【第117節】
たけ や
ーー207年(建安12年)春・・・・・
いよいよ、曹操、満を持しての【北伐】が開始された。
中国史上、かつて誰もが無し得無かった、地球規模の大遠征で
ある。秦の始皇帝も、漢の武帝でさえ行なった事の無い、君主が
自ずから大軍団の陣頭に立っての、親征による壮挙であった。
この北伐は袁一族を消滅させ、「華北平定を完結させる」と云う、
中国大陸の北半分を統一しきる大作戦である。トウ屯頁の拠城・『柳城』までは、業卩城から直線距離でも800キロ。実際には何と
1000キロ、往還では2000キロを超える大遠征である!
そして、史書の何処にも記されていないし、是れまで誰も言及して
来無かったが・・・・こんな史上未曾有の大遠征を決行せんとする〔曹操の真の狙い〕は、【大騎馬軍団の獲得】であった筈で
あり、と同時に【将来に渡る、一大軍馬供給地の確保】であった・・・
と思われる。
何しろ、現在、烏丸が保有している騎馬軍団は少くとも5万騎!それも実働・実戦部隊の「騎兵」の数であり、飼育されている(騎)馬だけの数ともなれば、それは最早、無尽蔵と言ってよい。
ちなみに、この当時の軍馬一頭の値段は、(現代とは一概に比較換算は出来無いが)およそ2〜
3千万円位、高目に観れば5・6千万円、特別な名馬ともなれば1億円に達したであろう。(一機・一両100億円単位のジェット戦闘機や戦車に比べれば、それでも安い?)と言う事は、5万騎を鹵獲すれば
2千万円×5万騎=20000000×50000=1000000000000・・・・で、一兆円!!
一騎3千万円レートなら、一兆5千億円のお得になる!!
思えば、『劉備玄徳』が世にデビューする時、馬商人の大富豪2人から、その軍資金をプレゼントされた逸話は有名であるが、その馬商人達が活躍していた仕入れ先は、此の北辺の高原地帯であった。 ・・・・無論、金勘定は余禄で、実際には、純粋に軍事的価値・実戦力の飛躍的増強に他ならない。のち、『烏丸突撃騎馬軍団』・
略して『烏丸突騎』と恐れられる、其の天下最強騎兵集団を手に入れれば、最早、曹操の覇業の前には、立ちはだかれる相手は存在しない。 烏丸以後に想定される、「荊州→呉→漢中→巴・蜀」の平定戦は苦も無く達成されるであろう・・・・。
準備は万全である。何処を突いても、何をシュミレートしてみても、是れと言った不安材料・不利な点は見当たらない。荊州の「劉表」は重病、呉の「孫権」は兄・孫策の急死に伴うゴタゴタを清算中で動けず、西の「馬騰」は臣従に傾いて居る。 手薄に成った業卩・許都が襲撃される懸念・心配は限り無くゼロである。その上、今回の曹操軍は自称50万(実数では30万弱か?)と云う未曾有の大兵力であった。輸送路も、運河まで開鑿して確保してある。尚、この【北伐】に関しては(事前の準備段階を除いて)大きく分けて5つの段階が在った。
〔第1段階〕は・・・・万里の長城の直ぐ南に到達(直線距離で500キロ)して、其処にベースキャンプ(橋頭堡)を築き、以後の進軍に備えるもの。
〔第2段階〕は・・・・万里長城の南縁に沿って東へと進み、烏丸の拠城である『柳城』近くまで迫るもの。その途中では、敵との接触も始まるであろう。(行軍距離350キロ)
〔第3段階〕は・・・いよいよ烏丸本軍との決戦であるその戦闘が、柳城の「包囲戦」となるか?それとも「野戦」での激突になるかは、相手次第であるが、敵が騎馬民族であるからして当然5万の騎兵を縦横無尽に駆使し得る、平原での大会戦を挑んで来よう。(いずれであっても、必勝の策は郭嘉の頭脳の中に在る。)
〔第4段階〕は・・・・ついでに足を更に延ばして『襄平の公孫康』から臣従の誓約を取り付け、「遼東一帯」の服属を確約させる事である。ここの処、公孫康は独立の姿勢を一段と強め3年前の204年には、朝鮮半島に新たに「帯方郡」を開設しており、中国本土から隔絶している此の地域一帯の”王”を目指している模様であった。
〔第5段階〕は・・・次の【南征】を睨んで、来年初頭までに、業卩城への凱旋帰還を果す事である。当然その際には、新たに「烏丸突騎5万」が加わっている筈である。
〔※ 余禄〕として・・・・「袁尚・袁熙の首」は、恐らく
第4段階で手に入るであろう。 ちなみに2人の首は、世の中への
”示し”を着けるに必要な、ケジメ効果と成るであろう。
・・・かくて曹操は、一天の曇りも、一抹の不安も無く、絶対の自信を持って、北への進撃に大号令を発した。客観的に見て、戦う前から大勝利間違い無し! と、謂えた。
「業卩」を発ち、根拠地の冀州内を北北東へ300キロ・・・・と、其処までは順調であった。ーーだが、州境を越えて「幽州」に足を踏み込んだ途端、様相がガラリと一変した!!この年、幽州は、かつて無い、苛烈な異常気象に見舞われていたのであった。・・・夏も近いと云うのに気温は上がらず、その上、長期に渡る日照り続きで作物は全滅、毎日の飲み水にすら事欠き、餓死者が発生する事態 に陥っていたのである・・・・・。曹操陣営としては珍しい蹉跌ーー情報の不足と、それに伴う見通しの甘さを露呈してしまったのである。(もし言い訳の余地が有るとすれば・・・・袁紹VS公孫讃の長い戦いと、その後に続いた袁兄弟の抗争などなど、治世の放棄に晒されて来た幽州の”人為的疲弊”が、その自然災害に予想外の拍車を掛けていた点であろう。)
先ず、全軍にゆき渡るだけの「水」が欠乏した。見渡す限りの地表
には、一滴の水分も無い。カンカン照りである。水が無ければ調理も出来無い。兵の体力は見る見る消耗していった。
各部隊とも進む先々で、30余丈(70メートル!)も地面を掘ってはかろうじて地下水を口にする困難に直面した。行軍速度はガクンと落ちた。肝腎な食糧自体も底を突いてしまった。
あの、折角の「平虜渠」・「泉州渠」も干上がり、使い物に成ら無く
なってしまったのである! 背に腹は代えられず、虎の子の軍馬・数千頭を殺し、その血を啜って渇きを癒し、その肉を喰らって飢えを凌がざるを得無い・・・・と云う非常事態を招くに至った。当然、行軍速度は、もがき喘ぐ様な遅滞を来たした。フラつく足で直進する事も叶わず、地下水脈を求めてのジグザグ行進しか出来無い。
それでも未だ、地元をよく識っていた『荊禺頁』が居て呉れたお陰で辛うじて全滅の浮き目だけは免れ得たのだった。彼の出身地は直ぐ南隣の河間郡であったが、5年前迄は万里の長城の向こう側で、
”或る志士”(このあと、北伐のキーパーソンと成る人物)の元にワラジを脱いで協力しながら暮らして居た。だが、曹操が北伐に赴くと聞き、矢も楯も堪らず”或る志士”の元を辞して馳せ参じ、進軍の道案内役を買って出ていたのである。だから此の時、進む先々で、涸れ川状態に
なっていた伏流水などを含む地下水脈の在り処を嗅ぎ当てては、
曹操軍の窮地を補い続けて呉れたのである。然し其の効果も”焼け石に水”状態で、軍が存亡し得るギリギリのものでしか無かった。
この時の苦難の様子を、『曹瞞伝』は次の如くに記している。
『其ノ時、気候ハ寒イ上ニ日照デアッタ。2百里ニ渡ッテ水ハ更ニ無ク、軍ハ其ノ上、食糧ニ欠乏シ、数千匹ノ馬ヲ殺シテ食ニ当テ、30余丈モ地面ヲ掘ッテ、やっと水ヲ手ニ入レタ。』
然し曹操は、考え方を前向きに変えてみた。
《ーー敵は自分達以上に苦しんで居る筈だ・・・・》とは謂え、眼の前の光景は余りにも苛酷である。この先まだ500キロ以上の行軍が控えている。果たして、兵の体力は保つであろうか?
《・・・・進むか、戻るか・・・・》珍しく、曹操は迷い始めた。迷ったまま進み、進みながら迷った。思い切って作戦を止めるなら今しか無い。是れ以上進んでからでは、取り返しのつかぬ状況となる。
《−−いや、矢張り進もう。退く事は何時でも出来る・・・・。》
実は、曹操を迷わせている真の原因は、此処には無かった。此処から南へ遙か1000キロの彼方・・・・【呉の孫権】の動きの中に在ったのである。もし今、北伐を中止し、あと1年遅らせたとすれば、「孫権」は其の間に曹操より先に、荊州を奪い取るかも知れ無かったのだ。【呉】は現在、竜巻の如き勢いで、その国力を急成長させている。2代目孫策が刺客の手によって急逝した後の動揺を乗り越え再び国内(揚州)を完全に統一するのは、時間の問題となっている。再統一を果たせば当然、次は西隣りの〔荊州〕を狙うだろう。荊州を手に入れれば、呉は中国の南半分を支配する事となる。曹操の天下統一は破綻・挫折する。少なくとも大幅に遅れ、後退を余儀なくされる・・・・。そう為れば、今の苦境などとは比べ物にもならぬ、致命的な大打撃と成る。
−−何を迷う曹操!お前は天下を望まぬのか!!
突然、別の声が曹操の存在を撃った。−−如何なる艱難辛苦が待ち受けて居ようとも、この曹操孟徳、今度の北伐は遣り遂げねばならん!天下は、苦難の向こうでこそ、この曹操を待って居るのだ!是れしきの事で歩みを止めて後を向くとは、凡人凡人ただ凡人ではないか!?
《もし此の俺に、人より優れた点が有るとすれば、其れは唯1つ・・・敢えて苦難を受け容れる”壮心”を、常に失わぬ事だけではないか!》
ーーそして不意に、其のフレーズは生まれた。
『壮心不已』−−壮心 已マズ・・・・そうだ、俺の心の中には今、壮き心が燃え滾っているではないか!!
『志在千里』−ー志イ 千里ニ在リ・・・・次々に熱き思いの断片が、沸き起って来る。
『烈士暮年、壮心不已』・・・・帰路には一篇の詩賦と成る
であろう。
老驥伏櫪 老いたる驥は櫪に伏すも
志在千里 千里の彼方に思いを馳する
烈士暮年 烈き士は 暮年にしも
壮心不已 壮き心の 已む事はなし
曹操はサッと其れを書き取ると、もはや何の迷いも無く、高らかに
告げた。「全軍、予定通り、”無終” へ向う!!」
次の目標地点である〔無終〕は、此処から200キロ北方に在る。
中国最北端の町と言ってよい。・・・・この町の直ぐ北には、もう
【万里の長城】が現われてくる。「烏丸族」は、其の万里の長城が海岸へ到達して終る、実質的な中国国境を越えた、更に彼方の地に在る。長城の手前で、最終の橋頭堡(ベースキャンプ)を構え一気に敵地に雪崩れ込む為には、どうしても其の〔無終〕へ向わねばならない。
−−無終・・・・「終り無し」と読める。だが、プラス思考の曹操は出発前から其の地名が気に入っていた。
「ワッハハハ、人の才、人間の能力に終わりは無いのだ。そして又、儂の覇業・王道にも終わりは無いのだ。正に此の、姦雄・曹操孟徳にピッタリの地名ではないか!」
然し、今となっては、「無に終わる」 とも読める。何がし、不吉な響きを孕む町の名である・・・・と、多くの将兵達は、この先の苦難に怯え始めて居た。 −−そして、この〔無終〕への進軍は、
未曾有の大苦行・『危殆の難行軍』となったのである。
「予の不覚であった・・・・!」
こんな時、曹操は誰も責めない。失策は全て、最高責任者たる己の責任である!と した。当たり前では有るが、世の常として、普通はこうは為らない。責任は誰かに転嫁され、さっそく部下のアラ捜しが始められ、誰かが首を切られる。−−成功は部下のもの、失敗は己のもの・・・・それが人の上に立つ者の覚悟である!
常日頃から、此の事を自分の人生訓として来た曹操なればこその言辞であった。 今さら感情的になって、誰かを罰した処で、事態が変わる訳では無い。寧ろ、殺伐とした悪感情だけが残り、叱責を受けまいとして、発想の硬直化を生んでしまう。下手をすれば、積極的に打開策を進言しようとする者の芽を摘み取る事となる。何も献策せず、己の保身を第一に考える様な、組織の沈滞を現出させてしまい兼ねない。 判っては居ても、生なかには取れる態度では無い。
もし、我々の実人生に於いて、こんな上司に出会った者は幸運である。又そんな上司に成る者は、もっと大きい幸運を握むであろう。
とは言い状・・・・結局、目標地点の〔無終〕に辿り着いたのは・・・・何と5月に迄ズレ込んでしまった。異様な遅延である。だが、時間の問題だけでは無かった。その、襤褸切れの様に成り果てた曹操軍団の有様は、誰が見ても、流民の群れでしか無く、到底、是れが天下最強の軍団であるとは想像も着かぬ惨状であった。 雄々しく業卩城を発った旺時の面影を取り戻し、生身の将兵が、元の体力・気力を回復する為には、一体、今後どれ程の時間と食糧・物資の集積が必要になるのであろうか!?
事ここに至っては、更なる、大幅な日程の遅れは不可避となった。
ーー実は・・・この危殆の惨状を招いた責任の大部分は、作戦参謀・大軍師【郭嘉】の進言に帰すと言っていい。冀州を越える手前の国境都市・「易城」で、彼は次の如き進言をしていたのであった。
『軍事は神の如き迅速さを尊びます。敵が準備を整えぬうち、輜重は留め置き、軽装の兵に普段の倍の速度で出撃させ、敵の不意を突くのが最善であります。』
未だ敵地の最新情報を確認する前に、本軍主力中の主力である〔騎馬軍団〕を、遮二無二突っ込ませてしまったのである。然も、その直後を、碌な備蓄も持たせぬ儘に、精鋭歩兵旅団が駆け足で、飢餓砂漠地帯深くへと出撃していった。・・・・その結果は、既述の如き惨憺たる状況となってしまった訳である。
−−その【郭嘉】・・・・人には固く秘して居たが、病魔に犯されてから久しかった。それも、”死”を予感させる程の重いものであった。今は只、気力だけで己を支えて居る状態であったのだ。その智謀に冴えが見られ無い。
《自分が北伐作戦の推進者である!》と云う責任感だけが、郭嘉を寝込ませずにいた。今まで積み重ねて来た、私生活上の不品行が祟っていたのであろうか? 郭嘉自身、何処かに”死期の近き”を
悟って居たに違い無い。人前に出る前には化粧を施し、必要以外の時間は、密かに床に就くと云う状態であったのだ。
《−−命在る裡に、北伐を仕上げなくては!!》
・・・・その焦りが、思考力に翳りを落とした。客観的な現実分析より、個人の主観的願望が優先してしまった故の大失策・・・・
だが、それを見抜けず、採用したのは曹操自身である。曹操は
グッと己を制御した。それが出来るだけの齢を重ねて来ている。
敵と戦わずして、既にボロボロに成り果てた50万の曹操軍・・・・
それでも何とか〔無終〕に本営を設置した。だが、その帷幕も各部隊も、大混乱に陥っていた。大きく齟齬を来たした《北伐大作戦》の細目まで、一から見直さなければならない。とりわけても食糧輸送が、又も愁眉の急となっていた。
ーー手間どった。ジリジリする様な苛立ちの時間だけが過ぎてゆく
・・・・1ヶ月が経ち・・・・2ヶ月目も半ば迄きた。帷幕に在る全ての重臣・諸将は、遠征の中止を覚悟した。中には、其れを進言して来る者も1人・2人では無かった。作戦立案者の郭嘉自身でさえも、内心では、作戦続行の是非に悩み始めていた・・・。だが、そんな沈滞ムードの中で唯独り、デンと腹を据えて動揺せぬ者が在った。
『北伐は、断じて是れを行のうべし!!』ややもすると弱気に陥りそうな陣営に在って唯独り、52歳の曹操だけが強靭な意志を持ち続け、将兵等を叱咤激励して廻った。
−−だが、だが然し・・・・そんな曹操の意志を砕き飛ばす様な、
トンデモナイ事態が、更に出態した!!
”日照り”に打ちのめされて来た幽州が、今度は一転して、
”大洪水”に見舞われたのである!
半端な雨量では無かった。10年分の怨みが一挙に、天の滝壺から落とされた様な、物凄い豪雨・猛雨であった。砂漠の如くに乾き切っていた幽州の大地が一転、濁流の海と化した。地上の物全てが水没し、邑ごと消滅してしまった事例は数十にとどまらなかった。
〔気狂い雨〕が降り止んだ後が、これ又、ヒドイものと成った。道など完全に消えうせ、只々、見渡す限りのドロ海だけが置き遺された。特に、低地だった海岸線地帯は、いつ退くか見当もつかぬ泥土に蔽われ、至る所で土砂崩れを誘発。とても人智・人力では回復の及ばぬ最大の被災地と成り果てたのであった・・・・。
言及する迄も無く、当然、作戦上も大被害を蒙る羽目となった。〔無終〕から以後の第2段階では、烏丸本軍の集結する〔柳城〕迄の行程を、その海岸線伝いに進軍する予定であったのだ。処がその当てにしていた海岸沿いの一帯の被害が最も深刻で、交通路は
ズタズタに切断され、完全に遮絶されてしまったのである。復旧は
何ヶ月の先になるのか・・・・見通しさえ着かない・・・・。
正に踏んだり蹴ったり、是れ以上は在り様も無い、最悪の事態と成ってしまったのである。
ーーいかに尊大に構えて覇者だ、王だと嘯いた処で、所詮、たかが小さき人間一個の所業ではないか・・・・曹操の行為を嘲笑うかの
如き《天》の追い打ちであり、もはや人知の及ぶものでは無かった。
《・・・・天は尚、我に試練を課すか・・・・!?》
独り、北伐の続行を主張して、此処まで全軍を引っ張って来た曹操ではあったが、流石に絶句した。精神力だけで乗り越えられる状況では無くなった。
《−−もはや此処までだな。無念だが、退き上げよう・・・・。》
天を仰ぎ、而うして肩を落とす曹操であった。ではあったが、曹操は念の為、最後の最後として現地に住む者達への聴き取りを行った。
《海岸線に代って、柳城へ進撃する方途は、本当に皆無なのか?
万が一にも、他のルートが在るのではないか?》
常識人では思いも着かない”或るアイデア”が、曹操の頭の中では脈打ち始めていたのだ。 かつて大敵の目前で地面に潜り込んだ
〔鬼才の面目〕がムクムクと又、頭を擡げ始めようとしていたのである。 ・・・・そして、この最後まで諦めずに人事を尽くす曹操の執念
こそが、絶望的な状況に追い込まれた其の局面を打開し、事態を
大きく転換させる事と成ってゆくのであった。
−−この時、曹操の前に現われたのは・・・・
現地・無終県の”志士”で、烏丸に対して深い怨みを抱きつつ独力で山中を切り拓いて築いた都市を統括する、不屈の男であった。前述した「荊禺頁」がワラジを脱いで居た”或る志士”とは、この人物であった。既に曹操の帷幕に在った、同県人の『田豫』の推挙により招かれた。と言うより、彼自身の方から率先してやって来たのだった。
その男の名はーー【田疇】・・・・字は子泰・・・・
この無終県の人である。
彼は確かに意志強固な”志士”と言えた。だが実は、この田疇・・・・当時の人々ですら、一体何を考えてるか『よ〜判らん男』として有名で、曹操を筆頭に其の家臣団を巻き込んでの物議の対象で在り続けてゆく事となる。 (その件は別節で紹介する事として、今は話を進めよう。)
さて曹操、引見するや例の調子で・・・・「田子泰(田疇)は儂の下役としてよい男では無い」 と言い、その場で直ちに彼を己の属官(掾)に任命し、翌日には正式に脩県の令の地位を与えた。
「−−どうする!?」 曹操は短く尋ねた。
「・・・・策は御座居ます!」
田疇は自信を持って、やはり短く答えた。
さて、一方の【烏丸族】・・・・かつて春秋戦国の世には
『東胡』と呼ばれ、モンゴル草原に覇を唱えた遊牧騎馬民族も、
やがて興った「匈奴」に追われ、今はモンゴルの草原を捨てて
遙かに南下し、中国国境に押し詰められて居た。それも『烏丸』と『鮮卑』の2派に分裂した状態になっており、互いの交流は皆無に
近かった。(※どちらの呼称も、避難した土地の山の名に由来する。)
現在は【鮮卑族】の方が優勢で、万里の長城の北の地域に広く展開しているが、其処は当時の中国領土では無い。
一方の【烏丸族】(烏桓とも表記)の居住地域は遼東半島周辺であり、中国最北の「幽州」の東半分に当たる。とは言え、万里の長城の向こう側の地域である事に違いは無い。この烏丸族は遼西・遼東右北平の3郡に区画されて統治されている。そして其の3者の総帥は、『トウ屯頁』であった。(とうとん、とも)単于(王)の位は若い『楼班』に譲ったが、誰もが認めるように、軍事歴に於いては、この”民族の英雄”の右に出る者は居無い。当然、対曹操戦の統帥権はトウ屯頁に委ねられた。
その【トウ屯頁】・・・・ツングース族の大長老として悩んで居た。
《ーー何としても、民族を滅亡させてはならぬ。この老い首一つと
替えられるものなら、喜んで曹操にも降ろう・・・・。》
冷静に観て、勝利は無い。最善の策は、戦わず帰順する道である。だが、其の機は既に失われてしまっていた。
『「袁尚・袁熙」兄弟を”義”に拠って助け、曹操と全面対決する!』
・・と云う部族の大方針は、「楼班」をはじめとする若者達の、純粋な〔儒教倫理〕によって押し切られていた。
《だとすれば、どうする!?あの曹操の事だ。本気で抗戦すれば、民族皆殺しの可能性が高い。徐州大虐殺以上の地獄と成ろう。それを成し得るだけの大軍を擁している・・・・。》
ーー残る策は・・・・【如何に敗るか?】である。どれだけ犠牲を少なくし、最小限に留められるか・・・・であった。
だが、そんな事は口が裂けても言えない。まして血気盛んな若者達に、其の真意が漏れでもしたら、忽ち其の場で誅殺されるであろう。己の命など惜しくは無いが、この若者達は生かさねばならぬ。
「我に過分な齢を与えしツングースの神よ、願わくば、我が命の
最期に、何とぞ、民族の叡智を授け賜え!!」
もし自分があと20歳も若ければ、やはり民族の誇りを重視して、決戦に踏み切っていたかも知れ無い。そしてツングースの血は、民族の名誉と引き換えに、此の地上から絶滅していたであろう。
若い王には、それ位の気迫が無くてはならないし、純真さも必要
である。又、単于に就いた最初の事績が、敵に対する全面降伏で
あったとするなら、其れを自他共が”功績”とは取らず、”屈辱”で
あると考えて不可しくは無い。不可しくは無いが然し、今はそれを
決行する時では無い。それを諌め、若者に分別させる事こそが、
長老たる己の責務であった。ーーだが・・・・結局は、其れに失敗した儘、此処に至ってしまったのだ。
《いかん、いかんぞ!何が何でも、
民族の滅亡だけは避けねばならぬ!!》
もはや制御不能な決戦モードに突入してしまっている若者達を抑えられぬ以上、せめてもと、トウ屯頁は、【負けて勝つ作戦】に
全知全能を傾ける。
《・・・・女子供を無傷で遺す為には、先ず我等の根拠地である、
此の〔柳城〕での戦さは絶対に避けねばなるまい。 その上で、
あの純粋無垢な若者達を、どうやって生かし、遺す・・・・??》
そんな中、『大洪水に拠り、曹操軍、無終県にて難渋!!』・・・・との報が入って来た。
「よし、多少の時間は手に入ったか。ここは一つ、曹操が如何なる
人物か見定めて措こう。つでに敵情偵察も兼ねさせようか・・・・。」
そこでトウ屯頁は、使者を海路の高速船で曹操の元へ送り込んだ。急を要する為、仰々しい従者は付けず、単身での行動を採らせた。烏丸には文字は無く、極く一部の者だけにしか使いこなせない。
トウ屯頁も、上手い文章は書けない。 口上と受け答えは使者に
一任した。
頭髪の上部を剃って丸めた異形の使者が曹操本営に遣って来た。
「ほう〜、トウ屯頁から使者がのう。どうせ、様子見の”当て馬”
じゃろう。ひとつ座興に、蛮族をカラかってやろうぞ!」
曹操は謁見の際、己の替え玉を主座に就かせ、自身は”太刀持ち”として傍らに侍って居る事にした。
「それも又、一興では御座りまするな。」
苦笑交じりに賛成して見せた、美男子の郭嘉には解ろう筈も無いが実は曹操、半分以上はマジであったのだ。170センチに届かぬ小柄で髯も薄く、”押し出し”も決して佳くないと思い込んでいる一面が有るのだった。国境外の異民族ごときに風貌で蔑られたく無かった。
人間、五十の坂を越え、今さらコンプレックスでも有るまいに、若い時に一旦思い込んだ己の容貌に対する自意識は、そう単純に払拭されるものでは無いらしい。(かく言う筆者も、好い歳こいて多少は有る、と白状して置きまする。)少なくとも曹操には、そうした可笑しさが在った。
(そう言えばナポレオンは155センチだった。)
郭嘉も少しは其れに気付いていたから、「お止め為され」とは言わなかった。近衛の者の中から、飛びきり偉丈夫で美男子を選んで謁見させた。ーー謁見を終えた直後、曹操は「ニヒヒ!」とばかり面白半分に、使者にニセ曹操の感想を尋ねさせてみた。すると其の使者は流石にトウ屯頁が選んで寄越した人物だけあって、真相を看破っていた様だ。
「寧ろ、脇に居た太刀持ちの眼光尋常ならず、王者の風格有るやに見えましたな。」
それ程の眼力有る人物なれば、陣営の内情も具に見届けたに相違ない。・・・・「追い着いて、殺せ!」 そうした一幕もあった・・・・・
無論、『俗説』である。
流石に【田疇】は、地元の人間であった。然も、長年に渡り烏丸からの完全独立・解放を指導して来た経歴から、ゲリラ戦術を練り、情報を蓄積していた。
「柳城への、秘密のルートが有りまする。」
「誠か!海岸沿いを征かなくても、よいのだな?」
「はい。但し道無き道が続きます。大きな覚悟が必要となりまする。」
「大きな覚悟とは?」
「万里の長城を突っ切り、人跡未踏の険崖に、
山を穿ち、谷を埋め、200キロに亘る軍道を造り
上げる覚悟で御座居ます。」
「−−200キロ・・・・か!何日掛かる?」
「我が部曲や町の5千戸も全員で協力いたしますれば、ひと月ほどで〔柳城〕に通ずるでしょう。
但し、24時間、不眠不休が条件となりまする。」
「泥流が退くのを待ち、寸断された街道を一つ一つ復旧していたら、どう観ても1年以上を要す。待っては居れん。・・・・やろう!!」
果断である。提案して言う方も凄いが、それを現実にやってしまおうとする方はもっと凄い。
「その際、此処から一旦軍を退いて、敵を油断されれば、
この大工事は悟られ無いでしょう。」
「ニセの布令をだして、撤退すると思わせるのじゃな?」
幽州の此の一帯は、山民(異民族)との混在地とも言える状態で在ったから、付近に烏丸の斥候や部隊が潜んで居る可能性は充分に有ったのである。50万人もの将兵が総力挙げて、一大プロジェクトを、然も隠密裏に1ヶ月も続けようとする訳なのだから、生半可な誤魔化しでは敵に気付かれる。
「この大洪水の惨状では、一度本拠地まで撤退し、再起を図るのが常識で御座居ましょう。」
「解った。詳しく説明して呉れ。」
田疇は、懐から1枚の絵地図を取り出し、曹操の眼の前に広げた。其れは、彼が長年に亘って書き加えて来た、万里の長城の”向こう側”を明らかにする物であった。
「海岸沿いの街道は、毎年この時期、いつも水没し、我々は永い間難儀して居ります。ましてや今年の大洪水、とても軍隊が進むなど無理とお思いください。」
そう前置きすると田疇は、絵地図の上を指で追いながら、具体的なルートの説明に入った。それは、此の地域一帯を切り拓いて来た
彼でなくては判らぬ、”極秘のルート”であった。
「大昔、この北平郡の郡政庁は〔平岡〕に御座居まして、その街道は〔盧龍〕に出、そして〔柳城〕へと達しておりました。ここ200年間、その道は崩れ落ち断絶した儘ではあります。ですが極く細い小道が残り現在でも、ひと1人なら辿る事は出来ます。その細道を拡張して再建すれば、軍道として使えましょう。」ーーフムと言いつつ曹操は、繁々と田疇の指す詳密な絵地図を眼で追った。
「敵は我が大軍が、此処〔無終〕から平坦な海岸ルートを来るしか無いと信じ切って居ります。 まして此の大洪水で進むこと能わず、撤退を余儀無くするものと油断して居りましょう。もし密かに軍を転じ〔盧龍〕から〔白檀〕の険を越え、無防備な地に出ますれば、道も近く、敵の不意を突く事になりまする。
さすれば、戦わずしてトウ屯頁の首を挙げられましょうぞ。」
所謂、のち〔盧龍の策〕と呼ばれる、【田疇】の奇策である。
「−−万里の長城を越えるか!!」
曹操は、得たりとばかりに膝を打った。
「西域の浮図(仏教)の教えには”仏”とやらが居るそうじゃが、彼等
胡人の言葉を借りれば、そなたは正に、『地獄に仏』とでも言うのであろうかの!」
曹操の顔に、久し振りの、会心の笑みが戻っていた。
さっそく目立つ場所場所に、布令の高札が立てられた。
『現在、夏の盛りで道は不通である。
暫く秋冬の時節を待ち、再び軍を進める事と致す。』
布告と同時に全軍を反転させ、ゆるゆると撤退行動に移らせた。
ーーやがて・・・・・〔無終〕の町から、曹操軍団50万の姿は、一人の影も残さずに消え去った。
跡には唯、〔万里の長城〕だけが、嵐の前の静けさを見守っていた。
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