【第T部】
曹操の覇望を、もし、阻止し得る者が在るとするなら、それは唯、一国
・・・・長江下流域に新興した【呉】の国以外には見当たらない。
然し【魏】の10分の1の国力しか持たない「呉国」には、曹操軍と戦って
勝てる見込みなぞ欠片も無い・・・・と、天下中の誰しもが観て居た。にも
拘らず『史実』は、〔両者激突の一大決戦〕へと向ったのである。
−−何故か?・・・・そもそも「呉」は、この8年前に、事実上の建国者
であった2代目【孫策】が刺客の手によって暗殺されて以降、一体どんな
紆余曲折を経て、208年の現在に至っているのか??・・・・我々は未だ
其れを知らない。そこで此の《第9章》では、〔その後の呉国〕・・・・即ち、
3代目・孫権の最初の時代(200年の就任時〜208年の決戦直前迄)を
追う事としよう。
だが其の前に、念の為、ここでザッと、〔呉国の越し方〕を総覧して措く。
呉の孫氏は・・・・・初代・【孫堅】=(江東の虎)、
2代目・【孫策】=(小覇王)、
3代目・【孫権】=(江東の碧眼児) の3代である。
『正史』は、「恐らく孫武(孫子の兵法書の著者)の子孫なのであろう」と記して
はいるが、その真偽の程は判然としない。少なくとも直系ではあるまい。
呉国の遺臣・「陸機」は『弁亡論』を著して、祖国・呉が亡んだ理由を彼
なりに考察するが、その序で【孫堅】と【孫策】の事蹟を極く簡潔に触れ
ている。先ずは其れを観て措こう。(※陸機は呉の名門・陸氏一族で文武に優れた。
故国が”晋”に亡ぼされた為に晋に仕えるが、のち、八王の乱に巻き込まれて誅殺された人物。)
昔、漢の王室が天下を統御できなく為った時、奸臣(董卓)が国柄を盗み取り
王室の尊厳は失われてしまった。この様な状況の中、群雄達が一斉に立ち
上がり、正義の軍は四方から都へと集まったのであるが、
呉の武烈皇帝(孫堅)も、都を遠く離れた地に在って慷慨の念に駆られ、
荊南の地に稲妻の如く立ち上がって、 様々に計り事を巡らせ、その忠義と
勇気とは一世に冠たるものであった。 威を示せば簒奪者を震え上がらせ、
武器を交えれば悪人どもは徹底的に撃ち破られた。この様にして漢の宗廟
を祓い清め、皇祖に対する祭祀を執り行なったのであった。
この当時、群雄達は正義を旗印として纏まり、盟約を結んだのではあるが、
然し、夫れ夫れが内に邪心を抱き、兵力を恃み、混乱に乗じて己が為を図
らんとし、そのため何の見通しも規律も無い烏合の衆が、味方の威信を傷
付け敵を利する様な事さえあった。そうした中に在って、
独り忠誠を守って行動し、武人としての節操を明らかに示したと云う点で、
武烈皇帝に優る者は無かったのである。
武烈皇帝が没した後、長沙桓王(孫策)は、世に隠れ無き優れた才能を
以って20歳そこそこで其の秀を顕し、先代以来の長老達を招き寄せ彼等と
共に父王の創業を引き継いだ。鬼神の如き兵士達が東へ駆け、寡勢の力を
存分に発揮させて多勢に戦いを挑み、その攻撃の前には城を守り切れる武
将は無く、戦いを仕掛ければ対等に武器を交えられる敵とて無く背く者は
誅殺し、降伏する者は安堵させて長江の彼方の地の平定を完成し
法令を完備し軍隊を整備すると、其の威と徳とは共に輝き渡った。
世に名の聞こえた立派な人物を招いて礼遇したが、その中でも〔張昭〕が
第一人者であり、優れた才能を持つ者達と交わり配下に納めたが、そうした
中でも〔周瑜〕が中心人物であった。この2人の人物が、共に優れて
俊敏で非凡であり、広く物事に通じて聡明であった。それが為に、この2人と
性向を同じくする者達が其れに惹かれて一緒になり、志を同じくする者達が
其の気質に感じて集まって来、江東の地には多くの優れた人物が輩出
する事となったのである。 こうした基盤の上に立った桓王・孫策は、かく
願った・・・・すなわち、北方に軍を進めて中原を征伐し、掟を犯す者供を除き
去り、皇帝の車を在るべき場所に戻し、帝座を宮中に返して、天子を補佐して
諸侯達に号令を下し、国家の艱難を取り除いて、元の漢王朝の文物制度を
復興しようとした。 だが、その目的の為に、兵車が旅次に上ると、悪人達は
眼を点にしたのであるが、大きな仕事が成就せぬうちに中途にして世を
去る事となった。
ーー・・・・僅か10年余りで、父子3代もが入れ替わったのは・・・・
父孫堅が不用意な戦死(37歳)、長男「孫策」も亦、不用意を突かれ、
刺客の手に落ちた(25歳)為である。父子ともに、勇猛さの余り、あたら失わ
なくて済む若い命を落としてしまったと謂えよう。正史は、この二人の最期を
こう評している。「軽佻果躁ニシテ、身ヲ隕シ敗ヲ致ス」 と。
その父と兄の跡を継ぐべきは次男の孫権であったが此の時僅か17歳。
・・・・・”国家”としては、未だ生まれたばかで未成熟な〔呉〕は、肝心要な
〔君臣間の恩顧・主従関係〕も稀薄で、家臣の誰もが、無条件では、17歳の
若僧を有難がらず、恐れ入りもしない。どころか各地では「之ぞチャンス!」と
ばかり、謀反・造反を企む諸勢力が蠢動・・・・折角、兄が纏め上げた呉の国は
内部崩壊の危機に見舞われる。其れが3代目のスタートなのであった。
ーーが、然し・・・・にも拘らず、孫氏政権が崩壊してしまう事無く、寧ろ、現在
(208年時点)の隆盛を確保して来れたのは何故か・・・・??
この【第9章】では、その事も観てゆこう。
※尚、呉国に関する「地名」を再確認して措くが・・・・長江以南の地域のうち、
海側(東寄り)の河口一帯を『江東』と呼び、その西隣りの荊州までの地帯を
『江南』と呼んだ。又、その両方を合わせて『江表』と呼ぶ事もあった。
(同じ長江以南でも、中流域は『荊南』と言った。)
初代・孫堅の出生地である「呉郡」は、その『江東』に在る事から、彼の
異名は〔江東の虎〕であり、更に其の後の孫氏政権も亦、その初代・孫堅の
本貫(本籍地・産まれ故郷)である「呉郡」を基盤とした事もあって、
【呉国】となる。尚、208年時点での呉国の版図は、
「江東」と「江南」を合わせた、「江表」にほぼ一致する。
更にもう一点・・・・重要な確認事項がある。それは・・・・此の当時に於ける、
これら長江以南全体に対する、中央からの評価・見做され方である。即ち
朝廷の在る中原・中央から観た場合、其処に住む人々(孫堅ら)は一体どんな
風に思われて居たか?・・・・と謂う視点である。
その顕われを示す1つの例としては、”流刑の地”として活用されていた、
と云う事実や、逆に追っ手の掛からぬ”亡命の地”として利用されていたなど
の事例が、その地位の程度を如実に現わしている・・・・と言えよう。
蓋し、この江東・江南(江表)の地は、後漢王朝も末期の此の頃に於いてで
すら未だ、中央(朝廷)の治世・統御の及ばぬ”番外地”であり、文化程度
の低い”後進地域”と見做されいたのである。それは同時に、其処に住む
人々にとっての有史以来のコンプレックスでもあり、それが又、彼等の向上心
を培う〔負けず魂のバネ〕とも成っていたのである。・・・・とは言え、中央
からの締め付けが無い分、其処に住む人々は堅苦しい思想統制や倫理制約
からは自由であり、溌剌と奔放でも在り得たのである。
然し矢張り、世に名を轟かせ、天下に覇を唱えんとする様な人物にとっては
この江東の地は余りにも僻地であった。それ故、中央進出を念願とする若者・
孫堅も亦、青雲の志を抱いて故郷を出でた後は、全国各地を転戦・歴戦し
つつも、終に其の儘、2度と再び、産まれ故郷の「呉の地」に戻る事も無く
その生涯を終えるのであった・・・・・。
初代【孫堅文台】は157年、呉郡富春県に生まれた。
(※その2年前に【曹操】が、3年後には【劉備】が生まれる。)
『勇摯剛毅、孤徴ヨリ発迹シ』
・・・・何も無いゼロから身を興し、その勇敢で毅然とした人柄で人々を惹き付け、終には〔江東の虎〕と、その『忠壮ノ烈』を恐れられ、一世を風靡した。
(※孫堅の生涯についての詳細は、【第37〜38節】及び【第59節】・【63節】に既述したが、
此処では其の年譜を振り返る。)
171年(15歳)
孫堅が初めて地域社会から認められたのは、彼が15歳の時の
”武勇伝”であった。 (正史は17歳の時とするが、諸般の事件と整合しない。)
度胸1つ、たった独りで海賊を蹴散らすと云う、如何にも彼の生涯を
象徴するが如き勲しであった。
この武勇伝により、孫堅は〔仮の尉〕として役所から招聘される。
172年(16歳)
会稽の妖賊・許昌が陽明帝を名乗り、煽動された数万の者達が反乱を起こした。その為、郡は孫堅を〔郡司馬〕として派遣。朝廷軍との協同作戦で見事に制圧する。 この功により、〔塩シ賣県の丞〕→〔于目目台県の丞〕→〔下丕卩県の丞〕を歴任する。この頃には既に、数百人以上の”部曲”(私兵集団)を統率する若親分となっていた。「程普」などの第一期家臣団の中核は、この時期に形成される。又、この時期に「呉夫人」を娶ったのだが、孫堅集団の社会的地位は低く、周囲からは”胡乱で物騒な輩”と蔑まれており、申し込みを拒絶される。その為、その婚姻は半ば脅迫の略奪婚であった。だが、当人同士は相思相愛の夫婦となる。そして、
175年(19歳)−−長男・【孫策】生まれる。
・・・1ヶ月後に【周瑜】生まれる。
(※ 181年には【諸葛亮】が生まれる。)
182年(26歳)−−次男・【孫権】生まれる。
184年(28歳)−−《黄巾の乱》 勃発す!
朝廷軍の司令官(中郎将)となった「朱儁」は、下丕卩に居た孫堅の噂を聞き、自分直属の〔左軍司馬〕に招聘。初めて中央にデビューする事となった孫堅は、千人規模の部曲を引き連れ、勇躍参戦。
汝南郡〜潁川〜と黄巾軍を撃破 (途中で重傷を負うも)、終には宛城へと追い詰める。此処での城壁一番乗りは、孫堅の武勇を天下に知らしめる快挙・勲章となった。
その武勲を認められて〔別部司馬〕へと昇進を果す。
185年(30歳)−−《涼州反乱》勃発!(辺章・韓遂の乱)
朝廷は「張温」を派遣するが苦戦を強いられた為、張温は孫堅を
〔官軍参謀〕として招聘。同時に長安・三輔に勢力を持つ【董卓】をも招聘した。だが、腹に一物ある董卓は、総司令官たる張温の命令を無視し続け、大幅に遅参して来る。この時、董卓の裡に”謀叛人の臭い”を嗅ぎ取った孫堅は、『直ちに誅殺してしまうべきである!』と強硬に進言する。然し、小心者の張温は決断する事が出来ず、禍根を残す。反乱そのものは、敵の退散によって一応終息する。孫堅は軍功より寧ろ、董卓への態度が評価され、朝議に参加出来る〔議郎〕に任官される。晴れて中央官界への進出を果したのである!
187年(31歳)−−10月・・・荊州長沙郡で「区星」が叛乱。
そこで朝廷は孫堅を〔長沙郡太守〕に任命し、叛徒討伐に派遣した。
するや孫堅は、長沙郡は勿論の事、隣接する霊陵・桂陽の2郡をも一気に制圧・平定してしまった。そして其の勲功により、引き続き〔長沙郡太守〕の官位を拝命した上に、〔烏亭侯〕の爵位を封じられ、ついに貴族に列せられたのである!・・・・かくて、ゼロから出発した僻地・江東の若者は、僅か15年で其の夢の半ばを達成したのであった。謂わば”命と引き換えの度胸勝負”に連勝し、とうとう己の実力だけで、押しも押されもせぬ《一国一城の国持ち大名》と成った訳である。ばかりか、家柄を重んずる当時の時世に於いて、諸侯(烏亭侯)と云う地位を有する、【群雄の資格を獲得した】と見做されるに至ったのである!
尚、「烏亭」の所在地は、彼の本貫(生まれ故郷)である『呉郡』内(太湖の南岸)に在る。ちなみに、新たに興った国が、その国名を決定する場合、「魏国」もそうであった様に、初代(祖先)が拝領した地名に由来するケースが多い。
189年(33歳)−−4月・・・・霊帝崩御。
9月・・・・【董卓】は少帝を廃位、幼い劉協を
即位させて専横を開始。
190年(34歳)−− 《反・董卓連合軍》が結成され、諸国軍は
酸棗に集結するも、内部崩壊して事実上解散。
2月・・・・董卓は、長安遷都を強行。
そんな中、荊州に在った孫堅は北上を開始。その途上で荊州刺史と南陽太守を誅殺しつつ、孤軍「洛陽」へと迫る。だが長駆して来た孫堅軍は軍糧の手当に困窮し、南陽に駐屯して居た大名門の【袁術】の指揮下に入って、董卓・呂布軍に備える。この時「袁術」は(上表した形をとって)孫堅に〔破虜将軍〕と〔豫州刺史〕を兼任させる事とした。無論正式なものでは無いのだが『正史』は是れを採用して、タイトルを『孫破虜伝』と表わしている。
191年(35歳)−−2月・・・・
孫堅は単独、〔陽人の戦い〕で董卓・呂布の軍を破り、灰燼に帰した洛陽へ入城。(失われた”伝国璽”を発見する) この一見、無意味で無思慮とも思える孫堅の単独行動は、然し後々、孫氏一族に『烈忠』と謂う、貴重な遺産・大義名分を与えるのだった。
192年(36歳)−−
この後、目標を失った感の在る孫堅は、群雄間の駆け引きに利用されてゆく。即ち、遠交近攻を策する【袁術】の要請を受け、荊州の劉表討伐に出陣したのである。それに対し劉表は【黄祖】を送って対抗。然し鎧袖一触、黄祖は大潰走する。この時、孫堅は追い詰めた黄祖の首をみずから挙げる小事に拘り、あたら「山見山」の山中に、その若い命を散らすのであった・・・・・。
この突然の不幸によって、彼がせっかく築き上げて来た全ての地位と財産一切は全くの無と化し、その軍隊は袁術軍内に吸収・併呑されてしまった。・・・・そして後に遺されたのは唯・・・故郷・江東の地で彼との再会を待つ、18歳の孫策を筆頭とする幼い兄弟と妻だけであった。
ーー2代・【孫策伯符】・・・・
『英気傑済、猛鋭 世ニ冠タリ。』
実質で言えば、20歳からの僅か5年間で、怒涛の如き進撃を敢行し、
【呉の国】を建国したのは、この2代目・【孫策】であった。その覇気の凄まじさは、『志 中夏ヲ陵ドル!』と評される程の爽絶さであった。
(その、短くも激烈な生涯の全容は、【第4章】及び【第5章】に詳述したが、
此処では”年譜”として振り返って措く。)
191年(17歳)−−父・【孫堅】戦死。
この時、後に遺されたのは・・・・
母(呉夫人)と幼い弟たち(2男・孫権10歳。3男・孫翊8歳。
4男・孫。異腹の孫朗と妹一人だけであった。
父・【孫堅】は、184年の黄巾討伐に単身出征して以降は、これら妻子を長男の孫策に託して「寿春」に住まわせていた。即ち、江東の虎の活躍は、全て単身赴任の形で歴戦されたものなのであった。
だが、父の活躍を遠くから見守って居た15歳の頃、孫策は生涯の友=断金の友と成る、大名門の御曹司【周瑜】の訪問を受け、忽ち意気投合。以後は周瑜の勧めで、彼の実家である「舒」に家族全員が移り住んで居たのであった。父の訃報を知ったのも周瑜邸であった。
193年(19歳)−−
孫策は父の遺骸を「曲阿」に埋葬する事を契機に、周瑜邸を出て
「江都」に移り住む事を決意。其処で、北来の大名士である【張紘】
【張昭】の元を足繁く訪ない、三顧の礼を超える〔五顧の礼〕で接し、将来のブレーンと成って貰う約束を取り付ける。だが、孫策の覇気を嫌う【陶謙】からの魔の手を察知した孫策は、母や弟達を「曲阿」に移住させ、自分は身を興す為に「丹陽」の舅(呉景)の元へと身を寄せた。然し、その舅と従弟(孫賁)は、〔新たに興った勢力〕に、丹陽を追い出される事態に遭遇。 孫策は母達を呼び戻すと、舅達と共に更に
「歴陽」へと逃れる羽目となる。ーー即ち・・・・母や幼い弟達に気を配りつつ、己は身を興す・・・・と云う願いは、見事に挫折したのである。
ちなみに此の年、孫策を取り巻く時代状況に、2つの大きな動きがあった。即ち、長江を挟んだ北と南に、突如として大勢力が出現した
のである。
1つは長江の〔北側〕ーー
孫策の未来に、良かれ悪しかれ多大な影響を与える事となる
【袁術】が、天から降って来たのである!
後にして思えば、《降って来て呉れた!》と謂っても良い程の大開運。 天が孫策に与えた絶妙の配置バランスであった事が判る。
この「袁術」・・・・父・孫堅の洛陽入城を支えた一方、父が戦死した
荊州攻めを下命した人物でもあった。そして孫堅戦死後は、その軍隊を吸収合併し、南陽郡に駐屯し続けて居たのであるが、度を越した贅沢と浪費の挙句に困窮し、その解決策として、曹操の兌州を乗っ取る事にしたのである。処が、〔拠烽フ戦い〕でボコボコにされて、逃げも逃げたり400キロ・・・・逃げ落ちた先が、孫策の近くの「寿春」なのであった。そして3ヶ月の間に淮南一帯を占拠し、居座ったのが、この年(193年)の事であった。
無論、父の軍隊も一緒に現われた(帰って来た)と云う事である。
2つは長江の〔南側〕ーー
本来は「寿春」に就任する筈だった、揚州刺史の【劉遥】が、袁術を避けて「曲阿」に政庁を置いたのである。その結果、”朝廷の権威”を有難がる後進地域の者達が、予想を上廻る勢いで寄り集まり、忽ち一大勢力に伸し上がったのである。 そして此処に、長江を挟んで、互いに己の勢力を拡大しようとする《袁術VS劉遥》の対決の構図が出来上がったのであった。 詰り、先の「呉景」・「孫賁」が追い出されたのは、この劉遥の為であったのである。
但し【袁術】にとっての優先・重点事項は、長江に拠って守られている〔南面〕よりも、直接地続きの〔北面の方〕であった。此方には徐州の【陶謙】や、元々から居た在地豪族達が不服従の態度で残って居た。
故に袁術は〔江東方面〕を軽く観ざるを得ず、”出来れば劉遥をやっつける”程度の、散発的派兵でお茶を濁してゆく。
片や【劉遙】とて、未だ長江を押し渡って攻め込む程の軍事力を擁するには至って居無かった為、長江の両岸に砦を築いて、漫然と模様眺めの状態であった。−−いずれ、こうした膠着状況が、孫策の野望に大きく貢献する事と成る。
194年(20歳)−−
独力で自立する事の難しさを痛感した孫策は袁術の元に身を寄せる事を決意。寿春へと向う。無論、上手く交渉すれば、やがては父の軍隊(部曲)を返還して貰える・・・・との思いは当然あった。
少なくとも2千の兵力は、亡き父の私兵である筈だった。
だが、そんな孫策の〔建国のスタート〕は、隠忍自重を強いられる
”雌伏の時”の始まりとなった。経済観念は空ッキシの袁術ではあったが、事、人を欺き誑かす点に於いては、決して人後に落ち無い強か者であったのだ。孫策ごとき若僧の腹の内なぞ先刻承知。其れをエサにして、好い様に扱き使われた。 「戦功を立てれば、切り取った郡の太守にしてやろう。その折には一緒に、旧来の将兵も返してやる。」
・・・・との口約束。孫策としては、信ずる(振りをする)しか無かった。
最初は九江郡、次には盧江郡と奮戦勝利するが、約束は反古にされ続ける。然も此の時、地元最大の名門一族・「陸氏」を根絶やしにして来い!と命令される。 是れは、近い将来、孫策が旗挙げする場合、是非にでも味方に参入して貰わねばならぬ、大事な地元の有力豪族
名士層の代表である。彼等の支援無くしては、政権の運営・国家の基盤は成り立たない。もし討伐を実行すれば、必ずや将来に禍根を残すであろう、非常に深刻な無理難題を押し付けられたのである。無論、袁術の”踏み絵”であった。思い悩む孫策。・・・・だが、背に腹は替えられない。やるしか無かった。
(のち、周瑜は、この両者間の和解に奔走する事となる。)
195年(21歳)−−
雌伏する2代目を密かに励ます父の遺臣達との阿吽の呼吸よろし
く
孫策は遂に旗挙げを決意。 表立っての動きは今まで通り、袁術配下の討伐部隊長として、【劉遥】が長江北岸に配備している
「横江津」軍の排除・占領であった。その申し出に許可を与えた袁術が、孫策に返して寄越した兵力は・・・・
僅か1千の将兵と騎馬50頭だけ!然も旧来からの家臣は500に制限されていた。
《たかが千人で何が出来る。まあ、やらせて見ても損は有るまい。》
−−だが・・・・袁術の見通しは大間違い。口先では
『術ヲシテ、子ノ孫郎ノ如キ有ラシメバ、死ストモ復タ 何ヲカ恨マン!』などと煽てては居たが、袁術は孫策伯符と云う人物の真の巨大さを
判っては居無かったのだ。所詮、器のケタが違っていたのである。
何も出来無い処か、進軍してゆく先々で、孫策旗挙げと聞き付けた者達が、陸続として駆け付けて来たのだ。
僅か1千でスタートした孫策軍は、日に日に其の数を増やし続けた。
2千、3千、4千、そして5千・・・・その先頭を行く孫策の隣りには、周瑜公瑾が並んで居る。親友の快挙を待ち構え、手勢を率いて駆け付け、劇的な再会を果したのであった。そんな2人の軍勢は更に増え続け、10日程ノ間ニ、四方カラ雲ガ湧ク如ク集マッタ現役兵は・・・・何と2万を超えたのである。騎馬も1千頭を越え、押しも押されもせぬ大軍団が出現したのだった!
『人為り、姿顔美シク、笑語ヲ好ミ、性 闊達聴受、
人ヲ用ウルニ善シ。是ヲ以ッテ士民ノ見ユル者、
心ヲ尽クサザル莫ク、楽シンデ 為ニ 死ヲ致ス。』
小覇王・孫策伯符の面目躍如たるものが有る。以後、孫策と周瑜の2人3脚の、〔破竹の快進撃〕が始まっていくのであった。
−−『向ウ所、敵無シ!』−−
196年(22歳)・・・・周瑜が本拠に残って守備を固めれば、孫策は海路遠征して南方を制圧。瞬く間に、広大な揚州全体を平定してしまう。そして孫策は、誰憚る事も無く、〔会稽郡太守〕を称するのだった。
(※袁術軍の迎撃に出た劉備の隙を突いた呂布が、徐州を乗っ取る)
197年(23歳)−−1月・・・・袁術が皇帝(仲)を僭称する。
この笑止千万で世間を唖然とさせた喜劇は、孫策に独立を宣言する為の大義名分を与えて呉れた。そこで公開詰問状を突きつけ、完全に袁術とは袂を分かち、此処に、孫策による、
事実上の【呉国・独立宣言】が発せられたのである。
198年(24歳)−−
国内に残存していた反抗勢力を次々に制圧・帰順させ、その政権基盤を磐石にした孫氏政権。世間もついに、其の呉国の成立を認めざるを得無くなった。 献帝を奉戴して3年目の【曹操】から、孫策宛に勅使が派遣されたのである
〔討逆将軍に任じ、呉侯に封ず〕・・・・と云う詔書であった。
この時、曹操は人生最大のピンチに立たされて居たのである。北の巨人・【袁紹】が南下の準備中! との情報が頻りに届いていたのである。 もし、その袁紹との決戦中に、背後から孫策に襲撃されたら一巻の終わりである。苛立つ曹操は側近に向って、
「今、狂犬野郎とは、喧嘩する訳にはゆかぬのだ!」などと大声を発していた。是れだけでは不安で堪らぬ曹操は、尚も慰撫工作を仕掛けて来た。二重三重の”政略結婚”である。是れに対して孫策は、見え見えの此の策を、敢えて受諾する。孫策にも未だ、片付けて置きたい懸案事項が1つ残っていたからであった。 其れは・・・・隣国・荊州の国境警備軍の司令官であり父の仇でもある【黄祖の討伐】であった。
※ 12月・・・・曹操は動きの鈍い袁紹の隙を観て、もう1つの悩みの種であった
【呂布】を下丕城の攻め滅ぼす。
199年(25歳)ーー6月・・・・袁術、野垂れ死にす。
曹操が「官渡」に張り付き、決戦態勢に入る。
そんな曹操の動きを察知しつつ、孫策は、黄祖討伐(荊州切り取り)を目指して、全軍態勢で西方に進撃を開始。その途次、皖城を攻略した孫策と周瑜は、絶世の美女との誉れも高い、美人姉妹を2人一緒に妻に迎える。孫策が姉の「大喬」を、周瑜が妹の「小喬」を同時に娶ったのである。 《2郎、2喬を得る!》・・・・是れは断金の友たる2人が、精神上だけでは無く、2喬を介して血縁的にも結ばれた、究極の友情の完成でもあった。
−−11月・・・・劉勲を「西塞山の戦い」で破ると、
−−12月・・・・遂に念願の〔荊州国境越え〕を果した孫策軍は、
【黄祖】が陣を敷く「沙早vに総攻撃を掛け、敵を潰滅させる。 然し、父の仇である黄祖は単身で逃走し、討ち漏らしてしまう。 とは言え、これで呉国に攻め込んで来る相手は皆無となり、孫策は後顧の憂い無く、『許都襲撃』・『献帝擁護』の中原制覇の夢に邁進できる事となったのである。
200年(26歳)−−
1月・・・・曹操は己の暗殺計画が有ったとして、宮廷内の旧臣派を大粛清。だが、曹操の危機的状況に変わりは無い。南下して来る袁紹軍30万に対して曹軍は数万にも満たない。 然も背後からは小覇王・孫策軍5万が迫らんとしていた。危うし曹操!・・・・だが・・・・
−−4月・・・・大遠征前の息抜きに、大好きな”狩り”に出かけた孫策は、愛馬が駿足であった為に単騎となった処を、刺客に襲われ、その夜のうちに息を引き取った。余りにも突然の死であった。
疾風怒涛、瞬く間に【呉の国】を築き上げた一代の英雄・・・・2代目、小覇王・孫策伯符・・・・・将に此れから、ようやく天下に手が届こうと云う時の、痛恨無念の逝去であった。享年26。
戦国乱世に突如現われた巨大彗星は、呉国と云う輝きを放つや、又突如として宇宙の彼方へと飛び去っていった・・・・・
その死の直前、弟の孫権に言い置いた遺言は、
『江東ノ衆ヲ挙ゲテ、機ヲ両陣ノ間ニ決シ、
天下ト衡ヲ争ウハ、卿、我ニ如カズ。
賢ヲ挙ゲテ能ヲ任ジ、各々ニ其ノ心ヲ尽クサシメ、
以ッテ江東ヲ保ツハ、我、卿ニ如カズ。』
・・・・だから、しっかりと後を頼んだぞ・・・・!!
この時、折悪しく、永遠の友・周瑜公瑾は、遙か400キロ彼方の、
長江上で水軍の演習中であった。
《我が友・孫策伯符よ。お前には、あと10年の命を与えてみたかった
・・・・折角、天下が見えて来たと謂うのに、さぞや無念だったろうな。
2人で共に見て来た、この夢の続きは、
この周瑜公瑾が、必ずや受け継いで見せようぞ・・・・!!》
赤いマントを長江の川風に翻しつつ、
RED BARON・周瑜公瑾の固い誓いは天に届くのか!?
かくて、許都襲撃・献帝奉戴と云う〔天下への夢〕は、一瞬にして、
呉国崩壊の危機へと急転直下してしまった!!
3代目・【孫権仲謀】・・・・この時未だ18歳。昨日までは、兄の眼を霞めては、金庫番に小遣い銭をせびっていた、気楽で呑気な弟であった・・・・。
果たして此の先、
呉の国は一体どう成ってしまうのか!?
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