【
第113節
】
ま ほ ろ ば
「よいか、城外に
長江
を造って置け!」
「−−は??」
咄嗟
とっさ
には意味が解ら無かった。
明けて
206年
(建安11年)正月
の事であった。
父
【
曹操
】
は大軍を率いて、
『
高幹
』
討伐に出陣していった。
長男
【
曹丕
】
は業卩城の守備を任されたが、その折、この父親は途方も無い仕事を我が子に言い付けていったのである。
「
実戦さながらの水軍戦がやれる様な、本物を造るのじゃ。
」
「−−え!?・・・・アッ!!」
流石に曹丕も、覇王の家の子であった。ピンと来た。と同時に、父の脳髄だけの中に在る、壮大な宇宙・野望の一端をチラと垣間見た思いがした。
「任せたぞ。」 事も無げに言い放たれた、その発想の巨大さに、一瞬、度肝を抜かれた様な顔付の我が子に向って、父親・曹操は破顔一笑して見せたものだった。
「ハッ、有難き御下命!必ずや父君の御期待に応えて見せまする!!」
そう答えながらも、父親のスケールの底知れ無さに、改めて舌を巻く曹丕であった。
「まあ、そう鯱チョコ張らずとも良いが、然と頼んだぞ。」
「いえ、張り切りまするとも。こんな痛快な話は聞いた事も見た事も有りませぬ!」
大仕事を与えられた喜びに眼を輝かせて居る長男に向って、父・
曹操は言った。
「ウム、そうか。それで好かろう。」
古来より『
南船北馬
』と謂われ、およそ”水軍”とか”艦隊”とは無縁な此の中原の1角に・・・黄河の更に彼方、業卩城からは
500キロも離れている世界最大の大河を、己の裏庭に持って来てしまおう
・・・と謂うのであった
!!
−−”
北
”に向って”
南
”を忘れず・・・・
【
曹操孟徳
】
と云う器の中には、
此の時期
すでに、
〔
天下統一の大戦略構想
〕がクッキリと
描かれていた・・・・と謂う事である!!
ーー時に【曹操】
51歳
・・・・『諸葛亮孔明』が『劉備玄徳』に出会う丁度
1年前
の事であった。
「さて”
長江
”とは一体、どの様な
佇
たたず
まいなのであろうか?」
河水(黄河)なら識っているが、中原育ちの
曹丕
には
未知の大河であった。
「仲達どのは御存知か?」
その
19歳
の
「
曹丕
」
が最も信頼を寄せている人物と謂えば・・・・ それは・・・・師でも在り、友とも慕う
【
司馬懿仲達
】
に他ならなかった。
(お久し振りに御座居ますナ!)
「当家に出仕いたす以前、あちこちを見聞して
いた砌に、船上人となった事が御座居ます。」
「何でも知って居るなあ! で、河水(黄河)とは何の様に違う?」
「そうですなあ〜、一言で申さば・・・・
《
河
》
は力強く
、《
江
》
は悠久
・・・・とでも言いましょうか。」
「父上は若い頃に、実際に長江を往来したと、同行した叔父貴
(夏侯惇)から聴いている。だから、子供騙しのモノは造れぬ。」
今から16年前、未だ部曲(私兵集団)も碌に揃わぬ曹操(36歳)は〔反董卓連合軍〕に加わったが、酸棗に会同した群雄達は日和見・温存主義で動かず、業を煮やした曹操は一世一代の大パフォーマンスに打って出た。すなわち、己の名を天下に知らしめる為、
必敗覚悟で単独行動を採り、完膚無きまでに叩きのめされたのであった。
所謂
いわゆる
、《
シ卞
べん
水の敗戦
》で、なけなしの部曲は全滅、諸将からは「それ見た事か!」と冷笑される中、一族を引き連れて戦場離脱。その足で、再起を図る為に、傭兵の供給地として精強を謳われていた『丹陽兵』を求めて、長江を渡って”江東”に入ったのである。この16年前の長江の往来こそが、曹操の覇業のスタートと成ったのである。だから父にとっては、長江の流れは胸に痛い程に沁み付いている筈なのだ。好い加減には造れない・・・・。
「江水か・・・・広いだろうなあ〜。余が未知の土地を、旅人となって行った場合の不安を、雑詩にうたってみたよ。」
《
雑詩
》
ーー
曹丕
ーー
西北有浮雲
西北に
浮雲
ふうん
有り
亭亭如車蓋
亭亭
ていてい
として
車蓋
しゃがい
の如し
惜哉時不遇
惜しい
哉
かな
時に
遇
あ
わず
適与飄会
たまたま
飄
ひょう
(一陣の風)と会う
吹我東南行
我を吹きて東南に行かしめ
行行至呉会
行き行きて
呉会
ごかい
に至る
呉会非我郷
呉会は我が
郷
きょう
に
非
あら
ず
安得久留滞
安
いず
くんぞ
久
した
しく
留滞
りゅうたい
するを得ん
棄置勿復陳
棄置
きち
して
復
ま
た
陳
の
ぶること
勿
なか
らん
客子常畏人
客子
かくし
(旅人)は常に人を
畏
おそ
う
「・・・・して、どの地点を見聞して参ったのじゃ?」
「
潁川
えいせん
(許都)より、真っすぐ南へ向いました。」
「と、すると・・・・中流域、やはり
江陵
こうりょう
あたりか?」
当時、旅人や軍隊が南進して長江に出る幹線ルートは、1本だけと言ってよかった。だから曹丕にも見当がつく。
「ハイ、”河水”は暴れ川で氷結もしますが、”江水”には大小無数の湖が附属して氾濫を吸収し、冬でも氷りませぬ。」
「江陵あたりだと、川幅はどの位になる?」
「300メートル、広い所では数百メートルは有りましょうか。」
「父上は、『
此処に長江を造れ!
』と命じられて往かれたが、中原育ちの余には皆目見当も付かぬ・・・。仲達どの、宜しく設計図を
頼む!」
「父君の意図はお解かりですな?」
「たぶん、烏丸討伐が終ったら、いや高幹討伐が済んだらかも
知れないが・・・・呉の【
孫権
】を討つ御積りだと心得るが・・・・。」
「−−実は、私はそこに些か危惧を抱いて居ります。」
「ん、余の見当が外れたかな?」
「いえ、まさに其の通り故、危惧いたします。」
「どう云う事じゃ?四海を見渡しても、我が《魏》に抗する勢力と
しては、《呉》の孫権しか居らぬでは無いのか?」
「確かに・・・・。されど問題は、その時期と方法で御座居ますな。」
「呉との戦さは『水戦』を避けられまい。いや、呉は長江の地の利を活かし、そう持ち込む筈ではないか。 だとすれば、長江の如き大人造湖をつくり、水軍の訓練を致して措く事は、あながち無益でもなかろう?」
19歳に成った曹丕は、だいぶ語り合える様に成長して来た
。
「呉を攻めるにしても、陸路と水上の2つの方法が在りまする。
若君なら、どちらを選ばれますか?」
「そうだな・・・・余なら、やはり南下して荊州を手にし、然る後、
長江を下って呉を討つ!」
「父君も、其のルートを御考えだと思います。呉はさて置き、先ず何が何でも”荊州”で御座る。《荊州》こそは、まさに『天下分け目の最重要地!』。此処を得た者こそ、覇者の資格を有する事と成りましょう。」 「広いからなあ〜・・・・。」
未だこの若者には、その位の認識しか無い。
「その荊州の【
劉表
】の根拠地は”
襄陽
”。長江からはだいぶ北に距離が在りますぞ?」
「うん、荊州を落とすだけなら、水軍はは不要ではあるな。」
「水軍の訓練は、実際に彼の地・長江で、じっくり行なってこそ効果の挙がる事。そんな事は、父君も百も承知だと思いますな。然し尚かつ、此処に巨大な人造湖をつくると云う事は・・・・?」
「−−船は運べぬから・・・・劉表の水軍を、其の儘そっくり頂戴し、 間髪を置かず、一気に呉へ雪崩れ込む!・・・・と云う事であろうかの?何せ、陸路をノロノロ進軍するよりも、時間も費用も体力も、ケタ外れに効率が良いからなあ。」
「然し、だとすると、進撃ルートは敵にも完全に読み取られ、長江だけに注目すればよく、対策が練り易い事となります。その上、我が軍の将兵は水戦どころか船に乗った事すら有りませぬ。水軍は単に兵と輜重を運ぶだけのものとし、戦闘は飽く迄も陸上で行なうべきだと思います。・・・・然るに今、
此の地に水上戦の演習基地を造らせると云う事は
・・・・
父君の念頭には”船戦さ”が御在りに為られると云う事に外なりませぬ。
無敵の地上戦を行なわず、敵の得意な水上戦を採るのは、どうも一抹の不安が付き纏います・・・・」
「では仲達どのは、この任務は不要だと考えて居るのかね?」
「いえ、やはり諸々の意味合で、必要なものとは思います。但し、これだけに拘り過ぎると危うい気がするのも事実です。」
「まあ、父上の事じゃ。全てぬかり無く、実際の時には準備されると思うがねえ・・・・。」
「・・・・そうですな。帷幕には人材も揃って居りますから、私の杞憂だと思います。」
「よし、それでは、実際の差配は全て仲達どのに頼む。基本図面は父上が置いてゆかれたから、具体的な設計や必要になる物を、全て書き出してみて呉れ。」
父から任された初めての本格的な仕事である。どこか浮き浮き
して居る曹丕だった。
「たぶん父上は、余の力量を計る御積りだと思う故、其処は抜かり無く、父上の想っている以上のものに仕上げたいのじゃ!」
「その点は、私も重々解って居りますから、然と御任せあれ。」
「父上は既に、人造湖の名前まで言い置いてゆかれたわ。」
「ほう、何と?」
「−−
玄武
げんぶ
池
・・・・!」
「・・・・成る程、水の軍神・・・・と謂う訳ですな。」
【
玄武
】
とはーー亀の如き、空想上の4大守護神の一つ。
《
水軍の神
》
の意も有る。
業卩
ぎょう
城の西を、南から北へ流れる
『
シ章
しょう
水』を引き込み・・・・対岸も
朧
おぼろ
な巨大人造湖が、1年後には出現する事となる。−−それにしても・・・・と仲達は思う。基礎工事現場で、数千の民を使いながらであった。
《此の世で一体誰が、こんな発想を為し得るだろうか・・・・!?》
確かに古書には、「池を掘らせて水軍の練習をした」と云う話は
有るが、曹操の場合は、長江と同寸大の巨大さである。
「長江を此処へ持って来よ!」であった。思えば、この大プロジェクトには、様々なメリットが考えられる。先ず第一義的には・・・水戦経験の無い将兵らの不安や引け目を払拭し得る。そればかりか、「いずれ我々は南方をも併呑するのだ!」と云う意識を、言わずもがなに全軍に飢え付け、演習を繰り返す事によって、全将兵の士気が鼓舞できる。だが、何よりも重大な点は、そんな小手先だけの利用価値よりもより高度に政治的・戦略的な意味が有る事だ。
『いずれ最後には、100万の大軍を以って長江を攻め下るぞ!』
その強固な意志と自信とを、大っぴらに表明する事により、天下
統一の覇業をおのずと手繰り寄せてしまう効用が期待できるではないか。
つまり・・・・覇道の最後の敵に成るであろう【
呉
】の人心に対して恐怖と不安をジンワリと与えて置き、其の時に〔
反戦派の台頭を来たす
〕為の下地づくり、謂わば人心混乱の情報戦を仕掛ける事に通ずる。「−−待てよ・・・・!?」
そこまで考えた時、仲達は思わず声に出した。
《−−もしやして、曹操と云う男は、〔
壮大な無駄
〕をこそ狙って
居るのでは無いのか!?》 《最も不安な水戦など、実はやりたく無いのだ!いや、そもそも、
呉との決戦など念頭に無い
のだ!!》
光武帝・劉宏
が覇業の最終戦として江東に臨み、そうした様に、『
大軍を以って、戦わずして勝つ
!』道を模索し続けて居るのではあるまいか!?そして、だからこそ本気で”
玄武池
”などと云う、前代未聞の大プロジェクトを立ち上がらせ、実際には使う事の無い、
〔
幻の艦隊
〕
までをも建造させ、莫大な資金と労力を注ぎ込むのだ。
敵が降伏し、
この努力が
〔
壮大な無駄
〕
と為った時こそ実は最高の結末を迎える
・・・・と謂う筋書なのではないのか・・・!
戦い抜く姿勢を全面に押し出しつつも、和戦両睨みで天下を狙う。
「ウ〜ム・・・・底知れぬ男よ・・・・!!」
今更ながらに仲達は唸っていた。
《燃え盛る火の如き野望の裡に在っても、己の頭脳だけは深淵の底の様に冷静で、大局を見失わず、常に未来を見据えて居る男
・・・・それが
【
曹操孟徳
】
の真の姿なのか・・・・》
「−−俺は未だとても事、彼の足元にすら及ばぬ。出仕して以来、次から次へと驚かされてばかり居る・・・・。」
兜を脱ぐ迄もない。現時点での器の大小は比較にすら至らない。
《心酔とまではゆかぬが、どうやら俺は、曹操孟徳と云う人物に
傾倒し始めている様だぞ・・・・。》
野に在って抱いていた曹操像とは、此処のところ大きく変容して
いる
【
司馬懿仲達
】
の心象風景であった。この時
27歳
。
内ハ忌ニシテ外ハ寛。猜忌シテ権変多シ
・・・・と後に評される男だが、「猜忌シテ」とは、この様に自省する性向をも含むであろう。
処が、そんな仲達でさえも気付かぬ遠方で、曹操の覇者の気は、
〔
人知れぬ地味な努力
〕
を生んでいたのである。
中央のド派手な人造湖や賑々しい凱旋、眼を見張る様な華々しい昇進・・・・そう云ったものなどとは全く無縁な、誠に地道で目立たぬ努力を、一地方で営々と築き続ける男が居たのである。
長江下流に対峙する、曹操側の一地点・・・・・今の段階では未だ誰も注目してさえ居ず、版図の圏外とさえ言える ”
荒野の廃城
”での事であった。−−北に向って南を忘れず・・・・天網恢恢、疎にして漏らさず・・・・その廃城とはーー
《
合肥
》
(がっぴ)であり、
その地味で無骨な男とは
【
劉馥
】
(りゅうふく)であった。
此の男の”
燻し銀の物語
”は、今から丁度10年前、未だ「袁術」も「呂布」も生きている時から始まる。
【
劉馥
】
の字は
元穎
げんえい
と言い、
沛
はい
国
相
しょう
県の人であった。初め動乱を避け、揚州(長江北岸)に赴いた。196年、建安年間初めの年、袁術の将軍だった戚寄と秦翊を説き伏せ、軍勢を引き連れて一緒に、許都に在った曹操の元へ鞍替えさせた。この196年は〔献帝奉戴〕を果し、〔屯田〕を開始するなど、曹操がようやく覇道を意識し始めた記念すべき年であったが、曹操は劉馥の遠来を大いに喜び、己の属官(掾)に召し抱えた。やがて黄河の南沿一帯を版図とした曹操は、”
北方
”の「
袁紹との対峙
」を迫られる様に成ってゆくが、その一方で”
南方
”で爆発的に勢力を拡大する「
孫策の動き
」を放置して措く事が出来無かった。袁紹との直接対決が刻々と迫って来る裡、背後から孫策に襲撃される事を危ぶんだのである。折りしも、孫策の任命した「盧江太守の李述」が、揚州刺史の厳象を攻め殺したが、この混乱に乗じて、盧江の豪族であった梅乾・雷緒・陳蘭らが数万の軍勢を擁して長江・淮河一帯(寿春一円)を荒し廻った。この時点では孫策の力は、長江の北岸では「盧江郡」止まりで、その北の「寿春」一帯は未だ其の力が及び切らず、曹操にしてみれば、其処は呉・孫策の北上を阻止する最南端の前哨基地とも言える地域であった。
自身に余力は無いが、其の重要な一帯を是非にも己の支配下に置きたいと願った曹操は、若い時から其処に居た【
劉馥
】に白羽の矢を立て、
(所詮、譜代では無い)
彼を
揚州刺史
に任命した。ちなみに、それまで寿春を居城にしていた袁術は、皇帝を僭称して以後、没落の一途を辿り、終には寿春城に火を放って放浪した為、寿春は事実上、地上から消滅していた。又、アホ袁術の”皇帝ゴッコ”の所為で、付近一円は全くの飢餓無人地帯と化していた。
まあ、それ故に、一種、両者の〔バッファ・ゾーン〕・緩衝地帯とも成っていたとも言えるのだったが・・・・。
そんな、経済的には何う仕様も無い状態の、然し軍事的には重要な『南東方面』の統治を、言ってみれば、劉馥は”押し付けられた”のである。然も、後漢朝に於ける刺史赴任の作法通り、軍兵の配給はゼロのまま、単身で現地に乗り込んで、目標を達成せよ!と宣告されたのであった。
《上手くゆけばメッケモン、駄目で元々。まあ、当てにはして居無いから、好きな様にやって呉れ!》・・・・と云う訳であった。差し詰めタクラマカン砂漠を緑地にして見せろ!と言われたに等しい、目茶苦茶な〔
使い捨て人事
〕と言えよう。
だが、この【
劉馥
】と云う男は、一言の文句も言わず、不服な態度をチラとも見せず、寧ろ胸を張る様な淡々とした佇まいで、単騎、
空き城(廃城)となっていた【
合肥城
】へと出立して往ったのである。爾来、208年(建安13年)の《
赤壁の戦い
》が起きた年に病没する迄、2度と再び曹操の顔を見る事も無く、ただ只管に責務を遂行し続けるのであった。
(※『
演義
』は、
この忠臣を曹操に刺し殺させてしまっている
。無論曹操を矮小化する為である。詳細は後記するが、赤壁に対陣中、有名な〔酒に対して当に歌うべしの詩賦〕を全軍に唱和させた事にするのだが、その折に劉馥に歌詞の1部が不吉であるとにケチをつけさせ、カッと成った曹操が横たえてあった槊で劉馥を刺し殺してしまう・・・・と云う事にしてしまうのである。 ありゃマア!とんだ
”横槊賦詩”ではある。)
尚、『
正史
・
劉馥伝
』はそのクソ真面目な、而して、曹操にとっては感謝しても仕切れない程の”大遺産”を残して逝った男の、燻し銀の如き生き様を、次の様に簡潔に記している。
『
劉馥は任命を受けるや、単身馬に乗って合肥の空き城へ赴き、州庁を設置し、南方の雷緒らを手なずけ、彼等を安定させたので、献上品が相次いで奉られた。数年のうちに、恩恵教化が充分ゆき渡り、人民はその政治を喜び、江や山を越えて身を寄せる流民は5ケタの数に上った。そこで劉馥は、学生達を募り、学問所を建て、屯田を拡大し、芍陂・茄陂・七門・呉塘の諸堤防を築いたり修理したりして稲田を灌漑し、役所も人民も蓄積が出来た。
又、城壁や土塁を高く築き、木や石を厖大に積み上げ、
〔
草莚
〕
は数千
万
枚を編ませ、更に
〔
魚の油
〕
数千石を貯蔵し、戦争の備えとした
。』
(
※
ここに出て来る〔
草莚
くさムシロ
〕とは、雨に弱い土塁・土城を、その崩壊から守る為に、何重にも被せ覆う必須アイテムである。だからこそ巨大な土城を幾度も、全面的に覆うには数千万枚のストックが必要であったのである。又、〔
魚油
〕は、敵の夜襲に備えて、城の内外を昼間の様に照らし出す為のサーチライトの役割を果たすアイテムであった。無論、火攻めにも使用出来る。)
とまれ、この
『
劉馥
りゅうふく
』
と云う男・・・・実に各方面に有能で斬新、実行力に富み、温かく、情熱的、そして最大の任務である軍事面には倦む事の無い徹底さで未来に備える・・・・誠に、一地方長官にして置くのが惜しい程の逸材と謂えよう。いや、それ以上で在る。曹操の小型版、運さえ有れば一国の君主も務まる人物であった。にも拘らず、彼は終生、己の使命を【合肥城の完成】、難攻不落の防衛拠点づくりに懸けたのである。すなわち、合肥城は劉馥の築いた、〔
劉馥城
〕そのものと言える。−−そして、此の
【
合肥城
】
こそは・・・・やがて来たる「魏呉の激突時代」を代表する、曹魏の孫呉に対する、最大最強の防衛拠点として、一躍クローズアップされる”両者必争の要地”
争奪の主戦場と成る
のである・・・・!!
劉馥と云う人物は、その事を曹操以上に深く認識し、キッチリと見抜いて、己の生涯を賭けて、自分が惚れ込んだ曹操の為に尽くしたのである。男同士に於ける〔無骨な片想い〕の結晶・・・それが此の合肥なのであった。
(※3代明帝の233年に、満寵の建策によって築城される
12キロ西の「合肥
新
★
城」とは別のものである。)
−−北に向かいて南を忘れず・・・・
乱に在って治を忘れず、治に在って乱を思う・・・・
ド派手で巨大な
【
玄武池
】
、
そして人知れずコツコツと築かれゆく
【
合肥城
】
・・・・
かくして曹操孟徳の覇業は、リモートコントロールに拠って、
中国大陸の空間を、南北に渡って推し進められてゆくのだった。
さて、
【
高幹
こうかん
】
が立て籠もった
《
壺関
こかん
城
》
・・・・。
「曹操来たる!」の報に、高幹はすぐ動いた。 守将に「夏昭」と「ケ升」の2将を残すと、自ずからは親衛隊だけを連れて城を出た。戦う為では無い。救援して呉れる相手を探しに出掛けたのである。この期に及んで初めて、相手を探しに出掛けるとは、如何にも拙劣である。この一事を観ても、曹操の仕掛けた罠に嵌められた高幹の狼狽ぶりが知れると云うものだ。本人なりには、一応の”当て”が有る心算であったらしい。目的地に向って一直線に駆け通した。・・・・だが、その交渉相手とは、あの『黒山衆』に対してであった。無論、今、自分を攻め立てている「張燕の黒山衆」では無い。それに属さぬ小さなグループの長に対してである。
「ウン、引き受けた!」と言う筈も無い。それ処か、逆に捕えられ
そうになって、命辛々、僅か数騎と成り涯てて、南へ南へと逃走
するしか無かったのである。北に居る「袁尚・袁熙兄弟」は遠過ぎた。城へも戻れぬ。一時は袁3兄弟に比肩された甥の「高幹」は、死に場所さえ失ったのである・・・・。
その後、荊州に入ってすぐ、王
王炎
と云う者に見破られ、
【
高幹
】
は其の場で斬り殺されて涯てた。享年不明の儘である。
然し、総大将不在の
《
壺関城
》
そのものは強かった。後世、
『
高幹の乱
』
などと謂われるが、実態は本人抜きの籠城戦なのであった。−−その敵城に対する、曹操の攻撃意志が明らかにされた。そして其れは、城の内外・敵と味方の双方に告知された。
『
城内の敵は、一人残さず生き埋めにする
!』
正式な軍命令として出されたからには、最早、城内の将兵には「生」の可能性は無くなった。有るのは「死」のみ・・・・!!
途端に、城内の団結力が高まってしまった。
《どうせ死ぬなら、やるだけはやってやる!》
《
徒
ただ
で死んで成るものか!せめて華々しく、武人らしく戦って、
袁家遺臣の意地を見せてやるぞ!》
曹操の布告は、火に油を注ぐ事に成るのだが、曹操には曹操なりの思惑が在っての下命だった。1つは《こんな小城の1つや2つ、我が軍の恐ろしさを見せ付けるには丁度好い》・・・・と謂う、
反曹操勢力への
”
見せしめ
”、”
警告
”であった。 もう1つは、『
新兵器
の威力を確認する』為の、”
演習意図
”であった。
壺関城は業卩城から僅か100キロである。大型攻城兵器を分解・運搬するのに支障は無い。科学未発達な2000年前としては、脅威的な最新攻城ウエポンの実験台・練習舞台である。
その最大の威力を誇るのは・・・・
【
霹靂
へきれき
車
】
−−曹操自身による発明で、8年前、袁紹との戦いの時、その姿を初めて現わした。この時は攻城用では無く、逆に防城の為に大砲代りに使用した。其れを今回は、城攻めに使ってみようとした訳である。基本的原理は、遠心力とテコを組み合わせた物で、巨石を撃ち出す。テコの支点の位置を調節すれば、落下地点を或る程度は選択できる様になっている。空から巨石が降って来るのだから、敵は雷に打たれた如くに怖れ慄いた。
所謂、《
発石車
》である。あれ以来、改良に改良を重ね、今では飛距離(最大射程)も300メートルを超える。巨石の重量も格段に飛躍している。其れが何と、20基!ズラリと城の前面に出現したのだ。そのうち5基は複式発射腕を装着し、1度に2発撃てる物すらあった。
「放て〜!」
いよいよ曹操自ずから陣頭指揮しての斉射である。 轟音と共に城壁が砕け散る。それ迄、城壁の上から囃し立てて居た将兵が、蜘蛛の子を散らす如くに消え去った。1回だけの射撃では無い。
「2番隊、放て〜!」
「3番隊、放て〜!」
「4番隊、放て〜!」
・・・・・と、5基ずつの連射である。破砕効率を高めるよう、あらかじめ目標座標を集中してある。立て続けに巨石がブチ当った城壁の一部が、見る見る砕け飛んでいく。
半日の攻撃で、城壁は至る所で見るも無残に崩れ落ち、大穴さえ開いている。たっぷり日数さえ掛ければ、城壁の一角を完全に崩せるであろう・・・・だが曹操は、そうしなかった。翌日は射程を最大にして、目標を城内に変えたのである。演習であった。今度は態と目標地点を各個に任せたので城内は大音響と悲鳴に包まれた。然し敵もやがて、城壁にへばり付く事で、これを凌ぐ方策を探し当てる。ーー「1000基、いや2000基なければ駄目だな。これでは精々、虚仮脅しにしか使えぬわ・・・・。」
この発石車は、低い位置に在る城門への攻撃には適さない。それ程の命中精度は期待できないのだ。
そこで、城門破壊用の兵器が登場する。
【
衝車
しょうしゃ
】
−−常に攻勢を旨としていた、亡き袁紹陣営の発明であろうか?少なくとも現在、実戦配備しているのは曹操軍だけで
あろう。・・・・巨大な丸太をペンシル状に削り、先端部分を鉄製のカバーで覆い4輪車両に固定し、坂道の傾斜を利用して、その衝突力で城門を破壊しようとする物である。但し城門上からの、敵の妨害・反撃があると、事はスムースには運ばない。 今回も当然、城門の上に巨岩を並べて、近づいたら落とそうと、敵は待ち構えている。又、操作要員を狙撃しようと、弩弓手達も、手薬煉しいて待ち受けていた。これら城壁上の邪魔者を取り除かねば、衝車は其の有効性を減殺されてしまう。そこで登場するのが・・・・
【
雲梯
うんてい
車
】
−−最上部に箱型の部屋を持つ、タワー状ハシゴ車である。単に引っ掛ける簡単なハシゴだと、登る間は無防備状態に晒されるし、鈴生りに成った処を外され、落下死させられる場合も有る。そのリスクを払拭し、より安全確実に、城壁上の敵を排除する為に考案された。是れには2種類あり、1つは・・・・箱部屋(ボックス)部分の前面を開けておいて、弓矢を射込む式の物。城壁の高さより高い位置から城兵を狙える。もう1つは・・・・上陸用舟艇の如くに、前面が可倒式になっており、城壁上へ直接躍り込む方式の物である。
【
霹靂車
へきれきしゃ
】
・
【
衝車
しょうしゃ
】
・
【
雲梯車
うんていしゃ
】
−−この3種が、最強の城攻め用大型兵器である。
この当時、『
孫子の兵法
』にかけては曹操の右に出る者は無い。力攻めに拠る攻城戦の愚かさは、誰よりも熟知している。「孫子」も城攻めは下策としている。野戦の10倍の損耗が予想される故である。だが、曹操の今後の戦いの多くは、「城攻め」になるであろう。ここまで巨大化した曹操軍団に対して、本気で野戦に挑もうとする者は皆無であろう。みな、城へ立て籠もるに決まっている。
そうだとすれば、如何に出血を少なくして城を落とす事が出来るかが深刻な課題となる。新兵器の威力の確認は、決して気楽な演習では無かったのだ。そして3種の新兵器を同時に使ってみて判った事は・・・・・是れらは、莫大な量を投入しなければ、
決定打には成り得無い!
と云う事であった。更に其の先の結論として得た教訓は最終的には矢張り、『
人と人との、直接の殺し合い以外には、終戦は在り得ない
』と、謂う事であった。詰まる処、いくら新兵器を投入してみても、『
孫子の兵法原理
』を覆す迄の科学力では無かったのである。 いずれ曹操は、大量生産大量保有を実現するであろうが、現段階では未だ、とても其れ迄には至っていない。かと言って、覇業の道程は之からが本番であり、今後に想定される数多の遠征を想うと、曹操としては、こんな所で兵力を消耗したくはない。ーー1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月・・・・と、徒らに時間だけが過ぎてゆく。城内には兵糧も豊かで、その上、決死の覚悟が出来てしまっており、頗る士気も高い。
《チト、甘く見過ぎたか・・・・。》
百戦錬磨の曹操には、敵の士気を削ぐ手は解っている。
《面子に拘る事もないか・・・・。》
最初に出した「殲滅の布令」を取り消せば良いだけの話である。然し、朝令暮改と成る事も好ましくない。
《・・・・ったく、気の効いた奴は居らんのか?》
待ち草臥れた頃、やっと、従弟の
【
曹仁
】
が出て来た。曹仁の言わんとする中味は、聞く迄もなく判って居た曹操だが、彼の進言を聴き入れて採用した形を取って見せた。
「
城を包囲した場合には、必ず生きる為の出口を示してやるものです。と申しますのは、彼等に生存の道を開いてやる為です。処が今、公は彼等に必殺を布告して居られます故、将兵に自分から進んで守りに就いているのです。その上、城壁は堅固で食糧は豊富に在りますから、攻撃すれば我が方の士卒を傷付ける事になり、包囲を続ければ、更に長い日数を掛ける事になります。今、堅固な城壁の下で軍兵を据え置き、必死の敵軍を攻撃するのは、良策ではありません
!」
曹操は大仰に称讃して見せた。こうでもしなければ、何時まで経っても、将軍達の独創性が育たない?
その結果、主なき
《
壺関城
》
は、善戦し・・・・そして降伏した。
足掛け4ヶ月を要し、時は3月半ばになっていた。
−−かくて曹操は、この206年の前半をもって『
并
へい
州』も平定した。
これで、
「
兌
えん
州
」・「
冀
き
州
」・「
徐州
」・「
并
へい
州
」
を確保、
「
青州
」・「
幽州
」
もほぼ支配、
「
司州
」・「
豫州
」
の一部も勢力圏に入る。中国全13州のうち、半数以上を手に入れた事になる。特に
『
中原諸州
』
は、ほぼ完全に押さえた。物凄い急発展・急膨張である!!・・・・だが、どの州も面積が小さい。面積から観れば、未だ未だである。行政区画はおのずから、人口の密集する国の中央付近に細かくなる。中国全土から観れば、曹操が今獲得した版図は、たったの
5分の1
にも及んでいないのである。
中国大陸の
懐
ふところ
は、途方も無く深く、そして広大無辺である。曹操の戦いも亦、未だ涯てし無く続く・・・・そして
曹操は、本拠地「業卩城」へ帰還した。
直後、この男は、誰しも考え付かぬ手を見せた。《遠大な野望》を胸に抱く者だけにしか出来ぬ、思い切った用兵である。
「頼む!
江夏
こうか
へ征って来て呉れ!」
ここ業卩城から長江
(江夏)
迄は南へ700キロは有ろう。往復なら1500キロである
曹操が頭を下げて頼んだ相手は、盪寇将軍・
【
張遼
】
であった。
いずれ敢行されるであろう《呉国征服の大作戦》ーーその下準備として、「荊州」深く軍を進め、”威力偵察”をして来い!との指令である。それも『出来得る限り戦闘を避けて』との条件付きであった。
「連戦し、遠征で疲れているのは充分承知しているが、
此処は一つ是非に頼む。」
「畏れ多い御言葉に御座居まする。」
「この任務は非常に重大である。それ故、知力、胆力、人格ともに我が軍中随一の貴公をおいて他には頼めぬのじゃ。」
”
西
”
の「
超国
」・「
常山郡
」での平定戦・・・・→
”
東
”
の「
南皮城
」・袁譚討伐・・・・→
海岸線を
”
北
上”
して「
遼東沿岸
」の賊徒討伐・・・・曹操本軍の主力に成ったかと思えば、休む間も無く、別働軍と成っての東奔西走・・・・そして又々、今度は
”
南
”
の「
江夏
」遠征・・・・
たった1年間に
【
張遼
】が各地を転戦した距離の合計は、裕に
1万キロを超える
であろう
!!
・・・・だが、信頼されて気分の悪い者など居無い。口先だけでは無く、曹操が自分を将軍bPと観て居て呉れる事は、誰よりも張遼自身が肌に感じている。
「必ずや御期待に応えまする。」
「では、これから仔細について話す故、よっく余の意を呑み込んで行って欲しい。」
「心得まして御座居ます。」−−それは、《天下統一》と云う覇業の盤面・・・その奥深くにピシリと布石の一打をうち込むものであった
将来、『魏』が総力挙げて『呉』に攻め入る為の、進撃路の実地踏査と其の確保・・・・詰り、進軍路周辺の諸豪族の慰撫が主要な任務となる。戦闘そのものよりも難しい任務と言ってよい。何故なら、何時になるか判らぬ大作戦の其の日迄、信義を守り続けて呉れる確約を取り付けながらの遠征となる。単に強いだけの将であってはならぬ。歴戦の実績は勿論だが、寧ろ其の人柄が、敵にさえも感服される様な、信義に厚い高潔な人格者である事が必須条件となる・・・・矢張、【
張遼
】しか居無いであろう。この任務に夏侯惇などの血族を当てては、利害が生々し過ぎて、却って反発を買う恐れが在る。然も『年内には必ず帰還せよ!』と云う時間制限まで付いていた。
「頼りにしておるぞ!!」
本心である。
ーー1ヶ月の準備期間を経て、張遼は遙か南の荊州・〔江夏〕を目指して長征の途についた。但し、これ以後の張遼の足取りは、『正史』に記述されていない。推測するしかないが、恐らく、本軍の征く本命ルートではなく、「
大越山脈
」の谷あいを潜り抜ける、別働軍用の山岳コースを下調べしたと想われる。何故なら、張遼部隊が派手に戦闘したと言う記述は皆無だからである。
【
張遼
】
は実戦での勇猛さも超一級品であるが、こうした地味で
”腹芸”を必要とする任務を美事にやって退ける。曹操にとっては誠に頼もしい部下で在り続ける。
この頃、曹操の帷幕は、久し振りにホッと一息入れる状況に成っていた。とは言え、業卩城の直ぐ西では大工事が進行中である。
『
玄武池
』
の大
開鑿
かいさく
が、連日連夜に渡って続けられていた。
−−
漢の武帝を超えるのだ!!
−−が、合言葉となっていた。
かつて、長安城の西に
「
昆明
こんめい
池
」
を掘らせ、”南越”平定戦に
備えた
武帝
を見習い、【呉国との水軍戦】を想定して居る曹操であった。その工事を命ぜられた「
曹丕
」は、昆明池を遙かに凌ぐ、大人造湖を完成させようと懸命であった。
「ようやっておるの!」
ひょっこり曹操が現場に顔を出す。
「武皇帝の偉業を超えたものを造って御覧に入れまする!」
久し振りに親子水入らずになると、思わず力んでしまう曹丕であった。だが、わざわざ労いの言葉を掛けに来て呉れた父に対して、曹丕は嬉しくて堪らない。
「そのうち、お前にも一軍を任せよう。」
「ハッ、有難う御座居ます!御期待に沿えるよう、
鋭意、精進致しまする!」
「うん。処で何うじゃ?”
叡
”は健やかに育っておるか?」
「あ、はい。お陰様で丸々と太って、至って元気で御座居ます。」
「せいぜい可愛がってやれよ。子も多く成すんじゃぞ。男児は多いほど好い。」
他愛も無い会話であったが、曹丕には何よりの励みとなった。
一方、重臣達も、連日の如くに小グループでの自主会議に余念が無かった。話題は専ら、
次の攻略目標の決定
・・・・其れに向けての検討である。各自が己の見解に沿って、作戦計画書を作り上げていく。曹操の下問が有ってからでは役に立たないのが通例であった。
大別すれば2案である。
−−北か南か・・・・!?
更に其の2案も、進攻ルートに拠って4つと成り、8つとも成る。
互いの案を擦り合わせ、情報交換が行なわれ、修正・加筆が
積み重ねられてゆく・・・・。
そんな或る日、久々に、全員が一同に顔を会わせる
「
統合重臣会議
」が持たれた。
未だ曹操からの正式な指示も無い、定例の会議であった。
処がここで、一同が口あんぐりの、トンデモナイ
爆弾発言
が飛び出したのである
!!
【第114節】
「飲む・打つ・買う」 のデカダンス軍師 →へ