第129節
全軍、再び西へ!
                                目立ちたがりの赤備え






曹操からの人質要求を一蹴し、嫌が上にも意気揚がる孫権軍
・・・・その全軍を
西”へ向けた。狙うは大国・荊州〕!!
総司令官・
周瑜の決断である。北の曹魏に対抗し得る南の覇権を確保して置く為の天下大戦略の第1歩であった

人質要求を拒絶して、対決姿勢を旗幟鮮明にしたからには、いずれ両者の激突は巡って来る。そのXデー迄に、この荊州を、どちらが先に押さえるか!?・・・・それが新興・呉国の唯一絶対の生命線と成る。そして又この軍事行動は、孫権の代に成って初めての本格的大遠征である。負ける訳にはいかない。万全の準備態勢であった。ーー実は、この外征に臨むに迄の間に、軍容を一新する思い切った機構改革が断行されていたのである。やはり周瑜の献策による、君主権の強化を含む、大胆な処断であった。
 これ迄の呉の軍事機構は、”
時代遅れ”の観を呈していたのである。それは〔世兵制〕と呼ぶべき、呉軍独特の前時代的遺物であった。曹操の魏軍と比べると、その特異性がよく解る。
ーー
曹魏では、謂わば傭兵制が主流に成りつつあった頃である。曹魏では兵士は世襲とされ、兵士の婚姻は兵士層内で行なわれる。もし士家に”後家”あらば、政府の命により強制的にチョンガー兵と結婚させられた。つまり魏の傭兵制とは、中央政府が兵士個々の生活全般までをも統制する、絶対君主化の過程の事であった。軍事力は全て曹操(中央)のものなのである。配下部将達には、その兵を貸し与えてあるだけなのだ。これだと君主の力は絶対である。
一方、
孫呉世兵せへいとは・・・・武人個々が私有する、世襲の私兵部隊(私兵集団)なのである。尚ここに言う武人とは、生粋の実戦武将を指し、中央の軍政家は含まない。その”世兵”の発生は、成り上がり者政権(君主)が、己への忠誠を尽くす武人への褒美として、その都度与えた特典であった。そして其の世兵を養う為に、同時に与えられるのが「奉邑」と呼ばれる領地である。孫氏の政権が発足した時点では、その軍兵の殆んどは、こうした〔世兵集団〕でしか有り得無かった。又、それで事足りた。だが、国家として成長した今となっては様々な問題が生ずる。端的に言えば兵士達は君主の直属では無く、武将達の私有物なのである。故に、君主の軍に対する支配力は、武将を介在した間接支配に終わり、微弱なのであった。・・・この制度が残る限り、孫権は軍を直接支配する、絶対的君主では在り得無い。君主権は、其れ等を必要に応じて招請するに留まる。では、その危弱性を補うものは何か?と問えば・・・・それは、君主と武将達との個人的繋がりの強化・・・・つまり、忠誠心を繋ぎ止めて置く為の恩賞、即ち〔世兵と奉邑〕の供与となる。悪循環である!どこかで是れ(世兵制)をバッサリ断ち切らねば、君主権の確立・国家の発展は永遠に達成し得無い。戦国の世に在って、君主権の弱い軍隊は当てには出来ぬから、終いの処、強国には対抗できず滅亡してゆく事となる・・・・・
思い切った大改革が求められる。だが、其れを断行しようとした時武人達の反発・抵抗は猛烈なものと成るであろう。おいそれとはゆかぬ、根深く難しい課題である。その失敗の1例としては、つい最近でも、こんな事があった。−−徐顧・成当・宋定らの武人が死去し、その子弟がみな幼少だったので、その世兵の全てを、軍営地の近い「呂蒙軍」へ編入させようとした。処が【呂蒙】の方から固辞されてしまう。
「徐顧らは夫れ夫れ国事の為に励んで来たのですから、その子弟が幼いからと云って
その部隊を廃してしまってはなりますまい!」

これは独り呂蒙の個人感情では無い。武人全てに共通の利益を代弁したものである。言われた孫権も、それを認めざるを得無かった・・・・と云う具合であった。呉の軍事改革には、こうした初代からの難問が内包されていた。
そんな改革の突破口は、君主直属の「
中央軍」の存在であった。中央軍が巨大になれば、世兵の存在は霞む。 君主の統制力は世兵にも及び、やがては中央軍へと吸収し、改めて貸し与える奉爵制へと移管し得るであろう。幸いにして、続々と各地から新規参入した兵は全て、周瑜が押さえている。今や周瑜の持つ【中護軍】は、最大最強である。周瑜は政権側に在るから、その軍勢は即ち「中央国軍」である。そして周瑜は軍政家であり、階級的には「名士」である。「武人」では無い。世兵は武人への特典であるから、周瑜の軍兵は全員が世兵では無い。
 ちなみに「名士」と「武人」とは社会的階級が異なる。その名声と権威は、当然「名士」の方が数段上に位置している。基本的には「武人」は政務には就けない。その鉄則が、かろうじて君主の統治権を保証し、支えているのであった。
名士の代表が
周瑜であれば、武人の代表は”程公”と尊称されている程普であろう。伝えられる程普の周瑜に対する反発の根源は、この辺りに在った筈だ。北来、在来の「名士」が多く参入した今、「武人」の立場は弱められつつあったのだ。然し周瑜は其の大きな人格によって、『武人個々の利害より、国家的規模で時代を観る』よう程普を説き、終には其の支持をも獲得した。そしてようやく、その改革に着手した。−−やがて(長い時を要するが)
世兵は周瑜の中央軍に統合され、武人への恩賞は
奉爵制へと切り替えられてゆく。是れにより、君主権はだいぶ強化される
 だが、よく考えてみれば、君主権は周瑜によってこそ支えられている事実が、尚さら明白となる。孫権自身には未だ其の実力が無いとなれば、現時点で孫権が意を注ぐのは矢張り、武人達への肩入れであった。「陳武」が死ぬと其の
側室を”殉死させ”たり、「呂蒙」が危篤になれば神々に命乞いをさせ、「凌統」の孤児を引き取って養育する・・・・

処で、この改革でひと際注目された兵団が有った。かつての悪ガキ・今や日夜勉学にいそしむ
呂蒙の兵団である。
今回の改革の主眼は、地方の私兵集団を、中央軍に組み入れる事にあった。各地に分散する小集団を統廃合し、1兵団の規模を格上げする。同時に、その指揮命令系統を一本化しようとするものであった。
兵数少ナク、大シタ軍功無キ部隊ハ解体シ、
     精鋭ナル他軍団ヘ吸収サレルモノ也
!』
この情報を逸早く入手したのが、
呂蒙りょもうであった。
《−−ヨッシャ〜!!》 閃いたのである。
                 
全軍を
マッカッカにしてしまった。鎧(軍袍)も兜(戦帽)も脚半も槍の柄、刀の柄、鞘、軍靴に至るまで、何もかも、真っ赤に染め上げてしまったのだ!!是れは目立つ。笑えるのは其の資金の全てが
前借り”の借金まみれだった点だ。手持ちの金なぞジェ〜ンジェン無い事など、一切口を拭っておいて発注した。出来上がって来てから申し渡した言葉が又、振るっていた。

「代金は出世払いじゃ。」
「−−ヘッ!それでは話しが違いまする〜。」

「な〜に気にするな。此処は一番、男ならド〜ンと一発、このワシの手柄を祈って居て呉れ。 ワシの観る処ではな、この赤備えのお陰で、近々必ず大出世間違い無しじゃ。だからお前サンも大儲け間違い無し!両方ともに得をする。結構、結構、大結構!ガハハハハ!!」 
「そ、そんな〜〜」・・・・と云う事で、悪ガキの面目躍如・・・・一気に片つけてしまった。元々、猛訓練・猛演習で知られる最精鋭軍団であった。
《−−ウム、なかなかやり居るわい!》
派手好みで新しモン好きな、呉国の若々しい気風が覗える。この前向きな斬新アイデアが功を奏し(周瑜に気に入られ)、リストラされた多くの部隊が、新たに呂蒙軍に編入された。編入された将兵達も、この赤備えがエラク気に入り悪い気はしない。逆に誇りを持ってしまうーー出世する様な人物は、やはり独自のアイデアマンであらねばならない、と謂う事であろうか?
以後、増強された
呂蒙の赤備えは、常に戦いの先陣を承り、呉軍先鋒軍団の勇猛さの別称と成ってゆくのであった・・・・。

こうして国軍としての軍容を一新した孫権軍は、意気天を突き、
敵を呑む勢いで国境を西に侵した。その合言葉は

報仇雪恨ほうきゅうせっこん!!』・・・・兄で先代で在った「孫策」に比べれば未だ未だカリスマ性に乏しい孫権としては、国中の人心を1つに纏め上げ掌握できる様な、何等かの手立てが是非とも必要であったのだ。そして産み出されたのが、この戦時スローガンであった訳だ。「鬼畜米英!」と同じ様なモノだ。あだむくイテうらみそそ・・・・その、国を挙げての仇とは・・・・これから戦う、荊州の国境防衛軍総司令官・黄祖であった。
今、呉の全軍が総力を結集して襲い掛かろうとしているのは、
江夏(現・武漢の近く)である。荊州側から見れば「東の抑え」
「国境防衛の要衝」である。一方、呉から見れば、「荊州への玄関口」に当る。揚州と荊州を結ぶ唯一の大動脈・長江から支流を北へ僅か50キロ地点に在る。其処に、江夏郡太守の黄祖が、国境防衛の為に陣取って居た。

黄祖(字は不明)・・・・孫一族にとっては父の仇である(と仕立てた)。父・孫堅は黄祖戦で浅慮にも、単騎で深追いし過ぎ、戦死した。戦いそのものは大勝しており、黄祖自身は黄蓋に捕虜とされた。だが父の遺骸と引き替えに命を永らえた。その後、兄の孫策とも戦って破れながら、単騎逃げおうせていた。なかなか打たれ強く、渋とい。トカゲの尻尾切りである。破れても敗れても、直ぐに軍兵の補充を果して立ち直って来る・・・・それも其の筈・・・現在
荊州の戦線はこの江夏方面唯1ヶ所である。従って荊州の実働軍は、実質的には黄祖独りが握っていると言ってよかった。他に戦場を持たぬ、豊かな荊州の兵員・物資を使い放題と云う訳であったのだ。荊州牧の「劉表」は専ら内治に励み、派遣軍の全権は黄祖に一任した形と成っている。謂わば、黄祖は荊州の守護神である。・・・・名将とは言い難いが、彼の軍が居る事で荊州の秩序は安寧し、呉軍への内通者や逃亡者も出して居無かった。(敗戦では、大量の捕虜を見捨てて逃走してはいたが)いずれにせよ、荊州切り取りを狙う呉政権にとっては、仇敵であるばかりでは無く全く邪魔な存在であった。そのトカゲの頭さえ討ち取れば、荊州奪取は随分と楽に成ろう。
「今度こそ、父と兄の無念を晴らし、
               黄祖の首を討ち取れ!」

それが呉軍の至上命令、合言葉であった・・・・。


江夏・夏口の位置図" その【黄祖】・・・野戦では前回、孫策に大敗北を喫した為か、拠城の〔江夏〕から、長江上での〔水戦〕に撃って出た。自慢の水軍を漢水(長江の大支流)沿いに、夏口かこうまで押し出し、長江をさかのぼって来る呉軍艦隊を撃退する腹である。夏口は、赤壁の下流100キロ地点に位置する。(現・武漢市)
ーー長江上での、
本格的な〔水軍戦となった。
思えば周瑜水軍(呉国艦隊)にとっても、史上初の大会戦である。この為にこそ、周瑜は此の付近で水軍に猛訓練を施して来た。長江は周瑜水軍の揺り籠であり、周瑜の庭であった。呉は水の国である。日常生活で大小の水系に慣れ親しみ、船は身体の1部同然の国民である。船に乗らぬ者など1人も居無い。水戦となれば望むところ。猛訓練の成果の見せ処であった。
大小の艦艇を自在に操り、おびき寄せ、廻り込み、思い通りに敵を翻弄、撃破していった。(
この水軍戦に関する、戦闘場面や戦闘状況を詳述した史料は無い。)黄祖軍は、水戦の未熟さをイヤと謂う程に思い識らされ拠城の江夏城へと敗走した。自称10万を呼号する呉軍は、逃げる敵を追い、ついに黄祖の本拠・江夏城を襲った。
逃亡の達人とさえ言える仇敵・黄祖を討ち漏らすまいと、事前に高速騎馬部隊を先廻りさせ、黄祖の脱出路を断つ周到さであった今度こそ、黄祖は城に立て籠もらざるを得無くなった。
 城は刻一刻と重包囲に陥いり、ネズミ1匹とて脱け出せぬ迄に成っていった。そして遂に、攻城戦としては、是れ以上は無い陣構えが完成した。そこで血気に逸る呉軍は、1回目の総攻撃に掛かった。城門の一角が打ち破られ、城内戦に迄なったが、敵も死に物狂いである。双方に大損失を出して〔
第1次攻撃〕は終了した。
敵の被害も甚大であったが、こちらも勇将の1人校尉の
凌統を失った。敵の客将・甘寧に射殺されたのである。この甘寧かんねい、些か訳ありの勇将であった。−−実は・・・・今もイヤイヤながら、仕方無しに呉軍と戦って居たのである。彼の本心は、清新な気風に溢れる、若い「呉」に出仕する事であり、その足も、呉の地へと向って此処まで辿り着いて居た処であったのである。
だが然し、800人の配下を率いた儘では、この江夏を素通りする事が出来ず、黄祖に引き止められ、已む無く江夏城に留まって居たのだった。一宿一飯の恩義を感じるタイプ甘寧は、その義侠心によって、心ならずも此の戦役に参陣して居たのだ。
 然し黄祖に人を観る眼無く、彼を薄遇し続けた。この戦さに於いても、黄祖に肉薄する「凌統りょうとう」を、自慢の弓で射殺して、直接黄祖の命を救うなどの武功を示したにも拘らず、何の沙汰も無くシカトされ続ける。戦いながらも甘寧の心の裡には、憮然たるものが有る・・・・。
さて戦況は、今や〔江夏城〕は風前の灯となり、黄祖も遂に観念した。あと1度、総攻撃を受ければ、落城は必至の状況と成っていた。孫家の仇も、荊州の切り取りも、終いに果される時が来た!!ーー処が、処があった・・・・・天は又しても黄祖に余命を与えたのである。孫権の元に、本国からの急報が届けられたのだ。
山越さんえつ、大蜂起ス!直チニ御帰還アルベシ。
        事態ハ深刻ニシテ緊急ヲ要ス!!

陣内に衝撃と戦慄が走った・・・・!!

「くそ〜〜っ、山越の疫病神めらが〜!!
            あと1歩と云う処を・・・・!!」

無念やる方ない。だが、呉国の者なら誰しもが、直ちに事の重大さを悟った。「放って置きなされ。敵軍撃滅は目前ですぞ。先ずは黄祖を討ち果たすべきで御座います!」と言う者は
誰1人居無いそれ程に呉の者達には、山越の脅威が骨身に沁みていた。
孫権自身、数年前に危うく殺されかけ、九死に一生を得た体験を持っている。忘れもしないーー初陣(14歳)の時の事である。兄・孫策に頼んで【周泰】を自分の直属に付けて貰った年でもあった。

兄に従い、6県の山越討伐に赴いた際、孫権は兄と別れて宣城に留まった。兵力は千にも満たなかったが、首都にも近いのでタカをくくって、防護柵も設けずにいた。そこを数千の山越民に急襲されたのである。孫権が騎乗して逃げようとした時には、既に敵の刃は身近に迫り、馬の鞍に斬りつける者まで出る死地と成ってしまったのである。神出鬼没で、良民なのか賊なのか、普段は見分けが出来無い。事前の情報では、此処に居る筈も無い大軍であった。誰も彼もが慌てふためき、ただ己が逃げるだけで精一杯の乱戦と成った。そんな中、「周泰」だけが駆け付けて呉れた。周泰は孫権の楯となり、身を挺して勇戦して見せた。もし此の時、周泰なくば、孫権の命も無かった筈である周泰のお陰で、やがて味方もやっと集まり、何とか敵中を突破できた。然し周泰は全身に12の傷を負い、昏倒すると暫くの間は人事不省に陥いった・・・・。

又、孫策葬儀の折ーー孫家の出身地である富春の、重だった役人達は皆、葬儀に駆け付けようとした。然し県長の「虞翻」が、それを押し留めた。『隣県の山越の民達が変事を起こす心配があり、城郭を放ったらかして遠くへ行けば、きっと不慮の事態が起こるであろう。』そう言うと任地に留まった儘、喪に服して追悼の儀式を行なった。他の諸県でも是れに習った為、みな安寧が保たれた・・・

君主の葬儀にも出向けぬ程、山越の脅威は深刻であった。爾来、孫呉政権は、片時も山越から眼を離せなく成っていた。


孫権軍は、黄祖殲滅を目前にして、已む無く陣を退き払い、本国へと取って返した。そして息つく間も無く、直ちに「程普」・「黄蓋」・「呂範」・「太史慈」等主だった武将を注ぎ込んだ。総動員体勢で臨まざるを得無い程の、全国規模の大反乱であった。
之れに対する孫権の怒りは凄まじかった。徹底した弾圧・処刑が命じられた。その措置が又、新たな反抗を生む病根と成る事が判っていても、そうせざるを得無い時局に在った。
−−急速に軍事大国化したツケは、必ず国民の何処かに廻される。表面の繁栄の陰に、公表されぬ残酷が存在する。軍事は最大の消耗であり、非生産活動であり、破壊である。名士を含めた上流支配階層の富貴の裏側には、民の地獄が存在しなくては成り立たない。是れは、今も昔も変わらぬ真相である。苛酷な犠牲を強いられ、塗炭の苦しみを強制されるのは恒に、名も無い多くの国民であり、異民族とされる者達である。同化政策も併用するが、土台、ぶん殴って置いて仲良くしろは通用せぬ。山越の民は決して好戦的な民では無かろう。それが、勝利のメドも無いにも拘らず、命懸けの蜂起を頻繁に繰り返す・・・・その収奪と労役の苛烈さが、如何なるものであったかが想起される。
 他方、孫呉政権にとっては、是れが社会・経済基盤の泣き所と成り、限界点に成る。この、国内の騒擾に因り、外征(黄祖との対決)は、
更に5年先を待たざるを得なくなる。其の間、曹操は心置きなく、北辺の残存勢力を平定し去ってゆく・・・・・。

番卩陽郡には「呂範」を、その東方の楽安には「程普」を、荊州と接する豫章郡の海昏には「太史慈」を平定の為に派遣した。更には「韓当」・「周泰」・「呂蒙」などなど、国家総動員体勢となった。
 この大反乱は、長江以南の全土で起こった。呉の中枢部である丹陽郡ですら無事では済まなかった。驚くべき状況である。然も是れは根本的に、永遠に続く可能性を蔵した、異民族との〔不毛の戦い〕である。いちいち記さぬが、この鎮圧の為、全部将が各地に散って戦っている。「黄蓋」などは、何と9つの地域を駈けずり廻っている。

山越呉の宿痾と成って、未来永劫に渡って生き続ける

ーー無念なり、呉軍・・・・・

本来なれば
猛牛たるべき孫権も、
この儘では何時まで経っても、



土牛」の如く月夜に恨みを吠えるしか無いのか
【第130節】 色情魔ド派手なヤクザ者
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