第127節
刮目すべき奴等

                            勉強嫌いの 文字アレルギー







「いやあ〜、寸手の処で、大事な人材を失うところであったか!?戦さに明け暮れて居たとは申せ、正式に出仕の話しもせず、誠に申し訳ない仕儀であった。済まぬ、どうか許して欲しい。」
周瑜しゅうゆ魯粛ろしゅくの此の2人・・・・出会いの時以来、ツーカーの仲と成っていた。魯粛の方が3つ年上である事もあり、互いに
遠慮は無かった。周瑜は其れを平気で許せる。無論、魯粛も自分が全くの”格下”である事は自覚して居るが、事、議論に関しては、一切気兼ねしない。

「お主と暫く会わぬ裡に、状況が又大きく変わってしまった・・・・。」

「周瑜どの、
孫権仲謀とは、如何様な御仁で御座るか?
お聴かせ下さい。この魯粛子敬、周瑜殿の元へなら、何の不満も無く出仕も致しまするが、其の主君たる人物が暗愚であるなら、
やはり考えざるを得ませぬ。この魯粛、未だ孫権様とは一面識も無く、全く存知上げませぬ。果してどの様な人物、如何様な御考えをお持ちの方やら・・・・。」
げに、まっこと、合理主義者の言ではある。

「よかろう。馬援が光武帝に答えた言葉に、『
当節は、君主が臣下を選ぶだけでは無く、臣下の方も君主を選ぶのです』・・・・と謂う一言が有る。」
周瑜は、そう前置きしてから、魯粛の質問に応えた。

「私の主・孫権殿は、賢人志士を大切にし、特異な人材をよく受け入れる御方じゃ。魯粛殿の如き、得意な自論や見識を持つ人物にはピッタリの主君であると思う。その上、私は先哲の秋論として聞いている事が有る。−−それは・・・・
漢室ニ代ッテ天運ヲ受ク者、必ず東南ニ興ル と、謂う説じゃ。是れは魯粛殿の自論と、まさしく符号する。」
周瑜は、しばし遠い眼になって、はるけき彼方かなたを仰ぎつつ断言した。


「又、この私が時代の動向を推察するに、
        今が其の”運命の秋だと確信している。
帝業の基礎を固め、天の意志を実現する為、士たる者が龍やおおとりと共に天地を翔け巡る・・・・我々は今、その様な場所に置かれて居るのだと思う。」

周瑜は、遠い眼差を戻して魯粛に告げた。

「ーーそれを思えば魯子敬よ、(劉)子揚ごとき小人の言葉になど、関わって居る場合では無いではないか。安心して、孫権殿に御仕えなされよ。」



孫権魯粛と初めて会う事となった。兄とも慕い、全幅の信頼を寄せる周瑜の、強い推挙に拠るものであった。

「魯粛の才能は、時代を切り開いてゆくのには最適です。此の様な人材を広く求めて、大業を達成すべきです。魯粛を見逃してはなりまんぬぞ!」

この時、
孫権仲謀19歳、魯粛子敬29歳、周瑜公瑾26歳・・・・皆、未だ未だ若い。国自体が、若々しさに溢れている。活躍場所を求める人士にとって、其れは、堪らない魅力のひとつである。
 全てが未完成で、初めての国であった。その分、北の桎梏しつこくからは解放されて独立した、伸び伸びと奔放な雰囲気が有る。其れはやがてーー江東の人々の心に、少しずつではあるが、〔自尊の誇り〕を持たせてゆくであろう。そうした時代の興隆期に、今、彼等は居る・・・・。北西へ1千キロの「
官渡」では、45歳の【曹操】が50歳の【袁紹】の大軍を撃滅して、大勝利を収めていた頃の事である。


周瑜の格別な計らいにより、孫権と魯粛の両者は、
呉湖と呼ばれる城外の巨大な湖=(現・太湖番卩陽湖に次ぐ中国第2の湖)の、楼船上で邂逅する事となった。壮麗な湖上で、水面に心地良く吹き渡る風を受けながら、美酒でも酌み交わしながら、寛いだ雰囲気の中にもじっくりと、腹を割った対話をさせようとの、なかなか粋な趣向であった・・・・。

小船に乗った魯粛が、宮殿の如き楼船に乗り移ると、管弦による嫋々じょうじょうとした調べがかなでられ孫権自らが丁重に出迎えた。 ちかづきの一献いっこんが交されると、孫権は更にさかずきを勧めながら、忌憚きたん無く、話し出した。

「今や漢室は傾き、天下は乱れに乱れている。私は父と兄の果せなかった事業を受け継いで、斉の桓公や晋の文公の如き〔覇業〕を達成したいと思って居ります。今こうして魯粛殿と面識を得ること叶いましたが、貴殿は此の事について、如何なる方策をお持ちか是非お教えを賜わりたい。」

桓公・文公は春秋時代の覇者ーー名ばかりと成り涯てた周王朝を盛り立てると称したが・・・・実力で諸侯を制し、実質上の王者と成った。無論、腹の内では新王朝を名乗りたいが、大義名分が立たぬので、仕方なく 〔
覇者〕と謂う呼び名を創ったのである。孫権も其の路線でゆきたいと言う。・・・・然し、魯粛に言わせれば、そんな猿芝居は、チャンチャラ可笑しい虚構の上塗りであった。まどろっこしい、以って廻った言い草である。然も現実は、其れさえ困難であった。独自に入手したばかりの最新情報に拠れば・・・・つい先頃の10月、官渡の決戦に於いて、曹操は袁紹を大破し、致命的大打撃を与えたと言う。

「昔、漢の開祖・劉邦が、何とか楚の義帝を盛り立てようとしても果せ無かったのは、楚の将・項羽の妨害に会ったからでした。今日に例えれば、曹操こそ項羽の如き存在!
孫権殿が如何に桓公・文公たらんとしても、曹操在る限り、到底それは叶いますまい。」

「−−!のっけから、厳しい事を申されますなあ〜。 然し確かに、魏の国力・曹操の隆盛は侮り難い。・・・・では魯粛殿は、この孫権には、漢室を盛り立てて覇者たらんとするのは無理、我がこころざし蟷螂とうろうおのだと申されまするか?
              その力無しと断じられるのですかな
!!
若い孫権、いささかムカッとして魯粛に迫る。

「いえ私は決して其の様には申し上げては居りませぬぞ!」よ〜く

御聴き下され!と前置きして、魯粛はズバリと本題に切り込んだ。

「私が密かに考えまするに、
もはや漢王室には
         再建の望みは御座いません
!!
                 
誰もがおそれ多くて口に出せぬ事を、平然と言い切った。

「その力は既に失われて居ります。然し、では、曹操を早急に取り除くが出来るか?・・・・と問えば、是れも亦、不可能と謂わざるを得ません。」

孫権の膝が、思わずにじり寄る。
               
「漢室すでに亡びんとし、曹操打倒も叶わず・・・・ そうであれば、其処に導き出される答えは唯一つ!畢竟、孫権仲謀の採られるべき道も亦、唯一つ・・・・・此処。江東の地に根拠を築き、天下に雄飛するの機を窺う外はありません!
 この基本戦略を確立いたさば、おのずと先は開けて参ります。
何故なら、北方の諸勢力は曹操との戦いに明け暮れ、自己防衛に忙殺されて居るからです。この隙を狙って、仇敵・黄祖を亡ぼし劉表を討って
揚州と荊州を足場に、長江全域を支配下に収める。その上で、帝位に昇る★★★☆☆のです。北の曹操に対抗して、南に新しい王朝を樹立されるのです。魏に並び呉帝国★★★を建てられる事です! 是れこそ、高祖皇帝の大業と比すべき方策だと考えます。」

《−−・・・・!!

ギョッとして、眼が飛び出す様な結論である。〔士大夫〕・〔名士〕と呼ばれる誰しもが、多かれ少なかれ、 先祖代々に渡って恩顧を蒙って来た”相手”である。だから国民押し並べて、口が裂けても言えぬ《絶対のタブー》なのだ!それを、いとも簡単に打ち破ってしまったのだ・・・・。【張紘】なら気絶し兼ねず、【張昭】なら大爆発するであろう。【周瑜】ですら言えぬ事である!

それにしても、初対面から強烈な一発であった。歯に衣着せぬ、
ズバリとした物言いである。だが、それにしても、此の当時にしては、余りにも激越な世界観ではある。

《ウム、まさしく傑物じゃ!頼もしき人物じゃ。是れは是非にも儂の
 側に居て欲しい人材だぞ!
         チト過激だが、真実を語って呉れそうだ・・・・!!》

だが孫権、公式には其の魯粛の主張を肯定し得ない立場に在る。

「いやあ〜、何とも含蓄の有るお話を伺った!・・・・だが、私が此処で頑張って居るのも、漢室を救わんと思えばこそだ。其処までは、とても及びも着き申さぬ。然し、眼から鱗の思いじゃ・・・・!」

「ハハハハ・・・・!何せ私めは、
自称”〔名士ですから、
 世に失うものを持ちませぬ。
       我が方策を採るも採らぬも、孫権様の御心ひとつ!」

生来が豪放闊達な魯粛である。そこら辺の、取り澄ました名士達
とは訳が違う。その性向は、若い孫権にも共通する。

「いや、心底、気に入ったぞ魯粛殿。頼む! 是非これからも永く此の孫権の力と為って下され!この通り、頭を垂れて御願い申し上げまする!」
「いえいえ、この魯粛の方こそ、我が意を汲んで下さる大きな主君に巡り会えたと、今、改めて感じ入って居りまする。」

「おお、では、我が頭脳・我が片腕と為って下されるか!?」


「歓んで此の微才・微力を孫権殿に捧げましょうぞ!」

「よう〜し!では改めて我等2人の門出の祝杯じゃ! 呑もうぞ、
 大いに呑もうぞ、魯粛殿!」


−−かくて孫権は、魯粛を、みずから採用した第1番目の重臣とした。今後、この主従は無二のものとして、肝胆相照らす仲と成ってゆくのであった。それは恰も、孫策時代の周瑜との関係に等しい、深い信頼と圧倒的な重みを持った絆を形成していくであろう。 周瑜が勧めた此の〔ムコ取り〕が、如何に正鵠を射たかは、のち孫権自身が周瑜にこう述懐している。
私が心を通わす事の出来るのは、
                君と魯粛だけだ
・・・・。』

但し、魯粛ーー帷幕に出仕するや、 ”本物”の「名士」達からは、おいそれとは受け容れて貰え無かった。・・・・そもそも知識人としての素養が、全く足らないのである。教養指数は、とても名士として合格出来るレベルには無いのだった。その上、魯粛生来の性格が又、開けっ広げで野放図と来ていた。 若い癖に態度だけはデカイ!と映ってしまう。ガサツで傲慢な奴と取られてしまう。やがて、徹底的に無視される羽目となる。殊に最長老の重臣張昭からは嫌悪の対象とされてゆく。
ーー謙下けんかリズ・・・・の1言で片付けられてしまう。又
年少ニシテ鹿鹿ナレバ、いまもち不可べかラズ!』
・・・・と進言にまで及ばれてしまう。それに対し、周瑜だけは、魯粛ハ智略、任ズルニ足ル!』 とし続けて呉れた。無論、孫権は魯粛を重く用いる。が、魯粛自身は大変だ・・・・



是れを契機に、孫権は自ずから積極的に人材を求め始めた。と云うよりそれだけが今、彼に求められる唯一の政務だとさえ言えた。幸いにも、これに専念し得る環境が、内外ともに整っていたのだ。

国の外との関係では・・・当面、呉に直接脅威を与える様な勢力は見当たら無かった。長江を挟んで直ぐ北方に在った【
呂布】【袁術】は既に亡く、【曹操】は官渡に於いて大勝した直後で、なお【袁紹】との最終決着をつけるべく、許都に釘付けになっている。
西の【
劉表】には攻勢の覇気見えず、小五月蝿い配下の【黄祖】も先代・孫策によって叩きのめされた直後であった。
内政面では・・・
張昭師傅しふ(最高顧問)とし、軍事は義兄の周瑜に全面的に委ねる事が出来た。あれ程懸念されていた叛乱の火の手も、周瑜が登場するや、丸で嘘の様に自然鎮火してしまっていたのである。ーー兄・孫策が、父の急死直後に政権を引き継いだ時に比べれば、格段に恵まれた環境でスタートを切る事が出来たのである。
 この頃、新たに幕僚として迎えられた人物としてはーー
 
【諸葛瑾】【陸遜】の名が挙げられよう。周瑜や張昭らが、
 名士ネットワークを積極的に活用し、熱心に勧誘、
                      連れて来て呉れたのである。


諸葛瑾しょかつきん−−字は子瑜しゆ・・・・
            諸葛亮孔明の実の兄27歳
   諸葛瑾の馬ズラ 無論、この時点では未だ、孔明は世に出て居無し、ましてや〔蜀の国〕など影も形も無かった。
(※ 既述の如く、諸葛兄弟は戦禍を逃れて、揃って荊州を目指したのだが、年老いた母親の足では長旅は出来ず、長男の諸葛瑾の方だけは、已む無く近場の江東の地に落ち着いたのであった。)
だが此の後、ほど無く・・・・「蜀の劉備」との同盟関係を結ぶ上で、この諸葛兄弟の存在は公私に渡り大きな信頼のパイプ役と成る。
 孫権は識らずして、眼に見えぬ〔蜀〕との潤滑油を得ていた事となる。天の配材と謂うべきか、はたまた諸葛一族の遠謀と謂うべきか??
   (※ちなみに弟の【諸葛誕】は魏に出仕し、結局一族は、
                           魏・呉・蜀のいずれにも人物を送っている。)

ーー『
正史』には・・・・
容貌ようぼう 思度しど 有リ、時ニよりテ 其ノ弘雅こうがニ服ス。
徳度とくど 規検きけんもっテ 当世ニうつわトセラル。
ーー
堂々たる風貌で、度量が広く、実直。仕事は慎重で、
                  孫権も深く彼を信頼した
・・・・とある。
その実直な人柄が、自然と表に滲み出て来る様な、慎み深く温厚な人物であった。
諸葛ハじんあつク、天ニのっとリ、物ヲカス。
       清論せいろん比蒙ひもうシテ、もっぶんヲ保ツ有リ
。」
彼のお陰でを保てたのはあのいにしえ狂直きょうちょく虞翻ぐほんであった虞翻は、『性、疏直そちょくにして、しばしば酒のしつ有り』と云う大学者だが、相手の無教養さをストレートに馬鹿にする人物であった。又、戦艦同士が鉢合わせした時、相手の「麋芳びほう」に対し、 「主君を寝返り、忠と信を忘れて投降したお前がどく★★のが筋だ!」と相手を傷付けてしまう。 (どこかしら、例の【禰衡でいこう】に似た気質が窺える。もし禰衡が自由奔放な呉国に流れ着いて居たなら、彼の寿命は可なり延びたに違い無い?) そんな虞翻だが、
彼の本質を温かく見て呉れる人物も居た。 2張の1人、張紘は、孔融への手紙の中で、『
美宝を質と為さば、彫摩すれば光を益す。以って損うに足りず』と書き、悪評を気にして居無い。
 然し、或る酒宴の席で、孫権が張昭と神仙の話題を論じている時、既述の如く、「そいつ等はみ〜んな、ただ普通に死んだ奴等ですぞ。それを神仙などと語るなど、どうかして居りますな!土台、此の世にゃ、仙人なんて者は居やしませんさ!」と、やってしまった。それ迄にも幾度もキツ〜イ皮肉をかましたり、度を越した批判をしていた為、プッツンしてしまった孫権によって交州へ流刑にされた。その際、死罪と為らなかったのは、諸葛瑾の必死の弁護が有ったお蔭だったのである。【虞翻】は、語る内容が如何に正論であっても、その態度や物の言い様次第では、身を亡ぼすーーとの例えに使われる人物である。そんな憎まれっ子の虞翻でさえ認める様な、”穏やかな人柄の諸葛瑾”と言えようか。


面長めんちょうニシテニ似タリ・・・・・
顔はロバの様に面長おもなが馬ズラであった

のちの或る日・・・・孫権は宴席の座興として、1頭のロバの顔に「
諸葛子瑜」との札をブラ下げ、一座の笑いを取ろうとした。すると息子の【諸葛かく】が席を立ち、札の4文字の下に「」と加筆して父親を笑いの対象からロバの所有者に変えてしまった。この息子の諸葛恪も、なかなかの人物で、孫権から、「お前の父と叔父(諸葛亮)とでは、どちらが優れていると思うか?」と問われて、直ちにこう答えている。
わたくしノ父ヲバ、まさレリトス。わたくしノ父ハつかウル所ヲ知ルモ、叔父しゅくふ(諸葛亮)ハ知ラズ。これもっテ、まさレルト。』・・・・ちゃんと主君を好い気持にさせてしまう。

それにしても、衆人の前で〔馬ズラ〕を笑いの種にされても、してもどちらも一向に気にもしない、しっかりとした主従の関係が出来ていた・・・・と云う事である。ーーのち、〔蜀〕との対立期が訪れると、孔明との兄弟関係から、敵に内通しているのではないか?との猜疑心を持つ者も在った。が、孫権は言下に否定するばかりか、彼への揺るぎ無い信頼を表明する。

私と子瑜とは生死を超えて、変わらぬ誓いを
 結んでいる。彼が私を裏切る事の無いのは、
 私が彼を裏切る事の無いのと同然である!


文官としては勿論、時に武官としても重大局面に赴くなど、生涯、その誠実さを以って、呉国の為に尽す重臣となる・・・・。



陸遜りくそん−−字は伯言はくげん・・・・元の名は「陸議りくぎ」と言ったが、改名の理由は定かでは無い。
 若き陸遜の肖像 弱冠
17歳 (孫権は18歳)
だが、将来を嘱望される
呉の4姓と呼ばれる在地名士連合の盟主であった。謂わば、地元豪族の顔と言えよう。
この、〔呉の4姓と孫家との関係〕は、兄・孫策が「陸康りくこう」を討った事に因り、敵対状態となっていた。当時の上司であった【
袁術】の命令とは言え、特に「陸氏」との深い亀裂は、兄・孫策の代では遂に氷解できずに、大きな課題と成って残存した儘であった。陸康が討たれ、一族の半数(壮年男子の9割)が犠牲となった時、残った者達を率いて難を逃れさせたのが、時に13歳陸遜であった。

陸氏をはじめ〔呉の4姓〕の居住地域は、
呉郡会稽郡と云う国の中心部に在る。国内を充実すべき此の時期に、その中央部に、この様な危弱な不安定要素を、放置して置く事は出来無い。かと言って、武力で制圧するのは、余りにバカバカしい。
 そこで頼りに成るのは、やはり
周瑜であった。地元では、陸・顧・朱・張の4姓に優る、名門中の名門である。直接的な悪感情も無い、中立的な立場にも在った。両者の間に入り、仲介の労をとり、【陸遜】への出仕を促した。 ーー〔呉の4姓〕とて、もはや孫氏を「成り上がり者!」などと言っては居られ無い程に、両者の実力には大きな差が生じていた。いつ攻め亡ぼされるかと片時も気を緩めず、臨戦態勢を採り続ける緊張の日々は、筆舌に尽し難い苦痛であった。そうした事情が決定的要素ではあったが、周瑜の誠実な人格が、両者を安心して会談の席に着かせた。

出仕すると、若いが
陸遜りくそんには〔軍政の才〕が光った。12、3歳の頃より、一族の命運を背負わされて来た、その艱難辛苦かんなんしんく伊達だてでは無かったのである。最初の任務は、軍用米の徴収と云う地味だが重いものであった。・・・立ち上がったばかりの孫権政権を甘く見て、米を隠匿し、供出に応じない地域の豪族も多かった。然し、こまめに動き、熱心に説く4姓の盟主に、徴収量も増え、その任務成績は眼を見張る程になっていった。
この頃、会稽かいけい郡太守の「
淳于式じゅんうしき」が、『陸遜は不当に人民を徴用して居りまするぞ!』 と、訴えて来た。孫権は陸遜を呼んで問い正した。すると陸遜は己への弁明をする処か、逆に淳于式を誉める言辞を述べるのであった。
「彼は君を訴えて来たのに、なぜめる?」
「彼は、自郡の民を守ろうとしたのです。もし私が彼の悪口を言っ
 たりすれば、中傷合戦が起きるだけで、国の為になりません。」
−−
誠ニ長者ノ事ナリ!・・・・と、孫権は感嘆した。

次いでの任務は、
山賊の討伐であった。是れは陸遜が最も得意とする分野であった。国を東奔西走しつつ会稽山番卩陽湖はようこあたりに跋扈ばっこする匪賊ひぞくや各地の土賊を、次々と平定した。
彼の率いる討伐隊は、統率がとれ戦術も巧みで、陸遜の名は大いに上がった。その功により
定威校尉=連隊長に任命され、「利浦」に駐屯した。此の頃、地方部隊長会同の席で、陸遜は孫権を前にして、「粛軍計画」と「精兵厚遇策」を、理路整然と力説してみせた。孫権は改めて彼に注目し、その才と人物を認めた。
そこで、自分のめい(兄・孫策の娘)を妻にめとらせ、親族の一員として中央で重く用いる事にした。無論、過去のわだかまりを一気に氷解させる為の、政略結婚でもあった。又、もう1人の姪も
顧召卩こしょうに与え在地の名族である陸氏りくし顧氏こしと婚姻関係を結び、その政権基盤を一気に揺るぎ無いものとしたのである。・・・・かくて親子2代に渡った、地元4姓との確執は、此処に清算され、氷解の時を迎えるのであった。

この
陸遜伯言−−のち、関羽を倒し、劉備の総攻撃を
夷陵いりょうの戦いで撃破してしまう程の、名臣・名将へと育ってゆく。 但、その最期は・・・・晩年に狂乱する孫権により、悲劇的なものと成っていく・・・・。

こうして孫権の帷幕は、更に人材が加わり強化されていった。

〔超保守派〕として最右翼には張昭が控え、〔超急進派〕として
最左翼に
魯粛が参画した事に拠り、呉の戦略上の選択肢の幅が一段と大きく広まったと謂えよう。・・・それは、新君主が道を誤る確率を著しく低減させたとも謂い得る。新旧のバランスが執れ、それを調整補完する機能として、要の位置周瑜が居て呉れる。周瑜には、天才肌の人間に有りがちな〔独善〕と云うものが無い。協調性に富んだ人格は、家臣団の団結を最優先して重視して呉れる。新米の君主孫権仲謀にとっては誠に有難い環境と言えた。



徐々に自信を着け、生来の覇気を取り戻した孫権は、武将の登用にも意を注いだ。中でも異色だったのはーー あの 《悪ガキ》・・・【呂蒙】・・・・である。彼を部将として抜擢した事であろう。

呂蒙りょもう−−字は子明しめい・・・・
                     筋金入りの
悪ガキであった。
 兎に角、物心付いた時から
”3度の飯より喧嘩が大好き!”と云う荒くれ者。その暮らし振りは正に極道そのものだったが、 ガキンチョの癖に勇敢で、戦さともなれば滅法強い。(第73節に既述)・・・・そんな風聞が孫権の耳にも入って来た。そこで孫権は先ず、其の悪ガキを生粋の叩き上げ軍人である
黄蓋に付け、武人としての男を磨かせた。
黄蓋こうがい」は、若い頃〔孝廉〕に合格する程の才人でもあり、【程普】
に次ぐ最長老であったが、単に勇猛なだけの人物では無かった。その軍規・軍令の厳しさも然る事ながら、その猛訓練振りはつと
全軍に鳴り響いていた。悪ガキは其の黄蓋に、実戦部隊の
指揮官候補として、容赦無くビシビシ鍛えられた。普通ならアゴを出してへたり込む厳しさなのに、 この悪ガキだけは涼しい顔をしてルンルン気分。平気の平左で物足りない風情・・・・。流石の黄蓋も舌を巻く タフネス振りであった。
 但し、直属上司の「黄蓋」は、厳しいだけでは無く、部下を愛する事、その面倒見の良さに於いても、兵士に慕われる事、尋常では無かった。己の私財を割いて迄も、兵卒の1人1人を思い遣る・・・
姿貌厳毅しぼうげんきニシテ、衆ヲ養ウニ善ク、つねニ征討スル所、士卒 皆 争ッテ先ヲ為ス。官ニ当タリテハ決断シ、事 留滞無シ。国人、之ヲ思ウ。
・・・・いつしか悪ガキも、そんな黄蓋に感化薫育くんいくされ、イッパシの青年将校らしく成っていく。極道者の看板も、どうやら自分で降ろした様であった。 ーーその”進化”を聞いた孫権は、仕上げとして、今度は呂蒙を
軍政家として育てるべく、周瑜靡下きかに転属させた。周瑜は呂蒙の覇気を見込んで、のっけから1軍を与えて任せた。予見に違わず、呂蒙は見る見る勇将・猛将としての頭角を現して来た。重大な戦いに於いて、先鋒を任せるに相応しい部将へと成長していく。
ーーが、惜しむらくは・・・・
   〔完璧な勉強嫌い!
   〔
漢字アレルギー!
   〔
文字嫌悪症候群!
                              ・・・・であった!!
「武将に文字など要らんワイ!殺し合いに文字のドコが役に立つ?眺めただけで虫酸が走るワ!俺っち、勉強ダ〜イッ嫌い!!」と公言してはばからない。

《−−惜しい!!是れでは、何時まで経っても、俺の単なる手駒の1つに過ぎ無い。この武勇に見識が備われば鬼に金棒、”軍政家”として、いずれ国を託せる人物とも成ろうものを・・・・。》
その呂蒙の潜在能力を、彼方此方あちこちに見い出した【周瑜】は、一計を案じた。 主君・孫権を直接登場させる事により、呂蒙の自負心・負けず嫌いを擽ろうと云うのであった。周瑜の1配下に甘んずるのでは無く、呉国の重臣として、君主から期待されている事を自覚させ、発奮させようとしたのである。 彼の上に、そうした人間が居て呉れたのは、呂蒙の幸運と言える。
「君主・孫権は、周瑜の勧めに従って、その呂蒙を謁見説諭する事にした。呂蒙1人だけでは叱責と受け取られ兼ねないので、古参でやはり武辺一点張りの蒋欽を共に呼んだ。
「そなた達は、今や重要な地位を占める一廉ひとかどの武将と成って呉れた。だが、更に大きく成って欲しいと思う。武芸だけでは無く学問を修め、自らを磨き、啓発しなければなるまいぞ!」
すると呂蒙の腹の中に、ムクムクと悪ガキの根性が、頭をもたげて来た。いかにも面倒臭そうに言ってしまう。
「私め、何ぶん軍務多忙な身でして、本を読んだり、字の練習なぞにカマけて居る暇など有りませんな!」

そんな呂蒙に対し、若い孫権は色を為すと、語気を強めて言った。
孫権18歳呂蒙22歳である。
「何も学者に成れと言うのでは無い!此処ぞ、と云う学問の精髄エッセンスだけを把握し、過去の例を学んで欲しいのだ。先ずは1軍の将として、何処に出しても恥ずかしく無いだけの教養を身に着けて欲しいのだ。忙しいと言った処で、この私と比べてどうであるか?余ほどでは在るまい!?」
主君から、そう言われれば、グウの音も出ない。

「余は若い頃、陣中に於いても詩経・書経・礼記・左伝・国語などの古典を、片っ端から読んだものだ。易経だけは例外だったがの。
兄の跡を継いでからも、戦国策・史記・漢書・の3史と重要な兵法書を読んで、大いに啓発されておる処だ。
 そなた達には素質が在る。必ずや勉強しただけの事は有る筈だと思う。何はともあれ、兵法書では孫氏・六韜、史書では左伝・国語、それに3史を読むが良い。孔子様も 『
寝食を忘れ、夜も昼も一日中、独りで思索に耽った処で、大した智恵が湧く訳では無い。やはり進歩を得るには読書により、先人達に学ぶのが早道だ』と申されているではないか。光武帝は陣中でも書物を手放さなかったと言うぞ。現代では曹操とて勉強家として知られ、『歳を取っても学問は好きだ!』 と申して居るそうじゃ。 そなた達だけが、軍務多忙と言って安穏として居て良いものか・・・そなた達は未だ若い。頭も悪く無い。きっと勉強した成果は現われる。余はそう思う故に、そなた達を呼んだにじゃ。余はそなた達に大いに期待すればこそこんな苦言めいた事を申して居るのじゃぞ。そこの処を、よ〜く考えて呉れ。しっかりやって欲しい。そしていずれ、余の右腕、左腕と成って呉れ!頼んだぞ・・・・!!」

こうまで主君に見込まれて、言われた呂蒙ーー此処はもう、その期待に応えて”男に成る”しか無い。

奮起一番・・・・人が変わった様に、勉学に取り組んだ。文字すらろくに読め無かった悪ガキは、夜も日もたゆまず独学し、学び続けた。他人に頭を下げ廻っては、教えを乞うた。
 元々才能は有った。誰にも有る。気力も人一倍ある・・・・次第に学問・兵法そのものが面白くなる。更に欲が出、倦む事なく書物を読破していったーーやがて、
呉の阿蒙あもうと、半ばさげすまれて呼ばれていた悪ガキは・・・・成り上がり名士の「魯粛」なども及ばぬ程の、素養・教養を持つ大戦略家へと変貌を遂げる。
初メハ軽果けいかニシテ、さつみだリニストいえどモ、ついおのれツ。国士ノりょう有リ。ただニ、武将ナルのみナラン    −−(陳寿評)ーー
周瑜病没後の事ではあるが・・・・後任の司令官として前線に赴く
魯粛が、途中で呂蒙の幕舎を訪れた。魯粛は、悪ガキ時代の呂蒙しか知らずに、両者すれ違いの任務が続いていた。
酒が巡り、宴もたけなわの頃、魯粛は
呂蒙に尋ねられた。

「先輩は周瑜殿に代わり、蜀将・関羽と隣接する地に赴かれるとか万一に備えて、如何なる方策をお持ちですか?」

「臨機応変、その時に応じて適当にやる心算じゃよ。」

野放図な処のある魯粛は、適当に答えておいた。

「今、呉と蜀は表向きは一家を成しているとは申せ、関羽は熊か虎の如き恐るべき相手と推慮致します。あらかじめ計略を立てて措くべきでは御座いませぬか。」

《−−おや、こいつ・・・・?》
思わぬ悪ガキの言葉に驚いて居る魯粛の前に、呂蒙は理路整然とした5つの具体策を提示して見せた。(史料には、其の5項目は残って居無いが。) 其れを聴き、感じ入った魯粛は呂蒙に近づくとその背中を叩きながら言った。

「いやあ〜、見直したぞ呂子明どの!是れまで武辺一点張りの、実戦だけの男だとばかり思っていたが、何時の間にやら、ドエライ博識ぶりじゃ!是れ程、智謀遠慮の御仁だとは夢にも想わなかったワイ。昔の悪ガキ、何時迄も、〔呉の阿蒙ちゃん〕呼ばわりは出来んわな・・・・!!」

それに応えて、呂蒙は言ったものである。

「士たる者、別れて3日経てば、よくよく目を見開いて、
                     相手に接せねばなりますまい。」
ーーノ背中ヲチテいわク、
われ おもえラク、大弟だいていただ 武略有ルのみト。今ニ至リテハ、学識英博、タ 呉下ノ旧阿蒙きゅうあもうあら』 ト。 曰ク、『、別レテ三日さんじつすなわ更々こもごも刮目シテ 相侍あいじ』 ト・・・・。
 【孫権は述懐する。
『晩学のなかでも、呂蒙や蒋欽しょうきんの様に、目覚しい進歩を遂げた者は在るまい。既に富貴を手にした後で、よくもまあ、人に頭を下げて、学問をしたものだ。地位や財産より真理を学ぶ・・・・出来ぬ事だ。そして今や2人ともに、国に掛け替えの無い人物と成って呉れた。誠に見上げたものじゃ・・・・!』  そして、こうも評した。

子明りょもうわかキ時ハ、(自分)劇易げきえきヲ辞セズ、果敢ニシテきも有ルのみおもエリ。身ノ長大スルニ及ビ、学問開益シ、籌略奇至ちゅうりゃくきしニシテ、もっ公瑾しゅうゆニ次グベシ。但ダ言議ノ英発ハ、之ニ及バザルのみはかリテ関羽ヲ取ルハ、子敬ろしゅくニ勝ル。』

ちなみに、
呉下ごか阿蒙あもう−−昔の儘で進歩の無い人物の事・・・・を指す様になる。筆者もチト耳が痛い。
刮目かつもく 深い関心を持って観る事・・・の語源★★出典★★となる。

この
呂蒙りょもう 子明しめい】→やがて、その智謀によって、天下の名将・『関羽』を捕え、終に其の命を絶つ人物となる・・・・。
勇ニシテ謀断ぼうだん有リ、軍計ヲ識ル。赤卩普かくふあざむキ関羽ヲとらウルハ、最モ其ノみょうナル者ナリ。(陳寿)


 処で、呉の人材登用に関する”余談”だが・・・・

呉 (江東に地) へ仕官する覚悟の有った者達は、きっと密かに、事前学習として、【呉国語】を習って居たのではないか??と思われる。そう想うと、少し愉快ではないか。
言語研究者によればーー
 
江東・呉の言語体系は、明らかに北方と異なる筈だと言う。少なくとも方言”は強烈で、
    外来者にはひどく支障になった
 筈だとおっしゃる。

−−と、なると・・・例えば、周瑜が北来の名士を口説く時、言葉が通ぜず、パントマイムで汗みずく、「
筆談」に頼る・・・・では、絵にも成らない。それともーー周瑜が人望を集めた原因の1つに、実は周瑜が〔北方の言語〕に堪能であったから・・・・と云う事も考えられなくも無い。もっと無粋で興醒めした観方をすれば、呉の帷幕では大議論の席には、実は幾人かの《同時通訳》が居た?・・・・なんて事は・・・・無いか?ーーいやいや、通訳が居る事が”当たり前であった”故、史書には当然過ぎる事として、イチイチは記され無かった・・・・??
 情報伝達・マスメディアが発達した現代でさえ、広大な中国の人々は、北と南・東と西では、必ずしも話しが円滑では無いと聞き及ぶが、三国時代は一体どうだったんで有りましょうや??
 いずれにせよ、この
言語(特に呉国語)の問題はーー
群雄会同の場面や、英雄同士の緊迫した名場面が、一転、微笑ましく成ってしまうかも知れぬ程の、興味深くも、
未知の分野では有ります。
文字による表現と、日常会話とが、全く異なる事は縷々ある。少なくとも、方言・訛りは強烈であったと想う。
 然し、小説はバイリンガルで書かざるを得無い。中国の英雄達に本邦風の大阪弁や東北弁などを適用して喋らせる訳にはゆくまい
 だが、それに近い状況が在ったかも知れぬ・・・・ と想像すると、チョイと愉快ではある。  (チャンチャン♪♪)

 ま、筆者がこんな余談を言える程に、孫権の新政権は、
どうにか少しずつ、
余裕やゆとりが出て来た・・・・と云う事ではある。その
呉国の屋台骨をひとえに支えて居るのは
なのか 【第128節】 芳醇なる酒  (誇り高き男) →へ