【第119節】
じょうしょう
『銅雀台』・『金虎台』・『氷井台』−−3連の巨大高層楼閣を、業卩城の西門上に構築する・・・・天下を睥睨するに相応しい中国
史上に嘗て無かった美々しく豪壮なモニュメントを出現させるのだ!
曹操は今、以前から密かに温めていた【3連台】の構想を、設計図面に描き始めていた。基本図面は自身で引くーー多才である。
《まあ、俺の代では、経済的に観ても、新しい都を、真ッ更のゼロの
土地に築き上げるのは無理であろう。一点豪華主義でゆこうか。》
”玄武池”を眼下に控えさせ、見上げる3連の天守閣の偉容は、
天下統一を果したばかりの「覇王の住まい」としては人々の心を納得させるのに、取り合えずは充分であろう。中央にそそり建つのが〔銅雀台〕・・・5層12丈(30m)の外観は赤を基調として、豪華絢爛たる飾りと金銀を用い、俺の美的感覚の粋を結晶させた物に仕立ててみせよう。基礎となる城壁部を含めれば地上から大棟迄27丈(65m)。屋根の頂きは地上から100メートル以上になろうか・・・・。
其の南隣りに〔金虎台〕、北隣りには〔氷井台〕を配し、夫れ夫れ8丈(20m)とする。 ーー先ず、〔銅雀台〕を2年後には完成させる。更に1、2年後で【3台】の完成を期す・・・その頃には、江南はおろか、西の巴蜀をも制し、始皇帝でさえ成し遂げ得無かった、中国全土の完璧な統一を、この3台上で祝う事になろうか・・・・!?
曹操本人は今、そこまで浮かれては居無いが、設計は愉しみな作業ではあった。業卩城に帰還したら直ぐ、この図面を礎に、具体的作業が始まるであろう・・・・。
面白さにのめり込み、つい根を詰めてしまったらしい。ゆるゆると帰っては来たが、流石に52歳の肉体には、半年以上の大遠征は疲労を蓄積させたのか、こめかみの辺りが疼き出して来た。
この曹操の偏頭痛は、若い時からの持病であった。(恐らく、テンションが高くポジティブで在り続ける曹操の体質や、ポックリ逝った時の様子から推して、現代で謂う”高血圧症”傾向は有ったと想われる。)
一旦発作が起こると7転8倒の苦痛となる。頭の鉢が割れそうに痛み立ち眩んでしまう。その激痛を紛らわす為には、手当たり次第に物を投げつけ、辺りに怒鳴り散らす羽目になる。
「ーー”華佗”を呼んで措いて呉れ・・・。」
どうやら、其の予兆が又現われて来たのである。暫く我慢して図面を
引いて居たが、ズキズキ感が、こめかみから頭蓋骨の深い処へと移動し始めた。途端にズキーン、ズキーンと強烈な鋭痛が襲い始める。
思わず両手で頭を抱えて立ち上がったが、よろめいてしまう。こう為るともう、何も手に着かなくなる。只々、激痛と闘うだけであった。
「華佗よ、華佗は未だか!!」
寝台の上に身を投げ出して、悶絶するしか無い。もし曹操が大声で喚き出したら、近習の者達は大パニックとなる。次の瞬間には、ありとあらゆる物が飛んで来るからだ。枕で頭を抑えつけて居た曹操が唸り出した。・・・・ヤバイ!!危険信号である。
ガシャーン・・・・と壺が砕け散った。皿が飛び、鉢が舞い狂う。
顔付が変わり、眼が吊り上がって脂汗を掻いている。
「華佗どのが参られましたア!」 小柄な老人がヒョコリと現われた。
”天下一の名医”と謂われている。
「−−頼む!」 「久し振りの発作ですなア。」
「御託はよい!早く致せ!」 つい、怒鳴りつけてしまう。
「どれどれ・・・先ずは服をお脱ぎ下されや。」
上半身裸になると、華佗は医療袋からモソモソと5寸程の”鍼”を取り出した。そして1・2度、胸と腹の辺りを指で押さえると、ポンと無造作に横隔膜へ鍼を打ち込んだ。ポン、ポンと3本打ち終えると ・・・・こは如何に? 打つそばから疼痛が退いていったではないか・・・・!!
額に浮いていた脂汗を拭いながら、曹操はホッとして、心の底から
感謝を述べた。
「それにしても、何時も乍ら凄い絶技じゃなあ〜!感服の極みじゃ!」
御世辞では無い。だが此の当時、「医術」は未だ、学問としては認知
されていない。〔技芸〕の一種・範疇に過ぎぬとされていた。
※ その証拠に・・・・『正史・三国志』でも、『華佗伝』が載せられている場所は、『魏書』の一番最後から2番目 (最後は、倭人など蛮族の紹介) に過ぎず、然もタイトルは【方技伝】=即ち、雑技・雑芸の類いとして扱われているのである。
ちなみに、「方技伝」の中には現代で謂う処の”医学者”・”音楽家”・
”発明家(工学者)”などが、”仙人(方士)”・”占い師(卜筮=易占い、人相見、星占い、風占い、当て物)”などと同列に語られている。
(当時の文化・風習・及び人心の動向etcを識る上で、非常に興味深く面白い、貴重な部分である。いずれ【第2部】で詳しく紹介できる。)
「しばらくは、根を詰める様な事はお避け下さりますように・・・・。」
【華佗】はどうと云う風も無く、淡々としたものである。齢は既に百歳を越え、一説には300歳だとも言われているが、矍鑠として老いなど感じさせもしない。人類史上初の、麻酔(麻沸散)による外科切開手術も、何例か手掛けていた。当時としては奇跡と思われる様な、数多くのエピソードも残している。 (第10章で詳述)
「念の為、薬も出して措きましょう。」
曹操は、この天下一の名医を召し寄せ、己の主治医としていた。
「有難い!本当に助かったぞよ!!」
曹操が常に壮健で、全国を駆け巡っていられる陰には、この『華佗』の健康管理が、大きな力となっていたのである・・・・。
ーーさて、今回の〔北伐〕・・・・その勲功第一等は、或る意味では
【田疇】であったとも言えた。 彼の『盧龍の策』無くしては、長城の手前での、無残な中途撤退を余儀無くされ、この北伐作戦は大失敗に終わっていたであろう。そこで曹操は上表(朝廷に言上する)して、彼に食邑500戸・亭侯に叙すと云う大きな恩賞で報いた。
(※漢代には、勲功の大なる者には県単位の食邑を、小なる者には
郷・亭単位の食邑を与える規定が在った。然し実際の運用では
亭侯がほぼ最高の叙勲であった。)
ーーその上表文・・・・
『田疇は文雅ゆたかに備わり、忠節武勇もまた明らかであります。下を可愛がる場合は柔和であり、上に仕える場合は慎重であります。時期を測り、道理を慮り、進退は道義に合致しております。 幽州は騒乱の当初、蛮族・漢民族が入り交じって群がり、一家離散して離れ離れの生活、頼って行く場所も無い有様でした。
田疇は一族の者供を引き連れて無終山に避難し、北方は盧龍を防ぎ、南方は要害を守り、静謐で慎ましく、自分で耕作して生活を立てて居りました。人民は彼に教化されて懐き、みな一致して彼を助け奉戴いたしました。 「袁紹」父子の権威圧力が北方地帯に加わると、遠く烏丸と連合し、終始協力して対処いたしました。袁紹は何度も田疇を召し寄せましたが、飽くまでも頭を下げたり挫けたりしませんでした。
其の後、私が易県で宿営して居た時、田疇は遙か馬を駆って自ずから遣って参り、蛮族討伐の形勢を述べました。それは恰も、広武君が韓信の為に燕対策を立て、薛公が高祖(劉邦)の為に黥布について考察した様なもので御座居ます。また部下達に私の公開布告を持たせて出発させ、蛮民達を誘わせました。漢民族のうちにも其れをキッカケに逃亡して来る者が居りました。烏丸は其れを聞いて震え慄きました。 皇軍は国境を越え、山中に道をとって900里以上を進みましたが、田疇は兵500を引き連れて、山谷の間を先導して呉れ、かくて烏丸を滅ぼし、国境の外の地帯を平定いたしました。田疇の文武の才は効果を挙げ、節義は評価に値します。誠に、恩寵賞与を下し、其の立派さを表彰すべきであります。』
−−処が、この【田疇】・・・・・之がまた案に相違して、イヤハヤ
どうも、何とも謂えぬ”難物”で、人々の頭を混乱させる様な、物議の対象に成り続けてゆく人物なのであった。 確かに意志強固な〔志士〕なのでは在るのだが・・・・当時の識者ですら、
『何を考えて居るのか、よ〜判らん男』として頭を悩ませる志士なのである。かく言う筆者も最初に「田疇伝」を読んだ時、〈・・・・ん??読み飛ばしたかな?〉と思わず幾度も読み返した記憶が有る。何が”よ〜判らん” のか、まあ兎にも角にも、『正史・田疇伝』を御照覧あれ。(若い頃の部分は要約する)
『田疇は、字を子泰と言い、右北平郡無終県の人である。
読書が好きで、剣術が上手だった。190年、董卓が献帝を長安に連れ去ってしまった時、幽州の牧だった「劉虞」は、自身が皇族だった事もあり、何とか使者を長安に派遣して献帝への忠節を伝えようとした。だが道中は困難が予想され、その実現は無理だと思われた。その時、推薦されたのが21歳の田疇であった。・・・・結局、田疇の発案どおり20騎だけの個人的旅行と称した策が功を奏し、使者の役目は見事成功した。恩賞や出仕の要請も全て断わり、返書だけを貰うと田疇は馬を飛ばして帰途についた。 だが未だ到着しない内(193年10月)に、主君であった「劉虞」は、「公孫讃」に殺害されてしまった。田疇は帰り着くと劉虞の墓に参り哭礼(大声で泣く儀礼)をして去った。公孫讃は其の事を聞いて激怒し、懸賞金付きでウォンテッドして田疇を捕えた。
「お前は何故、勝手に劉虞の墓で哭したのだ。それに何故朝廷からの答書を儂に送らないのだ!」
それに対して田疇は、臆する事無く言い返した。
「今や漢王室は衰微し、人は夫れ夫れ異心を抱いて居ります。そんな中に在って唯、劉公だけが忠節を失っておりませんでした。答書に述べられてある事は恐らく、将軍(公孫讃)に対して褒めている事ではありますまいし、多分、快く聞ける内容では御座居ますまい。だから進呈しなかったのです。兎に角、将軍(公孫讃)は天下統一の大仕事を始められ、望みを叶えようと努力して居られる処ですが、罪無き主君を滅ぼした上に、更に又、道義を守る臣下にまで仇なすとは・・・・!もし、この事(田疇の殺害)を実行いたしますれば、近隣の燕国・趙国の人物は全て東の海に入って死のうとするでしょう。耐え忍んで将軍に付き従う者など在りましょうや!」
公孫讃は其の答の勇気に感心し、許して処刑しなかった。だが田疇を軍の管理下に拘束し、禁令を出して旧友達に彼と連絡する事を許さなかった。この時、公孫讃に進言する者があり、言った。
「田疇は義士です。貴方は礼を以って待遇できない上に、彼を閉じ込められて居られます。人々の心を失うのが気掛かりで御座居ます。」
そこで公孫讃は、やっと田疇を釈放した。
こうして田疇は北方に帰る事が出来たのだが、田疇は一族と従者
数百人を全て引き連れ、地面を掃き清めて誓いを立てた。
「主君の為に復讐しなければ、
私は世の中に立って行く訳にはゆかぬ!!」
かくて徐無山の深く険しい山中に分け入り、平坦で広々した場所に
住居を作って住まい、自ずから農耕して父母を養った。人民は彼の元に帰属し、数年の間に戸数は数千軒以上に迄なった。そして、長老達が田疇を正式に指導者として仰いだ時、田疇は皆に確認した。
「今、私が此処へやって来たのは一時の安楽を貪る為では無いのだ。大仕事を目論み、怨みに報い恥を雪ぎたいが故である。私は、心密かに其の意志を叶えられぬ事を懸念して居るのに、軽薄な連中は一時の快楽に耽り、充分な計画も将来への考慮も無い有様である。
私にはつまらぬ計画が在り、諸君と共に其れを実施したいのだが、宜しいか!?」 長老達は皆、「宜しゅう御座います。」と誓い合った。
そこで田疇は(己の目的である、主君の仇討ちを達する為に)、新都市の為だけの法を定めた。内容は死刑を含む20余ヶ条の刑法・婚姻嫁娶の礼・学校令などで、民衆は皆それらの法律・制度を便宜だと有り難がり、道路に落ちている物も拾わなく為る程になった。
北方地帯は心を合わせて、彼の威光信義に服従した。烏丸と鮮卑は共に夫れ夫れ使節・通訳を派遣して、貢物・贈り物を届けて来た。田疇は全て慰撫して受納し、侵略しない様に命じた。
『袁紹』は、たびたび使者を派遣して田疇を招聘、命令し、また将軍の印を持って行かせて授け、それによって田疇が統率している人々を慰撫し、懐かせ様とした。だが、田疇は全て拒否して受け無かった。
(※ ここで問題に成るのはーー田疇が(193年に)主君の為に復讐を誓った相手の「公孫讃」が、「袁紹」によって易京のバベル城で滅ぼされた199年が、田疇にとっては何時だったか・・・・である。恐らく田疇は、誰の手も借りずに”己独自の力だけで「公孫讃」を討つ”事を生き甲斐として居たと想われるから、易京戦の以前からであったとは推測される。) 袁紹が死ぬ(202年5月)と、その子の『袁尚』も亦、田疇を招いたが、田疇は飽くまで行かなかった。田疇は又、その昔、烏丸が此の右北平郡の高官多数を殺害した事を何時も根に持っていて、討伐したい気持を抱いていたが、未だ力不足であった。
建安12年(207年)、太祖(曹操)は北方に赴き烏丸を征伐したが、
到着する前に、使者を派遣して田疇を招いた。又、以前には田疇の所に参画していた「田豫」に命じて、その趣旨を説明させた。田疇は其の家臣に言い付けて旅装を整えるよう促した。すると家臣は質問した。
「以前、袁公が貴方を慕って礼を尽くた命令が5度も来ましたが、貴方は道義を楯に屈服なさりませんでした。それなのに今、曹公の使者が1度訪れると、貴方は間に合わないのを心配すると云った御様子なのは、何故なのでしょうか?」
田疇は笑いながら彼に答えた。「この事は、君の分かる事では無い。」
かくて使者と共に太祖(曹操)の軍に到着した。』
ーー以下、〔盧龍の策〕を示し、〔万里の長城越え〕 を先導した事は既述してあるので略すーー
・・・・と云う”経緯”が、田疇には有ったのである・・・・が、話を元 (恩賞授与の場面) に戻すとしよう。
さて、田疇は先ず、曹操のその恩賞を固辞した。
その理由を「正史」はーー『田疇は最初、困難な状況に置かれた為、大勢を引き連れて (盧龍山中に)逃亡したのであって、希望も道義も成り立たない裡に、却って其れを利用した結果となり、本来の意志に外れると、みずから考え、固辞した。』と記し、『太祖(曹操)は彼の真心を理解し、許可して尊重した。』で段落としている。
※補注=「魏書」では更に、その時の曹操の訓令を載せてある。・・・・『昔、伯成が国を棄てた時、夏の君(禹)が無理強いしなかったのは、高尚な人物と寛大賢明な君主の出現を、一代限りのものにしたく無かったからである。よって、田疇の固執する処を聞き届けよ。』
ーー処が・・・其の直後に、今度は田疇、曹操の出した命令を堂々と無視した。遼東の公孫康から「袁尚の首」が届けられたので曹操は、『敢えて彼を哭する者あらば斬罪に処す!』との禁令を発したのであった。だが田疇は以前ニ袁尚カラ招請ヲ受ケタ事ガ有ルノデ曹操の命令を無視して、哭礼の弔いをして袁尚を祭ったのである。
※ この田疇の〔首尾一貫しない行為〕については、補注担当の【裴松之】が流石に厳しく批判している。
『臣・裴松之が考えるに・・・・田疇が袁紹父子の命令に応じなかったのは、彼等が正しく無かったからである。だから全力で魏の太祖(曹操)の為に盧龍の策を図ったのである。逃亡した袁尚が遼東で首を授ける羽目になったのは、全て田疇の献策の御蔭であった。
だが然し、田疇は何故、袁尚をハッキリ”賊徒”として扱って措きながらどうしてまた其の首を弔い祭ったりしたのか。もし、以前に召命を受けた事から、心中で義理を感じていたのならば、曹操の為に袁尚を殺す計略を立ててやり、袁尚を此処まで追い込ませるべきでは無い。田疇の此の行動は、実際、正当性を持たないと思う。』
だが曹操は此の時、田疇の功績大なるを思い、彼の命令違反をも亦不問に附したのである。北伐に於ける、余っ程の謝意を示す特例措置であった。ーー然し、この田疇への処遇の在り方については、のち多くの者を巻き込んでの一大論争を惹起する事となった・・・・。
田疇は一族全てを率いて業卩に移住し、その後も”南征”に従うなど功を挙げる。だが其の3年の間、田疇は一度も恩賞を受けずに居た。そこで曹操は、以前に固辞した分を復活してやろうと思い返し、「あれは一人に意志を全うさせたが、国家の大法制度を無視した事になる」と言い、〔善意の執行命令〕を出した。
『田疇は、志・節ともに高尚な人物である。郷里において蛮族・漢民入り乱れての混乱に遭遇し、深山に身を隠し、心を磨き道義に親しんだ。人民は彼を慕い、その為に都市が出来上がった。袁賊の勢力盛んな時、その命令・召請に屈従せず、気概をもって意志を貫き、真の君主を待ち望んだ。儂は詔をかしこみ、河北を征討平定し、幽の都を服従させてから、更に烏丸の乱暴を鎮めようとした。その時に、礼を尽くした命令を与えると、田疇は直ぐさま任命を受けた。そして田疇は、蛮族攻撃の為の道筋を建策して呉れ、山民たちを纏め統率して、忽ち彼等を教化に向わせて呉れた。塞がっている道を切り開き、先導と輸送を受け持ち、労務を引き受け提供して呉れたが、その道路は近くて便利であり、敵の予想もしないものだった。 白狼にて
トウトツを斬り、そのまま柳城にまで長駆追撃できたについては、田疇の働きが在った。軍が国境に戻った時、その功績を考え、上表して亭侯に取り立て、食邑500戸を与えようとしたが田疇は真心から何度も恩賞を辞退した。3年間、内外へ出入りしたが、年月を経過しても未だ恩賞を賜わって居無い。之は一人の高潔さを成就する事にはなるが、国家の法典には甚だしく違うものであって、その為の損失は大きい。上表に従って侯に取り立て、儂の過失を長く放置しないで呉れ。』
−−『先賢行状』−−
又、布令を出して幕府内での再吟味を促した。
『昔、伯夷・叔斉は爵位を捨てた上、武王を非難した。道理を知らないと言うべきであるが、
孔子はそれでも〔仁を求めて仁を獲得した〕と判断している。田疇の取った態度は道理に
合致しないとは申せ、ただ清廉高潔を望んで居るに過ぎない。もし、天下の人々が全て田疇の気持の様であったならば、それこそ無差別の愛と平等を主張する墨子の政治と成り、人民を体制の存在しない古代に復帰させようとする老子の道を採る事になる。朝議では善しとしているが、もう一度、司隷校尉に命じて、この事を決定させる事にする。』
処が、無理矢理に以前の爵位を与えられた田疇は、上奏文を奉り、誠意を披瀝し、死の決意を示して自ずから誓いを立てた。曹操は聞き入れず、田疇を呼び寄せて任命しようとする事3、4度に及んだが、田疇は飽くまで受けなかった。何がし、君臣が互いに”善い子ブリッコ”をし合って、”意地の張り合い”を演じている観が有って可笑しいのだが
・・・其処へ外野(所管の役人達)が口を出し始めて来たものだから様相は一変してしまう。
「田疇の態度は、余りに頑なで道に外れて居りまする!免職にすべきです!」
「その通り。田疇は、徒に小さな節義に拘泥しているに過ぎませぬ。」
「免職だけでは無く、更に刑罰を加えるのが当然で御座いまする!」
・・・などと弾劾キャンペーンにまで発展してしまうのだった。とかく此の世には、物事を四角四面に捉える役人根性の持主が多い。それが又御主君(体制側)の御為とばかりに口泡を飛ばすのだから、言い出しッペの曹操も一概には彼等を制止する事が憚られた。 折角の曹操の善意がアダとなり、何だかアラヌ事態へと発展してゆきそうな雲行きとなって来た。「ったく、よ〜判らん奴じゃ・・・・。」 面倒になった曹操は、その後始末の役廻りを【曹丕】に押し付けてしまう。
曹丕は当然、【司馬懿仲達】に相談したであろう。−−曹丕の存在感は、ここの処、仲達の訓導宜しきを得て、堅実な若君として定着しつつあった。然し今後の人脈拡大の為にも、人徳の有る一面を売り出して置くべきだろう。
「若君が情けに厚く、仁義を弁えた御方であると云う、
〔九鼎大呂を得る〕 絶好の機会ですな。」
そこで曹丕は、田疇擁護の立場に立って述べた。
「昔(春秋時代)、楚の首相だった『子文』は楚の国難に対して自分の
財産を投げ打って対処し、又、呉に攻め込まれたて滅亡寸前に追い込まれた楚の為、『申包胥』は秦に出かけて援軍を得、楚を救ったが『私は主君の為にしたのであって、我が身の為にしたのではありません」と言って恩賞を受けませんでした。田疇となりますと、正に其の場合に類似しております。
免職して刑を加えるのは、法律からしてもヒド過ぎます。」
曹丕は又、尚書令の「荀ケ」や司隷校尉の「鐘遙」にも論を張らせた。
【荀ケ】は述べて曰くーー『君子の生き方には、世に出て官職に就く場合もあれば、家に居て官職に就かない場合もあります。 どちらも、善を行なう事を目的としているからです。従って、一人の男が意志を貫こうとする場合、聖人は各人の意志に沿って其の意志を成就して
やるので御座います。』
【鐘遙】も述べて曰くーー『孔子は、原思が穀物を辞退したのに対しては賛成せず、子路が牛を受け取る事を拒否したのに対しては、善の範囲内にあると評しました。清潔を奨励し、汚濁を叩き直すには良いとは言え、評価する程の事ではありません。田疇は大きな道義に合致しないとは申しながら、謙譲の気風に利する処が御座います。曹丕様の御意見の様に為さるのが宜しいでしょう。』
重臣の2人共が賛同したのだから、曹丕の株は更に上がる事とは相なった。まあ、曹操が後に控え、曹丕が擁護側に立つ以上、初めから結論は出ている様なものだが一頻り人々の耳目を集める事となった。そうした世論に自信を得たのか、田疇は結局、固辞を貫いた。
これにて一件落着!・・・かと思いきや・・・今度は曹操の方が収まらない。どうしても田疇が欲しくなった。 (これ迄の田疇の立場は、恩賞を貰って無いのだから、曹操の家臣では無く、飽くまでフリーの客人待遇であったからである。)
かと言って、また再びの〔擦った揉んだ〕はマッピラ御免であった。
そこで曹操、已む無く裏側から手を廻した。田疇が夏侯惇と親しい事から、内々に【夏侯惇】を呼び寄せて頼んだ。
「兎に角出掛けて、真情でもって彼を説得して呉れ。君の気持から
出た話として、儂の意向は伏せて置いて呉れ。」
夏侯惇は田疇の元に出掛けて泊まり、曹操が言いつけた通りにした。田疇は、その趣意を推量して、それ以上発言しなかった。 夏侯惇は去る時になって、田疇の背中を軽く叩いて言った。
「田君、主君の御意向は懇切なものだ。
全く無視する訳にはいかんぞ。」
「これは何と不可しな事を言われるものです。私は道義に背いて逃げ隠れした人間なんですぞ。目を掛けて貰って完全に生き返ったのは、非常な幸運なのです。たとえ国が私を贔屓にして呉れたとしても、私自身は心中ひけ目を感じ無いで居られましょうか。将軍は元から私を理解して下さっている方なのに、それでもこんな風でいらっしゃいます。もし、どうしても仕方無いのならば、おん前に首を刎ね、死を捧げたいと存知ます。」
言葉が終わらぬうちに、涙が溢れ流れた。夏侯惇は詳しく曹操に報告した。曹操はふう〜っと溜息を突き、屈服させられない事を理解した。そこで任命して議郎(朝廷の参議官)とした。歳46で亡くなった。
−−以上が、『よ〜判らん男の騒動記』である。まあ、こう云う個人の我が儘を押し通す様な人物も存在した、と謂う事である。 逆に言えば、 この時点・段階に於いては、曹操には未だ、家臣の行動にウムを言わせぬだけの 絶対性が備わっては居無かった
・・・・と云う事の証明とも言えよう。
いずれにせよ、【田疇】−−お騒せな人物ではアリマシタ・・・。
この北伐の帰途、2人の重要人物が陣中で没した。
一人は・・・・破羌将軍の【張繍】であった。
張繍の領邑は北伐前の段階で、既に2000戸に達していた。是れは、あの統合参謀本部議長の「荀ケ」と同格であり、今度の加増いかんでは荀ケを凌ぐ果報者と成る筈であった。然も彼は初期からの譜代では無く、官渡決戦の直前に〔駆け込み参入〕した外様将軍なのであった。同じ外様で言えば、八面六臂の大活躍をしている実力ナンバーワンの「張遼」でさえ、食邑は800戸である。 そうして観ると、【張繍】の
待遇が如何に破格のものであったかが判る。なぜ曹操は、彼をそれ程までに厚遇したのか? ー−−是れには、深い曰く因縁の経緯が在った事は・・・既に、第19〜21節で詳述してある。略記すれば・・・・
張繍の参謀であった策士・賈言羽の謀略により、一旦降伏
した振りをして、曹操が油断した処を急襲。曹操は単騎で命からがら脱出した。この宛城の戦いで曹操は、嫡男の曹昂・甥の曹安民・侍衛の典韋など多くの将兵を失って大打撃を蒙った。 だが其の3年後、
官渡決戦を控えて窮地に在った曹操の弱味に便乗して、これまた賈言羽の進言で、急きょ曹操に臣従を申し出た。曹操は、賈言羽の目論見通り、大喜びして彼等を迎え容れ、 過去の恩讐一切を水に流して厚遇した。爾来、その厚遇の態度は終始一貫して続けられていた・・・・
−−だが、その厚遇の根底には最初から、計算された政事戦略が横たわっていたのであった。《嫡男を殺した相手にさえ、私怨を超えてあれ程の厚遇で応えているではないか!》・・・・張繍の存在価値は、曹操の人材収集・登用の為の宣伝媒体とされて来ていたのだ。 にも拘らず、その事に全く気付かず、全て己の実力ゆえの出世・厚遇であるのだと思い込んで居る処に、彼の限界・転落の危さが潜在していたのである。 だが当人にしてみれば、官渡戦でも南皮戦でも力戦奮闘して、勲功は大きいと自負している。 又、相変わらず曹操の覚えも目出度く、我が娘の婚約を通じて、曹一族とは縁者に成った心算でもある。そんな事どもからして、北伐の最中にも、張繍は度々、曹丕の所へも出向いては頼み事などをした。すっかり親戚気分となって居たのである。−−だが然し・・・・曹丕は忘れては居無かった。いや決して忘れ去る事など出来無い、10歳の時の強烈な光景であった。何時も自分を可愛がって呉れた兄・曹昂の緊迫した顔付き。そして幼い自分を馬に押し乗せながら言った、兄の言葉の一言一句が忘れられ無い。
「よいな曹丕。もしかしたら、是れがお前に会える最後かも知れ無い。どんな事が有っても、必ず生き延びるのだぞ。そして此の兄に代わって、何時までも父上をお助けするのだ。いいな。お前が大きく成ったらきっと我が一族の栄光を、この兄の墓前に報告するのだぞ!!さあ、時間が無い。ゆけ、曹丕!!」
最後は自分を安心させる様に、少し笑って見せて呉れた兄の曹昂・・・
その優しかった兄が殺されたのだ。幼い自分自身も亦、恐怖の中を駆け抜ける羽目に遇わされたのだった。其れも是れも、全てこの張繍の所為だった。
《許すものか!兄の仇は必ず此の自分が討って見せる!兄の無念と俺自身の屈辱は絶対に晴らして見せるぞ!!》・・・・あれから10年が経ったとは謂え、幼い心と眼に焼き付けられた、亡き兄の姿と言葉を忘れる事など、決して無かったのである。
父・曹操の方針だからジッと堪え続けて来ては居たのだが・・・・曹丕にも、己独りで判断を下せるだけの時が経過していた。そして、父の覇業が一段落した今、遂に、その一族の怨恨が、爆発したのだった。
「お前は私の兄を殺したクセに、何で平気な顔をして人に会えるのだ!付け上がるでは無いぞ!父は許したとて、この曹丕は、お前が兄を殺した事を決して忘れはせんぞ!!」
この曹丕の叫びは、アッと言う間に全軍に知れ渡った。諸将の妬みも在ったろうが、張繍自身の人品も、どうやら豪放磊落一方で、繊細さには欠けていたらしい。
其の事件以来、諸将の態度がガラリと豹変した。 リストラの標的にされた格好である。それからの毎日は、明ら様な嫌がらせを受け続け針の蓆に座らされる日々となった。軍議の開催も知らされずに大恥を掻いたり、就寝中に軍服が紛失したり、終には兵卒から後ろ指さされたりするに至ったのである・・・・。根は一途な武人である。その屈辱に耐え兼ねず、【張繍】は刎死したと伝えられる。
※『五官将(曹丕)ハ張繍ガ度々モノヲ頼ミニ来タ為、
腹ヲ立テテ言ッタ。 「君は私の兄を殺したくせに、
どうして平気な顔をして人に会えるのだ。」張繍ハ
内心不安ヲ感ジ、其ノ為ニ自殺シタノデアル。』
−−『魏書』−−
単なる病死であったかも知れぬが、用済みの外様将軍の末路としては、在り得ぬ話しでは無い。栄達を果した者ほど、己を律し、謙譲の心を失ってはならぬと謂う事であろう・・・・。
ちなみに、仕掛けの張本人であった【賈言羽】の方はーー
『役所と自宅の往復以外は一切外に出ず、人を招かず人にも招かれず、私的な付き合いは一切行なわず、子供達の婚姻も平民に限る。』
ーーと云う徹底した”穴熊”作戦・”針ネズミ”戦術を貫き、その身を保ち天寿を全うしてゆく。(詳細は次節にて)
もう一人の死没者は・・・この「北伐」の提言者であった
【郭嘉】である。
柳城陥落が成るや、ついに病床に伏し、危篤状態が続いていた。
体力は既に生命の限界を超えていたが、張り詰めていた責任感から解き放たれた瞬間、気力は失せ、眼を開ける事すら不可能に為っていた。・・・・業卩城に着く迄は、かろうじて息は有ったが、懐かしい城の影を最期に眼を留めると・・・・曹操に手を握られた儘、38歳の命は燃え尽きていった。其のデカダンスが招いた寿命であったのか・・・・。
曹操は其の瞬間、彼の死を悼み、人目も憚らずに号泣して崩折れた。
「哀しいかな奉孝、
痛ましいかな奉孝、
惜しいかな奉孝・・・・!!」
是れは曹操にとって大ショックであった。−−形而上学的な意味合において、人間の寿命が、戦死で無い形で、かくも身近にアッサリと燃え尽きる事への畏怖であった。何を今さら!と思われるかも知れ無い。確かに曹操孟徳の人生は、無数の人間の死の上に成り立って来た、とも言えるのだから、今ここで多寡が一人の病死に狼狽える事も有るまいに。・・・・否!曹操も若くは無くなって居たのである。
”己の消滅期限”が現実問題と成って来た、と実感され始めていたのである。ふと”己の残り時間”を数えて試る此の頃でもあったのだ。
〔覇業の達成〕と云うハッキリした目標が在ればこそ、その思いは猶のこと深い。曹操特有の、「存在と無」・「存在と時間」に対する畏敬・畏怖への造詣が深い故のショックであった・・・・。
のちに曹操は、自分を解って呉れる人間として、荀ケへの手紙の中にその悲しみの心を吐露している。
『−−郭奉孝は、40にも満たない年だったが、11年間一緒に苦労し、苦しみ悩みは全て共に被って来た。また彼が道理に明るく、世の中の事態に対処して行き詰る事が無いのを見たので、後事を彼に託そうと思って居た。 突如、彼を失おうとは思いも掛けず、悲痛な思いに心を痛ませている。今、上奏して、その子に加増し一千戸に満してやった。然し、死者に対して何の益があろう。
追憶の感情は深い。それに奉孝こそは私を理解していた男なのだ。天下の人で私を理解して呉れる者は少ない。この事でも残念至極なのだ。 何とした事か!何とした事であろうか・・・・!』
曹操が、自分達より一世代若い郭嘉に、次の時代の宰相・軍師役を任せ、2代目の後見を一切委ねようとしていた事が窺い知れる、貴重な史料でもある。
曹操の哀惜の情は、日と共に益々強まる。再び、荀ケへ手紙を出す。
『奉孝に対する追惜の念が、心を離れようとしない・・・・。かの人物が下した時事・軍事に対する判断は、遙かに人を超えていた。
また人間は病気を恐れる者が多いものだが、南方に流行病が有る事から、常に「私めが南方に行けば、生きて帰れまい」と言っていた。それなのに、一緒に計略を論じ合うと、先に荊州を平定するのが妥当ですと言っていた。是れは唯単に、計略の判断が真心から出ているだけで無く、何としても功業を打ち立てんとして、定命をも放棄したのだ。人に仕える心は、これ程であったのだ。どうして私が、この事を忘れる訳にいこうぞ・・・・。』
死んだら終わり・・・・では無かった。曹操孟徳と云う男の、情の深い
一面を知る事の出来る史料でもある。 尚、この文面では、郭嘉が
「北伐」を主張して居無かった、寧ろ「南征」を最優先させるべきだと
主張したかの如くに脚色してある。これも亦、曹操の手向けなのであろう。逆に言えば、今回の「北伐」が、如何に杜撰な計画であったか、郭嘉の見通しが甘く、結果としてはOKだったとしても、困難極まりないものだったかが窺い識れるのである。
この文面を読んだ荀ケは、半ば哀しみ、半ば微笑んだ事であろう。
そして益々曹操が好きになり、その人間的魅力を、しみじみと噛み締めた事であろう・・・・。
その一方で、郭嘉が死んだからこそ言い出せる布令が在った。
『今回の北伐に反対し、異議を唱えた者達の名を
全て報告せよ!』
〈−−ヤバイ・・・・!!〉
多くの者達がヒヤリとして、首を竦めた。殆んどの者が、「北伐」より「南征」を最優先すべきだ、と主張して来ていたからであった。だから今、郭嘉の遺徳を偲ぶ為に曹操は、郭嘉に反対した者達への譴責
処分を課して来るのではないか・・・・そう思われた。果たして曹操は、文武百官が集められた中で、固唾を飲んで居並ぶ一同に、大きな声で申し渡して言った。
「今回の北伐は、幸運によって、どうにか危険を乗り切れた。だが、上手くいったのは、天が助けて呉れたからこそであった。従って余も謙虚に反省し、今後は、より多くの者達から広く提議を受け、深く検討するであろう。 諸君の諫言は、万全の計であった!
その為に恩賞を取らすのである。今後とも、発言を控えたりしないで欲しい!」
反対意見を述べた者をこそを顕彰する・・・・誠に以って、
曹操こそは、人使いの天才であろうか。
休息地の「易水」には、次々と祝賀の者達が姿を見せた。 最早、
黄河の北(河朔)には敵対する者は誰一人として居無くなった。 先に袁尚らの首を送って来た、遼東太守の『公孫康』からも、正式な帰順の使者が追い付いて来た。
207年(建安12年)は、こうして〔河北・完全制覇〕を成し遂げて、暮れていった。
【赤壁の戦い】迄、丁度、あと1年
明けて208年(建安13年)・・・・運命の年が動き出す。
ーーその正月・・・・曹操軍は、本拠地・「業卩城」に帰還を果した。
思えば遠くへ来たものである。夏侯惇らと共に部曲(私兵集団)を率い世に起って以来20年・・・・正直に言って、あの頃は未だ、まさか此の日が有る事など夢にも想え無かった。軍勢も千人単位で、万を超す
部曲を所有する他人を羨ましくさえ思ったものである。それが今、
『曹軍100万!』と謂われる迄に成っている。
《−−いよいよ、だな!!》宿願の【天下統一】が、現実のものと成って来ている。目前の日程に〔全国制覇〕が、具体的に挙がる秋を迎えたのである。業卩城の内外を美々しく埋め尽くす歓呼の中、手を振って凱旋しつつ曹操は確信した。
ーーその為に、曹操が描く大戦略とは・・・・
〔1〕 先ず、荊州の奪取
〔2〕 荊州の統治と次戦への準備
(水軍の確保と訓練を含む)
〔3〕 長江中流(荊州・江陵)からの呉への進攻
・・・・以上をもって、覇業は成るのである。残りの西部(巴・蜀)地域などは、物の数では無い。慌てて遠征する迄も無い。
事実ーー長安の【馬騰】は、ついに永年の野望を諦め、その波乱万丈の生涯に自ずから終止符を打つ決断を下したのだった。その以前から、「鐘遙→張既ライン」を通じて、粘り強い説得工作が続けられて来ていたのであるが、ここへ来てその成果が実った格好であった。
『馬騰ハ自ラノ老いヲ顧ミテ、結局、入朝シテ
警護ノ役ニ就イタ。』
一時は悩んだ様で、何かと理由をつけてはグズグズと先延ばしにして居た馬騰ではあったが、とうとう此の208年に、曹操への帰服を決意したのである。それは同時に、馬騰自身の”現役引退宣言”でもあった。そして其の決心が本物である事を証明する為に、馬騰は一族全てを引き連れて、業卩に在る曹操の元へと出頭して来たのだった。
即ち、一族丸ごとが業卩に永住する覚悟を示したのである。大喜びした曹操は、馬騰の面目を考慮して、直接自分の家臣にする形を避け、朝廷の衛尉(警護官)の名誉職を与えた。
『馬騰ガ入朝シタノデ、詔勅ニヨッテ、長男ノ馬超ヲ偏将軍ニ任ジ、馬騰ノ軍営ヲ(馬騰に代って)統率サセタ。又、馬超ノ弟ノ馬休ヲ奉車都尉ニ、馬休ノ弟ノ馬鉄ヲ騎都尉ニ任命シ、其ノ一族郎党ヲ引キ連レテ皆、
業卩ニ移住サセ、タダ馬超ノミヲ(長安に)留メ置イタ。』
気になるのは、長男の【馬超】であった。〔留メ置イタ〕とはあるが、実態は”臣従拒絶”であった。 それまで馬騰が持っていた全軍を、
そっくり其のまま引継ぎ、
《俺は、親父とは違うぞ!未だ未だ野望を棄てては居無いのだ!!》 と宣言したのである。あの抜き身の眼光が思い出される。とは謂え、馬超独りを除いた馬一族の全員・親兄弟が業卩に在るのだ。言って
みれば、大量の人質を取ったも同然である。思い切った行動は起こせまい。一安心どころか、西方への保険はバッチリとなったと謂えよう。
又、益州(巴蜀)の牧である【劉璋】などは、去年、イの一番に
慶賀の使者を送って寄越した上に、今年には300名の少人数とは
言え、傭兵を贈って寄越すゴマの擂り様であった。 その劉璋は、
関中盆地で五斗米道によって勢力を張る【張魯】と敵対関係
真っ最中にあり、とてもの事、両者とも動く事など無理であった。
−−と、なれば・・・・北伐を終え、中原平定を果した今、残るは南方
《劉表の荊州》と、《孫権の呉》とである。
この南方の地は東西に広大だが、長江で繋がる一地域として観る
事も出来る。即ち、荊州奪取が成れば、其処から長江を下り、その儘一気に、呉に対して怒涛の進撃を敢行できるのである。
その際、絶対に必要なものと言えば・・・・〔水軍〕 である。更には、艦船の「数の多さ」も必要だが、最終決戦の相手となる呉は、
”水戦の雄”である。古来より、日常的に水運になじんで生きて来た。『南船北馬』は生きている。そんな呉の水軍と対決するには、水軍の「質」を高めて措く必要がある。
それを見越して、既に2年前から業卩城の西郊に、巨大人造湖・
「玄武池」を造らせて来た。長江を模して、戦闘艦の数十隻が互いに実戦演習し合えるだけの、巨大な人造湖に仕上がっている。とは言えその大工事を命じた曹操自身は、その効用に関しては、決して過大な期待を抱いて居る訳では無かった。どの道、いざ実戦となれば、矢張り、其の操船は荊州水軍に任せる事になるのは必定である。
《・・・・ま、やるべき事はやって措こう。初めての水戦にビビらず、兵が幾等かでも自信を持てば、それで良し・・・・。》
その玄武池では連日、艦艇の前進・後退・集結・散会・衝突・船上射撃・飛び移り・斬り込みetc.etc・・・・水戦で想定されるあらゆる場面に対応すべく、将兵および漕手の猛訓練が開始された。
将官は勿論、一兵卒に至る迄、今度の戦さの持つ”意味”を識っていた。「ごっこ」にならぬ様、厳しい叱咤が飛び交っている。わざわざ江南の地から、専門の指導教官まで招いて監督させている。得意の陸戦演習には、それ以上の熱が入っている。こうして全軍の士気は日増しに高まってゆく・・・・!
『十三年、春正月。公(曹操)ハ業卩ニ帰還シ、
玄武池ヲ作ッテ水軍ヲ肄(訓練)シタ。』
曹操の頬が会心にほころぶ。
曹操には自信が有った。ーー今から200年前、自分と同様に河北を
平定した後、長江流域へ征討戦を行ない、みごと天下を統一した人物が居たのである。後漢王朝の創立者【光武帝・劉宏】であった。その時光武帝が置かれて居た状況は、今の曹操とは比べ物にならぬ程に、
強敵が多く苦境に在った。 にも拘らず西暦29年、彼が親征するや、江南の諸勢力は恐れを為し、抗戦する事無く、こぞって彼の前に屈服したのである。
そんな歴史的事実を識っているだけに尚の事、曹操は「南征」に対し絶対の確信が持てるのであった。今、自分を取り巻く天下の形勢を観た時・・・・実を言えば、恐れる相手など居無いと思っていた。光武帝の10倍の兵力を有する自分の前には、荊州の劉表や、呉の孫権など、いざとなれば忽ち内部崩壊して、結局は降伏して来るしか有るまい。特に呉への”切り崩し工作”には、少なからぬ成果が報告されて来ていた。孫権の従弟で予章太守を務める『孫賁』や、孫賁の弟で盧陵太守の『孫輔』などからは、「イエス!」の返答も無い代わりに、「ノー!」との拒絶も無いのであった。詰り、孫権の親戚ですら、〈戦わず降伏すべきだ〉・・・・と、迷って居る有様なのである。
かくて曹操の南征はーー恫喝の戦いと成り、戦わずして相手を屈服させる為の〔一大セレモニイ〕と化すかの如き好情勢と成りつつあった。
ーーさて曹操は、いよいよ、何年来その胸中に密かに暖めて来ていた《権力構造の一大改革》に乗り出した。 それは業卩城に凱旋した直後から、間髪も措かずに推進され始めた。
即ち、漢王朝を其の根幹から200年に渡って支えて来た〔三公府〕=太尉・司徒・司空の3大官制を完全に廃絶 してしまおうと謂うのであった。
そもそも〔三公〕は、大漢帝国の劈頭から在った制度では無く、前漢も末のB・C8年(成帝の綏和元年)に、建国以来続いていた〔丞相・御史大夫〕 の官制を廃止した時から始まったのであった。その時初めて
「大司馬・大司徒・大司空」 が設けられたのだが、是れを後漢復活の時に、「太尉・司徒・司空」 と改称したのである。
詰り曹操は、今迄200年間続いて来た〔三公〕の代わりに、400年前の建国時に存在した〔丞相・御史大夫〕を復活させ、みずからが其の【丞相】に就任しようと目論んだのであった。
この、原点回帰とも謂える大改革の狙いは2つ有った。即断即決が
要求される”天下平定戦を控えた”曹操にとって、丞相就任の最大の
メリットは・・・・〔公式な〕、〔権力の一極集中・強化が果される〕 事である。実質的には既に此の時点に於いて、曹操は肩書が何であれ独裁権を確定していたから、その事実を法制化して、天下に己の実力を正式に認知させようとするものと謂えよう。
軍事権と行政権、人事権・更には軍事裁判権・立法権に至るまでの全権力を一手に統べる、「独裁的絶対制」・・・・即ち、【丞相府】の樹立である。この時、絶対的独裁官である【丞相・曹操】は、実質的には国王皇帝の権力を持つ事に成る。その気になって帝位に就こうとした場合にも、此の機構をそのままスライドさせて、あとは宣言さえすれば、事は成就する。それ程の大変革を断行しようと謂うのであった!
ちなみに、この権力の独占構想は、決して思い付き的発想から生れたものでは無かった。今にして思えば、その出発点が、相当に早い段階から周到に準備・画策されていた事が判然として来る。 其れは何と、既に官渡戦以前の、然も、献帝奉戴を果したばかりで、未だ曹操の評価など2流の頃の、今から12年も前の196年からスタートしていたのである。即ち、曹操は「大将軍」を袁紹に譲り、自らは「司空」に就任する一方で、「太尉」の官は空席・欠員のまま12年間に渡って”放置”し続けて来ていたのであった!・・・・と云う事は・・・・三公の内、現在も残るは「司徒」の官職に在る『趙温』唯1人、と云う事になる。もし、趙温が司徒を退き、曹操も司空を返上したとなれば・・・・三公は誰1人存在しなくなり、事実上「三公制」は機能停止状態に追い込まれ崩壊する。
と、なれば、もうお判りであろう。邪魔者と成った『司徒・趙温』は、
”嵌められる” のである。非情なる権力の牙は、その気になりさえすれば、たとえ神にでさえ罪を擦り付けるであろう。
ーー『献帝起居注』・・・には、こうある。
『建安十三年、司徒ノ趙温ニ(曹丕は)招聘サレタガ、太祖(曹操)ガ
「趙温は臣の子弟を招聘いたしましたが、臣に阿って、その選抜は故意に実質を無視しております」ト上奏シタノデ、(献帝は)侍中守光禄勲ノ希卩慮ニ節ヲ持タセ、趙温免職ノ辞令ヲ伝エサセタ』
「選挙不実の罪」−−これが、趙温を司徒から解任する為の、公式な罪名である。・・・・趙温は、曹操の御機嫌とりの為に、その子の曹丕を司徒府の属官に辟召したが、それは私情によるもので、公正さを損ったものである!・・・・と、したのである。
何故、それだけの理由で罷免が可能であったのかは判然としない。
いずれにせよ、此のとき趙温71歳・・・・普通なら年齢から言っても、
ひと声かけられたら穏やかに引退しても好い頃である。にも拘らず、曹操がこんな姑息な手段を行使しなければ為らなかったと云う事は
・・・・趙温(朝廷側)の猛反発が在った為であろう、と推測される。
【趙温】の字は子柔・・・・ (※注、董卓の手に掛かって殺された、
銅臭大臣の『張温』とは別人。)
長安の李催政権下で「司空」となってから今日まで、14年間の長きに渡って「司空」の座に在って、献帝に仕えて来て居た。勿論、献帝の
”東帰行”にも随伴したし、李催が私邸に献帝を動座させようとした時には猛抗議して、献帝が「李催には、事の善悪を判断する力が無い。趙温の言葉は厳し過ぎるから、心が氷りつくほど彼の生命が心配でならぬ。」と言わしめた忠烈一途な人物である。幼い献帝を、身を挺して補佐し続けて来ていた。その実績が有るが為、曹操も今迄、その世論を憚って手を出さずに居たのである。
そんな趙温であるからして、当然、曹操のキナ臭い深意・底意を嗅ぎ取って居たであろう。・・・・然し結局、趙温は罷免され、此の年に死んでいる。その死に様は一切記されていないが、特に処刑サレタとは無いから、抗議の自噴=憤死したものと想像される。
かくて曹操の思惑通り、三公の内、自分の「司徒」以外の「太尉」と
「司空」は空席となり、何時でも辞任して〔三公制の完全崩壊〕を現出
させる下準備が整えられた。ーー然し、この改革には思わぬ時間が掛かった。権力機構の最上部をゴッソリ削ぎ取ろうとするのだから、当然と言えば当然ではある。とりわけてもウンザリさせられたのは、宮廷爵位との調整・皇帝専権事項との擂り合わせ(整合性)であった。要らぬ神経を使い、厖大な時間を費やした。
その一方で、この時、業卩に在る曹操以上に神経をすり減らして居たのは・・・・実は・・・許都に在った【献帝・劉協】であった。単なる飾り物・実権の無い置物に過ぎぬ「傀儡皇帝」で在る事を識りつつも、
表面上は飽くまで「漢の皇帝」として振舞う。 常に曹操の顔色を窺いながらも、他方では漢朝の権威に依拠する多くの人士の期待にも応えなくてはならない。200年もの間には、すっかり利権構造が出来上がっていたから、既得権益を失う事になるのは困るのだ。その代表としての期待が大きく圧し掛かって来る。今回の上奏も、理由にも成らぬ理由であるにも拘らず、己の力では却下出来ず、曹操が言うが儘に、股肱の忠臣に解任を言い渡さざるを得無かった。断腸の無念さと嘆きの裡に、曹操からの目付役である侍中守・光禄勲の「希卩慮」に、朝廷からの使者のしるしである節(旗)を持たせ、大忠臣の免職を伝えさせたのであった・・・・。
劉協個人としたら、もう好い加減「皇帝の座」を投げ出したい気持にもなる。四六時中、ピリピリとして曹操の心底を気遣いながら、《帝》と云うものを演じ続けて居る己にウンザリする。 ばかりか、命さえ保証されてはいないのが現実である。 世が世であれば、名君と成り得る聡明さを持つ劉協である。己の置かれた立場と時局の流動には、或る意味では、国中で一番詳細な分析データを持って凝視し続けて居る人物でもあった。だが、それだけである・・・・。
僅か9歳で董卓の手によって「皇帝」の座に就かされて以来、28歳になる今日まで、心の安らぐ時は一日とて無い人生であった。が、彼の宿命は、個人の感情に左右される様な軽いものでは無く、言い様も無く重いもので在り続ける。 まさに歴史の皮肉であろう。
皇帝を辞めたい者と、皇帝に就きたい者とが、
どちらも、己の意に反しながら同居している・・・・。
『儂は皇帝に成る気は無い。現帝を守り、漢王朝を護持する為に義兵を挙げたのだ。』・・・・と云う 〔覇者どまり宣言〕が、曹操の公式発表と看做されている。然し誰もが半信半疑であった。帷幕の中も、いずれ帝位に就かれるだろう派、いや公式発言通りだ派とが混在している。
天下統一目前の曹操にすれば、厄介この上ない、創業者の苦闘であった。曹操の内なる闘い・・・・もう一つの戦いには、2つの問題が残っていた。 未まだ君臣間に横たわった儘の 《契約意識の払拭》 と、
実態の無い《漢朝正統観に対する欺瞞の打破》とである。特に後者は広汎な人々の意識に関わる問題だけに、慎重な上にも慎重に為らざるを得無かった。そうした世の中の反発をかわし、封じ込める為・・・・実は、この〔丞相就任〕にはもう1つの狙いが含まれていたのである。それは、天下万民に、伝説の丞相・【蕭何】を思い出させ、意識させる事であった。大漢帝国建国の丞相で、高祖・劉邦と共に天下を統一平定した最大の功臣であり、漢帝国の機構・組織の創設者にして漢の法の制定者でもある。
《丞相イコール蕭何!》・・・・これが曹操の狙いなのであった。これを敷衍すれば、その延長上に・・・・丞相=蕭何→曹操の図式が生まれ得る。ーー《曹操孟徳と云う御方は、「漢」の大忠臣で在ろうと為されて居られるのだ。 決して漢王朝を蔑ろにするものでは無い。
丞相と成られるのも、 ひとえに漢王室の安寧を図らんが故であり、
国政を私しようとするものでは無いのだ・・・・!》
思い起こせば、今を去ること4年ーー204年8月に業卩を攻略した
曹操は、その直後に司馬懿仲達に命じて、〔蕭何の子孫〕を探し出させ、安衆侯に封ずるパフォーマンスを演じて居たではないか。この手は、漢王朝の制度を改変しようとする、時の実力者達が過去に用いて来た奥の手・裏技であった。何となれば、自分が蕭何を尊重する事によって、己こそは改革を行なうに相応しい蕭何の如き人間であるのだ と、主張し易かったからである。・・・・とは言え、戦国乱世の此の当時に、そんな古い事を想い着く群雄は誰も居無かった。だが、だからこそ其のインパクトは強く、其の効用・効果は抜群とも成るのであった。
深謀遠慮、周到である。
かくて208年(建安13年)の6月・・・・ついに、天下統一を目前にした
(南征・荊州侵攻の僅か1ヶ月前。赤壁の戦い迄は、あと6ヶ月)
曹操孟徳は、漢の丞相と成った。
絶対的独裁官の誕生である!
【第120節】 反骨の挽歌 (言多ければ事を令て敗れしむ)→へ