第120節
反骨の挽歌

                     言多ければ 事を令て 敗れしむ




この6月の丞相就任(三公廃止)を、後世の我々は兎角、〔政治的〕側面から”ああだ、こうだ”と重大視するが、存外、当の曹操本人はサラリとしたもので在ったやも知れない。そして其の就任時の光景は、衆目が息を殺して見守る様な緊迫した静寂の中に在ったのでは無く、むしろ、国中が〔軍事的〕準備作業に沸き立つ活然たるダイナミズムの中で、至極アッサリと恬淡と済まされた・・・・と観た方が良いかも知れ無い。
 何となれば、この僅か1ヶ月後の
7月にはもう、曹操みずからが大軍を率いて業卩城を発進してゆくからである。 それも自称
100万の大軍団である。おいそれとは動かせない。軍糧の手当ひとつ考えてみただけでも普通なら、その準備期間には1年以上は掛かるであろう。まして、あの万里の長城越え・往復3000キロの大遠征を終えて還って来たのが、この1月である。凱旋して来た途端に、直ちに準備し始めたとしても、今迄の常識では、とてものこと間に合わない。況や半年後の7月に、更なる大遠征を敢行するなど驚天動地の仕業であった。にも拘らず史実は、7月に南征の大軍を率いて発軍しているのである。
 ・・・・畢竟ひっきょう、烏丸を平定した時をもって、曹操と云う男が、時代をガクンと一段レベルアップしてしまったと云う事なのである。即ち、これ迄の様に、周辺諸国の動静に気兼ねしつつ戦わなければならなかった”群雄割拠の時代”は、彼に拠って既に終止符を打たれていたのである。 違う言い方をするなら、此の時点に於ける曹操(魏)の国力が如何に飛び抜けて強大に成っていたかの証明である。これ迄なら考えられない様な、短期間に於ける兵員・兵糧・輜重の大集築が可能に成る程までに、曹魏の国力は充実・巨大化していたのである。ーーであるからこそ、この「丞相就任」は、次に控える【南征】とは同時並行で推し進められる表裏一体の、二の次的な作業であったと言い得よう。蓋し、丞相就任は、最終的な天下平定戦に向っての壮大なスケジュールに組み込まれた、〔ほんの1つの通過点〕でしか在り得ず、覇業準備完了の
”合図”であった。と同時に、新時代の到来を高らかに宣言する、曹操の巨大な”野望の烽火”でもあった。


おそらく此の時、黄河以北の在りとあらゆる人間は、次に控える〔究極の軍事行動〕に向って、沸き立つ様な活況の渦の中に巻き込まれて動き、沸騰する喧騒の熱に衝き動かされて居たと想われる。恰も其の様は、曹操と云う大海底プレートの上で、根こそぎが歴史の大激動へと運ばれてゆく如くであったろう。そして其の軍事集結は、おのずから曹操政権の警備を固める事ともなり、とてものこと反対派が表立った抗議行動を起こし得る様な状態では無かった筈である。

それにしても凄過ぎる!!
1年前の6月には、北の最涯さいはて1500キロ彼方かなたの白狼山で烏丸族と戦って居た男なのに、今年の6月には丞相と成り、7月にはもう、南へ向って又、2000キロの南征に出発してゆく・・・・猛烈な勢いである。まさに疾風怒濤しっぷうどとう一瀉いっしゃ千里どころか一瀉万里を征く苛烈さである。果たして、そんなに急ぐ必要が有るのか?・・・・と首を傾げたくなる程の史実の進行である。
思うに曹操は、其の歴戦の生涯から体得した彼独特の、いわく言い難い時の勢いと謂うものを最重要と捉えていたのであろうと思わざるを得無い。と同時に、曹操が常日頃から其の詩賦の中で、繰り返し自問自答して来た彼の死生観・人生観を想起せざるを得無い。ーー存在と時間、存在と無・・・時は人を待たず・・・

人の一生は短いと謂えども、山も谷も在る。此の俺にも、此処ぞと云う勝負所や凌ぎ所が幾度か在った。そして漸く100万の軍を得る処まで来た。・・・・だが、残された時間の方も次第に少なくなって来たとも言えようか。曹操孟徳53歳、我ながら気力・体力とも充実している。天運も我に味方している。 よし、今ならやれる。いや、今こそ一気呵成にやらねばならぬ時なのだ。今こそが其の時なのだ!!

思えば・・・・20歳で洛陽の北部都尉になってから、はや
33年と云う歳月が流れていた。『清平の姦雄』・『乱世の英雄』と予言された出発だったが、齢53を迎えた今、その手中には中国の北半分が収まっている。とは謂え、此処までは半ば忍耐の時であった。だが、此処からは全く違う。ここ数年の勢いは、己の予想を上廻る爆発的な急成長であった。此処からは一転、攻勢あるのみである。思う存分、己の目指す天下統一に専心できる。80万の軍隊と、丞相と云う独裁の官、蕭何の後継者と云う大義とを手に入れた今、残された覇道は唯一つ・・・・〔荊州の平定〕と〔呉の帰順〕だけである。ーーだが、事はそれで終わりでは無い・・・・と曹操は強く思う。軍事的統一だけでは、決して真の統一とは言えまい。その統一された国の姿が永続してこそ初めて、本物の統一王朝と言えるのだ。 《その土台作り迄が俺の仕事なのだ!》
だとすれば残された時間はタップリ有るとは言い難い。今やれる時に一気に《軍事統一》を遣り遂げてしまう・・・・それが、曹操の思う〔時の勢い〕の意味なのであろう。

かくて曹魏政権の中枢は
丞相府じょうしょうふと呼ばれる事となった。
但し曹操は、この機構の真髄であり、丞相とはセットであるべき
御史大夫ぎょしたいふ」の座を空席の儘にしたのである。 主権は飽くまで丞相たる己独りに在り、御史大夫なんぞは単なる飾りに過ぎぬ事を天下に知らしめる為の措置であった。即ち、光禄勲こうろくくん
希卩りょ」を御史大夫の座に指名したのは二ヵ月後の8月、既に曹操自身は全軍を率いて南征の途に就いている行軍中に、丸で付け足しの如くに行なわれたのである。しかも其の御史大夫には絶対不可欠な部下である「中丞」を設けず、完全な骨抜き状態としたのである。その代り実務担当方面の長官である〔
丞相主簿〕には直ぐ様、それまで司空掾属えんぞく(曹操直属官)主簿であった、自分お気に入りの「若手」を横滑りさせて任命した。
その38歳の若手ーー
趙儼ちょうげん・・・・字を伯然はくぜんと言う。年も若いし
参陣したのも決して早くは無い (曹操が献帝を奉戴したのを見て11年前に参陣を決意)のだが、不思議な人間力・貫禄を具えた人物であった。・・・・趙儼が取り立てられて間もない28〜29歳の頃・・・当時は大敵袁紹と対峙していたのであるが、この時点では未だ曹操幕下の諸将間には、功名争いに伴う不協和音が存在していた。夫れ夫れが”己が一番”と自負を抱く余りのギクシャクした人間関係と言えよう。特に「
張遼」・「于禁」・「楽進」の3猛将達は、各々の駐屯地で『気力ニ任セテ思イノ儘ニ振舞イ、互イニ協調シナイ事ガ多カッタ。』・・・・そこで曹操は、趙儼に同時に3つの軍の参軍(軍目付役)を兼ねさせた。すると趙儼は事ある毎に3者の間を巡っては教えを悟し、遂には此の一癖もニ癖も有る先輩の猛者たちに、『互イニ親シミ睦ミ合ウ様ニ成ッタ』状態を作り上げさせてしまうのであった。是れはちょっと凄い。いくらバックに曹操が控えて居るとは言え、ポッと出の若僧には普通はトテモ成し得る事では無い。何せ相手は3人共が己よりも数段格上の、曹操軍を代表する超一級の勇将・猛将達である。余程、趙儼個人に人間的ブ厚さ・重厚さが備わって居なければ、逆にブッ飛ばされる処だ。
 趙儼の人心掌握の例をもう1つ・・・・やはり参陣して間も無くの頃・・・・当時、袁紹の懐柔策に乗って、諸郡悉く離反してゆく中で、趙儼が任じられた陽安郡だけは動揺しなかった。然し趙儼の上司に当たる都尉の「李通」は、曹操から叛心を疑われぬ証しとして、急いで各戸から税を取り立て上納した。だが住民達の苦しみを観た趙儼は、これでは却って人心の離反を産むから直ちに返還するよう、李通に勧告した。
 −−じゃあ、俺の立場はどうして呉れるんだ?
 −−まあ、私にお任せ下され・・・・と云う訳で、趙儼は直接曹操にでは無く、遠廻しに「
荀ケ」に手紙を送って道理を了解させた。荀ケの人となりであれば、必ず賛同した上で曹操にも直言するであろうと見通した趙儼の人物眼である。結果、住民の苦しみと上司(李通)の懸念を一挙に解決し、両方から喜ばれ曹操の為にもなった・・・・。
 そんな花も実も有る趙儼だからこそ、丞相主簿には打って付けなのだ。 曹操の腹心算では、乾坤一擲の今度の〔南征〕の際、趙儼を《
都督護軍》にして、全7軍団を統括させようと考えていた。この趙儼、曹魏5代に渡って重きを為す事となる。曹操が居る限り、彼が見い出して使いこなす人材には事欠かないのである。

さて、丞相就任の儀式としては、九卿の1つ太常だいじょう(儀礼・教化担当官)が許都より赴き、黄金で作られた”印と綬”を授かる形をとったのであるが、ここでの話題は其の儀式についてでは無い
その使者に発った『徐キュウ』が過日、曹操の元へ持ち込んだ〔
或る秘宝〕を巡る一場面の事である。

ーー『
先賢行状』と云う魏・明帝時に書かれた史料によれば・・・・
徐キュウは字を孟玉と言い、広陵の人である。若い頃から清爽な生き方に徹し、朝廷に於いては厳正な態度をとった。任城・汝南・東海3郡の太守を歴任し、各地で教化が行き渡った。(汝南太守の時、あの月旦評の名人・許子将が初めて彼の招請に応じている。)中央に召し還された時、袁術に無理矢理に引き留められた。やがて袁術は皇帝を僭称すると、彼に上公の位を授けようとしたが、徐キュウは飽く迄も屈服しなかった。袁術の死後、徐キュウは袁術の印璽を手に入れ、それらを漢朝に届け、衛尉・太常を拝命した。公(曹操)は丞相に成ると、官位を徐キュウに譲った。』

 ここに言う”袁術の印璽”とは・・・・
あの伝説の
伝国璽でんごくじを指すのであろう。   
                             (※伝国璽については第38節に詳しい)
後漢王朝末期の儚さを暗示するが如くに、その伝国璽の所持者は転々と変わっていた。「霊帝」→「何進」→「孫堅」→(孫策)→「袁術」と流転し、曹操の元、やっと「献帝」に届いたのであった。この間ほぼ10年、一旦それを手にした者達は、天の怒りに触れたのか、全て此の世から消え去っている・・・・。

曹操が徐キュウから【伝国璽】を受け取り手にした日、更に其れを献帝に渡した時ーー表面上は穏やかに、静々と事は進んだ。だが、曹操の手から献帝の手へと渡され・・・・二人の手が同時に伝国璽に触れる一瞬があった。曹操は何を思ってか、暫く其の儘手を離さず、献帝の眼の中を見詰めた・・・・献帝は眩暈めまいを感じて其れを取り落としそうになった。この4寸四方の白玉製の印章は、曹操と献帝にとって、どれほど重く、又どれほど軽い物だったのであろうか?
『一体、其れに相応しいのは両者のどちらなのか・・・・!?』
見守る者達の心の中にも、一刹那、ヒヤリとする光と影とが交錯した。それにも況して、互いの心の中は波立ち、妖しく騒いだ。
まるで、《一旦は預けて置くぞ・・・。》と言っている風にも見えた。

「−−・・・・。」曹操の口元が微かに動いたが、言の葉は発せられなかった。「−−・・・・!」献帝劉協の顔色は蒼白い儘であった。
ちんには不要な物じゃ・・・・。》とは、流石に言えない。

その形式ばった所作の裡に、深刻で微妙な、そして、言い様も無い心的葛藤かっとうひだが、互いの表情に揺れ動く一瞬間であった。

「いやあ〜、目出度い、目出度い!」
荀ケじゅんいくが何とか、その場を取りつくろった。献帝劉協は伝国璽を受け取ると、よろめく様に玉座に腰を落とした。
《−−これで又、朕は、途轍も無く重いものを
                   抱え込んでしまったのか・・・・。》
曹操はついに一言も発せず、きびすを返すと颯然さつぜんと退出していった。
ただ其の時チラリと、或る一人の人物にだけ、鋭い視線を浴びせていた。然し彼は其の事に気付かず、ただ朝廷に伝国璽が戻って来た歓びに、独り感涙を潤ませて居たのだった。
曹操の視線が射抜いたのは・・・・献帝の傍らに寄り添う様にたたずむ人物・・・・聖人・孔子の直系で、漢王朝の宮廷を司り、皇帝の師を自負する少府の
孔融であった。

 その【孔融こうゆう】−−この8月に突如、処刑される。無論、曹操の指し金であった・・・・。
孔融・字は文挙ぶんきょ。彼の来し方やエピソードは既に《第15節》・〔逆鱗に楯突く男〕 〔漢王朝期待の星〕にて詳述してあるが、曹操とは同年代で、古くからの知己の関係でも在った。
 今から12年前、曹操は献帝を奉戴した時、その出来たばかりの宮廷に孔融が任官するのを認めた。その折の事情については 必ずしも孔融自身の人格・人物、または有職故実の知識などが卓越していたからばかりとは言い難い。寧ろ、草創期にあった自陣営の格を上げ、懐の深さを世に示す為に、「大名士」である点に重きを置いて認可したのであった。
 処が孔融の方は、やがて少府にまで昇進し『毎日ノ朝議ノ質疑応答ハ、何時モ中心ト成ッテ発言シタ。大臣・高官達ハただ名前ヲ連ネテ居ルダケデアッタ。』と云う程の地歩・重みを朝廷内に確立していった。そして今や、孔融の発言そのものが、朝廷を代表する意向とさえ観られていた。
だが、何事にも「実用性」を尊ぶ曹操としては、その最初からして机上の空論を自慢気に展開する孔融とは、緒から丸っきり肌が合わない処があった。


(※ 本文から脱線・・・・後世の附会ではあるが・・・・孔融の不要な機知の一例として『離合の詩』なるものが伝えられている。一種の漢字パズル。『漁父は節を屈し、水に潜みて方を匿す
(とき)と進止し、出行し張を施す』=漁からが水が消えて〔魚〕+(とき)から山が去って〔日〕・・・・合わせれば〔魯〕の字・・・てな塩梅で、それなりに面白いのだが・・・・。
 尚、当時は、他国の使節などが宴席で、互いのウイットを競い合う為にチョクチョク漢字パズルをやった。 『正史・薛綜せっそう』には薛綜の言葉の敏捷性を褒め称える事例として、蜀からの使者・張奉を前にして、〔蜀〕〔呉〕両国についての漢字分解が、公式に記されている。他国を揶揄し、自国を礼讃する・・・・『蜀とは何でありましょう。犬が居ると獨りになり、犬が居無いと蜀となり、目を横に 付けて身をかがめ、お腹には虫が入って居ります。』・・・それに対して呉は『口が無ければ天となり口が有ると呉になります。万邦に君臨して、天子の都なのであります。』と云う調子。 
また『江表伝』でも同じく呉の諸葛恪が〔蜀〕と〔呉〕の優劣について、ほぼ同様の受け答えをしたと記す。つまり当時の知識人・名士の間では、こうした機知が尊ばれていた・・・・と謂う事であり、何も孔融だけが批判の対象にされるのは不可しいのだが・・・・本文復帰↓)

然し曹操は、背に腹は代えられず、眼を瞑り我慢する事にした。それでも頭初は『情ヲメテ』我慢するだけの見返りが得られた。その宣伝媒体として、より多くの人材が吸い寄せられて来たのである。然し・・・今や天下統一を目前とする程に急成長した曹操にとって、もはや孔融の存在価値はゼロに等しい。いや寧ろ、危険なマイナス因子さえ保有している。君主権の強化に対抗する形で「名士」と云う名の新しい権力グループ、〔貴族階級〕が成立しかけているのだ。そして孔融は、その代表的存在と成りつつあったのだ。ばかりか、朝議は彼の独壇場となり、宮廷勢力の代表者・漢の朝臣を自任してさえ居る。
「そなたの発言は有難いが、この先、大丈夫か!?」
            ・・・・と、献帝に危ぶまれる程の気骨を示す。
曹操個人に対する尊敬の念も稀薄である。同僚以上の〔格上意識〕さえ感じられる。《
聖人・孔子》の子孫である事、従って『皇帝の師である』 と云う名族意識が過剰で、何処かに曹操の出自を見下す風な尊大さが在る。
孔融ハ生来さっぱりシタ気性ダッタノデ、平生ノ気持ヲ押シ通スきらいガ有リ、太祖ヲ馬鹿ニシタ様ナ処ガ在ッタ。 (漢紀)未だ袁紹が曹操と対立する以前の友人時代、袁紹はわざわざ手紙を寄越し「孔融の誅殺」を勧告して来た事があった。今にして思えば、然も在らんと頷ける、新秩序に対する旧陋の害毒を身に帯びている。又、曹操にとって、より現実的で身近な脅威としては・・・・孔融の手に有る情報データ量の多さと、その全国的な朝廷ネットワークの巨大さであった。曹魏政権とは別系統の、朝廷ならではの極秘ルートが存在しているのだ。と言うより、曹操と謂えども臣下である限り、朝廷に届けられる皇帝宛の文書や情報を全て事前検閲する訳にはゆかぬのであった。だから秘密の遣り取りも実行可能なのだ。そのうえ更に、孔融個人の全国規模に及ぶ、「名士社会」との交友ネットが、不気味な力を蓄え始めている。
 今もし、丞相・曹操に唯一の懸念材料が在るとすれば、それは
・・・・個々では難敵では無い各地の勢力が『勅命』を以って大同団結し、 《反曹操連合》 を立ち上げ、一斉蜂起の挙に出る一点だけであった。その起爆スイッチを孔融は手にして居る・・・・とも言い得るのであった。

いずれにせよ、覇王・曹操の眼には、孔融の存在は、己の目指す絶対的君主権に待ったを掛ける危険な勢力・漢王朝の存続を至上命題とする、名士階層の代表であるーーと映る。

一方の
孔融にしてみれば、漢王室を蔑ろにし、君主権の専断体制を強引に推し進めていく曹操への、朝臣としての義憤と、名士勢力としての反発とが有る。 だが流石に、正面きって対決するだけの力は、未だ備わって居無い。その鬱屈が、反発と成って現われる。いや、現わす事に拠って、朝廷の権威・即ち貴族階級の不満を代弁し、示そうとした。危いタイトロープである。
 が一面、孔融には・・・・如何に飛ぶ鳥を落とすが如き勢いの
曹操と雖も、自他共に認める当代随一の大名士を抹殺し、世間(名士階層)からの囂囂ごうごうたる批判を浴びる愚は冒さないであろう
・・・・と云う「読み」がある。それが朝廷と云う強力な防禦シールドと成っていると確信できた。よって事毎に理屈をつけ、曹操が発する布告や一挙手一投足に喰って掛かった。
蓋し、その名士の行為は、当時の法制度上、正当なものとされていたのであり、不都合があれば異議を唱えて (喰って掛かって)良いのであった。為政者の独善を排する為の措置であったのだ。即ち、
当時の法律には、条文以外に必ず、その理由としての「徳目」を掲げるのが、為政者の務めとされていたのである。だから孔融は、その付随理由(徳目)の方に難癖を着け、曹操が出した法律そのものの方をオシャカにさせようとしたのでる。

その事例の枚挙には事欠かない。第15節に詳述してあるので項目だけ見ても・・・・
 息子・曹丕が「甄氏しんし」を奪って妻とした時の、当て付けの手紙
 軍糧の不足を補う為に「禁酒令」を出した時の、
                             当てこすりの論議
 治安の強化を企図して「肉刑」を復活させようとした時の反論
                             ・・・・etc.etc・・・・
 就中なかんづく、古くからの廷臣であった太尉・揚彪ようひょうが粛清されようとした時の、「孔融文挙は男で御座る!」の啖呵たんかつとに有名である。
そもそも今回の機構改革遅延の原因も孔融の抵抗に起因する。宮廷が授ける爵位と、曹操設置の丞相府との関係に、ことごとく口を挟む。朝廷の権威が由来する唯一絶対の専権事項であるだけに宮廷側としては必死の防戦であったのだが、その矢面に立ったのも又、孔融であった。

−−実は、曹操が次の《南征》を急ぐ事態が、この直前の
2月に江南の地で発生していたのだ。呉の孫権が、江夏太守の「黄祖」を討伐したのである江夏郡は、曹操が平定しようとしている〔荊州〕の東部を占める。つまり、孫呉とて、ただジッと無為に在るのではなく、荊州奪取に本格的に動き出していたのである(詳細は次章にて述べる) 急がねばならない!
 だが、そんな緊急の今でさえ、孔融は其の貴重な時間を、我が物顔に浪費し続けているのだった。天下統一に直結する《南征》の総司令官は曹操なのである。その曹操が示すダイヤグラムは何を差し置いても最優先されなければならない。だが孔融は意に介して居無い。それもこれも全て、孔融と云う個人が、朝廷と云う権威の衣を着け、その絶対性の上に立って居るからこその行為であった。
《−−お前が拠って立つ権勢の基盤が、砂上の楼閣である事を
                      思い知らせて呉れるわ!!》

曹操の「情ヲ矯メル」限界が近づきつつあった。孔融は、己の命運が風前の灯であるとは、つゆも知らぬ・・・そして・・・この直後、終に君主権の牙は、情け容赦も無く、突如、狙った獲物に襲い掛かったのである。
「孔融文挙!大逆罪の容疑で逮捕する!」
荒々しい捕り方役人の大喝に、唖然とする孔融。
「な、なんだと!?」
突如襲った理不尽な糾弾・・・・軍謀祭酒(機密書記官)の「
路粋ろすい」の手による告発状は、その孔融の罪状を列挙していた。
少府孔融は、かつて北海国のしょうをしていた時、朝廷の混乱を見るや、徒党を組んで道ならざる謀事を立て、「我が祖先・孔子の家系は、一旦、宋で亡んでから魯に遷った。天下を握る者は何も〔劉氏〕に限らない」と、不逞な言を弄した。又、孫権の使者と会見した際には、朝廷を非難する言辞を発した。彼は九卿(国務大臣)たる身分でありながら、平服(頭巾も被らず)で後宮に紛れ込んだ。
さらに又、かつて不逞文士・〔禰衡でいこう〕と交した、傍若無人で放埓な会話こそは、最も重大な罪である。曰く「父と子の間には、もともと親愛の情など無い。元を正せば、父の性欲を満たす為に生まれたに過ぎない。よって母と子の関係も大した意味は無い。言うなれば、瓶の中に物を入れて置くのと同義で、外に出たら離れ離れとなり、それで終わりである」 などと言った。
そして互いを褒め合い、禰衡は孔融に、「孔子は死せず、君こそ孔子の化身である」と言うや、孔融も禰衡に「顔回は生き返った。君こそ顔回の再来である」などと言った。
かかる大逆非道の輩は、宜しく極刑に処すべきである。



何とも御粗末極まりない告発状ではある。だが、そんな事はどうでもよいのである。 告発・逮捕に踏み切ったと云う事実こそが
重要なのであり、曹操が孔融を生かしては置かないと決意した事自体が全てなのである。ーーそれにしても、中身は全て真実の逆になっている。が、粛清の為の告発文などとは、そう云うものなのだ。よくもここ迄デタラメを
・・・・その弾劾文を知るや、孔融は開いた口が塞がらない。
 
8月に処刑される迄の、孔融の身の処し方については一切の記述が無い。そもそも大逆の謀叛人として死んだのだから、正史には当然、「孔融伝」のスペースは与えられて居無いのである。
 後世の附会として伝わるのは、2人の幼児の命乞いをする父親を見て、却って8歳の長男の方が孔融を悟した・・・・などとするらちも無い類いのものだけである。
 だが、後年に曹丕が「典論」の中で認める如く、『孔融ハ骨格・気品共ニ優レ、其ノ見事サハ他人ノ及バヌモノガ有ッタ。其ノ文辞ノ秀タ点ハ楊雄・班固ノ仲間デアル』と云う人物である。今さら見苦しく、我が子の命乞いをするなぞ、およそ考えられない。反骨忠烈の士は、事ここに至っては泰然不動、曹操に謝る事なども
一切せず、ただ昂然として頭を上げ、己の不徳だけを嘆くばかりであった筈だ。
 裁判に掛けられ、刑場の露と消える迄には、未だ幾許かの時間はあった。獄中で孔融がしたためたとされる、「建安の七子」筆頭孔融文挙、最期の詩賦が遺されている。


        げん多かれば 事をて敗れしめ
        器のるるは 密ならざるに苦しむ
        河は 蟻のあなはしつい
        山のくずるるは 猿の穴に

        涓涓けんけんたる江漢の流れ
        天の窓は くらき空にも通ずというに
        讒邪ざんじゃは 公正を害し 浮雲は 白日をおお

        辞として忠誠なる無きは かりしに
        華のみ繁くして ついに実あらず

        人に両三の心有り
        んぞ く合して 一と為らん
        三人は 市の虎を成し
        浸漬しんしは にかわうるしの如く親しきものをも解く
        生存しては はばかる所多かりし
        長く寝ては 万事おわ


軍事力を持たぬ無念さと、言辞に拠る抵抗の限界を嘆きつつ、
結局、俺とお前とは生きる道が違ったのだと再認識する。そして漢王室の終焉を、己同様に予知しつつ、やるだけはやったのだと胸を張る・・そんな孔融の姿が髣髴とさせられはしないだろうか?  処で、刑が確定し、「許都」で〔腰斬・棄市〕が執行されるのは未だ未だ先の
8月29日の事である。ここで不可思議なのは、なぜ曹操は直ちに刑の執行を行なわなかったのか?・・・・と云う問題である。 孔融の持つ影響力の大きさを誰よりも切実に意識して居た曹操である。捕縛・投獄された日付は判然としないが、グズグズと先延ばしにすればする程、〔不測の事態〕が勃発し兼ねないのである。にも拘らず曹操は、7月に「業卩」を発軍した後、途中の「許都」で1ヵ月もの間、ただジッと手を拱いて駐留するだけなのであった。あれほど急ぎに急いだ《南征》のスケジュールも、この8月一杯はガクンと停滞した儘となり、不自然この上ない状態が現出するのである。
一体、この間、何が有ったのか?? 謎は次章で解明してゆくとするが、孔子20代目の直系・皇帝の代弁者・漢王朝最期の硬骨漢
孔融文挙ーー今、獄中で55歳の享年を抹殺されようとしている事だけは紛れも無い事実であった・・・・。

 言多ければ事を令て敗れしむーーこの、孔融の突然の粛清劇を観て、今更ながらに背筋を氷らせた人物が居た。
算、遺策無キニちかク、権変ニ経達ス。ソレ良(張良)・平(陳平)ノ亜カ!』 と最大級の讃辞で陳寿に評されている人物・・・・
 言羽文和であった。 (第19節に詳述)

11年前、あわや曹操の寝首を掻く処まで追い詰め、長男の曹昂らを戦死させた張本人である。その癖ぬけしゃあしゃあと、その3年後には主君「張繍」を、弱い曹操側に付いた方が厚遇されるとそそのかし、二人揃ってやって来た。そして今や曹魏屈指の軍師参謀として重きを為している。だが去年、コンビを組んで来た前主君の「張繍」は、曹丕の積年の怨みを買い、自殺に追い込まれていた。己とて同罪である。いな寧ろ、あれこれ実質的に策謀したのは自分の方であり、追求されれば、より罪業は重い。
 今は曹操が庇護・信任して呉れているから、まあ何とか安全であろうが、曹操の死後(賈クの方が8歳若い)は如何なるか判ったものではない。特に、張繍を許さなかった曹丕の代にでもなれば非情にヤバクなるであろう。 そこで【賈言羽】が採った処世の術は、名付けて『
針鼠シールド』・・・・徹底的な防禦バリア作戦を生涯に渡って実行する。

言羽、自ラ太祖ノ旧臣ニ非ズシテ、策謀深長
ナルヲ以ッテ猜疑セラルル事ヲおそレ、門ヲジテ自ラ守リ、退キテ私交無ク、男女ノ嫁娶かしゅうハ、高門ト結バズ。

 −−疑惑や怨み・妬み嫉みを持たれる事を非常に恐れ警戒し、その為、門を閉ざしてひっそり暮らし、役所(特に朝廷)を退出した後は一切の私的な交際を拒絶し、息子や娘達の結婚相手には、決して貴族や有力者を選ばないーーちなみに陳寿評の『良・平ノ亜カ!』と謂う表現の中には、2つの意味が籠められている。1つは彼の才略を褒めたもの。もう1つは「張良・陳平の処世術とそっくりだ」・・・と謂う意味合を含んでいるのである。
 〔張良〕は、自ら留と云う僅かな封地を貰うに止どめて妬みを避け、然も晩年には仙人暮らしをするのだと言い置いて隠遁生活し、寿命を全うしていた。〔陳平〕も亦、高祖・劉邦の死後、その妻の呂后一族からの讒言攻撃を巧みに掻い潜り、その身を乱世に全うしていたのである。
 当然、賈言羽自身も、そうした故事を熟知していたであろう。張繍と孔融の破滅を眼の当りにした【賈言羽】は、2代に仕え、大尉となる栄達を果し、77歳の天寿を全うする。


身を屈して処世に神経をピリピリさせて生き抜いた策士の一生と、ズケズケ思う様に反骨の気概を押し通して処刑される大名士の生涯・・・・
 押し並べて、後世に於ける孔融の評価は、文学面を除くと、己の才に溺れた人物として低く観られている。果たしてそうであろうか?筆者は、敢えて身を以って時代に抗し続けた其の姿は、ひとつの人の生き様として、それなりに認めて然るべきであると考えている。と同時に、次に巡って来る時代潮流の、貴族全盛時代への過渡期に於いて、「皇帝権力」と「貴族階級」との鬩ぎ合いの犠牲者であった点は見逃してはなるまい・・・・。


漢の丞相・曹操孟徳ーー己の覇道を遮る者は、
鬼神と雖ども断じて是れを許さず!・・・である。


今や、この男の行く手を阻む者は、此の地上には見当たらない。
曹軍100万に敵は無し!!
【第121節】 立ちはだかる男達 (不屈の闘魂)→ へ