライ気味でない速度のある低いのを発する。一番安全なのは地上擦れ擦れに飛ぶライナー性が最も安打の確立がある。セーフの時、攻者は長棒を舟形穴の上に横に置く。守備は拾った短棒を、長棒めがけて投げ付ける。当たればアウト、当らなくても投げた短棒が舟穴に入るか、その一部端が覗き加減に差し掛かるかしてもアウトである。
それも外れたとなると、今度は攻守の点の算定である。長棒が物差となって、舟穴のヘリ(縁)から短棒までの距離が測定される訳だ。その数(物差となった長棒が距離を測る為に回転させられた回数:尺とり計り)が得点である。即ち、投げ付けられた短棒と穴との距離が、長棒の何倍あるかが勝負である。それが切捨て方法だから、上手な守備になるとアウトか、さもなくば0点と云う場合があるし、下手で届かなかったり、越し過ぎたりして6にも10にもなる場合だってある。
それが無事通過すれば第二技である。今度は短棒を穴に縦にして向こう側に寄り掛からせる。詰り横から見れば、地平線から短棒が、頭部を空に向った高射砲の様な格好になって出ている姿だ。それを長棒の先で、その穴の底にある短棒の一端に当てがい、之も強く第一技と同じく押し弾く。あとは全て第一技と同じ仕草が繰り返される。それも無事に通れば第三技となる。
第三技は少々違った所が出てくる。先ず攻者は右手に長棒を、者が叩ける様な形で持ち、余った右手の指で短棒をつ、まみ、舟穴の位置に立ち、短棒を上空に放り上げて、落ちて来る処を素早く打撃して飛ばすのである。左手を補助に使ってはならぬ事と、打てぬ時は三回までは打ち直しが出来るが、三振すればアウトだ。
これは中々練習が要るのである。当っただけでは効果は無い。穴の場所から相当に離して飛ばさないとダメなのだ。それから之も受け取ればアウトは今迄と同様だ。その後、攻者は長棒を持って穴の付近で身構える。守備は攻者に打ち返されぬ様に隙を狙って舟穴の中に自分の短棒を投入するのである。ここが1勝負の山である。若し万が一、攻者に長棒でカーンと打ち返されたら百年目、一挙に30点位は取られてしまうのである。この山場の第三技が終わると、再び第一技へと繰り返されるのである。単純の様で変化があり、二人だけで遊んでも結構時の経つのを忘れさせる。
(♪)路地でも出来、軒端でも可能と云うものである上に、二人あれば結構楽しめるものなのだった。それだけに誰でも二揃や三揃は道具を作っていたものだ。学校のカバンの中にも入る様に作られるので、あらゆる場所で行われたものだった。〜♪)

斯様に、思い出に残る遊びと云えば大抵は本校へ通うように成ってからの事であるが、思い出してみると、分教場時代いわゆる幼年時代とも謂う時も、穴蔵とか野原とか正月の行事の時、上級生や大人から唆されたり、悪知恵を付けられて、記憶に残る悪さも、面白い思い出も在るには在る。
〔註〕原本では、この後に【七】の 分教場時代 が 書かれていた。

                          
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                 原本では【四】

中学生となった事で、あの懐しい村童の生活と云うものは終止符が打たれた。(旧制の諏訪中学へ入学)だが、その村童生活こそ永く残る自分にとっての血の滾る様な思い出である。どれ一つとっても、旧友の言動の伴った走馬灯の様な回想が息づいて来るのだ。
15、〔朝のスケート
目が開く。家の人の目をさまさぬよう忍び足で床を抜け、胸を踊せ乍ら支度をして、ソット雨戸を繰り屋外に飛び出す。馬屋からスケートを出し肩に掛けて、はやる胸を押えるようにして小走りに村を駆け抜ける。人には誰にも会わない。村を出外れた時、遥かに見渡す田の面の果てに、動くもの一つない時の爽快さっと云ったら誰にも分からぬものだ。
「オレが一番だ!」
昨夜凍った田圃の氷の上に自分のスケートで最初のスケートの白い跡を付ける気分、何にたとうべきか。
その時には、道も何もない。後から誰か来られたらおしまいだ。堤を飛び越え、畦を走って、それこそ脱兎と云う文字通りの突進なのだ。
透きとほる氷の上に乗り、カラカラーンと音を立てて下駄スケートが氷の上に放り下される快哉の感じ、紐を結ぶのも、もどかしいとは、こういう時の事だろう。そして悠々という感じで滑り出し、ああ、何という気分。
やがて段々と友の数が増して、朝日が山の上にギラギラと輝くと時間切れ。いそいで帰宅して、家人と朝食、そして登校である。

                          
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16、〔ハヤ釣り(1)〕        孫達へ書いてくれた【別冊】より
柳川でのハヤ釣りは何物にも代えられない楽しみでした。夏の朝、幾人もの釣好きオジサン達が、家の庭を通って「庭かしとくれ!」と言い残してそそくさと裏の坂道を降りて柳川の釣場入りをする。正十サは常連。本家の織サは嫌いではない。それに、時に連れて人も変り色々である。
家だって、その獲物を見ると自ずと欲が出るのが自然でしょう。兄さんの使った小さいが張りの効いた棹が、縁側の上部に釘掛けにしてある。兄さんは道楽人では無いから、そんな事をする暇は持たない。でも黙って何時の間にか、良い釣針や釣糸のテグスを取り換えてあった様である。
昼間、橋の下に在る淵に「ハヤ」が群がって泳いでいるので嬉しくて、釣竿を下ろして、釣針に川辺の蜘蛛を(葉が巻いた巣の中に居るノを裂いて)餌にして付け、大急ぎで飛んで行って糸を垂れた。
根気よく群の中程に釣餌を垂らすのだが、観ているとスイスイと見向きもしないで泳いでいる。
やりくたびれたので帰宅して父に話すと、「ハヤは朝と夕方、お腹が空いてくる時だけ、流れに遡って餌を探す。石に這い上がっている虫や川の面近くを飛んでいるカゲロウなどをパクつき乍ら、ぐんぐんぐんぐん遡って腹を一杯にする。お腹一杯になると元の淵に戻って、ゆっくり休むんだ。だから庭を通るおじさん達をごらん。陽の出すぐ前とか、夕陽が沈みかけた頃行くだろう。ほかの時に行ってもムダだよ。」と話してくれた。
「よし!」と翌朝、家中まだ誰も起きない裡にソッと雨戸を開けて棹を持って出掛けた。草露は可なり多いが却って足が濡れて気分が爽やかになる。未だ眠むかった眼も、葉の巣蜘蛛を剥く頃には気持がスッキリして来た。
川を見渡すと驚いた。上流にも下流にも、すっかり支度を整えて川の中に入り、腰にビク、左手に浅いザルを持った、見知らぬおじさん達が上流へ又は下流へと釣場を移動している。そして見て居る間にアッチでもコッチでも、ピンピンと釣り上ったハヤをザルに受け取ると素速くビクに移し餌を着け換えて、再びサッと棹を振ると新しい餌釣が水中に飛ぶ。速い人はその瞬間に、もう又、次の獲物を釣り上げている。
《あんな事されたら、家の裏のハヤは忽ち無くなってしまうじゃないか!?》
と心配になる位だった。半ば感心して見とれて居る自分の愚かさに気付き、「俺もだ!」と釣餌を流した。
時々魚が餌に近づくと思う波の動きがあるので、急いで上げてみるがダメだった。家の裏は恰好の釣場(淵から遡って来る距離が約200米どころか、一淀みして更に上流へ又300米の流れが在る)のだが、幾度も無くなった餌を差し替えて流すのだが、どうしてもダメだった。餌が大き過ぎるのか?糸を流す場所がダメなのか?全く分からぬまま引き揚げた。
兄さんに訊いた。すると「餌も流す場所も好い筈だがなあ?」と言って、俺の遣り方を細かく聴いてから、
「針が沈み過ぎて流れているから、魚たちに上手く餌を食べられているのだ。釣糸の近くで小さく魚の跳ねる波が見えたのは当然、食べたくて近づいた魚で、上手くやれば釣れる奴だ。明日は、釣針の先を水の中に沈めないで、ちょうど釣餌だけが流れて行く様にしてみろ。そうすれば、流れが速いから繰り返す打ち込み回数も多くなる代りに、魚の方でも「アレ!アレ!」と慌てて飛び付くから唇や顎に、時には横腹に引っ掛かって上って来る。そう云うノは途中で川の中に落っことしてしまう事が有るので大急ぎで掴んでしまわねえといけねえから、慌てて左手のザルで受け取るんだよ。お前達のは丁寧に口の中、時には腹の中まで針が入ってしまうので、釣れた魚を針から離すのに時間が掛かる。」と。
その翌日からは一匹、二匹と数が増し、釣場移動も少し多くなった。帰ると母は学校の時間を心配し、父は古傘の骨で竹串を作って囲炉裏端でお茶を飲みながら、チュッと簡単にハラワタを押し出してから、炉の火を「渡し」の下に掻き出して焼いて呉れる。大急ぎで朝食をして登校支度を済ませた頃には、今朝の獲物はシカツメらしく天井の魚挿し桟に収まっていたのだよ。
この獲物が、やがての日に、母の手に煮締められて、俺の学校の弁当箱に御伴して呉れるので楽しいんだよな。〜♪)

                          
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17、〔ハヤ釣り(2)〕
夏の夜は早く明けるのか、夜の遊びが疲れを残すのか、目ざめは家人と大差なしか、やや遅れる。大急ぎで縁側の天井に横掛けにしてある釣竿を担いで裏の坂を馳せ降りる。柳川で清澄な洗顔をして、傍らの葦群の葉蜘蛛を採って釣針に刺して、瀬を見て流れに放り出す。
セラ、セラ、セラとせせる川音を伴奏に、眼は釣糸の浮き沈みして流れ下る水面にピタリと喰い付いたまま、唯無心に投げては下し、流しては揚げて、静々と上流から下流へ。
ピリピリッと糸に感じた瞬間、パッと竿先を浮かした水面にピチピチと光る光沢の出現こそ、天下の快哉。
手元に引き寄せると固くはち切れる様な銀色のハヤが尾をピキピキと突っ張って可愛い口をパクパクして、「オイ、早く口辺りの針外してくれよ。」と言わんばかりに左手の中で力む。ビクに放り込むとビクの中で音を立てて跳ね返っている。そのビクの中から聞こえる音の嬉しいこと。
その音がやがて静かになって、口のみパクリパクリとやり出す頃は、次の蜘蛛が針の先に位して、もう水面を浮き沈みしているのである。
下河原の橋近くまで行く頃、村道を歩く人数の多少を見て大よその時刻を予測して家に引き上げる。
少ない時は2、3匹。多い時でも5、6匹。家の東裏の小川でハラワタを抜き、囲炉裏に座って居る父に渡すと、そこの頭上の天井にある、唐傘の古竹で作った串に刺してくれて炉にかざしてくれる。大急ぎで朝飯を掻き込んで学校へ出掛ける。その頃には、もう頃よく焼けて 天井の串差しに前のと並んで差し込まれている。これがやがての日の、自分の弁当の必要な折のお采入れに煮込まれて入るのだ。
藁草履をはいてビチョビチョと、爽やかな清涼の小石大石を伝い飛び歩きつつ釣り渡るあの気分。そして何と言っても、あの瞬間の醍醐味だなあ。嗚呼。

                          
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18、〔頭の張りっこ(1)〕
何となく集まった群童が、ベース(草野球)やる数に過ぎるか少ないかの時、又は何か皆がガヤガヤやりたい気分に、誰彼となく駆り立てられて居る時、「アタマノハリッコ、やれや!」となる。
『首の上に乗っている頭部の何処か』へ相手の手先が触れた瞬間に、その首は落ちた規則上での戦闘である。それも大体、力の似た者同士がジャンケンで赤白に別れて行うのだから、下手に自分の狙いばかりに拘って相手のみ狙って居た(の)では何時、敵の仲間が後方から忍び寄って、後方から首を掻かれるやも知れぬのだ。それこそ四方八方に目を走らせ乍ら乱れ飛び交う戦場での一騎討ちである。
殆んどの者が敵を防ぎつつ、その隙を見て上から敵の防手に勝る力を加えて頭部に触れるのである。
何時の頃からは不明だが、喧嘩はしないおとなしい「イッチー」が、一方の強手に祀られる様になってしまった。デカイ八重二君は力はあり背丈があるので上から構えられてバカンと下されると誰にも防げぬ力があり、登君は背は高い方だが力が強い。そしてボスでもある。が此の二人どういうものか、俺から見ると末梢神経が遅い気味に感じられる。他はどれが来ても、遥か弱かその両方だので、さして問題にはならなかった。
ところが「イッチイ」は背が中位以下であり、従って暴大な力量も持ち合わせない為か、何時どうして編み出したか「突き上げ」と謂うか「擦り上げ」と謂うかの手を悟り得たのである。詰りはスバシッコイ奴でなければ出来ぬ技だので他の者に真似が出来ないのだった。一つ間違えば相手の眼を突き上げてしまうから危険である。「イッチー」は、それで上手く敵のオデコを狙うのである。
愉快だったなあ。単純であり乍らスリル満点だった。個性丸出しの戦法が出るのだった。

                          
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19、〔頭の張りっこ(2)〕     孫達へ書いてくれた【別冊】より
実に単純な事であるが、遊び道具の少ない、適当な遊び場が無くて、子供達が見つけ創る以外に仕方ない頃の原始と言ってよい程の田舎の百姓部落では、こんな事が大層賑やかに出来る楽しい遊びの一つになる。
決まり手は唯、相手の首から上の部分に自分の手が触れればよい!と云うだけの事である。これも自然と集った子供達が、敵度の似合う相手を見つけてジャンケンで東西両軍に別れる。
所謂、昔の武士の様に個々の一騎討ちである。「ヤーヤー我こそは・・・」と言わないだけで、行きづりの敵手を見つけて戦いを挑む。《之はイカンな!》と思う奴は逃げて、無駄な命は捨てたくない戦法も一つの方法だ。だから力の無い奴は駆けずり廻り逃げ廻っているのに、強い奴は余り脚の方は歩かず手先を器用に使って、向って来る奴を薙ぎ倒し切捨て静々と前進している。
背丈のある奴には上から叩き落とす様に脳天からやられてしまう。力の強い奴には、こっちの攻撃の手を払い落して頭に触られてしまう。
黙って後から横から攻める事は禁手で、必ず面と向かい合って「尋常に勝負」するのである。今考えてみると、刀槍でやり合った時の戦い方によく似ていると思う。古来より横、後からバッサリと云う手が禁じられているだけに、如何にも男らしい遊びだと思う。
俺の全盛時代には「八重二君」と言う、身丈の大きい優しい友と、「登」と言う力の強い(これは喧嘩も多いが強くもあった)友の二人が在った。
初めは八重二君の大上段からバシャバシャとやられるのには参ったものだ。又、登君の力強い払い手にも何う仕様も無かった。
散々考えた挙句に一手を編み出した。下から突き上げて顔に当てる事だと考えた。試してやってみると面白く当った。
その極意奥儀は、相手の動作の隙を見極める事と、見極めたら間髪を入れず素速い直線的な線で下方から顔めがけて突き上げる事だ。効果を挙げ出すと、「イッチーの突き手」と囁かれるようになった。二人は勿論の事、上級生からも「嫌だぞヤイ!イッチーは」・・・鼻を突かれた、顎を突かれた、眼を突かれた、頬に刺さった!唇を切れる程やられた等々、悔しさも交えた批評が飛び出した。でも、背が低い者には之しか勝つ手は無いもの、「しょうは無えさあ」で通したものだった。大抵最後の試合には一方の代表の様な形になって、皆が取り囲んで見守って居て呉れたものだった。
特定の場所の要らない個人個人の全力の出せる競技の一つだった。八重二君は隣部落へ養子に行って郵便局勤務だったが、お酒好きで老後は視力を失って不自由な暮しをして、財には恵まれ乍らも逝ってしまった。登君は師範学校を出て、校長を一期やって退職し、達者で悠々自適の百姓爺さんに成ってやっているそうな。
                          
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20、〔メンコ(1)〕        孫達へ書いてくれた【別冊】より
遊び場が無くなった冬の雪景色、外は寒いが何とか外が恋しくなった頃、流行り出すのがメンコである。冬の為に一年間、各自が何処にか蔵って置いた昨年の古いノを引っ張り出して来るのである。メンコと云うのは、厚紙を丸く型抜きして表紙に色々な絵のある紙を張り付けたモノで、大小様々だが、遊びには普通、或る大きさ(まあ直径10cm位か)が自然と決まって来る。
先ず、棒で軒下の雪の無い乾いた地面の空き地に丸く直径約6、70cmの土俵(場)が描かれる。てんでに其の中(場)へ、人のノと重ならない様に持ち札(メンコ)を置く。ジャンケンで攻める順序を決める。
規約は、失格の要件が3つ。他を入手できる要件が3つ。合計6ヵ条である。
失格した場合は、攻撃札(張り札)もその儘の形で土俵に残し、次の攻撃者に権利が移って交替となる。
1つ・・・体や衣服の一部が土俵やメンコに触れた場合は失格。
2つ・・・攻撃を掛けた折、自分の攻撃札が土俵から外れたら失格。
3つ・・・攻撃札が相手の上に乗った時は失格。
相手のノを入手できた時は、更に攻撃が続行できるのだが、その要件は
1つ・・・自分の攻撃で、他人のノが「土俵外に一寸でも出た」場合。
2つ・・・風圧で相手のを「裏返す」と土俵の中で在っても可。
3つ・・・自分の攻撃札が相手の下に一寸でも「潜り込めば」可。
この遊びでは、どんな振り下し方をすれば、より強力な風圧が出て、相手のノを動かす事になるのか、の工夫が勝負である。だから自ずから各人独特な姿勢で戦うのであるが、この勝負の魅力は、相手のノが入手できれば、其れが以降文句なしに自分の財産に加入される、と云う処にある。
メンコも百戦を経たノになると見た目は古ぼけているが、何となく重量感が在って、適当なしなやかさ有って、地面の凸凹に順応して、地に密着し、張り付ける(叩き付ける)にも思う様に張れて素晴らしい。どうかして、或る人の持つ、そう云う特札が在ると、所謂よだれの出る程うらやましくなる。
新しければ新しい程、地面への密着度がギコチなく、どんな平面に置いても軽っぽいし、間隙だらけで何処からでも潜り込ませる弱点を曝し出している。
一番多く戦われるのは、冬の登校時刻である。村外れに近い家の土蔵の軒などだ。其処からは遠くズッと学校玄関までは他部落を通っての一本道で、其処に陣を張って部落中の仲間が、必ず通過せねばならぬ所が一番いい。途中から幾らでも加入出来る仕組だので、好きな奴は早めに行って場所開けをして仕合をやっている。
部落に宿を取っている先生が来掛かって場は終りになり、ぞろぞろと先生の後について、あたふたと登校して行くのだ。時には熱中し過ぎて気が晴れ晴れしちゃって、かなり行ってから「あ、いけねえ。カバン置いて来ちゃった!」と土蔵の軒下まで飛び帰る奴も在ったりする。
取られっ放しの朝も有り、思わず量が増した心楽しい朝も有る。
帰宅してから、カバンから今朝の戦跡を振り返って、珍しいノに見入ったり、大切にしていたノが永久に還らぬ方へ行ってしまったりして、《さて・・・!》と又、ローソクを塗って溶かして重みを着けたり、新しく入手した新品を態々角からそっと揉み解ぐしてやって、密着度を良くしてやったり、嬉しい、楽しい、又の戦いの準備をして措くのである。〜♪)

                          
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21、〔メンコ(2)〕
道の両側が凍み上がったり、道路から外れた跳ね廻る場所は雪に奪われてしまう、晩秋から冬のかけての学校往復は単調になる。何処かで小休止と体力発散をせねば遣り切れない悪童共に、その時期の友になってくれるのはメンコである。1年間眠らせて置いた棚の奥から、各自秘蔵のメンコを持ち出して技を競うのが嬉しい限りだ。
店から求めたばかりのメンコは、見るからに軽っぽいし安っぽく見える。何人もの選手達の手油を吸って年を経たメンコは、見るからに惚れ惚れする風格がある。見ただけで座を圧倒する。傑将となると、そうした秘蔵物をミカン箱にぎっしり詰めて持っているのだ。大きな財産である。全ての物と交換できる童児っ共の貨幣の役目まで引き受ける場合さえある。
そしてその技たるや、また個性の歴然たる表出であり、その個性たるや、絶対に他童の真似の出来るものではない。
羽織るハンテンの端から吹き下す風の力、急激にシャガんだ瞬間に出る股間と脚部との間に巻き起こされる風渦、打ち下す掌の力、相手のメンコに在る地面にある微妙な隙間めがけて、すくみ込む様に挿し込む技量、あの何糎(センチ)と云う薄っぺらな厚さの敵体に自分の体側を打ち付けて圏外に弾き飛ばす特技、何とも云えぬ技の数々の合成されたその秘術たるや、決して決して同じ手の打てるものではない。
下手な奴は新物を買う一方、上手な者は毎日溜まる一方あるが、これだけは技の上下であるから親の干渉の埒外の事である。
誰もが、自分のその日の計画にのっとり、家を出る時刻を加減するのである。早く出て敵を待ち伏せる者、今日は見物と悠々と家を出る者。そして土蔵の軒下、空家の庭などが自然と競技場に選ばれて、直径約三十糎位からせいぜい大きくても五十糎どまりの円を、その辺に有り合わせの棒切れで描いてから、各自1枚ずつをその場に張り、ジャンケンで攻撃順位を決定するのである。力が七分、運が三分と云う処か。前者が追い詰めて、もう一息という処で終ったその次の者は大きな幸運者で、労せずして大漁をする事がある。そうかと思うと、前者が総なめしてから自己の一枚を最も攻めにくい処に置いて順位を譲った折など、惨めと云う外ない。
円枠すれすれに、それも2、3枚半ば重なり合って隙だらけ成った姿勢を譲られた次番がホクホクしながら気を落としてやって、取る処か自分のまで其の傍に無駄目を残して舌打ちして順位を譲らねばならない、泣くに泣けない場面だって折にはある。その次に来た者こそ勿怪の幸い、大儲けと云う事になる。
登校途中で熱中していると、「お前だち、今日は休みか。」などと近くのおじさんにおどされて、大部隊はカバンを横抱えにしてワッショイワッショイと馳足行進を始める様な場面も時にはあるが、大体の(切り上げ時の)見当は、其処を通る何かによって上手に切り上げられるのは妙なものであった。

                          
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                   原本の【八】

幼時の事は、思い出と云うより母父や兄姉から言い聞かされた事が、いつの間にか、自分がやった事の様に綴られてしまった事が多いような気がする。
その一つに「赤いシャツ豆イチ」と「新桃太郎」の話がある。
幼少の頃は、父は巡査を中退して家に入り、祖父の農家を継ぐ事になってはみたが、なまじ世の中を見て来た為に理想ばかりかざして百姓が手につかず、それに村役には担ぎ出され続きと云う時代だったらしく、「八月・やつき」(他県=甲州・越後から一戸に専雇されて春先から秋口まで働く人)は三人も入れて、謂わば大袈裟の派手な農業経営ばかりやっていたらしく、それこそ子供の世話など見ている暇は割愛されていたであろう。俺のすぐの兄は「坦平」といったそうだが早死してしまい、その後へ出世したのが自分で、祖父母は大層喜んでくれたそうだが、俺は話だけで記憶していない。

22、〔祖父と父    江戸時代 と 明治元年生まれ
ここで序でに家庭の話をしておくと、祖父は奇妙な人で大工ではないが大工仕事というが大好きで、自分で家を建ててみると言って、一切の道具を持ち(その位だから大工のやる処を一生懸命観て来ては盗技していたであろう)、自身で材木を刻み、とうとう今の俺の家(完璧な養蚕農家)を建てたのだという。惣領は村の内へ養子に出てしまい次男坊は軟弱で浪費生活ばかりであった。末子の俺の親父はきかん坊で、明治の御世になって(明治元年生まれ)巡査という職を試験で採用する事を知り、親に内緒で書を漁り、文字を習い、長野まで出掛けて受験し、パスしたので初めて父親に打ち明けて家を飛び出してしまったと云う始末らしい。土蔵の中には明治初期のすばらしい書物(アチラ語を漢字のアテ字で書いた万葉仮名の様な題名のもの)が沢山あったし、父の習字したという筆写本が一杯(ゴボウ筆であるが力強い若々しい筆勢)在ったものだった。外国人著の法律論書の翻訳本だった。若い俺が土蔵から担ぎ出して読みかけてみたが、その儘にして、やがて古本売却の折、一緒に出してしまって、何だか今考えると罪な物を失ったと思わぬでもない。
家の跡取り(次男)が亡くなったのが先か、今の俺の生家が新築されたのが後か、それは聞いた事も尋ねた事もなく、ぼんやりしていたが、父は志半ばで百姓に引き戻されてしまったのである。姥捨山の見える辺りに勤務して居たらしい。八幡の豪農の持屋に駐在所だか宿所が在ったらしく、そこのお嬢さんと仲良しにして頂いたと言って、素晴らしい美人の写真を母が見せた。そして又、その筆跡たるや子供心にも素晴らしい文字だと思った。
父の育った家を「大家・おうや」と言い、俺の里(祖父の建てた総二階の板屋根の家)の家を「隠居屋」と言っている。だから俺は、養子に行った人も、おおやの人も、そして祖父も祖母も記憶に全然ないのである。
兎に角、あのドデカイ農家と大きな土蔵を付けて、新宅を自分で造った祖父(江戸時代の人間!)も尋常な人ではないし、汽車も無い時代に、ジャンジャックルーソーの民約論その他を独学で読んで、巡査試験を長野市まで受けに行って合格した父も一風変わっている努力家で在った事だけは確かである。それに比べるとその子孫の芳しくないにはチトお恥ずかしい次第ではある。外れた。話が外れ過ぎた。「赤シャツ豆イチ」だったな。

                          
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23、〔赤シャツの新桃太郎
俺が家族の外に放り出されて生育した事はこれで判る。聞く処によると、どこから来た(貰った)物か判らないが、赤いシャツ一枚着ただけで裸足で村中かけ巡って生きていた事は確かだったらしい。そして体格はチンチクリンだったらしい。それで可笑しいのは、俺の二男・保美が、丁度同じ様な境遇で育った子である(何かと多用である上にすぐ下に弟が生れて目の外にずれた育ち方、独りでコロコロ親の知らない処で遊び廻った子)。
辻に傍の鋸の目立屋さんが「お前はな。この日向へ来て、何が面白いか知らねえが、チンコロぽちっと出して、じいーっと俺の仕事よく見て居たっけえ。辛抱いい子だと思って感心したもんさ。」と冷やかした事がある。その事は俺自身は余り記憶に無いが、俺はその裏の家の忠次君の父の鍛冶屋さんのフイゴが面白くて直ぐ飛んで行って見入った様な覚えはある。
(♪)おじいタンのおうちは、おひゃくしょうだったので、おかあさんやおとうさんに あそんでうただくことは できませんでした。
うちじゅうの人がみんな おしごと(はたけ、やま、たんぼ)に行ってしまうとひとりで村中を じゆうに あるきまわるのです。
鋸の目立やさんの前にしゃがんで、ギッギッギッギッという音をきき乍ら、太い糸でまいた 大きなメガネをかけた おじさんが、思い出したように時々 話しかけてくれるのが嬉しくて、「市公はいくつだ?」とか「三毛いくつ子を生んだや?」に「うんうん」と、いいおへんじをしてやって楽しみました。
地面から一またぎで上がれる高さの、広い仕事場だったので、しゃがんだ足が疲れてくると、床に這い上ってゴロンゴロンと、蜘蛛の長く短く絡みながら垂れ下った天井を眺めて鼻唄を歌うと、そのおじさんも、調子の合った声を出して合唱してくれたよ。時には涼しくて眼が覚めると御爺ちゃんの臭いのするおハンコが体に被さっていた事もある。今朝代サ、今朝男サというおじいタンよりも一つと三つ年上の子供さんがあった。今朝男サは力の有る優しい方だったが、おじいタンが東京に出ているうちに亡くなったそうです。
長めの白毛混じりのマツ毛の下に垂れ下がる様になったマブタの奥から、何時も笑いかけている様な優しい瞳が懐かしい。〜♪)
そうだ、其処を少し下って奥へ入った辺りに「バクロウさま」が在った筈だ。近くまで行くとプ〜ンと懐かしい馬糞の臭いがして、小さい胸をドキドキさせながら覗くと、大きな鼻と大きな眼玉を光らせた馬が複数居て(自分の家には一頭しかだったが)、色々の仕草を見せてくれた。
馬には小便の出る所が違ったのがいる事、馬のチンコロはどでかくて真っ黒い事、もう一種類の馬は尻の穴からフンと小便を別々に出す事等を、長い年月かけて詳細に学び取ったものである。

そうして、これも自分では覚えは無いが、母と姉が、そして父も兄も、
「あれは、何時どんな気持で言い出したものか不思議だ。あんなちっくい癖に「新」の訳が「新しい」なんちゅうこと知ってる訳が無えだが、『オレハ、シンモモタロウダゾ』と言ったでな。」と言ってよく笑った。その頃か、それ過ぎか定かでないが、新桃太郎さまがトンデモナイ事をしてしまったのである。

                          
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24、〔ツバメの子
「おお屋」の上の家、「いんきょ屋」からは前の家にあたる家に子供が四人あった。長男は後に俺達を教えてくれた長田節夫先生、その次がこの件の指南役・天下の益吉師匠である。どうした事か、この家の男二人はひどい近眼である。下の女二人は正常なのだが。その益吉さんは歳は四、五歳上だったと思うが、兄さんほど切れる人では無かったらしい気がする。
燕と云う小鳥は霊鳥として農家は大切にした。不思議な鳥で、居付く家には毎年やって来て巣を掛けるが、全然巣掛けをしようとしない家もある。家の造りか陽の当り具合か、地勢の加減か分らないが、兎に角「隠居屋」には毎年営巣に来る。縁側の頭上に造り、「大扉戸・おおど」のある厩の天井にも造り、高い軒の梁の鼻先に造るで、南側は燕の巣だらけである。縁側の上のノは縁に糞が落ちるので、下に雑巾を置いて、朝晩糞を拭いてやっているのである。夕方は人より早く帰巣するので、雨戸を閉めてやると、夜、チチチ、チチチという可愛らしい燕の寝言が聞こえる。雨戸を開けると待ち遠しかったとばかりに餌探しに飛び出す。
農家は早朝に家を出ると、時によっては弁当を持って出れば夕方まで帰らぬ時だってある。「あの時」は、どう云う時にやったかはハッキリ覚えていないが、兎に角、益吉さんが命令する儘にしただけである。
益吉さんは厩の天井の燕の巣に眼を付けたのだ。それと云うのは、其処は「大扉戸・おおど」を閉めてしまえば逃げられないのである。その大扉戸を閉じればと云う処に眼を付けたのだろう。細かい事の運びや段どりは知る由もなく、「面白い事をする。子ツバメって可愛いだろうなあ。取れたら皆に自慢してやろう。」位に思って居たのだろう。
記憶像なのか幻想像なのか、その辺は定かでは無いが、今脳裏に浮かぶのは・・・大扉戸を締めて暗くなり、小さい明り取りの窓の幽かな明りの中で、梯子を掛けて天井近くに登った益吉さんが燕のタチッ子を取り出してくれる姿が映るだけである。たぶん親燕は気が狂った様に外の屋外を飛び交っていた事だろう。又、大扉戸を開けてから巣に入ってみて可愛い子燕の居ないのを見て更に狂気の叫啼声を上げて狂い舞った事であろう。そして人間社会では、益吉の家の人、市夫の家の人、そして近所の人々が集まって、でかい騒ぎをした事であろう。
「燕をいじめると家が流されると謂われているのに。これはエライ事をして呉れたものだ。何か祟りが有るぞ。馬鹿にも程がある。家の人は、そんな事も教えていないのか。きっとひどいバチが当るぞ。・・・。」
多分色々な事が叫ばれた事だろう。村始まって以来、はじめての事だと言い、とんでもない事をしてくれたと言い、もう村へは燕は来ないぞと言い、勿論この家には、もう幸福の燕は来なくなるぞ・・・。」と話された事だろう。
その後どう始末したのかは覚えていないが、今、里の家には、又それから後でも、燕が来なくなって叱られた事は無かった。只、益吉さんは、それから、眼が悪いのでブリキ屋に弟子入りしたが間もなく屋根から足を滑らして仕事場で落命したと聞き、市公(俺:イッチー)は折角農林省に就職できたが病気で再起不能となり、人生に大つまずきをして碌な人生は送れなくなったのでチョン!という所。

                          
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25、〔ものさし刀
母は隣村・玉川の名助役・飾屋の丸茂市右エ門の次女として生れ、器量は別して好い方では無かったが「あいのサ」と謂って評判だった娘(試験で二級特進した才媛)だったので、当時としては十分の躾は身に付けて貰って居たので、八幡神社の娘さんとも対等に付き合えたし、田舎へ引っ込んでから裁縫塾を開いて村のインテリ娘達が来ていたのである。
うろ覚えの様だが、これも母達の話から生じた幻想か・・・今の下座敷(現在、里の兄の居間)に裁ち板(たちばん)と云う分厚い大仰な裁縫板がコの字型に置かれて、お針子さん達が居られた景色がある。今残っている写真では、俺が二歳頃の姿で母の膝に乗り、姉はその傍に袴を着け髪を高く結って、後方、左右に昔流の髪型の針子さん達が写っている。軒下の形は今現在と寸分変っていない。凍み大根と凍み豆腐が軒一杯に干されている。
こんな訳で、家の物差は母の大事な道具であった訳である。そして新しい物差を求めて来たのであろう。益吉は俺の家には六尺の物差が在るという事を前から知っていたと云う訳だろう。当時の村童達は刀の代りに棒を腰に差して遊び、各自が木を削って刀を造り、色々特意の物を持っており、それでエイッヤッ!とやっては喜んだものだが、或る日或る時、益吉師匠は「素晴らしい刀を作ってやるから、家から一番新しいのを二本持って来い。」と言ったに違いない。そして俺も嬉しくて応じた訳である。造って貰った刀を腰に差して得意然として母の前に出たと云う訳だ。そしてその後は想像に任せる様な騒ぎが起ったのは当然である。
上手く騙した奴も偉いが、それに乗ってダマされた者も年下とは謂え、余り利口とは申されまい。六尺の鯨尺の新品で作ったのだから楽をした割合には、さぞや素晴らしい出来栄えだったに違いない。中々に着眼のいい益吉さんだった訳である。

                          
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26、〔タチッコとり
タチッコ・・・小鳥の雛(ひな)が、巣から試みに 外出したばかりの ものを呼ぶ名である。遊んでいる時、ひょっと見つけるのだ。
小鳥は皆、高い所を素早く飛んで、羽ばたきなど見せるものではない。だのに、地上すれすれに、しかもパサパサと羽根を動かす処まで見せて、ノロノロと一生懸命逃げるのだもの、俺達には直ぐ見分けがつく。
「あっ、タチッコ!」さあ、追う追う。追って追って追いまくるのだ。でも、やっぱり親の許可を得た年齢に達している小鳥は流石だ。散々子供達を愚弄しておいて、手の届かぬ所へ行ってしまうのである。その時に一番くやしいのは、自分に羽根の無い事がである。もう一歩!と云う処で、高い石垣の下へ行ったり、河向うに渡ったり、池の上を抜けたりされてしまうのである。
それで人間の子供(人のタチッコ?)の方が、頭を働かすと云う段になって、「タチッコとり」が生まれるのである。巣立つ以前に捕えてしまえ!と云う手であるのだ。
あの「チュンチュンチュン」では無く「シュンシュンシュン」と云う様な声を聞いた時の胸のときめき!!「ああ、此処か」と、その声の周囲の環境を吟味しつつ、舌なめずりをすると云う訳である。処が雀も、さかしい小鳥である。そう安々と猫などの手の届く所には 営巣は しないから残念である。何うする事も出来ない。東裏の小屋根にでも懸けてくれればと思うが絶対にダメで、それより一段上の大屋根に懸けてしまう。其処では壁にへばり付いて上る訳にもゆかず、大家根の上からでは逆さになっても手が届かない。土蔵の屋根も、どうして計るか解らぬが、登る仕掛けの足場を利用しても何うしても手の届かぬ所ばかりに懸けてしまう。屋根鼻のモノも、あの二間(6m)梯子を使えば何とかなるとは思うが、父親でさえ、やっと運ぶ物を、どうして内緒で運べるものか。
致し方ない。諦めて野鳥を狙って小泉山、裏山、寺山と、苦心して探すのだが、見つからない処か、見当さえ付かぬ。
「ヨシキリ」を考えて葦の間を散々脚を傷にして歩いたが、だめだった。あの位にくらしい声で「ここだ、ここだ、ばかやろう、ばかやろう。」と叫ばれても、どうする事も出来なかった。見つけた巣は大抵1年も2年も昔の巣ばかりである。
それでも時々、ほんとに年に一度か二度、思いも掛けぬ機会に拾う場合がある。嬉しい。「モズ」の子を一度拾った事がある。嬉しくて一生懸命、蜘蛛を採って来ては口を押し開けて入れて呉れたが、三日か四日で死んでしまった。
そんな事で苦心惨憺、挙句に思い付いたのが、前の家の益吉君が「燕のタチッコとれ!」と教えて呉れたのである。益吉さんが幾年かかって苦心した結果、編み出した前代未聞のタチッコ狩りだった訳である。今考えると、善悪を超越した執念だったと改めて思う。

                          
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27、〔火とぼし〕 この編では 孫達へ書いてくれた【別冊】より収録。
            行事・風習編の方へ、より詳述された【十三】を当てる予定。

大人抜きの子供だけの団体生活は、一面には少々問題は有るにしても、実に愉快な楽しいものだ。特にこの「火とぼし」は早朝から晩にかけてである上に、やまの上で自由に火遊びをしてよい!いざと云う時には村の消防隊が責任を持つから、と云う大きな行事である。この行事は今でも一部改めてはあるが残されていると聞いて嬉しくなった。
第一幕は、前以ての資金集めから始まる。各戸から、薪、麦藁、ボヤ束など一、二把ずつ貰い歩く。そういう物の出せない家からは金銭を頂く。集まった物を村の辻に積み上げて、大人からセリ落して貰って金子に換える。
第二幕は、一同大八車2台を曳いて北山浦の茅葺屋根の多い部落へ行って、葺き落した煤煙汚れたオンガラ(麻の木の皮を剥いた物)を購入するのである。当った家により、年により値段は異なるが、親方(高等小学校二年生)の腕次第で、出来るだけ多く(安く)入手するのだ。そして山積みしたオンガラを桃太郎の凱旋風景よろしく2台の車を中にして遠い村から帰って来る。

そして本幕当日・・・ 眠れないほど興奮して、家中で作って呉れた一日分のタップリの食料と、作業用の刃物を持ち、山ゆえに水筒を携げて、責任枠の藁縄を肩に斜に掛け、潔く辻に集合する。家々による取って置きの御馳走を学校用の鞄に詰め込んであるので、それが何よりの楽しみだ。
村の東に聳え立つ小泉山のテッペンが、目指す祭場である。小学一年生を先頭に学年順に並んで山道を登って行く。真夏の草いきれが身の丈の二三倍の壁になっているので、風は通る筈も無い上に、頭上から太陽に照りつけられる。フウフウとは此の時の息遣いの事だ。やっとこすっとこ峰の広場に辿り着いた時の嬉しさったら無かった。
広場の中央に2本の松の大木が、大きな日影を作って待っていて呉れる。だから何時しか「二本松」と云う、場所の名になっている。広場の北側には古木の群立が在って、そこに「秋葉大明神」と謂う火の神の石塔が立っている。其処の日影が親方の本陣と決まっている。やがて親方が学年の荷置場を決めてくれる。とは言っても、そんなには広くないから大体まあ、いつも広場の西に在る小松原が、一二三四年生一緒の場所で、其処に別学年同士に屯するのだった。でも一年中、芝が生い茂っているだけに居心地は悪くは無かった。1米程高くなって本当の頂上が在るが、近くが死馬を闇から闇と村人の腹中に入れた後、骨その他を埋める場所なので遠慮する事になっている。
一段昇った所に、其処までの登り坂を三等分した位の斜面を持つ、赤土を採る崖が落ち込んでいるが、その縁が五年生の陣地で「アカイワ」と名付ける。そしてその上が「下中段:したチュウダン」と呼ばれる六年生の陣地である。
大体の陣地に落ち着くと、親方は町へ買物に下山する。皆は思い思いの木の枝にカバンをぶら下げる。地面に置くと、凄い数の山蟻が食物の臭いを嗅ぎつけて這い込んで来るからだ。

その後、小食を楽しく摂ってから高等科一年生が陣頭指揮で「燃やし小屋」造りが始まる。四年生以上は学年ごとに一屋ずつ造るが、三年生以下のは高一年生と六年生が来て造って呉れる。木立ち(小木の森)の木を自由に伐ってよい!なんて、こんな子供冥利に尽きる凄い事は他に無い。太い大きめなノを3本切り出して来て、三又に組んで頭部を結えて先ず骨組が出来る。そしたら一番底に、先日セリに出さずに取り残して措いた藁と藪木を詰め込み、後は手当り次第に寄せ集めた枯枝(大人が間伐した滓枝。と言っても素晴らしいのが一杯有る)を詰め込んで、縄でグルグル巻きにし、外側から生の松枝を存分に挿して、遠い村の人々に「火立ち」の良いのを誇ろうと謂うのだ。そして6基ほどの小屋が出来る。
その頃になると親方は町から帰って居て、子供の数の菓子の小袋詰めが終了している。一年生から順々に呼ばれて小袋を福袋の様に貰って、控え場に帰って来る。中味は学年の進むに連れて値の張る菓子が多くなる。ラムネやサイダーは流石に親方だけらしい。それを頂くのも嬉しいが、何と言ったって家人が心を込めて作ってくれた弁当ほど待ち遠しい物は無かった。互いに見せ合ったり、時には交換し合ったりして楽しい昼食になる。
昼食過ぎると一年生には、昼日中だがタイマツ(烽火)に火を着けて持たせ、四年生の途中消火と事故防止に守られて各部落の辻へ帰される。そして四年生が辻で完全消火と親御さんへの譲り渡しを済ませて帰るを待ち兼ねて、午後の自由時間になる。山頂広場一杯は言うに及ばず、遠くへの探索行、鬼ごっこ、陣取りごっこ、相撲等々で、山は時ならぬ林間学校に早変りである。半日を精一杯はね廻って、くたびれて来た頃は、お山はもう夕闇が迫り始める。見上げる大木の枝々が一くるめに暗くなると何処からともなく頭上の淡黒色になった空中を、鳥ともハッキリ違う形のした黒物が幾つも幾つも声も無く飛び交い始め、「ああコウモリだな」と判る。闇の世界に全山が包まれて、二本松の大木の茂みの黒い中からは、グググーッ、グググーッと云う気味の悪い真っ黒い鳴き声が降って来る。

急いで夕食を詰め込んで身支度を整えると、それこそ真の闇となっている。高一年生は忙しそうに低学年の間に入って来て、腰を摩ったり背負うのを手伝ってくれて「いいか。忘れ物すると取りに来られねえな。しっかり調べろよ。」と、それはそれは親切に点検をして呉れる。
「忘れ物、落し物は無いかあ!?」の声に続いて、「点火ア!!」の命令が飛ぶ。高一生が火の着いた烽で小屋小屋に点火して走り去る。
一瞬にして秋葉襷(親方の場所)から上中段(カミちゅうだん:高一年生)までの全山が明るく照らし出される中を、全員各自が(休み時間前に、下から背負って来たオンガラで作った)タイマツに火を着ける。村の方に向けて大声で「ヨーイサ、コラサ。ヨーイサ、コラサ」と全員一列に並んで「村のみんな、見てくれや!」とばかりに、上中段、下中段(シタちゅうだん:六年生の居場所)、赤岩(五年生の居場所)、広場、秋葉神社前の間を二三往復する。
そして各学年ごとの大タイマツ(大きいのは直径30cm以上長さ2m程の)に火を着けて、皆が引き縄に掴まって、燃え残りのタイマツの灯りで足許を照らしながら下山を始める。低学年順である。しんがりは親方衆が、道に残った火の子や両側の藪に飛火したものを消しながら随いて来てくれる。
村の辻に入ると村人多数が、積み上げて燃やしているタイマツの光に浮び上って見える。妹あり姉あり父あり兄あり母ありで、子供達は何か遠い旅から帰って来た様な、今朝別れた家の人とも思えぬ想いに駆られる。
やがて残骸が燃え尽くすと親方が水を掛けて鎮火を確め、解散となり、みな夫々の家人に囲まれ乍ら、堪らなく楽しかった一日を大声で語りつつ散って行くのである。

                          
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28、〔小泉山のセミ取り
小泉山までは道のり2キロそこそこ。そこまで行けば楽しい事が一杯あるのである。・・・夏の朝、旭の出ない中に出掛けて行くと、その茂みに差し掛かると体全体に冷気が差し込んで来て、何とも言えぬ清々しさが身に沁みる。子ども心にも、いいなあと思う。空を摩すと云う感じの高い木々が、しっとりと露を含んだ下草を従えて眠った様に音なしの姿で立ち、そして並んでいる。
大人の真似をして幹を足で蹴ってみるが、大した効き目は無い。でも遥か上空の方からパラパラッと冷たい葉露が体に降り掛かって来る。道々やりながら段々と奥へ奥へと進んで行くと、何本かに一本位パタパタッと音を立ててムケたばかりの、未だ羽が乾かぬ蝉が露と一緒に落下して来る。わずかにヂヂッと一声して。それが楽しくて、こうして来たのだ。いわゆる獲物である。それを何うしようと云う訳では無かったが、その生きて動く物を手に入れるのが無性に嬉しいのである。そして道々、林道の地面の上にも眼を配るのを忘れないのである。幾つも一杯ある穴の中に混じって、やや小さめな穴が有ると、六感で「あっ!」と其処へしゃがみ込む。腰の竹ベラを取り出して、その穴口を段々と堀り拡げていく。すると、そこにピカピカと気持よい光沢を輝かしてモゾモゾしているのが出現する。
「あ、あ、あった!」何とも言えぬ胸のトキメキ。とても嬉しくて堪らない。その代り、どちらかと言えば、空掘り・ムダ掘りの方が率が多いのだから、掘り当てた時は本当に幸福だったと思う。早く来た甲斐が有ったと、つくづく思うのだ。
運の良い時には(それは余程早朝でないとダメだが)、これからムケかかろうと木の皮肌に着いて、背がうす緑色に割れかけたのを見つける時も極く稀には出会う事もある。尤も、この様に獲り歩くのは、もう何十回も山に来てからの事である。何と言っても初めのうちは、あの神秘極まる脱穀の光景にうっとりしてしまって、時間の経つも忘れて見守るのである。

うす明るくなれば最早、木の中腹に登り、確っりと自分の爪を木膚に打ち込んで抜けない様にしている。たぶん暗い裡に穴を出て、木を探し登り始めるに違い無い。だから、暗い裡に山の中に入るのでなかったら、此のすばらしい光景には遭遇できない。・・・どの様にして時を計るのか、天候の晴雨は何うして判別するのか、不思議な事ばかりである。
爪を掛けてから何時間経てば背中が割れるのだろうか。兎に角、自分の体が外界に出て間もなく日光が照って呉れる事が判る時刻にムケ終わる様に脱ぐのだから、奇妙というか、神がかりというか、本能の鋭さである。
背中の真ん中にピシッ!と割れ筋が通り、次第に大きく徐々に幅が拡がり、みずみずしいと云うか、美味しそうと云うか、薄みどり色に澄んだ新しい生命の塊が、しずかに、ほんとうに静かに盛り上がってくる。頭部の方が早目に出て、危なっかしく空中に反り気味に浮き出て来る。
ああ、落ちるおちる、どうすればいいのだ。落ったら可哀想だと思っている途端パタッと頭部が落下する。「あっ!」と叫ぼうとすると逆さまに中ぶらりんで尻は未だ殻に付いている。どうしようと人間の方がやきもきしていると、尻のすぐ下辺に新しいムケたばかりの手足で掴まっている。やれやれと思って居ると、しずしずと尻を殻から抜いて完全にカラの下に位置づいてしまう。羽だけが丸まって縮くれている。その羽も見る見る裡にゆるゆると眼に映りつつ段々と伸びていく。人間が「あ、あ、あ〜」と安堵の吐息をついて、姿勢を思わず楽っくりと取り直す頃はもう、立派な成虫・セミになっているのだ。それまで見て来ると、とても掴まえて持ち帰ろうなどと云う気にはなれない。早く朝日が照らして、この濡れている羽を乾かして呉れぬかと祈る様な心になる。
でも、暫くすると(繰り返し体験すると)惨酷にも、それを焼いて食べるヌタ(幼虫)の味に魅せられて、こうして捕獲行をするようになってしまうのである。

ま、いずれにせよ、今の子供はテレビで、あの経過だけは知るであろうが、あの大自然の生息吹きのしじまに埋って、神を凝らして知る、あの有様は貴いと謂う外ないように思うが、如何なものか。(同様に)川端でさんざん経験したトンボの何種類かの脱殻も、楽しい知識であった。
テレビの知識には生命感というか、生きている自分と、もう一つ生きている相手との間にのみ起きつつある神秘的現象と云う清澄感とでも云うようなものは残らないではないだろうか。
あの朝顔の花でも、「朝顔と言うから朝咲くだろう」と思って、早朝起きて行って見ると、もう咲いている。変だなともっと早く起きても、咲いている。薄暗い裡に起きても咲いている。「あれは昨夜の裡に咲くのだ」と思って、夜おそく寝る前に行ってみたら、何ともなっていない。結局は朝は朝でも夜明け前の事と云う事を発見した時の驚きとも歓びともつかない、あの記憶は俺達でないと分かるめいな・・・。
「月見草」とか「宵待ち草」なんて何故いうか、それを実験と云うか体験で確かめた者でないと本当に解ったとは言えまい。あの花が、朝顔や南瓜の花よりも、もっと生命力の溢れた速度で、然も、あの素晴らしい音を「シャシャッシャッ」と立てて開花する態は、そしてあの河原の一面の世界で競い合って開く「音響の饗宴」の様な光景を、秘密を盗むような心境で聞き入って居る時の感激は何とも言えないものである。

                          
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29、〔クワガタ
クワガタ虫(俗に俺達はカブトムシとも言ったが)は男の子供にとっては、あこがれの的だったが、俺は終ぞ、あの大型の雄々しいのをこの手で捕らえた経験は一度も無かった。そしてその雄・雌の区別も不明のまま終ってしまったが、唯一度、その憧れの虫を、この手で大自然の中から拾い上げた感激は未だに忘れない。
サワラ(檜類)の樹のヤニを吸っていると云う噂を聞いてからは、木のある所必ずサワラを捜し、サワラがあれば必ず登攀して居在を確かめる事はし続けたのであるが、遂ぞダメ。畑の作業の往き帰りに通る分教場の校庭の延長の様になっている所に、桜・その他の花の木々が植樹されている公園がある。その公園の「あずま屋」の直ぐ傍に中途から二股に分かれた一本のサワではないが似ているミネゾウの木がある。家人と共に帰宅する折、ただ何となく、その股の所によじ登ってみると、その二股の岐れ目の中に黒い物がピシッと密着して挟まっている。六感と云うか、執念が生んだ幻想と云うか、「クワガタだ!」と直感した。地球上の大発見をした様な胸の脹らみを覚えて獲ろうとしたが、自然の形態と云うものは素晴らしいものだ。何の気なしに眺めていた、あのクワガタの体の型は、こういう木の股の間に潜むのに最適の形であったのだ。どう押しても突いても出す事が出来ない。グズグズしている処へ上級生でも来たら忽ち横取りされる。大急ぎで家人を呼び戻して捕らえてもらった。小さい、それも雌と謂われている可愛い角しか持たないのであったが、何よりも何んな大きなのよりも素晴らしい拾得物、獲物であったのである。砂糖を溶かして大切に飼ったのは勿論である。
所謂かぶと虫と云うのは「本カブト」と謂って、誰かが何処から貰った物でもない限り滅多に入手は出来なかったらしく、極く稀に珍しく見せてもらう程度であった。捕獲するのはクワガタの雄という大角を持った大きなものと、俺が捕らえた様な雌という小角で小型、やや丸い感じのするものだけであった。争わせてみても別に不器用な動きだけで余り面白くはないので、只ペットとして持っているだけの物にしか過ぎなず、活動的な悪童どものたしなむペットには適しなかったようだ。

                          
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30、〔水あび
水泳・水泳ぎ、とは謂わずに「水浴び」である。山の川は所々に淵が在るだけで、その他は只、水が大量に大幅の河を、瀬を鳴らして流れ下ってゆくだけなのだ。水泳など出来る訳がない。そんな条件下、自然に出来た淵と云うのを具体的に挙げると・・・
(イッチーの家の在る下古田部落と)上古田部落との堺辺りに在る【神が洞】:ジンガドウの淵。2キロ程下って部落の上の裏に在る【すり鉢】と云う岩盤が河一杯に露出して、その一部が浸食されて出来た凹みの急流。部落の中央に在り、宮原と日向原の小字を結ぶ橋の下に出来た、これも橋げたを支えている大岩盤が直角に曲がる流れに抉られて出来た【橋の下】と云う淵。
部落の下の裏辺りに当る所に在る【要平淵】である。頭上に圧し掛かる様に覆い被さる岩盤の下だが、此処は下流がなだらかのため波が静かで、しかも遠浅に砂地まで出来て、一番理想的な場所である。崖の上の方に「要平さん」と云う人が在るのである。そして分教場からは近くはないが、道順が良い事と、葦が広く生えていて脱衣に便利、放便尿に好都合など全ての条件が好いので、学童の専用プールでもあった。
この外、一、二年生位の者の「水あそび」の場は深さが30cmもあれば充分だので、一寸下流に大きな石を並べて堰き止めれば簡単に出来るので『公園下』に一ヶ所(1,2年頃の水あび学級用)、『俺の家の裏』に一ヶ所(農具洗場・馬洗場・炬燵掛け、布団等の大物洗濯場)が在った。
ハヤなどの魚は、こうした水溜りで遊泳して暮らし、餌時になるとその上・下流の音を立てて白波を躍らして流れる浅瀬を駆け回って食を摂る。そして腹が満ちれば又、淵で遊泳する習性である。だから釣糸を垂れるには淵の上下の浅瀬で、糸を繰り返し繰り返し流しているのである。
だので昼日中、橋の上から眺め下すと、大小沢山のハヤが網で掬いたい程、澄んだ水底を遊泳しているのが見える。慌て者はそれを見て釣糸を垂れるかも知れぬが、淵に泳いで居るハヤは餌は食べないから無駄事である。そこで水中に潜って遊ぶとハヤも面白そうに逃げ廻る。大勢でジャブジャブやっている間は、淵の影か端に逃げていて、上がって着衣し始めると群泳を始める。時々水浴び最中に淵の上・下に行って、逃げて来て石の間に遁れているハヤを握り獲る事も出来る。「さぐり」と称する捕獲法であるが、これは相当の手練が要るので誰にでも出来る業ではない。何か一度「コツ」を覚えれば簡単だと言うが、俺は中学に進んでしまって、そうした習練を要する様な技は何一つモノにする機会は無かった。
村童達が淵の中で泳ぐ仕草をするのは極く僅かの時間で、大抵は石と石の間を飛び伝って、飽きれば河の中に転び込み、何かとイタズラして体を濡らして淵に飛び帰って水浴び(何流も何法も無くバチャバチャやるだけ)したり、友人と沈めっこをしたり足の引っ張りっこしたり、潜水して石を拾いっこしたり、潜ってハヤを追い廻したりする。
疲れると大きな石に水を両手で掬い浴びせて、其処へ臍をひっ着けて、大の字になって抱きつき、背中を干す。直接すぐやると火傷をする程熱いので水を掛けてから這い上るのである。こうして3、4時間はやっているのだから、いい皮膚の色になる訳であるし、健康で通せる訳だったと思う。
【橋の下】は通りでもあり、他の場所に比較して水深もあり、崖陰と云う様でなし、家並から離れていなかったので、村の若衆が昼の労働の汗落しには唯一の場所であった。よく、夕食直前だったと思うが、辺りが暗くなってから、手拭を持った兄の後を付いて「橋の下」へ行った記憶がある。橋の真下が小広い岩場になっていて、其処の小藪の上に皆な脱衣するので、其処へ座って兄の水浴びを見るとも番をするともつかぬ事をして、しゃがんで居たのである。ちなみに、両手で一度に胸の下へ水を掻き込むと同時に両足をバタバターンとやって水面を叩くと少し体が浮く。それを繰り返す泳ぎが、山家流の水泳なのである。子供は可愛いが大人になると動作が大きいだけに、淵中が真っ白い水しぶきになる程の大袈裟なものである。そして、その水しぶきは頭上の橋の裏板にも届くかと思われる程あがり、勿論、自分のしゃがんで居る辺まで飛んで来た。そして其の音たるや辺りに木霊して、道を通る人には当然聞こえるのである。頭上の足音が止まって又行くのは、暗くても一度覗いてみては通過するのであったろう。そして膚を拭って猿股(白い布で母が作った今のパンツ)を穿いて帰宅するのである。そうしてみると兄もフリキンで泳いだのだなあ。何とまあ愉快な事か。いや待て、そこは定かでない。

                          
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31、〔水浴び(ミヅアビ)〕〕   孫達へ書いてくれた【別冊】より
夏は、柳川の何処で誰かが必ず「水浴び」をして居るものである。その位、夏と子供と水浴びは素晴らしい結び付きがある。だから今考えると、俺達ほど恵まれた環境の中に育った者は稀だと思われる。
日本中に山村は一杯ある筈だが、村中を清冽な流れが、広々とした河原の石の原野を控えて続き、釣も出来る程の魚類も豊かで、到る所に瀬あり滝壺あり、流れ淵ありで百景変貌の河川があり、直ぐ東には小泉と謂う山浦一帯での唯二つと云う山が聳え、滑らかな麓は茸の狩場であり、野イチゴ、山梨、栗などが時季を隔てて俺達を手招きして居て呉れるのだもの。
水浴びと云うのは文字通り、ミズアビである。淵が在れば小っちゃな淵でも上々、淵など無くても体を伸ばして腹這いになって、背中の上部を水が浸して流れてくれるだけの流れが有れば、それでいいのだ。
早いのになると、川沿いの葦の露も未だ乾かぬ、冷え冷えとした空気が消えたかどうかと云う位の裡から、河原の石の上に衣を脱ぎ捨てて、入水している者が在る。永いノになると丸半日その儘、其処の河原で遊んでいく。勿論女児も男子もスッポンポン。フリチンなどと云う言葉さえ無かった。だから誰も平気であるフリだとか何とか言い出したのは、サルマタとズロースと云う妙な文化物が農村に入って来てから言い出された造語である。
冷えて来るとブルブル唇を紫色にしながら水から上って来て、太陽で暖かくなっている大石に腹や背中を張り付けて一休みする。震えが失せると、砂や小石を使って自由勝手な造作、建築、溝造り、城造りなどに熱中する。段々と背中が陽に照らされて熱くなると再び水浴びに戻る。もう斯うなると時間など幾ら有ったって足りはしない始末である。
水の少し多め深めの淵に来ると手足を動かしてバシャバシャと犬掻きと云う、溺れた人でもする様な恰好をして、嬉しがる。足も川底から離れて手でバシャバシャやらかして、少しでも水中で浮動した姿勢になると「オッ、泳げるじゃあ!」と羨ましがられる。大きい淵になると、水も緑色に底が見透しが出来ない程になる。此処へ来る者どもは最早たいしたもので、両手で胸の下へ水を掻き込むと同時に両足を交互に三つ四つ続けて水面が叩けて、音もドブドブーン、ドブドブーンと大波を呼び起こし、波が岸まで波及し、ドブドブーンという度毎に上半身の一部が水面に起き上がる様な恰好をする。(今で謂うバタフライの原始形であろう)大人が来ると子供達は岸辺に除けて、羨ましそうにその妙技に見入るのである。
夕食過ぎて月が明るく澄んだ様な夜、時々私は兄さんと一緒に夜の大淵に行った覚えがある。岩の上にしゃがみ込んで見て居ると、その大きな飛沫が私の顔まで飛び掛かって来た事を、懐かしく思い出す。
フリキンは大人となれば矢張り気恥しいそうで、大体夜分であり、サルマタ用の布製の物か越中(褌)である。でも昼間中、土埃の中で草掻きをして土塵と汗でべっとりとなった肌は、少しばかり水手拭で拭いた位では除去できる筈は無い。やっぱり河原に降りて、月夜なら尚よいが、闇夜でも深い流れにしゃがみ込んで、体中をゴシゴシと洗い流す事をする。そして時折、淵まで足を伸ばして「大人の水浴び」をして見せるのだ。
そんな時、魚のねぐらを襲う「サグリ」が行われる時がある。昼間は多忙だので、サグリなどやる奴は、よっぽど耕地の無い貧乏人だがらである。熱気にムレムレしている若い盛りの人達でこそ、そうだが、俺達の体は表面積が少ない所為か昼間充分暑気払いがしてある所為か、一緒に夜の河に浸ってみても寒気がして長く居られないのだった。〜♪)

                          
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32、〔衣を埋める
河原で思い出す事は幾つもある。その一つは・・・母親が春先か秋に着用すべく半纏(ハンテン)と云う物を作ってくれた時の事である。綿入れで袖が無くて、尻の上がやや蔽われる程の物で、遊んでいて暑ければ直ぐ脱げるし、紐も無く体に密着していないので中々好都合の物である。綿を入れて丹精こめて作って呉れたと思う。着用して裏山の方面へ遊びに行った。
家からは3キロ程離れた隣村の見える崖端に出た。見下ろす赤土の崖は高さ2、30米。その斜面の長さは百米はあろう。人の通った跡が有るので伝って降りて行ってみたら下には小川が在ったが、僅かな平地が有って至極よい所。山の中だし、もちろん知人は誰も居ないし、見渡す限り人影は無い。
あちらこちら見渡して考えて居るうちに、この半纏を逆さにして尻に敷いて滑降したら何んなものだろうと考えてみた。思い付いたが吉日で早速実行してみると、一度降りるのに相当時間は掛かる(余り急降下すると転落する危険のある急崖だ)が、至極快適だ。嬉しい発見である。もう嬉しくて、汗を流して散々滑降した。何時間やったか分らんが、夕方になったので帰る事にした。
土は付いたが払えば落ちると思った。が、引っくり返して土を落してみて驚いた。大きな穴があちこちに口を開けて綿が土だらけになっていたのだ。
《これはしまった!》と思った。折角の楽しい心も忽ち黒雲と云う処・・・。
捨て帰ったでは尚叱られる。まあ、家に着くまでに何とか考えよう、これでは村に入ってから人に見られると笑われる。丸めて脇に抱えるとトボトボ家路に着いた。さぞ色々迷案も浮んだであろうが、いざ家の近くなって来ると流石に逼迫感が強くなってきた。やっぱり現物を見せると叱られる。
母は叱った事の無い人だから叱りはしないが、あの父が恐い。何をされるか判らない。又土蔵の中は必定だ。
《そうだ、いっその事、見せぬ方がいい。うん、そうだ。何処かへ捨てて「何処に置いたか忘れた」事にして措こう。》
・・・だが・・・さて捨て去ると謂ったって此処まで来てしまっては捨て場も無い。日は暮れる。家の坂を見上げて必死に考えた。
《そうだ。河原に埋めよう。何百年か経てば腐ってしまって分かりっこない!》 我ながら名案だと思った。早速、いつも家の人が流し物や洗い物に来るその足場の下を掘った。深く、深く掘った。そして大きな石を幾つも幾つも載せて上を均した。その後は覚えていないが、上手く誤魔化して通った事だろう。記憶に無い位だから。・・・だが、天網恢恢疎にして洩らさず・・・
この河は山の谷川なのだから、雨期の出水、冬明けの出水、大雨の増水で常に洗われ、六月頃の大雨の後の出水は物凄く、自分の背丈ほどの石がゴロゴロと音を立てて濁流に押し流されていくので、大きい石があそこに在った此処に在ったと言っても、翌年になればすっかり変化しているのである。そう云う事も、事件とか大水と云う事では知悉しているが、自分の埋めた所が流水で掘られるなどと云う事は到底、幼い脳みそでは測り切れない事項である。
翌年、姉と母が河原へ道具(一年間使う蚕具)を洗いに行ったら、足元に妙な物が出ている。いぶかって掘ってみると、何と母が去年裁って「市公」に着せて、すぐ失った半纏ではないか・・・。それから何んな叱り方をされたかは判らないが、何だか笑い草にされた方が多いのではなかったろうか。親戚の人や知人に母や姉が笑いこけ乍ら語ったらしい。時間が経ち過ぎたので、叱る気勢も削がれた事であろう。

                          
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33、〔妹のケガ
その二つは・・・すぐ下が妹・志貴、その又下が妹の美貴。この二人を子守る事が俺の任務なのだ。けれど、こんな ”しゃら うるせい もの ”ったら有りゃあしねえ。志貴の方は適当に似た様な仲間を見つけて、まぶし込んで置けば大した事は無い。が、美貴の方は困る事に、うぶい紐で背中に結い付けられているのだ。色々に苦心しては任を果たしていたのだが、その日はたまたま運が悪かったのだ・・・と謂うしかない。
裏の河原の傍にチイチの大木(本名は知らない)が有って、其処が林平さんの家の田で、大水を防ぐため高い石垣が積んである。その上面へ上手い具合に芝が茂り、緩やかな傾斜は有るものの、如何にも手頃なコンボコ(赤ん坊)の遊び場の如くに見えた。但し石垣は、その芝生の直ぐ脇で直角に曲がって坂道と成り、俺の家の方へ延びている。俺の家でも、やがてその林平さんの石垣と連結すべく、石垣用の切石が採取され列を成していた。だが未だ荒削りな切石状態で、角も刃物の様に鋭い儘だったから充分な注意が必要であった。それ等の諸状況を鑑みつつ、背中の美貴を下ろして安全に遊ばせ、こちらも又心置き無く遊べる手を考えた。
おぶい紐で、牧場で羊や牛を繋ぐアレ(繋ぎ放牧)を考案した。先ずチイチの木に紐を結び付け、芝生の長さの距離を測り、危険な切石までは行けぬ長さにして美貴を繋りつけた。試しに其処へ降ろしてみたら、上手い具合にモゾモゾして草をいじって居る。上々だ。志貴には「遠くへ行くな。この近所に居るのだぞ。」とよく言い聞かせて河原へ降りた。時々見やっても、二人とも好い調子で変化は無い。本日も作戦成功の様子であった。
こうして初めの内はチラチラと視線を送っていたのだが・・・段々と上流の方へ遡って行くに連れて、河あそびの方が常の生活なので、自然と本性に戻って自分の今日の任務の方を忘却してしまったのだ。時間も大分経った事だろう。ふと思い出した。考えてみると伝い伝い来たのだが、何時の間にか3キロ程遡ってしまったのだ。それこそ舞う様に夢中で河の中を飛び下った。
 案の定、複数の者どもが騒いでいる。飛び付けてみると、ガキどもであるが志貴は居無い。それより大変な事は、一番心配した事が発生しているのだ。美貴は芝生ギリギリの処まで来て石垣から落ち、切り石の方へブラ下り、額からドロドロした血を流して泣いている。ガキ達はやたらに喚き立てて居る。もちろん家人は誰も居る筈は無い。頼むは唯「おおや」の婆さんだけである。この婆さん、嫌いな恐い婆さんだが、今、頭の中に浮んで来た一番近しい人ったら此の留守番婆さんしか無い。何しろ、裂けた穴がはっきり見える程パックリ口を開けた傷だ。芝からズリ下って切石の角に額を打って割ったのだろうと思った。おおやの婆さんは気狂いの様に叱鳴って怒った。そして野良に行っている家人に知らせが飛んだ。

事の余りの重大さに、てっきり殺される程の目の合わされると思った。
《逃げよう!》と確かに腹に決めた。一家とは決別して家を出ようと考えた。
流浪のみなし児の話が悲しく頭にひらめいた。だが、その暇は無かった。
どやどやと家人の来る気配がしたので、すばやく裏へ廻った。すると裏の方からも他家の人達が来る気配だ。困った。もう逃げる機を失った。便所の口から屋内に入った。
《そうだ、天井に上って時を稼ごう。2、3日して騒ぎが静まった処を見て脱走しよう》と考え、天井裏の「ズシ・厨子」へ上った。ズシは昼は日の照りで温暖、夜は燃える焚き火の熱で温暖である。(※ズシは大人が腰をこごめて歩ける高さであるが、何十年間の埃とススで真っ黒の世界である。)
ガヤガヤ騒々しい事は多分、俺のバカさ加減を話し合っている事だろう。父の恐い顔が想像された。皆の騒がしい声は二階を隔てていてもよく聞こえる。大分時間が経ってから「市公は、」と言う声が聞き取れ始めた。それを聞いて、何か此処に居る事の証拠でも何処かへ残して来たのかと不安になって来た。「もし嗅ぎ付けられたら何うしよう」と背筋が寒くなる思いがしたが、もう遅い。どう仕様も無い。只じっと聴耳たてるより外なかった。
幼時から行き慣れている菊沢へ行ったではないかなどと言う声がする。一時はそう思った事を思い返して「よかった」と思った。
もう屋根上や梁横から光線が射し込まなくなってから大分経つのだから、かなり夜になった様だ。そのうち段々と再び人が集りだし、方々の場所の名前が呼ばれだした。どうも目星を付けて連れに行った人々が帰って来て、不在を報告しての結果らしい。《これは益々危険が迫って来た。今の内に逃げ出そうか》と考えたが、こう次々と人があちこちに飛び出していたでは、何処で見付けられるか判らない・・・。

眼が覚めたら、屋根の上が明るくなっていた。何時の間にか眠ってしまって、そして一晩経ってしまったのだ。下は誰も居ない様に静かだ。
《どうしたのだろうか。よし、この時だ!》
逗子から抜け出した。家の西側は桑畑だ。そして、こんな厩の方に人の来る心配は無い。人々は皆、南の木戸口か、東の裏の坂道を使って出入りしているのみだ。耳を澄ましても誰も来ない。静かに屋根際から足の掛け所を探しながら、壁にへばり付きながら、一足ふた足、三足と、音を加減して降り始めた。処が壁の中途まで降りかけた時、思いがけない所から、
「あ、あ、あ〜!イッチイさが居た!イッチーさが居たぞえ〜!!」と、畑を二枚へだてた西隣のおばさんが叫んだ。
「グワッ!!」と思った。ヤモリが壁に張り付いた恰好で動けなくなった。どうしようもない。飛び降りるには余りに高過ぎる。戻った処で何う仕様も無い。そのうちに無性に悲しくなって涙がぼろぼろ落ちる。下へ家人が来た気配だが、誰が来たか見る事も出来ないし、今更みたとて何になる。そこまでは気が付かなかったのだ。父の顔がグワッ、グワッ、グワッと迫る思い・・・
と、意外な声が下から聞こえて来た。
「あぶねえでな。そろそろ降りろ。」
何と暢びやかな、優しい、軟らかい声なんだ。降りた途端にどやされるかも知れない。・・・もう手が痺れて来た。もう、こんな事していると、ズリ落ちる。
《 落ちるより降りよう。》 見舞われる父のゲンコツの、今か今かと思いながら、一足一足、地面に降りた。
又、意外。黙って、大きな父の手が肩軟らかく掛かって、推す様に俺の体を母屋の方へ連れて行く。それから後の事は何も記憶に無いから書けない。
美貴の傷は「カマイタチ」と云う傷で、見た傷口は大きいが、出血は酷く無く、傷も早く塞がるとかだった。
今、妹は六十近くなるが、額の生え際には判然、その傷跡が残っている。

                          
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34、〔ヤナ漁
家が河の直ぐ傍に在ったので経験した事だと思うが、面白い漁法に「ヤナ」がある。柳川の河原は、俺の家の裏の所では相当に河幅が広く、子供の水浴び場、村人の農具洗い場、農耕馬の浴水場、布団など大きい物の洗濯干場になる程である。村人は大勢行き来はするが、村人はお互いに信頼の出来る生活をして居て、手くせの悪い奴はもう村中で名が、それぞれの程度で知れ亘っているのだ。だから皆安心して、村人を信用して色々やる。「ヤナ」もそれが無ければ出来ぬ事である。
ヤナと言っても、天竜川あたりでやる様な大掛かりな物では無い。葦と篠竹とを交交に組み合わせて編み上げた物で、幅は最大幅(取入口)が1mぐらいで、先端が20cm位につぼんだ形である。
家の裏のチイチの木の下に瀬を集めて細めにし(大きい石を逆三角に並べ)その下流末端に「ヤナ」を仕付けるのである。上流の方は二流に分かれる様に大きな石を自然の様に並べて、上方から来た魚と、その反対側を溯上して来た魚が、導入される様に工夫する。そしてヤナの取入口の先を、川底に埋める様に仕付ける。その取入口直前辺からは少々急流に作って措くと、そのヤナの上に流れ込んだ魚はもう、河中へ逆上りする事は不可能になり、上から流化する水勢に押されて徐々に尖端に送られて、その下に置かれた「ビク・魚籠」に落ちるのである。
時刻によっては、其処に待って居る間にも、落ちて来て、白い腹を箕の上に横たえて跳ねる光景が見られる折がある。その嬉しさは、やった者でないと解らぬ胸のときめきである。昼となく夜となく(提灯をかざして待機するのだ)時折そこを覗きに行っては拾って来るのが楽しいのである。
どう云う時季を選んで之を掛けたのかは分からないが、やはり水量とか魚の住み具合などから、きっと時が在ったに違い無い。
ヘソカンジイ(臍かじか)や、それの大きいゴツイ頭をしたオニカンジイが多いのだが、極く稀にハヤやアメッコ(山女:ヤマメの小さいノ)が掛かれば素晴らしい獲物で大喜びしたものである。

                          
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35、〔赤ん棒
山里の児でなければ出来ない遊びは、自然に色々生まれていた。
名は正しくは何と謂う木かは知らぬが雑木林にはよく見かける物に【赤ん棒】と言う木がある。名の通り落葉すると全木、殊に支枝になる程、真っ赤ま綺麗な木がある。キレイと言ったのは、奇妙な事に此の木は、実に規則正しく枝分れがしているのである。それが子供の遊びに利用される理由である。その枝岐れが片方が五、片方は十、と云う程の比例に、交互に分れて先へ先へと細く小さく、それこそ数限りなくと言いたい程見事に末の末梢まで伸びている。
だから、その一区切りの折り枝で、相手同士が、そのカギ型に成っている部分を引っ掛けて、力比べをするのである。すると、やがて、どちらかが力負けして挫けてしまうのである。
木を見つけると、どの部分から折り取っても、この形の物が採集できる。然も、大小幾つもの「カギ(の手)」が取れるのである。太い所から取れば、大は首を引っ掛けられる位のノから、小は赤ん坊が遊べる位の微細な物まで取れるのが面白い。秋の陽だまりで遊ぶ、冬の炬燵の上でやる。兎に角、春先、新芽が出初める迄は使える訳である。但、枯れて来るとモロクなってしまうから、矢張り採取して成るべく早く使うが好いのである。手頃なのは手で簡単に折れるから、学校帰りの途、幾らでも、木を見つけさえすれば即製が可能だので、素晴らしい想い着きの自然の恵んでくれた玩具である。
又、その「赤ん棒」が芽吹きして使用できなくなる春先になると、今度は遊び道具は”草”に移るのだ。
道端にうるさく族生して始末に困却するあの【オオバコ】が又すばらしい。ザクザクと鎌で刈って来て縁側に広げると、妹達は「葉を呉りょうヨウ」と集って来る。俺が葉の頭を妹達が喜ぶように、いくらか葉の末端に茎の筋が付着する様にして、葉と茎をむしり分ける。妹達はその葉を沢山結び合わせて(その茎の筋で)、オオバコの葉の大きなお手玉を作る。俺は、その茎の中、素性の良いのを選択して競技用に揉み軟らげるのだ。この茎(長く伸びた花の茎)同士を交互に絡ませて引っ張り合い、引き千切れると負けである。その茎の強靭さが勝負を決めるのである。新鮮すぎるともろい。古くなると弱い。所謂、手触りの感で決めるのだ。これも遊びに疲れて石垣に腰を掛けつつ、その辺の道端に生い茂っているのを即座に採って、即製で勝負が出来る。
そして又、【タンポポ】の茎である。これは、あんなモロい物だが、ちょっと手を加えると見違える靭さを発揮するのである。手頃の塩漬けにすると最も強いとされてもいたが、俺は塩漬けに迄して作った事は無かったが。これも即製は勿論できるが、あの様にモロイものだから、揉み初めを上手くやらないと殺してしまう。タンポポの勝負は、一人が吊るして相手の打撃を甘受する。タンポポの頭部と頭部とが瞬間からみ合って、一方の頭がスッ飛ぶので勝負が決するのである。
このタンポポ・オオバコ・赤ん棒を用いた3遊戯(競技)は、幼児から小学校上級生まで玩ぶものである。幼児にとっては熱中して遊ぶ手頃の遊び、大きく成っては暇つぶしと云う程度、手すさびの時間つぶしの技だ。
だから分教場の庭あたりでは小さい頭が五つ六つゴチャゴチャ集って、キャッキャッと興に乗じて夢中になって居る。かと思えば村の辻では、大ハシャギに騒いでやっているグループも在る。又、上級の本校生徒は、長い帰校の田圃道を組んず解れつ流れながら之(オオバコ・タンポポ)を玩遊して動いて行く光景もあるのである。

                          
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36、〔試胆会
面白かったり、怖かったりは”試胆会”( したんかい)だった。トリワケ怖かったのは、訓れない折、歳のいかない頃であった。
「今夜、試胆会やるで学校の庭へ集まれって。」という伝令が廻る。或いは学校帰る時、伝達がある。この上級生からの伝言は家の人との約束に先行し、先生の課題にも先行する実効が有った。但し、そう伝令が廻っても強制はしない、点呼も取らない、自由集合だ。けれど、それに参加しない場合は、それ以後の話題の渦の中に入れないから、その淋しい気持の責苦の方が心理的に重圧になる。つまり自然と、自発的な行動が規制されていく様になるのだ。
ちなみに俺自身は中学に進んだ事で、こう云う色々の遊びの、受身の側だけしか経験できなかった。だから今思うと、その下ごしらえをして措いた首脳陣の苦労は並大抵では無かったと、つくづく思う。蓋し、その準備を何時やったのかは無論、知る由も無い。
さて、農家の夕飯は日没が目安だから大体、時計より正確だ。特別の事が無い限り「夕めし食ったら」と言えば全員が揃う。
そして・・・分教場の暗い玄関横に一本の裸ローソクが立つ中、
「市ッチーか。イッチーはな、宮原のお墓へ行って、卒塔婆を三枚持ってこ。」と云う具合に指令される。一人一人、顔を見て、思い掛けない指令ばかりが次々に出される。どう上手く組み合わせてあるのか?個人と場所は既にリストに作成されてあるのか?皆目見当はつかないが、よくあの大勢に次々と指令が出たものだと、今、感心する。
そして今考えると、泣いた人、驚いた人、逃げ帰った人は、やっぱり見透しの効かなかった人達であった事を思い出す。すると俺は狡かったと言うか、親方達の裏が読めて居たと言うのか、そう云う処があったのかも知れない。でも、怖い場合は「俺でなくてよかったア」と思う事はあった。本当に怖い所だって幾つも在ったからだ。
幸い俺には多くはそう当らなかったが、俺が怖いと考えた事と、泣きだす人の怖いのとは質が異なっていた。実を言って、墓場とか本堂の縁の下とか山の裾の稲荷明神の社の裏とか云うのは、心が震える気分になる方だ。
一番気楽なのは、先発者が「バケモノが居た!」とか、「白い物が ゆらゆら揺れていた!」とか 言って、青くなって 震えて帰って来た所である。
何故かというと、そう云う所には、誰かが何か工作して居ると云う事、詰りは真夜中であろうと何であろうと、其処には下古田の小学校の高等二年生が一人、或いはそれ以上その辺にウロウロして居て、しかも自分達が今に来るかと見張って呉れて居る・・・と云う事で、こんな力強い友人の居る場所なんて願っても無い場所なのであるからだ。だから、
「そうか〜。それはおっかネエな〜。ほんじゃ市ッチー、行ってみてこい。」と言われるとホッとして、わざと怖そうな声や風態をして内心ホクホクしながら行くのである。そして、橋の下へ手探りで降りて行く。成る程、白い長い物が揺れている。そこで先ずゼスチャーをして「あああ!」と恐怖に震えた声を出して二、三歩逃げる真似をする。と、その長いノが「ウォー」と声を出す。
《あれ、あの声、誰だな?》と考え、もい一度「ああ、ああっ!」と逃げ廻る態をすると、前より少し長めに声を出し、地声が判って来る。そこで、暗闇で見えないからベロを出しながら妙な恰好をして見せ乍ら、目的物の「札」を持ち上げて、「おっかねーッ!」と金切声を張り上げて逃げて来るのである。実に胸がスウッとする。どっちが化かされているか解らないのである。

「越日向(こすびなた)の山の神の祠(ほこら)に手紙が置いてあるから持って来い。」と言われた事がある。其処は村外れで、暗い長い桑畑の間を通って、寺山という大松林へ上る途中に在る祠で、お詣する物好きな人などは無く、一年中その周囲は蔓草が生い茂っていて、石段は人の出入した事がなく風雨に曝されているのでガタガタにイゴチゴに崩れて、しかも急斜面だ。あの祠の中に紙を入れた「おやかた」も相当な苦心したものだろうと考えた。
そして、その日は、あっちでもこっちでも、「白い大きな物が後ろから着物を引っ張った!」と半泣きになった者があったり、「大きな長い物が幾度も首を撫でた!」とか、「大きい白い犬だか狐だかが前の藪の中でゴソゴソやって居ておっかなかった!」とか云った事が多かったので、俺の場所も途中の桑畑の中から幽霊が出たり、祠の後に白い物がゴソゴソして居るに違い無いと予想して、意気揚揚と出掛けて行った。心の中は鼻歌気分であった。
処が・・・行けども行けども何も出て来ない。変だなと思ったが、最後の祠の中だと思って、足に絡む蔓草を踏み分け掻き分け、遥か遠くに時折チラッチラッと灯を眺めながら、やっとこ祠に辿り着いた。真っ暗闇であるが、手触りの加減が、どうも本当に人跡未踏の感じがする。そうして祠など手の届きそうもない藪がらみだ。ようようの事で祠の中に手を入れて探したが、紙片どころか木の葉も無く、湿った手触りだけで、完全に未踏の地であった。
その途端、さ〜あ怖くなった!!
《本当に、此の山奥に居るのは自分一人だ!》 と思った。すぐ其処は 有名な”狐火”で 村人のよく化かされる切通しではないか。何か、寒気を感じ、
《本当に其の辺に、本物の狐が構えているのではないか!?》と考え出したら堪らなくなった。注意に注意をして、ガラガラ石段をズリ降りて道に出た。そして真っ暗く長く続く村外れの黒い闇を分教場へ辿り着いた。
「手紙ねえぞう。」 と言うと、「うん、そうか。そんじゃ、いいよ。」 と言う。見ると全員揃って俺一人の帰るを待って解散する段取りになっていた。今更ながら又、寒気がする思いだった事があった。

もう一度は、高等二年生が二人きりだので、高一年生も、おやかた株に合併された時の思い出である。
先発連中が、本道の縁の下を北から南の庭に抜けなければ出来ない課題を出されて、頭にコブが出来たと騒いで居た後、俺のすぐ前の金人君が、
「門(山門)の上の紙を取らっとしたら、下の方へとてもデケエ犬が出て来て、ウウゆったで、びっくらこいて逃げて来た!」と言う。
おやかたは「それじゃあ其れは犬じゃあ無えわバカ。お稲荷さまの狐だぞ!」と如何にも真面目な顔をして誇張した。確かに、その場所と背中合せに時折村人を化かしたと云う稲荷大明神の大きい鳥居の行列が並んでいる。
「次は誰だ。イッチーか。おめえ行け。」と来た。
《此処に居るのは二人とも”おやかた”だ。すると寺に化けて出るのは明男サか今朝人サか、忠次サの中だな。》と勘ぐった。
「おっかねでいやどぅ」と言う。
「行って来い。おっかなかったら、逃げて来りゃあ いいじゃねえか」 と本気になる。度を過すと面白くなくなるので、「おっかねえナァ」と無理に怖々と言う。そして歩き出した。距離は無い。分教場の前の用足し場の前から畑一枚越せば寺の境内だ。きび(気味)は悪いが高一年生が待って居て呉れるのなら怖くないのだ。杉木立と大銀杏とに蔽われた山門は、真っ黒く突っ立って暗い。山門の高い所にポーッと白い貼紙が浮き出して見える。あれを剥ぎ取って来るのだなと思って近づく。と、な〜る程、白い大きい這った物が大扉の下から「ウウウ。」と出て来た。
わざわざ大声を出して「おっかねえ〜!!」と言って扉にかじりついて上に這い上ろうとして下駄を脱ぎかけた。
《待てよ。下駄を脱いでは面白くねえぞ。》と思い直し、下駄のまま、やっとこ扉の上に這い上がった。紙を手に握った。そして・・・ムフフ・・・
下に蠢いている代物が「ウウウウ。」と丁度自分の真下に来たと思う時、下駄のまま、その背中目掛けて力一杯踏ん付ける様に飛び降り、犬が「グワッ!」とペッシャンコに成ると同時に、大声を張り上げて、「狐だァ〜。助けてくれェ〜っ。狐だァ〜!!」と分教場に向かって一散に駆けた。
何か反応はないかと、翌日から注意深く、学校の行き帰り、高一年生の動静を窺ったが、どうも反応は無かったらしかった。一杯食わしてやろうと思ったのだったが、無駄だったらしいので些か落胆した。
処が、四日目の帰り、クソベーシで休んだ時、今朝男サが「背中が未だ痛え」と言った。「何しただ?」と何気なく聞いた心算だったが今朝男サは、「バカこけ。イッチーおめえ、下駄のまんまで俺の背中に飛び降りたじゃねえか!」と出た。瞬間ハッとなった。
「何でえ。あれえ、狐じゃあ無かっただけぇ。今朝男サけぇ。」と答えざるを得無かった。しかも真顔で、である。
その後、悪い事をしたと思って、それとなく注意していたが、異状なく過ぎた。でも、それから十年近く経ってから、怖い偶然が起きた。此の人は或る事件で背中に大きな石が当り、それが原因で病に臥し、結局、肋膜炎か肺病かは定かではないが、そう云う種類の病気になり、二十五、六歳とかで亡くなられたと聞いた。何か悲しい思い出である。

                          
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37、〔度胸試し〕        孫達へ書いてくれた【別冊】より
この話は以前、お前達のお父さん(保美トウサン)に話した事があるので、やめようかとも思ったが、文として措くも又一つだと思い、再びお話しよう。
この遊びは夜と云う事、少々気の弱い奴には酷になる場合もあるので、全員集合の合図は一度出すが、そこはそれ、手加減と云う事があって、出席して来ない者を呼び出したり、後で訊問したりはしない事になっている。ひと先ず四年以上と云う程度にしてあったと思う。
夕食後、分教場の庭か番屋(大きい区には荒木造りで間仕切も何も無く中央に火炉が切ってある掘っ建て小屋。跨いで入る入口が在るだけで、戸も障子も無いが板で床だけは張ってある一辻に一つの集合場所。炉を中心に大人が座れば、どう詰めても八人位でギュウギュウになる狭さだ)に集合する。
高二(高等小学校二年生:最高学年)の親方衆の顔が、一本の裸ローソクの光にクッキリと浮き出して見えるだけで、あとは黒子の集りである。
さて始まる。恐怖度も往復距離も難儀程度も、学年によって次第に高まっていくのだが、誰が何処へ何しに遣られるかは誰も分からない。そこに興味(見て居る方でしか言えないが)が有り、怖さが湧き出すのである。
妙なもので、昼間は何でもなく平気で通れても、夜になると自然に恐怖が付け足しになる場所が在る。まあ兎に角、始まらぬ事には話にならない。

で、低学年では・・・「河原へ行って、この位の石を3つ探して来い!」
「お寺の庭を通って、そこのチイチの木の枝を一本むしって、そばの阿弥陀堂のお地蔵さんの頭へ乗せて来い!」
・・・などから始まって、段々と度が高くなっていく。
「宮原の墓地へ行って、この間亡くなったお婆さんのお墓に供えてある花を一本もらって来い!」
「お寺の横の狐のよく出ると謂われるお稲荷様の旗を一本借りて来い!」
「真徳寺の本堂の下の奥へ行くと、本道の真下の辺に白い旗を立てて措いたから、潜って取って来い!」
「神ヶ洞(小泉山の北側の裾の長い崖で、昼なお暗っぽくて冷っこい所)の奥へ昼間、下駄の古いノを一足忘れて来たから取って来てくれ!」
「そこの石塔場(藪が茂って足場の悪い上に、不規則に凹凸していて辿り着きにくい)へ行って、どれだか忘れたが一基に下古田試胆会と書いた紙を張って置いた。今夜中に取り去ると云う御約束だ。剥がして持って来てくれ!」
などなどが、そろりそろり出て来ると、皆、何となくゾクゾクしたりして次第に顔も青ざめて来た事だろうと思う。
やがて、そのうちに、行き着いての作業自体は大した事は無くとも、途中が長くて気味の悪い評判のある場所を通過しなければならないモノが出て来る。
林の中を通ったり、嫌な事の有った場所を横に見て通ったり、一番気味の悪いのは昼間の景色は別段取分け何うと言う事は無いが、平常全く人間の通らない所で、右は崖、左は奥深い山に続くと云う様な所だ。その当時は未だ、盛んに「狐に化かされた」と云う生の話や、「小豆洗い」と云う得体の知れぬ物の鳴き声がしたり、事実テンとかイタチと云う獣類が昼間でも人通りが絶える時刻には村の中に出没して居るのだからだ。
権四郎おじさん(イッチーの妹・和貴の夫)が、ハッキリ自分で、「一晩中、裏山の中をウロウロさせられた」という事を言ってる事も在る。コスビナタ(越日向)で工場からの帰り、焼き芋完全にやられた狐の仕業などは誰でも知って居る。もと「追い剥ぎ」が出た所も、村中の若い人が首つり死んだ松の枝も、みんな互いに十二分に耳にしているから、暗くなったり、独りぼっちになると、何となく嫌な気分に成るものだから怖いのである。
だから妙なもので、六年生ともなると、誰も通らない闇の道を通って行き、帰りになってとても背筋がモゾモゾする事がある。途中で色々に出遭うと却って
《あ、此処には仲間(高等二年生達)が居るんだな》と考えて、とても気が楽になるが、さあ何も出ないとなると、《近辺の闇には誰も居ないで、自分は独りきりで歩いて居るのだ!》と考え出し、堪らなく寂しく怖くなって来るものである。
自分も嘗てはそうで在ったが、四年生などは、それはそれは怖そうである。
「カーラヘ オリットシタラ、ハシノシタカラ キュウニ シロイ オーキーモノガ
(河原へ石拾いに闇路を手探りで行ったら、白い被り物をした高学年がヒューッと出て来た)と云う処でしょう。もうブルブル唇を震わせて話してくれる。
「石塔の間を手探りで一つ一つ探しながら這い廻っていたら、急に足を引っ張られて引き摺られた!」と半泣きになって来る低学年。
「お寺の庭を手探りで歩いて行ったら、右手の縁側の方でウウウーッと唸る声がしたが、見るのが嫌だで行くと、左手の木の上でもウワワワワーッと言う。変な声だと思って見たら、何か大きな白いマリ丸い様な物や、ヒラヒラする物が動いて近づいて来る様だったもんで・・・阿弥陀堂まで行かないで逃げて来た。」と泣いては居ないが眼を丸くして驚いていた。
俺は割合に「ショウのワルイ」(弱虫)方だったので、低学年の折には人並以上に驚いた方だったに違い無いが、まあ、それはそれとして、大きく成った折の、可笑しく今でも思い出す話がある。

「山門の屋根裏に掻き登って、そこの札を落してみろ!」 と云う問題だ。
そこでイッチー考えた。《・・・距離は近いし、掻き上る足場が闇中だから面倒なだけで問題は無い。すると何か、其処に人間が絡む問題だな 》 と 見当を付けて、手当たり次第の所へむしり付きながら、山門の天井裏へ掻き上った。さて札を外そうとすると、下の方から ウウッ ウウッ と云う 妙な声がし始めた。
どうも二三匹の大物らしい。
《ははあ矢っ張りこれか。降りるのを邪魔して驚かそうというのだな。よ〜し!》
と、こっちの計画は立った。そして札を外してから下を凝然と見つめて居る裡に、妙に眼が闇に馴れて来た。一番大きくてノロノロしたのを選んで、見当を付けて措いて、震え声で鳴き声めかして「アアアアーッアアアアーッ」と言って措いて、下駄の緒をしっかりと指に抜けない様に差し込んでおき、出来るだけ大きく弾みをつけて大バウンドして、飛び降りざまにその背中を踏みつけて、大声で叫びながら、「お化けが出たあーッ、お化けだーッ、助けてくれーッ」と、やらかして、直ぐ近くの本陣の仲間達の所へ駆け込んだ。
翌日だったか、学校への道すがら今朝男さんが妙に私に白い眼を向けて、時々訳の解らぬ突っ掛けをするので、腹の中で《はあ、アレかな》と思って居たら、遂に帰りの道で、「イッチーは何で〜あんなァ・・・おらあ背中痛くて堪らねえじゃねぇか」と白状したのだった。
今朝男さんは人の好い人で、力はバカ力の出る人だが、少々気の廻し方の下手な方だった。或る事故で35歳頃もう亡くなったという。

                          
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38、〔ベース(野球)〕      孫達へ書いてくれた【別冊】より
集団遊びの中で”熱中”したもの中の ピカイチ が 「ヤキュー」であった。
これは一定の場所が要る。そこで自ずから分教場の庭になってしまう。
昔の事で、特別の競技もやらないし、学年も四学年迄だし、人数も一学級平均10人そこそこだので、又それに体操の時間は大抵裏山へ行って芝原で相撲とったり木登りしたり、崖下の河原へ出て川遊びした覚えしか無い位だので、庭の手入れの必要も無かったし、した覚えも無い位だので、ゴツゴツした小石だらけの校庭だった。だから休みの日に4塁を作って置けば大抵、次の日曜までその儘の事が普通であった。だから分教場の校庭は、下古田地区の子供の野球場でもあった様な気がしていた。
その日に集った者同士の衆議一決で「ヤキューッ!」となると、皆その心算で分教場の庭へ無言の謂い合わせだ。ボールを持参する奴、ミットを持って来る奴、バットを持ってくる奴。中には気を利かしてベースバン持って来る奴もいて全員集合となる。
【ボール】は、芯にクルミか軽石を入れて、布切を巻いては縫い付け巻いては縫い付けて適当な握力の効く程度に造った手の込んだ代物だ。
【ミット】と云うのは、器用なお母さんが丹精こめて作って下さった自家製(もちろん布のみ)の物である。
【バット】は、薪の適当ノを束から引き抜いて来てナタでチョンチョンと上手く型を造り上げた物や、小材木の丸太を鎌で削った物等で2、3本は集まる。
(所謂グローブ類では)キャッチミット1つだけ。どうかして2つ集まれば一塁へも廻る事がある。誰も道具については小言や不平を口にした者も居なければ、欲を洩らした事も無いし、親に頼んでみた者も無かったのだろう。たぶん身近の商店には売っていなかったものだろう。
この競技も、似た力量同士は皆が知り尽しているので自然と二人ずつに分けられ、互いにジャンケンして両軍に別れるのである。誰が決めるとも無く自然にバッター順も塁手も決まってしまう。上手になる奴は何時の間にか、それなりの塁手に昇級したりするのである。
たかが餓鬼共の野球でも、その真剣さは大人以上と謂うか、学校選手並みの燃え方をするのだ。其処を通る道が丁度、一塁側と三塁側と云う形に通じていて、しかも一米近い高さの石垣の上を歩く恰好になっている故、通行人のお百姓のおじさん方が見ごろの場所に成っている。
子供達が熱中して来ると、何時の間にか大勢の大人達が観覧席よろしく立ち上がって凝視めてくれる。中には常連も在って、ヤキューの騒ぎ声がすると必ず顔を見せてくれるおじさんもあった。
その頃の私達は 学校へ行くにも遊ぶにも、みんな フンゴミ (もんぺ)と云う、労働服と謂うか作業服と謂うか民族衣装と謂うか、その三つを合わせ兼ねた様な物を着用しているので、少し位の石コロ庭なんか平気で擦り傷せずに「滑り込み」をやって退けられる。滑り込みが出る様な熱い戦いになって来ると、大人まで座り込んで夢中になって声援を送って呉れるのだ。
俺達仲間では八重二君、登君は 度胸もあり 元気がよかったので捕手を よくやらされた。捕手は余ほど勇猛者でないと、マスクなどと云うハイカラの物は無く、玉は直に顔に当って来るので恐いのだ。俺は恐いので一度もやった事は無い。その代りと云う訳でもないが、ピッチャーは大抵廻って来た。体力は有っても小柄で優しい性質の方だったのだからね。チビなだけに動作は敏捷の方だったように、自分では思った。
こうした野球道具作りが結構、針の扱い方を身に付けてくれたと思う。母から針に糸の通し方を教わったり、運針はやって貰えなかったが、布でボールを作るのに、どんな布が比較的よいか、どんなのは見掛けによらず弱いとか、どう裂けば上手く縦長に破れるか、どの布は針が効かないとか、どの布は強いか等の、布の見方まで知ったのだよ。一個の適当な握り具合の良い「布球」を造るには、こんなにも布が必要なんだな!と自分ながら呆れた事もある。
バット造りだって、容易く削れ良い恰好に成る様な木のノは軽過ぎて、力の無駄遣いになる物しか出来ない。これは巧い重量で良いバットに成るぞ!と思う材木は堅くて刃立ちが鈍く、中々ラチがあかず苦労する。
多忙だと思ったのか、キャッチャーになる気が無かったせいか、自分は母に
ミット造りを依頼した覚えは 遂ぞ 無かった。

                          
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39、〔ドジョウすくい〕      孫達へ書いてくれた【別冊】より
楽しい子供の獲物あさりである。どこの家の稲田も必ず「ヌルメ」と云う場所を田の一部に作ってある。(ミナクチ=水口とも謂う。) 川の冷たい水が直接に
稲に当たると稔りが悪くなるので、引水を其処で一度淀ませてヌルくして流す工夫で、母田の大きさにも拠るが大よそ幅1m長さ3〜4m位を、泥の土手(アゼと謂う)で区切ってある。丁寧な家では又その上に、ヌルメに続けて冷水に強いモチ米を15、6条植えて置く家も在る。
さて、そのヌルメにはもう一つ、河から運び込まれる泥を堰き止め沈澱させる役割もある。だから其処は恰好の鰌(ドジョウ)の住所となるのである。稀にはドケチの家も在って、此処までモチ米を植え込んである場合も在るが、先ず此処は子供達の領地と謂える。
鰌は静かに泥の中に住みたい奴なんだから、流れ(柳川から引き込んだ用水路)から此処に来た奴は、喜んで住み着く訳だよ。
子供達は腰にビク、片手にジョレン(鍬の先が1枚の板状で泥を掬い上げるに都合よく出来ている)を携げて出掛ける。限られた獲物は少人数の方が好いので、大抵一人で行く。
子供にとっては、村中の田のヌルメが自家のものと同じだ。大っぴらには自家の田だけだが、そこは子供に許される遊びの範囲である。
先ず、胸を躍らせて、最初の一掬いの泥を 地面に置いて、手の平で 端から丁寧に均らしていくと、細長い可愛い子鰌が見つかる。急いでビク(竹細工の入物)に投げ込んで、次の掬いに掛かる。次々と区切る様に、ジョレンの大きさに泥を平地に掬い揚げては、眼を皿の様にして泥均らしをやるんだ。
太長いノ、太短いノ、細くて長大なモノ、細くて小さいノ、夫れ夫れ嬉しいのだ。全部揚げ終ってから、泥揚げの際に掬い落した太長い元気なノの捜索に取り掛かる。何せ泥揚げした分だけ水が増し、深さが増してしまっているので容易な作業ではない。だが他の魚と違って鰌だけは決して遠くへは行かない。だから何としても掴まえるのだ。
さて家に帰って、水を張った水たらいへ、ビクから獲物をザッとあける。そしてビクも何も放って置いて、たらいの上に屈み込んで凝然と眺めた時の嬉しさ!やった者でないと解らない心持だ。
たらいに泳がせる目的は、泥を吐かせてから料理する為なのだが、その大小様々な形のノが、ヒョロヒョロッと泳いではシューゥッと底に沈むのが面白い。他の魚とは丸で違った生き態なのが興味を湧かすのだ。体に似合わぬ大きな髯を生やし乍ら、上手に泳ぎ廻れない。よく観ると体重の割合に泳ぐヒレが少ない様だ。頭部のヒレだけで、あとは体をうねらせて水を掻き分ける訳だ。

味噌汁の中へ入れて煮るのだが、そこに”コツ”が有る。煮え滾ってしまった汁鍋の自在錠に掛かった儘の蓋を開け、ザルに用意して置いたニュルニュル供をパッと投げ入れる!パッと蓋を閉じる!・・・何故パッパッとやるか??
奴ら熱いもんだから、入れた瞬間にパッパッと跳ね出して、囲炉裏の灰の中へ飛び出してしまう、からなのだ。
しばらく煮立ててから自在鍵から鍋を降ろしてサテ御飯。誰の処へ何んなノが盛られて渡っても構いっこ無しヨで、みんな「美味い!美味い!」と舌鼓を打ちながら御汁をすする。俺は黙って居ても、大きいノが当った者や父親は、黙って俺の汁茶碗の中へ移して呉れたもんだった。ヌルヌルッとした舌触り、歯応えの有る長細い背骨を噛む心地。嗚呼!懐かしいなあ!鰌の汁!

                          
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40、〔テグスとりテグスは釣糸に使う    孫達へ書いてくれた【別冊】より
これは女子には出来ないし又必要も無いものだので、偏に男性だけの興味ある作業である。遊びではない。一つの作業と謂った方がよい。
初秋になると、シラガダイヤと言う白毛の「天然蚕」が楢や栗の木に繁殖して五齢(4回の脱皮を経て遂に繭を作る(ヒキる・上る)最終の幼虫姿態)近く成って、体が美しく透き通り始める。ちょうど今でいう蔓延してしまったアメシロ(アメリカシロヒトリ)そっくりの様子の様相の木になっている。
でも我々にとっては垂涎の虫で、山の奥にある時は学校帰りに遠廻しては、その上り(ひき)具合を観察する。ひきる際になると体も最大に肥大し、もう食べる葉が無くなっても他に移動する欲も必要も無いらしくなる。
そこを見計らった子供達は「時至れり!」と行って、チョッと枝に触れると、簡単にポロポロと落ちて来る。15、6匹近く大切に袋に入れて持ち帰る。
家人に見つかると「気味わるい!」と叱られるので、そっと裏口や鶏小屋の影に隠して置いて、日頃から心掛けておいて母達から手頃の古いどんぶり鉢を貰って措いたノに、酢酸スを一杯作って持って行く。
もじょもじょ動いている一匹を掴まえて、両手の爪で腹部を引き裂く。中から腹一杯になった 黄色味を帯びて 透き通った 長い腸腺が ニュルニュルと流れ落ちる。亡き殻は放り出しておいて、大急ぎで一方の端を爪の先で強くつまみ、均らし均らし引っ張ると、綺麗なテグスがつるつるつるつると延びていく。その嬉しさ、何とも言えない歓びである。商店で買えば、細い弱い物でも高いのだ。それが、太くて透き通って強靭なのが無限に作れるのだからである。
引き出す端からキラキラ輝いて乾上っていく。五本も引き出すと、たんまり疲れるので、ひとキリにして道具はしまい、又他日にする。
だが幾日も置く訳にはいかない。というのは、もうヒキているので、身辺に何でも触る物が在れば、直ちに口から糸を吐いて繭を(天蚕)を造り出すからである。だから即日が理想だが、神経と体を使うから、そう無制限には出来ない。繭を作り始められたら、もうおしまいだ。だから普通、残ったノは踏み殺して、又翌日獲りに行って来て取る。
糸は少々不器っちょで太い所、細い所など有って様々だが、我慢だ。〜♪)

                          
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41、〔悪がき窃盗団
各自の家で、あの位たくさん作物を作って居ながら、何故こう云う悪さが楽しいのか??今はその心理が解し兼ねるが、或いは、そう云う育ちの上級生の動きに巻き込まれたのかも知れぬが、そんなミミッチイものよりも、ワアーッ!とやりたい幼い好奇心か、とも・・・。兎に角、場合によっては、自分の家の隣の家の襲撃にまで加担したのだからなあ。
寺山の青芝の上で一日相撲をとったり、カラスの巣をかまったりした挙句、人里離れているのを幸いに、皆で何処の家のとも決めず、通り魔の様に、各自五、六俵(本)のトウモロコシを抱えて(盗んで)、再び山の中に入いる。そして枯枝を集めて、ワァワァギャアギャア雑騒しながら焼いて腹を満たし、声高で喚きながら山の坂を里に向かって行進するのである。
時には「柿」もやる。柿と謂えば、寒地の為だそうだが、せっかく甘柿を植えても、やがて渋柿に変ってしまう・・・とか謂う話であるが。
従って、村で甘柿が在る所となると極めて稀になるのだ。それも次第に渋柿に変りつつあるのだから、木全体の柿が甘いとは限らない。一応かじって舌で試してみぬ事には食物になるか何うかは判らない。
だから祭とか運動会の出店とか、秋の田圃商いの商人とかはには、柿の甘いのは大きな魅力なのである。渋柿を炬燵でサワして甘くしたのとは自ずから異なった味覚があるもの。舌ざわりと言うか歯ざわりと言うかが丸で違うのだ。

俺の上隣りの麹(こうじ)屋さんにも一本あった。俺の家の土蔵の裏に当たり、俺の家の桑畑の直ぐ傍に在る訳だったが、自分独りでは心細いと言うより恐怖くてやれないが、誘われると一員に成らざるを得無かった。
でも、上の家には子供が無いうえに使用人も居たので、そう安々とは子供の好餌にはさせぬ態勢に在った様だ。それを知らぬ奴等が度々やるらしいが、大抵は「やろう共!!」の一声で追い散らされて、その後は何度やっても抜けぬ堅城となってしまうのだった。
俺を誘う奴等は大体、近くの仲間グループで俺と上の家の関係も知って居るし、そう軽々とやたらの襲撃を掛ける事もしない連中だ。随って俺の役目も、バレても最も早く逃げられて家へ入れる任務しか持たせなかった。
第一哨の俺は(第三歩哨・斥候まで居た)自分の家の土蔵の逗子(前庭の屋根裏)に悠々腰掛けて、麹屋さん家人全体の空からの見張で、白い布を高く掲げて待機する。暗い月の無い晩にやるのである。
二哨、三哨は遠巻きに、近哨は樹下に立つ。樹に登るのは豪の者二、三人である。そして盗れたノは辻の番屋に帰って、共に齧って語るのだ。
二時間近く掛けてやるのだが精々一人当り二個位のものだった。その訳だ。入れ物を持って行く訳でなく、ただ大急ぎで懐へ突っ込んで、見つからぬ間に降りて逃げなければならぬのだもの、一人で懐中へ六つ突っ込んだ処で、三人で十八個。それも樹から慌てて降りる時、ゴロゴロ懐から転び出す物もあるんだから。八人で分けてやっとこ二個当てだ。それでも素晴らしく美味い。そして爽快そのものだし、成功という事が何より楽しいのだ。
翌日は直ぐ判ってしまう。その訳だ。闇の中で手探りでモギ取って齧って、渋ければ樹下に投げ捨て又ちぎるのだから、盗賊の襲った樹下は齧った柿が散らばっているのだもの。麹屋のおかみさんが必ず隣の我が家へ報告に来るのだ。「しょうのねえ野郎どもだ。」
そして笑って返事をして「しょうねえもんだぁ。」と言う父も母も、我が子が加担しているとは露知らず、その後でぼんやり聞いて居る俺だけが妙な心境になる。でも「見つけたら罰してくれる!」と云う様な態度は決して見せないし、そう云うしつっこい追跡の仕方はしない家だった。
だが村のシモ(下方)に一軒、本当に怒っている人も居た。その人はブドウの樹の下へ釘を逆さに打った板を忍ばせて措いたら、或る大人が掛かって、「黙って居るが、あの足はどうも自分の家の板を踏んだんだ」と得々とウチへ来て話した事がある。恐ろしい事を本気でやる大人もあるのだとびっくりした。
俺の家の西裏の土堤には、黄色い小粒の李(スモモ)と、それに並んで、粒はやや大きめで熟すと赤紫色になり甘ったるくなる赤杏(あかズンモ)と云うのが在った。それと、それより二百米ほど離れて、やっぱり土堤続きだが家の東裏に大きい粒の「ハタン杏(きょう)」が在った。家人の完全視界外になるので、その樹下になる長い斜面は何時も人の足踏の跡がビッシリになっていた。自分達は樹上に登って新鮮なノを選択して採って食べるので、そんな事は苦にはならなかった。四方八方に足跡がついていたものだ。
自分だって村のアソコ此処にある栗の木の下へは夜明け方、一生懸命、人に先を越されまいと盗拾に行ったものだ。中には落ったのを拾っても小言がましい事いった家も在ったが、まあ公然の習慣になっていたと思う。

                          
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42、〔ホイロの味
秋の野良も片付いて、薄氷が張り、やがて向う坂で橇遊びが始まる頃には、もう庭では遊べないので、男が体操場を占領し、女子は致し方なく下駄箱のある玄関近くの板の間に座り込んでオテンコ(お手玉)に興ずる外なくなる。そしてその時期に、分教場の倉庫とも雑庫ともつかぬ一室からは、色々の暖房具が持ち出されて配置される。
分教場の全暖房は3個の火鉢に拠っていた。その火鉢は、家庭で蚕の「子ボ育て」に母親が使ったのと同じ、直径一米ほどの円い盤型の物で、底に三個の移動用車輪の食付いた物である。お二人の先生の間に一つ、それが職員室用。他の二つの教室には1、2年生教室に一個。3、4年教室に一個だけの、総計三つだけであるから簡単である。
その次に出て来るのが愉快な「ホイロ(焙炉)」と称する弁当暖め器である。
大きさは多分、幅三尺(90cm)位、高さ四尺(120cm)位の箱型で、それには箪笥の引出し式になった簾の子箱が四、五段重ねられて差込まれているのだ。下方が開き扉式になっているから、炭を盛った火鉢を、その口の中へ送り込む様に収納し、閉じてしまえばOKだ。その前を通ると、何とも言えない特有な「ホイロの臭い」がして、食事時が待ち遠しくなる。(始業は先生が振鈴合図するが、終時の鈴はボク(公使さん)が振りに来て鳴らしてくれる。)
このホイロ(焙炉)で温保された弁当は、一種異なった臭いがするのだった。雑多な臭気が此の中で掻き混ざるのか、詰められたお采が温められて味が変ってしまうのか、とても妙な嬉しさが有ったものだ。そして成るべく薄い風呂敷か、簡単な紙に包んで入れて置くと余分に火熱が加わって、変り味がするので面白いのである。早出して、弁当を一番下へ入れて措くと、時には風呂敷が焦げる位に強く熱せられて、漬物など半煮えの様になって湯気がもうっと昇る。その旨いこと!美味のこと!到底家で母達には真似の出来ない奇妙キテレツな味になるのだ。
一、二、三、四年の全校生徒の分が、その一つ棚式保温箱「ホイロ」に収められてしまうのである。約四十名前後のみだが。

(♪)一番なつかしい分教場の思い出は、冬の弁当である。火鉢が丁度下に入るだけの真四角な四段の引出が付いた柵があるホイロと云う弁当暖め器である。登校順に、最も好位置である「下の段の真ん中」から順次、入れっくらの競争だ。後から来ると最上段になって、最も熱が昇りにくくなるからである。その代り一番下にデタラメに入れると、風呂敷がボロボロに焦げたりする。
最下位の者は新聞紙にでも包んで入れるか 何か工夫しないと焼け焦げてしまうし、御飯が弁当箱にカリカリに引っ付いて一割方減量してしまう事がある。火鉢の火はボク爺さん(ボク爺っさ、ボクじじいと呼んだ)が小使室の自在鍵の大鉄瓶の下へ、ドッサリ熾こして措いて、学校中の火器を見張って加減して呉れて居た。でも最下位に入れた悪童が、(小使室から)火鉢の火をチョロまかしてホイロに入れた時には、色々異変があった。昼少し前になると教室の隅から、何とも謂えない物の香が漂って来るのである。その香りが日によってマチマチであるから楽しいのだ。漬物を似た様な香の日が一番多かったが。そして待望の昼食時間だ。最下位のノは手には持てない程に熱くなっている。最上位の者ノは息(湯気)も碌に昇らない様だが、決して冷たい訳は無い。風呂敷にはその日の香りが染みついて来る。半ば煮た様になった漬物の味は、この時のこの器でないと味わえなかった妙味であった事をつくづく懐かしく思う。〜♪)

                          
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43、〔 ソリ遊び
火とぼし(行事・風習編にて紹介)をやる”向う坂”は、懐かしい冬の橇場である。坂の上から下までは百メートルはたっぷりあるだろう。俺達にとっては唯一の素晴らしい橇場であるが、通行人にとってはとんでもない障害物であるので叱鳴られるのが常であった。叱鳴られれば逃げるだけ、である。
でも毎日定期便の様に通る酒屋の馬だけは気の毒だと思って見送った。隣り村の神之原には大きな(とは言っても、この農村地帯の)酒・醤油を醸造して販売を一手にしている工場が有って、その荷樽を荷付した馬(駄馬)を二、三頭ひき連ねて村々の小売店に卸して廻る馬である。
もちろん凍場になれば、蹄の裏に「蹄鉄」と云うのを、火で焼き込んで着けてあり、滑り止めはしてある。が、馬はいい迷惑だ。背中の重荷を加減しつつ、蹄鉄の裏に2つ突出した爪だけで、凍りついた地面上に悪童どもが水と雪を流して氷らせた坂道面を、一歩一歩注意深く踏み締めて降りるのだから。
子供達は各自工夫を凝らして様々な特徴を盛り込んだ千差万別の橇を持ち寄って、日ねもす滑り尽すのである。
幼い内は父や兄から作って貰った物を、学年が進むに連れて自分で工夫を凝らすのが、楽しいのである。
小さいノでは30センチに40センチ位に板を張り合わせ、底に二本の丸太を縦に打ち付けたので充分である。その前方に縄を付けて、降りる時の手綱代り、登り帰る時の引き綱とする。
竹を底に着ければ滑りが良いと言って「くまざれえ」(熊手)の古く壊れた竹の部分を利用した物、桶のタガの大きい古いノを利用した物など出現する。そうかと思うと、腰掛ける部と足を掛ける部を二体にして針金で繋ぎ、舵が自由に出来ると誇る物が出来る。その中に、その足を掛ける前の部に取っ手を取付けて本式の「舵取り」出来る橇が生まれたりもした。
夜になり始めると、みなで家から持参した桶やバケツで坂の下の川堰から水を汲み上げて、その坂一面に打ち空けて廻る。雪を探して来て散布する者と、全員で工作して夕食どきに帰宅する。すると翌朝はビッシリ氷って、素晴らしい滑降場と成るのだ。

                          
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44、〔大人達の雪かき
雪が降れば雪靴で登校すればいい訳だが、誰でもが雪靴を用意できるという事でもない。雪靴の無い子供達は、雪靴の人達が踏み付けてくれた足の跡を一つ一つ拾って行かねばならぬ。
下駄には歯と云う物が着いている。その歯の間へ五、六歩で雪がくっ付き、硬く重なって高くなって歩けなくなる。石があれば打っつけて払い落せるが、野原の真ん中ではそんな物は無い。終には横に踏み外して下駄の緒を切ってしまう。仕方ないから足袋はだしで下駄を携げて雪道を学校まで行かねばならぬ。そんな事は散々目にする事である。
それに、あの大雪をそのまま道に積らせて置いたのでは交通障害になるし、幾日もの間、道をぬかるみにして措く事になるので、学童が可哀想である。
衣服を汚したり下駄の緒を切ったり大変である。
それを大人達が助けて呉れる為に、「雪掻き」と云う事が、村の申し合わせで為される事になっていた。村の議会で「道の割り当て」が決められてしまい、村境は隣村との申し合いで境界をハッキリさせ、子供達に困難をさせぬ様に相談が出来るのである。本校までは約4キロ、田畑のみの間道がある。単に子供が歩いて通うのにさえ可也こたえる長さだ。
これを分担とは謂いながら、村の父母が登校前の時間内にちゃんと綺麗に除雪して呉れてあるのだ。大雪の時など、見渡す遥か向う迄、大人達が幾グループにもなって腰をこごめて、パッパッと一生懸命除雪して下さっている姿を眺め、子供心にも《大変だなあ!》と思った事がある。
大雪すぎて、後には子供の列が続いて、もう始業時間も迫っている時などは、汗だくになって狭い道を大急ぎで向うまで開けて下さったり(帰りに見れば、すっかり道一杯を除雪して呉れてあるのだった)、間に合わない時は
「ごめんよう。」と謝って通してくれる。

《♪♪》「ごめんよう」のアクセントは独特。我が父(市夫)が何かの折、少年だった次男の私に、本当に申し訳なさそうに2、3回発した独特の抑揚は、今でも強烈に眼と耳に残っている。1音目の「ご」が↑にアクセントし、終りの2音「よう」が又、尻あがりに強調された。
だから「めんよう」のアクセントグラフは「一一↑」であった。

そう云う時は不便でも仕方ない。早く通った人の踏跡を辿って一歩一歩進む子供の行列に成ったりもするのである。
午後から雪が降り出した時とか、朝から雪が降り始めて、今日はどうも積るぞと云う様な時は、雪靴のある家では履かせて出すのであるか、又は家人が帰宅時刻以前に教室へ届けに来たり、玄関に待っていて一緒に帰ろうとする雪靴持ちの父兄が見えるのである。
俺の部落は特別に学校から遠いので(分教場が置かれる位だから)、午後迎えに来る家庭などまず無かった。それだけ逞しい育ち方をした事にもなる。

                          
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45、〔ゴム靴
多分こう話せば、「ゴム長」は?と問われるだろう。だが然し、そもそも「ゴム」と云う物が、靴の形をして俺の世界に現われたのは、どうも小学校の上学年と言うか、少なくとも俺が本校に通うようになってからの事(尋常小学校5年生以後・10歳過ぎ)であったと記憶する。
それは俺達仲間の内での一番の文化人・登君が【ゴム靴】と云う物を履いて来て、珍しく見たものである。登君の父親は小学校の先生で皮靴をはいて、洋服で家から学校へ行かれていた、村唯一の文化的家庭であった。
うらやましいと思った。村の西の田圃で皆で滑っていると、学校へ行く洋服姿で来て、「靴スケート」と云う物を履いて、登君をおんぶしてスイスイと田圃の氷の上を滑って見せて、登君がうらやましかった。
そして、だから、スケートも流行の先端!時代の先端!と、持って見せたのに、理解の無い俺の家では、父など見向きもして呉れないので、(10歳上の)兄がせめてと下駄の緒だけ新しくしてくれ、その父の昔使ったと云う、今では誰も持っていない分厚い刃で、象の鼻の様に先っぽがクルクルと丸くなっている赤サビ物で滑らされたのだった。
あれだけ他の家より大掛かりに農業やり、小さい村とは雖も一番の富農だったのに、どうして子供の遊びには関心が払われ無かったのだろう。兄が不平を述べていた後での話が、こう考えてみれば何か共通するものが在った様な気がする。そして兄の場合は父の代役を勤めさせられて使用人を引き廻さねばならぬ重責を持たせながら、こうした方面の目は開けて呉れ無かったのであろう。したがって同年輩との村内での交際で、俺がスケートで感じた様な悲しい経験を、より多く体に感じ取ったのだろうと今思う。
登君は、そして珍しい物を持っていた。五、六年の頃、算数の難しい問題があると「待ってろ」と言って、黒表紙の本で、俺達の本と同一の問題が片方にソックリ載っていて、反対側には其の答が書かれていた本である。
《すばらしい本、買って貰えるんだなあ》とつくづく羨ましかった。
余分な方へ筆が走ったが、その村一番の登君がその位だから「ゴム長」なんてトンデモナイ。だから今でもその【ゴム靴】の印象は強く、その臭いまで今だに鼻に付いている程だ。今のゴムとは違って飴色をしていた。日光に当ればドロドロと溶けてしまいそうな感じの物だった記憶がある。
さて、その【雪靴】であるが・・・玉川の菊沢の親戚(母の実姉の嫁ぎ先)丸屋が、隣部落での大きな雑貨屋だった。そこで間もなく売り出したが高価な物だったらしい。形は支那人(中国人)の靴の様にパカッと足の甲の全体へ被せる様になるだけの型の物で足の甲が九分通り隠れてしまう素朴な、足の袋と云う感じであった。踵も無くズンベラボウのものだったっけ。
だから通学用として、その「雪靴」を履くと云う事は殆んど無く、年に二、三度で済んだろう。その代り冬のイタズラには無くてはならぬ物だった。雪の山に欲しい物さがしに行く。道なれない所へ何かの急用で、時ならぬ時に出掛ける時等々、色々とそう云う用途には常に使用した。
この雪靴で一番お世話になったのは、何と謂っても「首っちょ」遊びである。

                          
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46、〔首っちょ
雪が来そうだと云う感じの折、急いで「首っちょ」を作る。
弓の理を利用した小鳥捕獲の道具である。冬の世界、それも雪の冬季は小鳥位しか手頃な相手は無くなってしまう。虫は居なくなり獣は深く穴に入り、魚は淵に潜んで岸を雪氷が閉ざすのだ。
夏分の自由な内に、道で遭う馬の後を随き歩き、こっそりと尻の毛(しっぽ=馬のスと謂った)を抜くのである。曳いている馬方に知れれば酷く叱鳴られるが、サッと逃げる。冬の「首っちょ」用に蓄えて措くのである。
そして雪靴を履いて、深い雪の野山を跋渉して、弾力のある手頃な生木を採って来る。その生木をグウウッと力で曲げて、その先に小さな機織り機式の食い違い棒の仕掛けで小鳥の首を挟む物を付け、小鳥の止まり木に突っかえ棒をホンの一寸つけて措く。その目の先に落穂拾いで蓄えて置いた稲の穂をフサフサと吊るして措く。
とっぷりと雪が降って、藪も木も道も山も雪に埋め尽されてしまうと、小鳥たちは漁る餌場が無くなって、何かないかと藪らしい物を求めて、止まり所も無い、広大な真っ白い野原を彷徨い飛ぶ廻るのだ。
そして、藪の一隅に仕掛けられたワナとは知らず、とんだ拾い物と稲の穂を啄ばもうと、その前にある恰好の枝に止まり、啄ばもうと突っ突いた瞬間、支え木が外れてチョンとなるものである。
腰程も埋まる深雪の中を泳ぐ様にして崖下や藪のある雑木の辺りの、平常は人も行かぬ所を探して置いて歩く。
そして翌朝早く、雪が降り続き、積っていれば猶の事、嬉しくて胸を躍らせながら全身雪だらけになり乍ら、自分の作った猟場を巡回して歩くのである。仕掛けがゴツクて稲穂だけ喰い逃げされたものも有り、その儘ノも有る。その儘のものは、もっと目立つ様に何か工夫して措き、餌の無くなったノは注意深く仕掛けを点検して補修して行く。
上手くいったノは、もう遠くの方からダラリと垂れた小鳥が見えるので、もう直ぐ前など見てはおらず、土手でも崖でも藪でも構わず一目散に、雪の中にコケつ転びつ駆け付けてホクホク外す。そして補修して次の場所へ行く。
もう今作れ、と言っても一寸仕掛けの微妙な所が思い出せないからダメだ。

♪今、思い出した!こうして校正をやりながら、何十年ぶりかに不意に思い出した。父(市夫)はノートに書き残しはしなかったが、上記の形態とは別の「首っちょ」話もしてくれた記憶が甦って来た。イッチーよりは大分都会(町場)に育った次男の少年は、内容の愉快さと父親の軽妙な語り口の面白さに目を輝かせながら聞き入ったものだった。日頃どちらかと言えば堅苦しい教師面?が多く感じられる父親の、こう云う時だけは実に楽しそうに、また面白可笑しい話術に魅惑された時分を思い出す。
博労の隙を窺って、馬の尻尾の毛をヒョイッヒョイッと引っこ抜く場面などは、殊に愉快だった。今思えば、話し上手だったのだ。洒脱であったのだ。伊達に何十年も教壇に立って居た訳では無かった訳である。
で、別形態の「首っちょ」だが・・・弓と機織りの原理を応用した最終的な仕掛け部分は不変だろう(細密な構造は聴かなかった)が、罠を置く場所と方法に可也の違いがある。なが〜い紐を付けた一本の短棒で、庭先の雪の上に伏せたザルを支え上げて措いて、稲粒で段々におびき寄せ、そのザルの下に稲穂の付いた「首ッチョ」本体を仕掛け、チュンチュン野郎がまんまとザルの下へ入った瞬間に家の中からサッと紐を引いてザルを被せチョン・・・飽くまで主力は首ッチョで、ザルは失敗した場合の補助的仕掛であった様だ。
いやいやどうも、ザル自体が首ッチョの一部として機能する仕組みで在った、かの様に聴いて居た少年だったのだが、今となっては確かめる術は無い。
その、さかしい チュンチュンの奴との 息詰まる駆け引きにこそ、その難しさにこそ、イッチーは醍醐味を覚えて興奮した・・・と謂う話だった。両方を併用したものか、又は少し幼い時分の猟法だったのか、それも今では定かでない。

                          
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47、〔お宿〕         孫達へ書いてくれた【別冊】より
遊び場が自然に制限されてしまう山村では、冬になって雪に覆われてしまうと、もう冬期の集団遊びの場は塞がれっ放しである。
学校の庭を奪られ、河川の河原を蓋がれてしまい、村の辻さえ使い物にならなくなってしまえば、別の捌け口が無ければならないが、そう簡単に与えられる筈も無い。従って、集団遊びは、各個人の、別々の小さな単独型の遊びに代ってしまう。そして夏の間は遊び場として、見向きもされなかった大きな芝原の坂が橇の遊び場になり、人々が一番難儀がった一段上った段丘の部落へ通ず村道が、恰好の長い橇滑走場になったりする。
未だスキーなどと云うもの迄は、この村に文化が届いていなかった。
メンコにしても雪の無い空家の軒下とか庭先の広い(庇下の長い)家の軒下に屯して来た者達の個人競技だ。
そこで唯一、集団遊び提供の場として生まれたのが、この【おやど】である。
当時の農村の学校では年末年始の連休と、小正月の一週近くが合体していた。子供達はそこを掴えたのである。大人の世界は完全に冬眠の時節で暇であり、家の中にも仕事は有っても、特別の部屋を作業場としてやっているだけだ。そして仲間は、あの「ヒトボシ」と同じ仕組の仲間の者達である。

規約は、この休み中の一晩を一戸の家に集合して、炬燵を囲んで好きな遊びをやり乍ら、一晩中楽しむのである。その際、一つ大人に加勢して貰わねばならぬ事は・・・一度でよいから、家々の都合で勝手の物でよいから、その人数を考えてお茶を飲ませて貰う事になっている。
(農村で謂う”お茶”とは、沢山の御馳走を山ほど並べた番茶飲食会である)
遊び自体も楽しいが、このお茶が又、一つの楽しい待ち遠しい期待でもあるのだ。お菜漬ひとつ取って観ても、それこそ家々によって千差万別である。
その風味が、である。又どこの家でも必ずと言っていい位、何か一品だけ、各人同様に渡る様に出される料理があるのだった。みかん3個ずつであったり、干柿2つずつであったり、肉の混じった芋一皿であったり種々である。
その”お茶”の振舞が終る迄は家人(殊に女衆)は休めない。大きなモロブタ(1米正方近い物から大きさは種々だが、へりの付いた大きな塗り盆)一杯に並べ造って合図を待って炬燵の上に提供して呉れる。出して貰うと後始末は子供達に任せて、やっと自分達の家族用の炬燵へ去って休むのである。

ちなみに此の集団遊び・・・炬燵という一定範囲の広場しかなく、夜、晩くまで遊ぶ(大体10時だと思われる)と云う条件が有るので、どうしても何かで人数制限のポイントがなくてはならない。そんな事からであろう。四年以上で、飽くまで「火とぼし」の様な強制加入では無い事にしてあった。でも村の仲間の事であり、子供に家の引け目を見せたくもなし、そう回数が多い事でもない事だったので、まあまあ、あの時代では特殊でない限り、全員(全家庭が)加入していた様であった。
遊びは花札、腕相撲、坊主めくりが主で、その時の遊び道具の種類によっては、「坊主めくり」の得点表まで作り、何回勝負と銘打ってやる場合もある。
勝負は一回ずつで、何回も楽しむ時もある。あちこち好みの恰好になって、詰め将棋をやる奴も出る。五目並べに興ずる者もある。能の無い道具の無い奴は腕相撲を始める。時には、いろはカルタの時もある。
この、冬の夜の遊びは、青年にまで延長される。青年に成ると対象が百人一首競技と云う高尚なものになり、行動範囲はズーンと拡大されて隣地区は普通で、遠く隣村、又その隣村と渡り歩く事になり、これが一つの若者の恋の遊び場・結婚の準備段階とも発展するのが常道とさえなる場合があるとの事・・・ 《 註:「若衆宿」については 別編の 行事・風習にて 紹介予定》

俺の四年生の冬、兄が【トランプ】なる物を求めて来た。これは村でも初めての事で、熱心に伝授してくれたのを披露した処、大人衆まで見物に来て珍重がって使用もして貰った事は今でも覚えているが、それは、この「お宿」での披露が手始めであったのです。
従って四年生の時から、中学へ行くようになって仲間から自然脱落した日迄の間、俺の行く会場は”トランプ遊び”が付きものになった。と謂うのは、坊主めくりや花札の様に、一定範囲しか規約が無く、使用法が固定化しているのに対して、トランプの使用方法は千変万化であるので、通人は通なりきの競技方法が在り、素人には素人向きの遊び方の在るのが特長であるので、皆に愛されていったのである。兄は又、次々と新競技法を伝授して呉れるので、日毎に俺の立場は拡大されていったのだった。 《現在も子孫には、〔ツウ・テン・ジャック〕と云う秘儀?はたは妙技?が、連綿として受け継がれている》

ひと遊びして、お腹というか口もそろそろさもしくなった八時半頃か九時頃になると、年長の者達がそれとなく合図してくれ、家人に用意したお茶を出してもらう。全員子供だから、大人の集りの様に遠慮しながらポチポチと楽しんではいない。「頂く時刻!」とばかり最小限の慎みを交えて、黙々として食べ始める。大人なら「まあ、この御漬け物おいしいわ」とか、「コレどうやって作るのですか?美味いね」とか、御世辞を交えてやるのに、この場では各人とも一切言葉無し。「うん、コレうめえ」とか、「この味いいな」とか、「何処から買って来たかな?」などとは当然、胸に落しながら食べて居る事だろうが、そんな事は自分の胸での自問自答に譲って、ただ只管、黙々と食べ方一遍である。
特殊な物が出た時(辛いもの交り、妙な香りもの等)で無い限りは、約20分もすれば綺麗に片づけてくれる。2、3人で荷担って、家人の去った誰も居ない勝手の間へ御返して来る。そして腹こなしの後半の競技になる訳である。
定刻近くなると年長者達が「さぁケールカ!」と言い出すと、皆サッと腰を挙げて、雨戸の閉め残して置いた所をガタガタと田舎独特の雨戸の音を残して、暗い家路に散って行くのだった。
すると、その部屋を寝間に使っている家族が奥から帰って来て、さっそく布団を敷き始めるのである。







以上、《第1部》 村童の遊び 編 おしまい・・・




                          
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