第114節
「飲・打・買」の
デカダンス軍師
                              虚無が産んだ鬼才







「私は此の場で、或る人物を告発したいと思いまする
治書侍御史の
陳羣ちんぐんであった。『一言居士いちげんこじ』の異名を持つ男
・・・・字は
長文・・・・未だ若手だが、直言を以って己の責務と信じて已まぬ硬骨漢である。

一時、『劉備』に仕える機会があった。だが、折角の建策・進言も採用される事が無かった。『関羽』と『張飛』が口出しすると、常にそれが優先されるのだった。根本的に彼等は、”義兄弟の血盟的仁侠集団”に過ぎ無かったのである。とは言え、それこそが、未だ発展途上に在る劉備集団の魅力では有ったとも謂えたのだが、
この時はマイナスに作用し、劉備は陳羣を使いこなせなかった。
その後、野に下って居たところを曹操に迎えられたのである。

彼の在り方を示すエピソードとして、以前に、こんな事があった。
广異よくと云う名臣の弟が反乱を企てた。この当時の刑罰思想では、兄弟の起こした反乱は、反論の余地無く〔連座した〕と見做され、死罪が普通であった。処が【陳羣】は、『彼は全く関知して居無いのだから、減刑すべきだ!』と進言した。曹操も、それ迄の劉广異の忠勤ぶりは熟知しており、許したいと思っていたので、やがて官職に復帰させた。劉广異は陳羣に感謝を述べた。それに対し、陳羣の言った言葉が端的に此の人物の本質を示している。
そもそも刑罰について論じたのは、国家の為であって個人の為では無いのです。それに今度の事は、明君(曹操)の御意向に拠るもので、私ごときが何うして関知できましょうか。」
又、
陳羣ちんぐんと云う人物の存在意義の大きさを示す事蹟としてはずっと後の話にはなるが・・・・九品官人の法−−(全ての官職を9等級に分ける事に拠り、階層支配の一元化を果すシステム)・・・・と云う、歴史時代を画する大改革を建議するのである。是れに司馬懿仲達が手を加え、やがて・・・・〔司馬氏の三国統一〕の基盤と成っていく事にもなる・・・・(詳細はその時点にて記す。)
正史』の人物評に拠ればーー
陳羣ちんぐんハ、名誉ト道義ニ拠ッテ行動シ、
  高潔ナ人柄デ高イ声望ヲ持ッテ居タ。
 となる。
          
「近頃、我が業卩の城下では、『飲む・打つ・買うの3拍子』なる
怪しげな言葉が持て囃されている事を、諸氏は御存知か!?
然も、その頽廃的な風潮の元凶には、或る一人の人物の存在が大きく関係しておるので御座る!」

《はは〜ん、彼のことだな・・・・。》
この座に居る全ての者の憶測が、ピタリと一致した。

「その人物は、時に紫の頭巾で顔を覆しては城下に出没。手当り次第に女を買い漁るばかりか、四六時中、酒臭い風体で金をばら撒き尽くす。その為、城下では今や、倹約を疎み、刹那的な享楽に耽る風潮が蔓延して居りまする。又、その人物は、或る時には兵舎に入り込んで、兵卒らと博打に明け暮れ、お陰で士卒の間では、其の人物のデタラメな生き方に憧れる若者達は数知れず。
 御主君がおわす、我が魏の本拠地が此の有様では、誠に嘆かわしい限りでは有りませぬか!之は最早、看過し得ぬ醜聞でありこの様な風紀の紊乱びんらんは、れっきとした犯罪行為で御座る


《おいおい、こんな所で、そんなこと言い出すなよナ・・・・。》
一同、隣り同士でヒソヒソとささやき合う。
「然も、然もですぞ!」陳羣の舌鋒は一段と強まった。
「其の人物は我が帷幕いばくに在って、重大な任に就いておるのです。もし此の儘、この不航跡を咎める事も無く見逃しているとしたら、我々帷幕の全員が同罪とさえ謂えるので御座らぬか!?末席ながら、同じ帷幕に在る小生は、世間から、その様な人物と同一視
される事に、耐え難い恥辱を覚えるものであります


ーー『
正史』の記述・・・・
陳羣ハ郭嘉ノ品行ガ修マラヌト批判シ、
          度々たびたび、朝廷デ郭嘉ヲ起訴シタ。


だが、会同して居る者達は皆、女性に関しては結構いい加減であった。と言うより、当時のコモンセンスは・・・「男女間の事は大らかで大まか」であった。紫頭巾ほどでは無いにせよ、適当にやっている。曹操も半ば鼻白んでニヤニヤしている。
「ほう〜、紫頭巾むらさきずきんとな?フム、兵舎に入り込むとは、些か穏やかでは無いな。じゃが、若者達が憧れるとは何う云う事じゃ?もう少し詳しく話してみよ。」
曹操にも、誰の事だか見当は付いている。
「かの人物は!」・・・・と言いながら、陳羣の視線は、曹操の眼の前で鼻毛を抜いている司空軍祭酒に注がれた。
平たく言えば
軍師である。この時期、曹操の軍師参謀と言える重臣は幾人か居た。荀ケ・荀攸・賈ク・程cはじめ、枚挙には暇が無い。が、その中でも飛び抜けた先見の明と、きらめく才能を持つ大参謀と言えばーー此の、しどけない着付けで、鼻毛を抜いて居る”さ男”しか居無かった!
郭嘉かくか・・・・字は奉先ほうせん
    今
37歳と、曹操の帷幕に在っては皆より1世代も若い。
   
『正史』の人物評ではーー才略謀略、世ノ奇士ナリ。
「策謀を巡らす才能は、世にも稀有な不世出の人物であった」 と、なる。但し、断り書き★★★★が一行附いている。
清潔デ徳行ヲ納メタ点デハ、荀攸ト異ナル。

・・・・つまり、仕事は滅法できるけれど、日常生活は破茶滅茶な男だった。謂わば、不摂生の塊り、飲む・打つ・買うを独り占めしている様な、荒んだ生活振りであった。その為、彼の肉体は確実に蝕まれ、今もゴホゴホと嫌な咳をしている。頬もゲッソリ削げ落ち、人には隠しているが、時々かなりの血を吐いていた。
 その癖、酒は浴びる様に飲み続け、女を抱いていない時は、
ゴロツキ連中とバクチを打ち続け、まともな睡眠も摂っていない
。その暮らし振りは丸で、「虚無こそ我が人生」とでも言いたげな、
デカダンス振りである。−−だが実は・・・・未だ若い郭嘉をして、こんなニヒルな私生活を送らしめていたものは・・・・彼に”
不治の病”を罹患させてしまった「司命神」に外ならなかった。
 恐らく病名は労咳、今で言う肺結核に違い無い。他人には隠し続けて来ていたが、常に己の死・生命の終焉を間近に体感し続ける毎日・毎晩であり、〔自己消滅の恐怖〕に苛まれての日常であったのだ。何をやっても、やらなくても付き纏う微熱と空しさ・・・・何かに打ち込んで居無いと、忽ち姿を現わす、何う仕様も無い空虚感
・・・・それを埋める為の奇行の連鎖・・・・それが郭嘉の私生活を支配する深層に在ったのである。
 だが、そのデカダンス振りを差し引いても余り有る、彼の本領は勿論、『名軍師』としての数々の実績にこそ在った。彼は、曹操が最も苦境に在った前半生を、その「軍師」として一貫して支え続け今日に至っている。曹操がここ迄しぶとく、勝利を重ねて来られたのも、陰には常に此の郭嘉奉先の存在があったと言ってよい。

                  
曹操と郭嘉の出会い・初めての会見は、衝撃的な名場面として「正史」に詳しく記されている。 ーー曹操は極く初期の段階で、
頼みにしていた軍師の『
戯志才ぎしさい』を早逝で失った。
「・・・・戯志才が居無くなってから後は、計略を相談できる相手が居無い。誰が彼の跡を継いで呉れようぞ・・・・。」
困惑する曹操に、「
荀ケ」が推挙したのが、袁紹の元に居た郭嘉であった。荀ケ自身、一時的に袁紹の所に居た事があるから、
その時既に、若い郭嘉の〔鬼才〕を看ぬいていたのであろう。

曹操は大いに歓び、さっそく彼を招聘した。時期は「官渡決戦」の
7〜8年前・郭嘉が
24歳の頃(193年頃)であったと想われる。
その初対面の席で、郭嘉は所謂、
曹操覇王論をブチ上げて、大敵・袁紹の影に怯える、未だ一地方軍閥に過ぎぬ曹操を、甚く感激させ、自信を持たせたのであった。
すなわち、曹操こそが、「
いずれ天下を取る資質を有している!」と、袁紹との比較と云う形で、その客観的根拠を明示して見せたのである。
先ず、曹操が下問した。
「袁紹は冀州の軍勢を擁し、青・并州を従属させ、領地は広く兵力は強い上に、たびたび朝廷に対して不遜な行為を取っている。
儂は奴を討伐したいのだが、力では相手にならぬ。−−どうじゃ、儂に其の可能性は有るだろうか!?」

その深刻な下問に対し、郭嘉は言った。
「劉邦と項羽の力が同じで無かった事は、公(曹操)の御存知のところ。(最後に勝って天下を取った)劉邦はただ智力に勝っていただけです。項羽は強大でありながら、結局は捕えられたではありませぬか。」
こう前置きしてから、いよいよ【郭嘉】は、世に有名な、
10勝10敗の説を開陳するのであった。
わたくしが密かに考えますに、
  (袁)紹には10の敗北の種が在り、
  公
(曹操)には10の勝利の因が御在りです。
    
袁紹は兵力強大とは申せ、打つ手を持たないでしょう。
以下、郭嘉が開陳する此の観察はーー後世の人々にとっても、
『曹操孟徳と云う人物の本質を識る』上で、大変に参考となる史料とされる。 (
出典は裴松之が補註に寄せた傅子ふし。此処では敢えて、「原文」・「読み下し」・「解釈」を別々に紹介する。同じ漢字圏の我々であるからには、ジックリ漢字を睨んで居れば、必ずや意味は読み取れるであろう。)


    郭嘉の10勝10敗説

  曹操 袁紹
    〔1〕 体任自然        繁礼多儀
    〔2〕奉順以率天下      以逆動
    〔3〕
糾之以猛、而上下知制  寛済寛。故不摂
    〔4〕
    外易簡而内機明、用人無疑、 外寛内忌、用人而疑之
    唯才所宜、
不間遠近。      所任唯親戚子弟
    〔5〕策得輒行、応変無窮。   多謀少決、失在後事
    〔6〕
    以至心待人、推誠而行、     因累世之資、高識揖譲
                        以収名誉

    不為虚美、以倹率下、
      士之好言飾外者多帰之。     
    与巧者無所吝、
士之忠正遠見而有実者
皆願為用。
    〔7〕
    於目前小事、時有所忍、    見人飢寒、恤念之形于顔色
    至於大事、与四海接、
      其所不見、 慮或不及也。
    無不済也。
             所謂婦人之仁耳。     

    恩之所加、皆過其望、
雖所不見、慮之所周、
無不済也。           

    〔8〕
御下以道、浸潤不行。  大臣争権、讒言惑乱
    〔9〕
所是進之以礼、     是非不可知
    所不是正之以法。

    〔10〕
以少克衆、用兵如神。  好為虚勢、不知兵要
    軍人恃之、敵人畏之。




     読み下し
〔1〕体任たいにん自然なり         しげく 儀多し
〔2〕
奉順して以て天下をしたがう。   逆を以て動く。
〔3〕
これただすに猛を以てして、   かんもて寛を済う。
    上下 制を知る。
       故におさまらず。
〔4〕
外は易簡なれども、       外は寛なれども
   内は機 明らかにして、
     内は忌み、
   人を用いては疑い無く、
     人を用いては之を疑い
   唯だ才の宜しき所のみにして、
  任ずる所は唯だ
   遠近をへだてず。
         親戚子弟のみ。
〔5〕
策 得ればすなわち行ない、      謀多けれども決少なく
   変に応じて窮まり無し。
      失 後事に在り。
〔6〕
至心を以て人を待し、      累世の資に因り、
誠を推して行ない、虚美を為さず
 高議揖譲ゆうじょうして以て名誉を収め
倹を以て下を率え、
         士の好言して外を飾る者多く
巧有る者のためおしむ所無く、
                之に帰す。
  

士の忠正なる、遠くよりまみえてじつ有る者 皆 用を為さんと願う。

〔7〕
目前の小事に於いては   人の飢寒きかんするを見れば
時に忍ぶ所有るも、
       恤念じゅつねん 顔色に形わるるも
大事に至りては四海と接し、
    其の見ざる所は、
恩の加わる所の者は皆
        慮 或いは及ばず。
其の望みを過ぎ、
         所謂いわゆる、婦人の仁のみ。
見ざる所といえども、りょあまねくする所にして、さざる無きなり。

〔8〕
しもぎょするに道を以てし、  大臣たいしん 権を争い
浸潤しんじゅん 行なわれず。
       讒言ざんげんに惑乱す。
〔9〕
是とする所は之を      是非 知るからず。
進むるに礼を以てし、ならざる所は之を正すに法を以てす。

〔10〕
少なきを以ておおきに克ち、 好んで虚勢を為せども
用兵は神の如くにして、
        兵要を知らず。     

軍人 之をたのみ、敵人 之をおそる。


「私が密かに考えますに、袁紹には10の敗北の種が在り、公(曹操)には10の勝利の因が御在りです
袁紹は兵力強大とは申せ、打つ手を持たないでしょう。」
第1点は・・・・紹は面倒な礼式・作法を好んで居りますが、公は自然の姿に任せて居られます。
 これは
】(法則)のすぐれている面と申せましょう。
 
第2点は・・・紹は”逆”(朝廷に刃向う事)を以って行動し、公は
”順”(朝廷を奉戴し従う事)を奉じて天下を従えて居られます。
 これは
】(正義)のすぐれた面です。
 
第3点は・・・・漢の末期は”寛”(締まりの無さ)で政事が失敗しました。紹は”寛”を用いて寛を救おうとして居ります。だから上手く行きません。公は”猛”(厳しさ)で以って其れを糾し、ために上下ともに掟を弁えております。
 これは
】(政事)のすぐれた面です。
 
第4点は・・・・紹は外は寛大でも内心は猜疑心が強く、人を用いる場合、その者を信用し切れません。信任しているのは親戚や子弟ばかりです。公は外は簡略、心の働きは明晰、人を用いる場合には疑いを持たれず、相応しい才能を持っているか何うかだけが問題で、親戚・他人を分け隔てされません。
 これは
】(度量)のすぐれた面です。
 
第5点は・・・紹は策謀のみ多くて決断に乏しく、失敗は時機を失する点に在ります。公は方策が見つかれば直ぐ実行され、変化に対応して行き詰まる所がありません。
 これは
】(策謀)のすぐれた面です。
 第6点は・・・・紹は累代に亘って積み重ねた基礎を元に、高尚な論議と謙虚な態度で評判を克ち得ました。論議を好み、外見を飾る人物は多く彼に身を寄せました。公は真心を以って他人を待遇し、誠意を貫いて実行されます。上辺だけを飾る事をなさらず、慎ましさを以って下を率き従えられ、功績の有る者には吝しむ処なく賞賜を下さります。誠実で将来を見通す識見を持ち、中身の有る人物は皆お役に立ちたいと希望して居ります。
 これは
】(人徳)のすぐれた面です。
 
第7点は・・・・紹は他人の飢えや凍えを見ると、憐みの気持を顔色に現わしますが、眼に触れない事に対しては考慮が及ばないと云った風です。所謂、婦人の仁愛に過ぎません。公は眼の前の小さな事について、時には蔑ろにされる事が有りますが、大きな事になると、四海のうちの人々と接し、恩愛を施され、全て期待以上であります。眼に触れない事に対してさえも、周到に考慮され、処置されない事は御座居ません。
 これは
】(愛情)のすぐれた面です。
 
第8点は・・・・紹は、大臣どもが権力を争い合い、讒言に混乱して居ります。公は道義を以って下を統御され、水の沁み込む如く讒言の沁み込む事は行なわれておりません。
 これは
】(聡明)のすぐれた面です。
 
第9点は・・・・紹の善し悪しの判断は、ハッキリと致しません。公は善しとする場合、礼を以って其れを推し進め、善しとしない場合、法を以って其れを正されます。
 これは
】(法政)のすぐれた面です。
 
第10点は・・・・紹は好んで虚勢を張りますが、軍事の要点は知りません。公は少数を以って多数に勝ち、用兵は神の如く、味方の軍人は其れを頼みとし、敵は其れを恐れて居ります。
 これは
】(軍事)のすぐれた面と申せましょう。
              
(法則)・(正義)・(政治)・(度量)・(策謀)・(人徳)・(愛情)・(聡明)・(法政)・(軍事)・・・・・
「公には、これだけの優れた面を御持ちなのです。」

曹操は流石にテレ笑いしながら言った。
「君の言う事に耐えられる程の徳を、この儂は持っていようか?」
そして
曹操は、側で二人の会見を見守って居た、推薦者の『荀ケ』に、こう伝えた。
孤ヲシテ大業ヲ成サシメル者ハ、
  必ズ此ノ人ナラン
−−(使孤成大業、必此人也。)
又、退出した
郭嘉も、荀ケに告げて言うのだった。
真ニ吾ガ主ナリ  −−(真吾主也。)ーー
出仕するや郭嘉は、直ちに重大な基本方針を進言した。手に入れた新領地に対する統治の大原則を定めたのである。

『新領地に対する支配は、出来得る限り、
其の土地の者に任せるべしよそ者に対する無用な反発を防止し、人心を
慰撫する事が、統治の近道と申せましょう!』

この基本的戦略構想は、以後、曹魏の大躍進の根幹を為す、大功績と成って来ている。爾来、郭嘉が印して来た、「主たる功業」を幾つか振り返ってみれば・・・・
1つは・・・・→三国志上最強の巨神・呂布を追い詰め、遂に捕えて亡ぼした事である。
2つめは・・・・→未だヨタヨタと諸国を渡り歩いていた劉備と云う人物を正確に観察し、早い段階からの警戒心を、曹操に喚起させていた事であった。
3つめは・・・・→官渡戦で袁紹と対峙している時の事。その身動き取れぬ状況を見抜いた呉の孫策が、背後から許都を襲撃して来ると云う情報が伝わり、皆ビクビクして居たが郭嘉だけは、孫策が必ずや刺客の手に掛かって死ぬであろうと観察していた事  4つめは・・・・→同じく官渡戦対峙中、身動き出来まいとタカを括って居た「背後の劉備」を、電光石火に急襲・潰滅させて、再び官渡に立ち戻る・・・・と云う離れ業を演出した事である。これは諸将の反対を抑えて、郭嘉が”袁紹のグズ体質を看破”していてこそ
出来た奇襲作戦であった。
5つめは・・・・→つい最近、袁兄弟を骨肉相い争わせる為、
ワザと一時的に進撃路を南へ向けさせた、
離間の計を献策した事などである。

 つまり・・・・出仕以来、曹操は片時も郭嘉を側から離さず、常に彼の意見を求めては、決断の指針にしていたのである。
かように郭嘉は、『
深ク通ジテ算略有リ、事情ニ達ス』のであり、
ダ奉孝(郭嘉)ノミ ク (私)ノ意ヲ知ルと、曹操をして言わしめていた。
そしてーー1世代若い
郭嘉に、
    後事ヲ託ソウ★★★★★★ト思ッテ居ルのであった・・・・



「−−かの人物は・・・!!
陳羣ちんぐんが真っ赤になって、口辺に泡を飛ばせているのにーー
肝腎な御本尊は・・・鼻糞を丸め、どこ吹く風と大欠伸をして居る。その上、手持ち無沙汰に爪先を磨いている。懐に匂い袋を忍ばせている
郭嘉だが、それでも近づくと酒臭い。

「かの人物は、恥知らずにも、バクチで巻き上げた金を元手に”救済基金”なるものを作り、貧しい兵卒達に金品を分け与える為に、彼等は何時まで経っても倹約する事を覚えず、その日暮らしに現を抜かして居ります。又、紫頭巾なる人物は、女を買い漁る場合にも平気で大金を置いてゆく為に相場が上がり、それが為に若者連中は益々バクチに呑めり込む・・・・と言った悪循環を生んでおるとか。かような風紀の紊乱を見過ごす事は許されぬと、不肖・陳羣は心得まする!!」
アハハハハ、陳羣よ。普通それは風紀の紊乱とは言わず、
”若気の至り”と言うぞ。儂も若い頃は、随分と放蕩の限りを尽くしたもんじゃ。」
曹操は、寧ろ愉しんで居る。
「・・・・殿!笑い事では御座らぬ!!」
その身体に似ぬ、ドデカイ声であった。

「世の風紀の乱れを嘆き、其れを正さんとして布令まで発している我が魏国ではありませぬか!それなのに、その御膝元が此の有様で良いと御考えなのですか!?」

「いや、笑って済まなかった。誠に陳羣、そちの申す通りじゃ!」
「小生は是れ迄、かの人物に幾度となく、非公式に其の不品行の是正を勧告して参りました。にも拘らず、一向に反省する事も無くとうとう堪忍袋の緒も切れ、本日、殿の御前で申し上げておるので御座居ます!」


「−−ウム、わかった。」

《さてさて、御主君は、何んな裁定を下されるやら?》

一同、興味津々・・・・何故なら、曹操が『世俗ニ背ヲ向ケタ生キ方』をしている郭嘉を、こよなく可愛がっているのは皆んな知って居たからであり、 と同時に、『真っ正直』な陳羣を愛でているのも亦、周知の事であったからである。

「−−こりゃ!この席の何処ぞに居る紫頭巾とやら!」

曹操は真向いで半分眠っている郭嘉を、大袈裟に睨んで見せながら言ったものだ。

「儂が此の件を聞き及んだからには、不届きな品行あらば捨て置かぬぞ!今後、同じ様な訴え有らば、頭巾ではなく、その褌を紫に染め抜いて呉れるからな!」

皆、郭嘉が派手な下着をゾロッと愛用しているんを知っていたから思わずプッと吹き出した。そして夏侯惇や荀ケが笑い出した事から一同大笑いに成ってしまった。

「陳羣よ、君の不正を憎む心、誠に以って我が意に叶う。その公正を保持せんとする心根、我が帷幕の宝じゃ!今回の申し様も、大いに気に入ったぞ。これからも遠慮のう、儂に仕えて呉れよ!」

若い陳羣の顔が紅潮している。直立不動で最敬礼する。
             
一方の郭嘉は馬耳東風。あらぬ方向に顔を向けて、一向こたえた風も無い。その性向に於いては、全く対照的な二人では在った。

「此処に居る者達は、全てが我が国に無くてはならぬ、掛け替えも無い重き臣である!以後、そっちの方には心して、益々重責を果たして呉れよ!」

 流石に其処は大人の阿吽。誰も実名を出してはいない。それを好い事に、郭嘉は鼻毛を引き抜くのに余念が無い。丸められた鼻糞が、指先からピッと飛んで、陳羣の背中にへばり付いた。

「では、本日は是にて散会とする。一同、益々心を一にして、夫れ夫れの責務を全うして呉れよ。 又、これ以後は、会議に於いて、かくの如き話題が出ぬ様に心いたそうぞ!」


−−然し・・・・
郭嘉の不品行と人から呼ばれる如く、この後も彼のデカダンスは、死ぬまで治まっていない。仕事は鬼の様に出来るが、個人生活は全く出鱈目な人物・・・・
そんな郭嘉を曹操は愛した。

一方の陳羣も今後ますます直言・進言を行ない、後には「司空」にまで栄進してゆく。

正史は此の事を、次の様に記している。
その以前かみ、陳羣は郭嘉の品行が修まらぬと批判し、たびたび朝廷で郭嘉を起訴したが、 郭嘉は平然として意に介さなかった。太祖は更に一層、彼を尊重したが、然し陳羣をも、よく公正さを保持しているとして、気に入っていた。

まったく”世話”の焼ける連中では在った。



−−処で、”世話”と言えば・・・・ちょうど此の頃・・・・曹操は司馬の【荀ケ】の長男「
荀ツじゅんうん」に、我が娘を嫁がせている。後に「安陽公主こうしゅ」と呼ばれる様になる実の娘である。この婚姻によって、
荀ケじゅんいく】は曹操と親戚・義兄弟と成った事になる
          
−−これは論功行賞の一環では無い。君臣の関係でも無い。
曹操と云う一個の人間が、荀ケと云う一人の人間との〔人としての絆を望んだ〕・・・・と観るべきであろう。何故なら、荀ケと云う人物の方には、曹操に擦り寄るなどと言った心根は芥子粒ほども無く、稀有な迄に清廉で爽快な、透明性に満ちている男だからである。(無論、”名士層全体の心を掴む”と云う背景は無視できないが。)

曹操と荀ケの仲は、特別である。そして、どちらかと謂えば、より曹操の方が
美しい関係を、積極的に築き上げようとしている風に思われる。互いが此の世で巡り会えた事を、心から、無条件に歓び合える存在・・・・そうした関係が生まれつつあった。荀ケも亦、曹操の心情に共鳴しつつ、君臣の立場をよく弁え、決して驕る様な人間では無い。人間としても曹操は、円熟の時を迎えようとしているかの如くである。気力、体力ともに充実しきっていた・・・・。


ーーさて、その曹操幕府は、いよいよ本題に取り掛かった。
《・・・・南征か!北伐か?・・・・である。
    戦略的には、誰の眼にも明らかに
が最重要である。人も物も圧倒的に豊かな土地ーー
荊州支配》こそが覇業には不可欠である。「袁兄弟」が煽動して居るのは、北の涯ての不毛の地に過ぎないのだ。
其の南方では・・・・兄・孫策の跡を継いだ
呉の孫権が、江東・江南の諸勢力を再統合し終えていた。彼はその余勢を駆って西接する「荊州」の地に支配を押し拡げようとするであろう。
 又、荊州には、客将として遇されている
劉備が居る。この
喰わせ者も、腹の底で何を考えているか判ったものではない。もし全軍挙げて北進したら、
手薄になった「許都」の献帝奪取の挙に出るであろう。焚き付けられた劉表が、荊州全軍を派遣するに違い無い。献帝を奪われでもしたら、取り返しの着かない大事である。江夏へ発つ前に、「張遼」も言い置いていった。
そもそも”許”は天下の要です。今、帝が許におわしますのに、
 殿には北に遠征されんとしています。もし劉表が劉備を派遣して 許を襲撃させ、それを根拠に四方に号令をかけますれば、殿の勢力は消滅いたしますぞ!
』 と。ーーかくて、帷幕の錚々たる軍事参謀たちの意見は一致した。
南征し、劉表の荊州を奪う!!』 と決定
・・・・

しかかった時、唯一人、異論を展開した人物が居た。
あの
〔飲む・打つ・買う〕郭嘉その人であった
           
曹公とのは、威勢を天下に鳴り響かせているとは申せ、蛮族は自分達が遠隔の地に居る事を好いことに、必ずや防備を設けて居無いでありましょう。彼等の防備無きに付け込み、突如これを攻撃すれば、撃破して滅ぼす事が出来ます。」
と、先ずは奇襲・急襲を説く。
「それに、亡き袁紹は、人民・蛮人に恩を施しておりまして、その子の袁尚・袁熙兄弟は生存して居るのですぞ。」
 かつて袁紹の下に在って、自ずからが諸策を施す中枢に居たのだから、その地域の人心の動向については誰よりも熟知しており説得力がある。
「曹公は今、青・冀・幽・并の4州の民を、ただ威勢を以って従えて居られるだけで、徳の恵みを施すには至っておりません。」

言いずらい事だが、事実はまさに其の通りである。曹操には治世を施すだけの時間が無いままに来ている。現実を直視した冷静さである。
「それを置いて南征すれば、袁尚は烏丸族の資力を利用し、主君の為に死ぬ決意の臣下を招き寄せます。蛮人がひとたび行動を起こせば、人民や他の蛮族は共に呼応し、それに従って【トウトン】の反抗心を呼び起こし、高望みの計画(業卩への南下)まで
成り立たせてしまいましょう。そうなれば恐らく、青・冀州は、我が陣の領有では無くなるでしょう。」
連鎖反応的な、雪崩現象の可能性をも鋭く指摘して見せる。

一方、幕僚全員が一致して恐れる、南方からの急襲については、次の如くに判断して見せる。

「荊州の【劉表】は、ただ座って論議しているだけの人物に過ぎません。(座談客耳。)自分では客将の劉備を統御するだけの才能の無い事を、弁えて居ります。劉備を重く任用すれば、恐らく自分の手に負えなく成る為、彼の言は採用しないでしょう。逆に軽く任用すれば、劉備は馬鹿らしくて働こうとはしないでしょう。ですから、国を空にし、全軍で北伐いたしましても、曹公には、何ら心配は御座居ません。」

 曹操は、郭嘉の此の論拠を重大視した。再度、熟考・熟慮する価値は充分に有る献策であった。
(※但し、この決断が、正しいものであるか否かは、歴史の結果を知る後世の我々すら、賛否両論の分かれる処と謂える程に、判定判断の難しいものである。)

−−だが、
曹操は、彼一流の直感と戦略眼とで・・・・
                           遂に
決断した!
−−北へ!!》
然も、曹操の雄図は、作戦担当に指名された郭嘉でさえも度肝を抜かれる様な、徹底したものであった。北は北でも・・・中国を突き貫けて、何と、
万里の長城】さえ踏み越えて、北方異民族を平定・帰順させようと謂うものであった!!
袁兄弟を追い詰める形を取りつつも、その実態は北方異民族の制圧・遼東奥地に独立を画策する『公孫度』の討伐・・・・すなわち《華北全体の完全支配》に他ならなかった。
地図上の直線距離でさえも、片道1000キロを超える大遠征を企図していたのである・・・・!! その距離は、東京←→稚内、又は東京←→種子島に匹敵する。実際の往復の道のりならば、日本列島の端から端まで、沖縄〜稚内までにも相当する。



まさに、ハンニバル】も真っ青な、
一大壮図なのであった・・・・!!

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