

 事件は郡役所で、配下の県長達との宴席直後に起こった。宴が終わり、客人達を見送っている孫翊の背後から、突然辺鴻(洪)が斬り付けたのである。その最初の1太刀が致命傷と成った。普段は武人のたしなみとして、必ず刀を携えている孫翊であったが、その時はシタタカ酒が入っていた為、丸腰であった。郡役所は大混乱に陥いり、誰も孫翊を救う者が無く、素手の孫翊は終に力尽きた・・・・・
事件は郡役所で、配下の県長達との宴席直後に起こった。宴が終わり、客人達を見送っている孫翊の背後から、突然辺鴻(洪)が斬り付けたのである。その最初の1太刀が致命傷と成った。普段は武人のたしなみとして、必ず刀を携えている孫翊であったが、その時はシタタカ酒が入っていた為、丸腰であった。郡役所は大混乱に陥いり、誰も孫翊を救う者が無く、素手の孫翊は終に力尽きた・・・・・ この事件によって孫権の眼が曇った訳では無いだろうが、この直後、1人の傑出した若者が君主の命により処刑されている
この事件によって孫権の眼が曇った訳では無いだろうが、この直後、1人の傑出した若者が君主の命により処刑されている 翌205年(建安10年)春・・・・揚州に新しい県が設置された。
翌205年(建安10年)春・・・・揚州に新しい県が設置された。 206年(建安11年)=赤壁の戦いの2年前
206年(建安11年)=赤壁の戦いの2年前 皆、その死を深く悼んだ。特に無頼集団に過ぎなかった頃からの譜代の者達は、大声を挙げて男泣きした。白髪鬼の眼からも大粒の涙が吹き零れた。孫権も、兄と弟に続く、最愛の母を失いその精神的ショックに打ち拉がれた。そして又、孫権以上に哀しんだのは、周瑜であった。孫策との友情は、この呉夫人抜きには語れぬ最大の理解者であり、支援者でもあった。臨終の言葉も、周瑜に対する感謝と、周瑜を兄と思えと孫権に諭すものであった。
皆、その死を深く悼んだ。特に無頼集団に過ぎなかった頃からの譜代の者達は、大声を挙げて男泣きした。白髪鬼の眼からも大粒の涙が吹き零れた。孫権も、兄と弟に続く、最愛の母を失いその精神的ショックに打ち拉がれた。そして又、孫権以上に哀しんだのは、周瑜であった。孫策との友情は、この呉夫人抜きには語れぬ最大の理解者であり、支援者でもあった。臨終の言葉も、周瑜に対する感謝と、周瑜を兄と思えと孫権に諭すものであった。 長江の更に更に、また更に上流ーー此処は益州の巴郡、人々でゴッタ返す臨江の港町・・・・やがて10数艘の船団が入港して来る。と、それまで大混雑していた目抜き通りの人ごみが、サッと左右に割れて、道の真ん中に無人地帯が現われた。ワイワイガヤガヤしていた喧騒がピタッと止んで、みんな戸口にへばり付き、首だけを覗かせて、彼方の船着場に注目する。
長江の更に更に、また更に上流ーー此処は益州の巴郡、人々でゴッタ返す臨江の港町・・・・やがて10数艘の船団が入港して来る。と、それまで大混雑していた目抜き通りの人ごみが、サッと左右に割れて、道の真ん中に無人地帯が現われた。ワイワイガヤガヤしていた喧騒がピタッと止んで、みんな戸口にへばり付き、首だけを覗かせて、彼方の船着場に注目する。 ーーと云う事で、
ーーと云う事で、 5年前(203年)の江夏戦では、呉の勇将・「凌統」を射殺してまで黄祖を助け、その命の恩人と
5年前(203年)の江夏戦では、呉の勇将・「凌統」を射殺してまで黄祖を助け、その命の恩人と 朱卩県は夏口から下流(東)へ60キロ、其処から先は、船に乗ってしまえば一気に長江を下って呉の領土に辿り着ける。
朱卩県は夏口から下流(東)へ60キロ、其処から先は、船に乗ってしまえば一気に長江を下って呉の領土に辿り着ける。 ヤクザな自分と似た様な、”元悪ガキ”だった呂蒙なら、きっと肌合が一緒であろうと踏んだのだ。・・・・果して、会うや呂蒙は、互いに同じ武人として、また同じ”ワル”の経歴を有する男組として、甘寧の心情と度量、志の高さを大いに讃え、上司であった【周瑜】に引見させた。
ヤクザな自分と似た様な、”元悪ガキ”だった呂蒙なら、きっと肌合が一緒であろうと踏んだのだ。・・・・果して、会うや呂蒙は、互いに同じ武人として、また同じ”ワル”の経歴を有する男組として、甘寧の心情と度量、志の高さを大いに讃え、上司であった【周瑜】に引見させた。 甘寧の人柄・人物の純粋さ・軍才を認め、直ちに【孫権】に推挙したのであった。
甘寧の人柄・人物の純粋さ・軍才を認め、直ちに【孫権】に推挙したのであった。 それが此の年、208年(赤壁の戦い当年)春の事であった。そして、この甘寧の出仕が、「黄祖」との最終決着をつける軍事行動の契機・引き金と成ったのである・・・・会うと孫権は劉表や黄祖とは正反対に、甘寧を温かく迎え入れ、下へも置かぬ厚礼を以って接して呉れるではないか。大い感激・発奮した甘寧は、やがて請われて〔黄祖攻略〕を進言した。今の今迄その陣内に居て、荊州・益州の実情にも明るい甘寧の献策にはリアルな説得力があった。
それが此の年、208年(赤壁の戦い当年)春の事であった。そして、この甘寧の出仕が、「黄祖」との最終決着をつける軍事行動の契機・引き金と成ったのである・・・・会うと孫権は劉表や黄祖とは正反対に、甘寧を温かく迎え入れ、下へも置かぬ厚礼を以って接して呉れるではないか。大い感激・発奮した甘寧は、やがて請われて〔黄祖攻略〕を進言した。今の今迄その陣内に居て、荊州・益州の実情にも明るい甘寧の献策にはリアルな説得力があった。
 「孫権様は、貴方に蕭何(漢初の名宰相)の任を付託して居られるのに、貴方が留守を任されながら、反乱を心配される様では、古人と同様の勲功を立てたいと望んで居られる事と矛盾するではありませんか!?」
「孫権様は、貴方に蕭何(漢初の名宰相)の任を付託して居られるのに、貴方が留守を任されながら、反乱を心配される様では、古人と同様の勲功を立てたいと望んで居られる事と矛盾するではありませんか!?」
 
 【第131節】 はねッ返りの美女将軍→へ
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