第115節
天下統一のグランドデザイン
                                    悲劇の女流詩人



−−!!
    と決まれば、その前にして措く事がある。
但、その決定を知らぬ世間の耳目は、固唾を飲んで曹操の動きに注目していた。

烏丸うがんか?の荊州か?》

・・・が、曹操は、そのどちらでも無く、
〕へ動いたのである。 東はー〔難治の地〕と謂われる【青州】である。青州とは山東半島全体と、その付け根周辺の地域である。・・・なぜ「難治」なのか?
それは、
海賊跋扈ばっこする地勢ゆえと言える。同じ青州でも、冀州寄りの地域は、曹操軍団の主力を為す『青州兵』達の故郷であり、まず問題は無く、屯田耕作も順調に進んでいる。問題は、山東半島であった。海賊達は、元々、その基地を東海の小さな島々に置き、沿岸部に出撃しては略奪行為を働いて来ていた。だから、政府の討伐軍が向えば島々に退却すると云う、イタチごっこを果てしも無く繰り返して来ていた。処がここ数年来、中央政事の混乱を好い事に、基地を半島部に移し、恰も自分達が山東半島の領主の如き勢力を張って居るのである。まさに郭嘉が指摘した様に、青州の半分以上は曹操の領国とは言えぬ状況で在ったのだ。曹操は、「北を討つ」前に、先ず足元の青州を完璧に固めて措こうとしたのである。

ーー8月・・・・引き続き曹丕に留守を任せると、曹操軍は、
ほぼ其の全軍を以って「業卩城」を発った。そして一路
へと進軍した。冀州内を200キロほど進めば、青州の入口(西端)に着く
 其処から更に東へ300キロ、山東半島の付け根の中央地点・
淳于(じゅんう)に至り、此処に本営を置いた。此処迄の500キロ行程には、敵対する者は皆無であった。戦闘は、この「淳于」から黄海に突き出ている「山東半島」で繰り広げられる事となる。
海賊の頭目・
管承かんしょうは、各地に城砦を築いて、反抗の意を露わにして居た。曹操は、それに対する軍編成を、「高幹討伐」の折に採用した組織をそのままシフト・充当させた。すなわち・・・・
楽進がくしん李典りてんの2将の軍を、管承討伐の先鋒、かつ主力としたのである。この両者は、先の高幹討伐戦の時、先陣を承ったが不首尾に終っている。面目を失した観の有る両将は、汚名挽回の絶好の機会とばかり全軍火の玉・勇み逸っていた。曹操、そこら辺のツボは、しっかり心得ている。丸で鎖を放たれた猟犬の如く、凄まじい勢いで、次々と賊の城砦を攻め潰していく。折衝せっしょう将軍・『楽進』、将軍・『李典』ともに、同じ浮目に遭った者同士、その連携よろしく、互いの特徴を活かし合った。
チビ将軍★★★★
火の玉楽進が、鋭鋒となって先ず斬り込む。
          李典の肖像
慎重将軍★★★★
ガチガチ李典が其れを支え、地均ぢならししていく。
本営に控える他の諸将の出番が無い程の、両軍の快進撃であった。ーーこうして山東半島は、瞬く間に征討され、多くの者が帰順した。頭目の「
管承」は、命からがら海上の小島へと逃れ隠れた。以後、彼の名は二度と出て来無い。再起不能な迄に叩きのめされたのである。
山東半島の全てを平定し終えるや、曹操は早速、淳于の本営で青州の統治機構にメスを入れた。実態の無い諸県機構を1つに
統合し不要な郡は廃した。其処へ新たな長官を配し「難治の地」と呼ばれて来た青州の人心を印新した。海賊どもに因ってズタズタに荒らされきっていた、〔権力の二重支配構造〕は解体され、中央集権の基盤が整えられた。そして曹操は北伐へと逸る心を抑えて自からが暫く此の地に留まって、その成果の万全を期したのである。何事も、やるからには徹底的にやるのが曹操流であった。又、この行政改革は、青州1地域にとどまら無かった。翻って、自国の全地域に対する改革にも着手したのである。
−−10月・・・・布令にいわく、
そもそも、世を治め民を統べ、輔佐の官を設ける場合、警戒
すべきは面従と云う事である。〔詩経〕に「我が謀を聴用し、庶わくは大いなる悔なからんことを」と謂う。これは誠に、君臣の懇切なる願いである。余は重き任務を担い、常に中正を失う事を懸念して、《進言》を待ち望んで居るが、近年来、良き《計謀》を聞かないのは、誠に残念である。一体、余が人材登用の道を開き、人材を招く事に不熱心だったのであろうか?
今より以後、諸々の掾属(属官)である治中従事・別駕従事(官僚・役人)は、常に毎月一日に、それぞれ政事の欠陥を進言して呉れ余は其れを必ず見るであろう。

ーー兎角、事勿ことなかれ主義のマンネリに陥り易い官僚達の仕事ぶりに風穴を開ける為に、自分の持ち場は勿論の事、他の部署の勤務ぶりをも報告書として提出せよ!互いを競い合わせる事によって〔お役所仕事〕の活性化を図ろうと云う訳である。・・・・又その一方君達は有能な人材揃いの筈であるのだからと持ち上げる。上司は常に聴く耳を持っているから、良き献策・善き進言には、ちゃんと昇進栄達の道が待って居るぞ!・・・・と、やる気をそそる。組織の末端までを把握しようとする細かい配慮と言えるだろう。
この布令は周囲からの提言を採用したものでは無く、曹操自身が直接発したものであろう。彼の指導能力の裡には、そうした行き届いた緻密さと繊細をもが含まれている。
ーー東西南北、四方八方
曹操の発想は、此の頃から常に、天下と云う、巨視的高みから目配りされ始めようとしている。・・・・実は、業卩城を発つ前、既に新たな指令が、2つの方面に出されていたのである。
1つは
、もう1つは西に対するものであった。
先ず
への指令ー→烏丸族討伐(袁兄弟誅滅)が決定されるや諫議太夫・【董昭】の献策を入れ、輸送路確保の為、
        《新たな運河の開鑿かいさくを命じたのである。
董昭とうしょう・・・・字は公仁こうじん。彼の是れ迄で最大の功績は、曹操が〔献帝奉戴〕を企図した時、その道筋をつけた★★★★★★事に在った。
  (
 第43節・新献帝紀Wにて詳述。 
      尚、献帝の叔父に当たる
董承とは混同され易いが、全くの別人である。)
彼は初め、袁紹の参軍事として、智謀と豪胆さを自在に駆使して、占領地の慰撫と安定に多大に貢献していた。にも拘らず袁紹は、
讒言に惑わされ、董昭を処罰しようとした。ガックリ来た彼は、当時「長安」に孤立していた献帝の元へ行こうとしたが、途次、河内の「張楊」に引き止められた。折りしも兌州に居拠していた曹操は、何とかして長安の朝廷(李催りかく政権)へ行く為に、張楊の領内通行を認めて貰おうとしていた。その時、曹操の為に関係者を説得して廻り西方・長安との往き来が出来る様に仕立てたのが董昭であった。
更に、献帝が洛陽への東帰行を果した直後、密かに参内した曹操は、董昭を呼んで相談した。
「今、儂は帝を奉戴する心算で此処に来たのだが、さて実際には何んな計略を施すべきであろうかの?」
ーー【董昭】は答える。
「将軍には正義の兵を挙げられて暴徒を征伐し、朝廷に参内し、王室を輔佐されました。是れは春秋の五覇と同じ勲功です。処でここ洛陽で漢室を補任している将軍達は、人が違えば気持も異なり、必ずしも未だ服従して居りません。状況から言って、今洛陽に留まって帝を補佐するのは好ましくありません。そこで唯一最善の方策は・・・・御車を移して、将軍の本拠地・〔許〕に行幸させる事だけです。処が朝廷には、長き彷徨ののち古都に御帰りあそばしたばかりで、遠きも近きも期待を持って、朝廷全体が安定する事を願って居ります。だとすれば、今再び御車をお移しするのは、人々の心を満足させない事となります。だが、だが然しで御座居ます。
そもそも通常で無い事を行ってこそ、はじめて通常で無い功績が有るのです。どうか此の際、将軍には、其の有利な点を計算され是非、許への再動座を断行されますように

「・・・その事は、儂本来の希望じゃが、
楊奉が近辺の”梁”に居る。彼の兵は精鋭だと聞くが、途中で儂の足を引っ張らないと
                             保証できるかな?」
打てば響くかの如く、董昭は即座に明快な返答をした。

「楊奉には味方が少なく、又、彼だけが貴方様に臣服しようとして居ます。その証拠には貴方様が鎮東将軍費亭侯に成られた事は全て楊奉が主体と為ってやった事です。 ですから然るべき時に使者を遣わし、手厚い贈物をして答礼し、その気持を落ち着かせこう説くべきです。
(洛陽)には食糧が御座らぬ。暫時、御車を”魯陽”に行幸させたいと思う。魯陽は”許”に近い。さすれば食糧の転送はやや容易となり、遠隔の為に欠乏すると云う心配は無くなるであろう』 と。
楊奉の人柄は勇敢ですが思慮が足りませぬから、疑惑を持たれる事は決して在りません。頻繁に使者を往来させて(油断して)いるうちに、許への動座計略を完遂する事が出来ます。
楊奉ごとき、どうして足を引っ張れましょうや!!」
曹操を信頼している相手を利用して、うまく騙して事を済ませてしまえ!・・・・と云う、非情な策である。
「−−もっともだ・・・・!」

裏切られた格好の【楊奉】は立場を無くし、韓暹らと「定陵」に合流して叛旗を翻した。だが、そんな事は先刻承知の曹操は、その隙に彼の本拠地であった「梁」の軍営の方を平定してしまった。いよいよ居場所を失った彼等は、東方へ落ち延びるしか無く、挙句は袁術に降伏した・・・・
ーーと云う経歴を持つ
董昭とうしょうであった。爾来、彼は曹操から厚い信任を得て、〔冀州の牧〕・〔徐州の牧〕・更に〔魏郡の太守〕などを任されて来ていた。そして今や董昭は、地方行政の権威と成っている。その地方行政官の立場からすれば、運河は咽から手が出る程に欲しい最大のインフラである。地方財政にとって、運河は交易網の要・経済活性化の決め手と成るのだ。とは言え昨今の時局を慮れば、治世経世の為だけに、巨費を投じて運河建設を為すのは無理な相談と謂うものだ。その設備投資に対する見返りが、直ぐには期待できないからである。国庫に余程の余裕が有る時でなければ、却って亡国の因にも成り兼ねないリスクを孕んでいる。だが、最優先の軍事的要請と合体したものであれば、董昭の献策(運河建設)は正に一石二鳥なのであった。
 今回の北伐は、昨年の南皮戦(袁譚討伐)で味わった、冬季の「苦寒行」以上に苛酷な行軍が予想された。季節こそ違え、戦線が更に北へ2倍以上、3倍近くも伸び切るのだ。 軍団の規模も
拡大される。となれば、牛車に頼る食料輸送は、かつてない程に深刻な問題となるであろう。その負担を船舶輸送に拠って事前に軽減して措こうとするのが、この運河開鑿の第一義的狙いであった。但し、軍事目的が済めば、いずれ民間用に活用できる。

当然、【
董昭】が総責任者に指名されたが、具体的には、2本が掘られる。1本は幽州内陸部間をスムースに輸送する為の物・・・・ 「呼タこた」から「シ爪すい」に通ずる平虜渠へいろきょと呼ぶメイン水路。
もう1本はーー念には念を入れ、渤海湾から海沿いに廻り込んで海から内陸部へと輸送し得る物・・・・「シ路」の河口から
           「シ句」まで通ずる
泉虜渠せんろきょの2本である。

だが、着工前から問題は山積みであった。何故なら、どちらも業卩からは遙か彼方の場所であり、むしろ敵勢力圏内に在ると観なくてはならない。工事そのものも大変だが、それ以前に、周辺地域への慰撫工作を入念にして措かねばならぬと云う、厄介な課題が横たわっている。その上、工事に大動員される者達の確保や手当器材の調達・組織作り・指揮命令系統の分担・更には警備体制などなど・・・・眼の廻る様な忙しさと成る。ーーだが、時は待って呉れない。曹操からの厳命は、『その2本を同時に、可及的速やかに完成せよ』と云うものであった。提案者の董昭は不眠不休、みずから陣頭指揮に立っての大車輪となった。
 この難工事達成後、【董昭】は司空軍祭酒に昇進する。そして
何時の日か・・・・曹操が〔魏公〕の称号を受け、〔魏王〕と成るべき日が来るとすれば、それを最初に言い出す人物は、
                 この
董昭公仁なのである・・・・。


東西南北、悉く忙しい。だが曹操は寧ろ、それを愉しんで居る。

天下と云う図面が、己の裁量ひとつで次々と姿を現わして
来る。それは、新しい国家建設を目指す〔創業者の愉しみ〕であった。・・・思えば・・・つい数年前迄は、とにかく眼前の敵との死闘に明け暮れるのが精一杯であった。景気付けの為に、折々、「天下・国家」とは言ってはみたものの、本当のところ、実感は無かった。
ーーだが今、
曹操は確信を持って、
  【
天下統一への設計図】を、その胸の中で
            引き始めて居るのだった
・・・・。
                (残るは『西』への指令であるが、其れは次節に詳述しよう。)
《光武帝の覇業に比べたら、俺の覇業は2倍以上のスピードで達成されるかも知れんな・・・・。》
 曹操の、覇王としての眼は、今は未だ「北」へ向いている。だから〔頭の中の地図〕は、是れまで通り『北が上★★★』である。

然し、今の瞬間でさえも時々、曹操の〔頭の中の地図〕は上下逆転し始めている。すなわち『南が上★★★』の、
本格的天下統一用の特別版に切り替えられようとしていた。

 かようにして中国全図を見据えればーーその”覇業の道筋”は、おのずから此の新・地図の中に浮かび上がって来る・・・・。
@無論、北伐が完了した(華北平定)後の事になるが・・・・
    曹操孟徳が描く、これ以後の
    【天下統一のグランドデザインは、
                概ね次の如くであったと推測される。

A 歩騎80万の大軍団を以って、先ず、劉表を攻め、
    荊州を降す。(無血開城も有り得るだろう)
B 次には、その荊州の水軍を用いて長江を下り、一挙に
     孫権の
を降す。 この場合は、荊州兵10万を加え、
       味方の軍は100万とも号せるから、呉が戦わずして
       魏に降る可能性は可なり高いと観てよかろう。
    これで覇業は事実上成った・・・・と言えよう。
C 残りは西方、なかんずく、巴蜀の併呑である。
     だが其れは、もはや覇業達成祝いの引き出物代わり。
     天下人と成る心地良さをジックリと味わいながらの
                物見遊山・花見見物とシャレ込もう

D 献帝から禅譲を受けた格好で、
             新しく 
魏王朝を建てる
《フフ、さしずめ儂は『魏の武帝』とおくりなされる事に成るのだろうな。
 そして2代目の【曹沖そうちゅう】は『文帝』と諡号しごうされようか・・・・。》

問題は、それ迄に要する歳月の如何であった。始皇帝は26年、光武帝は20年を要した。
《・・・・もし10年掛かったとすれば、儂は60歳を越えるか。だが、
 曹沖も20歳を迎えている。充分だろう。》
曹操にとって”後継者問題”などと謂うものは存在して居無かった。彼の跡を継ぐ者は、神童・
曹沖以外に在ろう筈も無い。
曹沖の資質・心根などに比べれば、他の子供達などは、足元にも及ばないのだ。
《いや始皇帝や光武帝に比べれば、儂の場合は周囲の敵対者は断然少ないし、保有兵力は比べ物にならぬ程の圧倒的優位さだ。10年は掛かるまい・・・・。》
但、気に懸かるのは、曹沖の虚弱体質であった。
《ーー曹沖には無理はさせられまい。2代目・曹沖がひたすら文治に専念して、大名君と呼ばれる様に成る為には、この儂が平定戦や討伐戦の必要の無い、完全無欠な大帝国を築き残してやらねばなるまいて・・・・。》

夢かうつつか、曹操の思いは、事の大小・多岐に広がる。

《それに、いずれは矢張り・・・・帝都は”
洛陽”だな。》
東西南北、四海を全て治めるからには、業卩の位置は北に片寄り過ぎていよう。とは言え、瓦礫と化した旧都を完全に再生させるのには、己の代では手が廻るまい。其れは2代目の楽しみに取って置いてやるか・・・・。
《まあ、儂の代は、せいぜい業卩を天下一の豪壮な王城に仕立てみるか?そうだな、かつてどの皇帝も築いた事の無い様な、天に聳える華麗な高楼を造るのも悪くないな。うん、ケチな事を言わずいっそ
3連の高台としようかの・・・・。》
後に、曹操文化の精髄・象徴ともされる、壮大華麗な
    【銅雀台どうじゃくだいの構想さえ、考えられ始めていたのである。


                     

−−夢から醒めて翌207年(建安12年=赤壁戦1年前★★★)
2月・・・・曹操は「淳于」から、本拠地・「業卩」に半年ぶりに凱旋した。到着するや否やの2月5日、既に胸中に抱いていた布告を出した。
義兵を挙げて19年、相手に必ず勝てたのは、どうして余の功績であろうか?諸将・士大夫ともに軍事に携わりながら、幸いにも賢者は其の謀を出し惜しみせず、士人達は其の力を余す事なく働いて呉れた。その御蔭である。天下は未だ完全には平定されていないが、余は必ず賢明なる士大夫と共に、それを平定できるに違い無い。だが、其の功労の報酬を、余が唯一人で享受するとあらば
余はどうして落ち着いて居られようぞ?皆の苦労に報いて、大きな恩恵を独り占めしない事を願うものである。
 よって、急いで功績を決定し、封爵を行なえ。又、戦死者の孤児に等級をつけ、税として取り立てた穀物を彼等に与えよ。
 もし作物が豊かに稔り、国庫も充ちるなら、皆の者全てと共に、大いに其れを享受しようではないか!

この布令の趣旨は・・・・これから始まる「北伐」を前に、将兵への労いと、帷幕に在る者達への、更なる発奮を促すものであった。

主たる対象者では、先ず糟糠の妻とも言い得る、長年苦楽を共にして来た事実上の総参謀・司馬の【荀ケじゅんいく・・・・
娘の婚姻を通じて義兄弟と成ったばかりである。

過去の帝王は、獲物を直接捕えた猟犬よりも、獲物の足跡を
指摘する人間の功績をこそ尊重したものである。荀ケの計策は、破滅を存立に変え、禍いを福に転ずるものであり、その策謀は
傑出し、とても余の及ぶ処では無い。故に、彼の領邑を古しえの大軍師並にするべきである。

だが荀ケは、この行賞を再三に渡り固辞した。

「文若よ、その様な態度は、人の生き方を弁えた君らしくないぞ。君が辞退すれば、儂が君の功を盗んだ事に成ってしまうではないか。君の功たるや、数えれば3桁に及ぶではないか。謙虚な態度を保つこと、何故にかくも甚だしいのかね?」

そうまで言われて、しぶしぶ新たな領邑1000戸の加増を受け、計2000戸の大身と成った。完全な親族扱いである。曹操は更に自分と同じ三公の地位までを用意したが、荀ケの辞退10数回に及び、こっちの話しは沙汰止みとしている。荀ケが其の全てを知人・縁者に分け与えてしまい、己個人の力を蓄えようとしない姿勢を識る故、曹操としても安心して行賞の宣伝に使えたであろう。 いや、両者が納得ずくで、賞す者と賞される役柄を分担し、全軍に示しをつけたものとも言えようか。
次は、(正式な職制上としての)
軍師・【荀攸じゅんゆう−−
                                
かつて彼が重態になった時、曹操は独り寝台の下に拝礼して、
その治癒を祈った程に敬愛し、特別な待遇を受けて来たが、今回は400戸加増され、彼の領邑は計700戸となった。又、《中軍師》とし、いずれ《大軍師》に成って呉れよ!と、今迄の功を絶賛している。
親族では矢張り、旗挙げ以来の仲間であり、ズバ抜けた信頼を
得ている建武将軍・
夏侯惇かこうとん・・・・
    1500戸加増され、領邑は合計2500戸と成り、もはや我が子並とした。
ーーだが・・・・甘いばかりの曹操では無かった。いくら親しくても、飽くまで其れは、”君臣の立場をわきまえた上”でなくてはならなかったのである。
許攸きょゆう・・・・官渡戦の苦境の最中に、袁紹の下から寝返り、
「烏巣に食糧基地あり!」との最重大機密(クリプト)を暴露して、
曹操軍の1発大逆転を生んだキーパーソン・・・曹操とは、互いを幼名で呼び合う程の親しい仲であった男だが今回、誅殺された。
「私が居無かったら、阿瞞あまん (曹操の幼名)は冀州を手に入れられ無かったかもな、アハハハ!」などと、つい自慢げに喋った過去の発言も、ちゃんと曹操のチェックリストにマークされていたのだ。業卩城の東門は、曹一族だけの専用通路として使われているのだが、今回も、「俺が居無ければ、曹一家も此の門から出入り出来無かったろうに・・・・。」と、不用意な本音(不平)を漏らし、
婁圭ろうけいの二の舞を演じてしまったのであった。 然し此の一件、どうやら許攸個人の不用意とばかり謂えぬ要因を孕んでいる。
 是れは氷山の一角に過ぎず、この時期でさえも尚、こうした同僚感覚・対等意識の雰囲気が払拭されずに、根強く残っていた証左であろう。戦国乱世特有のーー
君臣関係は、飽くまで個人的結合の契約★★に過ぎない》−−と謂う論理が、生き続けている・・・・と云う事である。それを『契約』では無く、『絶対的な主従関係★★☆☆』へとシフトさせる時期に当たるのが、今の曹操政権が抱える課題と言えるであろうか。その為には曹操が誰もが畏怖する存在と成らねばならない

 ・・・・
人を超えた、神の如き偉業ーー
    ”世界の涯てへの大遠征”が今、
            始められようとしていた
・・・・。

この年・207年・・・・中原諸国、いや中国人なら上下を
問わず全ての者達が、一大センセーションに沸き立った。
忘れ去られていた悲劇のヒロインが、曹操のプロデュースに拠って、突如戻って来たのである

読者諸氏は、下の地図を御記憶であろうか?
 今を去る事
12年前・・・・長安を脱した「献帝東帰行」の砌、一行を襲った惨劇・悲劇であった。(※ 詳細は第41節にて既述)
その悲劇のヒロイン・・・・姓はさい、名は王炎えん、字は文姫ぶんき。  
蔡文姫さいぶんきである。文姫の父親・『蔡邑さいよう』は、当代を代表する「大名士」であった。董卓に招かれるが、悪逆の限りを尽くした其の大魔王でさえ、彼の諫言だけは素直に聴く程であった。然し却ってそれが仇となり、董卓暗殺直後に処刑させられる事となった。
文人の誉れ高く、蔵書量は天下一としても知られ、彼の筆による碑文の拓本を採る学生・名士で洛陽の街は大渋滞を起こす程であった。又、《焦尾琴しょうびきん》なる名器を創作するなど、音楽の才にも秀でたマルチ型天才・稀代の名士であった。(133〜192年)
一人娘の
文姫は、父の薫陶よろしく、詩才秀逸、琴の名手、あらゆる教養を身につけた才媛と成っていた。この時25歳。夫と死別したので、宮廷(長安)に出仕していた。

 事件は195年(興平2年)に起こった。それまで朝廷を壟断して
いた独裁者の「董卓」が暗殺された。それにより幾許かの自由を手にした少年皇帝『劉協』(献帝15歳)が、初めてみずからの意志と云うものを表明した。
「朕は成婚を機に、長安を厭い、懐かしい洛陽へ帰りたい!」と、ハンガーストライキをして迄、強く希望したのである。そして、洛陽への東行が、薄氷を踏む思いの裡に決行された。随行する供は、僅か数百名。その半数は宮女達であった。その中に【蔡文姫】も居た。一旦は長安離脱を認めたものの、矢張りマズカッタと、皇帝を奪い返そうとする「李催・郭・張済」の3者連合軍に対し、側近たちは《
白波はくは・黄巾軍》と《黒山こくざん・南匈奴軍》に救援を要請した。最も近い位置に、この2者が割拠して居たからである。彼等にしてみれば、此処で忠義を示して置く事によって、朝廷から臣下(中国人)として正式に認められる絶好の機会を得た事になる。そもさん!とばかりに駆けつけた。・・・・だが、迫り来る追っ手を前にしては、黄河を渡河して難を脱するしか無かった。とは言え、船は少なく小型であり、とても全員を収容する事は叶わなかった。
かたわらニ侍スル者ヲ殺シ、血ハ后ノ衣ニそそゲリ・・・・と云う阿鼻叫喚の中、献帝は辛うじて北岸に辿り着いた。(詳細は既述)
だが、此の時以来、忽然として200名もの宮女たちが、歴史上から掻き消えたのである。蔡文姫の消息も亦、杳として判らなくなったのだった。ーー然し、この”神隠し”には、実は「裏」が有ったのである。即ち、明確な人攫ひとさらい・拉致誘拐らちゆうかいの意図が存在していたのである。その指令を発したのは黒山・南匈奴の王(単于)於扶羅オフラであった。臨終の床に在った於扶羅の悲願は・・・・
《南匈奴族の文明開化》・異民族が中国人として生き残る為の
《民族同化戦略》であった。この直前の「霊帝期」に両者が妥協して、中国人民が流出してしまった”空き地”を宛がわれ、中国領土内の山岳盆地(并州)に住む事を認められた南匈奴族ではあったが、如何んせん、其処は中国文明からは取り残された〔蛮地〕に過ぎなかった。中国人として生きてゆくからには、先進国の教養を身に付けさせる事が第一である・・・・その為の非常手段・・・・
 教養ある中国人女性を拉致誘拐してでも、
              若者達に娶らせる!!
・・・・
白波軍(
黄巾党の一派で、白波渓谷を根拠にしていた)と協調して出陣した
黒山軍(南北に分裂したうちの南匈奴族。はじめ黒山の辺りを根拠地にしていた為そう呼ばれた)は、乱戦渡河のドサクサに紛れて、於扶羅の遺言を実行した。そして安邑あんゆう(白波軍の根拠地。献帝は此処に暫し留まった)から更に100キロ北の、彼等の本拠地平陽へ拉致された宮女200名は、南匈奴の男達と強制的に結婚させられたのである。
臨終の単于・於扶羅は、いずれ王と成るべき「左賢王」の我が子・
13歳の【ひょうに、最上の女性を娶らせる事にしていた。禹域ういき(中国全土)から選りすぐられた美女達ばかりである。その中に在って、美貌は勿論、最高の教養を兼ね備えた才媛・・・・白羽の矢は当然の如く、文姫に立った・・・・。
 爾来12年間、献帝一行が洛陽へ発った後も、文姫は平陽に住み続けた。万里の長城にも近い、中国辺境の山岳盆地である。
 いかに并州西河郡に在ると言っても、都暮らしの女性達にしてみれば、何から何まで異様な「胡人の国」・
異郷の地であった。
 そもそも生活空間そのものが、中国人社会とは異なり、彼等は城壁内には住まぬ社会であった。(それが”村の発生”の一因ともなってゆくのだが。)食事の方法も手掴みであった。
初めの裡、余りにも落差の大きい逆カルチャーショックに暗澹たる思いの彼女達であったが、せめてもの救いは、男達が皆、彼女達を大切にした事であった。−−そして・・・
3000日以上を暮らす裡、12歳も年下の夫・左賢王「豹」との間には2人の子が産まれ、ようやく数多の未練を断ち、その生活にも慣れようとしていた・・・・

 そこへ突如
曹操から、帰還要請の使者が舞い込んで来たのである!! (曹操が大金で、あがない戻す形をとった。)

文学面にも豊かな才を持つ曹操のことである。文姫の父『蔡邑』とは、古くからの親交が有った。その師友の名を惜しみ、家名を惜しんだ。風評で知った一人娘の文姫に蔡家を継がせてやろう、その異郷の地での慨嘆を救ってやりたい・・・・他の群雄とは一味違う思い遣りであり、曹操と云う男の心象風景を知る上でも面白い発想である。と同時に、彼の支配の領域が、それだけ広く多岐に及ぶ様に成って来た証拠でもあった。「黒山衆」に渡りを付けて措く実利も大きい。2年前に同じ黒山の「張燕」が帰順して来てはいたが、彼等の内部事情は複雑であった。すっきりさせる為にも、この交渉は無意味ではなかった。一方、黒山衆にしても、曹操との接触は今後、民族の将来・繁栄に有益であった。

そうした巨大な政事権力抗争の波間に弄ばれる個人の運命・・・・突然の拉致・・・・そして又、不意の誘い・・・・文姫は運命に翻弄され続ける己の身の残酷さを呪ったであろう。忘れ難い望郷の念
・・・・羞恥・怨み・・・・夫や子らへの愛情・・・・育んできた思い出の数々・・・・蔡文姫の女心は、揺れに揺れた。去るにしても、残るにしても、後ろ髪ひかれる思いである。
《・・・・子や夫への愛を取るか!?
       故国への愛惜を取るか・・・・!?》

身を引き裂かれる様な選択を迫られ、我が身の宿命を嘆く懊悩の裡から、
蔡文姫自身の悲痛な言霊ことだまが生まれた・・・・

     十六ふしを数えて 思い涯てなく
       我と吾児あこ 遠く隔たり
       日は東 月は西に 空しくむか
       吾児の手をく事もならず はらわたは断つ
       母恋草ははこいぐさに 忘れんとして忘れ得ず
       爪弾つまびく琴に 悲しみは募る
       吾子あこに別れて 故郷ふるさとに帰れば
       ふるうらみに代る 新しき怨み
       血の涙 とどめも敢えず
       蒼天あおぞらに訴えん
       我のみを なぞ かくも苦しむるかな






曹操孟徳覇業は、こうして多くの人々の運命をも変えつつ、更に広大無辺へと続いてゆく
【第116節】 西の鎮守しずめと風雲児(抜き身の刀) →へ