嗚呼、赤壁の大史劇









                        







漢詩・


漢詩・蘇軾(赤壁懐古)
漢詩・蘇軾(赤壁の賦)























































ーー赤壁・・・・・

なんとも響きの良い語感ではないか!
文字面も美しい

ーー赤壁の戦い・・・・なら、世紀の大決戦にふさわしい。ロマンを感じさせられる。
この感慨・感想は、個々人のものでは無い。古来より、歴史の国の人々が採用した呼称である。正確には、「
烏林の戦い」と謂うべきであり、実際には「蒲圻の戦い」であってもよい。が、中国の人々は、敢えて対岸の地名を選んだ。いや、この地名を創り出したとさえ謂えよう。
青史をこよなく大切にする中国の人々が、呼称・文字面にまで拘わる程、それ程迄に、この戦いの持つ意味は大きかったのだ。
まさに決戦、それも世紀の大決戦と成るのであった。

ーー実に、
三国時代は此処から始まる・・・・
                  と謂ってよい
!!




     【第T部】



     【第10章】
































































     《孔明の虚像
 三国志演義の「虚構・赤壁の戦い」〜



この第10章で、史実に則った赤壁戦を描く前に、演義が創作した諸葛亮孔明の大活躍をザッと見て措こう。そうして措く事によって、三国志の虚実が一段と顕かに成ってゆくと思う故である。
 とは言え、筆者も其の先(学生時代に)、初めて「三国志」を読んだ時の事を思い出すと、感慨深いものが有る。大いに魅了され、授業をサボッテまで読み漁ったものだった。無論、只々スッゲエ〜!!と孔明の天才・鬼才振りに感嘆しきりであった。爾来、何の疑問も無く「三国志」ファンで在り続け、折節に付けては繰り返し読んだものである。処がヒョンな事で『正史』の存在を知り、今や鴻毛に入ってしまった次第である。今となっては、史実と虚構の余りの落差に「やられた!」と兜を脱ぐ思いであるが、人に歴史を教える立場と成ってしまった手前、フィクションだけを語り聞かせるだけでは済ま無くなったと云う御粗末。

 ーーさて、殊に〔赤壁の戦い〕は史実とはハチャメチャな展開である。口アングリの大嘘のオンパレードである。特に呉の人物達は、孔明に虚仮にされる為にだけ登場させられる。取り分けても「周瑜公瑾」は、単なる孔明の引き立て役として、都合の好い様に馬鹿にされ続ける。何回も自身の口から「俺は孔明の足元にも及ばない」と言わせられるのである。それ処か、周瑜の功績は全て孔明にイイトコ盗りされてしまうと云う徹底ぶりetc.etc・・・・。
 ちなみに、演義作者の羅貫中は地理オンチであるが、赤壁の位置も、実際よりは300キロも下流地点として描いている。と、まあ、指摘したい事は山ほど有るがーー

前置はこの位にして、暫し、「演義」の世界を御堪能あれ。
但し、次の点だけは銘記して置いて戴きたい。実際の赤壁の戦いには、孔明の出番は皆無であった(史書には1文字の記述も無い)と云う事を・・・・。尚、史実の部分だけはピンク文字として措く。
        
  諸葛孔明の赤壁


 【第43回】 諸葛亮 群儒と舌戦し、魯子敬 努めて衆議を排す

孔明は魯粛に伴われて、単身で呉国へ乗り込む。其処で先ず、呉国の文官達に会い、彼等を次々に論破して見せる。(初めて扱う呉国の、その人物紹介を兼ねる訳である。)
1番手は「張昭」・言い負かされ、返す言葉も無かった。
2番手は「虞翻」・言葉を返す事が出来無かった。
3番手は「歩陟」・黙り込む。
4番手は「薛綜」・顔を真っ赤ににして恥じ入る。
5番手は「陸績」・グッと言葉に詰まる。
6番が「厳o」・項垂れ意気沮喪して反論出来ず。
7番は「程徳枢」・反論出来ず。
・・・・と云う塩梅で、一座の者は諸葛亮の流れる様な応答ぶりを見て、全員蒼白になってしまわされる。更に「張温」と「駱統」が論戦に挑もうとした時、「黄蓋」が外から現われて、何故こんな素晴しい意見を君主・孫権に言わないのだとして、誘う。途中で兄の「諸葛瑾」にもバッタリ出会ったり・・・・
まあ色々あって、「孫権」に会う。そして、
《この人物は説得するのは無理だ。挑発するに限る!》
 
と見破り結局は怒らせて、曹操との会戦を決意させてしまう。
だが文官達は非戦論で団結いるので困っていると、「呉国太=亡母の妹」が何故「周瑜」を呼んで相談しないのか?と教えられそこで【周瑜】が遣って来る。
 【第44回】 孔明 智を用いて周瑜を激し、孫権 計を決して曹操を破る

すると代わる代わるに部将達や文官達が周瑜の元に訪ねて来ては、自分達の意見を述べる。(まあ、人物紹介の続きである。)この時点では周瑜は降伏論者であった。
そこで孔明は知らんぷりして、周瑜に賛成して言う。
「曹操が100万の軍勢を率いて江南を狙っているのは実は2喬とか云う美人の為なのです。千金を以って買い求め、送り届けさえすれば、曹操は満足して兵を返すに違いありませぬ。」
 そして其の証拠として、曹操が曹植に作らせた『銅雀台の賦』なる長詩を暗誦してみせる。 ーーするや周瑜は聞き終わると、カッと逆上して席を離れ、北を指しつつ曹操を罵倒して誓うのだった。「私はあの老いぼれとは天を共に戴かぬぞ!」と。・・・・で、総司令官の周瑜は突然、孔明の挑発に乗せられて、ガチンガチンの決戦論者に成ったのである。
ーーその後色々あって周瑜は、孔明が自分よりも何枚も上手であり、いずれ江東の禍の種に成るから、殺すべきだ!と考える。
 【第45回】 三江口にて曹操兵を折り、群英会にて蒋幹 計に中る

それを裏付ける様な、飛び抜けた言動を孔明がするものだから周瑜は地団駄踏みながら更に謀殺の決意を固めて言う。
「奴の見識は俺の10倍は優れている。今、除かねば我が国の禍と成ろう!」それを聞いた魯粛が諌めて、「曹操を降した後でも構わぬでしょう」と言い、周瑜も一応は同意する。

さて劉備だが、陣中見舞いと称して、糜竺を呉国へ内情調査に派遣した。すると周瑜は、糜竺に劉備を来訪させるように伝え、送り還した。その真の狙いは、「玄徳は当代の英雄だから、生かして置く訳にはゆかん。この機会に誘き寄せて殺してしまえば、誠に国家の為になるのだ!」と、魯粛の質問に答える。関羽は罠かも知れ無いとて、自分が劉備の護衛役に就きつつ呉国へと向かう。 果して周瑜は、劉備暗殺の機会を窺うが、後に控える関羽を見ると、すっかりビビッテしまい、2人共にお引取りを願う事としたのであった。

ここで曹操から無礼な宛名書きの手紙が届き、激怒した周瑜は中身を読みもせず破り捨てるや、水軍攻撃を開始する。曹操も、荊州の降将の「蔡瑁」と「張允」に命じて迎撃させた。
読者にリアリティを感じさせる為に、会戦地点や日時刻限までを示しながら戦闘は進行し、結局、緒戦は呉軍が勝利する。
 大軍を以って少軍に破れた蔡瑁と張允の2将は、曹操に
〈やる気無し!〉と疑われるが、この時は許されて、壮大な防禦陣(水門の数などを記してリアルさを演出)を構築する。
その曹操は、敗戦のショックを打開する為に、周瑜とは竹馬の友である「幹蒋」の申し出を入れ、呉の陣地に送り込む。だが周瑜は逆に、蒋幹にニセ手紙を握らせ、為に「蔡瑁」と張允は曹操に斬り殺されてしまうのであった。(史実は、生涯厚遇されたのに)
 これは、周瑜が余り平凡では孔明が際立た無いから、少しは周瑜の智謀も見せて置く為の挿話である。だから還った蒋幹に「周瑜は人格高潔で、とても言葉では動かせませんでした」と報告させて措く。
 【第46回】 奇謀を用いて 孔明箭を借り、密計を献じて黄蓋 刑を受く

そんな非凡では在る周瑜は、「公明正大な方法」で孔明の殺害を企てる。10日以内に10万本の矢を作って欲しいと持ち掛けるのであった。するや孔明は「10日などとは悠長な。3日で10万本の矢をお渡し致しましょう」と請け合ったのである。ーーそして3日後、孔明は美事、約束を果して見せるのであった!! 仰天した周瑜が訳を尋ねると・・・・
実は、霧の濃い朝未だ期、20隻の船に乾し草を山積みにして曹操陣に近づき、鐘や太鼓を打ち鳴らした。スワ!敵の来襲かと曹操側は音源めがけて雨霰と弓矢を射掛けた。その結果、1隻毎の乾し草には夫れ夫れ5〜6千本の新品の矢が突き刺さっており、6千×20隻=12万本の収穫と相成った次第・・・・「では先生は、どうして濃い霧が出る事がお判りになったのですか!?」と周瑜。それに対して孔明は事も無気に答えて見せる。
「将たる身の者、天文に通ぜず、地の利を識らず、奇門を知らず、陰陽を曉らず、陣構えを見抜けず、兵の備えに明るくなければ、凡才です。私は3日前に既に今日、濃い霧が発生する事を予測していました。だから敢えて3日の期限を区切ったのです。公瑾殿は私に10日で矢を揃えよ命ぜられましたが、実は職人も材料も全て手に入らない様に手配し、無実の罪で私を殺そうとされたのは明白です。私の命は天に繋がっているのですから、何で公瑾殿に私を殺す事が出来ましょうぞ。」
ーーこのコンセプトは、のちに孫権が、自分の乗る船が傾き転覆しそうになったので、船を反転させ、逆の舷側にわざと敵の矢を受けて、その重さを利用して傾きを修復した・・・・と云う『正史』の記述を改竄したものである。羅貫中は正史を隅々まで精読し尽くした、最大の正史愛読者・正史精通者でも在った訳である。まあそんな事はどうでもよいが、この挿話の最大の眼目は、今後の話しの展開に、非常に重大な〔伏線〕を張っている点である。
・・・・即ち、孔明は天文・地勢などに通暁して居り、霧の発生や「風向き」などを正確に予測し得、あまつさえ自在に操れる神の如き大天才である・・・と云う事を、事前に読者に納得させて措く作意の下に挿入されている訳なのである。
完全に兜を脱がされた格好の周瑜は終に、みずからが抱く己の秘策が最善の策であるかどうかを、孔明に問う。この時2人は同時に手の平に秘策を書き合い、イッセ〜のセで見せ合った。すると両者ともの掌には「火」の1文字が有った。
 さて曹操、10万本以上の矢を騙し取られてムカッ腹を立てて居たが、「荀攸」の献策に従い、蔡瑁の一族の蔡中と蔡和とに、呉への〔偽装降伏〕を命ずる。周瑜は承知の上で受け入れ甘寧の下に付け先鋒を任せる。と、それをヒントに得た「黄蓋」がジャストタイミングで自分で考え出した『苦肉の計』を申し出て来る。そこで周瑜は黄蓋に罪を擦り付け、衆目の中で鞭打ちの刑を行なう。と其の馴れ合いを看破した敢沢が曹操との連絡役を買って出る

 【第47回】敢沢 密かに詐降の書を献じ广龍統巧みに連環の計を授く

曹操は、投降の密使として遣って来た敢沢を大いに疑り、散々に詰問するが、敢沢は能弁と度胸とで曹操を信じさせる事に成功。再び呉陣に戻らせる。又例の蔡中・蔡和も甘寧に嵌められ、降伏の意志固しと信じ込まされる。故に曹操の元へは相次いで敢沢と蔡中からの確約・確実の報告が届くのであった。 だが、そこは曹操。心底からは信用せず、再度あの蒋幹を呉陣へ遣って、事の確率を探らせる事とした。
ーーさて此処で突然に「广龍ほうとう」が登場して来る。广龍統はこの時点では周瑜の下に出仕していたのであるが、以前、魯粛を通じて周瑜にこう進言していた。
「曹操軍を撃破しようとするなら、必ず火攻めを用いるべきです。但し、長江の水面で1艘の船に火を着ければ、他の船は散り散りになって逃げてしまいます。曹操に《連環の計》を献上し、船と船とを釘付けさせて初めて、事は上手くゆきます。」
周瑜はそれを思い出し、广龍統を呼び寄せさせる。 (※孔明が手を廻した事にはなっていない。)が、广龍統を対岸の曹操の元へ送り込む方策が見つからず、困惑して居る処へ蒋幹が又やって来て呉れるのであった。そこで周瑜は一計を案じ、蒋幹を今回は捕え、友情に免じて近くの西山の庵に蟄居させた。すると蒋幹は直ぐ裏手に草庵を発見、中で軍学書を朗誦して居る人物に出喰わす。それが実は广龍統であった訳である
「周瑜は才能が有ると自負し、他人を受け容れる事が出来ません。その為に私は此処に隠れ住んで居るのです。」・・・・で、2人は連れ立って曹操の元へゆく。
曹操は、高名な《鳳雛》が来たと聞いて自ずから外まで出迎え、自軍の陣立を検証して呉れる様に以来する。すると广龍統は
巡検した後、《連環の計》を進言する。曹操は、火攻めに遭った場合の欠陥を見抜くが、然し時期は冬。強い西北の季節風が吹き付ける毎日であり、火勢は敵側に向く事から、この連環の計を採用する。ーー処が、广龍統の背後から、その計略の全貌を見破っている旨を浴びせ掛けた人物が登場。广龍統は仰天し、魂が消し飛んだ。

 【第48回】長江に宴して 曹操 詩を賦し、戦船に鎖して 北軍 武を用う

その人物とは「徐庶」であった。徐庶は母親を曹操の人質に取られた為、この直前に、已む無く劉備の下を去って、魏に仕える事に成ったばかりであった。徐庶いわく、「もし、此処を退避する方策を授けて呉れるなら、断じて口外はしない。」・・・そこで广龍統がO・Kして教えてやったのは・・・西方で馬超らが反乱を起こしたと云うデマを流し、その鎮圧部隊の参謀と成って、此処を退避せよ!と云う内容。で、其の通りになる。曹操は徐庶を派遣した事でホッとして、長江上での大宴会を催す。
そこで、あの『酒に対して当に歌うべし』の大合唱が行なわれる。だが「劉馥」(合肥城の築城者)に、歌詞の1部が不吉であると言われた為、酔っ払っていた曹操は即刻、其の場で彼を手打ちにしてしまう。尊大な悪人の所業と云う次第。
この後、両軍の部将達を紹介する為に、大演習や小競り合いが設定され、それを山の上から周瑜が望見する。と、突如1陣の風が吹き起こり、曹操陣内に掲げられていた元帥旗がへし折れるのが見えた。「之は曹操には不吉の事じゃ!」カラカラ笑う周瑜。するや其の突風はこちら岸にまで吹き寄せ、脇に立っていた軍旗を払って、周瑜の顔面を強かに叩いた。 その瞬間、周瑜は或る事を思った為に、ギャッと叫ぶや昏倒し、口から血を吐いて人事不省に陥ってしまうのであった。

 【第49回】 七星壇に諸葛 風を祭り、三江口に周瑜 火を縦つ

それを知った孔明は、周瑜を見舞うと、その枕辺に立って言う。
「私に良い処方があります。直ぐに都督の病を治しましょう。」
そして紙と筆を所望すると、左右の者を下がらせて、密やかに
16文字を書き、周瑜に手渡した。
「之が都督の御病気の原因です。」
欲破曹公、宜用火攻。万事倶備、只欠東風
周瑜は驚愕すると同時に、素直に教えを請うた。孔明は言った。 「私は不才の身ではありますが、かつて異人と出会い、奇門遁甲の神秘な書物を伝授されましたので、風を呼び雨を喚ぶ事が出来ます。もし都督が東南の風をお望みならば、南并山に台を築いて下さい。是れは《七星壇》と云う物です。台の高さは九尺で、三層の構造にし、旗を持った120人の兵士を周囲に巡らせて下さい。私は台の上で術を使い、3日3晩、東南の大風を天から借りて吹かせ、都督の戦いを御助け致します。如何ですか?」
「3日3晩ではなく、たった1晩の大風で大事は成就する。
 だが遅れてはならない。」
「11月20日、甲子の日に大風を起こし、22日、丙寅の日に風を止める・・・・と云うのでは、如何ですか?」



ーーかくて、万事は、諸葛亮孔明のお蔭で、計画通りに運び
    曹操軍は赤壁の地で大敗北する!!
                          ・・・・のであった・・・・・
 【第50回】 諸葛亮 智もて華容を算り、関雲長 義もて曹操を釈す

曹操軍の大敗北を予見していた孔明は、曹操の息の根を断つ為に、その逃走ルートを推断した上で、事前に要所要所へ劉備麾下の勇将・趙雲・張飛・関羽を配置させて措いたのである。
(尤も、地理オンチの作者は、此処でも亦、ハチャメチャな地名を並び連ねるのではあるが)・・・・そんな事とはつゆ知らず、周瑜軍の猛襲を何とか凌いでホッと1安堵する曹操。だが、其処からがハラハラの連続。是れでもかと謂わんばかりに次々と、呉の猛将が襲い掛かる。即ち、呂蒙・陵統・甘寧・陸遜と太子慈が出て来ては曹操を追い詰める。然し曹操側も其の都度、張遼・徐晃・張合卩らが駆け付けて来ては、何とか死地を脱する曹操。
 ーーもう大丈夫だろうと1休みしていると、こんどは真打登場で「趙雲」が猛襲してゆく。曹操は徐晃と張合卩の2人掛かりで防戦させるが、あわや!まで追い詰められる。然し趙雲はひたすら旗印を奪う事に専念した為、曹操はかろうじて脱出を果す。
 やがて背景はドシャブリの大雨となるが、其処へ今度は「張飛」が出現。趙雲が2人掛かりだったから、張飛には許猪・張遼・徐晃の3人掛かりで防戦させ、又もや危地を脱出する曹操。最早ヘトヘトでボロボロ状態の曹操。従うは27騎のみ。此処からは
”華陽道”をとって曹仁の守る南城を目指す。ーーが、ジャ〜ン
・・・・終にオオトリの登場・・・・いよいよ 青龍偃月刀 を手にした
「関羽」
愛馬・赤兎に打ち跨って曹操の行く手に立ちはだかったのである!!無論、部隊を率いているのだから、曹操の命運は此処に尽きる・・・・・
 筈だった。が、この時、参謀の程cが曹操に進言した。
「私は関羽の人となりをよく識って居ります。 関羽は 上の者には傲慢だが下の者には憐み深く、強者は馬鹿にするが弱者は虐げない男です。恩と怨みをハッキリ区別し、その信義の厚さは元より明らかです。丞相は以前、彼に大恩を施して居られるのですから今、御自身でお話しになりますれば、この危機を脱する事が出来ましょう。
そこで曹操はその意見に従って唯1騎で前に進み、関羽の前に身を屈めて御辞儀をしながら話し掛ける。

 ーーで・・・・関羽は義理を山より重いとする仁侠の人であったから、かつて曹操から受けた幾多の恩義や、5関の守将を斬り捨てた時も曹操が咎め立てし無かった事を思い出すと、何で心を動かさずに居られようか。又、曹操に従う、疲れ切った者達の恐れ慄き、今にも涙を流さんばかりの様子を見ると、ますます辛い気持が募る関羽であった。そこで義の人・関羽は、馬首を巡らすと配下の兵士に命じた。「散開して道を空けよ!」この命令は明らかに曹操を見逃そうとするものだった。曹操は、関羽が馬を返したのを見ると、直ちに部将達と共に其処を駆け抜ける。
関羽が振り向いた時には既に曹操は奔り去っていた。が、関羽は部将は捕えようとして大喝するや、将兵等は皆、地に平れ伏して涙を流した。その涙を見た関羽は一層辛くなり躊躇った。が、ちょうど其処へ張遼が追い着いて来たので、その昔馴染みの姿を見た関羽はフウ〜っと溜息を吐き、終には全員を見逃すのであった・・・・。
 事前配置された諸将のうち唯1人、手ぶらで帰還した関羽は、「私めは死を賜わりに参りました。」 と孔明の前へ進み出た。
事情を聞き知った孔明は厳しく言う。
「ここに誓約書が有る限り、軍法に照らして、処罰しない訳にはゆきませんぞ!」
そして衛兵に命じて、関羽を引き摺り出して斬れ!と命ずるのであった。 (全ての責任は、軍師として関羽を其の場所に配した自分にある、として
                            許した・・・・とするのは演義以外の物語)

然し、孔明が関羽を斬ろうとした時、劉備が言った。
「昔、我等3人は、義兄弟の契りを結んだ時、生死を共にしようと誓った。今、雲長は軍法に違反したとは言え、以前の誓いを破るに忍びない。しばらく預かりとして、手柄を以って罪を贖わせてやって貰いたい。」
そこで孔明は、はじめて関羽を許すのであった・・・・。


  江陵去りて行先は 武昌夏口の秋の陣
  一葉軽く棹さして  三寸の舌呉に説けば
  見よ大江の風狂い 焔乱れて姦雄の
  雄図砕けぬ波荒く
             《土井晩翠》

        
〜・・・・と、以上が『三国志演義』に於ける〔赤壁の戦い〕である。

一見、史実の様でありながら、まあ、ほぼ95〜98パーセントが虚構フィクション・創作である。更に追け加えて措くならば、この後、

赤壁戦の真の主人公である【周瑜】は、何と孔明の策謀に怒って
”憤死”させられてしまうのである・・・・


ーーまあ、是れは是れで凄いから、別に目鯨立てる必要は無いのだが、本書第10章としては、では史実はどうなんだ!?・・・・と云う興味が津々と湧いて来る所以ではある、のである。



                      〔赤壁懐古〕 −−蘇軾−−
【第134節】曹魏そうぎ百万、篝火かがりび赤し (青天の霹靂へきれき)→へ