

その楚の国の王は「平王」であった。この平王の太子(跡継ぎ)は「建」と言ったが、この太子の侍従長(太傅)を勤めていたのが伍子胥の父親伍奢であった。この伍奢の下に副侍従長(少傅)として「費無忌」と云う男が居た。事件の発端は、この権力欲旺盛な費無忌と云う男から始まる。彼の現在の役職は太子付きであり王の側近の地位では無かった。ちなみに平王は王に成ったばかりで、この先も長く在位するであろうと思われた。太子に王の御鉢が廻って来るのは一体何十年先になるやら判らない。そこで費無忌は、何とかして王の側近に成るのが出世の早道だと常々考えていた。そして其の機会は意外に早くやって来た。平王の発案により、政略結婚で
太子(建)は”宋”の国で好遇されていた。伍子胥は太子と相談して、”宋”に力を貸して貰う事にした。だが、程なく宋の国内で内乱(華氏の乱)が勃発した為、この計画は水泡に帰してしまった。已む無くニ人は、”鄭”に亡命した。そこでも2人は好遇を得たが、如何せん弱小泡沫国であった。とても楚に攻め入るだけの力は無い。そこで2人は、以前から楚と並ぶ大国である”晋”に行った。此処で太子(建)は、晋王(頃候)から、抜き差しならぬ相談を持ち掛けられる。恐らく此の事件の背後には、目的(復讐)の為なら手段を選ばぬ伍子胥の画策が在ったに違い無い。
「許さんぞ!断じて許さぬ!平王が死んだとて、未だ楚の国は残っているのだ!そうだとも、楚の国を亡ぼす迄は、この伍子胥の復讐は終わらぬのじゃ!!見て居れ、楚国の者ども!
こうした伍子胥の側面掩護などに拠り、新王体制は次第に確立し・・・・いよいよ伍子胥の念願の日が来た。憎っくき楚に進撃する事が決定されたのである。新王が即位してから4年目(BC513年)、復讐の除幕からは9年目の事であった。左右の将軍として「伍子胥」と、新たに楚から亡命して来た「伯喜否」が指名された。謂わば怨念コンビ、復讐の赤鬼と青鬼タッグである。総参謀長としては当然ながら「孫武」が任命された。
そして此の頃から、長江一帯の情勢は大きく一変する。呉の主たる対戦相手が、”楚”から”越”へと変わってゆくのである。即ち、”越”の国力が日増しに強固なものと成って来たと云う事である。
その日、戦場に突如として大音楽が成り渡った。楚軍の方向から軍楽隊の奏でる勇壮な行進曲が聞こえて来たのだ。スワ、総攻撃か!と思いきや、敵兵の姿なぞ1人も居無かった。
【第133節】 親子3代、夢の続き