第122節
曹軍100万、出陣せよ!
                                赤壁戦序曲





 今、覇王・曹操の心は晴れやかである。53歳に成ろうとする人生の中で、最も充実感に溢れている己を感じられる。肉体も至って爽やか、清々しい。全てが昇り調子・上げ潮と実感できる。
 その事を視覚的にも証明するかの如く、見上げる業卩城の西門上には、完成しつつある3連の豪壮華麗な高楼の中心
銅雀台が光り輝いている。
 −−この3連台の完成が先か?天下平定が先か?
                           ・・・・と云う処まで来た。
だから丞相の機嫌はすこぶる好い。つい、軽口の1つも出る。
「呉の地には、絶世の美女姉妹が居るとか。その2喬にきょうが、銅雀台どうじゃくだいたたずむ風情も亦、一幅のおもむきが有ろうのう〜・・・・。」

今や〔南征〕の準備もすっかり整い、あとは唯、好日を選び占って、
大号令を発するだけと成っている。
但、ちょっと残念で心配なのは・・・・最愛の
曹沖そうちゅうが、ここの処、高熱続きで伏せっている事だけであった。
 この『曹沖倉舒そうじょ』−−曹操が、”天から授かった至宝” といとうしむ、自慢の〔跡継ぎ〕である。 数多い子等の中でも、智能・容姿・品格・感性・心根などなど、全てに於いて、他の者達を超越していた。その天賦の重みは、誰もが認めざるを得無い、正に『天の子』であった。
 幼児の頃も時々、高熱に襲われ、ハラハラ気を揉んだものだが、
12歳の此処まで育って呉れたからには、もう随分大丈夫ではあろう。 出来るなら一緒に連れてゆき、この父の覇業の威容を見せて遣りつつ、曹沖の初陣として飾ってやりたかった。・・・・だが今、無理はさせまい。もう少し後に、もっと大きな御披露目の場が出来上がる筈だ。その時にこそ、後継の指名を華々しくやってやれば好い。

《ーーこの父が、お前に天下を呉れてやるぞ。 父が”武”で従えた兎域ういき全土を、お前が永遠磐石の”魏王朝”と為すのだ。
だから早く元気に成って、この父の凱旋を出迎えるのじゃぞ・・・・。》

その代わり、『
曹丕』・『曹彰』・『曹植』の子等は皆、連れてゆく。


自称『曹軍80万』、噂では曹軍100万!』−−
 万全の軍容を整えて、あとは丞相の号令一下、天下平定・覇業の完成に向けて、其の第一歩を踏み出すばかりとなっていた。先ずは《荊州の併呑》である!
 今、業卩城を発つに当っての軍容を一言でいえば・・・・曹魏が持てる力の全てを黄河以南へ移設する為の”民族大移動”であった。それは恰も、国1つを丸ごと、黄河の南へ300キロ引っ越すに等しい荒業であった。


 曹操は、この
「南征」を、覇業達成の総仕上げ、事実上の最終決戦(ハルマゲドン)と位置づけていた。その大戦略に沿って曹操は此の大軍団を3段階に使い分ける心算であった。即ち・・・

 《第1段階の編成》は・・・・曹軍80万の全力を、「業卩」中心の現在の体制から、黄河を越えた「許都」中心の新体制へと
軍事シフトさせる為の
軍事拠点の押し上げ・前進〕であり
 《第2段階の編成》は・・・・荊州攻略の為〕
                             実戦的配備であり、
 《第3段階の編成》は・・・・”荊州水軍”を取り込んで
               再編成した、
呉国侵攻の為〕のもの
 −−とする腹心算であった。

尚、第三段階の総仕上げに備えて、既に在地の有力者を其のまま現地の司令官に追認して、北(陸路)からの支援軍と為す、 「2正面作戦」の構想に対応した”
別働方面軍”も同時に創設・・・・
 如何に曹操が巨大な視野に立って、全国規模の大展開を期していたかが判る。
 その、曹操が絶対の自信を持って編成し終えた
南征軍の全容
は・・・・以下の通りであった。
ーーと、さて、唐突ではあるが、此処でひとつ、読者諸氏には
〔曹操に成って〕戴こう。もし諸氏が総司令官たる曹操であったなら、綺羅星の如き家臣団(持ち駒)の、”誰を何処に★☆★★☆配置して”使うか?
・・・・のテスト問題に取り組んで戴こうと云う仕組である。

 その際の参考に、所属部隊名と肩書は明らかにして措く。実際に曹操が編成した部隊構成の何れの部署に、誰を採用するのか?
 主要な大駒(重要人物)の顔ぶれの中から、正解 (曹操の考えと
一致する者)を探り当てて頂きたい。
尚、これ迄に本書・三国統一志では紹介する機会が無かった者(或いは少なかった者)
            については当然ながら、事前に解答欄に正解を記載して置く事とする。

          抜き打ちテスト
《問題》
  『下記の、曹魏の軍事組織図(ア〜ノ)に当てはまる人物名を、
   《人物グループ欄》の中から選び、1〜25の番号で答えよ。』
                                          (1問4点×25=100点)
人物グループ欄
 〔A群〕・・・文官(主として参謀の任務に重きを持たされれいる者達)
   
         1、荀ケ  2、荀攸  3、賈言羽  4、程c  5、陳羣  
             6、司馬朗  7董昭  8華音欠  9王朗

 【B群】・・・武官(主として武将の任務に重きを持たされている者達)
  
         10、張遼  11、張合卩  12、楽進  13、于禁    14、徐晃  
            15、許緒   16、夏侯惇   17、曹仁  18、曹洪  19、曹真  
            20、曹休  21、夏侯淵  22、趙儼
  
 〈C群〉・・・地方官(在地豪族が方面軍の司令官に任命された者達)
  
         23、李典  24、李通  25、陳登
      
※ ヒント・・・・A群の文官は〔 〕の欄に、B群の武将は【 】の欄に該当する。

     曹操軍団の組織構成  
          (T) 業卩城の守備
    丞相主簿=〔
〕、丞相西曹掾=〔崔王炎〕、丞相東曹掾=〔毛王介〕
          (U) 
許都の守備
         侍中尚書令=〔
〕、前将軍=【
          (V) 
遠征軍
        (1)
中軍→元帥・漢丞相=『曹操』
軍師=〔
〕、長史=〔陳矯〕、太中大夫=〔〕、丞相軍祭酒=〔〕、軍謀祭酒=〔王粲〕、丞相西曹掾=〔〕、丞相東曹掾=〔徐宣〕、
  参丞相軍事=〔
〕、〔〕、〔裴潜〕、〔劉広〕、〔桓階〕、〔和洽〕
  虎騎宿衛軍=【
】、豹騎宿衛軍=【】、龍騎宿衛軍=【】、
           《中軍先鋒》→
奮威将軍=【満寵】、
           《右武衛軍》→横野将軍=【
】、
       (2)
先鋒遠征軍主力軍団である
    丞相主簿・護七軍都督=〔
〕、奮威将軍=〔〕、
           第一軍・・・・虎威将軍=【
】、
           第ニ軍・・・・蕩寇将軍=【
】、
           第三軍・・・・平狄将軍=【
】、
           第四軍・・・・平虜将軍=
【朱霊】
           第五軍・・・・折衝将軍=【
】、
           第六軍・・・・揚武将軍=
【路招】
           第七軍・・・・奮威将軍=
【馮楷】
       (3)
《襄陽支軍》→事N将軍=【】、
       (4)
《後軍》→後軍都督・征南将軍=【】、
                  軍糧督運使=【
】、
         (W) 
現地方面軍
      A→信陽支軍・・・・征南将軍・汝南太守=【

      B→合肥支軍・・・・破虜将軍=【
】、
      C→東城支軍・・・・平東将軍=〔
〕、
      D→広陵支軍・・・・威虜将軍=
【臧覇】

−−・・・・まあ、いずれ劣らぬ綺羅星の如き、豪華オールキャストである。そして、これら将帥に率いられる兵達も亦、凄い!(解答は後ほど)
 歴戦の精強を誇る、命知らずの
青州歩兵・・・・更に、烏丸をはじめとする〔胡騎〕の全てを集めた天下最強の大騎兵軍団一体、此の世に、是れ程の馬の数が居るものか!?もはや全土に残っている軍馬は居無いのではないか?と驚愕する程の物凄さ。
 その人馬の全力が、今、天下の要地〔荊州〕目指して、津波の如くに襲い掛かってゆく。 ーー『三国志世界』にとって、最大・最重要な回転軸と成る
赤壁の戦いに向かい、全ての者の野望と恐怖を巻き込んで・・・・今、歴史は静かに動き出そうとしている・・・・。

 −−時に西暦
208年(建安13年)、7月・・・・
「参る!」とのみ言い置くや、ついに曹操は業卩城を発ち、
「南征」を開始! その地を覆う如き大軍は、あわはやる様子も無く、ゆるゆると、然し確実に、一歩一歩と荊州を目指して動き出した。 荊州の州都・『襄陽』迄は約600キロ、ちょうど其の中間点が『許都』に当たる。「許」は都だから其処には当然、”帝”が居わす。
美々しく着飾り、28歳と成った【
献帝・劉協】である。だが、その力の及ぶ範囲は宮廷の中だけと成り果て、もはや漢王朝の衰退ぶりは目を蔽うばかりであった。それを何とか喰い止め様と、孤軍奮闘して来た反骨の忠臣、少府の【孔融文挙】・・・・
今、彼は帝の側に無く、帝都の地下牢に幽閉された儘、最期の日を待つだけの身となっていた。
−−
8月・・・・或る意味では、この南征の最大の難関であった
「黄水の渡河」をクリアーした曹操は、
許都」に到着。いよいよ後は、全軍を挙げて荊州へ雪崩れ込むだけとなった。・・・が此処で曹操は、何と、1ヶ月以上の時間を費やすのである。
 ”万里の長城越え”以来、猛然たるスピードで、〔反転の大返し〕に天下平定のスケジュールを急がせ、追い立てて来た曹操だったのであるが、この許都で、ガクンと急ブレーキを踏んだ如き、不可解な停滞・遅延が現出するのである。
 −−何故か?・・・・それは、此の時期でしか為し得ぬ、重大かつ緊急な諸案件を、一挙に片づける為であった。
        (その謎の詳細については、第10章・「秘められたタイムリミット」で考察する。)

折しも
此の8月ーー曹操軍が其の国境を侵すのを目前にして
・・・・一代で荊州を築き上げた男・・・・
劉表景升逝った
天は、せめてもの配慮として、この男が営々として積み重ねた功労を嘉して、其の地が他人の足で蹂躙される嘆きを知らせぬ儘、劉表の生涯を閉じさせたのである。享年
66歳。戦乱の世に、ユートピアを開花させた、一代の英雄の死であった。
 恐らく史書通り、自然死・病死であろう。史書の行間から、謀殺の臭いを嗅ぎ取ろうとするのは、如何にも穿ち過ぎであろう。但、その彼の死のタイミングが、余りにもピッタリと決まり過ぎており、既に病床に臥せって居る処に、”一服盛られた”可能性は、全くのゼロとは言い難い。 そうで在っても些かも不思議で無いのが、この時代の恐ろしい傾向なのである。
 ちなみに、劉表の「遺志」は、その有無についてさえも、全く伝わらない。国家にとって最重要事項である 〔後継者の指名〕も、〔曹操襲来に対する方針〕についても片言一句遺されて居無い。・・・・逆に言えば、己の死後の荊州の在り様は、全て劉表の意志に背く形で進行した・・・との「暗黙の可逆性」を示唆しているのかも知れ無い。
 いずれにせよ、存亡の危機に追い込まれた荊州の現実は、綺麗事だけで収まろう筈も無い。「待ってました!」とばかりに、在地豪族を代表する
萠越・萠良・蔡瑁ら重臣達の謀議は、最終段階へと急展開していった。
 劉表の跡を継いだのは、彼等の操り人形、僅か13歳の劉j寄って集って、全面降伏の”理”と””利”とを納得させ、正式決定してしまおうとする。元々その為に結成された重臣連合であり、劉j派であった。(詳細は第10章にて)
 もう1人の跡継ぎ候補(父・劉表の意向は寧ろ此方?)だった長男・
劉gは、とっくの昔に「江夏」の地へ追い払われており、この最終決定の場には居無かった。


 そしてもう1人・・・・客将として、もう荊州に7年間も居候している
劉備玄徳。 曹操を裏切った過去を持つ此の男には、アレかコレかの選択の余地なぞ無い。死ぬまで徹底抗戦あるのみであった。然も昨年、”臥龍”と謂われる大天才諸葛亮孔明を軍師に迎えていた。  そして麾下には、関羽雲長張飛益徳趙雲子龍と云う万夫不当の部将を有している。
 そんなブッソウな男には、一切口出しさせぬ為、完全に蚊帳の外に置き、情報は全て秘匿する・・・・。

 −−思えば、この『無条件降伏』の方針は、たとえ萠越らの自己
保身が動機だとしても、大局的に観れば決して不当とは言えまい。寧ろ、冷静な最善の選択であろう。何せ、抗するには、もはや相手が巨大に過ぎた。その上、荊州軍は殆んど実戦体験が無かった。
特に、州都に居続けて来た重臣達は、全員が全員、戦場体験を全く持って居無かった。理屈抜きで、恐怖が先に立つ。
 又、その「地勢条件」が悪かった。北から来る敵に対しては、其の途中に何の要害も無い大平原であり、敵全軍を分散させる事も叶わない。宛や新野などの出城も、数万単位の敵であれば防ぎ様も有ろうが、80〜100万ともなれば、何をか謂わん。
 その巨大津波・大雪崩れにアッと言う間に呑み込まれ、蟷螂の斧を振う事さえ出来まい。もはや勝ち目は望む洛も無い・・・・。
 とは言い状、「漢水」を全面に、背後に山塊を持つ州都・
襄陽は、以後の中国歴史が証明してゆく如く  (南宋が元の大軍を5年間に渡って
喰い止めるなどなど)、本気にさえなれば、難攻不落の一大要塞たり得たのではある。
 然し、滅亡を先延ばしにした処で詮無き事・・・・でもある。一旦、
抵抗したら最期、生き残れる可能性はゼロである。そんな馬鹿げた道を辿るよりは、もっと利口に立ち廻って、優雅に生き残る事だ。
 この後に、「呉への進攻」を目論んで居るであろう曹操は、必ずや「荊州水軍を当てにする」筈である。又、広大な天下の要地・荊州を経営してゆくには、絶対に我々在地豪族層の協力を必要とする筈である。其処に”生き残り”と”更なる栄達”の鍵が在る。・・・・その方策こそが、「理」と「利」に叶った大人の分別と謂うものであろう。
 だが、この方針に不満を唱える分子は必ず出よう。特に、無分別で血気にばかり逸りたがる軍人・部将には多いかも知れ無かった。
 もし事前に情報が漏れれば、劉備は必ず、そうした不満分子を糾合して勢力拡大を成し、下手をすればクーデターを起こすかも知れ無かった。だから危険分子として、徹底マークする・・・・。
−−さて、その
劉備グループ・・・・
是れ迄の7年間は、ただ雲を掴む様な無為平凡の中に、その貴重な歳月を喰い潰して居るばかりであった。
 固い契りの義兄弟(関羽・張飛)も、その天下無双の武勇を振う場を得ぬ儘、無聊を囲って来た。8年前に劉備を慕ってやって来た趙雲などは、すっかり、生まれたばかりの後主・『
阿斗(劉禅)』の男乳母(保育係)に成ってしまって居た。劉備自身も”脾肉の嘆”に身を持て余す日々の連続であった。
この時すでに47歳・・・・人生で最も男盛りの40代もほぼ使い終り、当時としては早、老境に差し掛かっていた。
 群雄の間を泳ぎ廻る〔渡り鳥人生〕で、すっかり名前だけは天下に知れ渡ってはいるが、30年間、全土を駆け巡った挙句、詰まる処は身に寸土すら持てぬ居候に過ぎ無い。
 ばかりか、この劉備ーー曹操とは同世代で、因縁浅からぬ過去と経歴を有していた。呂布に破れて徐州を乗っ取られた時には、その懐に飛び込み、破格の厚遇を受けてもいた。にも拘らず、隙を見て其の恩義を裏切り逃亡し。敵対者と成って独立宣言して見せた。
 置き去りにされた関羽は、ダメ主君の夫人達を守る為、曹操に従うが、これも亦、途中で劉備の元へと逃亡した。(まあ、曹操とて、それを承知で利用したのだから、ドッチもドッチ、お互い様ではあったが)

【劉備・関羽・張飛の3羽ガラス】は・・・・その血盟の若き日から、
公孫讃』→(田楷)→『陶謙』→『呂布』→『曹操』→『袁紹』→『劉表』と渡り歩き、放浪流転を繰り返していた。目星しい群雄全てにワラジを脱いでいる。 そして其の相手は曹操以外、全てもう此の世には存在して居無い。その事実を思えば、彼等3人は、恰も 〔負けるが勝ち〕 を地で行っている様な、したたかさとも言える。何やかや言っても、群雄が互いに死闘を繰り広げては殺し合う時代を、独り生き残って居る。しぶといと言えば、可也しぶとい。・・・・だが、一時は
「徐州牧」に就いたりしたものの、その30有余年の人生は、単なる徒労と帰し、今も変わらぬ根無し草・・・・もし、曹操が本気で攻めて来たら、この先一体、何処へ逃げたら善いのか!?・・・・・表面上は悠揚迫らぬ大人風を装いながらも、その実、胃がキリキリ痛む日々の連続。居候に憂き身を窶すドン底状態に在った。−−何故か??

 ひと言で謂えば・・・・大戦略眼を持つ
ブレーン不在の故であった。旗挙げ以来30有余年、ここ荊州に落ち延びて来る迄の間、頼りと
なる『名士・参謀』が、誰一人として寄り付いては呉れ無かったのだ。
 その原因は、余りにも強烈で狭隘な、その集団の持つ〔仁侠性〕に在った。折角来て呉れた「
陳羣」(現・曹操の参謀)などの大名士も、関羽・張飛の義兄弟の意見を尊重してしまう、その狭い血縁的体質に嫌気が差し、みな立ち去ってしまうのだった。どんなに個人の武勇を轟かせようとも、所詮、彼等は《傭兵部隊》でしか在り得無かったのだ。 但し、この男には『不思議』としか言い様の無い、人を惹き付ける”何か”が在る事だけは認めざるを得無い。曹操の魅力とは又異質な、〔大衆的人間力〕とでも言おうか。
 曹操や孫権の様な、血の繋がった一族の協力者が皆無の最低の環境。家柄も財産も、学問すら碌に受けて居無い所からの出発であった。そんな底辺から身を興した男だったが、”大望”だけは、感心な事に失わない。
 妻を置き去り、義兄弟すら放っぽらかして、平気で独りで逃げ去る事も2度、3度。なのに今、気が付けば、チャッカリ、全員が無事集合して居る・・・・。何ともハヤ、掴み処の無い人物ではある。

 そんな彼等は今(208年・建安13年)、荊州の首都・襄陽の川向うの「
樊城はんじょう」に居る。それ以前は、もっと北の新野城を与えられ、荊州の楯代わり(爪牙そうが北藩ほくはん)にさせられていた。
       (実際、威力偵察に来た夏侯惇軍を、徐庶の策謀を得て撃退した事もあった。)

 だが、昨年の事、そんな劉備グループに、一大転機が訪れた。
待望の軍師、27歳の
諸葛亮孔明を得たのである。
                             
 −−そして、それから半年後の
9月の其の日・・・・
天が抜ける様に青い日であった。劉備主従はいつも通り、樊城から野駆けに出た。 もし何か異変が有れば、襄陽の「劉表本人」から、真っ先に”出動要請”が来る筈だと考えていた。 何故なら彼等の
存在理由は唯一つ。 北の抑え、番犬として養われて居たのであるから、変事あらば、真っ先に立ち向かわせられる筈であったからである。
 道の端には秋桜子が楚々と咲いている。

 −−と、その間道の彼方に、土煙を蹴立てて疾駆して来る1つの馬影が視認された。

「何者ぞ?」    関羽と張飛が、劉備の馬前に立ち塞がる。どうも正規の騎兵では無い。軍装ではなく、平服らしい。

「あれは、我が手の者です。」

諸葛亮が放って措いた忍びの一騎であった。

「御注し〜ん


その影は、馬上から転がり落ちる様にして、地に片膝をついた。

如何いかが致した?」

「そ、曹操軍が押し寄せて参りました
!!

「ム、動き出したか。して、その位置は?」

慌てず騒がぬ諸葛亮。
手折たおった一輪の竜胆リンドウでながらの受け答えであった。

「し、し、新野城に、曹操みずから入りました!」

「−−な、何
!?・・・・新野?そ、それは真か!!
手から竜胆リンドウこぼれ落ちた。

「兵力は?斥候部隊では無いのか!?」

関羽が部将としての質問を浴びせた。

「いえ、騎馬軍団のみで5、6万。中軍で御座います。噂では、その後に80万が!」

「なにィ〜、80万だと〜


張飛が眼をひん剥いた。

「80万は定かなりませぬが、新野の城に入ったのが曹操自身で
                ある事だけは、間違い御座いませぬ。」

「−−しまった!!出し抜かれたか・・・・!?」


諸葛亮、しばし絶句して立ちすくむ。策士、策に溺れた。それは、劉備にとっては勿論、諸葛亮にとっても、まさに青天せいてん霹靂へきれきであった!!

新野城と此処・樊城とは、僅か50キロに過ぎ無い。伝令が疾駆して来た時間を差し引けば、今夜中にも襲撃可能な至近距離である。

「曹操軍は引き続き、直ちに進軍しそうであったか?」

今となっては、其の一点 (時間的猶予の長短)だけが、愁眉の急の問題である。

「然とは判りませぬ。但、軍馬は相当疲れている風に観えました。」

「−−兎に角、城に急ぎ戻ろうぞ!」

敵前逃亡の名人・劉備玄徳の言葉に、一行は樊城へと全速力で駆け戻る。

ーー
208年(建安13年)9月・・・・

突如、劉備主従の眼の前に、曹操率いる50〜60万の大軍が、信じられぬ近さで出現したのである!!

「−−・・・・。」

 樊城へと走る馬の背で、”臥龍”・”伏龍”と謳われ、千年に一人の大軍師とまで期待される諸葛亮は、固く唇を噛み締めている。

《不覚なり孔明!》

どう言い繕ろおうと、既に決定的な一敗を喫したのである。

《それにしても、何とまあ、間の抜けた話よ。 100万もの大軍が
 鼻先に現われる迄、何ひとつ気付け無かったとは。
 後世の人々には、軍師失格と笑われても、致し方あるまい・・・・。》

だが、次善の策は用意できていた。
「かくなった上は、直ちに
江陵★★を目指しましょう!江陵こうりょうにて
      軍船を得れば、その後の道筋は、どうとでも付きまする。」

〔江陵〕には又、昔から、巨大な武器庫が設けられており、裸で逃げ出したとしても、再武装して捲土重来を期す事も可能であった。

「よし、江陵へ向おう。」

逃亡の達人・劉備の嗅覚も、その方角を指示していた。



 −−
9月・・・・ついに曹軍数十万は国境を犯し、雪崩を打って荊州領内に殺到した。その凄まじい軍容は以下の如くであった。
            (※抜き打ちテストの解答です!赤文字が正解)

       曹操軍団の組織構成  

          (T) 業卩城の守備
 丞相主簿=〔
司馬朗〕、丞相西曹掾=〔崔王炎〕、丞相東曹掾=〔毛王介〕

          (U) 
許都の守備
      侍中尚書令=〔
荀ケ〕、前将軍=【夏侯惇

          (V) 
遠征軍
        (1)
中軍→元帥・漢丞相=曹操
軍師=〔
荀攸〕、長史=〔陳矯〕、太中大夫=〔賈言羽〕、丞相軍祭酒=〔董昭軍謀祭酒=〔王粲〕、丞相西曹掾=〔陳羣丞相東曹掾=〔徐宣〕
参丞相軍事=〔
華音欠〕、〔王朗〕、〔裴潜〕、〔劉広〕、〔桓階〕、〔和洽〕
           虎騎宿衛軍=【
許猪
           豹騎宿衛軍=【
曹休
           龍騎宿衛軍=【
曹真

           《中軍先鋒》→
奮威将軍=【満寵】、
           《右武衛軍》→横野将軍=【
徐晃】、

       (2)
先鋒遠征軍主力軍団である
    丞相主簿・護七軍都督=〔
趙儼〕、奮威将軍=〔程c〕、
           第一軍・・・・虎威将軍=【
于禁】、
           第ニ軍・・・・蕩寇将軍=【
張遼】、
           第三軍・・・・平狄将軍=【
張合卩】、
           第四軍・・・・平虜将軍=
【朱霊】
           第五軍・・・・折衝将軍=【
楽進】、
           第六軍・・・・揚武将軍=
【路招】
           第七軍・・・・奮威将軍=
馮楷ふうかい

       (3)
《襄陽支軍》→事N将軍=【曹洪】、

       (4)
《後軍》→後軍都督・征南将軍=【曹仁】、
                  軍糧督運使=【
夏侯淵】、

         (W) 
現地方面軍
      A→信陽支軍・・・・征南将軍・汝南太守=【
李通
      B→合肥支軍・・・・破虜将軍=【
李典】、
      C→東城支軍・・・・平東将軍=〔
陳登〕、
      D→広陵支軍・・・・威虜将軍=
臧覇ぞうは

真面目にテストに取り組まれた方の為に、記号と番号の組み合わせによる解答も掲載して置きます。
  ア・・・・6   イ・・・・1   ウ・・・16   エ・・・・2   オ・・・・3 
  カ・・・・7   キ・・・・5   ク・・・・8    ケ・・・・9   コ・・15 
  サ・・・20   シ・・19   ス・・・14   セ・・・22   ソ・・・4 
  ナ・・・13   ニ・・・10   ヌ・・・11   ネ・・・12   ノ・・・18
  ハ・・・17   ヒ・・・21   フ・・・24   ヘ・・・23   ホ・・・21



この大軍団の、荊州進攻の〔真の狙い〕は・・・・
  《江陵の水軍☆☆☆★★》 を、無傷で手に入れる事であった。

「襄陽など、どうでもよい。江陵じゃ。一刻も早く江陵を占拠せよ!」
丞相の厳命であった。

「江陵の軍船を我が手に収めた時、
            天下は自ずから此の手に入って来るのじゃ!」

荊州水軍の巨大母港は、長江沿いの
江陵である。州都・襄陽から真南に、更に200キロ離れている。急がねば、邪魔が入る恐れがあった。劉備の奴である!
 劉備に先を越され、トンズラの駄賃に、ゴッソリ荊州水軍を持っていかれたら、天下平定の大構想は一大頓挫を来たす。
 何せ”喰えない奴”だから、江陵には必ず眼を付けて居よう。
してや、
軍師として諸葛亮と云う大天才が加わったのだ。

(曹操は赤壁戦が終了する迄、諸葛亮などと云うマイナーな人物を知っていたとは思われ無い・・・・とする観方・説も有るが、この直後に徐庶の母親を人質に取っている事から推して、その学友である
諸葛亮の存在や動向を知らぬ筈は無いのである。)

此方こちらも機密保持には万全を期した心算つもりだが、何せ100万の動きだ。勘付かれても不思議は無い。

《奴等との競争じゃ!》
だから曹操は「宛城」あたりで、荊州の無条件降伏を受諾して見せる心算ではあったが、そんなセレモニーなどには全く関心を示さず、更に精鋭の軽装騎馬軍を選りすぐり、ひたすら
江陵★★を目指す
のであった。

襄陽〜江陵〜赤壁の周辺図 −−そして此の時、もう一人・・・・
  東側の別ルートから、その
江陵★★を目指している男が居た。
                                
呉国の命運を背負った男、異形いぎょうの星を持つ魯粛ろしゅく子敬】の姿であった。この魯粛は極く最近、総司令官の周瑜公瑾から推挙されて孫権に召し抱えられたばかりの新参者である。


ーーちなみに、その彼を取り立てた当の母国(呉国)では・・・・
 連日に渡る大激論が展開されていた。と言うよりは、3代目君主の【孫権仲謀】が、重臣達に取り囲まれて、最後の決断を迫り続けられて居た。
 −−曹操は官軍で御座いますぞ。
 −−勝ち目は御座らぬ。
 −−降伏なされよ。
ようやく江東の地に誕生したばかりの呉の国力は、誰がどう贔屓目ひいきめに観ても、曹魏の10分の1以下であった。 兵力は精々数万余、大ボラを吹いても10万が限度。荊州国軍にすら及ばない。
 その現実を突きつけられれば、若い君主はグウの音も出ない。
右を見ても、左を見ても、降伏・帰順の大合唱・・・・孫権の苦衷を慮って呉れる者は、この座には一人として居無かった。

だが、遠方で水軍の猛演習に明け暮れていた或る人物が唯独り、その最終会議に乗り込むや、それらの声をピタリと沈黙させ、一転、「断固決戦すべし!」 の国論に決してしまう。
 呉国最高司令官・
周瑜公瑾である。

−−絶対、勝てまする!お任せあれ!

その周瑜と唯一人、見解を同じくしていたのが
【魯粛】であった。但し、軍政家である周瑜は呉国単独抗戦論〕を旨とするが、文官である魯粛は同盟者必要論〕であった。

今、荊州を目指す魯粛の公式目的は・・・『劉表に対する
弔問』 であった。が、彼の胸中密かに在るのは《同盟者探し》である。無論、第一候補は【劉j】であった。但し、是れは魯粛の独断である。
越権行為、統帥権干犯とうすいけんかんぱんにも相当する、思い切った度胸勝負に出ようという訳なのである。 とは言え、長江の船上に在る魯粛も亦、曹操の荊州進攻の事実を知らない。まして、同盟相手と目論んでいた「劉j」が、もはや全面降伏を決めて居た事など、知る由も無かった。   ・・・・だから魯粛の船旅の目的地も亦、襄陽への玄関口に当たる
江陵であるのだった。


−−かくて此処に、ほぼ時を同じくして、曹操、劉備、そして魯粛 (謂わば、魏・呉・蜀) の3者が、広い中国の同一地点・「江陵」を目指そうとする状況が生まれるのであった。この、〔三国時代の起点〕に集中する3筋の光の矢は、正に、この後に巻き起こるであろう、魏・呉・蜀、三国攻防の到来を象徴する、時代の前ぶれ・予兆であった・・・・と言えようか。
 今、荊州の地に於いて、大小3つの勢力の思惑が交錯し合い、夫れ夫れの野望がぶつかり合って、新たな歴史を回天させ始めようとしていた。
−−時に、
建安13年(西暦208年)秋9月の事であった。

 
曹操孟徳ーー静平の姦雄・乱世の英雄・53歳
              天下統一の夢まであと一歩!
              其のゆく手に何の障壁が在ろうや。
 
劉備玄徳−−渡り鳥のダメ男・・・・47歳
 
諸葛亮孔明−−蒼ざめる天才・・・・27歳
 
孫権仲謀−−未だ頼り無い3代目・・・・26歳
 
魯粛子敬−−風穴を空けるか・・・・36歳
 
献帝劉協−−隠忍の建安帝・・・・27歳。
 
【司馬懿仲達】−−成り行き任せの・・・・29歳。
 そして、立ちはだかる男ーー
周瑜公瑾・・・・33歳



赤壁の大決戦》迄あと3ヶ月



 但し、本書・『三国統一志』は未だ、その大史劇の主役たる、
呉国★★其の後★★★ を見て来て居無い。
 2代目・小覇王こと【孫策】が、刺客の手によって急死してしまった時点でストップした儘である。故に次章では、孫権が3代目と成った西暦200年から、赤壁戦に突入してゆく208年までの9年間を、改めて観てゆく事となる。
 それが終わった時はじめて、魏・呉・蜀の3者が出揃い、同じ歴史時間帯の、同一場面で、英雄どもが総登場する、壮大な史劇を迎える事となってゆく。そして其れは・・・・
曹操の天下統一の野望が撃ち砕かれ、三国時代が形成される原初となる、歴史の大転換軸でもある。


 蓋し、赤壁の大史劇は、周瑜公瑾のものである。
その序曲たる、〔呉国の其の後〕 9年間を追おう。
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