
−−さて、此の処、頻りに出て来る様になった
《・・・・皮肉な事に成ってしもうたワイ・・・・。》



《烏丸の歴史》
永平年間 (AD58〜75年)になって、漁陽の烏丸の大人の欽志賁が部族を糾合して中国の命令を聞かなくなり、鮮卑も再び中国への侵攻を始めた。遼東太守の祭月彡は懸賞を出して欽志賁を暗殺させ、その混乱に乗じて一味を撃ち破った。
〔其の2〕・・・・『正史・三国志』(一部後漢書で補填)より

・・・・→→【荀攸】を《陵樹亭侯》に封ず。
・・・・→→【于禁】は《虎威将軍》に、
・・・・→→【楽進】は《折衝将軍》に昇進せしむ。
・・・→→【張遼】は《盪寇将軍》に2段階昇進せしむ。
「正史」は曹魏の手前、高幹の方から反乱を起こしたかの如く記すが・・・・どう考えても、そんな事は在り得無い。選りに選って、袁氏一族が全て平らげられた後の今の段階で、高幹は態々、孤立無援な自殺行為を選ぶ筈が無い。つまり、曹操はニセ情報を流し、高幹を”引っ掛けた”のである。譜代の将・婁圭さえ信用しなかったのだ。何で袁氏の血筋を残して置こうか。まして、并州は業卩城の直ぐ背後に在る。今後、南北いずれに大遠征を敢行するにしても、気が気でない存在と成り、この儘では思い切った全軍遠征に出発出来無い。