第116節
西の鎮守と風雲児
                                                    み
                                  ギラつく 抜き刀






《−−西は、何かと騒がしいが、まあ、最後でよかろう・・・・。》

曹操の、天下統一を視野に治めた〔覇業の設計図〕からすれば
・・・・西の「三輔さんぽ」は気掛かりな要地では★★あった。

三輔』とは、旧都長安周辺の直轄領である京兆けいちょう馮翊ひょうよく扶風ふふうの3郡を指す。御存知の如く長い中国の歴史に於いてこの「長安」は常に最重要都市として政事の中心で在り続ける。
     
現代中国の発展振りを知る我々の眼から観ればーー何故こんな西の外れの狭隘辺地が重要視されたのか??・・・・と不思議に思ってしまう。だが既述の通り、当時はシルクロードの玄関口であり、常に最新の文物が行き交う国際的な交易・情報発信基地で在り、「時代をリードするさきがけ」であった。即ち、中国大陸に於いては、常に光は西方から射していたのでありその木洩れ日が「中原」を照らし、その木陰が中国全土なので在った。近世以後の”海洋時代”を迎える迄は、中国の人々にとっては、海は単なる〈暗い世界の果て〉に過ぎず、「海に面する東方」は僻地・辺地扱いでしか無かった。又その『三輔』を含む「渭水いすい峡谷」は、地勢的にも〔守るに易く攻むるに難い軍事要塞としての機能を果たしていた。この事は、安定的な長期政権を望む時の権力者にとっては、最も重大なポイントであった。それ故にこそ、歴代王朝の帝都として選ばれ続けたのである。


当然、曹操とて、その重要性は痛い程に分かっている。いずれは是非、手に治めなくてはならぬ”要地”である。
又、長安の背中に当たる
漢中には、五斗米道の張魯が在り、更に其処に南接して、劉焉が纏めた巴蜀には其の子の劉璋が跡を継いで独立して居た。然し今の処は未だ曹操には、西方に軍を向ける様な余力は無かった。と同時に、差し当っては、自分に直接刃向って来る様な剣呑な状況にも無かった。
中国西方要図" だが此の時、曹操は、ふと、その「西方」に居る筈の、
             或る若武者の眼光を思い出した。
《あ奴、妙に
ギラギラしたさやの無い 
          抜き刀の様な男
だったな・・・・。》
その巨体も尋常では無かったが、その表情に宿す〈屈強の気〉は、 何者をも受け付けぬぞと謂わんばかりの底光りが有った。
《ーー何処か引っ掛かる奴だったな・・・・。》
其れは、人の上に立つ王者としての直感であった。
《奴め、オヤジ以上の覇気に燃えて、西方の風雲児と成るか?》
今し思えば、その若武者は、只管ひたすらストイックで在り続け様として居た気がする。
《ま、今直ぐに、どうこうは無かろうが・・・・
             矢張り、”
西”にも一手打って置くか・・・・。》
−−その若者・・・・
馬超ばちょう と言った。
  
数年前に、〔郭援・高幹討伐戦〕の折、参陣の挨拶を受けただけだったが、当時26歳の彼の印象は強烈だった。西方に住む彼の父親が、恭順の意を示す為に、息子を差し向けて寄越したのだが
・・・・
其の父親が是れ亦、難物中の難物と来ていた。曹操とほぼ同い歳の彼の父親は、若い時から〔大きな野心〕を抱き続け、今でも覇気を失っては居無い様だ。
その若者の父親・・・・
馬騰ばとう・・・・である。
                                   (※第35節に年賦などを既述)
”西方の暴れん坊”こと『
韓遂かんすい(第2部で詳述)とコンビを組んで今から15年前の192年には長安を襲撃した。献帝を拉致していた董卓が呂布に暗殺された直後の事で、その混乱を絶好のチャンスと観た馬騰は、 《この際一挙に朝廷を奪って天下に君臨してやろう!》
との野望に燃えたのであった。だが、余りにも急な展開だった為に兵糧が底を突き撤退。後日のチャンスに向けて捲土重来を期す事となった。・・・・爾来、現在では、『渭水』全流域(長安を含む三輔=雍州)を牛耳る
〔西方の大物〕として天下に知れ渡って居た
だが、そんな馬騰にも泣き処が在った。これ迄ズ〜っと、義兄弟の契りまで結んでコンビを組んでいた大長老・「韓遂」と、ヘゲモニーを巡って仲間割れした事である。韓遂は「涼州寄り」を根拠とし、馬騰は「三輔寄り」を根拠として、お互いに隙あらば互いを攻撃し合い、終には妻子を殺され”仇敵の関係”にまで発展してしまった。
 この時
(196年)、献帝(既に曹操が許に奉戴)は、未だ長安に残党する李催らに対抗させる為、2人に使者(新人の司隷校尉)を送って和解させたので、現在は一応友好関係を修復していた。
 だが、相手は海千山千の〔野心の大先輩〕・・・・油断も隙も有る
ものでは無かった。だから、思い切って、全力を以っての『中原への進撃』が出来無い儘なのであった。それ処か、下手をすれば、鎮西将軍・韓遂のジイサマに一杯喰わされ、根拠地を奪われ兼ね無かった。

そんな馬騰の苦境・懸念を、曹操は利用した。即ち・・・自分に協力して呉れれば、万一の時には応援してやれるから側面の支援を頼む!・・・と連合・同盟を持ち掛け、既に此れ迄に2度、曹操は馬騰と関係を持っていたのである。そして其の都度、背に腹は代えられない馬騰は、曹操の要請に応じて、曹操の脇腹(西方)を守る為に軍を派遣していた。
度目はーー202年の黎陽戦(袁紹死後に初めて曹操が黄河を渡って冀州に進攻した)の時・・・・『袁尚』・『袁譚』は、彼の任命した河東郡太守の『郭援』と、従弟の并州刺史・『高幹』、南匈奴の「単于」に〔平陽〕を奪取させる一方、使者を派遣して、関中(益州)の将軍達と手を握ろうとした。 それに対抗して曹操は、【馬騰】に彼等の鎮圧を要請したのであった。それに応じた馬騰は、彼の息子である馬超に1万余の兵を与えて出撃させた。この時、馬超軍の中には勇将・广龍ほうとくも在った。戦闘中、馬超は流れ矢に太腿を射貫かれたが、咄嗟に袋で足を包んで止血すると、一切構わず猛攻し続け・・・・遂には敵を撃破・敗走させてしまった。配下の广龍悳も、全軍の先鋒として進撃し、敵将・「郭援」の首を彼自身の手で斬る武功を挙げた。常ニ、广龍悳ノ武勇ハ馬騰ノ軍ノ中デ第一ダッタ。 かくて「高幹」と「単于」は降伏した。その功により馬騰は《前将軍》《仮節》の地位に昇進した。广龍悳も中郎将・都亭侯を拝命する。
度目はーー昨年の、いわゆる高幹の乱の時・・・・
河内かだい郡の「張晟ちょうせい」1万余は独立を示し、山肴こうシ黽べんあたりを荒し廻り、河東郡の「衛固えいこ」と弘農郡の「ちょう王炎えん」もまた呼応した。まさか其処までとは、読み切って居無かった曹操は、再び馬騰に緊急派兵を要請せざるを得無かった。その要請に応じた馬騰、今度は自ら全軍を率いて出撃し、王炎と衛固の首を斬った。高幹は荊州に逃走したが、既述の如く、途中で斬り殺された。馬騰は《槐里侯》に封じられ、槐里かいり(長安の直ぐ西)に駐屯するよう朝命(曹操の命令)を受けた。−−だが・・・・馬騰としては、決して曹操の家臣に成った心算は無かった。飽くまで同盟者であり、協力者の姿勢を崩さず、臣従を拒んで居た。老いて来たとは謂え、未だ未だ若き日からの〔野心・野望〕を棄てた訳では無かったのだ。


              

の烏丸】を討った後、【の荊州】を征討する迄のここ1年以内には、是が非でも【西の馬騰】一族を、こちらに取り込んで措かなくてはなるまい・・・・。荊州征討後には、直ちに長江を下って【呉】に進攻する予定の〔覇業の設計図〕からすれば、曹操全軍にとって背腹に些かの不安が残って居てもならなかったのである。
《−−
矢張り、それにはしか居無いな・・・・
そこで曹操は、念の為、参謀の
荀ケに諮問してみた。すると荀ケは、下問を待っていたかの様に、スラスラと答えて言った。

「西方の頭目は十単位の数に昇りますが、とても1つに纏まる事は不可能です。その中でも韓遂と馬超が最も強いのですが、彼等は山東(中国東方)で戦争が始まったのを見れば、各自とも軍勢を抱えた儘、己の勢力を保とうとするに違いありません。
 今もし、恩徳によって彼等を慰撫し、使者を遣わして同盟を結んだならば、長期間に渡って安定した状態を保つ事は出来無くとも、公が山東を平定なされる期間位は、充分釘付けにして置けます。に西方の事をお任せになれば、公の心配は無くなりまする。」

西方に関する荀ケの情勢分析は、決して単なる憶測では無い。荀ケはちゃんと、現地に情報提供者を持っていたのである。関中の
「衛覬」であった。衛覬えいきは定期的に、西方に関する最新情報を逐一報告して来ていたのである。
「そうか、矢張り、
しか居ないか
・・・・こうして、西方に対する一切の全権を委任した上で、馬騰の説得役に選ばれた人物ーー
  それは・・・・
鐘遙しょうよう・・・・字は元常げんじょう
      
曹操と同い歳の彼は、80歳まで長生きして曹魏2代に仕える事となる。 そして、老臣が車の儘で参内を許される先例を作る程の重鎮と成ってゆくのだが・・・・
      現在は
56歳西方のエキスパートである。
                       (※ 遙の正字はツクリが系)
潁川えいせん長社ちょうしゃ県の出身で、彼の一族は、門弟千余人を輩出させた曾祖父の「鐘皓」以来、有徳の家柄とされていた。そんな名家の
秀才は”孝廉”にも推挙され、やがて霊帝期に入朝し、廷尉正・
黄門侍郎の任に就いた。その時、一世代下には「荀攸」・「荀ケ
なども居り、互いに親しく交わった。

 幼い献帝が董卓によって長安に拉致(動座)された時には、鐘遙だけが朝廷内に在った。 (荀攸は董卓暗殺を企てたが発覚し、地下牢に閉じ
込められた。) 呂布の手で董卓が暗殺された後、曹操は何とかして朝廷に”渡り”を就けて置きたいと願ったが、呂布を追い落とした李催らが疑念を持ち、なかなか実現しなかった。この時、李催らを説得して、曹操からの使節が往来できる様にしたのが、【鐘遙】であった。又、後に献帝が李催らの手を逃れ、長安を脱出できた陰には、策略を巡らせた此の鐘遙の働きが大きかった。

その後、曹操が献帝を奉戴して許に迎えるに伴い、鐘遙も亦、曹操の幕臣と成り、荀ケらと再会する事になった。曹操は、荀ケが屡々しばしば彼を高く評価するのを聴き、いよいよ鐘遙に対してわだかまりの無い気持を抱いていった。
尚、鐘遙は荀攸・荀ケとは同郷の年長者であり、特に深い親交を結んでいた。
                                  
特に、歳の近い
荀攸とは仲が良く、常々こう言っていた。
「私は何か行動しようとする場合は何時も、繰り返し考慮を巡らし、是れでもう変更の余地が無いと確信してから、公達(荀攸)に意見を求めたが、彼の意見は人の上をいくのが常だった」 と。

又、後日談として、こんなエピソードを残す事になる。

或る時、鐘遙と荀攸は揃って、「朱建平」と云う”人相見”の達人に、人相を見させた事があった。
(※朱建平の予言は一再ならず敵中すると言われ、曹魏の重臣達も大勢が見て貰って
                  いる。有名なのは、魏の文帝に対する寿命の予言である。)
その時、2人の人相を見終わった朱建平は、こう予言した。
 『荀様は年がお若いが、
     きっと後事を鐘様に見てお貰いになる事に成りましょう。』
すると鐘遙は、些か莫迦にして、からかい半分に朱建平に言ったものだった。
「ハハハハ、もし、そう成ったら、あんたに阿鶩あぶチャン(荀攸の娘)を嫁に遣ろう。」
 ーーだが、思いも掛けず、彼の予言通りに、荀攸の方が先に、幼い子供を遺したまま死んでしまう。
 (荀攸どの、勝手に死なせてゴメンナサイ。何しろ鐘遙サンは80歳もの長生きなので、
           その時まで待ち切れずに、ついフライングしてしまいました・・・・筆者。)
鐘遙は当然の様に、遺された荀攸の家族の面倒をみた。それ程までに、2人の親交は厚かった・・・・と筆者は言いたいのである。だが此の時ふと、鐘遙は昔の事を思い返し、改めて朱建平の術(人相見の方術)の優れている事に感嘆し、阿鶩を彼に嫁がせた
・・・・と言う。 正史は更にこう記している。
荀攸が前後に渡って立てた奇策は合わせて12在ったが、
       鐘遙一人しか其の内容を知ら無かった。
』 ーー即ち、2人は常に互いの策や謀を披瀝し合い、検討し合って居た・・・・と云う事である。 『鐘遙は荀攸の著作集を編集したが、未だ仕上がらない裡に、折悪しく逝去した。その為に、世間に荀攸の全計策が伝わると云う訳にはゆかなくなったのである。』と残念がっている。
                                  
又、歳の離れている
荀ケの方は、友人と云うよりも、鐘遙を尊敬する先輩と見ていた。 だから或る日、曹操が試みに「もし、君に代わって儂の為に策謀を立てられる人物は誰かね?」と尋ねた時には、荀ケは即座に「荀攸と鐘遙です!」と答えていた。
 そんな荀ケに対して、鐘遙は「顔回(孔子の弟子)没後、九つの徳を完備し、過失を2度と繰り返さない者は、ただ荀ケ一人だ。」と言っていた。
 又、或る人が鐘遙に 「貴方は常日頃から荀君を尊敬し、顔回と比較し、自分は到底及ばないと言って居られますが、 その訳を
お聞かせ下さい」と問うと、鐘遙は答えて言った。
「大体、名君は臣下を師として扱い、それに次ぐ君主は臣下を友として扱う。太祖の聡明さが有りながら、大事が起こる度に、何時も先ず荀君に相談を掛けて居られたのだから、これは古代の師友の建前に相当する。我々は命令を受けて事を行なうのだが、それでもなお任務を尽くせ無い場合が有る。その差は何と遠い事ではないか。」・・・・と。
 ちなみに『正史』では屡々、荀ケの名と鐘遙の名とが並び連ねられて(一緒の意見として)紹介されている。現代まで、
荀ケほどには知られて居無い鐘遙と云う人物ではあるが、 実は曹魏の成立にとっては必要不可欠な、可なりの重要人物なのである。
最後は大理(司法長官)相国しょうこく太傅たいふ・定陵成侯にまで昇り詰める。

尚、この際だから、鐘遙に関するエピソードの幾つかを
                               紹介して措こう。

            

〔エピソード−−高幹・郭援の反乱の際・・・・
馬超の配下・「广龍ほうとく」は手ずから1つの首級を挙げたが、其れが”郭援”本人だとは知ら無かった。戦闘が終った後、人々は皆、「郭援は死んでいる筈なのに其の首が出て来ない」と言い合った。
郭援は鐘遙のおいであった。广龍悳が袋から1つの首を取り出した其れを見た鐘遙は、声をあげて泣いた。广龍悳が鐘遙にあやまると、鐘遙は言うのだった。
「郭援は儂のおいではあるが、国賊である。おんみは何で、
                       それをあやまるのだ!」 と。
〔エピソード−−この当時、法令では県の令長は勝手に官を去る事を禁じられていたが、「吉黄」は司徒の趙温が逝去したと聞くと、自分が元は部下であった事を思い、 法令に背いて
葬儀に駆けつけた。そこで司隷校尉であった鐘遙は法令に則って吉黄を逮捕し、結局、法に従って処刑した。吉黄の弟の「吉茂」は其の事に関して、《兄は道義を追って法律に触れ、殺されたのだ!》と考え、鐘遙に対する怨みと怒りに打ち震え、抗議の為に、死者に対する哭礼を拒否した。
 だが其の年の終りになると、鐘遙は弟の吉茂を推挙した。論者達は、吉茂は就任を拒むだろうと取り沙汰した。然し、推挙の報が届くと、吉茂はそれに応じた。その事について、当時の人々は様々に憶測し合った・・・・。
〔エピソード−−彼が司隷校尉として「洛陽」に赴き、統治に当っていた時の事・・・・河東郡の太守の人事異動を巡ってひと悶着が起こった。
それまで長いこと郡太守であった「王邑おうゆう」は、地元の官民に慕われ王邑自身もやる気満々であった。だが朝廷(曹操)は、そんな有能な彼を中央で使いたいと思い、詔勅を以って召し寄せた。 すると地元の衛固えいこ范先はんせんは、王邑の留任を求めて鐘遙の所に要請に
やって来た。然し既に朝廷は新しい太守に「杜畿とき」を任命した後で杜畿自身も河東郡界に向っていた。鐘遙としては当然の事として、衛固らの要請を却下し、王邑に対して太守の”割り符”を自分に
差し出すように催促した。
 だが何を思ったか王邑は、その鐘遙の命を無視して、郡太守の印綬を帯びた儘、鐘遙の処を素通りして、直接、許へ行き、自分の手で割り符を届けた。面目を丸潰れにされた鐘遙だが、此の時鐘遙が取った行動とは・・・・何と・・・・
       自分に対する弾劾文を上奏する と云うものであった。 その全文は『魏略』に載っているが、要約すれば、『こう云う事態を招いたのは、全て自分が、権威を持って、断固たる刑罰を執行しなかったからであり、どうか罪人として自分に護送車を差し向けて欲しい』と謂う内容であった。
 無論、鐘遙には何のお咎めも無かった。
                             (王邑へのペナルティーは判然としない。)   尚、此の当時の河東郡は未だ、袁氏側の版図内であり、衛固・范先の2人は高幹の反乱に組しようとしていたのであった。 又、荀ケが推挙した「杜畿」は、爾来16年間に渡って河東郡太守を務めるが、着任するや直ちに河東郡を安定させ、のち曹操が西征する時には、その兵糧と運搬の全てを供給する迄に成るのであった。
〔エピソード
−−司隷校尉の鐘遙は、しばしば「厳幹」と2つの伝(公羊伝と左氏伝)について論争した。鐘遙は頭の回転の早い人で、うまく議論を展開したのに対し、厳幹は訥弁であり、論争の場になると議論に負けて答えられ無かった。又、鐘遙には『易記』など、名士としての一面を髣髴とさせる著作も在る。
〔エピソード−−鐘遙は最晩年の75歳にも子を生している程の艶福家でもあるが、何と言ってもブットンデイルのは
・・・・女性(妾)の身分について、彼は固有に、新たな呼称(地位)を創設してしまった点であろう。

 そこら辺の事情は、彼の末子に当たる鐘会が、その生母の為に残した伝記に詳しい。
『夫人・張氏(鐘会の母)は字を昌蒲しょうほと言い、太原郡茲氏じし県の人で、太傅たいふ・定陵成侯(鐘遙)の
命婦めいふである。』・・・・と書き出し、自分の母親が単なる妾の地位では無かった事を強調している。尚、伝末にその説明がある。解説は後廻しにして、兎に角、見よう。

『公侯(鐘遙)には夫人が居り、世婦が居り、妻が居り、妾が居る。いわゆる外命婦であるが、『春秋』に於ける成風と定似の建前に従えば、彼女(鐘会の母親)に対して儀礼を高くするのが適当で
あり、妾という名称でひっくるめて呼ぶ訳にはいかぬ・・・との事であった。その結果、成侯の
命婦と称したのである。彼女の埋葬の儀式が古えの制度に則ったのは、礼に従ったからである。』

その「夫人(母親)伝」には、正妻の激しい嫉妬・イジメに耐える彼の母親の賢さが詳しく記されている。彼を身籠った時には毒薬を食事に混入され迄したが、夫(鐘遙)には告げなかった。然し、正妻はつい余計な事を夫に告げ口し、墓穴を掘った格好で事が露見した為、結局は離縁される。その直後に生まれた鐘会は、自分が父・鐘遙75歳の時の子である事も付記している。尚、父親の鐘遙は、この後に新しく正妻を娶っている。
この老齢妻帯については〔裴松之〕が、「恐らく彼は『礼記』に述べる「宗子(本家嫡男)は70歳に成っても、主婦がなくてはならなぬ」と云う建前からした事であろうと、弁護?している。
〔エピソード−−この離縁劇には後日談が付いている『魏氏春秋』にはこう有る。
『鐘会の母は鐘遙から寵愛された。 鐘遙はこの為に其の夫人
(正妻)を離縁した。その時、べん太后が夫人の為に執り成してやったので、文帝は鐘遙に対して「復縁せよ!」と勅命を下した。鐘遙は憤激し、鴆毒ちんどくを取り寄せようとしたが手に入らず、山椒さんしょうを食べて口がきけなく成ったので、帝は取りやめた。』・・・・
 重鎮と成った晩年にも、帝の命令さえ聞かぬ程の気骨を失わなかった?それとも単なる頑固ジジイなのか?

・・・・と以上、やや脱線してしまったが、その代わり、幾分かは
鐘遙と云う男の人間像が明らかにはなった筈である。



                  


かくて曹操は上奏して鐘遙に侍中じちゅうのまま司隷校尉しれいこういを兼務させ、持節じせつとして関中の諸軍の総指揮をとらせ、後の事を委任し、特に法令に拘束されず☆☆☆★★★★★自由に裁量する事を許した
−−儂と同じ権限をソックリ与えるから、西方の事は、全てお前に任せたぞ・・・と云う事である!

驚くべき全権委任である。如何に曹操が、鐘遙の人物と、
是れ迄の実績を高く評価して居たかが判ろうと言うものだ。
さて、其の
鐘遙の〔是れ迄の実績・・・・であるが・・・・
 
つ目はーー196年の献帝奉戴直後・・・・・
未だ長安に残党する李催らを封じ込めて置く為に、仲間割れした
馬騰と韓遂を和解させる使者の役を果した事 であった。この年、献帝に付き従って来た鐘遙は、曹操から《司隷校尉》に任命され、直ちに西方に派遣されていたのであり、前述の〔新人の司隷校尉〕とは、実は此の鐘遙を指していたのである。
 
つ目はーー200年の官渡決戦の際・・・・鐘遙は
西方(の守り)に在ったのであるが、官渡に着陣して居る曹操の
元へ
軍馬2000余頭を供給し送り届けた事であった。袁紹と云う大敵を前にして、一兵でも多くの軍勢が欲しい曹操にとっては、その際の騎兵2000の増援はどれほど有り難かった事か!曹操は戦後に、「送って呉れた馬を手に入れ、大いに緊急の役に立ったぞよ。」と述懐している。鐘遙が曹操の家臣と成ったのは、196年の献帝奉戴の時であるから、その間わずか3年で、任地の西方から騎兵2千を供給し得る迄になったいた、と云う事である。彼の西方経営に於ける凄腕=手腕の確かさが窺える。
 
つ目つ目はーー実は・・・・前述した、
2度に渡る高幹がらみの反乱・反抗に際して、その都度、西方に在った馬騰を口説き落として参戦させたのは、司隷校尉で在った、この鐘遙なのである
これは、派手さこそ無いが、実に重い功労である。とかく、三国志に於ける「西方のハイライト」と謂えば、 《諸葛孔明の3度に渡る北伐=司馬懿仲達との五丈原の戦い》ばかりがクローズアップ
されているが・・・・然し、その前段階に於いては、この鐘遙による水面下の戦いこそが、もっと重要視されても良いであろう。地味でコツコツとした展開の為、今まで小説的なスポットライトは当てられて来無かったが、〔鐘遙 VS 韓遂・馬騰〕の連綿たる駆け引きの妙・説得と反発の繰り返し、すなわち・・・・
鐘遙による姿無き戦い抜きには、その後に於ける曹操の関中進攻も、孔明の五丈原も無かったのである・・・・。

 つ目はーー西方の総司令官として、適材適所に最適の部下を配置して用いた事であろう。
司隷校尉として西方へ派遣された直後、鐘遙は、或る男を自分の分身として抜擢・起用したのである。 その男は鐘遙とは違って、いわゆる”寒門”の出の人物であった。すなわち鐘遙は身分・肩書に拘らず、人物本位の人材登用を断行したのである。
−−その男とは・・・・
張既ちょうき・・・・字は徳容とくよう
           彼は、若い時にこんなエピソードを残していた。
『張既の家は代々名家では無かったが、彼は容貌・所作に優れた人物だった。年少の頃から書簡に巧みで、16歳で郡の書簡を扱う 役所の小役人となり、家は豊かになった。
 然し、名門の出では無かったので、自力では昇進する道が無いと思った。そこで彼は、常に上等な小刀(竹簡に書いた誤記を削去する為の物)と筆と書板とを用意しておき、上級の官吏達で持っていない者が居るのを狙って、その都度に与えた。そのお陰で認められる様になった。』                     −−魏略ーー
中々の苦労人で、若くして機略にも富んでいた訳である。そんな彼の資質を鐘遙は見抜き、前記の2度に及ぶ〔馬騰説得役〕として自分の手紙を持たせて赴かせ、
直接に馬騰と面会・説得したのは、何を隠そう・・・・実は此の張既であったのだその功により、張既は〔武始亭侯〕に取り立てられた。



                     

−−かように、鐘遙が曹操に仕官してからの僅か10年間をザッと見ただけでも、これだけ多くの実績を挙げて来ているのであった。無論、その全てが「西方」に関わる成果である。・・・・そして今後も益々、鐘遙は西方のエキスパート=西方の鎮守しずめ として、その存在感を重くしてゆくであろう。

ちなみに、この当時、『洛陽』は董卓の手で灰燼に帰した儘、無人の廃墟と化していた。 その荒廃ぶりは、曹操の3男・曹植が詩賦でも嘆いている。
洛陽、なんぞ寂寞じゃくばくたり  宮室は ことごと燃焚もえきぬ
垣根 みな頓辟やぶれ  荊棘いばらは上がりて 天にいた


そんな中、鐘遙は関中の民を移住させたり、逃亡者・反乱者までをも呼び寄せて、洛陽の住民としていった。そして数年後には民の戸数を充実させ、のち曹操が関中(張魯)征討する迄には、洛陽復興のメドを立たせるのであった。
 又、その時、鐘遙は
前軍師の地位を占める程の重要人物として曹操に信頼・評価されているのである。


−−こうして、西方の責任者が決定すると・・・・
  
曹操はいよいよ、鐘遙』→『張既』ラインを通じて
馬騰に対し・・・・帰順では無く、全面的な臣従(降伏)を誓わせようとした。 即ち、 『部下を解散して、朝廷に出仕せよ!』 との要求を突きつける事にしたのである。
 今迄の様に妻子を人質に差し出して置いて、要請ある毎に時折協力するのでは無く、
完全に軍を解体して(曹操に引き渡して) 長安を引き払い、曹操の家臣として業卩に永住せよ・・・・と命ずるのである。  無論、裏には、
《言う事を聞かなければ、いずれ軍事力で叩き潰すぞ!》 と謂う脅しと、《臣従を誓えば一族全ての厚遇と繁栄を保証しよう。》・・・・と云う二者択一の厳しさが在った。
これに対する
馬騰の裡には、今でも、永年に渡り『西方の雄』として暴れまくって来た”自負とプライド”が有り、若き日から燃やし続けて来た”天下への野望”とが残っているに違い無い。
 又、そろそろ”老い”を感じ初めている馬騰本人がOKをしても、
その子の
馬超の方は猛反対・猛反発する可能性が強い。
・・・・詰まる処、彼等への説得のポイントは馬親子が曹操の実力の程度をどう観るか? 今後の覇業が順調に成功すると観るか?それとも自分が割り込める可能性が、未だ残って居ると観るのか!?・・・・如何に懸かっている訳である。
そこら辺の難しい説得工作を、
鐘遙は全面的に委ねられたのである。
                

曹操の〔覇業の設計図〕を巡って・・・・・いよいよ「
西方」でも《鎮守》と《風雲児》とが、丁々発止の火花を散らせようとしていた。




そして、そんな中・・・・遂に
曹操孟徳は北へ向って、史上初・未曾有の大遠征を敢行すべく、大軍団の先頭に立った!!

【第117節】  たけき心の む事は無し →へ