【第124節
    遙かなる旅路

                                       知られざる孫権像




   呉の国の勃興は天時地利人和の三者を基礎としていた。
    所謂いわゆる荀子じゅんしの 〔其の三を合わせた〕 ものであった。
    その滅亡の時には、 〔其の三を舎てた〕 ものであった

                                     ・・・・(弁亡論)

    国が興ろうとする時、【君主】は民衆の意見に聴き従い
    国が亡びようとしている時、
神の言葉に聴き従うと謂う
                                    ・・・・(呉世譜)

   −−果たして、そうか・・・!?


   兄・「孫策」の跡を継いだ『孫権』に、此の言辞は本当に当て嵌まる
   のであろうか・・・!? この《第124節》では、本編に先廻りして、
  【孫権仲謀後半生に対する、
                           人々の評価を総攬して措く。
    孫権の肖像
さて時局の推移だがーー

 赤壁の大決戦を転換点に・・・天下は3分され所謂、
 2対1の
三国時代に突入してゆく。 (第U部以降で著わす。)

その赤壁戦から10年後の219年・・・・
【呉】の孫権はついに、【蜀】の守将・「関羽」の首を、わざわざ【魏】に送り届ける。その孫権の行為に対する、魏の評価。先ず、「鐘遙」の評。
『孫権について思うに、実際ますますこびヲ含ミテ可愛ラシク見ユル也。
『もし孫権が再び狡猾こうかつニ立チ廻レバ、汝南の許劭きょしょうが毎月ついたちに行なった人物評
(月旦評)によって、叩いてやればよい。孫権ハ2国ノ間ヲ泳ギ廻リ荀宏じゅんこう・許劭ニメラレタリけなサレタリシテ居レバ、ソレデ充分ナ男ダ
・・・・と曹丕に揶揄やゆされる。                   〔魚拳ぎょけん・魏略
それでも尚、【魏】の圧倒的な国力を前にする孫権は、恥を偲んで(臆面も無く)、魏の属国(藩国)と成る事を書簡で申し込む。その孫権の態度に対して、今度は魏の
劉曄りゅうようが拒絶を進言する。
孫権ハ戦ニ通ジ、策略ヲ観ルニ敏。変化ヲわきまエル者ナリ。 
                                    〔
傅玄・傅子ふし
220年・・・・(関羽の怨念で?)曹操没し
曹丕が帝位に就いた(漢の滅亡)直後、曹丕が軍師・
言羽 かくに【呉】の評価を諮問する。
孫権、真偽しんぎヲ見抜ク見識ヲそなエ、
       陸議
(陸遜)が軍事情勢を見守って居ります。正史・賈ク伝
221年・・・・40歳を迎えた孫権は、魏皇帝から呉王に封じられ、答礼の使者として趙咨ちょうしを送り出す。〔魏帝〕は〔呉王〕の主君ぶりを尋ねる。其れに対する家臣からの評価。
   『
 ーー無官の魯粛を見い出したのが 《》、
      ーー兵中より呂蒙を抜擢したのが 《》、
      ーー于禁を捕えるも殺さず釈放したのが 《》、
      ーー無血で荊州を手に入れたのが 《》、
      ーー江東に拠りつつ虎視眈々と天下を窺う。
                 是れ即ち、呉王の
 《なり
      ーー身を屈し陛下に臣事するは、
                     是れ呉王の
 《なり。
                                   〔
正史・孫権伝
同じ場面を、〔
韋昭の呉書〕ではこう記す。
魏の文帝は使者の趙咨ちょうしを好ましく思い、半ばからかって言う。
「呉王は少しは学問が解るのか?」
 それに対して趙咨も即妙に答える。
「呉王は長江に1万の戦艦を浮かべ、甲冑かっちゅうを着けた兵士100万を率い
られ、
けんヲ任ジのうヲ使イ、こころざし経略ニ存シ、 余間よかん有ラバ書伝歴史ヲ博覧ストいえどモ、奇異ナルヲ藉採しゃさい(注目)スルのみニシテ、諸生しょせいしょうヲ尋ネ、のみナルニならワズ。   −−以下、2人の問答。
わしが呉を討伐できると思うかね?」
「貴国には征伐の軍が御座居ましょうが、
                    弊国にも防禦の固めが御座居ます。」
「呉は魏をはばかって居ろうの?」
「甲冑の兵士100万が居り、長江と漢水とを堀と致して居りますのに、
                何で憚かったりする事が御座居ましょうや。」
「呉には大夫
(趙咨)ぐらいの人物は、何人位おるのじゃ?」
「聡明にして飛び抜けた見識者が8、90人。わたくし程度の者でしたら車で
  運び、一斗枡で計るほど居て、数え切れるものでは御座居ませぬ。」


その翌222年・・・・魏の人質要求(任子にんし)に対して、何時まで経っても言を左右にし続ける孫権の強かさに対し、魏の三公(太尉の言羽・司空の王朗、司徒の音欠きん) は、連名で上表して述べる。
・・・(略)・・・呉王孫権ハ幼豎小子ようじゅしょうし尺寸せきすんノ功無く、兵乱ニ遭遇シ、父兄ノしょニ因リテ、わかクシテ翼卵よくらん日句ふくノ恩ヲこうむリ、長ジテ鴟梟しきよう反逆ノせいヲ含ミ天施てんし背棄はいきシテ罪悪ムコト大ナリ。・・・・(中略)・・・・犬羊けんようノ姿ヲシテ、
虎豹こひょうもん横被おうひシ、ちからはかリ死ヲいたスノせつヲ思イテ、無量不世むりょうふせいノ恩ニむくイズ。
 (中略) 江湖こうこまもりニ拠リテ遮外しゃがいシ、地勢険阻けんそナルヲたのンデ服セズ、現状ヲ世代ニかさネ、詐偽さくいリテ成功ヲはかルモノなり

呉王の孫権は洟垂れのコワッパで、本人には少しの功績も無いのに、父や兄の遺業のお陰で、親鳥が卵を温める様に篤い皇帝の恩を受けたくせに、年を経るとフクロウの如き叛逆の性を内に含み、天の意志に背いて悪事ばかりを積み重ねて来た罪は大きい。・・・元々は犬や羊程度の資質なのに、虎や豹の紋様で虚飾し、力を尽くして命を投げ擲つ忠節を示して、その皇帝の恩に報いようなどとの心は全く無い。 長江や湖沼を自然の要害として鎖国し、 その地勢が険阻の事を利用して降伏せず、実質上の独立状態を保ち続け、我が皇国を欺き通す事に因って、いずれ己の野望を達成する心算なのである。         ーー〔魏略〕ーー

その翌年の223年劉備】が没する(永安の白帝城)と、 孫権は又懲りもせず、劉備への弔問使・「馮熙ふうき」を魏に立ち寄らせ先制ジャブをかます。
「呉王様は、大きな度量と聡明さとを備え、人材を任用するのに長じて居られます。施策を実行に移し、戦役を起こすに当たっては、事々に人々の意見を徴され、賓客や他国の者を礼を以って手元に養われ、賢者に親しく接し人材を慈しまれ、仇敵であった者も差別する事無く恩賞を与えられますが、罪有る者には必ず罰を下されます。臣下達は皆ご恩に感じ御徳に心を引かれ、ひたすら忠と義とに励んで居ります。武装した兵士が100万、食料と衣料とは山と積まれ、稲田と沃野とが広がって、人民達が飢えに苦しむ様な歳は御座居ません。所謂、金城湯池の富強の国なので御座居ます。
臣の観まする処、貴国との勝敗は、どちらとも決め兼ねまする。
                              ーー〔
韋昭の呉書〕ーー

この時、孫権仲謀44歳・・・・40代迄の彼は、君主として、まずまずの合格点、寧ろ英主と謂われても不可しくは無いであろう。

・・・・
処が、50歳を過ぎる頃からオカシクなる・・・・。

先ず、
の問題》が顕在化して来る。

については酒豪〕を通り超している・・・・
                                                (冷や汗タラ〜リ)
40歳の時、建国以来の念願であった荊州内に新城を築く。
長江中流、江夏こうか郡 (柴桑さいそうと赤壁の中間点)に、それまで「がく」とよばれていたのを改称して『
武昌ぶしょう』を築いた。・・・・その折、無類の酒好き君主はチャッカリ、長江に張り出した〔酒飲み台〕を構築させている。口五月蝿い世間(諫言者)の手前、『り台』と称させはしたが、隠れも無い、レッキとした(銅雀台の向こうを張った?)大宴会場・娯楽の殿堂である。
『孫権は武昌に在った時、長江に臨んだ釣台しゃくだいに出御して、酒宴を開き
大いに酔っ払った。孫権は酔った臣下どもに水をブッ掛けさせて★★★★★★☆☆☆目を醒まさせると、大声で宣言した。
今日は思いっきり飲んで、呑んで呑んで呑み捲くり、酔っ払って台から転げ落ちる迄、絶対やめんぞ〜!
ーーかくて破茶滅茶なドンチャン騒ぎで大盛り上がりする中、
張昭
キッとした顔付を見せると、モノも言わず、その場を退出し馬車の中に座って居た。 
(これ等の状況から勘案するに、此の《釣台》・・・・どうやら「銅雀台」の様な豪壮華麗な高楼では無く、もっと野趣溢れた?露天ないしは大雑把な、文字通りの石垣の台地だった可能性が強い。又、張昭とて決して下戸では無い。若い頃は痛飲したものだ。そもそも此の時代、酒が飲めなくては大臣も勤まらない。)
孫権は人を遣って張昭を呼び戻させると、
(ややオドオドしながら?)言った。
「皆で一緒に楽しもうとして居るだけなのに、公はなぜ、無粋顔ぶすいがおに腹を
 立てるのじゃ?」 張昭は例の仏頂面ぶっちょうづらで答えて言った。
「むかしちゅう
 (殷の暴君)は、さけかすの丘、酒の池を作り(酒池肉林)、長夜の飲を
致しましたが、その時にも、楽しみの為にやっているのだと考え、悪事を行なっているなどと考えて居りませんでした。」
 孫権は口をつぐみ、バツ悪げな顔をすると、そのまま酒宴をやめた。』
                            −−『
正史・張昭伝』−−
その日はやめたが折しも【呉王】に任じられた時期で、それを祝って(魏に降伏して、臣下に格下がったのだから祝う処では無いのだが)連日連夜の大宴が開かれる。何にでもかこつけて酒盛りをするのが、酒呑の酒呑たる所以ゆえん
あろう。
孫権が呉王に任ぜられると祝宴を張ったが、その宴会も終りに近づく頃、孫権自身が立ち上がって酒を酌いで廻った。この時、虞翻は床に倒れ伏して酔っ払ったフリをして、杯を受け取らなかった。孫権が彼の前を去ると、虞翻は身を起こしてキチンと座り直した。孫権は是れを見て大激怒。剣を手に執り斬りつけようとした。その座に在った者達はみな動転してしまったが、大農の劉基だけは立ち上がって孫権を抱き止めると、諌めて言った。
「大王様が酒に酔って立派な人物を殺したりすれば、たとえ虞翻に落度が有ったとは雖ど、広い世間の誰が其れを分かって呉れましょうぞ。かてて加えて、大王様が賢者を受け入れ、人々を善く養われると謂う事で、全世界が遙かに仰ぎ慕っておるのです。いま此処で人々を失望させてしまわれて良いものでしょうや。」
 孫権が言い張る。「曹孟徳は孔文挙すら殺したではないか。
                         俺が虞翻を殺して何が悪い!

「孟徳どのが軽々しく立派な人物達を殺害するについては、天下中が
揃って非難致して居りまする。大王様は、自ずから徳と義とを行なわれ、その盛んさを堯や舜(伝説上の聖王)と較べようとされて居りますのに、
何で御自身を彼などに較べられて善いものでしょうか。」
虞翻ぐほんは、劉基りゅうきのこうした仲裁があった為、死を免れる事が出来た。』
                                   『
正史・虞翻伝

史書だから、こんな品の良い?遣り取りになっているが、現場レポーターによれば、こんなモンでは無く・・・・
「殺す!」・「已めなされ!」・「黙れ、叩っ斬ってやる!!」・「刀をもぎ取れ!」・「何を!貴様も一緒に殺してやる!!」・「ああ、遣れるモンなら
遣って貰いましょう!」・・・・寄って多寡って孫権が喚き疲れる迄、皆で
押さえ込んだとか。 それでも尚、「曹操だって殺ってるんだァ〜。だから俺にも殺す権利が有る〜!!」などと怒鳴り続けたそうだ。

 −−
是れでは最早、完璧な《酒乱》である!!

・・・・然し流石に、二日酔いから醒めて、己の言動を聞かされた孫権は、側近の者達に対して次の様に命じたと「正史」は記す。
今後ハ、酒ガ入ッタ上デ、儂ガ殺スト言ッテモ、決シテ殺シテハ為ラヌ。 また 〔陸機・弁亡論〕 にはーー
酒を3杯以上飲んだ上での自分の命令には効力が無い!ト、宣言シタ  とある。−−自分自身、また何を仕出かすか判らぬと思っている。
    完全な【アル中(アルコール中毒)酒乱】である。

処が、『正史』には未だ続きが有る。
虞翻は人の事は顧慮せず、自分の正しいと思う処を押し通す
性格で、しばしば酒の上で失敗が在った。孫権と張昭が酒を酌み交わしながら論議して居て、話題が神仙の事に及んだ時、虞翻は張昭を指さして言った。
「あいつ等は皆、死人じゃ。それなのに神仙の事をまことしやかに語って
 おる。世の中に仙人なんぞ居るものか!」
(※ これは決して揶揄やゆでは無い。虞翻は名うての論者なのだ。
       当時としては異端に属するが、旧主・王朗の
南岳事件でスッカリ懲りていた。)
孫権は1度ならず虞翻に腹を立てさせられ
(ズケズケと直言されたり、抗命され)、怒りを募らせて居たので、此の事があって、終に虞翻を交州(ベトナム)
強制移住させた。』・・・・終身流罪の刑に処し、ウザッタイ相手を追放してしまったのである。この大人気ない(己を棚に上げての)在り方について、正史は双方をこう評している。
ハ、いにしえ狂直きょうちょくニシテ、もとよ末世まつせいまぬががたシ。しかレドモ、権ノルルあたワザルハ、曠宇こうう(大きい度量)あらザルなり ・・・・確かに、孫策と虞翻との間に醸し出された、あの爽やかで清々しい君臣関係は、最早ここには其の欠片も見られ無い。
 尚、こうして態々わざわざ「正史」にまで採り上げられる位だから、是れ以外にも〔酒乱事件〕は日常茶飯に起きていた筈である・・・・。そんな酒乱の主君には、是非とも見習って欲しい〔酒呑みの代表選手〕・〔呑ん兵衛の代名詞〕が、臣下の中に居たのだが・・・・御記憶であろうか?
−−そう、
鄭泉ていせんであった。酒呑みたる者、飽くまで終生、鄭泉の様にどこか可愛らしくなくてはならない。
 孫権の女禍については、事が複雑で長くなるので、
その詳細は本書・第V部で観る事にするが・・・・まあ何とも物凄い事に
なるのである。悪女のオン・パレードで、出て来るわ出て来るわ、孫権の後宮はさながら、後継問題に絡む、
悪の花園と謂った観を呈する。
 そんな中でも、
三国志上ワースト・ワンの悪女が、結局、呉の国を引っ掻き廻し、破滅へと誘ってゆくのである。が、翻って思えば其れも此れも全て晩節の孫権が蒔いた種ではあるのだ。
 その女の名はーー
孫 魯班】!
                    ・・・・孫権の
(公主・内親王)である。

−−斯様かように、晩年に成ると、孫権の評価はガクンと落ちる。中国に限らず、世界全史にはママ有るケースではあるが、魏の将済には、こう謂われてしまう。
孫権ハ、子ヤ弟ガ危険ナル状況ニ置カレ在ロウトモ尚 行動ハ いた不可べかラズかな。』
同じ晩年の状況を、正史補註の裴松之には、もっと突っ込まれてしまう。・・・・・孫権は、諌めに逆らい人々の意見も聴かず、(遙か1500キロも離れた遼東半島に在る) 公孫淵の気持を確かなものだと信じ、攻撃して来た場合の方策も、寝返りを打つかも知れぬと云う配慮も持って居無かった。九錫の礼物と策命書を届けるのに、1万人もの人数を動かしたりするとは、何と民衆に対する思い遣りを欠き、暗愚暴虐の極みではないか。
この公孫淵への使者の派遣の一件は、

 孫権ガ単ニ暗愚デアッタダケデ無ク、実ハ無道ノ主君デアッタ事ヲ示スモノデアル。

ーー以上、此れまで紹介して来たのは、その折々・場面場面の言動に対する評価であった。そこで最後に〔まとめ〕として、孫権仲謀の全生涯を見渡した《トータルの論評》を2、3紹介して措く。但し其の評価は、真っ二つに分かれている。其の分かれ目となるのは・・・・
亡国の因が、孫権時代に既に在った
                 と、観るかどうか・・・・である。  史実としては彼のあと孫亮孫休と続き、そして孫晧の時に亡びるのだが果たして、いずれが正鵠を射たものと言えるのだろうか? 矢張り、最終的に評価を下すのは、読者自身なのであろう・・・・。

先ずは、批判的な〔辛口評の方から紹介して置く。

孫権がすぐれた人物を養う様を見てみるに、心を籠めてそうした人々の為を計り、そうする事によって、彼等が自分の為に死力を尽す事を期待したのである。例えば、「周泰」が負傷した時には涙を流し、「陳武」が死ぬと其の側室を殉死させ「呂蒙」が危篤になると神々に命乞いをし、
「凌統」の孤児達を養い育てるなど、自ずから細々と心を砕いて、かくの如く努めたのであった。さればこそ、
孫権自身ニハ何ラ評判ニナル様ナ立派ナ徳モ無ク、民衆達ヘノ恩恵ガ取リ立テテ謂ウ程ニ施サレタ訳デモ無カッタのではあるが、荊や呉の地の有力な勢力を屈服させ、長年に渡り勝手に王者として振舞えたのは、考えてみれば確かに其の理由が有ったのである。
 然し、覇者や王者への道には、大きな基礎と遠く迄の見通しとが必要である。ちっぽけな目先の事ばかりに力を尽し、当面の利益ばかりを追い求める事など、したりはし無かった。古い言葉に
(論語)「つまらぬ道であっても、取り柄はきっとある。然し其の道を遠大な事にまで当て嵌めようとすると、恐らくは其れに足を取られる事になろう」 とあるのは、孫権の場合の様な事を謂ったのであろうか。』            −−(孫盛)−−
『孫権は、年老いて精神の張りを失い、讒佞の臣が側に仕え、嫡子を廃して庶子を立て、側室を正室と為した。徳に悖る処が多かったと言えよう。然も天命が己に有る事を示す瑞祥を偽作し、邪神達に福を求めようとした。国の亡びようとする兆しは、顕らかではないか。』 −−(
同前)−−

続いては大御所?の『正史・陳寿評』・・・・
身ヲ屈シテはじヲ忍ビ、才ヲ任ジテ計ヲたっとブ事、句綫こうせん奇英きえい有リ。人ノけつナリ。 故ニみずかラ江東ニほしいままニシテ、鼎峙ていじノ業ヲ成ス。しかレドモ、せい 嫌忌けんき多ク、殺戮さつりくナル事、末年ニ曁臻およビテ、いよイヨもっ滋甚はげシ。讒説ざんせつ 行イヲチ、胤嗣廃弊いんしはいへいス。 所謂いわゆる ノ孫ニのこシテはかルニ 子ヲ燕翼えんよくスル者ナラン。其ノ後葉こうよう陵遅りょうちついニ国ヲくつがえスニ到ルハ、いまダ必ズシモこれラズンバ あらザルなり (確かに英傑ではあるが、晩年には己を見失う様な人物であったから、彼が直接、国を亡ぼした訳では無いが、こんな事をして居れば、いずれ亡国の憂き目をみる事は明白ではないか・・・。)
最後に、擁護派の激賞評を掲げて、18歳の新君主・3代目
【孫権仲謀】君にエールを送って措こう。

孫権は父や兄の事業を引き嗣ぐと、張昭を腹心と
為し、陸遜・諸葛瑾・歩隲を股肱と為し、呂範・朱然を手先と為して、夫れ夫れに適切な任務を分かち職務を与えた。敵方の油断に乗じて隙を窺いつつ、軍を乱りに動かす事が無かったので、戦っても敗れる事は少なく、江南の地は安定したのであった。
・・・・・・『傅玄・傅子
締め括りは、陸機の弁亡論・下と上としよう。

『・・・・
桓王(孫策)が武力で其の基礎を定め、太祖(孫権)が徳によって
物事に通じ、深い慮りは遠くにまで及んだのであった。賢者を追いかける様にして捜し求め、民衆達を稚子の様に慈しみ、人物と接する場合には恩徳に溢れる様子で、仁者に親しむ際には心からの敬愛を傾けて、
呂蒙を兵卒の間から抜擢し、潘濬を捕虜の中から見い出した。誠実な心で以って夫れ夫れの人物を信任し、人が自分を欺くかも知れぬ事など顧慮せず、才能実力ある者には相応しい仕事を与えて、彼等に実権を与える事が自身の権限を制約する事に成るなどとは心配もしなかった。上みずから馬の鞭を執って、へりくだる事によって陸公(陸遜)の権威を増し、近衛兵までも預けてしまう事によって周瑜の軍を勝利に導いた。 宮殿を質素に、食事を粗末にして、功臣への恩賞を厚くし、心を開き謙虚な態度をとって、智謀の士の提案する意見を入れた。それ故、呂粛は1度会っただけで孫権に一命を託し、士燮は険阻な山河を越えて臣下になりたいと願って来たのであった。
 張公
(張昭)の行動を立派だとして、田猟を楽しむ事を少なくし、諸葛瑾の諌めを正しい事だとして、情欲の歓しみを制限し、陸公の建議に感動して刑罰の煩瑣を除き、劉基の論議を高く評価して、酒を3杯以上飲んだ上での自分の命令には効力が無いと宣言した。
 或いは、心痛に息を潜め身を縮めて呂子明(呂蒙)の病気を見舞い、滋養ある美味しい食物を分かち与えて
凌統の遺児を養い、帝位に即くため檀に登った時、心を昂ぶらせつつ、今日在るのは一重に呂粛の功によるものだと宣言し、悪口には一顧だにも与えず、諸葛瑾の忠節を信じた。
 然ればこそ忠臣達は競って計り事に心を砕き、志ある士達は全て其の持つ力を出し尽し、大きく広い目論見を懐き、元より区々たる
呉の領域の支配だけで満足する様な主君では無かったのである。・・・・(中略)・・・・
この様にして大皇帝・孫権は皇帝を号し、魏・蜀と鼎峙して立つ事と成った。西に庸や益の一部を奪い取り、に淮水・漢水の流域を裂き取り、は百越の地をそっくり手に入れ、では異民族達の住む地の彼方までを1つに纏めた。  その後に3皇5帝の礼を講究し、3王の楽を復興し、上帝には類の祀を行なって帝位に即いた事を報告し配下の諸侯達とは丁寧な礼によって君臣の関係を固めた。
 虎の如く猛き武臣と果敢な兵士達が長江に沿って守りを固め、長い戟や強靭な剣が治安を乱さんとする者に向って振われ、
では長官達が施策に心を尽し、では四民達が夫れ夫れの仕事に勤しんで、教化は方外の地をも和らげ、中国の風俗が遙かな土地にまで及ぼされた。
 そこで全権を持つ使者を派遣し、遠い地方の人々を安撫して巡らせた処、巨象や駿馬が天子のうまやに家畜として飼われ、真珠や宝石が宮中の倉に輝き、珍宝は続々と到来し、珍しい物は打てば響く様に集まって来た。民間の風俗を採訪する使者の車が南方の異域を馳せ、兵庫は北方の原野に出動する事も無く、なべて民衆は戦争の苦しみを免れ、軍馬にも緊急な出動に備える必要は無く、
            ーーかくて帝業は確固たるものと成ったのである。




70歳まで生きる事となる孫権仲謀ーー今18歳・・・・
遙けき旅路への第一歩を踏み出そうとしている。
 果して、その道程は如何なるものと成るのであろうか・・・・!?

ーー気が付けば・・・・既に叛逆の勢力は、その旗幟を鮮明に掲げて、
百鬼夜行していたのである。蠢動する諸勢力・権力奪取を狙う地元豪族達。就任のノッケから、いきなり最大の危機を背負わされた
18歳の新君主孫権仲謀、此の試練にどう立ち向かうのか!?






呉国崩壊危機迫り来る・・・・・!!
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