第133節
親子3代、夢の続き
                               破邪の利剣か復讐の妖剣か




我等、復讐の剣を磨ぐ事16年・・・・奇しくも是れは、
伍君神が雌伏された歳月と同じである。 此の1戦は、先君の仇を雪ぎ、我が呉国が天下に覇を唱える礎と成るものである。
先君以来
5度目の今回こそ、必ずや黄祖の首を挙げずしては
故国に還るまじ!総員、必勝の気概を以って臨むべし!!
その断固たる決意の表われとして、孫権は己の旗艦にあらかじめ2つの”
首桶”を乗せた。薪に臥し、胆を嘗める代わりに、孫権が日頃から睨め続けて来た、己への戒めであった。再び故国へ戻る暁には、必ずや其の中に、仇敵・【黄祖】の生首を納めて来るのだ!
いま1つの首桶は、敵の都督【
蘇飛】の為の物である。 ーー敵の総司令官と参謀総長を含めた殲滅戦の覚悟であった・・・・。

時に西暦208年(建安13年)、春まだ浅い日の事であった。初代である父・「孫堅」の死からは16年、兄・孫策の死(孫権即位)からも8年の歳月が流れ去っていた。

呉軍はーー周瑜を前部大督(総司令)として、中護軍・方面軍・地方軍と、呉軍の持てる全兵力を結集させた。文字通り、乾坤一擲の大復讐戦である。在地豪族層との軋轢を全面的に氷解させ、山越の反乱を鎮定し、年来の課題は悉く払拭されていた。後顧の憂い無く、初めて其の全力を注ぎ込む事が可能と成った総力体制である。その兵力10万、艦船は大小合わせて5千。長江の水面は、孫権軍の大艦隊で埋め尽くされた。

黄祖軍も、今度ばかりは1大決戦のホゾを固めていた。その兵力5万余。但し前回とは根本的に戦術を転換していた。本城である「江夏」を出て、最初から「夏口城」に全軍を集結させている何故、そうした陣を敷いたかは、おいおい明らかになるが・・・最大の眼目は、その地勢に合わせた超秘密兵器を活用させる為であった。もう1点は「逃げの黄祖」らしく、最悪の場合は本城へ逃げ込む余地を残して措く為だと推察される・・・・だが、荊州本国からの増援軍が来る可能性はゼロであった。病床に伏せりがちな「劉表」の跡目を巡る、後継者争いのトバッチリを受けた為であった。黄祖軍には其の弱味が在る。

ーーとは言え、その反面、
援軍の必要無し!と判断した「荊州中央政府」の観測では・・・今回の孫呉軍の来襲も、結局は〔局地戦〕に留まる範疇の戦役であり、呉軍には未だ未だ、一挙に其のまま州都・襄陽にまで攻め込んで来て居座る程の底力は無い!・・・と観て居た証明でもあった。詰り、荊州中枢部の分析では、呉の国力は未だ精々、国境の侵食を果すのが精一杯のものに過ぎ無い、と判定して居た事を示す。そして、その観測は正鵠を射ていたのである。
【孫呉政府】にとって、この「黄祖戦」の持つ1番の意義は、いずれ想起される〔
曹操の襲来に備えて、その防衛線を厚くして措く〕為のものであった、のである。現時点での総合国力比較では、孫呉は曹魏の10分の1にも及ばぬであろう。荊州と比べてさえ半分以下であろう。いや、それ以下であるやも知れ無かった。幸い劉表が軍事的志向の小さい人物であるが故に、此方から攻勢を掛けられる状態には成っているが、未だとてもの事、長期全面戦争を完遂し得る国力では無かったのである。ーー従って、取り合えず今は、先ず荊州との国境線を出来るだけ西方に押し拡げて措く事が緊急の要件と成って来ていたのであった。又、放って置けば、いずれ曹操の手先と成って攻めて来るであろう黄祖(荊州)軍の戦力を、事前に叩いて減らして措く意味もあった。
 いずれにせよ、負ける訳にはゆかない。引き分けでもならない。完膚無きまでの完全勝利、圧倒的殲滅戦でなくては、この後に想起される〔曹操との決戦〕には臨めない。この1戦にもたつく様では国内世論の動向は更に1層「曹操への全面降伏」に傾くであろう。そう成れば、挙国一致体制で対曹操戦に挑む事は不可能と成り、ひいては勝利から見放され、呉の国は亡びる・・・・故に
【孫権】は黄祖軍の殲滅を狙う。一方の【黄祖】撃退を念頭に置く。呉軍に大打撃を与え、退き去がらせれば善しとする。最悪でも籠城戦に持ち込み、戦闘を長引かせ、敵の疲弊と損耗を強要する。城の攻防戦では守る側に10倍有利である。長引けば敵は退き上げざるを得無くなる。

ーー処が実際は、黄祖の方が意表を突いて
先制攻撃を仕掛けたのである。籠城戦の前に、少しでも敵戦力を減らして措こうとの意図であった。都督の1人「陳就」に命じ、大艦隊を長江に押し出して、呉の水軍に殴り込みを敢行させたのである。敵兵力を減らす為には水戦に限る。艦船同士、1艦ごとの単位で丸ごと決着がつく。陸上での戦闘よりも確実で効率が良いと踏んだのであった。・・・「夏口」下手の長江上で、ついに大艦隊同士の水戦の火蓋が切って落とされた!黄祖水軍も、前回とは比べ物にならぬ程にレベルアップが果されていて、巨艦(戦闘艦)が充実している。

濃い朝靄の中から、陳就の戦艦群が其の姿を現わした。此方からも迎撃艦が直ちに出撃する。見る見る両者の距離が縮まり、敵味方の軍船が擦れ違う様に、入り乱れ始めた。川面一杯の、操舵も儘ならぬ程の密集戦となった。だが戦闘は、陳就側の一方的優位である。陳就の「
戦艦」群に対し、呉水軍が先ず繰り出したのは「駆逐艦」群であった為、次々に激突され沈められてゆく。だが、よく観ると・・・・損害を出しつつも駆逐艦隊は、巧みに敵の先鋒を下流へと誘い込んでいる様にも見える。(当時の艦船については次章で詳述)
上流に位置する陳就軍は優勢に気を良くし、知らず知らずの裡に後方の自軍艦隊から離れて下流方向へと進んでいる。そして其の隙間の水面には、呉の軍艦がスッと割り込んでしまって居る。と、突如・・・その前面に
〔赤い船団〕が現われた。船が赤いのでは無い。乗って居る将兵が全員、赤尽くめなのである!その先頭艦の舳先で仁王立ちになって居る男こそ・・・・平北都督の任に在る呂蒙子明であった。呉軍総司令官の周瑜は、先鋒の最強・呂蒙軍を隠して置き、「陳就」を誘き込んで押し包んだ処で登場させたのである。そして勇猛で鳴る〔呂蒙の赤備え軍〕は、此処で一挙に突撃戦を敢行した。船ごとを次々に敵船にぶつけては飛び移り、甲板に斬り込んだのである。無茶苦茶とも言える戦法であるが、呂蒙軍にとっては御茶の子済々。普段の演習から周瑜司令官によって散々に叩き込まれ、身に付けている戦法の1つに過ぎ無いのであった。この無鉄砲な奇襲作戦に因り、敵の先鋒主力艦隊は隊伍を乱し、個々別々に孤立させられた。
 船上では〔
赤い鬼達〕が見る見る敵兵を斬り倒し、突き落とし、その船ごとを乗っ取ると、更に新たな得物に襲い掛かってゆく・・・・。【呂蒙】本人は雑魚には眼も呉れず、鷹の如き視線を敵都督の旗艦に注いで居た。
「−−居たな、陳就。あれにぶつけよ!」
狙い定めるや、呂蒙は自ずからが真っ先に飛び移り、雑兵2人を斬り倒すと、敵都督に迫って突進していた。
「呂蒙子明、推参!陳就殿、勝負!」「おお、望む処。いざ!」
切り結ぶこと数合、ついに
呂蒙は敵の都督の首を撥ねる大勲功を果してしまう。
−−かくて黄祖の胸算用は、大誤算と成ってしまったのである。緒戦に於ける呂蒙・赤備えの大奮闘に拠り、敵先鋒艦隊は潰滅した。指揮官を失った黄祖水軍は退却行動に移ったが、その多くは退路を絶たれて押し包まれ、被害は甚大となった。一挙に兵数を減らしたのは、黄祖軍の方であった。


この結果、呉軍の士気は嫌が上にも高まり、全軍、隊伍を整え直すと、いよいよ黄祖が出張って立て籠もる「
夏口城」を目指す事となった。「夏口城」は、長江の支流・漢水を少しだけ北に遡った位置に在った。だから追走する呉艦隊は、長江を右に折れ、漢水へと進入して行く事になる。その後に接岸して上陸、近くの夏口城へと向かう手順となる。詳しく言えば、漢水から城の近くまで掘られた「水路」に進入してゆくのである。
「−−ワッ!何だ、あれは!?」
漢水に進入し、更に夏口城への水路に向かおうとした時の事であった。呉軍艦隊の行く手に、トンデモナイ物が出現したのだな、何と、水路の入口を完全に塞ぐ様に、川幅一杯に巨大要塞が立ちはだかっていたのだ山の如き高さである。
「・・・・近づいて、偵察して見よ!」
恐る恐る様子を見に行った偵察船は、瞬時にして乗員全てが射殺されてしまった。何と巨大要塞からは、1秒間に2千本もの弩弓の雨が放たれたのである!それも、放物線を描く流れ矢では無く狙いを定めた超高速の一斉射撃で、1本の無駄玉も無いと云う完璧な狙撃網が備わっているのであった。呂蒙と雖も、思わず眼を瞑りたくなる様な凄まじさである。最強の船種である「戦艦」を出撃させて見たが、結果は同じであった。呉軍艦隊は前進すべき行く手を遮られ、ピタリと其の動きを封じ込められてしまったのである!

この
巨大水上要塞の正体は・・・・2隻の超弩級戦艦であった。謂わば「大和」と「武蔵」をピタリと横に並べて浮かばせ水路を完全に塞いでしまっているのであった。その1艦ずつが特別に建造された”巨大楼船”で、甲板の船縁には千張りの連射式弩弓を装備させてあった。少なくとも弩弓手千人が乗り込める巨大艦である。その山の様な偉容の程が想像される。簡単に千人と記したが、例えば全校で千人を越える学校や従業員千人規模の企業は、現代でもそうザラには無い。その人数を楽々と1隻に収容出来るのだから、当時としては誰しもが仰天する、脅威的な〔超秘密兵器〕であった。
 ちなみに、当時の建艦技術のレベルは、
基本的には”丸木船”でしか無い。《龍骨》=船底を連結する為の屋台骨の支柱は未だ発明されて居無い時期だから、巨木を刳り貫くに過ぎ無い。おのずと大きさに限界が有る。そこで考案されたのが、丸木船を平行に並べた上に、ビッシリと横板を渡してベースとする工法であった。
其のほぼ正方形の広いベース上に、3層の巨大建造物を載せて造られたのが
楼船(ろうせん)と云う巨大艦艇であった。
是れは、荊州水軍が誇る秘密兵器であった。この夏口の戦いで、史上初めて登場したのである。(のち、赤壁の大決戦でも、曹操が之を奪って主力の旗艦とする。)主力武器は、
1千張りの「弩弓」である。固定式なので狙いも正確で、何時でも発射可能であり、手弓より数倍強力で、然も体力を消耗しない。一斉射撃を連続して繰り返せる。それが2隻である。合計2千本もの弩弓の嵐を浴びせられて、無事で居られる艦艇は何処にも存在し無かった。
 上方から射込まれる弩弓の鏃には重い石が用いられる為、船板さえも射貫いてしまう。不用意に近づいた敵は、兵も水夫も全員が射殺され、船は針ネズミ状態と成って流されるばかりであった。
空中戦では、上から見下して射る方が断然有利である。引力に因る矢の勢いも強いし、狙い(照準)が広く、敵が丸見えとなる。それに対し、射上げる相手(敵)の照準は、船縁にチョコンと出る顔1点でしか無い。反撃は不可能と言ってよく、遣られっ放しと成る。是れには流石の呉軍も参った。手も足も出ないのである。【黄祖】は知らぬ間に、こんな物を建造させて、此の1戦に備えて居たのであった。その本気さが窺える。と同時に、その高笑いが聞こえて来そうであった。ーー為す術も無く、日時だけが過ぎていった・・・・。

呉軍では、周瑜の乗る旗艦に、全指揮官が会同して居た。この閉塞状況を如何にするべきか、深刻な作戦会議が開かれた。陸上からの攻撃に切り替えるべきだ!と云う意見も出た。だとすれば、新たに揚陸地点を求め直さなくてはならない。だが、付近一帯に大軍が揚陸可能な地点は見当たらない。”
雲夢うんぽう”と呼ばれる大湿地帯ばかりであった。元々、夏口城は、それを予知・予測して選ばれた地の利に在った。故に戦術を変えて、陸路からの攻撃に転換するとなれば・・・・一旦全軍が帰国し、改めて新作戦を立て直す事となる。そう成れば、曹操に備える時間が奪われてしまう。用意させた2つの首桶が泣くと謂うものである。矢張り、何としてでも、あの〔巨大水塞〕を攻略・突破するしか無い。
《−−では、どうするか!?》
その突破策を進言したのは・・・・副部司馬の
凌統りょうとうと、偏将軍の巨大漢董襲とうしゅうであった。
凌統は亡き「凌操りょうそう」の子で、字は公績
父の凌操は、今回の大作戦の起案者でもある元ヤクザ者の
甘寧に射殺されていた。甘寧との怨執が和解されるのは7年後、逍遥津の戦いに於いて甘寧に救われる時である。今は未だ、複雑な思いを抱きながら孫権に仕え彼と同席して居た。そして皮肉な事に、もう1人の進言者である【董襲】は、その甘寧の副将となって居たのであった
ーーさて、その攻略の具体策とは・・・
いかり》の切断であった
当たり前だが、川は流れる。長江・漢水は激流では無いが、その水面の悠々とした眺めに比べ、その流量は圧倒的であり、巨艦と雖も押し流される。其れをガッチリ固定させ置くには、余程に巨大な《錨》を必要とする。黄祖はその為に、山奥から運び出した巨岩を太綱で括り付け、船体の前後2ヶ所に垂らし、固定させていたのである。一説によれば、当時は未だ《錨》の発想は無かったと謂われる。となれば、是れは黄祖の大ヒット・大発明と云う事になる。
(もしかすると、あの禰衝あたりが、黄祖に殺される以前に発案・発明したのかも知れぬ)
だから当初、呉軍としては、そもそも何故にあの巨大楼船が流れに止留まって居るのかさえも謎であった。呉軍側は、其の秘密を解明する為に、何度も幾日もを掛けて探索隊を送り込み、やっと船底に吊るされている巨岩の存在を突き止めたのだった。其れを最初に突き止めたのが、凌統と董襲の部隊であった訳である。
仕組みが判明すれば、手立ては有る。其の錨を、水中に潜って切断し、下流へ押し流し遣ってしまおう!と云うものであった。

凌統董襲も両人ともが、言い出したからには無論の事自ずからが其の実行部隊を買って出た。デッカイ功名のチャンスでもあるのだった。水中深くに素潜りし、船底に取り付きつつ、巨岩を吊るす太綱を断ち切るのだ!ーーだが問題は、あの弩弓の嵐であった。白濁した水流の中での手探り作業となる。そして息の続く時間には制限が有る。弓矢攻撃を恐れて遠くから潜水し始めれば、肝腎な切断作業の時間が無くなってしまう。かと言って夜間では暗過ぎて成功する見込みが少ないし、又成功したとしても、其の後に続く揚陸行動や戦闘行動には無理があった。どうしても昼間に巨船の直ぐ近くから飛び込むしか無かった。出来るなら接着して、其処から潜水作業に取り掛かりたい。だが近づけば、敵は此処を先途とばかりに、狙い撃ちして来るであろう。決死の作戦となる。・・・・そこで可能な限り犠牲を少なくし、是が非でも作戦成功の為の工夫が凝らされた。先ず、凌統・董襲に夫れ夫れ100名ずつ潜水に長けた勇兵を与え、敢死隊を編成。特攻隊員には戦袍の上に更に鎧を二重に装着させた。(いかに弩弓の威力が凄まじいかの逆証明である。)
突撃船には、特別に高く厚い楯用の板を2重に張り囲い、1人1人は更に木箱に潜り込む。そのボックスの顔の位置に2つの穴を開け、視界を確保。接船と同時に箱を被ったまま水中飛び降り、潜水作業に移る。これは事前に訓練を施した。作業中の息継ぎ確保の為、掩護射撃の艦隊を併進させる。又、此方の企図を悟られぬよう、多くの囮船艇も同行させる。・・・・錨綱の切断に成功し、巨艦が流れ出したら是れは無視して、本軍は一挙に水路に突入。赤備え部隊は直ちに接岸を果し、揚陸地点を確保し、後続部隊の揚陸を掩護する。ーーあとは実行有るのみ!!

 総司令官の周瑜が閲兵し、特攻隊長の凌統・董襲と握手を交わした後・・・・いよいよ巨大水塞破壊作戦が発動された。そして、この「夏口の戦い」に於いては、その巨大水塞攻略が最大のハイライトと成るのであった。

艦隊の進撃隊形としては異様な光景が、川幅一杯に出現した。敢死隊の2隻を押し包む様に、数十隻の船隊が1本の矢も放たず、粛々として進む。〈その瞬間〉の為に、満を持して弓矢をつがえて居るのだった。その接近に対し、水塞からは弩弓の矢玉が雨霰と降り注ぐ。両者の距離はグングン近づくが、呉軍の艦艇はどれも針ネズミ状態となる。それを掻い潜って、とうとう巨大水塞艦に〔敢死隊〕が接近。と同時に、数瞬間に渡り、呉軍から初めて一斉射撃が行われた。その一瞬を狙って、敢死隊員が次々に水中に消えていった。だが早まって箱を打ち捨てた者は、間髪を置かずに射殺される。後方に離れて位置する呉の全軍は、事の成否や如何に!?とばかり、息を呑んで是れを見守る。

ーー水中では、濁りと流れの強さに、悪戦苦闘が続いていた。透明度は低く、かろうじて船底が影として見えるか見えないかであった。殆んど手探りの、勘だけが頼りの作業である。船底に手を当てて、たぐって行こうとするが、直ぐに押し流される。水を蹴って粘ると、息が苦しい。だが頭上では、弓に持ち替えた多くの射手が、直下の水面に狙いを定めている。息継ぎに浮いた瞬間を射殺される隊士が相次いだ。
・・・・と、巨艦の1隻が、ゆるやかに舳先へさきを下流に向け始めたではないか!綱の1本が切られたのだ。それを視認した全軍から、ドッと歓声が湧き起った。敢死隊長の
董襲自ずからが、自身の手で1本を断ち切ったのである!人間の胴体程もある太綱であったが、巨岩の重みでピンと張り詰めた綱は、一旦切り口が裂け始めると、存外簡単に、自らの重みに引っ張られて切れ、千切れて行ったのである。
董襲とうしゅう」は続いて、とも側の太綱の切断にも成功した。−−やがて錨を失った巨大艦は、遂にゆっくりと定位置を離れ、下流の呉軍側へと流され始めた。流れ来る其の姿は、まさに浮かぶ要塞であった。呉軍は其れを、わざと見逃した。後でゆっくり始末すれば良い。程無く、残るもう1艦も「凌統」の部下の手によって錨綱を断たれ、只の漂流物となって戦場から消えていった・・・・。
「今ぞ!全軍突撃せよ!!」
陣太鼓の乱れ打ちが水面に轟き渡り、呉艦隊は夏口城への水路に殺到した。ここ10日近くも足止めされて居た鬱憤を晴らすかの如く、残存していた敵船団を追い詰め、潰滅する。するや又しても〔呂蒙の赤備え〕が上陸1番乗りを果した。弾みのついた呉軍は、騎虎の勢いで敵前上陸を果すと、全兵力が最後の防衛線に迫った。司令官(陳就)を失い、難攻不落と信じられていた巨大水塞を失って、大きく動揺する黄祖軍は、戦意が急速に低下していった。反対に呉軍将兵の意気込みは、呂蒙に遅れてなるものかとばかり凄まじい。怖気づいた敵は、やがて最後の防衛線も突破され、終に全軍が「夏口城」内へと追い込まれた。今度こそ黄祖もオシマイであろう。
ーーその
黄祖・・・・相次ぐ敗報に主将としての責めを負い、城を枕に討死を覚悟していた・・・・と思いきや、又しても逃げた
夏口城が完全に包囲され、猛攻撃に曝されて、落城寸前となった
・・・・と見るや、「黄祖」は将兵も民も捨て”単独で”逃亡したのである。夜陰に乗じて突門から、コッソリ脱出に成功したのであった。孫権側も其の可能性を熟知して居たから、事前に厳しい警戒網を張り巡らせていたにも拘らずである。恐らくは庶民に身を窶しての逃避行であったろうが、6度目の敵前逃亡である。1種、才能かも知れぬ。だが一体、彼の精神構造はどう成って居るのだろうか?再起を図ると言えば、聞こえはよい。確かに彼の本拠はここ「夏口城」では無く、その北方の「江夏城」ではある。然し見捨てられた5万余の将兵や民の命はどうなるのだ?
《将兵なんぞは又、幾等でも補充が付くワイ。儂さえ無事なら再起が出来るではないか!》・・・・「甘寧」が嫌気を差したのも無理からぬと謂うものである。何時の間にか主の蒸発した夏口城は、其れを知った瞬間、戦意を喪失し陥落した。当たり前である。

〔逃げの達人・
黄祖〕−−余りの無責任さに、歴史書も其の字を伝えていない。そして歴史は又、彼の必要性も認め無く成っていた。夏口城を抜け出したものの、思わぬ警戒網の厳しさに立ち往生した。城の直ぐ近くの物陰に潜んで居る処を、騎馬隊士の「馮則ふうそく」に発見される。問答無用、其の場であっけなく斬り殺されてしまった。戦場でも城の中でも無く、戦袍姿でも鎧兜の格好でも無く、薄汚い野良着姿の卑怯なザマの儘、名も無い野辺の一角で只独り、消えていった・・・・。
黄祖】の首は、直ちに孫権の元に届けられ、晒し物にされた。その後、塩漬にされ、父の墓前に持ち帰る為、用意されていた専用の首桶に収められた。・・・・父・孫堅の死から実に
16年・・・・兄・孫策も果し得無かった一族の仇の首を挙げ、孫権はようやく此処に、復讐の誓いを果たしたのであった!!


夏口城下に取り残された数万の男女は、全て捕虜となった。孫権が黄祖の次に復讐のターゲットとして、2つ目の首桶を準備させて措いた、都督の蘇飛も亦、捕えられた。記憶の良い読者諸氏なら思い出されると思うが、この「蘇飛」は此の直前に、あのド派手なヤクザ者だった「甘寧」を、武士の情で送り出してやった恩人でもあった。捕えられた蘇飛は人を遣って、自分の身が危ない事を甘寧に告げさせた。
「蘇飛殿から何も言って来無かったとしても、何で忘れたりするものか!」・・・・元々から仁侠の親玉だった甘寧。恩義の為にこそ生きて居る。そこで戦勝を祝う酒宴の席で、甘寧は自席を外して末座に退がると、孫権に嘆願した。床に頭を打ちつけ、血と涙を流しながらの必死の請願であった。
「蘇飛はかつて、私に恩義を施して呉れました。もし、蘇飛と出会う事が無かったならば、私はズッと以前に路傍に野垂れ死にしていたに違い無く、あなた様の麾下に在って御命令を奉ずる事など出来無かったので御座います。誠に蘇飛の罪は誅戮に値するものでは御座いますが、どうか孫権様には、彼の首を私にお預け下さいますよう、曲げて御願い申し上げまする!!」

甘寧は、今回の大作戦の起案者でもあり、その功は大きい。

「・・・・では聞くが、今その方に免じて彼の罪を問わ無かったとしてもし彼が逃亡したなら、どうするのか?」

「蘇飛は、身首ところを異にする禍いを免れ、死すべき命を生かされたと云う御恩を受けた上は、追い出そうとしても決して逃げ出したりは致しますまい。何で逃亡を図る事など御座いましょう。万一逃亡致しました場合には、私の首を代りに函に入れて戴きましょう!!」
武士の情に対する、命を賭けた武士の答礼であった。孫権は、甘寧の此の熱い男の真情を嘉し、蘇飛は許された。

ーーかくて孫権は、此処にようやく積年の怨みを晴らし、仇敵「黄祖」を討ち取った。
是れは同時に、魯粛の言う
天下3分南北対峙の大戦略の実現に向かって、大きく其の1歩を踏み出したとも言える。
時に西暦
208年(建安13年)の事であった。
赤壁の大決戦は、此の年の暮れ★★である・・・・


するや早速、
曹操から書状が送られて来た。曹操は昨年、万里の長城を越える大遠征を完遂。黄河以北を完璧に制圧し切っていた。もはや河朔には敵対する者の影すら無く、何の心置きも無く、南へ向かっての天下併呑を果すだけと成っていたのである。
・・・・程なく劉表を討つ心算である然し呉に対しては些かの敵意も抱いて居無いので、宜しく共に手を取り合って、漢王室を守り奉らん
「いよいよ荊州を狙って来たか
「フン、呉には敵意を抱いて居らぬだと

予期していた事ではあったが、遂に来るべきものが来たのである。正に、魯粛の思想、周瑜の大戦略と真っ向からぶつかる、曹操の野望の表明であった。

「直ちに対抗措置を取りましょうぞ!」
「うむ、是れは本気で掛からねばな!」
「我が呉国が生き残るか否かの正念場ですな!」
「では先ず、根本的な我が軍の臨戦態勢を考えよう。」

こうして鳩首協議した結果・・・・孫呉政権の呉国は、国軍の大本営を急遽、呉都から西方へと大移動させた。「会稽」から一気に500キロも上遡した《
柴桑》に進出させる大英断であった。
その柴桑さいそうは荊州との国境線上の邑で、長江南岸に位置する曹操の南下に備え、軍事拠点・兵站を思い切って敵の侵入口に移転させたのである。此処を前線基地兼大本営とする事によってどんな事態にも即応し得る体制に入ったのである。荊州に睨みを効かし、曹操を牽制し、折りあらば荊州にも踏み込んで、長江以南の全地域を押さえてしまおうとする雄図であった。(実際、赤壁戦の時にも、此処が呉軍の出撃基地と成る。・・・・但し今の処は未だ君主・孫権は本国中央に留まり、内外の全局に対応する事とした)無論、周瑜公瑾の建策による。そして此の大本営には周瑜自身がドッカリ腰を据える。
そして其の構想を強化する為に、さっそく【
黄蓋こうがい】が、出身地でもある荊州の長沙郡に派遣された。黄祖を駆除した事に拠り、荊州の南部は事実上、呉の版図と成ったのである。長沙郡には「赤壁」も含まれる。黄蓋は其の上流に在る”黄蓋湖”(のちの通称)で、水軍を鍛えつつ治世に当る事となる。
周瑜自身は柴桑さいそうの直ぐ南に広がる、中国最大の湖『番卩よう』で、中護軍の水戦訓練と情報収集に没入してゆく。ちなみに此の番卩陽湖こそは、〔周瑜水軍の揺り籠〕であった。かつて、孫策と未来を誓い合った其の日以来、呉水軍=即ち周瑜水軍は、此の壮大な湖で吼吼くく産声うぶごえを挙げたのであった。爾来じらい、一貫して周瑜は常に此の番卩陽湖で、呉艦隊に猛訓練を施し、己の手足の如くに育て上げて来ていたのであった。

いずれの措置も、近い将来の重大事を想定している。−−それは
・・・・
曹操との大決戦である。

今、呉の国は、建国以来、最も充実した時を迎えようとしている。周辺に敵影無く、内政もやっと基盤整備にメドが立った。西方へ発展あるのみである。
ーーだが、その西方の地(荊州の北辺)では・・・・今まさに未曾有の大激震が起ころうとしていた。

耳を澄ませば、遠く北方に、
曹操軍100万の馬蹄の轟き

                 聞こえて来る
・・・・・・・・。







イチロー選手、メジャーリーグ年間262本
安打
の新記録達成(おめでとう!)のその瞬間に・・・・、

本書・『三国統一志』も、ようやく「」・「」・「」、即ち
曹操】・【孫権】・【劉備】の3英雄が、そして【周瑜】【諸葛亮】を含めた三国志の英雄達が総登場して、同じ208年(建安13年)の時空に会同する時を迎える事となった。是れまで蜿蜒と、時空を飛び交い、次々にワープを繰り返して来た本書も、やっと此処からは3英雄が同じ時間に同じ場所で活動する機会に到達した。
即ち、いよいよ第T部のクライマックスである

赤壁の大決戦を迎えるのである。
全く以って御同慶の至りである。此処までお付き合い戴いた読者諸氏には筆者からの深甚なる感謝の念が届く筈である。筆者自身も、ワクワク致して居ります。ーーでは慎んで、襟を正しつつ、


【第10章】嗚呼、赤壁の大史劇 へ参りましょうぞ!