第132節
臥薪嘗胆物語り
                                   報仇雪恨の系譜

※この節は、本編ストーリーとは直接的な関連は無いので、お急ぎの向きには直ちに第133節へどうぞ。

その男が復讐鬼と化したのはBC・522年(現時点からは700年前)、インドでは釈迦、ギリシャではピタゴラスが生きて居り、又マラトンの戦いが有り、中国大陸は春秋時代と呼ばれる、大混沌の最中に当る時期であった。彼は後に中国3大怨霊の1人とされ伍君神として現代でも崇め・畏れられている。その男が復讐に賭けた生涯は、凄絶極まり無いなものであり、後世に臥薪嘗胆の諺を残した張本人でもある。そして其の復讐の物語りは、その男が、ここ呉の地へ亡命して来た処から始まる。

彼の、その復讐の動機には、我々も納得がゆく。然し、その後の展開は必ずしも正当とは言い切れ無い。が、それ故にこそ彼は、怨霊神にまで畏敬されたのでもある。個人の仇討ちとしてでは無く、祖国を丸ごと怨み尽くし、終には、当時最強であった1大国家を滅亡させてしまうのである。・・・・今、呉の孫権が、黄祖と云う個人を復讐の対象にしつつも、実は其れが国家間の戦いであるのと同質・同志向の事と謂えようか。その昔、ここ【呉国】を舞台に繰り広げられた、報仇雪恨の物語りを知って措こうではないか。

但し、出て来る国名や地名・人物名などは全く気にせず、軽く読み流して戴きたい。眼目は飽くまで”人間の行為”の方である。尚、ベースは『司馬遷・史記』であるが、『呉越春秋』と云う小説的史料も含む都合上、此の節に限っては、フィクション有りの1種の物語伝説的な読み物に接する程度の気楽な気持で居て戴きたい。
   ※尚、
どうやら小説だな、と思われる部分は白字として措く



さて、その
復讐鬼とは・・・・伍子胥ごししょと云う人物である。名はうんと言い、の国の名族であった。この”楚”は長江中流域を支配する、当時(BC・500年頃)の最強国家・最大版図の国であり、その東方(長江河口域)の”の国(無論、今の孫呉政権とは無縁で別のもの)と屡々対立抗争していた。
関連地図 その楚の国の王は
平王であった。この平王の太子(跡継ぎ)は「建」と言ったが、この太子の侍従長(太傅)を勤めていたのが伍子胥ごししょの父親伍奢であった。この伍奢ごしゃの下に副侍従長(少傅)として「費無忌ひむき」と云う男が居た。事件の発端は、この権力欲旺盛な費無忌と云う男から始まる。彼の現在の役職は太子付きであり王の側近の地位では無かった。ちなみに平王は王に成ったばかりで、この先も長く在位するであろうと思われた。太子に王の御鉢が廻って来るのは一体何十年先になるやら判らない。そこで費無忌は、何とかして王の側近に成るのが出世の早道だと常々考えていた。そして其の機会は意外に早くやって来た。平王の発案により、政略結婚で
”秦”の国から「
太子・建」に嫁を迎える事となり、その嫁迎えの使者役が廻って来たのである。処がいざ、其の王女に会って見ると是れがまた絶世の美女であった。この時、費無忌はハタと思い着いた。この美女をダシに使えば、己が王の側近に成れると。何せ普段から王の好色ぶりを観察して来ていたから、この美女が平王好みである事は間違い無しであった。そこで費無忌は飛んで帰ると、平王に耳打ちした。
「まあ、それはそれは、此の世に2人とは居無い絶世の美女で御座いますぞ。私の思う処では、彼女は平王様にこそ相応しい美女で御座います。太子には他の女性を迎えれば宜しいのです。この際、この美女は平王様が側室に為されるべきかと考え、王様のお為を思い、この費無忌めが既にその方向で手廻しして参りました」
「ほう〜、それ程に美しいのか!?」
「はい。その匂うが如き妖艶さ・高雅さは、この費無忌が200%保証致しまする。何と言っても秦は先進の国。その秦侯の王女ですぞ!此処いら辺の田舎女とは土台モノが違いまする。」
暗に太子の母の出自(関守の娘)を卑しめる。
「う〜む、それ程迄にソチが勧めるなら、已むを得まいカナ?」
てな訳で”ヒドイ話し”は進み、結局、事は費無忌の狙い通りに成った。そして彼は念願叶って、王の側近に昇進したのであった。
だが当然、太子の建は面白く無い筈だ。そう思うと費無忌、急に将来が不安になって来た。太子が王と成った時を予想すれば、己の命は無いであろう。・・・・1番安心なのは太子を殺してしまう事であるが、今すぐと云う訳にはゆかぬ。そこで取り合えずは讒言作戦に出て、太子を遠方の国境地帯に在る「
城父」へ、国境守備の名目で(実際的にも必要性が有ったので大軍を与えて)追い遣ってしまった。実は此の城父の建設も、費無忌が進言したものであった。尚、平王が彼の讒言を聞き入れた背景には、例の秦の王女が男児を産み、その児に跡目を継がせたいと思う様に成っていた事と、平王自身が兄弟を殺して王位に就いた経歴を持っていた故である。この時、太傅であった「伍奢」も一緒に城父の大都邑へと派遣(追放)された。
これで費無忌が安心したかと言えば、全く逆であった。益々不安は募る一方であった。矢張り殺してしまわなければ、枕を高くして眠れない。そんな彼に入れ知恵した者があった(姓名不明)。廃太子などと生温い方策では無く、究極の讒言=”
謀叛の罪”をデッチ上げれば、放って置いても、平王自身が太子を誅殺すると言うのだった。太子が大軍を擁している点が障害になっていた費無忌はこの入れ知恵を聞いて大喜び。自分の甘さを反省した。其の際に邪魔に成るのは、太子と一緒に派遣されている、太傅の「伍奢」の存在であった。代々の名門で人望も厚い。
 そこで費無忌は先ず、この邪魔者から抹殺する事にした。言われた平王は、謀叛の真偽を問い糾すとして「伍奢」だけを、ここ
の都・(えい)に呼び寄せた。やって来た伍奢には全てが判っている。逆に平王を諭した。だが、その諫言を聴く様であれば、最初からこんな事には成っていよう筈も無い。即刻捕縛され牢獄に監禁されてしまった。と同時に将軍の奮揚(城父の司馬だったがたまたま来て居た)に、謀反人と決まった太子の誅殺を命じた。奮揚は直ちに出発した。が彼は、太子の無実を知っていた。だから使者を先行させて逃亡を勧告し、わざと遅れて到着した。お陰で太子・建は危うく”宋”の国へ亡命した。当然、手ぶらで帰還した奮揚は詰問された。「よくもオメオメと帰ってきたものじゃ。自分の罪は心得て居ろうの?」
「はい、心得て居ればこそ帰って参りました。主命に背きましては何処へ逃げても、受け容れて呉れる者は居りませぬと思う故で御座います。」
「ム、分かった。退がれ。是れまで通り、城父の司馬を務めよ。」
この措置を見る限りでは、平王も丸っきりのアホでは無さそうである。それだけに尚一層、費無忌はもう後には退けない。こう成った上は、反対派を根絶やしにするしか無い。そこで又、平王に吹き込む。
「今後、伍奢の一族は、平王様を怨むに違いありませぬ。特に2人の息子達は今すぐに殺して措かないと、一族の頭目と成って大きな反乱を起こすでしょう。逃亡せぬ様な策を講ずる必要が御座います。」  「如何すれば良い?」
「伍奢に手紙を書かせるので御座います。兄弟揃って出頭すれば父親の死罪は減刑され命は助けるが、出頭せねば直ちに死刑が執行される。だから即刻に来て呉れ・・・と申し伝えさせるのです。父親の為とあらば、必ずや2人は出て来ます。そして父子が揃ったら、そこで3人まとめて始末してしまうのです。」
ーーだが、平王を前にした伍奢は首を縦に振らず、ただ慨嘆して言うのだった。
「嗚呼、気の毒に!是れで平王と費無忌は、今後1日たりとも安心する時を持てなく成る事に成りますな。是れを聞いたら、2人の息子のうち、弟の伍子胥は、必ずや復讐を果すでありましょう。あいつはそうした漢じゃ・・・・」
そう聞かされた平王は仕方無く、息子達へ出頭命令の形で使者(捕り手)を送った。


「私はゆく。」と兄の伍尚ごしょう
「それはなりません!」と弟の
伍子胥ごししょ
「行けば必ず殺されます!」
「我が伍家は、先祖代々”孝”を人々に示して来た家柄じゃ。その長男が父親の危難を見過ごす訳にはゆかん。だが、お前は生き残って、父と兄の仇を取って呉れ。だが、国王相手の仇討ちは、死ぬ事より苦しく辛い事になるかも知れぬぞ。心して掛かれよ。」
「こんな理不尽な事は天が許しませぬ。断じて私は復讐してみせまする!」
「ああ、よくぞ天は、我が家に息子を2人与え賜うたものじゃ。」
そう言うと兄の伍尚は独りで使者(捕り手)の前に進み出て行った。
「弟の方は何故出て来ぬのじゃ!?」
「弟は理不尽な命令には従わぬと申して居ります。」
「何だと!おのれ、踏み込んで引っ括れィ!」
捕り手が踏み込もうとした時、邸内から怒りの矢が飛んだ。1人が射貫かれたと思うや、更に2の矢、3の矢が捕り手を射殺した。ギョッとして見透かすとーー其処には、憤怒の中から、今生まれたばかりの1人の羅刹・復讐の鬼が、全身の毛を逆立てて梓の弓を構えて居た。
身長1丈、腰囲1丈、眉間1尺(呉越春秋)
・・・・2m近い豪壮巨躯である。
「よいか、平王に伝えよ!悪逆非道な貴様の命は、必ずやこの伍子胥が討ち果たし、我が怨念を晴らして見せるとな!」
そう叫ぶや、伍子胥はサッと身を翻し、行方を晦ました。ーーそして此の時から、辛く長い伍子胥の復讐章が始まるのであった!!

伍子胥ごししょは先ず、太子(建)が亡命した”宋”の国を目指した。その途中、バッタリ親友の
申包胥(しんほうしょ)に出会った。
「(こう云う訳で)私は亡命する。いずれ必ず楚を亡ぼす覚悟だ。」
「分かった。君は君の道をゆけ。私は私の道をゆこう。君が楚の国を亡ぼすなら、私は必ず楚の国を興してみせよう。」
「よかろう。お互い、お手並み拝見と参ろう。」
「うん、存分に遣り給え。では、いずれ戦場で相まみえようぞ。」


太子(建)は
の国で好遇されていた。伍子胥は太子と相談して、”宋”に力を貸して貰う事にした。だが、程なく宋の国内で内乱(華氏の乱)が勃発した為、この計画は水泡に帰してしまった。已む無くニ人は、に亡命した。そこでも2人は好遇を得たが、如何せん弱小泡沫国であった。とても楚に攻め入るだけの力は無い。そこで2人は、以前から楚と並ぶ大国であるに行った。此処で太子(建)は、晋王(頃候)から、抜き差しならぬ相談を持ち掛けられる。恐らく此の事件の背後には、目的(復讐)の為なら手段を選ばぬ伍子胥の画策が在ったに違い無い。
『常々考えて居ったのですが・・・・この際、我が”晋”にとって、眼の上のタン瘤である”鄭”を亡ぼしたい。鄭を亡ぼして併合すれば、我が晋は”楚”に対して優位と成り申す。さすれば太子を楚に送り込んで、王位に就けて差し上げられます。取り合えずは鄭を太子に進呈いたしましょう。」
思いも寄らぬ重大な内容であった。
「いえ、大した事をして頂く訳では御座らぬ。もう1度鄭に帰って頂き、いずれ我が軍が進攻した際に、内側から城内に火を放ち、城門を開けて頂くだけで宜しいのです。如何かな?」
やる価値は在った。もう亡命生活にはウンザリし掛かって居る時でもあった。「やってみましょう。」
太子は伍子胥と共に、再び”鄭”に戻った。そんな陰謀が有るとは知らない鄭の国は、以前同様2人を好遇で迎え、知行地を与えた処が思わぬ事が原因で発覚してしまう。2説有る。『
史記』と『呉越春秋』では、太子が従者に重い折檻をして恨みを買い、『左伝』では、知行地の暴悪が元で民の怨みを買い・・・・訴えられた結果、陰謀の書類が発見され、太子は処刑されてしまったのである。
失敗した呉子胥は、太子の遺児(勝)を連れると、素早く鄭を脱し、東南方向の
を目指した。呉は古来より”楚”とは常に戦いを繰り返す敵対関係で在り続けていたから、頼むに足る相手と考えたのである。(尚、是れ以後の伍子胥の逃避行は、誤伝される様に単独行では無く、幼児との2人連れである。)−−この時に何故足手纏いと成る遺児を連れ出したのかは、当の伍子胥自身にも分ら無かった。残せば殺される事が明白な幼い命を眼の前にして咄嗟の義侠心が選ばせた行為であったのだろう。
 当然、追っ手が掛かった。然も、この事件を知った楚の平王は、伍子胥を捕える絶好の機会とばかりに、ケタ外れの懸賞金を懸けた。ーー何と
粟5万石に執圭の爵・・・・伍子胥を捕えた者には生死に関わらず、5万石の領地と華族の爵位を与える・・・・と全国指名手配したのである。(※圭とは授与される玉器)いかに平王が伍子胥を恐れていたかが知れる懸賞の巨大さである。追跡や探索は一段と熾烈になり、血眼と成った者達が一攫千金を狙って、ウジャウジャと眼を光らせる。
そんな中、単独行なら未だしも、幼児を抱えての逃避行である。地を這う様に、隠密潜行してゆく。並大抵の苦難では無い。然し、どうにか呉楚の国境に有る「昭関」まで辿り着いた。だが此処で遂に見抜かれてしまった。(上図参照)
(※
そこで伍子胥は1計を案じた。こんな場合に備えて、考えて置いてあったのであろう。関守の耳に囁いた。「ワシが追われている本当の理由は秘宝である大粒の真珠を持ち去ったからなのじゃ。今それを昨夜の宿に置いてある。取りに帰る事を許して呉れるなら、其れを君に進ぜよう。どうじゃ。」
それを聞いて関守は帰る事を許した。伍子胥は、引き返すと直ちに道を東に取って
)走りに走り、何とか長江の岸辺に辿り着いた。だが幼児を抱いて渡る術が無かった。程なく追っ手が懸け付けて来よう。焦りまくり、岸辺を右往左往する伍子胥。・・・・と、天の祐けか、1艘の小船が江上に現われた。漁夫が操る小船であった。大きな身振りで呼び寄せると、どうにか来て呉れた。
「向こう岸に渡りたい。乗せて呉れぬか。」
と頼み掛ける最中、向こうの方に、はや追っ手の一団が姿を現わし始めた。
「−−ようがす。」その異変に気付いたのか気付かぬのか、漁夫は承諾して、2人を小船に招き乗せて呉れた。
「おーい、そいつはお尋ね者だぞ〜。返せ〜!戻せ〜!」
伍子胥の耳にも、その叫び声は聞こえた。 だが、漁夫は構わず船を操り、やがて小船は岸を離れ、川の中程近くまで来た。見ると間一髪、土手の上に追っ手の一団が到着したのが望見できた。皆、得物を翳しながら、此方に向かって、盛んに何か叫び合っている。その声が聞き取れるか取れないかの距離であった。伍子胥はチラと漁夫の様子を窺う。だが漁夫は、何事にも気が付かぬ風情であった。
  ーー知伍胥之急、乃渡伍胥−−(史記)
やがて岸からは完全に遠ざかり、そして無事、南岸に着いた。此処はもう呉の地である。やっと目指す呉の地に、その第1歩を踏めるのだ・・・・。
「助かった。深く感謝いたす。処で渡して呉れた謝礼だが、今手元に有るのは此の宝剣1振りだけじゃ。売れば百金の値がある。受け取って呉れ。」
すると老漁夫は小さく笑って言った。
「無用の事ですだ。百金よりは5万石の方が大きい事は、子供にだって判るこんですだ。今国中に御触れが出廻って居りますからしてのう〜。」
「−−そ、それでは・・・・!」
「ワシャ欲得ずくでは動きませぬ。ただ困って居んなさる御前様達が可哀相じゃったに因って、こうした迄の事。そんなモンはしまって置きなされ。」
涼しく笑うだけで受け取らない。
「嗚呼、世の中には是れ程に気高い心の持主が居られたとは!」
感動した伍子胥は、深く深く礼を述べて漁夫と別れた。

ーー然し、此処からが又、大事であった。何しろ、現在の”孫呉の時代”より700年も昔(現代からは2500年前)の事である。まともな道など在ろう筈も無く、小さい邑は無論の事、1軒の民家さえ、おいそれとは見当たらない。果てし無い湖沼と密林が延々と続く人跡未踏の苛酷な土地の横断であったのだ。
ーー
マダ呉ニ至ラズシテム。中道ニとどマリテ、食ヲ乞ウーー(史記)
病気になったり、物乞いの乞食をしながら、片手に幼い遺児の手を引き、片手は杖に縋りつつ、よろめきながら、髭ぼうぼうにやつれた伍子胥。それでも尚、途中で挫折する事無く、その1歩1歩を踏み出し続けさせたもの・・・・それは唯、只管に、心の奥処に燃え続ける復讐の2文字、楚の平王の理不尽に対する激しい怒りであった。ーーそう迄して、漸く呉の都邑に辿り着いたのは、祖国の楚を追われてからほぼ丸1年が経った頃であった。
だが、呉の都に着いた伍子胥ごししょは焦る事無く先ずは乞食姿の儘、宮殿に1番近い橋の袂に居付いた。呉国の人物を観察する為であった。その品定の結果どうやら噂通り、
「公子の光」が最も大人物であると思われた。公子とは皇太子以外の皇族男子全般を指す語で、も直系では無く、今の呉王の従兄弟に当る人物であった。主として軍事を司っていた。その光を人物だと見定めた伍子胥は、或る日、眼の前を光が通りすがろうとした時、わざと大声で溜息を吐いてみせた。「ああ、呉と云う国は、余っ程に人間が剰り過ぎているのだなあ〜!」
「−−!?おい乞食、今何と言った?」
「いやあ、呉の国に来て見たら、人間が有り余って、そこ等じゅう兵隊サンばかりで驚いて居ります。」
「ん?一体どこに兵士の姿が見える!?」
「此処には見えませんが、必ずや多いだろうと思ったのです。」
「何故そう思うのじゃ?」
「何故って、呉の都には城壁が御座いませんから、敵に攻め込まれたら、きっと大勢の兵隊で守るんでしょうなあ。」この時代、未だ呉の都邑には城壁が築かれて居無かったのである。
「我が国は攻められる事なぞ無いわ。」
「では攻める側で御座いますか?」
「そうじゃ。」
「それでも矢張り、敵国に攻め寄せる場合でも、多くの兵士が留守を守るんでしょうなあ。ほんに人手の多い事で御座りますわい。」


ーー実は最近、
呉国を取り巻く情勢が大きく変化して来ていたのである。是れ迄は西方の楚国とだけの抗争を繰り返していたのだが・・・・つい最近になって、直ぐ背後に当る南にと云う新興国家が誕生したのである。それ迄は国家と呼べる程の勢力では無かったのだが、名臣・范蠡が出て富国強兵策を推し進めて来た結果、遂に「会稽」を都邑と定める迄に急成長していたのである。
「ーーウ〜ム・・・・お主、只者では無いな!何処から来た?」
「へい、楚の国からで御座います。」
「名を教えて貰えぬか?」
「いやあ〜、名乗る程の者では御座いませぬよ。」
「ま、今日の処は善しとして措こう。」
こう言い合って、その日は別れた。

処が数日も経たぬ内に、新たな情報が「光」の元に届けられた。例の”越”が都邑の会稽に城壁を築き始めたと云うのだ。
「フン、臆病者めが。このワシが其れ程に恐ろしいか!」
聞かされた光は寧ろ自分の攻撃精神を誇って見せた。仇敵の
”楚”でも最近、都の郢を城壁で囲んだと云う事だった。
「−−城・・・か・・・・」武田信玄では無いが、光は是れまで〔城〕の必要性を全く感じて来なかった。常に攻勢を取り続けて来ていたからである。処が、続報を聞いて顔色を変えた。築城の推進者は范蠡自身であると謂うのである。
「これは考え直さねばならんかな!?」名臣・范蠡はんれいが責任者であるからには、放って置けない不気味な動きである。対楚戦の際に、後顧の憂いと成り得る危険性を孕む重大な事態である。

・・・・と其の時、あの乞食の顔が眼に浮かんだ。そう言えば幼児を連れて居た。「や、是れは迂闊であったわい!彼が伍子胥その人であったか!」


かくて
伍子胥は、呉国の公子・こうに丁重に迎えられ、呉王とも謁見して正式に呉国の臣下〕と成ったのである。無論、最終目的は、呉の力に拠って楚の国を攻め、平王の命を奪う事であった。理不尽に殺された父と兄の怨みを晴らす事であった。もはや、あの楚国での事件は天下周知の事となっており、伍子胥自身も亦その目的を隠そうともしなかった。
ーーそして此処から、
更にはをも巻き込んだ壮大な亡国の復讐劇が、その幕を切って落とされるのであった・・・・!!

伍子胥ごししょは公子・光の腹心として国政に参与できる立場にはなったが、「呉王の僚」は彼をそれ程は評価しなかった様だ。無為の裡に3年が過ぎてゆく・・・・但し此の間に、伍子胥にとっては重大な2つの出来事が有った。1つは公子・光の本心が掴めた事である実は公子の
は、王位奪還(簒奪)のクーデタアを狙っていたのである。その事情は複雑に過ぎるので割愛するが、確かに光の王位継承の言い分には1理在ったとだけ付け足して措こう。ーーこの事は伍子胥にとって好都合であった。現在の僚王では楚国への侵攻は埒が明きそうにも無かった。即ち、幾ら〔楚国進攻〕を進言しても、一向に採り上げる気配は無かったのである。而して実は、その進言を時期早尚として却下したのは公子の光であった。が、その事実を本人の口から聞かされた時、伍子胥は全てを理解したのであった。
もう1つは、
専諸(せんしょ)と云う壮士を野から見つけ出して厚遇し、親交を深めた(義理・恩義を押し付けた)結果、遂には彼の為なら一命を賭しても惜しくは無いと云う関係を築き上げた事である。又、この豪勇・専諸とは正反対なヒョロヒョロでガリガリの、風が吹けば飛ばされてしまいそうな要離(ようり)と云う男の心も獲得していた。実は、其れも是れも全て、公子・光の念願を側面から助ける心算の下準備であった。そうして措いてから伍子胥は願い出て暫く隠遁生活をする事にした。
「ほう、ワシを見限ると言うのか?」公子の光は、笑いながら言った。無論、以心伝心。阿吽の呼吸と云うやつである。
「呉国の深い事情は私には分かりません。居ればかえってお邪魔に成るだけの事。いずれ”其の時”が参りましたら存分に御使い下され。その代わり、この時節には私より役に立つ人物を置いてゆきますから、私だと思って何でも御命令下さい。剣の達人で在りますが、その胆力こそ彼の最も評価すべき所。決して物事に動ぜず、主命とあらば命を惜しまぬ豪勇で御座る。」
そう言って引き合わせたのは勿論、「
専諸せんしょ」の方である。今、光に最も必要な物は、クーデタアの際に身を以って国王の命を奪う凶器=刺客であった。無論、生き残らずに刺し違え、100%の成功率を保証出来る胆力と度胸と腕の有る人物でなくてはならない。専諸は其の条件を全て満たしていた。と言うより最初から伍子胥はそう云う男を物色していたのである。
ーーこうして野に下って(光の領地の一角であろう)遺児の「勝」と晴耕雨読する事3年が経った或る日の事・・・光からの使者がやって来て告げたのである。
「楚の平王が病死しました。」
何だと〜!!それは真か!?」
伍子胥は思わず手にしていた鍬を取り落とすと真っ青に成った。
「はい、間違いは有りませぬ。」
呉王僚の在位11年目(BC・516年)の事であった。父と兄が処刑されたのはBC・522年である。あれから
5年の歳月が流れていた。
うお〜〜!何でだ!!何で天は、あんな極悪非道な男に、安楽な死を与えたのじゃア〜〜!!
使者は一瞬、伍子胥の気が狂ったかと思った。
ああ、ワシの此の5年の辛苦は何の為だったのじゃア〜!おお、父上、兄上、申し訳ありませぬ!この伍子胥は、ついにその怨みを晴らす事が出来ませなんだア〜〜!!
地に突っ伏して号泣し、何度も何度も己の額を岩にぶつけて喚き罵る伍子胥・・・・額が割れて鮮血が噴き出す。
ワシは己の命を惜しんで出奔したのでは無い!嗚呼それなのに是れでは丸で、卑怯者が1人残っただけではないかア〜!?
使者は恐れを為して駆け戻ってしまった。ーー慟哭すること暫し、
ゆらりと立ち上がった復讐鬼の面には、以前にも増した怨念の色が、メラメラと燃え上がっていた。
許さんぞ!断じて許さぬ!平王が死んだとて、未だ楚の国は残っているのだ!そうだとも、楚の国を亡ぼす迄は、この伍子胥の復讐は終わらぬのじゃ!!見て居れ、楚国の者ども!
必ずや貴様等の国は、このワシの手で亡ぼしてみせてやる・・・・!!

此の瞬間から、伍子胥の復讐劇は、本質的に其の対象が大きく変容したのである。平王と云う個人から一転して、楚と云う国家そのものが怨念の対象と成ったのであった。この目標の摩り替わりを、果して”昇華”と呼んで良いものやら、”転嫁”と呼ぶべきかは議論の余地の在る処ではあるが、伍子胥自身はこう決意して、其の一生を楚の亡国の為にだけ突き進むのである。


さて、クーデタアのチャンスを慎重に窺い続ける公子の光であるが・・・・その王位奪取の際に障壁と成る人物が2人居た。1人は
季札(きさつ)であった。本来なら、とっくに国王に成って居るべき人物であり、呉国の誰もが1目も2目も置く儒教の大賢人でも在った。だが反面、彼の謙遜(我が儘)が、呉国に複雑で無用な混乱を招いている事も亦、覆い難い事実であった。王位継承の機会が巡って来る度に、何時も逃げた。兄を差し置いて指名を受ける事は出来ぬ・・・と云うのが彼の倫理・主張であった。誰も文句1つ言わぬのに固辞し続けた。だから歴代の王は彼に気を使い、常に王の横に席を設け、ナンバー2として来ていたのである。普通に考えれば、こんな手荒な方法での新王就任に賛成する筈の無い大賢人であった。
もう1人は、現王(僚)の長男の
慶忌(けいき)である。ケタ外れの剛勇であった。何しろ万夫不当!狩りに出れば走獣を徒歩で追い詰め手捕りにし、飛鳥を飛び上がって手掴みに出来、4頭立ての馬車と競走しても負けず、弓の的になって見せるとヒョイヒョイと飛矢を手掴みにした・・・・と謂う。然も其の上、「明智ノ人」であったと謂うのだから、彼の人望と人気は国中に厚かった。
 そんな2人が居る時では、絶対にクーデタアなど成功はすまい。そこで公子・光は、この2人を長期間に渡って国外の任務に就かせる様に画策し、結局成功させた。「季札」の方は諸国安撫の親善大使として出発させ、「慶忌」の方は”衛の国”へ〔人質遊学〕の交代要員として送り出した。随分の以前から、同盟国同士の友好の証としての人質交換が行なわれていたのである。衛の国の方が先進地域に在るから、将来国王に成る為にも先進地域での留学は御役に立つ・・・・とか何とか言い包めたのであろう。
こうして措いてから「光」は病気と称して出仕しなくなった筈である元気では、出征司令官の御鉢が自分に廻って来てしまう。 次に画策したのは、楚国討つべし!の世論作り・世論操作であった。自分が出仕しない以上は会議で発言出来無いから、搦め手からの攻勢であった。やがて目論み通りに、議会が動かされ、遂には
呉王の僚自身が、この平王の死を絶好のチャンスと観る様に成った。何故なら、平王亡き跡の”楚”では、幼い新国王が擁立されたが、国内の人心は不安に駆られて大きく動揺していたのである。その幼い新王こそは、例の”新妻横取り事件”で、あの秦の美人公女が産んだ平王の子・軫=(昭王)であったのだ。二進も三進も行かなくなった楚の王室は、国民から全ての元凶と観られて怨嗟の的と成っている、あの「費無忌」を殺さざるを得無かった。(伍子胥にとって第2番目の標的であった相手も、処刑されたのである)如何に悪人とは謂え、政権の担当者であった人物が誅殺されたのだから、楚国全体の弱体化は必至であった。その混乱に付け込んで、一気に楚を討とうと思う様になったのである。
そこで僚王は自分の弟である
蓋余がいよ燭庸しょくように大軍を与え、出陣させたのである。ーーすると戦局は、「光」の思って居た以上の展開と成ったのだった。意外にも楚の軍は迎撃すると見せかけて、水軍を駆使して呉軍の退路を絶つ作戦に出たのである。為に呉軍は破れはしないが身動き出来ぬ状態に嵌り、直ちには国内には引き返せ無い事態が出現したのである。
《是れぞ、天が我に与えし、大事決行の機会!》・・・・と
公子・は決断した。直ちに「専諸」が呼び寄せられ、手筈が整えられた。
ーー(細かい描写は面白いが、長くなるので割愛するが)要はーー

焼魚の腹に隠した短剣(のち
魚腸剣と命名される)を取り出した専諸が、その銅剣を僚王の胸に突き刺し抉り貫いて殺害したのである。当然、専諸も護衛兵達に斬殺されるが、直後に地下室から現われた公子・光の軍勢の前に、美事クーデタアは成功したのであった。
出征先で此の報を知った僚王の弟2人(蓋余・燭庸)は、全軍を率いて楚に投降した。それに対して楚は、2人に舒の地(周瑜の出身地に当る)を与えて呉軍の進攻に備えさせた。今日の味方は明日の敵、昨日の敵が今日は味方・・・・有為転変は激しい。この2人とは反対に、楚から呉へ亡命して来た者も有ったのである。楚では新王体制を確立する為に、旧権力に対する粛清の嵐が吹き荒れた。先の費無忌も其の1例であるが、名族・名門と言われて来た多くの者達が抹殺されていった。それを逃れて来た大物としては「
喜否」(はくひ)が居た。この男も伍子胥と同様に、楚に対する復讐を誓って呉に亡命して来たのであった。有為転変・流転逆天の凄まじい春秋時代ではある・・・・。


《是れでやっと、俺の出番が巡って来るか!》
呉軍が出兵したと知った時点から、既に事変を予想して居た伍子胥の元に、公子・光からの使者が来たのは、クーデタアの翌日の事であった。かくて公子・光は即位して新国王となった。
これが
呉王闔廬こうりょである。
伍子胥は直ちに行人に任命された。外相兼”宰相”と謂える重職である。又、総参謀長には孫武が抜擢された。あの『孫子の兵法』の元祖・当の御本尊である。(孫権ら一族が彼の末裔だと崇める御先祖様であり、曹操が研究し尽くす大兵法家である。)この孫武については実在しないとする向きすらある、謎の多い人物である。又、出仕以前には是れと謂った武勲の記述が皆無の人物でもある。多分、伍子胥が探し出して来た人材だったと想われる。が、敢えてエピソードを1つ。
ーー
或る時、孫武は自分の著書13篇を呉王に献上した。すると呉王は、「理論と実践は必ずしも一致するとは限らない」と彼を揶揄して、宮女180人を貸し与え、その美女達を半日で精兵に仕立て上げて見せよ!と注文した。引き受けた孫武は、再三注意しても遊び半分に浮かれて、いつ迄経ってもお茶ら化た儘で、一向に号令に従わぬ宮女達への見せしめとして、最後には、隊長に任じてあった呉王の愛妃2人の首を、軍令違反として、王の制止も振り払って、刎ねてしまうのであった。直後からはビシッと威令の行き届いた美女軍団が出現した・・・・(まあ、読み物、読み物)

又、楚から亡命して来た
喜否は〔大夫〕に取り立てられた。こうして適材適所の人材も揃い、闔盧新王の周辺は、着々と新体制が整えられていった。
ーーだが、そんな順風万帆な闔盧こうりょには、未だ2つだけ大きな不安が残っていた。この直前に国外へ送り出して措いた、2人の有力者の動向であった。その1人・・・・このクーデタアが正当なもので有るか否か!?その世論を決定着けるだけの力を有する、重要人物の動向に、国中の人々の耳目が注がれていたのである。
”晋の国”へ派出されたいた
季札が帰国して来ると言うのである。もし彼が異論を唱えれば、内乱勃発は必至である。闔盧も伍子胥も、誰も彼もがその発言に固唾を呑んだ。
祖先の祀りを絶やさず、民草が主を廃さず、社稷が奉じられさえすれば、それは私の君主である。私は誰をも怨まない。死んだ僚王を哀悼し、生きている闔盧に仕え、天命を待とう。」・・・・何ともはや、お騒がせな御仁ではある。が、兎に角、この発言内容に新王・闔盧はホッと安堵の胸を撫で降ろしたのであった。

残る不安材料は”衛”の国に人質留学させている
慶忌の動向であった。或る意味では「季札」よりは、もっと直接的で深刻な脅威と言えるであろう。もし剛勇明智で人望家の彼が、全軍諸共に楚に投降した前国王の2兄弟と連合する様な事態とも成れば、今度は完全に形勢が逆転し、此方がやられる羽目に追い込まれてしまう。
「何か良い手立ては無いか?」
「暗殺以外には無いでしょうナ。」
「実行できる人物の当ては在るのか?」
「はい、見た目とは正反対の胆力の持主が居りまする。」
「ウム、専諸を推挙して呉れた君が言う人物であれば間違いあるまい。」・・・と云う事で、伍子胥が今回のケースに推挙した刺客はあのヒョロガリの
要離であった。引見した呉王は、彼の余りの貧弱さに軽蔑の色を隠さなかった。するや要離はトンデモナイ提案をして見せるのであった。
先ず私を罪人と為して下され。私は亡命致します。次には逃亡の罪にて我が妻子を処刑して下され。同じ怨みを持つ者として、慶忌殿は気を許し私を迎え容れましょう。あとは1匕首の事。勇力など要しませぬ。
ーー結果、事は其の通りに運び、長江の軍船上で、油断して居た慶忌は要離の槍に突き刺されて絶命する。
その際慶忌は、「ワシを刺すとは大したものじゃ。殺してはならぬ。1日で2人もの英傑を失う事に成ってしまうではないか。無事に呉国に送り届けよ。」と言って息絶えた。だが要離は周囲の宥めも聞かずに密かに自刎して果てた・・・・(ここ等辺は読み物でアリマスナア)

こうした伍子胥の側面掩護などに拠り、新王体制は次第に確立し・・・・いよいよ伍子胥の念願の日が来た。憎っくき楚に進撃する事が決定されたのである。新王が即位してから4年目(BC513年)、復讐の除幕からは
9年目の事であった。左右の将軍として伍子胥と、新たに楚から亡命して来た喜否が指名された。謂わば怨念コンビ、復讐の赤鬼と青鬼タッグである。総参謀長としては当然ながら孫武が任命された。
呉軍が先ず目指したのは、楚に亡命した僚王の弟2人が任されている「舒」の城であった。こちらも復讐戦である。共に互いが元は呉楚・楚呉の重臣同士と云う、何とも皮肉で象徴的な、”
逆天の戦い”であった。ーー結果は呉軍の圧倒的勝利となった。舒(周瑜の出身地)の城は勿論、居巣(魯粛の出身地)の城をも陥とし、2人の兄弟は生け捕りにされ、意気揚がる呉軍は其の勢いに乗って、更に楚の都・「郢=えい」を目指そうとした。・・・・が、此処でストップを掛けたのは、総参謀長の「孫武」であった。
ーー
民労ス。未マダ可ナラズ。暫シ之ヲ待テーー
流石に只の兵法家では無い。この進言によって、呉軍は兵を退いて帰国した。だが逸る呉子胥にとっては、念願の第1歩は不発に終わった事となったのである・・・・。そしていよいよ、孫武の口から

ーー
時期熟セリ。楚都討ツベシ!!−−の決断が発せられたのは・・・・第1次進攻から5年(復讐16年目)が経った年の事であった。
丸々5年を掛けての準備万端であった。軍容も士気も充実し切っていた。破竹の勢いで怒涛の進撃と成った。向かう処敵無し!楚の出城は次々と陥落し、楚の将兵はただ潰走・敗走の憂き目を味わされるだけであった。【孫武】の名が天下に知れ渡ったのは、この快進撃の大軍師として、その立つる作戦の美事さ故であった。その5連敗の悲報を聞くや楚王の軫(昭王)は、呉軍の姿が見えぬ裡から首都放棄を決めたが、せめて1矢を報いんとして、奇策を用いた。”
象の特攻隊”を呉軍へ向けて突っ込ませたのである。油を注いだ薪を満載した車を牽かせ、それに火を掛けて象の群を追い立てたのだ。謂わば”火象の計”だが、是れは中国史上初の、動物を使用しての戦術であった。(次の時代に火牛、漢末に王莽が虎・豹・犀・象を用いる)流石の呉軍も丸1日、足が止まったと言うのだから、その巨象の頭数は可也のものだった事であろう。既述の如く、三国時代ですら黄河周辺にまで象や犀や虎などが棲息して居たのであるから、更に700年も前の長江一帯には象サン達はウジャウジャ野生していた。だから観賞用も含めて、日頃から相当数の巨象を飼い馴らしていたと想われる。
(※尚、楚の首都・「えい」の位置は、三国志で謂えば、荊州水軍の軍港=「江陵」に当る)
だが所詮、乗り手の居無い動物だけでは、脅かし程度の効果しか発揮出来無い。イタチの最後っ屁で1日だけの時間を稼ぐと、楚の昭王は首都を放棄して、船に乗って逃亡してしまった。


ーーそして遂に・・・・
苦節16年・・・・伍子胥の本望が果される時が来たのだった。怨みは深し楚都の郢−−伍子胥は全軍の先頭に立って、城門を潜り抜けた。懐かしくは無かった。その心には只、いや増しに増幅された、凄まじい怨念だけが充ち充ちていた。
そんな伍子胥が軍装を解く事もせず、先ず最初にした事は、憎っくき「
平王の遺骸探し」であった。無論、昭王の姿は求めさせたが居る筈も無い。王の墓所だから直ぐに発見の報告が入った。
ひつぎを此処へ引きり出せ!」
静かな表情で命ずる伍子胥。
「棺桶の蓋を開けよ!」
ふたが上・中と取り外され、遂に最後の内蓋が取り払われた。−−と、その中身が伍子胥の眼の中に飛び込んで来た。王侯の遺体には万全の防腐処置が施され、完全密閉の重層の柩が用いられていたから、平王の亡骸はほぼ原形を留めていたであろう。・・・・暫し其れを睨み続ける伍子胥。その胸中は誰にも推し測れ無い。と、見る見る其の顔付が異変した。
と、既に其の心算で居たのであろう。無言の儘ではあったが、手にしていた刑罰用の鞭を振り翳すと、何とその遺骸目掛けて渾身の力で振り降ろしたのである!!
「−−あっ!・・・・・」周りに佇立する部下の将兵は思わず声を挙げて驚いた。総毛立つ所業である。処が、その仕打は1回だけでは済ま無かった。更に激しく”
死体に鞭打つ”伍子胥。急に空気に触れた遺骸からは、白っぽい粉と成った皮膚や肉片が飛び散り、舞い上がる。叩かれる度に皮肉が裂け、その下から徐々に骸骨が現われて来る。正視に堪え無い修羅、酸鼻を極める行為であった。其処には最早、人間の皮を被った復讐鬼だけが居るだけで在った。
ーー之ヲ鞭打ツ事三百、然ル後 止ムーー

300回も鞭打たれては、平王の遺体はすっかり骸骨と化したに違い無い・・・・(史書によっては、最初伍子胥は其の遺体に片足を乗せ、「貴様の如き物の見えぬ奴が、何時迄も目玉をくっ付けて置くなど勿体無いワ!」と叫ぶや、右手で其の両眼を抉り取った・・・とする物もある。) 所謂いわゆるしかばねむち打つの語源である。

この悪鬼羅刹の行為は忽ちにして天下に広まってゆく。当然、敗走した楚の者達の耳にも伝わった。伍子胥が祖国を出奔した其の日、途中で出会い互いに生きる道を認め合った親友の「
申包胥」から、この行為を非難する手紙が届けられた。
「君の仇討の遣り方は、酷過ぎるぞ。『人多ければ天に勝つ。天定まって亦よく人を破る』と謂う。君は元来、平王の臣として仕える身で在ったのに、死人に刑を加えるとは、是れこそ天道を無にする極みでないか。」
この手紙を読んだ伍子胥は、使者に向かって言った。
「申包君に伝えて呉れ。『
俺はもう日暮れて道遠しと云う身だ。だから倒行して逆施するのだ』とな。」ーー歳を取って来た私には、もう残された時間は少ないのだ。焦らざるを得無い。万事承知の上で、敢えて尚こうするしか他に道は無いのだーー
こうして、日暮れて道遠しと云う名言が生まれた・・・・

その親友の
申包胥しんほうしょ・・・伍子胥が楚の国を亡ぼして見せる!と言った時、「それなら私は楚の国を守り、興して見せよう!」と誓った男である。今は敗れて山中から手紙を送り付けたのであるがあの時の誓いは脈々と生きていた。
《何としてでも、此の苦境を打破して見せる!》
そう決意した申包胥は、単騎で”
秦の国”へ走り、援軍を乞うた。だが秦王は冷たく拒絶した。するや申包胥は7日7晩の間(勺飲モ口ニ入レザル事七日)、一滴の水すら飲まず号泣し続けた。その必死の姿を目の当りにした秦王は流石に感動し、とうとう援軍を引き受けて呉れたのである。その返答の仕方が粋だった。彼の歌に歌で答えて見せたのだった(割愛)。戦車500乗に5万の兵を与えた。是れを率いて馳せ戻った申包胥は、自軍の将兵と合流して呉軍と戦った。黄河寄りの「稷=しょく」と云う地点での会戦となった。そして楚軍は勝ったのである。それまで楚軍は5戦して全敗していたのであるが、此処で初めて勝利を獲得したのだった。局地戦に過ぎ無い1戦ではあったが、この1勝は意外な影響を両軍にもたらした。
初めて敗れた呉軍には動揺が生じたのである。連戦連勝している間は気にも成ら無かった、背後の”
”が、この1敗に因って俄に後顧の憂いと成って、顕在化して来たのである。実際、手薄になった呉都に侵入し、遣りたい放題に荒し廻った挙句に引き上げたのである。だが、遠征中の呉軍本隊は眼前の強敵との戦いで動きが取れない。窮地に立たされる呉王・闔盧・・・・するや、ここで謀叛が起こった。呉王・闔盧こうりょの”弟”の「夫概ふがい」が密かに戦場を離脱し、呉都に帰還すると自立(王)を宣言したのである。
「おのれ〜火事場泥棒メ!!」闔盧は激怒した。その夫概、この遠征の最大の武勲者であった。抜け駆けで緒戦を勝ち取り、連戦連勝の原動力と成っていたのだ。だが以前から兄の呉王は、この勇敢な弟を強く警戒し嫌っていた。そんな背景が在ったのだが、無論、「やれる!」と踏んだ上での謀叛だった。
そこで呉王の闔盧は、急遽軍議を開き、本隊を2つに分ける事とした。呉子胥・孫武・伯喜否らは楚に留まり、自分だけは本国に引き返して弟と対決する事とした。ーー結果、闔盧があっさり勝って夫概は楚に亡命し、子々孫々迄が楚の家臣
(堂谿氏)と成る。弟の夫概は、1時の成功に驕って己を過大評価して失敗する者の例えと成り果てた訳である。
・・・・他方、楚に残留した伍子胥らは、防戦一方に追い込まれていった。申包胥が得た1勝が、各地で雌伏していた楚人の愛国心を呼び醒まし、楚都でも激しいレジスタンスやゲリラが起こり終いには首都から撤退せざるを得無くなった。一旦火が着いた抵抗精神は、その後も更に楚軍を強大化させ、結局最後には、呉の全軍は楚の領土から完全に兵を退いて帰国する事となった・・・・。

この呉楚の戦役では、呉は勝利を確定する事は出来無かったが
伍子胥は何とか復讐の目的を果し、親友の申包胥も亦、己の誓いを果した事とは相なったのである。
ーーその伍子胥・・・・永い間燃え滾らせて来た強烈な目的(復讐)を果した今、普通に考えれば、穏やかな境地に辿り着き、以後は日々平らかに落ち着いた人生を送るであろうと想像されるのだが
・・・・実際は違った。又更に、己の情熱・執念を燃やし続ける為の新たな目標を設定したのである。どうやら此の男の心の辞書には最初から、「平穏」だとか「安寧」と謂う字句は消し去られている様である。新たな目標は”権力欲”であった。
 そして、表題の〔臥薪嘗胆がしんしょうたん〕の逸話は、正に是れから始まるのである・・・・。

翌年にも呉軍は楚に再侵攻し、首都を「郢」から200キロ北方の「
若卩じゃく」=(三国志の・劉表が単身赴任で乗り着け萠越らと出合った城)へと後退させた。以後、呉は伍子胥と孫武コンビの活躍に拠り、天下を睥睨する強国と成っていった。そして呉王・闔盧こうりょは、彼方此方に離宮を造成させ、贅を極めた歓楽生活を楽しめる様に成って居た。(※春秋五覇の1人に、この闔盧を入れる観方もあるが、大方は覇者失格とする。その原因の1つには次の様な事をしたからだと史記は言うーー或る日、愛する娘の藤玉とうぎょくと食事を共にして居た時、「是れは美味しいよ、お食べ。」と蒸魚の皿を勧めた。小さい頃は何時もそうやっていたので他意も無く自然にした事であった。処が藤玉は「父君は私に、こんな恥辱を与えられた。もう生きては居られ無いワ!」と言って自殺してしまった。残り物を食べさせられるのは奴隷の所業とされていた故であった。悲しんだ闔盧は、せめて盛大な葬儀をしてやろうと思い、巨大な墳墓を造らせた・・・・非難されるのは此の後の行為である。177人の者達を殉死させたのである。殉死そのものは当時の風習として、一応は大目に見られていたのではあるが、遣り方がヒドかった。騙まし討ち同然に、哀悼の意を示しに来た者達の退路を不意に断って、そのまま墳墓の中に生き埋めにしてしまったのである!)

何事も思い通りにゆかぬのが人の世の常・・・・跡継ぎの太子・「波」も死んでしまう。その原因は愛ゆえの事だった。強大化した呉を畏れた”斉”の国が、恭順の態度を示す為に、公女を人質に送って寄越したのである。その少女は太子・波の妻とされたが、いつも遠い母国を思っては悲しみに暮れ続け、とうとう病死してしまった。すると彼女を愛していた「波」までもが心を病み、後を追う様に病死してしまったのである。太子が死んでしまった呉王としては新たに跡継ぎを指名しなければならなくなった。順番からゆけば次弟の
夫差(ふさ)が太子に指名される筈だった。が、父王はなかなかに指名をしなかった。父親の眼には「夫差」の人格に危ういモノを感じ取っていた故であった。其れを察した夫差は、父王からは絶対の信頼を得ている「伍子胥」に接近した。恐らく権力欲に目標替えした伍子胥にも、夫差を利用する下心が有ったのであろう。援護射撃を約束した。果して呉王から相談を受けた。
「世の常識からも、序列からしても”夫差”様が宜しいでしょう。」
だが、呉王は受け入れ無かった。
夫差ふさは智にくらく、不仁ふじんな性質である。人君としては適当な人物では無い。不差が王と成ったら、国運を危うくしはせぬかと、不安である。」 ”不仁”とは、愛情が薄く苛酷な心情の持主の事を指す。この父王の予見はやがて敵中する事になるのだが、此の時既に権力欲の虜に変身して居た伍子胥は、強引に呉王を説得し続け遂には首を縦に振らせたのである。即ち、呉国の次の王は、伍子胥のお陰で、夫差に決定したのである。

そして此の頃から、長江一帯の情勢は大きく一変する。呉の主たる対戦相手が、”楚”から”越”へと変わってゆくのである。即ち、”越”の国力が日増しに強固なものと成って来たと云う事である。
ちなみにの首都は「会稽かいけい」である。本書読者なら直ぐにハハ〜ンと、その地理的位置が思い浮かぶであろうが、呉都と会稽との距離は僅か150キロに過ぎ無い。三国時代の【孫呉】から見れば、如何に未だ春秋時代の国家規模のスケールが小さく、ポツンポツンとした都市国家同士の争いであったかが判る。

ーーそれから数年後のBC496年(闔盧こうりょの19年目)・・・いずれ中原に覇を唱えようとする呉は、後顧の憂いを除く為に、
討伐に乗り出した。折しも越の前王が死んで、その子の勾践(こうせん)が跡を継いだばかりであった。その動揺を突こうとしたのである。
・・・・処が絶対の自信が有ったのに、なかなか呉軍は決定的な勝利を挙げられ無かった。銭唐江(孫堅の武勇伝の地)を挟んでの膠着状態と成った。長期戦となれば後発国で補給線の長い楚軍には不利であった。 そこで楚の新王勾践こうせんは、名宰相・大軍師である
范蠡はんれい】に窮余の打開策を求めた。その結果、
空前絶後の奇襲作戦”が展開される事と成ったのである。
その日、戦場に突如として大音楽が成り渡った。楚軍の方向から軍楽隊の奏でる勇壮な行進曲が聞こえて来たのだ。スワ、総攻撃か!と思いきや、敵兵の姿なぞ1人も居無かった。
「只のコケ脅しじゃ。動くでないぞ!」と伍子胥。
と、やがて行進曲に乗って敵兵が現われた。僅か20名の歩兵が横1列に成って進んで来たのである。
「−−なんじゃ、是れは?」
「弓で射殺しましょうか?」
「いや待て。多寡が20人じゃ。様子をみよう。」
警戒心よりは興味の方が強い。する内にも、20名の歩兵はゆっくりと進んで来た。そして音楽の鳴り止むのと同時に停止し、その中の1人が大声を挙げて言った。此方に声の届く近さであった。
「我等は越国内で重罪を負った者、いずれ死は免れない。そこで此の場にて、越人の死に様をご披露いた〜す!」
言うや
20人全員が一斉に、襟に付けていた短剣を抜くと、己の頚動脈を掻き切ったのである!!2メートル以上にも鮮血が吹き飛ぶ中、全員が無言の儘バタバタと倒れ絶命した。
「−−何たる事を・・・・!」呉の全軍は呆気にとられて茫然となった。するや又、次の20名が、おもむろに行進して来た。
「又やるのぞ〜!」今度は、この世にも奇っ怪な集団自殺を見逃すまいと、全員の眼が前方に釘付けとなった。すると、第2の小隊20名も亦、同じ様に凄絶な自刎を果して見せたのである。信じられぬ眼前の光景であった。が、こんな語り草は一生目撃できるものでは無い。恐い物見たさの期待感が第3隊を待った。と、期待に違わず、第3隊の20名が又も悠然と進んで来て、同様に集団自殺して見せたのである・・・・!!声も無く静まり返る呉の将兵達・・・・死刑判決を受けた囚人達に、遺族の行く末を保証した上で、同じ死ぬなら国の為に死んで見せよ、と了解させたのだった。
「しまった!范蠡はんれいめにめられたぞ!」伍子胥が叫んだ時は既に遅かった。この光景に釘付けにされていた1刻余の間に、越軍は密かに呉軍の側背に廻り込んでいたのである。第3隊の全員が死に絶えた直後、呉軍の左右背後から喚声が湧き起こり、味方は絶叫の渦に飲み込まれていたのだった。
「いかん、もう手遅れじゃ!」伍子胥には大敗北が予測できた。
「−−やられた・・・・!!」逃げながら伍子胥は口にした。それにしても何と云う奇策!恐るべしは范蠡はんれいの機略
呉軍は雪崩を打って大潰走した。猛追する越軍。本陣も大乱戦の渦に巻き込まれた。呉王・闔盧こうりょも越の勇将「霊姑浮れいこふ」の襲撃に曝された。呉王は、かろうじて彼の繰り出す槍を避けたが、この時に指(部位は不明)を切られてしまった。そして其れが原因で(出血多量か毒槍だったかは判らぬが)呉王・闔盧は、この数時間内に、敢えない最期を迎えてしまったのである・・・・・!
その死に際に、闔盧は太子の夫差ふさに言い遺した。
「お前は句践こうせん
(越王)が父を殺した事を忘れるか!?」
「忘れなど致しません!3年以内には必ず復讐致します!」
其の夜、前の公子・こう、即ち
呉王・闔盧こうりょは死んだ
即位からは19年後の事(BC・496年)であった。




新しく即位した
【呉王・夫差は、意外な人事を行なった。国家の首相(太宰)には伍子胥では無く、「喜否」を任命したのである。王と成れたのは全く伍子胥の御蔭であり、夫差にとって最大の恩人は伍子胥以外には居無かったにも拘らずであった。ーー此処に夫差の、微妙で複雑な、そして生理的でもある、伍子胥に対する人間的な嫌悪感・拒絶意識が潜在していた・・・・と謂えよう。夫差と伍子胥の関係が、何とか保たれるのは最初の3年間である。即ち、父に誓った越王・勾践への復讐達成の期間だけとなる。

その約束の3年目まで、夫差は其の復讐を決して忘れまいとして2つの事を己に課した。
1つは、宮殿の入口に家臣を置き、自分が出入りする毎に「夫差よ、お前は越王・勾践が父を殺した事を、もう忘れたか!」と詰問させ、「いえ、忘れは致しませぬ!3年の内には必ず復讐して見せます!」と答え続けた事。
2つ
は、毎晩、安楽な褥には眠らずに、わざとゴツゴツした薪の上に寝た事である。『十八史略』に言う、所謂臥薪である。
(史記や左伝には無い)
 無論どちらも、片時たりとも復讐を忘れまいと誓う決意の表明である。ではあるが、陳舜臣先生が著書の中で、『この行為は却って夫差の人間的弱さ・優しさの裏返しと観る事も出来る』と書かれて居られる如く、真に其の通りであったろう。思えば、復讐劇の大先輩たる伍子胥は、そんな仰々しいパフォーマンスを必要ともせず、黙々耽々の裡に16年を凌いで来たのである。土台、その怨念の深さや種類、そして何よりも、人間として此の世に生まれ持って来た個性や生育環境が丸で異なる2人であったのだ。夫差は偶々、父親が戦死したから伍子胥と同じに復讐者に成ったのであり、根は優しい処のある人物だったに相違無い。とは言え無論、全くの嫌々ながらでは無い。彼なりに精一杯の努力を果しているのだった。

ーーそして、その約束の3年目・・・・
呉王夫差は、遂に復讐戦に乗り出した。と言うより、相手の方から仕掛けて来たのである。余程この3年以内と云う公言が、狙われる立場の越王・勾践の耳に聞こえていたのであろう。
「後るれば人に制せられ、先んずれば人を制す・・・と謂う。夫差が来る前に、此方から発して先手で討とうと思うが、どうじゃ!?」
と重臣達に諮問する勾践こうせん。越の国には人物が多かったが最高は
范蠡であった。この時范蠡はんれいは反対した。だが勾践は出陣した飛んで火に入る夏の虫であった。十二分に準備して居た呉軍である。それがワザト国境線を突破させて措いて、自国領内深くへと誘い込んだ。調子に乗って深入りした越軍は袋叩き状態と成り、潰滅した勾践は、5千と成り果てた敗残軍を率いて母国の「会稽山」に追い上げられてしまった。山麓は十重二十重に呉の大軍が埋め尽くしていた。絶体絶命、勾践の命は風前の灯となった。
「・・・・すまない。儂がお前の言葉に従わなかった所為で、こんなザマに追い込まれてしまった・・・・」
范蠡の前で慙愧消沈する勾践。
「一体どうしたら善いのだろうか?」
縋る様な顔で范蠡を拝み見る。
「こう成った以上は是非も無き事。恥を忍んで恭順を乞うしか御座いませぬ。我が国の財宝を全て差し出し、越王様ご自身が呉の臣下と成り、夫人は呉王の婢妾として仕えたいと願い出るべきです」
「我ら夫婦が呉の奴隷に成れと申すのか?」
「奴隷なら御の字。生きてさえ居れば、いずれ今日の恥を雪ぐ事も出来まする。」
その使者には范蠡と遜色ない
文種(ぶんしゅう)が当った。敢えて言えば、范蠡が軍事なら、この文種は内治と謂った処であろうか。が、この申し出は、呉王の傍らに張り付いて居る「伍子胥」の忠告に因り、キッパリ拒絶されてしまった。
「呉の重臣は彼1人だけでは在りませぬ。”伯喜否”(はくひ)を抱き込みましょう。聞けば伯喜否は金銀財宝には殊の他弱い人物との事。大いに利用すべきです。」
「それでも伍子胥が反対したらどうする?」
「未だ、奥の手が用意して御座います。」
どんな手じゃ?」
「美女を、呉王に献ずるので御座います。」
「そんな事で大丈夫だろうか?」
「幼い時から私が腕に縒りを掛けて、呉王好みの女性に育て上げて来た者に御座いまする。無論、事情一切を呑み込んだ、女ながらにも烈忠の臣で在りまする。」
「名は何と?」
「”西施”と言って、絶世の美女で御座います。」
「有り難い!そんな昔から・・・・」と言い掛けて、思わず勾践は范蠡の顔を見詰め直した。気付いたのである。実は范蠡は、勾践が勝つ事を信じては居無かったのだと。

(※この
西施は実在の女性であるが、献上された時期は、
                もっと後の事だとする方が有力である。)
事は密かに進められ、美女と財宝が伯喜否に渡った。この計はズバリ的中して、伯喜否はコッソリ(伍子胥抜きで)文種を呉王・夫差に謁見させた。文種は必死に哀願した。脇から伯喜否も援護射撃した。「−−分かった。」と言いかけた時、ツンボ桟敷に置かれて居た伍子胥が、血相変えて駆け付けて来た。
「なりませんぞ!」と強い語調で拒絶を主張した。が、然し、伍子胥が口辺に泡を飛ばす剣幕で、強硬に進言すればする程、夫差の内面には冷ややかな反発心が生じていた。
「もう、よい。余は決心したのだ。勾践は赦す。命だけは助ける事とする。余の復讐は成ったのじゃ。余は死体に鞭打つ様な真似はせん!越は最早、滅亡したも同然である。」
然し伍子胥も懸命に喰い下がった。
「では、是れだけは絶対に譲れませぬぞ!」として、降伏条件を付け足したーー即ち、范蠡はんれい勾践こうせんから引き離す事・・・・范蠡の身柄を人質として呉に出頭させ、主従を分離して監視下に置く事であった。【范蠡】さえ居無ければ、恐るるに足らず、である。

越王・勾践は、別れ際に范蠡から言い聴かされた心構えを決して忘れず、不満の気配や反発の色を現わす事無く、完全に奴隷の身分に甘んじ続けた。だが呉王・夫差とて頭から信じて居る訳では無かった。次々と屈辱的な状況を課し与えた。厩の世話係として馬の糞尿をを掃除させたり、牧場係として草刈させたり、前王・闔盧の墓守として、脇の石室に住まわせたりもした。だが勾践は唯々諾々、却って自分の方から願い出て、病気に成った夫差の糞尿を求めて舐め、病気が良性である事を診察した、ともある。
 こうした事などから夫差の心は和み、とうとう2年後には、勾践の帰国を許すに至るのである。
この寛容さの裏側には、いや最大の要因には、あの絶世の美女・西施の存在が有ったのである。とは言え、彼女は何も特別な事をした訳では無かった。演技など全く無しの、ただ在るが儘の自分を、素直に表に現わしながら暮らしただけであった。・・・・つまり、夫差が、当たり前の極く普通な人間に立ち戻る誘薬としての効果が、無理なく自然に果された訳なのである。復讐鬼として歪な心を持ち続ける事のおぞましさに気付き、本来の優しい心根を取り戻しさえすれば、事は自ずから氷解してゆくであろう・・・・其処まで読み切った范蠡の遠謀深慮であった。


呉に留まり、臣下として奴隷の賦役に従い、ひたすら呉王・夫差に媚びて心を掴む事2年ーーようやく帰国を許された
越王・勾践
・・・・「汝、会稽の屈辱を忘れたるか!」・・・・此処に又1人、復讐に燃えた新たな鬼が誕生して居た。勾践は自室に虎の胆を吊り下げ、昼はその苦さを嘗めた。
嘗胆である。夜はゴツゴツした薪の上で寝た。〔臥薪〕である。この2年間に味合わされた、王としての恥辱・屈辱は、呉王・夫差の其れとは比較にならぬ怨みの深さであった。そして勾践は夫差とは異なり、期限など付けずに、じっくり・どっしりと己の目的に向き合ってゆく。そうせざるを得無い状態でもあった。 (※ 尚、細かい事を言えば、このエピソードは、後世には〔臥薪嘗胆がしんしょうたん〕と4文字成語で伝えられるが、どの史書にも勾践の場合は〔嘗胆〕のみ、夫差の場合が〔臥薪〕のみを記述しているのであり、4文字熟語となったのは後代の事である。)

この更に2年後には【
范蠡はんれい】も帰国を許されるのだが、それまでの間は【文種】が大夫(宰相)として、母国の復興と呉に対する御機嫌とり・ゴマ擦り大作戦を励行し続けるのであった。10万反の織り布や高価な珍品財宝をはじめ、大量の美材などを献上し続けた。芸の細かいのは、今や重臣c純唐ニ成って居る「伯喜否」に対しても必ず同時に献上を絶やさなかった点である。その際の使者は常に文種が担当した。その一方、勾践自身は日々の食事を1汁1菜で済ませ、質素倹約の範を示した。
やがて待望の【范蠡】も帰国を果し、車の両輪が揃った越の国は益々隠忍自重・捲土重来の復興を堅実に推し進めて行った。
勾践自身の発案で、「
西施せいし」と「鄭旦ていたん」と云う美女を探し出して来て3年間教育を施した上で、范蠡が連れて贈ったりもした。この西施には笑える逸話が有る。ーー彼女が未だ市井に在った頃、時々持病の癪が起こり、胸を押さえ眉根を寄せては悩んだ。その様が絵も言われずに妖艶で美しかった。大変な噂になった。隣家の醜女が真似をした。すると、1村の者全員が逃げ出した・・・・と言う。

 他方、呉王・夫差は、絶世の美女の為に豪奢な離宮を造営するなどなど、日々巨額の費えを湯水の如くに謳歌していた。更には覇望の夢に取り憑かれ、遙か北方の”斉”の国への遠征を繰り返した。無論、伍子胥の諫言を悉くに無視し、反発した上の事であった。この時期にはもう、伍子胥は完全に夫差から憎まれるだけの存在となって居たのである。諫言は全て逆の結果を誘発するに過ぎ無く成り果てていた。
そんな呉国の様子を窺って居た勾践、そろそろ雪恨の時節到来と観て、重臣に可否を問うた。「未だ未だですぞ!」その都度に理由を説明され頷く勾践。そんな問答が繰り返される事数年。
「諸君の進言によって、これ迄の策謀は全て順調に成功して来た更に施すべき策は無いか?」
「今年わが国は凶作であると言って、呉に救援米を乞うてみましょう。応じて寄越せば、天運は我に在りです。」と文種。
近年中には必ず返済致しますとすると、果して夫差は応じた。
 翌々年、返済された米の質の良さに、呉王は眼を見張った。
「我が国も、是れを種籾たねモミと致せ!」・・・・だがその籾は発芽せず、呉国は未曾有の大凶作となった。実は其れは、密かに加熱処理を施された籾であったのだ。発芽する筈が無い。
「もう充分であろう?」
「いえ、たった1年の凶作程度ではダメで御座います。」と文種。
「我が国の軍隊は未だ未だ弱兵です。更に訓練せねば呉の精兵を打ち破る事は叶いませぬ。」と范蠡。剣術の達人である女剣士と弓の達人を迎えて、更に軍事教練にも力を注いだ。

 ーーこうして呉越それぞれに、何や彼や有ったが・・・・・
そんな中で唯1人、呉国の滅亡を確信している人物が居た。他ならぬ「
伍子胥」であった。己の諫言・進言を悉く無視し、それ処か敢えて是れ見よがしに、全く逆の事ばかりする夫差が王で在る限り、もはや呉国の先は見えていたのである。そこで伍子胥は息子を赴任地の”斉”に置き残した儘で一時帰国した。これを伯喜否が種にして、謀叛の証拠であると讒言した。元よりウザッタイと考えて居た夫差は、是れを機会に伍子胥を切り捨てる事にした。
使者に〔
属鏤しょくるの名剣〕を持たせ言い渡させた。
「子胥よ、この剣で死ね!」と。

伍子胥はフンと鼻先でせせら笑って言った。
「讒佞の臣が国乱を為しつつ在るに、王は気付かず、却って俺を誅殺しようとするのか。呆れ果てた愚昧な王で在る事よ。」
そしてカラカラと笑いながら言うのであった。
「夫差よ。俺はお前の父を覇者ならしめた男だ。俺が居たればこそ、お前の父は覇者に成れたのだ。お前も亦、俺のお蔭で呉の王位に就く事が出来た事を忘れては居まい。お前は当時最も望みが薄かった。お前は日夜泣いて俺に頼んだ。俺は哀れと思い、先主に説いてお前を太子たらしめた。その時お前は喜び、王と成った暁には、呉国の半分を割いて俺に呉れると、泣いて感謝した。然し俺は断わった。俺は是れ程に、お前たち父子の為に成って来た。だと謂うのに今、お前は讒諛の臣の言を聞いて、俺を殺そうと謂うのか。忘恩の極みではないか。」
言い終わると伍子胥は属鏤しょくるの名剣を引き抜き、家臣らに向かって激越な遺言を伝えた。
俺の亡骸から両方の眼を抉り出して、呉都の東門の上に乗せて置け。俺は其の眼で、越兵が呉を亡ぼすのを見てやる。
 又、俺の墓には梓(木賈)の木を植えよ。それが
成長して棺桶の材料と成る頃には、呉は亡びる。
俺は夫差に其れを贈って、いささか今日の事に対する礼としようぞ!

言い終えると
伍子胥は、もはや躊躇う事も無く、自ずからの首を刎ねて涯てた・・・・・。

呉王・夫差は其の遺言を聞くと激怒して、墓を造らせず、その遺骸を鴟夷しい(馬の皮で作った皮袋)に詰め込んで、長江の流れの中へ投げ込ませた。※鴟はフクロウ。夷は鵜の咽首。どちらも膨らんだ形状をしている事から皮袋を指す。

ーー是れでは、伍子胥が中国3大怨霊と成るのも仕方あるまい。人々は其の怨念を鎮める為に祠を建て、チマキを捧げた。是れが端午の節句の風習となったともされる。”午”は万物の勢いが最も盛んな時とされていた故に、怨念も亦1番凄まじかろう、と謂う訳である。(正午も太陽が最も盛んな時の事)
それにしても凄まじい復讐鬼としての生涯であり、死しても尚、更なる怨みを抱かざるを得無いとは・・・・

ーーこの後、諌める臣下の居無くなった呉国は、越によって滅亡させられる。当然の推移であろう。追い詰められた夫差は、自刎する直前に嘆いて言ったと謂う。「嗚呼、儂はあの世に逝っても、伍子胥に合わせる顔が無い。」そして顔を布で覆ってから、剣に伏して果てた・・・・BC・473年の事である。尚、越王・勾践は覇者として青史に名を留める。


さてもさても、随分と道草が長くなってしまったが・・・・この復讐劇の舞台と成った”呉”と”越”の両方の地を、今や其の版図に納めている
孫権の呉国に戻る事としよう。春秋時代で言えば”楚の国”に当る荊州目指して、正に今、孫呉軍は〔復讐の剣〕を振り下ろそうとしていた。果して孫権は春秋時代の轍を踏むのか?
時は再び三国時代、
西暦208年春未だ来である・・・・。
ワープ!で御座る。 【第133節】 親子3代、夢の続き
                 (破邪の利剣か、復讐の妖剣か)→へ



 この伍子胥ごししょの復讐たんと全くよく似た物語りが、ヨーロッパの英雄伝説にも有る。ジークフリート物語り・・・・正式には・・・・
ニーベルンゲンの歌と題される叙事伝説である。然し、そのヒロインである女性の大復讐劇が、余りにも凄惨な結末を迎えて終わる為に、ヨーロッパの人々にすら敬遠され、1つの物語りとしては、全体としては受け容れられず、部分的な場面だけが切れ切れに伝えられるのみである。同じ英雄伝説でもギリシャ神話のヘラクレスやアキレスの物語には足元にも及ばない不人気ぶりである。況してや東洋人たる我々には、その全貌は全く伝わらずその存在自体すらを知らない状況である。
不人気の理由は幾つも有るのだが、その1つには、
ヒロインの名が言いずらく覚えにくく、然も余り女性的では無い(特に東洋人にとっては)事が挙げられよう。クリームヒルトと言う。バレエ・白鳥の湖の如く〔ジークフリート〕と〔オデッタ姫〕ならば覚え易いのだが。
 但しその反面、だからこそホットする1面もある。本邦で言えば小百合サンや花子サンなどの名前を持つ女性が、大虐殺魔であっては困るであろう(※本書は物凄い乱暴を承知で、彼女の名前を以後は
クリーム姫とデフォルメする事とする。)さて、不支持最大の理由は、何と言っても・・・・本来なら?優しく可愛い筈の「女性」が、男勝りの豪傑で(スゴイ美人では在るのだが)大復讐魔と成って物語全体を支配してしまっている点である。是れは矢張り万国共通にイタダケナイのである。それなのに何故、主人公が女性でなくてはならなかったか?については、その産まれた時代背景・時代要請など、浅学な筆者の及ぶ所では無い。
 やや前置きが長くなってしまうが、この『ニーベルンゲンの歌』の元来の構成は、前半が
ジークフリートの死そして後半がクリームヒルトの復讐と成っているが、ヨーロッパ各地によってバラつきが有り、コマ切れ状態のものである。而して本書は無謀にも、それ等の中から1番面白そうなものだけを、無理矢理にくっ付け、数珠繋ぎにして、敢えて1つのストーリーとして編集してしまうものである。

(・・・・ヤッパシ、やめて置こう・・・・) ーーで、ゴメンナサイ!

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