【第128節】
〔孫権の息子を、人質として差し出せ!〕
とうとう【曹操】が牙を剥いた。漢朝・献帝の名において”詔勅”が下されたのである!!・・・・呉の新政権成立からは2年、建安7年(202年)の事であった。僅か3年前、孫策の時代には、曹操は低姿勢そのものであった。己の2男曹彰に孫賁の娘を娶らせ、孫汲ノは己の弟の娘を嫁しづかせるなど、二重三重に友好関係を構築・推進させて来ていたのだった。それが一転、手の平を返す如き、強圧姿勢に豹変したのである。何となれば・・・・曹操の魏は、ここ2年の間に爆発的に其の力を強大化していたのであった。その直接的な原因は、何といっても禹域最大勢力で在った【袁紹】との決戦に、遂にケリを着けた事であった。
200年(3年前)10月=〔官渡の決戦〕で袁紹軍を大破。
201年(2年前) 4月=〔倉亭の戦い〕で再び袁紹軍を撃滅。
再起不能に追い込む。
9月=劉備を攻撃、荊州の劉表へと逃走せしむ
202年(ことし) 5月=失意の裡に袁紹が没する。
これで曹操は中原最大の敵を屠り、遂に華北一帯に其の主導権を確立する事と成った。残存勢力多しと雖も、袁紹時代とは比較にならない。一段と増強された軍事力を用い、いずれ各個撃破してゆくであろう。・・・・今や戦国乱世の群雄も、「董卓」・「呂布」・「公孫讃」・「袁術」そして「孫策」・「袁紹」と亡び去り、その覇者たらしむ人物も、いよいよ最後の1人へと絞り込まる段階に突入していた・・・・と云う事である。とは謂え、禹域は広大である。天下全土の広さから観れば、曹魏・孫呉とも未だ未だ中規模程度。今後ますます互いに、残る地域を支配・併呑せんとして、戦いの火の手は更に激越となってゆくであろう。
さて、人質要求を突きつけられた孫権の呉では・・・・
主君・孫権を前にして、召集された文武百官が大議論を展開していた。事は国家の命運に関わる一大事である。曹操に屈して主君に我が子を差し出させるか?要求を拒絶して、飽くまで独立の姿勢を示すか?である無論、その選択の向こう側には、曹魏との軍事衝突を可と観るか否と観るか?・・・シビアに謂えば、果して戦って勝てるのか!?と云う議論である。イエスかノーか、第3の答えは存在し得無い、二者択一の事態に迫られたのである。但し、僅かに救いも在った。それは、時間的に余裕が持てると云う点であった。今般、拒絶したからと言って直ちに戦役が勃発し、明日にでも国の存亡に直結してゆくと云う、逼迫した情勢では未だ無かった。いかに上げ潮の曹操とて、未だ未だ己の周辺には、かなりの火種を抱え込んで居た。
だから今の処は、一種の恫喝に過ぎ無いと観てよいだろう。然し返答次第では、いずれ曹操は腹を据えて、全力で呉に攻め入って来るであろう。その時が、果して何年後なのかは定かでは無いが、それこそ国の存亡を賭けた、1大決戦を覚悟しなくてはならなくなる。
連日、重臣達による御前会議が開かれ、大激論が交された。議論の内容は大きく言って2つ乃至3つ有った。先ず1つは、〔詔勅〕に対する態度であり、次の1つは、現実的な情勢分析(判断)であり、更には此の後、時が進んだ時点での彼我の戦力予想(国力予想)であった。
議論の入口として先ず、〔詔勅に対する態度〕の如何が問われた。『詔』とは漢朝廷からの命令である。如何に曹操が操るとは言え、形式上は、皇帝から直々に発せられた、臣下に対する抗し難い至上命令である。「名士」を自負して来た者達にとっては勿論の事、漢室の復興を標榜するからには、孫権みずからが、その命に抗する事は不義であり不忠である。孫権の幕臣に限らず全国の「名士」は漢王室に弱い。先祖代々から恩顧を蒙って来ている訳だから、急に造反する事は倫理上からも心情的にも許され無い。又、己の人生観の根幹を成すものとして生きて来たのであり、それを否定する事は、自己崩壊・自己否定とも成る。おいそれとは無視し得ぬ、重〜い観点なのであった。従って、その幕下に多くの名士を擁し、充実した陣営ほど其の傾向は強く、詔勅の威力は大きい。曹操の目論見も其処に在る。人材に於いては、〔孫呉〕も〔曹魏〕に優るとも劣らぬ事を識って居る。それを識るが故に、揺さぶりを掛けて来たとも言える。たとえ返答がノーであったとしても、この一通の詔勅に因って、呉国内部に動揺と混乱が生ずる様であれば、もう其れだけでも充分効果は挙がったとするものであった。
案の定、最高顧問(師傅)の張昭を筆頭に、張紘・虞翻・陸績・張温・歩陟・諸葛瑾ら、文官名士たち全員が慎重論、即ち要求受諾=詔勅尊法論を匂わす論陣を次々と主張・展開した。
「詔を蔑ろには出来ませぬ。詔勅に抗する事は、天下の大罪を犯す事であり、漢室から国賊と見做される事となりまする。是れは初代孫堅・2代孫策様ともに忠烈だった国是を破る事にもなりまする。此処は一番、不忠の汚名を着せられぬ為にも、一時的措置として、要求に甘んじ、時を稼ぐべきでありましょう。心情と致しましては人質など以っての外では御座いまするが、大義の前には、忍び難きを忍び、漢室への忠節を全うするべきでありまする。」
是れに抗する者は、〔武将グループ〕であった。が、彼等は主として
”戦う事厭わず”と云う武人としての発想に基づく為、正論を吐かれてしまうと反論できない。もっぱら「呉国の恥辱である!」と言い張るしか無かった。そんな家臣達の議論を聴きながら、【孫権】は心の底では、我が子を人質などには絶対出したくない。だが尊皇たらんと公言している手前、常識論の前には如何とも抗し難い。そこで、一座の末席に在った、異色の新参者・【魯粛】の登場となる。
「あいや待った!お待ちあれ。
諸氏の申さるる事を拝聴して居りましたが、全く不同意に御座る。」
「おお、魯粛か。新参など遠慮せず、君の考えを聴かせて呉れ!」
孫権が期待の眼差しで魯粛の発言を促す。
「諸氏の申される事は、その根本からして間違って居られますな。
真実には眼を背け、天下の実情を見誤った上での、机上の空論に過ぎませんぞ。」
錚々たる大名士の権威を屁とも思わぬ、恐い者知らずの魯粛。
「そもさん、諸氏が有り難がって居られる漢王室などと云うものは、既に此の世からは消滅し、過去の遺物と成り涯てておるのですぞ!大体、今、天子の座に在るとされている劉氏は、あの悪逆無道の董卓が勝手に選んで据えたもの。何処に其の正当性が有ると申されるのか?更に現在では、曹操が其れを己の野望の為に操り人形として私し、故にこそ今次の如き理不尽な要求を我が国に強要して来たのですな。その真実を直視すれば、何で一体、この馬鹿げた要求を
”詔”などと有り難がる必要が在りましょうや!」
ーーズバリ、正論!! (と我々は思うのだが)・・・・だが然し、この余りにも過激・激越な発言は・・・・未だ未だ此の時点では時期早尚であり過ぎたのである。思い返せば、あの周瑜でさえも初めて魯粛の考えを聞かされた時には仰天したものだったのだから、況してや古い世代には受け容れられる筈なぞ無かった。一同から総スカンを喰らう羽目となる。
「なに!では、この中国は、天子も居わさぬ野蛮国だと申すのか!」
「この不忠者め、口を慎め!我が漢王室を其の様に悪し様に言うとは許せん!この場から直ちに退散せよ!」
「所詮、浅学薄識の田舎者の言辞に過ぎぬ。とても論議の対象にすら成らぬ。よくも其の様な言辞を吐けるものじゃ!それに漢王室を尊崇奉る我等全員に対しても不遜である!!」
魯粛が”漢王朝既亡論”を発した事から、議場は大騒擾状態と成り、新参者への軽蔑と非難の十字砲火が次々と浴びせられた。大御所の張昭などは、反論にも値せぬとばかり、プイとそっぽを向き、丸っきり魯粛を無視。・・・・この拒絶反応には多分に魯粛自身の性格や人望の無さも影響していた。是れと謂った名声の無い田舎出の魯粛にしてみれば、当たり前の論議では到底、何十年も勉学一筋に研鑽されて来ている先輩の一流名士達には歯が立たない。だとすれば、どうしても敢えて彼等の意表を突く様な言辞を呈してゆくしか無い。それが性格と相まって、先輩に対する不遜・倣岸と受け取られる。
《チッ、石頭どもめ!所詮、この老体達には、今さら己の生き方を変える事など出来ぬものかは》・・・・多勢に無勢、新参末席の魯粛は無念にも、此の場ではスッコまざるを得無かった。更にマズイ事には是れでは却って孫権が、君主としてビシッと主流派の重鎮達の論議を押し切って、魯粛の考えを支持できぬ雰囲気に至ってしまった事だった。ーーこうなれば後はもう、孫権の頼みの綱は、【周瑜】の存在だけである。だが、周瑜は論議を聴くだけで、一言も発しない。孫権も敢えて周瑜に発言を求めない。事前にきつく、周瑜から言われて居たのである。何故なら・・・・周瑜が発言しない限り、論議に決着はつかない。それが、誰しもが認める、最高実力者の重さであった。何も寸刻を争う問題では無い。それに、何や彼や言っても、最後に断を下すのは君主・孫権でなくてはならない。その形式を、有無を言わせぬ様な格好で演出してやらねばならない。衆目が周瑜の口元に集まるが、其の日も終に、周瑜の考えは明らかにされ無かった
此処で周瑜が選択した方式は、ガヤガヤとした議場での決着では無かった。もっと神秘性を帯びさせた、〔女神サマからの御託宣〕と云う、密室決着であった。
孫権と周瑜は、呉夫人の元へと出かけた。母親の前で周瑜の意見を聴き、最終決断を下す形を採ったのである。呉に於ける母親の地位が、神的要素を含んだ存在である事は前にも述べた。国の浮沈に関わる重大事案である。母親の眼前で下される君主の神聖なる決断は、もはや何人にも覆せない・・・・との決意の表明である。
そして、そこで初めて、周瑜が己の考えを述べた。
「−−断固、拒絶されよ!」
それが結論である。周瑜公瑾に”屈服”の2文字は無い。いかに相手が強大であろうと、卑屈になる事を潔しとしない。飽くまで自立自尊の志向の持主であった。苦境に在れば、寧ろ敢然と立ち向かう気概を持つ、誇り高き男なのであった。
「昔、楚の国が初めて荊山のそばに封ぜられた時には、その領地は百里にも及びませんでした。然し其の跡を嗣いだ主君達は、聡明で手腕があり、其の土地を広げ領域を拡大し、郢の地に都を定めて国家の基礎を固め、終には荊州を占拠し、其の勢力は南海にまで及んで、国家と王位とを子孫に伝える事が900年余りに及んだのです。
ただ今、将軍様は、父上・兄上が残された成果を承けつぎ、6つの郡(呉・会稽・丹楊・豫章・盧江)の人民を一手に握られて、兵器は精鋭で兵糧も豊かに、部将も士卒もよく命令に従い、山を掘って銅を精錬し、海水を煮て塩を製し、領内は富裕で、人心も安定いたして居りますから、一旦御命令があれば人々は船を浮かべ帆を上げて、その日の内に馳せ参じて参ります。兵士達の気風は猛々しく勇敢で、向う所敵は御座いません。強談判を受けたからと云って、何故に人質を送ろうなどと考える必要が御座いましょう。
ひとたび人質を送ってしまわれれば、曹操と行動を共にせねばならず、行動を共にする事となれば、召集が掛けられた時には出て行かねばならず、結局は他人の指図の儘に成ってしまうので御座います。人質を送った場合、最上の見返りでも、せいぜい侯の印を1つ、従僕が10余人、車を数台、馬を数匹もらうだけでありましょう。南面して一国の主として振舞われて居る現在の御立場と、何で同日に語れましょうや。」
孫権も呉夫人も喰い入る様な眼差しで、頼もしき巨人の言を聴く。
「人質は送られず、ゆっくりと情勢の変化を見定められるのが宜しゅう御座います。もし曹操が本当に義に順って天下を正してゆける様であれば、それから彼に仕えられても遅くは御座いません。もし彼が暴虐と混乱だけを意図して居るのであれば、兵は恰も火の様なもので御座います故、それを暴発させれば、彼自身を焚き亡ぼしてしまいます。今は、勇敢さと武威を包み隠されて、天命の移りゆきを御待ちになるのが宜しく、人質を送られる必要なぞ御座いましょうや!」
呉夫人は、孫策との義兄弟の契りの時以来、大の”周瑜ファン”である。女神様も、この毅然自若とした周瑜の意見に大賛成であった。
「其の言や善し!孫権殿、周瑜公瑾殿の言葉に従い為されるのが一番ですよ。そなたとて、可愛い我が子を、狼の巣窟へ送りたくは無いであろう? 公瑾殿ハ伯符(孫策)様ト同イ歳デ、1ヶ月ダケ遅ク生マレラレタノデス。私ハ、我ガ子同様ニ考エテ居リマスカラ、オ前モ兄上ダトシテ御仕エシナサイ。」
ーー以上『江表伝』−−
「文官達には、こう申し伝えれば宜しかろう。『漢王室は尊崇すれども、姦賊・曹操には屈せぬ。従って人質要求は、断じて是れを拒否する!』 と。」
孫権は母に言われる迄も無く、愁眉を開いて心が決した。
「得たり!決め申した。我が子に対する人質要求・・・・こんなものは断じて拒絶いたす!!」
「この後の戦略は、魯粛の方針を採用されるが善かろうと思います」
あと数年は時が許すであろう・・・・との見通しを述べた後、具体案を話す。周瑜は孫権の中に、兄・孫策と同種類の覇気を見い出していたのである。
「西へ、再び全軍を進めましょう!荊州にも足場を拡げ、国を富ませ、国威を高め、兵馬を大いに養いましょうぞ。」
「おお、やらいでか!!」
「又この際、国力分析を行ない、張昭らに殖産興業を御命じ為され。そして更に大切な事は、彼等文官たちの主張も亦、呉国を思えばこその至誠の現われと思し召される事です。彼等文官は我々年若き者にとってその血気を諌め、在るべき位置に引き戻して呉れる重しの役に御座います。決して怨んだり、疎かにしてはなりますまいぞ」
・・・・実の処、孫権は今回の件については、張昭らに対して些か悪感情を抱いて居たのだ。
《正論ばかり吐きおって。もう少し、俺の心を察しても良かろうに!》
「改めて重き任を与え、彼等こそを今、認められる度量ですぞ。」
−−此処に、孫呉政権の、眼に見えぬ財産が在る・・・・己の信ずる所を互いに遠慮なく披瀝し合い、言うべきは言うが、意地に成ったり感情に溺れず、面子に固執しない。断が下れば、後腐れを全く残さない。又次の案件にも、互いが同じ姿勢で臨む。
〔相互尊重の不文律〕・・・・是れが孫権の帷幕の、最良かつ際立った特質と成る。孫権が若く(20歳)、未だ強固な君主権を確立させて居無い此の時期、それを率先垂範して示してゆく周瑜の功績は大きい。最高実力者で在りながら、みずから人の言をよく聴き、決して独り善がりはしない。だが、決断する時は厳然として、曖昧さを許さ無い。一方、反対意見を主張した者をこそ、丁重に労らう心配りを怠らない。・・・・簡単に出来る事では無い。だが、そうした集団の明日は明るいであろう。
張昭らは、直ちに国力分析に入った。だが、いざ手を着けてみて、張昭は愕然とした。正確な処は、何も判って居無いのだ!
戦闘に明け暮れて来た今迄は、内治にだけ眼を向ける余裕など無かったのである。資料らしき物は何1つも無かった。仮にもし有ったとしても、役には立たぬであろう。ここ数年で江東の地は一変していた北方からの流入移民の数は厖大にのぼり、新たに帰属した版図を加えれば、人口だけでも爆発的に増えている筈だから、其の正確な数を知る寄す処も無い。仕方無く、取り合えずの概要を観てゆくしか無かった。
ーーそこで少なくとも謂える事は・・・・此処、長江中流域は、中国最大の肥沃な土地柄であると云う事だ。
雨量も全国一の多雨地帯で(揚州の殆んどが年間2000ミリを超える)、是れは北方・魏国の2倍である。平均気温も16度Cを超え、稲作を中心とする農業生産に最も適した条件が備わっている。問題は技術の遅れと、労働力の少なさであったが、其れはここ数年で急速に改良されつつあった。北方先進地域から流入して来た者達が、植民と同時に、おのずと其の懸案を解決して呉れている。今後は其れを、組織立ったものにしてゆく点だ。そうすれば、経済基盤(農業)は万全となり、強力な軍事力を支える事が可能に成ろう。そして未だ、呉の国では手が廻らないが、魏に倣い、是非にも〔軍屯・民屯制度〕を採用しなければなるまい。特に民屯では、北方移民と山越の民を組み込めば、治安上も安定し、一石二鳥の効果が期待できる。
手工業部門では、既に会稽郡を中心に、銅鏡製造や「越布」と呼ばれる紡績業が有名である。これを工場化する事が望ましい。海岸都市では、司塩校尉を置いた製塩の利益も大きい。産鉄の地も各地に発見されて来ている。
又、何と言っても古来より、造船業は盛んな土地柄ではあるが、より巨大な軍船を建造するドッグの整備が急がれる。大型船の発達により、海路や長江・多くの水路網を利用して、商業・交易の利益の増収も見込まれる。南方特産の珍品の数々は、其れを保証するであろう・・・・象牙・犀角・孔雀・翡翠・大貝・明珠(大粒真珠)・王毒王冒(海亀の甲羅)・雀頭香・闘鴨・長鳴鶏などなど・・・・
今の時点で結論として言える事は、未整備・未開発ではあるが、
呉の地は肥沃にして物産豊富。努力次第では、是れから未だ未だ幾等でも、国力を充実させる可能性の有る、希望の地だと謂う事である。ーーこれより数年間は、内治に、地味ながら堅実な眼を向け、励む期間と成るべきであろう・・・・。
《それにしても、若いが、流石である!大重鎮の張昭は、敢えて口にこそ出さぬが、 その態度の中には、周瑜に対する絶大な信頼感を持ち続けていた。《孫策さま亡き後も、この周瑜殿が居て呉れる限り、呉の束ねは此れから先も、万全磐石で在り続けよう・・・・。》
軍事と内政の両方を、1人で総合的に司って国の行く末の舵を取るーー所謂〔軍政家〕としては、呉国唯一の至宝である。本来なら、それは君主に求められるべき役割であるが、如何せん、その孫権は未だ就任3年目で年齢とて20歳に過ぎ無い。あと数年も経てば、名君とも成り得ようが、当面は周瑜に呉国の命運を担っていって貰うしか無い・・・・その思いは、独り、張昭だけのものでは無く、孫呉の帷幕全員に一致した観方であった。
だが、そんな中、只1人の人物だけが、その周瑜に反発し続けていたのである。ここへ来て急にの事では無かった。周瑜が断金の友・孫策と正式に合体、参入して来た最初の段階からの事であった。然も取るに足らぬ様な人物なら兎も角、その人物は孫氏3代の最初から仕える譜代中の譜代で、初代以来、軍事方面一切を統帥し続けて来た、呉軍の元勲・程公こと【程普徳謀】であった。
ーー詳細は第79節(白髪鬼)で既述したが・・・・【程普】は、内心
『周瑜』を心よく思って居無い。周囲からは、2人は仲が悪いとさえ観られていた。程普は人前でも、その悪感情を隠さず、たえず周瑜を無視し続けて来て居るのであった。一方の周瑜は、そんな態度を取られても、一向に気にもせず、ひたすら程普を立てて振舞い続けて居る。それが又、気に入らない。どうも癪に触って堪らない。
《ポッと出の若僧とは訳が違うぞ!》その一念が、この老将の唯一の澱と成って、蟠って居る様に観える・・・・と云う状態は未だ未だ長く続く事になるのである。(某史料によれば、赤壁の大決戦の最中でさえも、そうであったとする説すら在る程である。)
だが、そんな頑固一徹の老元勲の心も、澄み切って香り貴い周瑜の人間的魅力の前に、終には其の頑なだった反感を氷解せざるを得無くなってゆく。その時期が何時頃だったか迄は明記されては居無いが、史書にはこうある。
ーー『正史・周瑜伝』−−
周瑜ハ、大ラカナ性格デ度量ガ有リ、多クノ人々ノ心ヲ掴ンダ。然シ唯、程普ト耳ハ睦マナカッタ。
ーー『江表伝』−−
程普は、自分が些か年長である処から、しばしば周瑜を侮辱した。周瑜は身を低くし下手に出て、決して逆らおうとはしなかった。
程普はのちに周瑜に心服し、親しむと同時に尊重する様になると、
人に告げて言った。
「周公瑾どのト 交ワッテ居ルト
恰モ、芳醇ナ美酒 ヲ飲ンダ様ニ、
みずかラガ酔ッテシマッタ事ニ気ガ付カ無イ。」
【第129節】全軍、再び西へ!(目立ちたがりの赤備え)→