第123節
蠱惑の君主継承

                            18歳の試練







最も危険な幾日間かが、今、始まろうとしていた
 生れ落ちたばかりの呉と云う国(孫氏政権)にとって、突如生じた
権力の空白は、人の心に巣喰う叛心・野心に火をつけ、徐々に其の頭を擡げさせる。此の儘では、闇に潜んでいた鬼どもが、世に姿を現わすに違い無かった。

 呉の国が崩壊するか、それとも踏み留まって再起を期せるか・・・・一国一秒を争う亡国の危機が、ヒタヒタと
18歳の青年の肩に
のし掛かって来ていた。

−−五年、策 薨ズ。事ヲ以テ権ニ授クーー
今後、50有余年にも及ぶ
孫権仲謀の、
             
遙かなる旅路の第一歩を、『正史』は此う記し始めている。

   『けんこくシテ マダムニおよバズ。

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「いい加減に為さりませ

その第一歩は、重臣の大喝から始まった。哀しみの湖底に深々と
沈み込んでしまった
孫権に対し、最長老の重鎮・張昭が、遂にキレた。
 この時、
孫権18歳張昭45歳であった。

「いつ迄メソメソと泣いて居られるのです!
  今は哭いてなど居る場合では有りませぬぞ!」


3日の間は、肉親としての悲しみを思い遣り、張昭は慈愛に満ちた
眼差しで、若い主君を見守って居た。その間、張昭子布は唯一人、各郡県への指示、朝廷への報告、葬儀の手配、各部隊への指令、中央官庁への手配り、全領地への布告etc.etc・・・・ 万事諸々を八面六臂で取り仕切っていた。
だが4日目になっても孫権は、只管ひたすら自室に閉じ籠り、茫然として為す術を知らなかったのである。親代わりを自認する張昭も、是れには眉を顰めた。 今は未だ不完全な呉の国・・・・・
 然も突然、その求心力の中心だったトップが消滅し、最早それは
砂上の楼閣に終わるかも知れぬ国家崩壊の危機が、刻一刻と訪れようとしているのだ。それを保つと云う事が、どれ程難しいものである事か・・・・張昭には、善い意味で、《
己こそが呉の国を創って来た》 と云う、内政家としての自負が有った。 その努力の結晶が、いとも簡単に砕け散ってしまうなぞ、丹精込めて育て上げた子に死なれるよりも辛い事であった。
 ここの処、激して相手に大声を発するなぞ、ついぞ途絶えて無い事だった。が、流石に大人の張昭も、この孫権の意外な不甲斐無さには、次第に苛々して来る。幾等でも身を砕いて応援しよう。先代・孫策に請われて来た此の命も、今更惜しくは無い。
ーーだが、肝腎の御本尊がこの体たらくでは・・・・
《この危急存亡の重大なみぎわだと言うのに、一体全体、若殿は何を
 考えて居られるのだ?一国の君主と成られた御自身の立場を
                   そも何と心得て居られるのか!?》

然し何と言われ様が、孫権仲謀には、未だとてもの事、
君主の心構え〕など持てよう筈も無かったのである。つい昨日までは、遊ぶ為の小銭をせびっては、しこたま大目玉を喰らう様な程度の心持ちで居たのだ。居られたのだ。それが、たった其の瞬間から、国を背負え!などと急に言われても・・・・
 謂ってみれば、長閑のどかな青空の野原を散歩している時に、突然、
眼の前に雷が落ちた様なもので、ビックリ仰天!腰を抜かした儘の君主継承であったのだ。然も年齢が是れ又まずい。30・40代なら貫禄だけでも何とか為ろうが、如何せん未だ20歳にも至って居無い。 更に、同じ18でも、兄の孫策には自ずから事を成さんとする、燃える様な積極果敢さが有った。だが弟の孫権には、此れ迄そんな心掛けなど必要無かった。
 9歳も上の兄を只、父親の如く敬い、只管その指示通りに振舞って居れば大過は無かったのだ。 それを急に「王者として、抜かり無く行動せよ!」などと言われても、何をどうして良いやら皆目判らない
・・・・と云うのが本当の処であった。
 もし兄・孫策が倒れるにしても、病気だとかで事前に覚悟して置けたのなら、多少は心構えも出来たであろうが、それすら許されない急展開であった。過酷であろう。

 それは、張昭にも分かる。・・・・だが、もはや事態は其れを許さぬ程に逼迫して来ていたのである。孫権が喪に服すると称して引き籠りを演じて居る数日の間にも、各地では不穏な噂が立ち、それらが次々と報告されて来ているのだった。


張昭はズカズカと孫権の居室に踏み込むと、暗幕を取り払い、窓を開け放った。 外から初夏の新鮮な空気が、眩い光の放射と共に、淀んだ部屋に流れ込んだ。

「−−・・・・!?」
寝台に悄然しょうぜんとして、
糸至てつ(服喪中、頭に巻く白いハチマキ)を垂らし、半座りのまま項垂れて居る孫権。 張昭はウムを言わせず、その
背筋をピンと伸ばさせると、蒼白い孫権の顔を自分の方に向けさせた。そして、今更ながらに説き聴かせるのであった。
「−−そもそも国家とは何か?王とは何か?
                     君主とは何でありましょうや!?」
この5年間の風雪を経た今、張昭には人々を圧倒する様な堂々とした威風が具わって来ている。その体躯も決して孫権に劣るものでは無かった。いや寧ろ、此の場面では張昭の方が巨きく見える。
「君主が君主である所以ゆえんは、他人が其れを認めるか如何どうか・・・・ただその最も単純な〔心的決定〕一つに懸かっているので御座居ます。他者が自ずから頭を垂れ、膝を屈する事を受け容れた”其の一瞬”に、王は誕生するのですぞ!その背景が軍事力であれ、経済力であれ、人間力であれ、先王の指名であれ、他の者達が〔其れを認知する一瞬〕が、どうしても必要なので御座居ます。
・・・・そして、其れが今なのですぞ
!!

先の小覇王・孫策ですら、君主権を確立し得たとは言い切れ無い。それが新興国の宿命なのだ。



「・・・・確かに、一族内部では、王の印綬は引き継がれました。然し現実は、其れで事が済む様な状況では御座居ません。 誰も未だ、其れを認めては居無いので御座居ます。
 呉の国は今、国であって国では無いのです。江東・江南の地は今その中核となる支柱を失い、人々の心は不安に慄き、内外の敵は転覆の好機とばかり策動を開始するやも知れませぬ。何もしないでただ徒らに時を費やして居るのは、内部崩壊を促している様なものなのですぞ。 今こそ求められるのが、〔君主としての統率力〕で御座る。人心を再結集させる示威行動の実践であります。
王である事、君主である事を認めさせる〔其の一瞬〕を創り出さねばならぬ事態なので御座居ます
!!
容貌矜厳ようぼうきんげんニシテ、威風いふう有リ。辞気壮じきそうれいニシテ、
      色ニあらワレ、直言ヲ以テさから
・・・・
「昔、服喪の法を定めたのは周公でした。然し、その子の伯禽はくきんは、服喪中に外敵が侵入して来るや、父の定めた法を破り、出陣したのですぞ。何も父に背向こうとしたのでは無く、已むを得ぬ状況に迫られたからなのです。」

張昭はやや語気を改め、悟す様に話し掛けた。
してや今は、腹に一物ある姦賊どもが蔓延はびこり、狼の如き者どもが溢れのさばって居ります。 だと謂うのに、身内の死を悲しむ余り、古い仕来たりに拘り続け、何時迄もそうやって喪に服して居るのは、正に門を開けて盗っ人を引っ張り込む様なものですぞ!
とても仁者の行ないとは申せませぬ!!


ーー
ツ周公、法ヲ立テ、伯禽はくきん、師トズ。父時ふじ
たがワント欲スルニあらズ。おこナウヲ得ザルなりいわンヤ今、姦究競逐かんききょうすいシ、豺狼さいろう道ニ満ツ。すなわチ 親戚ヲ哀シミ礼制ヲかえりミント欲ス。なお、門ヲ開イテ盗ニえきスルガ如シ。マダもっテ仁ト不可べかラズ。
ーー

悟している心算つもりだったが、生半可なまはんかな物言いでは、孫権のからを打ち破れそうにない。つい、最後の方は激昂調になる。 もう、こう成ったら叱咤激励、有無を言わさず尻を叩くしか無い。可愛い憎いのレベルでは無く、国の存亡に関わるのだ。

「さあ、立たれませい! 起って、
 孫権仲謀ここに在り!君主は此処に在るぞ!と
 国中に告げられませい。
 今すぐ、喪服は脱ぎ捨てるのです。
 戦袍に着替えなされよ。父上・兄君の、永年の
 労苦を無にしてはなりませぬぞ!
 いいですな殿、お分かりに成りましたな!?」


張昭は、グイと孫権の眼の前に戦袍を押し付け、強引に手渡した。
孫権はやっと頷くと、ヨロヨロと立ち上がった。

「−−解った・・・・此の乱世じゃ。喪は心の中で服し、兄上の死を
 無駄にせぬ様に致せ・・・・と言うのだな。」

着替えを手伝い、宝剣が渡され、馬の鞭が握らされた。それでも
愚図る18歳の若き君主の手を引くと、45歳の張昭は、グイグイと
表へ連れ出した。

「馬ひけぇ〜い!君主様のお出ましじゃあ〜!!」


張昭と眼顔で頷き合って大声を発したのは、
                 あの
白髪鬼・【程普であった。
         
この
張昭子布ちょうしょうしふ』と『程普徳謀ていふとくぼうの両人こそは・・・・孫策臨終のみぎり、その枕辺まくらべに侍って手を握られ孫権の後見を託された政事と軍事の2大長老であった。
それでも尚、未だ孫権は涙ぐんでいる。

「さ、騎乗されよ!」

言うなり程普はヒラリと馬上の人となった。とても60歳の身のこなしとは思え無い。それに対し18歳の孫権の方は、又モタモタしている。 見兼ねた張昭は、”踏み台”を持って来させると、エイッと
ばかりに孫権の尻を押し上げ、やっと馬上の人と為らせた。
文字通り、"尻を叩いた"のである。

すなわチ、権ノ服ヲ改易かいえきシ、
    たすケテ馬ニのぼラシメ、デテ軍ヲめぐラシム。


ハラハラ見ていた程普は、こっそり顔を崩した。

「さあ、参りますぞ!中門の外には近衛の将兵を集めてあります。
 みな左袒さたんして(忠誠の印しとして左肩を脱いで見せる)新しき御主君の登場を
 今や遅しと待ち侘びて居りまするぞ!!」

孫権が”
程公”を見遣ると、元々いかつい程普の鬼顔が、今度は一段と厳しく吊り上がっていた。
「−−よし!・・・・いざ、参る!!」


ヤア〜ッ!! と、一鞭くれた時、此処から呉国の新君主
孫権仲謀第一歩が印されたのである。

《−−如何なる君主と成られる事か・・・・!?》

涙の中から起ち上がり、今や普段の己を取り戻しつつある若々しい孫権の後姿を見送りながら、張昭子布は前途の多難さに、改めて
孫策の急逝を哀惜するのであった・・・・。


           





この 孫権と張昭 ・・・・・・

【魏】で言えば、
曹操と荀ケ 或いは曹操と郭嘉との
間柄であり、【蜀】なら差し詰め 
劉備と諸葛孔明の間柄に当たる、最も重きを為す家臣の代表である。いや、他の2者よりも、国を挙げて畏敬され続けた点では数段上の重鎮と成っていく。

 −−然るに・・・・孫権と張昭とは、ハッキリ言って反りが合わない。相性が悪いと謂うか、何故かウマが合わないのである。(譬えは悪いが)
前2者が熱烈な恋愛結婚であったとすれば、彼等の場合は、親が決めた見合い結婚だったからだ。

無論、お見合いの方が上手くゆくケースが多いのだが、孫権に関しては、結婚相手が余りにも年上で有り過ぎた。
 郭嘉は15歳下、荀ケでも8歳、孔明などは20歳も年下のピチピチギャル?で、何処か初々しい。処が張昭は逆に
27歳も年上で、幾つに成っても子供扱いされる (と、感じてしまう)。
 然も、
兄の遺言で宜しく頼むと言われている相手だから (後には母親・呉夫人の遺言までもが加わる)、幾らケムたくても離縁・お払い箱にする事も出来ぬ。その上相手は、醜婦の深情けみたいに、誠心誠意尽くし続け、酒の呑み方や遊び(虎狩りなど)1つにまで口を挟んで来る。
 なお悪い事には、(当の孫権一人を除いては) 国中挙げて張昭を畏れ敬い、その人望たるや孫権自身を上廻るのだから堪ったものでは無い。息が詰まる。然し客観的に見れば、最重鎮として遣るべき事は見事に遣っている。だから孫権も終生、彼を
張公と尊称で呼び続け、〔2張〕のもう一人・張紘の方は東部と官職名 (会稽東部都尉) で呼び分ける。

 だが、こう云った状況・環境では、しっくりゆく訳が無い。是れではもう心理的に、口五月蝿くちうるさくてケムッたいだけの、ウバザクラ女房 と感じてしまうだろう。

 −−ズバリ、《腐れ縁》である。

それが両者とも長生きして(張昭は81歳)、蜿蜒と
36年間も続いて
ゆくのだから、何ともハヤ御気の毒様としか謂い様が無い?
 かと言って、日頃は然したる波風を起こす程でも無く(若い時期の孫権は本気で尊敬し)、最後まで両者とも、決定的な破局を迎える事も無く、程々にはやっていくのだから、全く不思議な(可笑しな、或いは愉快な) 主従関係ではある・・・・。
 その張昭に、っけからカツを入れられた孫権、是れ以後ますます頭が上がらなくなる??
それを己の弱味・負い目などと感じなければよいのだが・・・・。



ーー処で・・・・先程の場面で、

張昭が孫権を〔馬に押し上げた〕のには、実は2つの理由が有ったのである。
 1つは、喝を入れる為。
 もう1つは、孫権の体型に問題?が有った。

   −−ケタ外れの
短足胴長だったのだ!!
何事であれ、身体の一部であれ、人並外れているのが英雄の証とされる古代中国人の発想なのではある。 例えば劉備のデカ耳や長腕、関羽の長髯も其の一例だが、孫権の場合は、正真正銘の
チョ〜短足であったのだ!!

証拠としては『
献帝春秋』の建安19年(214年)の項に、孫権が合肥を攻撃し、逆に張遼に追い詰められて九死に一生を得た時の記述が載っている。
『・・・・【
張遼】が、呉の捕虜に尋ねた。
「今さっき紫髯の将軍で、背丈は高いが
足が短く、馬に達者(愛馬のお陰で崩れた橋を飛び越えた)で、弓の上手い者が居たが、あれは誰だ!?」
捕虜が答えた。 「あれが孫会稽(孫権)様です。」
張遼は楽進に出会うと言った。
「手遅れだった。知って居れば、急追して捕えて呉れたものを・・・!」 軍を挙げて孫権の行動を讃嘆し、捕え損ねた事を惜しんだ。』
返り討ちに遭って命辛唐からがら逃げ出した君主の行動を讃嘆シタと書く程度の史料ではあるが、まあ一応の証拠とはなるのではなかろうか?
紫髯しぜん(紫はアカを表わす語)長躯どうなが、馬術に優れて弓が上手うま
・・・・と、可なり詳しく孫権の様子が記されているが、この際、ついで
だから、此処で、

孫権仲謀人物評を、一挙大公開? して措く事にしてしまおう。
             
−−但し、長生きし過ぎた(筆者)晩年の彼は、次々と先代以来の補佐役や気骨ある者達を亡くしてゆく中で、《是れが同じ人物か!?》と、眼を疑いたくなる程にグニョグニョに成ってしまう。
   (
 『三国志演義』では、孫権の晩年には一言も触れていない為、後世の人々は、
                          是れを知らずに孫権像をイメージしてしまいがち
)

一部それを含めた上で掲載する事とする。何しろ、国を破滅させた
三国志上最大の悪女を育て、ノサバラシタのは他ならぬ此の孫権の晩年である。無論、究極の評価は、おいおいに読者自身に委ねられるものではある。

(蓋し、本書・第T部では、孫権の年齢は25歳どまりであり、寧ろ
 明君・英主としての姿を髣髴とさせるものであるから、孫権ファン
                            には御安心を・・・・。)
ーーとは言いつつも・・・・本書・三国統一志は、一体いつ其処に辿り着くやら、遠い先の話になりそうであるからして、此処では敢えて
一廻り先に、彼の全生涯に渡る人物評価(評論)を、その年譜を追いつつ、敵味方双方の眼から観てみてしまって措こう。




孫権仲謀の評価は、呉王・呉帝と成る迄の
前半生と、幾つかの大ミソを着けてしまった(晩節を汚した)後半生とでは、ビックリする程の明らかさで異なっている。

−−先ず、彼の綽名あだなとされる
碧眼児へきがんじについてだが・・・・
正史をはじめ、どの史書にも其れに相当する表記は一切無く、明らかに後世(演義)の創作である。 強いて探せば、彼の誕生を記した虞溥ぐふの『
江表伝』に有る、次の一節に拠ろうか?
方頤大口ほういだいこう目ニ精光有リ☆☆★★☆☆
       けん これトシ、以テ貴象きしょう有リトス。

エラが張って口が大きく、眼には〔精光〕が宿っていた。”
精の光”とは何ぞや?・・・・と謂う事になるが、少なくとも〔碧眼〕に辿り着くには、相当の無理があろう。 ーーちなみに、父・孫堅の〔江東の虎〕、兄・孫策の〔小覇王〕については、ほんの僅かだが、そう呼ばれる
可能性は有った。だが、孫権の〔
碧眼児〕に関しては、幾ら何でも
根拠が御粗末に過ぎる。よって本書は是れを採用せず、以後も用いない事とする。
 ※蛇足だが・・・・ 
捜神記そうしんき=神サマや仙人はじめ、世の摩訶不思議な神秘を収集した(捜し出した)、「干宝」の異聞?集・・・・
もっとも、当時のエラ〜イ知識人達でさえ、オオマジメに信じて疑わなかったのだから異聞では無く、”真理探究の書”に曰くーー
『呉夫人が身籠った時の事・・・・月がふところに入ったのを夢に見たが、その様にして生まれたのが【孫策】であった。【孫権】を身籠った時
にも、太陽が其の懐に入ったのを夢に見て、その事を夫・孫堅に
告げて言った。
「嘗て策を身籠りました時、月が私の懐に入ったのを夢に見ました。
 今度は又、太陽が私の懐に入ったのを夢に見ました。どうした事
 なのでしょう?」
「太陽と月とは陰と陽との精髄で、最も貴いものの象徴だ。俺の子孫は、きっと盛んに成るに違い無い!」

・・・・こっちの史料を元に、キャラクターのネーミングをすれば、差し詰め孫権は
日輪児、或いは太陽王などと謂う、物凄〜いキャッチコピーが出来てしまう。
 流石に『演義・羅貫中』も、
脇役の★★☆孫権に、こんな大それた
代冠詞を与え無かった・・・・?


次はーー『正史』の劈頭へきとう、孫権15〜16歳の頃。
   兄の所へ来た錫命せきめい(答礼)の使者・「劉腕」の
”予言”である。
王宛えん、人に語げて曰く・・・・吾れ、孫氏兄弟を観るに、各々おのおの才秀いで明達なりといえども、しかれども皆、禄祚さいわいに 終わらず。
タダ中弟ちゅうてい孝廉こうれん(孫権)形貌奇偉けいぼうきい骨体恆こったいつねナラズ、
    大イニナルひょう有リ。年マタ最モ寿いのちながシ。

                     −−なんじこころみにこれせ、と。』


ーー同じ時期・・・・曹操の慰撫工作に応じた兄・孫策の名代として、許都へ親善訪問した折りに、曹操が周囲に漏らした言葉。 
                     (と、される「胡沖」の『
呉歴』)ーー
子ヲ生マバ、まさニ孫仲謀ノ如クナルベシ。
        劉景升
(劉表)児子じし豚犬とんけんの如きのみ

やがて、兄の盛り立てによって、彼の名が世間に知られる
様になり、その名声は徐々に父や兄の其れに伯仲する様に成ってゆく。
性度弘朗せいどこうろうじんナレドモだん多ク、
              きょうヲ好ミ士ヲ養ウ。
 『江表伝
・・・・そして兄の、今わのきわ”遺言”
江東の衆を挙げて、機を両陣の間に決し、天下と衡争するは、卿、我に如かず。
 賢ヲ挙ゲ能ヲ任ジ、各々ニ其ノ心ヲ尽クサシメテ、以テ江東ヲ保ツハ、我、卿ニ如ズ。
  正史・孫策伝

いよいよ新君主と成った若き孫権。その彼を盛り立て売り出す為に、”超重臣”は相手を説得して、熱っぽく孫仲謀を語る。先ず、周瑜が、「魯粛」を説得する
賢者ニ親シミ、立派ナ人物ヲ尊重シテ、
  非凡ナ才能ヲ持ツ者達ヲ手元ニ招キ
             任用シテイル。
 正史・魯粛伝

次は、その魯粛が、「劉備」・「孔明」を説得する。
孫討虜ハ聡明ニシテ仁徳有リ。賢者ヲ敬イ、
  士人ヲ礼遇ス。以テ江東ノ豪傑 皆 心服ス。

                              −−『江表伝』−−

−−だが、やがて、赤壁の大決戦を目前にするや・・・・色を失い、単独帰順を考える血縁者も現われて来る有様となる。
それ(従弟の孫賁)を諌めて、孫家3代に仕える忠臣朱治が言う。
(初代・2代目を語ったあと)それに加え、討虜将軍様は、聡明さと神の如き武略とを以って、大事業を引き継がれますと、英雄達を1つに纏められ、当面する課題に遍く対処され、軍の勢いは日々盛んとなり、事の事業も亦、日々隆盛に向っております。
 必ずや王業の基礎を立派に定められ、東南の地に在って、天下の情勢を見守りつつ、好機に応ぜられるに違いありません。

                              −−『
江表伝』−−

−−赤壁戦の直前・・・・
荊州を追われて呉に奔った「劉備」を巡って、魏国内では一頻り、
推測が為される。大方の者は〔劉備は孫権に殺されるに違い無い〕と考える。だが参謀軍師の
程cは、こう予測する。
孫権ハ策謀ニ秀レタ男デアル。然し一人で敵対
する事は出来ぬ。だから孫権は、彼等を祐けとして我々に抵抗するに違い無い。』
 ーー『正史・程c伝』ーー






−−年譜では、この後・・・・

赤壁戦に大勝して、いよいよ三国時代】に突入する。
 そして此処に、互いの存亡を賭けた、三つ巴の権謀術数・虚々実々の攻防戦が大展開される事となってゆくのである・・・・。



呉ノ国ノ勃興ハ、天時地利人和ノ三者ヲ基礎と
していた。所謂、荀子ノ〔其ノ三ヲ合ワセタ〕 モノ であった。 ソノ滅亡ノ時ニハ、〔其ノ三ヲ舎テタ〕
モノ であった
・・・・・(陸機・弁亡論)




国ガ興ロウトスル時、君主ハ民衆ノ意見ニ聴キ従イ、国ガ亡ビヨウトシテイル時、神ノ言葉ニ聴キ従ウト謂ウ。・・・・・(孫盛・呉世譜)
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