第121節
立ちはだかる男達
                                     不屈の闘魂




天下統一を狙う、もう一人の男が居た
世の中押し並べて「曹操の覇業達成近し!」と思われている中、
唯独り、心中深く、曹操の野望を打ち砕き、逆に是れを追い詰め、撃ち滅ぼそうと期している男が居たのである。
ーーその男の名は・・・・
周瑜公瑾しゅうゆこうきん】!!
呉の国軍総司令官・大都督の任に就いている、弱冠33歳の颯爽たる貴公子であった。この「美周郎」と呼ばれる彼の心には、〔降伏〕の2文字は無かった。在るのは唯、〔逆天〕の強い意志だけであった。



と謂う訳で、此処で我々は暫し、曹操から「攻められる側」の諸勢力の状況・動静を垣間見て措くとしよう。その際の主たる観点は、彼等には果たして、曹操の野望に対して立ち
はだかれる様な要素・可能性が在るのかどうか?
・・・・と云う事である。
尚、その場合、彼等には大きく分類して5つの方策・態度が存在していたと観てよいだろう。 (一応、5つの対抗勢力が在ったと謂う風に観る訳である)但し複雑なのは、その地域を代表する君主の意志が、必ずしも其の国論を代表するとは言い難い〔不安定要素〕が、全ての勢力に共通して存在している点である。ーー即ち、再三強調してきた《君主権》と《家臣団》との確執=地方豪族(のちの貴族階級)との利害不一致が色濃く残る時代状況であったのである。言い換えれば、未だ此の時期、乱世の倣いとして当然ながら、どの勢力も、世代を連ねた君臣間の恩顧の歴史が無く、今現在、君主として担いで(仰いで)いる者は飽くまで〔仮の〕君主として接せざるを得無い事情が存在していたからである。−−何故なら基本的に、今の君主は中央(漢朝廷)から派遣されてやって来た〔よそ者〕であり、代々その地域に根付いて来た〔在地豪族〕の既得権益を保全・発展させる者でない限り、君主の価値は無い・・・・とする、真にシビアな現実に直面していたのである。
 だから心許無こころもとない君主としては、何とか其の即物的価値観・契約的上下関係の狭間に、『忠義』だの『忠節』だのの、精神的価値観(精神性)を注入しつつ、己の地位を確保してゆかねばならぬと云う、辛い一面をも有していたのである。更には、軍人(戦争に拠ってのみ栄達可能な者達)と文官(もっぱら治世に才能を発揮して栄達してゆく者達)の立場・面目の違いから来る見解・意見の相違も存在した。(尤も殆んどの者は、軍務と治世を兼務する軍政家として活躍していたのだが)


−−と謂う事になれば、此処は矢張り、諸勢力の個々について1つ1つ具体的に観てゆくしか無い。その順番としては、本命は後に取って置いて、始めは然程に影響力の無い者から観てゆくのが常道と謂うものであろう。
で、曹操に対抗しえる勢力の
()は・・・・取り合えず模様眺めして居る馬超】の西方
()
は・・・・今のところ一見、無風地帯に観える劉璋】の益州
           (※ 益州の北口に在る張魯も見落とせない。)
()
は・・・・曹操の直接のターゲットとされている劉表】の荊州
()
は・・・・その荊州で居候している劉備・孔明】グループ
()
は・・・・この4ヶ月後に赤壁で曹操と激突する
                    【孫権・周瑜】の

全国勢力分布図 さて、(1)西方地域〕の様子であるがーー
老いを感じた「馬騰」が一族を引き連れて曹操に帰順(業卩に永住を覚悟) して以降、その長男・
馬超だけは長安に留まり、軍権の一切を父親から引き継ぎ、暴れん坊の大先輩・「韓遂」と手を組んで勢力の増大化を図ろうとしていた。然し今の処は、これと言った動きは観られ無い。馬超としては事実上、親兄弟・一族郎党を人質に取られている様なものだから、胸中に如何なる思いが在ろうとも、何の手出しも出来無いのが現実であった。
 故に、馬超が、曹操の野望に立ちはだかって、その南征の間隙を突いて、単独で事を起こす可能性は皆無と観るべきであろう。
 もし万が一、馬超が行動を起こすとしたら、それは朝廷=〔献帝の密勅〕による《反曹操連合》が成立して、諸勢力が同時多発的に決起する場合のみであった。だが曹操に手抜かりの在ろう筈も無い。
 既に其の危険性は取り除かれていた。すなわち、其の連合を画策し得る唯一の危険人物であった【孔融の粛清】を発動。孔融は今、許都の地下牢で処刑の日を待つばかりの状態にあった。とてもの事、馬超が反逆を実行する可能性は在り得無い・・・・。
次に、
(2)益州であるがーー194年に、事実上の建国者である「劉焉りゅうえん」が死去した後、2代目・劉璋の治世は既に14年目を迎えていた。だが、その益州・・・・
 実は、(後世には殆んど知られていないが)まさに絵に描いた様な
内憂外患劇の真っ只中。劉璋は其の治世の最初から現在まで、只管ひたすらオロオロと右顧左眄うこさべんし、君主の座を保つ事だけで四苦八苦の有様であったのである。
 そもそも、劉璋の2代目襲名の経緯いきさつにしてからが、何ともハヤ怪しいものだった。『州ノ大官(重臣)ノ趙韋ラハ、
劉璋ノ人柄ガ温厚(能力が無い)ナノヲ自分達の利益ト考エ、共同シテ劉璋ヲ益州史刺トスル様ニ上書シ』 た結果、長安の朝廷(李寉政権)からOKが出たのであった(荊州の劉表を攻撃せよとの条件付きではあったが)。つまり、家来達からは操縦し易いボンクラと見込まれての2代目就任だった訳だ。最初からこんな塩梅であったのだから、後はもう、予想通りの展開が蜿蜒と続くばかり。
 先ず・・・先代・「劉焉」が見込んで(母親の色香による援護射撃もあったが)、益州の北口の番犬として〔
漢中(盆地)〕の守備隊長に任命されていた張魯が、全く2代目・劉璋の言う事を聞かなくなり、独立してしまった。流石に怒った劉璋は、変に色っぽい(少容アリの)彼の母親と弟を切り殺して措いてから、討伐軍を送り込んだ。
 処が其の軍は、新興宗教の”
五斗米道”を組織して強力に成っていた張魯軍に返り討ちにされてしまった。ばかりか最近では逆に、屡々しばしば攻め込まれて防戦一方と云う有様で、
              形勢はすっかり逆転状態。是れが
〔外患〕
それに加えて
〔内憂〕の方は、もはや”内乱”と言っていい程の
大騒動であった。『
英雄記』の記述によれば、こう云う事であった。

これより以前(劉焉の時から)、南陽・三輔(長安周辺)の人々が数万家族も益州に流れ込んでいたのであるが、それらの人々を集めて兵士とし、”東州兵”と名付けた。』・・・・自分もよそ者であった劉焉は劉焉を頼るしか生き残る道の無い、彼等の立場・忠誠心を利用して重く用い、己の親衛軍としたのである。 手持ちの直属軍を所有して居無かった劉焉としては、誠に使い勝手の良い者達であった。だが昔から益州に居た在地の豪族達にしてみれば、”よそ者の東州人”が勢力を振えば振う程、己の既得権益が侵害される事となる。その不満や不協和音を、先代の劉焉は彼の貫禄で何とか調整して来ていたのであるが・・・・
劉璋は其の性格が優柔不断で威厳が無く、東州人が在地の民衆を侵害しても、取締る事が出来ず、政令にも欠ける(無為無策)処が多かったので、在地の益州住民の怨みは一段と強まっていった。
此の
(在地とよそ者の)問題については、趙韋(劉璋を担いだ張本人)が予てから人々の心を掴んでいたので、劉璋は其の解決を全面的に趙韋に任せてしまった。だが趙韋は(待ってました!とばかりに)、密かに在地豪族達と手を結び、彼等と共に挙兵して劉璋を攻撃した。すると主要な郡は皆、趙韋の側に呼応した為、劉璋は盛都城に逃げ込んで籠城した。』・・・・2代目劉璋の命運は風前の灯、趙韋の野心は達成された、かと思われた瞬間、思わぬ援軍が立ち上がって呉れたのだ。在地の者達からは深い怨みを買っている事を、誰よりも強く自覚していた”東州人”達であった。もし劉璋が敗れる様な事になれば、それは即、自分達の絶滅を意味したのである。だから『東州人は趙韋を恐れ、みな心を1つにして力を合わせて劉璋を助け、誰も彼も必死になって戦った結果、反逆者を撃破し、逆に趙韋を追い詰めた。すると武将の李異らが寝返って趙韋を斬殺した。

尚、こうした外憂や内乱を招いた原因を「
正史」はこう記している。
是レ等ノ事ハ全テ、劉璋ニ明晰ナ判断力が欠け、部外者カラノ告げ口ヲ聞キ入レタ事ガ原因デアル

・・・・・世が平和な時代だったら、きっと、温厚で仁愛に満ちた名君と成れたでもあろう劉璋であるが、何せ普通の(善良な)感覚の持主には荷が重過ぎる時代状況であった。とは謂え、実際に劉璋の下に居る家臣達にしてみれば堪ったものでは無い。そんな悠長な事を
言って居る間に何時、他国に攻め亡ぼさられるかも知れ無いのだ。
 途中で何か1回でも「流石!」と思わせる様な業績があれば未だしも、最初から14年間、ず〜っとこんな様な危ナッカシイ話ばかりでは、確かに誰しも行き先不安になって来る。
「御主君ハ暗愚デアル!」とか「この儘では先が思い遣られる!」と悲嘆する家臣が出てしまっても仕方が無い。そもそも国政を担える様な人材・重臣達は押し並べて、戦乱を避けて流入して来た外来の名士(東州人)であるから、その思いは切実であった。そして、そんな重臣層の中からは、とうとう・・・・
もっと有能な人物を招いて、主君の首を挿げ替えるべきである!》とか、《俺は本気で国を売るぞ!新しい主君を探して来る!》などと物騒な腹を固めて密談する者まで出て来る始末であったのだ。

その〔
筋金入りの売国奴〕・〔折紙付きの変節漢〕とはーーのち、劉備玄徳に蜀の国をプレゼントする(売り渡す)法正張松の2人であった。
・・・・・と云う様な実情で、
〔益州の劉璋〕は他人の事どころか、己の身ひとつを保てるかどうかさえ不確実の状況であり、とてもの事、曹操の覇道に立ち向かえる様な立場には無かった・・・・ので
ある。南(荊州)へ向って征く曹操にしてみれば、その間、一顧だに
せずとも良い相手であるのだった。

さて、その
(3)はーー
曹操から直接狙われている
荊州であるが・・・・老境からの一代で、戦乱の世に美事、黄金郷を花開かせた劉表は、この
208年
7月の時点では、未だ生きていた。正確に言うなら、曹操が100万を呼号して業卩城を発軍した時には、未だ呼吸はして居たのであった。即ち66歳の劉表は「死に至る病」の床に就いた儘、余命幾許いくばくも無い状態にあり、事実上の政権運営は、地元豪族の重臣、【萠越】【萠良】兄弟と【蔡瑁】らに移っていたのである。
そして劉表の後継者は既に、彼等の強力な後押し(利害・縁戚関係の詳細は第100節を参照されたい)によって、後妻・蔡瑁の妹の子である13歳の劉jに内定していた。先妻の子の劉gは、この3月に郡太守の「黄祖」が、『孫権』軍の総攻撃によって戦死させられ、空席と成っていた〔夏口郡太守〕として中央(襄陽城)から左遷・追放されていた。 (その時、彼が諸葛亮に身の処し方を相談したとされる、”梯子はずしの密談”は有名)そして地元豪族の重臣間では、曹操軍の襲来に対する
国としての態度〕を、公表する以前の随分前から、既に暗黙の了解として既決していたのである。すなわちーー
〔立ちはだかる・抗戦する〕などトンデモナイ!ひたすら恭順、選択の余地も無い
全面降伏あるのみ!》・・・・であった。
 ーーだが、そんな彼等にとって、1つだけ懸念材料が在った。その〔国の決定〕 に対して、必ず反対するであろう
厄介者が居たのである。無論、読者諸氏には、とっくの昔に、其れが誰の事であるかはお判りであろう。7年前に劉表が受け入れた劉備である。
 その劉備は、曹操との間にノッピキナラヌ仇敵関係が在ったから、曹操が襲来して来たら徹底抗戦するしか生き残る道は無い人物である。世の常として、何事にも反対する者達は在って当然だが、もし其の厄介者に賛同する者達の数が、ヒョンな事から膨れ上がりでもすれば、〔中央の意志〕が曹操に誤解され、とんだトバッチリを喰わされるやも知れ無い。いや下手をすれば、曹操を騙した事にも為り兼ねず、そう為れば曹操の激怒を買って一巻の終わりである。
だから荊州の中枢部(萠越ら地元豪族層)は、その厄介者を徹底的に無視して会議にも寄せ付けず、情報の一切を秘匿する事にした。

ーーと云う事で、曹操の直接攻撃に晒されている〔荊州の意思〕は、立ちはだかる処か、諸手を挙げての全面降伏あるのみ・・・・と云う状況であるのだった。
そこで問題となるのは
(4)劉備集団〕の動向になるのだが・・・・
劉備はほぼ半年前に、マイナーサロンでは「伏龍」とか「臥龍」と呼ばれて居た、自分より20歳も若い白面の青年・諸葛亮を隆中に三度も訪ね、その邂逅の草庵で、天下三分の計》 を示され、感激した劉備は招いて彼を軍師と為していた。
所謂いわゆる、後世人口じんこう膾炙かいしゃしている
隆中対りゅうちゅうたいであった。爾来じらい、劉備は今後の一切を孔明に委ねる事にしていた。実現出来るか否かは判らねど、孔明は自分を一国の主にして見せると誓って呉れた。阪神半疑(のタイガース)ではあったが、俄然勇気が湧いてくる劉備ではあった。その劉備グループは今現在、州都・襄陽じょうようからは漢水かんすい1本隔てた、対岸の樊城はんじょうに居た。以前は、より曹操に近い、もっと北の「しん城」を与えられて、北玄関の爪牙そうが(番犬)を任されていたのだが、何を思ったか劉表(乃至は萠越ら)は、劉備を距離的に己(達)に近い〔樊城〕に呼び返したのであった。・・・・思うに、己達の眼の届かない地方で、劉備が着々と自分の私兵集団を強大化させる事に不安を感じた為であろう。又、いざ曹操が襲来した時に、近くに置いて措けば、如何に”逃走の達人の劉備”でも、トンズラしてしまう事は無いであろうと踏んだのかも知れ無い。恐らく其の両方だろう。

 いずれにせよ、此処で最大の問題はーー劉備グループ、取り分けても彼等全員の命運を担う事と成った
諸葛亮孔明の戦略と、曹操襲来に備えた筈の実際的な動向である。
 もっと直載じきさいに言えば・・・・この1ヵ月後に実行された、曹操の荊州侵攻に際して発生した、
劉備一行の大潰走・大惨劇何故、防げなかったのか!?
 言い換えれば、
前々から判り切っていたにも拘らず、なぜ孔明は何の手立ても構ぜず、醜態とも謂えるドタバタ劇を招いてしまったのか??
・・・・と云う”不可解極まりない史実”の検証である。
(※ 正史は、この部分をサラリと流し書きしており、敢えて言えば、
          隠蔽いんぺい隠匿いんとくの意図が感じられもする箇所である。)
故に、それを検証しようとする場合、どうしてもタイムラグを生ずる
(些か本線・本文より先走る事になる) のだが、史書の記述空白を埋める作業とあらば致し方あるまい、と思って戴きたい。

そこで我々は、其れを検証・考察する前に先ず、(表面的には)確定している〔史実〕の方から確認して措こう。
 一言で謂えば・・・・
一体全体、天才軍師と称讃される諸葛亮は、何をやってたんだ!!】 と云う事である。

ーー『
正史・先主伝』の記述ではーー
先主(劉備)ハ樊ニ駐屯シテ居テ、曹公ノ不意ノ来攻ヲ知ラ無カッタ。曹公ガ宛ニ到着シテカラ初メテ之ヲ知リ、カクテ自分ノ軍勢ヲ率イテ去ッタ。 とだけあり、

また、−−『
正史・諸葛亮伝』ではーー
突然、劉表ガ亡クナリ、劉jハ曹公ノ軍勢ガ遣ッテ来ルト聞キ、
使者ヲ遣ワシテ降伏ヲ申シ出タ。先主ハ樊ニ居テ此ノ事ヲ知リ、其ノ軍勢ヲ率イテ南ヘ移ッタ。諸葛亮ト徐庶ハ共ニ随行シタガ、曹公ニ追撃サレテ敗北シ、徐庶の母ガ捕虜トナッタ。
と、あるのみである。

然し、この至極短い記述からでさえ判る事は、驚くべき事に・・・・

諸葛亮は、数十万もの大軍団である曹操が眼と鼻の先(100キロ先の宛城から更に進んだ、僅か50キロ先の新野城)に来る迄、その襲来にも気付かず、何と、既に正式な使者が曹操に降伏を申し出た事すらをも、知らずに居たのである ・・・・何とも間抜けな軍師ではないか!信じ難い阿呆アホ丸出しの大失態である!これでは当然、その後ドタバタと逃げ廻る事となり、かろうじて九死に一生を得るの体たらく・・・・誰がどう言おうと、〔樊城〕→〔襄陽城〕→〔長坂坡〕→〔当陽〕→〔漢水〕→〔夏口〕の逃走劇は、その途中での【10万余の民衆】を巻き込んだ大殺戮劇を引き起こし、主君の妻子を殺され、もし、武将達の奮戦なくば全滅していたかも知れ無い、見るも無残・語るも恥ずかしい
大敗北に違い無いのである。
 こんな事態を招き寄せる事なら、何も大天才軍師で無くとも、猿にだって出来る。と言うより、曹操の襲来を前にして、何にもして居無いも同然である。いや、天下の全員が注目していた一大事を、丸で予想さえして居無かったとは・・・・
兎に角ヒドイ
御粗末おそまつどころか十姉妹ジュウシマツであり、開いた口が塞がらない・・・・。
【天下三分の計】などと大口を叩く前に、目の前の現実をシッカリと直視して貰いたいものである!

《ーーおい、こんなに言われっ放しで好いのかヨ〜〜?》 (グスン)、と云う孔明ファンの嘆きと怒りの声が聞こえて来る様である。


だが心配は御無用・・・それは其処、当・三国統一志は、ちゃ〜んと批判解消の弁明を備えているのである。
 −−ズバリ、申し上げましょう。その弁明とは・・・・

そもそも最初から〔隆中対〕などと云うものは、存在しなかった!・・・・と 読み解くのが、正式な古代の歴史書への接し方である、と云うものである。

では、〔天下三分の計〕の話も無かったのか?と言えば、そんな事は無いのである。−−詰り、正史の著者・陳寿は、諸葛亮に関して集めた真偽不明な厖大な史料の中から、この〔天下三分の計〕の話はどうも本物らしいから、何処かに書いて置こう・・・として・・・では一体何時、如何なる場面で話した事にしたら、最も劇的効果が盛り上がるだろうかと考えた末、嘘や矛盾・誤記にならない範囲内(或る重大な事実と事実の間の空白期間内)での、其の場面に挿し挟んだモノなのであり、その場合の日時設定はアバウトであっても構わない
・・・・
そうした書き方が、古代の歴史書としては当然として認められていたのであり、歴史家の才腕の振い処でもあったのだ
其れをあたかも、その現場の証拠ビデオの再生でもあるかの如く、
勝手にキチキチと捉える我々(後世の者達)の方が悪いのである。

         ↓
         ↓

と云う事情が判明すれば、この不可解な孔明の大失態は、大失態では無く、”中失態”くらいに軽減される。何故なら、「益州を取って、天下を三分すべきである!」などとは、未だ言って居無いのだから、益州を根拠にした【天下三分の戦略】に関しては文句のつけようは無いのである。 (恐らく、其れをハッキリ進言したのは、史実の動きから推して、赤壁戦の前後である筈だ。)
 但しだからと言って、この緊急を要する時期に、無為無策であったとするなら、孔明は我々の弾劾を免れ得無い。まさか本当に、曹操の来襲が近い事を知ら無かった筈は絶対に無いから、我々としてはこの時期の諸葛亮孔明が一体、〔何を目論んで居たのか?〕を推測考察してゆくしか無い。(普通、そんな事には誰も注目しない・・・のであるが、其れが本書・三国統一志の由緒であると諦めて、まあ、この際、お付き合い下さい。)

ズバリ、結論から示して(述べて)措こう。

此の時期、孔明の眼と関心は、もっぱら荊州の南、それも主として
長江以南〕に向けられて居たのではあるまいか!? 
 即ち、曹操には背を向けた方角に、強い関心を寄せていた・・・・
のではないか?
詰り、
主君となった劉備の為に用意すべき拠点は
未だ「益州」では無く
長江以南である!〕との戦略を
抱いていた
・・・・のではないだろうか。
(史書に見える、益州への実際の工作着手は、赤壁戦である。)
この推論のキーパーソンは
黄忠こうちゅうである。突然に紹介して恐縮だが、此の時期、黄忠は劉表から中郎将に任じられて、劉表の従子の劉磐と共に、長江以南に広がる長沙郡攸県」に在った人物である。なお彼の年齢は此の時既に、「老黄忠」と尊称される60歳前後の老年であった。 彼が劉備の臣下と成って大奮戦するのは、更に数年後の入蜀時の時である。・・・・にも拘らず、この御老体の黄忠は、のち〔蜀の五虎将〕の一人として、【関羽】や【張飛】・【趙雲】の3人と同格扱いされる。僅か数年の働きで、である。何故か?

 ーーそれは、〔己に何の所領も持たない〕3人とは異なり、黄忠は現時点に於いて、
広大な地域に対する影響力・政治力を保持する人物だったから』である。関連して言うなら、最後の一人である【
馬超】も亦、更に後からチョコッと逃げ込んで来たのに、やはり五虎将として同格扱いの待遇を受けるのである。馬超の場合も亦、黄忠と同様に、蜀の北面に当たる 「漢中以北の西方(三輔・涼州)に多大な影響力を持つ」人物であったと観た場合、ハハ〜ンと納得がゆき腑に落ちる。

孔明の〔独立構想〕にとっては、その「荊州南部」も「漢中以北」も、共に国家(構想)の存亡を担う生命線に当たる重要地帯なのだから、その地域に多大な影響力を持つ人物は当然厚遇して措くべきなのである。そして、だからこそ、武勇の多寡では無く、義兄弟の契りの長さ・強弱でも無い、「政治的配慮」から、殊更に2人を重要人物視して見せたのである。(蜀に人材が少なかった為もあるが)

では、この事は何を指すのかと謂えば・・・・孔明は此の時期、先ず根拠とすべき〔長江以南〕に影響力を持つ人物達に、何とか”渡り”をつけ、この先の見通しを現実化させようと、必死に奔走していた
・・・のであろう事を指す。その中の一人が《長沙郡の黄忠》であったに違いない。 何故なら黄忠は、赤壁戦の後、余りにもスンナリと
劉備の元に馳せ付けて来るのである。→→であるから、曹操の襲来を知った時、諸葛亮は、未だ何の手も打って無かった〔西の〕益州方面へでは無く、幾等かでも手応えの有った〔南へ〕と、主君・劉備を退避(逃走)させたのである。
 でなくば、「益州」の劉璋は、曹操に対して荊州平定祝いの使者や贈答(300名の兵士)なぞを、連続して送り届けたりはしまい。
(※その2度目の使者が問題の【
張松】であり、孔明の益州への取っ掛かりは、この時から初めて動き出すのである。詳細は次章にて述べる。)

更にもう一人(一点)・・・
劉gの存在である。跡目争いに破れて〔夏口郡〕に放出・追放された劉gは、劉備一行が逃避行の最後に行き着き、やっとのことで生きた心地を取り戻す根拠を提供する。
然も、ピンポイントの絶妙のタイミングで一行と出喰わして迎え入れるのである。・・・・この事は矢張り、孔明がこの時期、主君・劉備に〔長江以南〕に根拠地を持たせようとしていた事を指すと言えよう。
 詰り孔明は、長江以南の範疇に在る「夏口」に都落してゆく劉gに対しても、事前に(例の梯子外しの密談の時にでも)協力・受け入れ体勢(同盟)の約束を取り付けていたと想われるのである。
(事実、程無く病没する時まで、劉備は劉gを荊州牧として担ぐ。)

ゴチャゴチャしたから整理してみる。
そもそもの疑問はーー孔明が劉備に出仕(出盧)してから曹操が襲来して来る迄の、ほぼ1年の間の史料空白期間に・・・・・一体、大天才軍師・諸葛亮孔明は、曹操軍100万の動きにも気付かず、全体、何をやっていたのか!?・・・・と云う不可解さの解明である。

それに対する答えとしては→孔明ともあろう者、決して手をこまねいていた訳では無いが、準備の時間が足りなかった・・・・逆に言えば、曹操のまさかの大返し=万里の長城越えから帰還して直ちに反転・が如何に急で、余人の予想を上廻る猛烈さであったか、と云う事である。よって孔明の戦略は中途半端の儘、却って裏目に出てしまう事態を招いてしまったのである。謂わば、『上手の手から水が漏れる』・『策士、策に溺れる』の結果を生じたのである・・・・と結論する。

では此の時点で、孔明が主君・劉備の将来に備えて構想していた、その〔独立の為の戦略〕とは、一体何であったのか? ・・・・と云う
問題であるが、それに対しての推量・考察は以下の如くである。

@孔明は未だ此の期間には、「益州を独立の根拠地にする」と云う発想は抱いて居無かった。 抱いて居たとしても、具体的な方策を構じては居無かった。又、益州の事情も、其れを許す様な状況には未だ無かった。
A逼迫する時間制限の中、そこで次善の策では有るが考えたのは孔明が事前に構築してあった人脈が通用する、〔荊州内での独立〕であった。
B但し、曹操の襲来は既定の事実である以上、その直撃を避け、最善の策を見つけ、実行する迄の時間を稼ぐ為には、同じ荊州でも天然の要害たる「長江」を越えた、広大な〔南部地域〕に勢力を確立する。
Cその為に、現地に多大な影響力を持つ有力者に、事前の了解を取り付けて措く。「黄忠」や「劉g」は、其の中の最有力であった。
Dそうした準備工作を実行する場合、荊州中枢部に情報が漏れたら一大事である。 だから、直ぐ川向こうの襄陽城に居る彼等とは、
出来る限り接触の機会を持たず、彼等の方から呼び出しが掛からない限り、知らん振りを押し通し、情報漏れを防ぐ。
E萠越らの荊州中枢も亦、厄介者の劉備を無視する事にしていたから、端無くも此処に、両者が互いに互いを無視し合うと云う、奇妙な関係が醸成・進行していた。
F但し此の情報漏れを防ぐ方策は”諸刃の剣”であって、国の意思決定権を有する中枢部からの情報も亦、こちらには一切伝わって来ない事態を招いてしまった。
G結果として、孔明は劉表の死去すら知らされず、曹操が50キロ圏内に迫る迄、その動きの一切を察知できず、既に正式に荊州の降伏が伝えられた事実すら知ら無い儘に不意打ちを喰らう・・・・・
と云う、常識では考えられないトンデモナイ大醜態を曝け出す仕儀に至るのであった。

 ーー以上が、史書の空白を埋める考察であるが、これだと一応、今から1ヶ月後に惹き起こされる”孔明の大失態”とも言える、惨憺たる敗走ドタバタ劇(史実)に対する、それなりの論理性が網羅されていようか??・・・・いずれにせよ・・・・

〔情報収集〕には重大な手抜かりが有った・・・と云う諸葛亮の責任だけは、蔽い様の無い事実である

余りにも「南」=退避先にばかり意識が過密し、「北」=曹操に対する情報収集が甘かった。怠ったと言ってもよいであろう。

畢竟ひっきょう
劉備グループも亦、曹操の覇業に立ちはだかる様な状態では無く、(孔明の意図は) 曹操の猛襲を回避して後日を期す為にだけ注がれ、長江以南へ工作するのが精一杯の段階に在るに過ぎ無かった・・・・のである。


こう観て来ると、どうも(1)〜(4)の者達には全て、曹操の覇業に立ちはだかる力は無い。それ処か、直接の攻撃対象にされている肝心な「荊州」なぞは、もう緒から戦意喪失して、全面降伏を申し出ようとしている有様である。
−−となれば、まともに曹操と対決し、その天下併呑の野望に立ち向かう可能性の有るのは・・・・(5)に残った
孫権の呉だけ と、謂う事になる。
然し、事はそう単純では無かったのである。 否、寧ろ、呉国内の
大勢は・・・荊州の次に曹操が狙って来るであろう大侵攻に対して、
此の6月の時点に於いてさえも、荊州中枢部と同様、最長老の「張昭」を中心に、〔全面降伏が至当!〕とする方向に九分九厘固まっていたのである!

何せ、〔呉国〕と云うものは、つい10年前迄は、此の地上に影すら
存在して居無かったのである。然も、この僅かな期間に、君主たる「孫家」は既に3人の代替わりを数え、現在の当主
孫権は未だ26歳。事実上の建国者であった2代目の兄【孫策】が突然落命した為、弱冠17歳で跡目を継いだものの、ガタガタに成りかけた国内を再統一する為に8年もの歳月を費やしていたのである。
 そして、
此の3月に、ようやく初の外征を敢行し、西隣りの荊州夏口郡太守の「黄祖」を討伐し終えたばかりの、未成熟な国でしか無かったのである。
 ・・・・と云う事は、
君臣間の恩顧関係は、未だ歴史が浅く確立しては居らず、極く一部の者以外は、己の身の安全や既得権益の存続を願って、波風の立たぬ穏やかな全面降伏を受け容れるのも当然・・・・の趨勢で在り得たのである。

 そもそも
呉国と云うものは、その君主たる「孫氏」の出自が、無名の裸一貫から伸し上がって出来た国であり、又、その軍事力の中核と成った者の殆んど全てが、各地で陰口を叩かれる様な、暴れ者達が、自分達の出自と大差無い主君の元で、「イッチョやってやろうか!」と目論んで馳せ集まって来た連中の寄せ集まりであった。
 だから
皆若く、我が儘で、その個性を押し殺そうともせず、決して無条件に主君を有り難がったりしなかった。 その為、主君側も気を遣い、軍隊は連中の私兵として認めて与えざるを得無かった。すると連中は、夫れ夫れ己の軍隊を増強しようと、各自で兵を掻き集めて来る。 その結果、国全体としては国力アップには繋がったのだが、君主にしてみれば、其れも痛し痒し。・・・・なかなか主君の言う事をスンナリとは聞いて呉れ無い。だから怒鳴る。怒鳴ると家来も怒鳴り返して来る。ったく、やりにくくて仕様が無い。主君も主君なら家来も家来、と云う、個人の喜怒哀楽丸出しの野性味溢れる颯爽たる男組〕の世界である。

万事かくの如く、何とも危っかしいが、その分、単純明快で、どこか清々すがすがしい。 
男だてに照らして、一旦納得すれば、やる時にはやる。命も惜しまない。だが理に適わないと思えば、平気でソッポを向く。・・・・そんな何ともビミョ〜な立場に在るのが、今現在の呉国
君主・
孫権の実態であったのだ。
是れでは、とてもの事、「ワシは曹操と対決する〜!」などと迂闊な事を口走れない。総スカンを喰らう恐れが十二分に有るのだった。

−−だが、だが然し・・・・此処に、

曹操の覇道に立ちはだかり、己が天下を狙う、
                  もう一人の男
が居た。
 世の中押し並べて「曹操の覇業達成近し!」と思われている中、唯独り、心中深く、曹操の野望を撃ち砕き、逆に之れを追い詰め、打ち滅ぼそうと期している男が居たのである。
 呉の国軍総司令官・大都督の任に就いている、
              若冠33歳の
颯爽たる貴公子であった。 寄せ集まりの呉国軍団の中に在って唯一、高貴な大名門の出自を帯び、荒くれ者達からさえ美周郎と憧れ尊崇されて、其の全軍の頂点に立つ、誇り高き男・・・・

彼の心根には「降伏」の二文字など無い。
在るのは唯、彼が愛する紅蓮のマントと同じ色の、燃え立つ様な不屈の闘志と、亡き友・孫策と誓った〔壮大なる気宇〕とだけであった。

国一番の男前で音楽をこよなく愛し、天下随一の美女を妻とするも長老には頭を低くする事を厭わず、味方の誰からも愛される貴公子
 而して、如何なる事が有ろうとも、決して敵には身を屈する事を
許さぬ誇り高き男・・・・その男の名は・・・・
            【周瑜公瑾】!


「−−アタリ!ですぞ。」

「・・・・フム、仕方無いな。構わぬ。取るがよい。」

「では、お言葉に甘えまして・・・と。」

「フフ、では・・・是れでどうだ!」

「−−えっ!」

「・・・
石の下=(裏の裏の、また裏を掻く) じゃ。」

「−−タハ、では、今のは捨て石でしたか?」

「重要だったモノでも、必要が無くなれば捨てて全体を活かす!」

「私も未だ未だですなあ〜。」

忙中閑ありーー《南征》を目前にした曹操・・・・ごった返す様な喧騒の中で、荀ケを相手に烏鷺うろの争いを愉しんで居る。2人の直ぐ脇を、参謀や将軍達が眼を剥きながら駆けずり廻っている。
「これはいささこたえましたが・・・此方こちらには此方の・・・思惑おもわくも御座居まして・・・ナ、と。」

ウッテ返し=(トロイの木馬作戦)を敢行する。

「あやや〜、その手を見落として居たかア。」
 
囲碁いご(囲棊)−−現代の19路盤では無く、此の時代は17路盤である。一局も速く、幕僚達の愉しみの一つになっていた。腕前の方は兎も角、将軍達の殆んども大好きである。
 又、曹操には、相手の性格を識る上で、貴重な場でもあった。
人により棋風は様々である。総じて武将は直ぐに敵陣に打ち込みたがり、切り違えて来る。文官連中は布石重視で”地”に辛い。が意外にも、五星将の面々が手厚かったりする。
 【曹丕】は手堅く”地合い”を大事にし、【曹植】は華麗で奔放な
”外勢”を好んだ。曹操自身は、自在で型を持たなかった。【曹沖】は今や父を凌ぐ棋力を持ち、10面打ちも軽くこなす。【曹彰】は、碁に関心すら示さない。 何局か重ねていると、おのずから互いが胸襟を開ける良さがある。
互先たがいせん(対等)は勿論だが、置き碁(ハンディ戦)にすれば誰とでも打てる。帷幕に一体感も生まれる。 曹操は多忙緊急時に、敢えて一局を打つ事もある。己に”間”をとり、全局・状況を違った角度から見定めるのに最適であった。又、対局独特の雰囲気の裡に、それとなく、重大事項をサラリと交し合う、〔密談の場〕になる場合もある。

「そろそろ、司馬仲達君を、帷幕に入れてはどうかと思いますが・・・」

三三に飛び込む。

「・・・・出来るか?」 手抜きして、
消しにゆく。

「ーーかなり!・・・・。」

「出来過ぎはしないか・・・・?」

「−−??」

荀ケの手が止まった。次の一手を考えて居るからでは無い。初めて聞く、主君の言葉に、咄嗟には答え兼ねたのである。

《そう言えば、彼の第一印象を尋ねた時・・・・
   〔
狼顧ノ相〕などと謂う不可解な評を口にされた事があったな。》 桂馬ケイマに受けた。

「いや、好い好い。幾つに成る?」

「確か、30ちょうどかと。実戦に関わっても良い頃だと思います。」

上辺に
打ち込む

「曹丕からは、いま暫く置いて欲しい、と言って来ておるぞ・・・・。」

切り違えた。

「それはそうでしょうな。」 一方を
伸びる

《・・・・曹丕めが御しきれる男では無かったな・・・・。
             いっそ、儂の手元に引き付けて措くか・・・・。》
シチョウ当りを打って措く。

「よかろう。その方の言、容れようぞ。」

互いに盤面を睨んだ儘の会話であった。

「・・・・では、南征に役立つ様、手配して措きまする。」

「うん、そうして呉れ。」

数手、更に進んだ。

「今の時点で、どう思う?」 曹操の最終的諮問であった。
此処で初めて両者が手を休めて、顔を合わせた。

現在、中華の地が平定された以上、南方は追い詰められた事を自覚して居りましょう。されば・・・・曹公は公然と宛(えん)・葉(しょう)に出兵する一方、間道伝いに軽装の兵を進め、敵の不意を衝くのが宜しいでしょう。 −−『正史・荀ケ伝』 中の回答ーー

君臣の戦術は自ずから一致した。

「−−かな!」   曹操は思わず会心の膝打ちをすると、
ザクッと碁子に手を突っ込んで、ジャラジャラと白石の1つを選び出した。そして其れを気持良さそうに、石音高く盤面に打ち込んだ。

「いや〜、振り代わりを狙ったのですが、是れは
潰れましたかな?」

荀ケがボリボリと頭を掻き、額に手を当てた。
「では、
中押ちゅうお(ギブアップ)とするか?」

「う〜ん、どうやら打つ手無しかと・・・・。」

ワハハハハ・・・・と曹操の高笑いが起こった。

「聞く処によれば・・・・呉の国には厳武げんぶと云う、天下随一の
囲碁の名人が居るそうじゃ。儂は来年あたり、その子卿しけいから手解てほどきを受けられるかな?・・・と、楽しみにしてるおるのじゃがノ。
何しろ、此の直方体の中には、宇宙が詰まって居るのだからな!」




「・・・・実は・・・・その・・・・御話ししたい儀が御座居まして・・・・。」

荀ケが曹操に推挙した、当の本人・
司馬懿仲達である。
相手は
曹丕であった。

「おや、どうしたのじゃ?」
何処か何時もの様子と違う仲達を見て、曹丕はいぶかしんだ。

「そのう〜、実は・・・・妻を娶る事になりました・・・・。」

「やっ、それは!そうか、それは目出度い!!ハハ〜ン、それで
                       モジモジされて居たのか?」

「いえ、まあ、そろそろ年貢の納め時かと・・・・。」

「アハハハ、こいつぁ〜愉快だ!そっちの道も達人かと思いきや、
 仲達どのでも、やはり照れるのか!?」
がらにも無く、仲達が周章狼狽しゅうしょうろうばいの程であった。

「いやいや、笑って申し訳無かった。だが是れは真に御目出度い
 事じゃ!心から御祝い申し上げまする。して、お相手は!?」

「はあ、母がすっかり手を廻して・・・・してやられました!」

「仲達どのも、こと母上に掛かると、丸っきり弱いからなあ〜。で、
 どんな女性おみなごじゃ??」 興味津々しんしんである。

「”世々二千石よよじせんせき”と称される司馬家なら、
              さぞかし名の通った一門の令嬢ひめだろうな?」
二千石じせんせきとは、俸給(月給)の高から来た、〔郡太守〕の事を指す。厳密にはちゅう二千石の、漢の官職ランクの1つ。河内かだい郡の司馬家は、世襲では無いが、代々に渡り郡太守を輩出して来ていた。成り上がりの
”曹氏”よりは、寧ろ名門と謂える。 のちに〔
晋の武帝=仲達の孫・司馬炎〕は、自己の家系について、こう述べている。
元々、司馬家ハ”諸生しょせいノ家”デ、
            長キニ渡ッテ礼ヲ伝エテ来タ。


・・・・つまり司馬家は、郡レベルとは言え、代々、高級地方官僚を
出す一方、地元に於いては、学問の指導的立場にある、〔地方の
名望家〕であるのだった。無論、中央官界にも、曹氏以上の連綿たる太い人脈パイプが有り、その地域一帯には絶大な影響力を確保して来ている名門一族なのであった。


「いえ、とんでも有りませぬ。母がすっかり気に入って、本家で行儀見習いして居た、知り合いの娘で、まあ、取り立てて言う程の家柄
では御座居ませぬ。若君には御存知無いとは思いますが、粟邑県でんゆうけんの県令をしている「
張汪どの」の娘にて、『春華』と申します。」

 この張氏も、司馬氏と同じ河内郡の平皋へいこう県を本貫ほんがん(本籍地)としており、この時代、盛んに行なわれていた《
同郡レベルの婚姻ネット
ワークに拠る足元固め
》の好例と謂える。ここには既に、来るべき(三国時代の直後から始まる) 次代=貴族全盛期の基本原形が
窺える。 −−何故なら・・・・
貴族とは・・・・制度として朝廷から与えられるものでは無く、幾代にも渡り官吏を輩出する事に起因した其の家柄が、自然に地方の名望家として永続した関係から生じたもの・・・・だからであり、
      まさしく、『司馬家の姿』と、ピタリと一致しているのである。

「ほう、張汪?さて、顔を知らぬが、それも亦、仲達どのらしい話ですな。さては、絶世の美人に違いあるまい?ホレ、包み隠さず申して下され。」

仲達を質問攻めに遣り込められるのが曹丕には嬉しくて堪らない。

「いえいえ、とても、とても。極く有触れた、十人並みの容姿で
                                御座居ます。」
「−−はて??名家でも無く、美女でも無い・・・・
                    それで、よく承知したものですな。」

2代目世代の曹丕の中には、父の曹操も同じ様に、同郡ネットの
婚姻だった事には、意識が及ばない。

「まあ、母の見立てですから、信用して居ります。願わくば、気立てだけでも美しい女性で在って欲しいものですが・・・。」

「・・・成る程な〜。生意気の様だが、予にも分かる様な気がする。」
どうやら、絶世の美女・しん夫人との間は、スッキリいって居無い如きニュアンスである。

「そう言えば、仲達どのは幾つでしたか?」

「今、建安12年ですから、28ですか。」

「予は20歳。17歳で甄洛を奪い、妻とした。
                     少し早過ぎたやも知れん・・・・。」
曹丕は我知らずの裡に、何処か其の奥処おくがに、怨みめいた冷たさを
感じ始めている、正妻・甄洛を想い浮かべて居た。

「いえいえ、夫れ夫れ、人には生まれ持った天命が在りますから、
 是ればかりは”えにし”と云うものでありましょうか?」

「婚儀には是非、予も出席させて貰うよ。父上(曹操)にも出て貰う様、話して置こう。皆んなも呼んで、盛大な宴にして見せるぞ!」
曹丕は、もうすっかり、”月下氷人げっかひょうじん”(仲人)気分に成っている。
かたじけない御言葉で御座居ます。−−然し、御父君の御列席は望み薄と心得て居ります故、余り無理押しは為さいませぬ様に・・・・。
 父君には、お立場と云うモノも御座居ますれば、今の仲達ごとき
分際の者には、分不相応に過ぎましょう。若君の御臨席を賜わればもう此の司馬懿仲達、十二分に果報者と考えて居ります。」

「ああ、其の事か。ったく、父上の苦労性にも呆れ果てるよ。まあ、何とか、賜り物だけでも出させるよう話して置こう。シッカシ、兎に角、目出度い!何だか予まで嬉しく為って来たぞ!!」

 人の心は変わり易く複雑である。曹丕の好意は有難いが、無用な妬みは買いたく無い。だが20歳の曹丕には未だ、そんな気の廻し方など出来る筈も無い。ひたすら素直に喜んで呉れて居る。

「いやあ〜、仲達先生も遂に、妻帯者の仲間入りと成るか!これで2人とも所帯持ちのオジンになっちまうって訳だ!」

「ワッハハハ・・・・オジンで御座るか?」

「こうしてみると、互いにバカをやっていた頃が懐かしいなあ〜!」

「まこと、日月は人を待ちませぬな。」


ちなみに、仲達が張春華を娶ったのは、正確には何時の事なのか判らない。曹操に出仕する以前から結婚していたとも考えられる。ーー何故なら、”史料不詳もの”なのだが、彼女にはこんなエピソードが有ると伝承されているからだ。

・・・或る日、書物の虫干しをしていた処、突然の驟雨しゅううに見舞われ、思わず仲達は寝台(しょう)から起き上がって書物を取り込んだのだが、其の場面をたまさか下女の一人に目撃されてしまった。仲達は仮病を使って、曹操からの招聘を拒んでいる最中であったから、其れが外に漏れるのを恐れた夫人の★★☆張春華は、こっそり自ら手を下して、その下女を始末してしまった。 そして自分から下女の仕事だった、カマドで御飯を炊いたので、仲達は張春華に一目置くようになった。

作り話しバレバレの内容だが、此の時すでに〔夫人〕と記されている一点だけは、完全には無視できない。・・・・然し、長男・司馬師が、赤壁戦の年に生まれたのは史実であるから、筆者は(直ちに孕んだものと想像して)、その1年前に結婚したーーと、逆算してみた。
 そもそも、仲達が曹操に出仕したのが定かでは無いのだから、
                               御容赦願いたい。

ちょう 春華しゅんか・・・・流石に、三国統一を果たす様な人物の正妻ともなると、青史にも名がキチンと残っている。 当時の女性としては異例中の異例、破格である。
 この時19歳。花も恥じらうお年頃・・・・・と言いたい処だが、当時としては決して若いとは言えぬウバ桜。だが、至って健康美人。
 夫・仲達との間に、3男1女を設ける。すなわち、三国統一志には欠かせぬ、『
司馬師』・『司馬昭』兄弟の母となる。翌、建安13年、〔赤壁の大決戦〕の直前には、長男・子元(司馬師)を、此の世に生誕させる事となる。−−但し、夫婦仲と云うモノは、山あり谷あり・・・・どうも一筋縄とはゆかぬのは、古今東西いずこも似たり?後に仲達の寵愛は、「張夫人」から「柏夫人」へと移る時がやって来る??

いずれにせよ、この時期ーー
 後々には〔
宣帝せんてい〕と追尊される司馬懿仲達も、未だ未だ
「モノのうちにも数えられないマイナー」に過ぎず、英雄の史譜には登場すらして来ないのであった。






ーーかくて、
西暦208年(建安13年)は、中国大陸に生きる有名・無名すべての者達を巻き込んで、いよいよ・・・・

男達の最大の歴史ドラマ・【赤壁の戦い】に向って、その壮大なる史劇の幕が、徐々に上がろうとしていた・・・・。 【第122節】 曹軍100万、出陣せよ! →へ