【
第130節
】
弟
・
【
孫翊
そんよく
】
が配下に
殺された
!!
翌
204年
(建安9年)の
夏
の事である。
孫氏の
3男・【
孫翊
叔弼
しゅくひつ
】
・・・・孫権より1つ年下の
21歳
であった。彼は覇気に満ちた、勇猛果敢さで知られ、その
性格や風貌は、長兄の「小覇王」とソックリであった
。
『
正史・孫翊伝
』の記述ーー孫翊は字を叔弼と言い、孫権の弟である。勇猛果敢で、兄の孫策の風が有った。太守の朱治が彼を孝廉に推挙し、司空の役所から出仕するよう辟かれた。建安8年(203年)、偏将軍として丹楊太守の職務に当る事になったが、時に20であった。のちに思い掛けなくも側近の辺鴻に殺され、辺鴻も其の場で誅殺された。
又、『
典略
』の記述ーー孫翊は本名を
儼
げん
という。その性格は孫策に似ていた。孫策の臨終の時、張昭らは孫策に対し、兵馬の権を孫儼に託されるべきだ、と申し述べたが、孫策は孫権を呼んで、彼に印綬を帯びさせた。
・・・・・いずれにせよ、君主に成ったとしても納まりが着く様な、出色の人物であったらしい。一族としては、今後が楽しみな、頼りになる若者であった。その為、偏将軍として、呉国の心臓部である
〔
丹楊郡太守
〕
に就いて居た。
事件は郡役所で、配下の県長達との宴席直後に起こった。宴が終わり、客人達を見送っている孫翊の背後から、突然
辺鴻
(洪)
が斬り付けたのである。その最初の1太刀が致命傷と成った。普段は武人のたしなみとして、必ず刀を携えている孫翊であったが、その時はシタタカ酒が入っていた為、丸腰であった。郡役所は大混乱に陥いり、誰も孫翊を救う者が無く、素手の孫翊は終に力尽きた・・・・・
辺洪は其のまま逃亡して山中に隠れた。孫翊の妻の【
徐氏
】が、賞金を掛けて探索させた処、翌晩に辺洪は捕えられた。するや、殺人の理由も詮議する事も無いまま、【
僞覧
きらん
】と【
戴員
たいうん
】の2人が、有無を言わさず「辺鴻」を即刻、斬り殺してしまった。直後、この両名が郡庁に納まり、実権を掌握した処を観ると、彼等の地位は、郡太守の副官クラスだったのであろう。
(キランのキの正字は女へん)
だが、其の後の2人の行状は、どうも
”
色情魔
”
としか見えない特に
【
僞覧
】
の方は、孫翊の側室から侍女に至る迄、奥向きの全ての女達を自分のものとしてしまったのである。(飾って眺めたのでは無い。)更には事もあろうに、孫翊の正妻・徐氏までも手に入れようと迫ったのである。と言うより1番の本命は、端から此の美人妻だった。
【
徐夫人
】
は才媛の誉れも高く
卜
うらない
に通暁している、みずみずしい10代の若妻である。事件の前日には夫の孫翊から、「オレは明日、県の幹部達を招いて宴を設けたいと思っているのだが、その吉凶を占ってみて呉れないか」と頼まれ占卜したが、その結果は芳しく無く、日を改める事を勧めたのだった。然し夫は、県の幹部達が既に幾日も滞在して居た事から、なるべく早く帰してやらねばなるまいとて、予定通り翌日に宴を開いたのであった。
いやらしい眼付で迫られた時、彼女は事の真相を直感した。夫殺しの真の黒幕が彼等であり、辺鴻は利用された挙句、罪を擦り付けられて消されたのだと。又、役所内の部将達も皆、事件の首謀者が2人である事を知ってはいたが、彼等の罪を声高に責めるだけの力は無かったと言う。当の2人は、ガッチリ武力を備えていたと云う事である。
「
辺鴻
へんこう
(洪)
」が如何なる者であったか史書には無いが、常々孫翊は2人に対して『辺鴻とは付き合うな!』と強く責め立てていた事から推せば、民間のあこぎなヤクザの親玉あたりであったろうか。利権の絡んだ不正な増収賄がバレそうになったので、仲間を殺し上司の太守も消し、ついでに女も戴いちまおうとでもしたのであろう。トンデモナイ奴等である。
僞覧の眼がギランギラン輝き、その毒牙が美麗な若妻に迫った。拒めば殺されるだろうと考えた徐氏は、本心を隠して言った。
「
今はイヤ!せめて月末に法事を営み喪明けを致します迄、お待ちになって!喪が明けましたら其の時は・・・・
。」
妖しい迄に媚を含んだ美女の拒絶が堪らない。で、月末までは幾日も無かったから、僞覧はそれを許した。それ迄は側室や侍女達を代わる代わるに泣かせてやろう。1番の楽しみは取って置く事とした。一方、徐氏は時を稼いで措いて、夫の古くからの部将である「
孫高
そんこう
」・「
傅嬰
ふえい
」等に密使を送った。
『
僞覧めは、既に妾婢を奪い取った上に、今度は私に迫ろうとしております。上辺で言う事を聴きましたのは、あ奴の気持を荒立てないで禍いを避けようとしての事に過ぎません。この危難を脱する為に、些か計り事を巡らしたいと考えて居りますが、どうぞ御2方には、私を哀れまれ御助力下さいませ。
』
すると其の両人は涙を流しながら答えてきた。
『
刺史
(孫翊)
殿の御恩顧を受けながら、この危難に直ぐさま命を投げ出さなかったのは、その様にして死んでも犬死であり、事態を打開すべき謀を巡らせたいと考えての事でありまして、未だ其の謀がしっかりと立たぬ処から、夫人様には未だ申し上げておらぬので御座いました。今日お漏らし戴きました事は、誠に我等が日夜心中に願って居りました処なので御座います。
』・・・・余程に、僞覧の武力掌握が強かった事を窺わす遣り取りである。そこで孫高と傳嬰は密かに、孫翊から生前に眼を掛けられて居た20名ばかりの同志を集め、決行に備えた。
ーー
晦
げつまつ
の日になった。徐氏は法事を設け、哭礼を行なって涙を流し哀を尽した・・・・そして、其れが終わると喪服を脱ぎ、香を焚き沐浴し、愛の部屋に移って几帳を巡らせ、楽しげに話をしたり笑ったりして、少しも悲しげな様子は見せ無かった。側に居る者達は、彼女が何故こんな風に振舞うのかと訝しんだ。僞覧は物陰から彼女の様子を窺い見たが、全く疑わしい気配は無かったので安心して”おめかし”に行った。徐氏は其の隙を見て孫高と傅嬰とを招き入れ、侍女達に混じって室内に居らせると、僞覧に使いを出した。
『
すでに喪も明けましたので、あなた様のお指図をお待ち致して居りまする。
』・・・・ピンクの邪念に舞い上がった僞覧は、あらぬ妄想で心臓をドクンドクン言わせながら、真っ昼間から舌舐め擦りしつつ、部屋に入って来た。徐氏は部屋の前に迎えに出ると、思いっきりの媚態をつくって拝礼してみせる。ヤニ下がった僞覧も紳士ぶって1礼を返す。・・・するや、徐氏が
眦
まなじり
を逆立てて叫んだ美しい顔が鬼面と化していた。
「おニ方、やって下さい!!」
孫高と傳嬰とは揃って飛び出すや、2人して左右から1刀ずつズンと斬り下ろして殺害した。
「下郎めが!!」時を移さず、別の部屋で戴員も斬殺した。そこで徐夫人は、再び喪服を着けると、僞覧と戴員の首級をささげ持って夫の墓前に供えた・・・・・。
孫権は事を知らされると、みずから兵を率いて丹楊へ向った。が着いたときには、全ては終わった後であった。残党を全て根絶やしにすると、徐夫人の貞節と機略を讃え、孫高と傳嬰の両名を牙門将軍に抜擢し褒賞を与えた。又同志の者達にも金や帛が加賜され、功臣として別格の待遇が与えられた。
ーー嘘の様な、本当の話しである。以上、事件の顛末は『
呉歴
』に拠る・・・国のド真ん中で、君主の実の弟が殺害され、側室らは寝取られ、危うく正妻まで毒牙に掛かりそうな、直属部下の、計画的凶行である。如何に犯罪の露見を恐れたからとしても、又いくら美女の色香に迷ったにしても、その事件の根底には、”
君主を舐め切った心情
”が無ければ、起こり得無い出来事である。孫翊に隙が有り、僞覧が色情魔であった、では方付けられない。主家と家臣との関係の暗い部分が窺われる、不気味な1件であった。
世間には、徐夫人の機知と貞節の方が喧伝されるが、真相のすり替えである。
この事件によって孫権の眼が曇った訳では無いだろうが、この直後、1人の傑出した若者が君主の命により処刑されている
ーーその者の名は
「
沈友
ちんゆう
」
(
子正
)・・・彼は口説・文才・剣技に於いて衆に抜きん出ており、議郎の「
華音欠
かきん
」によって推挙され、何と11歳で出仕していた。尊皇の心厚く、衆議に於いても妥協を知らず、相手を糾弾する事が多かったと云う。天才肌に有り勝ちな、他者への配慮に欠けた面が強かったのであろう。頭は切れても、人生経験の無い子供の事である。人付き合いと云うものの大切さを知らない。年齢から云っても、トンガッタ儘の、鼻持ちならぬ存在になってしまう。結果、人の恨みを買い讒言された。孫権は若い沈友の才能を惜しみ彼を庇ってやった。だが衆目の手前、一応は謀叛の心有りや?と優しく問うてやった。
「帝が許に居られるのに、それを蔑ろにする様な気持を持っている者は、謀叛していないと申せましょうや!!」とやってしまった。確かに硬骨の士である・・・・が、是れは張昭らに輪をかけた様な極めて厄介な思想である。呉国への忠誠心を飛び越えてしまっている。私的なサロンでの発言であれば許されもしようが、公式審問の場でやられては、君主の立場が無い。同じ尊皇でも、張昭らには呉国大事の心情が有る。然し、この純粋培養された儘の若者には、其れが無い。朝廷一辺倒である。これでは丸で、魏国の「ミニ孔融」である。
《ーー無用じゃな。いや有害でる・・・・》時局は紛れも無く、「呂粛」の指摘する、漢王朝滅亡後の”
新時代
”へと動いている。将来の禍根を絶つ意味で、沈友は処刑された。−−この措置・処断は、無言の裡に、今後、呉国が進むべき方向を明確に示した、とも謂えよう。だが反面、この1件は、青少年の世代にさえも、未まだに多くの漢朝廷を信奉する名士層が存在して居る事実を示す。孫権に限らず、天下に覇を唱えようとする者にとっては、厄介な勢力である。
翌
205年
(建安10年)
春
・・・・揚州に新しい県が設置された。
事の発端は、呉の南西500キロの「
上饒
じょうじょう
」で、又しても
”
山越
”
の叛乱が勃発した事に始まる。孫権は平定の為、平東校尉の
【
賀斉
】
を派遣した。この賀斉は、以前から南方鎮定には実績があった。1昨年の山越大蜂起の時も、建安・漢興・南平(上饒より更に200キロ南)の地を鎮圧している。統治機構を建て直し、この地域から1万以上の兵力を徴用する事に成功していた。呉国中央に於いては未だ無名に近いが、南方地域に於いては、賀斉の名は鎮定将軍の代名詞となる程に畏怖されていた。その賀斉が乗り込んで来ると知るや、上饒の反乱勢力は意気沮喪して、瞬く間に鎮圧されてしまった。賀斉は更に南下し、孫権の許しを得て最南端の建安郡の中に、新しく「
建平県
」を置いた。よりキメ細かい統治機構を整備したのである。揚州はデカい。札幌〜福岡に相当する。南方経営は難しいが、地味風土豊かで物産も多い。呉の繁栄には無視し得無い地域であった。とは謂え、この頃は未だ、山越対策は〔
モグラ叩き状態
〕にあった・・・・。
206年
(建安11年)=
赤壁の戦いの2年前
今度は、殺害された孫翊の後任で、丹陽郡太守と成った従弟の
【孫瑜】
が、
山越討伐軍
を率いた。輔佐として江夏太守
(正式には黄祖だが、呉の版図も1部が荊州内に喰い込んでいた)
と成っている
【
周瑜
】
も、中護軍を率いて加わると云う、大規模な動員となった。名目上は孫瑜が司令官だが、実質は周瑜の戦いであった。討伐軍は番卩陽郡の山越の根拠地である「
麻
」と「
保
」の亭を制圧。首領達の首級を挙げ、その兵力1万を捕虜とした。捕虜だけで万の兵数を数える事からして、その反乱規模の大きさが窺える。この捕虜達は、やがて呉の兵力として、各部隊に配属吸収される。呉の兵士となれば、その家族共に移住させられるが、扱いは呉国人となる。討伐とは、必ずしも殲滅・ホロコーストを意味せず、一面では同化政策を促進する、兵力増強の意味合があった。その場合は「討伐」と云うよりは、「平定」と云う語感の方が真相に近い。・・・・この事は、いずれ想定される〔曹操との激突〕に際して、非情に重大な意味を持つ。国内の安定と戦力増強の、2重の意義を有するからであった。
その後、孫瑜軍は「
宮亭
」に駐屯、周瑜も「
番卩陽
」に軍を留めて山越の慰撫に努めた。此の際、一気に”山越問題”を解決すべく
〔武力鎮圧〕から〔慰撫政策〕へと、その方針を大転換して、文字通り、挙国一致の取り組みを展開した
。将来、黄祖を討ち取り、更には
曹操との決戦以前に、是が非でも、後顧の憂いを無くして措かねばならなかったのである
。
ーーそして漸く、
足掛け3年
に及んだ山越平定戦も、この本腰を入れた一斉攻勢に拠り、一段落の
晴れ間
を見る事となった。
晴れれば曇る・・・・それが人の世と云うものであろうか?孫一族に大きな哀しみが降り掛かった。
母親の【
呉夫人
】が他界したのだ。
姉妹で孫堅に嫁いだが、妹は5年前に先立っている。姉の呉夫人は孫策・孫権・孫翊・孫汲フ4男と2女を産み育てて来た。然し夫と2人の息子を失っている。
若い君主達の精神的支柱として、激しくも慈愛に満ちた戦国の女としての生涯であった・・・・無名であった「孫一族」が、夫から子等へと引き継がれながら、国家として成立してゆく一部始終を見守って来た。文字通りの国の母、国の女神であった。
皆、その死を深く悼んだ。特に無頼集団に過ぎなかった頃からの譜代の者達は、大声を挙げて男泣きした。白髪鬼の眼からも大粒の涙が吹き零れた。孫権も、兄と弟に続く、最愛の母を失いその精神的ショックに打ち拉がれた。そして又、孫権以上に哀しんだのは、周瑜であった。孫策との友情は、この呉夫人抜きには語れぬ最大の理解者であり、支援者でもあった。臨終の言葉も、周瑜に対する感謝と、周瑜を兄と思えと孫権に諭すものであった。
・・・・然し、皆のせめてもの救いは、呉夫人の死に顔が、満足して安心しきった、穏やかなものであった事であった。女神の眼にも、もはや呉の国は、揺るぎ無いものとして映っていたに違い無かった・・・・・。
他方、隣国の荊州にしてみれば、呉国の安定と充実は、自国への脅威である。そこで「劉表」は呉を牽制すべく、又しても国境防衛軍の【
黄祖
】に対して、出兵を命じた。是れを受けた黄祖は、威力偵察の意味を含めて、配下の
「
ケ龍
」
に兵5千を与えて、国境を東へ侵犯させた。が、却って是れは薮蛇と云うものであった。逸早く情報を得て、
「
柴桑
」
に待ち構える
【
周瑜
】
と「孫瑜」の大軍によって迎撃され、又しても敗北の将の名を浴びる羽目となった。江夏へ撤退しようとしたケ龍は、周瑜軍によって捕捉殲滅され、縄目の恥を受ける事となって終わった。
(
柴桑の戦い
)
周瑜の軍略・軍才、鮮やかと言うほか無い。それにしても、全く懲りない「黄祖」ではある。
長江の更に更に、また更に上流ーー此処は
益州
の
巴郡
、人々でゴッタ返す
臨江
の港町・・・・やがて10数艘の船団が入港して来る。と、それまで大混雑していた目抜き通りの人ごみが、サッと左右に割れて、道の真ん中に無人地帯が現われた。ワイワイガヤガヤしていた喧騒がピタッと止んで、みんな戸口にへばり付き、首だけを覗かせて、彼方の船着場に注目する。
シャンシャン
しゃんしゃん
♪♪♪
しゃんしゃん
シャンシャン
♪♪
リンリンリンリン
♪♪♪
シャンリン
シャンリン♪♪
リリリリロ
リんりん
♪♪♪♪
「あっ!来た来た!!わ〜、カックイイ〜〜!!」
「馬鹿!姿、見せるんじゃないヨ!あんな連中と係わり合いに
成るんじゃ無いヨ。何されるか判ん無いんだからネ!」
「でも〜、やっぱカッコイイ〜〜!!」
そうは言いつつも、皆おしなべて恐い物見たさ、珍しモン見たさは万国共通。
「シッ、お黙り!絶対、指なんかさすんじゃ無いヨ!」
ー
と
・・・
来た来た。やって来ました、噂の集団!!
(
※
此処からは、
オセワ・ヨケーナ君
の実況中継)
『
ドヒェ〜〜
!!
なんたる
ド派手
さ!何たる
奇天烈
さ!
とても此の世の物とは思えません。あっ只今、海賊船から、元へ、水賊船から次々とメンバーが上陸し始めました。とにかく眩しい!極色彩の大集団であります。念の為に、その衣装と言いましょうか、仮装と申しましょうか、取り合えず其の格好を御報告致します。おお何と
全員が、極上の綾錦の着物に、ピカピカ光る刺繍を施して
おります。そして其の
背中からは、水牛の尾っぽで作った、色とりどりの旗指物
が揺れているではありませんか! 帯の間からは宝石を鏤めた刀剣、
小脇には全員が弓や弩を手挟み
、辺りを睥睨する様に闊歩して居ります。あっ、顔に入墨や、赤や白や青でペイント・隈取りを施した者も多数いる模様。おお、よく見れば、コ、コワ〜イ!丸で鬼か羅刹たちの行列の様であります!あっ、そして今、
シャンシャン♪♪シャンリン♪♪
の音の理由が判明致しました。メンバー全員、
腰に鈴をくっ付けて居た
のであります。一歩進む毎に、鈴の音が鳴り渡って共鳴し合い、集まって可也の音響と成っていたのです。 ええとメンバーの人数ですが・・・・百、二百、三百・・・・五百・・・・千、千数百人は居るでしょうか!其の大集団が放つ強烈な色彩は、ここ臨江の町のメインストリートに照り映えております。こ、これは最早、大名行列に近い状態と申せましょう!ス、凄いの一言で御座います。あっ只今また、新しい情報が入りました。船着場からの報告に拠りますと、おお是れは又何と、船を繋留してある太くて長い
トモ綱は錦織りで造られている
との事です。更に驚く事には出航する時には、その超高価な艫綱を斧で叩っ斬って、
惜し気も無く捨て去ってゆく
との事であります。その為に、その御零れに有り付こうと、庶民の争奪戦が起きるとの事で御座います。
何たるリッチさ、何たるセレブ集団!もう言葉も有りません。
−−さて突然ですが、此処で
問題
です。第1問・・・・一体、このド派手なコワ〜イお兄さん方の
親分は誰
でしょうか??次の5人の中から1人を選んで下さい。ーーではヒントを申し上げます。
ヒントその(1)、
甘
寧。(2)
辛
寧。(3)
酸
寧。(4)
苦
寧。(5)
美味
寧。
続いて第2問・・・・彼等は、どうして
こんなにお金持ち
なのでしょうか??次の5つの中から正解を選んで下さい。ーーではヒントを5つ申し上げます。
(1)
・・・・彼等は地方長官であれ誰であれ、自分達を歓待する者とは一緒に楽しんだが、チョットでもイヤな顔をした相手には、その家を襲撃して全財産を奪い取った。
(2)
・・・・、この地域で強盗や傷害事件があった場合は、彼等が勝手に其の摘発と制裁に当たった為、みんなビビッて言いなりに成っていた為。
(3)
・・・・男だてを標榜する彼等は、自分達の判断で、平気で誰でも人を殺した為、役人も手が出せず、遣りたい放題にのさばっていた為。
(4)
・・・・党錮の禁で宦官に追われた亡命者達を隠まったり保護したので人気が有り、何時しか政事を牛耳っていた為、自由気儘に税を取り立てていた為。
(5)
・・・・長江上で海賊行為を働き、たんまり財物を貯め込んでいた為。
さあ、一体
・・・・ア、
アレ・・・・何かマイクの調子が
・・・・・
変・・・・・
です〜〜・・・・・
ーーと云う次第で、では此処からは再び筆者に戻ります。先ずは問題の解答を史書によって見てみよう。
『
正史
・
誰か
伝
』
・・・・
誰か
ハ、字ヲ興覇ト云イ、巴郡ノ臨江ノ人デアル。若い時から気概を持って游侠を好み、無頼の若者達を集めて、その頭領と成って居た。仲間は大勢で集団を成し、弓や弩を手挟み、水牛の尻尾の旗指物を背中に付け、腰には鈴を帯びていた。だから人々は、鈴の音を聞くと直ぐに、
誰か
の一味が伸し歩いて居る事が判ったのである。
人と出会った場合、たとえ其れが地方長官であろうとも、歓待した者なら一緒に楽しんだが、歓待しない者には、配下の者どもを遣って其の財産を奪わせた。彼が属する地方長官の管内で強盗傷害事件が有れば、彼が其の摘発・制裁に当るなど勝手放題にのさばり、そんな状況は
20余年
にも及んだ。
』
『
呉書
』
・・・・
誰か
は、男だてから人を殺したり、亡命者を家に匿ったりして、其の名は郡全体に知られた。彼が外出する時には、陸路なら馬車や騎馬を連ね、水路なら軽快な船を並べた。付き従う者達の着物は、綾紋様のある刺繍付きの物だったので、行く先々で其の行列の派手さは路に照り映えた。留まる時には錦織りの綱で船を繋ぎ、出航の時には其れを切り棄てて行き、その豪奢さを誇示した。
』
ーーと云う事で、
この”誰か”とは・・・・
【
甘寧
かんねい
】
の
若い頃の姿
であった。又、第2問の答えは、”5つとも全部”が正解である。但し、この彼の姿は、今から30年も前迄の事であり、
現在はスッカリ別人
の観が有るのである。そのド派手なヤクザ時代以後の、甘寧の来し方を、再び史書の続きで垣間見て措こう。
『
正史・甘寧伝
』
・・・・
のち、暴力沙汰からは足を洗い、些か先賢たちの書物を読むと、
(益州を出て、荊州の)
劉表の元に身を寄せ、そのまま南陽に住んだ。然し取り立てられる事も無かったので、やがて更に黄祖に身を寄せたが、黄祖も彼を普通一般の食客として遇した。
』
ーーまあ、20数年もド派手なヤクザで鳴らし、傍若無人に振舞って来た人物なんだから、その待遇に不満も言えまい。
『
呉書
』
・・・・
甘寧は手下や食客800人を引き連れて、劉表の元に身を寄せた。だが劉表は、学識者であって軍事には疎かった。当時は英雄豪傑が夫れ夫れ挙兵していた時であったが、甘寧はジックリ劉表を観察した結果、劉表がいずれ滅亡するだろうと察知した。そう成れば自分もその巻き添えを喰らってロクな事には成るまいと危惧し、東方の呉へ行こうと考えた。然し黄祖が夏口に居て、軍を率いたまま其処を通過する事は不可能だった為、已むを得ず黄祖の元に身を寄せた。3年が経ったが、黄祖は彼を礼遇する事が無かった。
』
ーーきっと甘寧は、こう思ったであろう。
《呉国は、元々ゴロツキ集団から伸しあがって
出来た国だ。それに噂では、2代目の孫策と云う人物は、度量も気宇もデッカク、尖がった連中をみんなドシドシ取り立てて礼遇しているそうな。俺の様なヤクザモンでもやって行けるに違い無い!》
↓
《今、その孫策は亡いが、周瑜と云う人物が在る
限り、その気風は変わるまい。》
5年前(203年)の江夏戦では、呉の勇将・「
凌統
」を射殺してまで黄祖を助け、その命の恩人と
成った・・・・にも拘らず、何の音沙汰も無く、恰も飼い殺し状態にされた儘の
【
甘寧
】
・・・・処が、そんな彼を、見るに見兼ねた人物が居て呉れたのである。 都督(司令官)の
「
蘇飛
」
であった。蘇飛はそれ迄にも、甘寧を重く用いるように!と、縷々進言していたが、黄祖は其れを無視し続けていた。それ処か、甘寧の引き連れて来た食客への”足抜け”を働き掛け、彼の孤立化を図ってさえいたのであった。
甘寧は黄祖の元を去ろうと考えたが、配下を率いて脱出するのは不可能だろうと思い、独り悶々として居た。そんな彼の心中を知った蘇飛は、甘寧を招いて酒宴を張り、胸襟を開いて言った。
「
私は幾度となく、貴方を推挙致しましたが、主人は其の意見を採用しませんでした。月日はどんどん過ぎ去ってゆき、人生は幾許の長さも在りません。此処で愚図愚図されるよりも、大きな志を持ち、己を知って呉れる主君と巡り会う事を願われるのが宜しいでしょう・・・・
。」
史書には蘇飛の年齢までは記されて居無いが、この様な人生観を有するからには、それなりの齢を経て来た人物であったに相違無い。甘寧は暫く考えてから言った。
「その志は有っても、どうすれば善いかが判りません・・・・。」
「私が上言して、貴方を
朱卩
ちゅう
県の長
に推挙して差し上げよう。そう成ったら、何処に行かれるのも、板の上で玉を転がすよりも容易になります。」
朱卩
ちゅう
県
は夏口から下流(東)へ60キロ、其処から先は、船に乗ってしまえば一気に長江を下って呉の領土に辿り着ける。
「そうして戴ければ、幸い是れに過ぎるものも御座いませぬ
!
」
行かせれば将来、己とは敵味方と成り、戦場で相まみえる事は必定の2人であった。が、甘寧の心中を察した蘇飛の、”
武士の情け
”であった・・・・。
こうして黄祖の元を離れた甘寧は、朱卩県を経て呉の地に入る事が叶ったのである。800の配下を連れた甘寧は先ず、噂に聞く
〔
赤備え
〕
の
【
呂蒙
】
に面会を乞うた。
ヤクザな自分と似た様な、”元悪ガキ”だった呂蒙なら、きっと肌合が一緒であろうと踏んだのだ。・・・・果して、会うや呂蒙は、互いに同じ武人として、また同じ”ワル”の経歴を有する男組として、甘寧の心情と度量、志の高さを大いに讃え、上司であった
【
周瑜
】
に引見させた。
すると周瑜も亦、〔凌統射殺〕を隠さない
甘寧の人柄・人物の純粋さ・軍才を認め、直ちに
【
孫権
】
に推挙したのであった。
それが此の年、
208年
(
赤壁の戦い
当年
★★
)
春
の事であった。そして、この甘寧の出仕が、「黄祖」との最終決着をつける軍事行動の契機・引き金と成ったのである・・・・会うと孫権は劉表や黄祖とは正反対に、甘寧を温かく迎え入れ、下へも置かぬ厚礼を以って接して呉れるではないか。大い感激・発奮した甘寧は、やがて請われて〔黄祖攻略〕を進言した。今の今迄その陣内に居て、荊州・益州の実情にも明るい甘寧の献策にはリアルな説得力があった。
「
只今、漢の王朝の命運は日々に衰え来て、曹操はいよいよ欲しい儘に振舞い、やがては帝位を簒奪いたしましょう。荊州の地は山や丘の有様が便宜に叶い、大小の河川が其処を流れて、誠に呉国が西方に勢力を伸ばされる際の拠点とも成る地で御座います。・・・・私は劉表の様子を詳しく観て来たので御座いますが、彼には遠い先への配慮が無い上に、息子達も彼以上に駄目であって、とても父親の仕事を継いで、その基を後代に伝えられる様な者達では御座いません
。
殿には、急ぎ荊州攻略の測り事をお立て下さいますように!
曹操に遅れを取られてはなりません!
」
・・・・この時点に於ける
【
曹操
】
・・・・既に1年前に〔万里の長城越え〕を敢行し、袁一族を完全に根絶やし、北辺・烏丸族の平定を終了。業卩城に凱旋して天下併呑(南征)を準備して居た。
「ウム呉国はずっと其の覚悟で参っておる。して、では、どの様な策が最善だと思われるか、貴君の考えを是非に聴かせて欲しい」
「
荊州奪取の為の策としては、先ず第1に、黄祖を手中にされるのが宜しゅう御座います。黄祖は既に歳を取り、耄碌がひどく、金も食料も乏しく成って、側近の甘言に乗せられ、ひたすら金儲けに走り、役人や兵士達から搾取を致しております。其の為、役人や兵士達は心中に不満を募らせ、船も兵器も壊れたまま修理はされず、農耕に励む者も無く、軍法は守られず兵士達はバラバラになって居ります。
孫権様が今、軍を破る事が出来るのは必定で御座います。黄祖の軍を破られました上で、隊伍を整えて西方に向かい、西方の楚関を占拠されますまらば味方に有利な情勢は更に展開して、やがて巴蜀の地の奪取も可能と成るので御座います!
」
孫権は、このリアルな情報に基づいた甘寧の意見に深く頷いた。だが同席して居た
【
張昭
】
は、疑議を提した。彼は常にブレーキ役と成って、若い帷幕に再考・熟慮を促す。
「呉の町に於いても人心は未だ未だ安定しているとは申せずもし軍が本当に西に向ったならばきっと反乱が起こるでありましょう」
その大長老の慎重論を聞いた甘寧。心の中にムクムクと”やくざ”が頭を擡げて来た。如何に相手が大名士であろうとも、言いたい事は言う。
「孫権様は、貴方に
蕭何
しょうか
(漢初の名宰相)の任を付託して居られるのに、貴方が留守を任されながら、反乱を心配される様では、古人と同様の勲功を立てたいと望んで居られる事と矛盾するではありませんか!?」
この丁々発止の雰囲気に、
【
孫権
】
は酒徳利を取り上げると、
【
甘寧
】
の杯にトクトクと酒を勢いよく注ぎ終えて言った。
「甘寧どの、本年の軍事
行動は、この注いだ酒の如くスッパリと、全て
貴殿に引き受けて貰おう!貴方は唯ひたすら
軍略に心を巡らされ、黄祖攻略を確実なものに
されよ!」
そして声を落として耳打ちした。
「
張長史の言葉など、心に掛ける必要は無いからな。
」
この甘寧の見解は、呂粛の大戦略にも通ずる。張昭に代表される様な”時期尚早”との声も在ったが、孫権は此の進言を評価した。そして周瑜の賛同を確認すると・・・・
呉軍は、いよいよ黄祖との決着をつけるべく、その全軍を挙げて
夏口
へと攻め入る事に決した!
孫権はもう大分以前から、特別に
〔
黄祖専用の首桶
〕
を作らせ、常日頃から
”
報仇雪恨
”
を国是としてさえして居たのである。
仇敵・
黄祖の首級
を、今度こそ亡き父母、兄の墓前に供えてみせる
!!
父・孫堅の無念の死からは、
18年の歳月
が流れていた
・・・・・・
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