【第110節】
「おお、孫じゃ孫じゃ。初孫じゃ!でかしたぞ、曹丕!甄洛よ!
おお、おお、可愛ゆいのう〜。どれ、儂にもダッコさせてみよ。」
其処には、あの乱世の英雄、姦雄曹操は居無かった。
初孫に愛うしく頬擦りし、ぎこちなくダッコしてはあやす、一人の好々爺が居るだけであった。
己と血の繋がった3世代目の小さな命・・・・
曹操孟徳は個人的には、肉親への情愛の濃い君主であった。
「えい、と名付けました。」 と、曹丕。
「どの〔えい〕ぞ?」 「さとし、かしこしの〔叡〕です。」
「天子の事に言う〔叡〕でもありますわ。」
【曹操】・【曹丕】・【甄洛】・・・・3人の視線は互いを見合う事無く、夫れ夫れに、此の場の主役・【叡】の笑顔に注がれ、
ホレホレとあやしながらの会話である。
「ほう〜〔叡〕か!よい名を付けて貰ったなア〜。え、ホレ叡坊。」
「坊やのお父様の名だって、”おおいなり”・・・・丕子・・・・天子の第一皇子様ですものねエ〜。」
「では父君には、やはり《天子》に成って戴かなくてはのう、叡!」
「お〜ホレホレ、叡坊が大きく成った頃には、天下は我が曹家のものと成っているかなア〜??」
曹操は言いながら、また小さなホッペにチュウをする。が、曹丕の頬はピクと攣った。”曹家”とだけ言い、”叡のもの”とは言わ無かったのである。−−詰り、父・曹操の腹積もりでは後継者は『曹丕』では無く、神童・『曹沖』に継がせるーーと謂う事である・・・・と、それを察したかの様に曹操は言った。
「これで我が曹家も末永く安泰じゃ。曹丕も益々張り合いと言う
もんじゃな。儂も孫の為に、未だ未だ働かなくてはの!」
甄洛の、美事に張った乳房の中に、孫を恐々返しながら
曹操は言った。
「甄洛よ、身体を厭えよ。」
「その御言葉、心から嬉しゅう御座居ます。」
「うんうん、時々、叡を見に来ようぞ。」
心底、初孫が可愛くて堪らぬ風である。そして母子をつくづく
眺め比べて言う。
「それにしても叡坊は母親似じゃな。将来、女子泣かせに成りそうだの!」
「おジイ様の血を継ぐからには、間違い無いでしょうな。」
「−−ん?手の早いのは、お父様の血ではないのかア??」
「あっ、こいつは一本・・・・!」
ワハハハハ・・・・と、曹操が必要以上に大きな声で、乾いた笑いを振り撒いた。
−−と、筆者は書いてみたが・・・・・
実は・・・・この《曹叡の出生》−−ひいては・・・・
『甄洛の身籠りの相手』については、重大かつ不可解な、大きな疑問・秘密が潜んでいるのである!!
ズバリ言おう。
《曹叡の父親は誰なのか・・・・?
判ら無いのだ!!》
−−ええ?まさかア!! と思われるだろうが、正史を丹念に辿ると、この大問題が浮かび上がって来てしまうのである
・・・・どう謂う事か・・・・??
−−それは、のちに【明帝】と成る『曹叡』の年齢を逆算していくと生じてしまう 《大きな謎》 と成って、2000年後に在る、現代の我々の前に立ち現われて来るのである・・・・!
陳寿の『正史・三国志明帝紀』には、こう記述が有る。
『景初三年春正月丁亥の日・・・・その日、明帝は嘉福殿において崩御した。時に三十六歳であった』ーーこれに対し、最初に疑念を表明したのが、かの【裴松之】であった。
『曹操が建安九年八月に業卩を平定した時に、曹丕が甄氏を初めて納れたのだから、曹叡は建安十年に生まれた筈であり、この年の正月までを計算すると、ちょうど34歳に成る筈である。当時暦が改定されて、前年の12月を其の年の正月としているから、無理に数えると35歳と言う事は出来るが、36歳にはならない。』
整理してみよう。
−−明帝(曹叡)は、239年1月1日に死去。享年は36歳
・・・・と正史は記す。但し、改暦が行なわれているので、
実質の死亡年は238年である。
逆算して曹叡の生まれた年を求めると・・・・
238(年)マイナス36(歳)=204(年)となる。
この204年は建安9年であり、曹丕が甄氏を略奪した
(業卩城陥落の)年に当たる。
ちなみに業卩城の陥落は同年の8月であった。従って、曹丕が直ぐに仕込んだとしても・・・・十月十日を要すれば→→→曹叡の誕生日は、どうしたって(204年では無く)翌年205年
・・・・となる筈である!
−−これを何う説明する!?最も安直な説明としては、陳寿が正史に記した明帝・(曹叡)の享年が間違っているのだ・・・・とする誤記説である。だが、正史の、しかも皇帝の年齢を誤る位なら史書を著す資格は無いし、処刑ものである。この仮説は120パーセント無い。
次に考えられるのは・・・・曹丕が甄氏を略奪した時、彼女は
既に妊娠しており、大きな腹を抱えて居た場合である。もしくは生まれたばかりの赤ン坊(叡?)を連れて居た場合である。当然、父親は、甄氏の夫であった袁熙である事となる。
(少なくとも袁一族)
だがまさか曹丕は、いくら絶世の美女とは謂え、宿敵が孕ませた妊婦や、コブ付きの女を自分の正妻には迎えまい。第一、曹操を筆頭に、周囲が許す訳が無い。
−−結局、判らない・・・・・。当の陳寿も苦悩した様で、『宮省の事は秘で、その由来する処を知る者が無い』と、筆を濁している。従ってーー現代も尚、その真実は、
歴史の暗闇の中に埋もれた儘
なのである。但し、ひとつ確実な事が謂える。ーーそれは・・・・
この曹丕の略奪結婚、ひいては其の子である〔叡〕と名付けられた男児の出生は、決して天から祝福されたものでは無かったと云う事である。いかに戦乱の世とは言え、土台、人様の妻・況してや、正式な夫が未だ生きて居る宿敵の妻を奪い娶ること自体、(あの孔融が指弾した如く)不倫・不健全の極みである。いずれにせよ、何等かのおぞましい、口が裂けても言えぬ【公然の秘密】が、その最初から内包され、曹一族によって隠蔽され続けていた事になる。
それにしても、事は重大である。
この曹叡は、こののち《魏の明帝》として、三国最大の王朝に君臨する人物なのである。だから、絶対、その出生に関しては『曹一族直結の血』が流れていなければならない。もし、
敵が孕ませた児であれば、即刻殺害されている筈である。
では曹丕でなければ、一体、誰が、
その父親なのであろうか・・・・?
一番くさいのは、やはり曹操である。だが然し出生の時期が204年であれば、いかに曹操とは雖ども、業卩城包囲戦の最中に敵城に乗り込んで、甄氏を孕ませる事は出来まい。・・・・だとすれば甄氏は自分の児など産んでおらず、ひょっとすると
ーーたまたま此処の時期、曹一族内の
〔近親相姦によって生まれてしまった児〕を、
甄氏の子として押し付けられたのではないか
・・・・とまで勘ぐりたくなる。 就中不可解なのは、曹一族が、
”宿敵の妻であった女”を、挙げて正妻としてスンナリと迎え容れている点である。普通なら「側室」で一向に構わないのに敢えて『正妻』として、寧ろ好意的に接している趣さえ有る。ーーそれは何故か?
彼女は矢張り、やんごとなき人物の子を産んだ・・・・からに外ならぬからに違い無い。ーーだとすれば、その相手はもう明らかである。誰一人として文句の言えない人物・・・・となれば・・・・そう、曹操孟徳その人以外には在り得無い。考えてみればもともと絶世の美女・甄氏に舌なめずりして居たのは曹操であった。それを曹丕が掠め取ってしまったのだ。だから曹操にしてみれば尚更、情念に捕われ、己に優先権が有るとして、無理矢理手を着け、それを曹丕に下げ渡すと云う、強引な事をやって退けたーーそう想像してみると合点がゆく風景が浮かんで来る。
ひとつは・・・・曹操が没した途端に、
曹丕が甄夫人を惨殺した事件。
もう1つは、弟の曹植が半ば公然と、甄氏に横恋慕し得た背景にも納得がゆく?
詰り、正史の著者「陳寿」先生は敢えて誤記を承知で、明帝・曹叡の享年を36歳と云う書き方をしたのである!!・・・・と筆者は確信している。
陳寿先生が仕える晋王朝は、魏王朝を受け継いだものとされていたから、その魏の武帝である曹操や明帝・曹叡のスキャンダルを記す事は憚かられる。苦肉の策として一方では晋・魏王朝の面子を立てながら、その一方では此の真実を後世に伝えんとして、専門家なら気付いて呉れるであろう誤謬的手法を採った・・・のに違い無い。その狙い通り、約150年後の南宋時代に、裴松之が『三国志注』の中で、その矛盾に気付いて呉れるのである・・・・
ま、「宮中の秘」を暴く事などせず、あくまで陳寿の誤記であるとして置くのが一番平和的?な態度であろうか・・・・・
ともあれ、この絶世の美女・甄氏と曹操・曹丕父子の関係は、今後さらに大論争が起きても不可しく無い、大きな謎を置き残した儘なのであり、三国志ファンなら誰でも、
この謎を解いてみる楽しみが持てる次第なのである・・・・・。
−−ところで、『英雄、色を好む』・・・・とは、
古来より言い慣わされて来た言葉である。
然しまあ、一夫多妻制度の下での事だからして、或る意味では当然の事ではある。・・・ではあるのだが、兎角、三国志世界に於いては、その筆頭に『曹操』の名が挙げられる。すなわち、〔曹操は一番の女好き!〕・・・・と謂うのが通り相場である。だが果たして、そうだと言い切れるのか?いずれ夫れ夫れの君主について、その女性関係の問題には触れてゆくが、大雑把に言えば、「皆んな結構なモノ揃い!」なのである。
そうは言いつつ、此処ではこの際、
《曹操の私生活》、特に【女性関係】を
重点的に覗いてみて措こう。
ええとアクセス、アクセス・・・・曹操・妻妾の項と・・・
「−−ワッ!!ほえ〜!凄ゲエ数だ。
まさに、《英雄、色を好む》だわな!」
ええと、1、2、3、4,5、6、7、8、9、10・・・・
〈み〜んな、超美人ばっかし!〉
11、12、13、14、15、16、17、18、19、20・・・・
〈なんか段々みじめに成って来るから、もう数えるの、止〜めた!ととと・・・・全員はとても無理だが、気を取り直してーー
曹操の男児を生んだ女性は意外に少なくて13人か・・・・
うち、【夫人】は、
「丁」・「卞」・「劉」・「環」・「杜」・「秦」・「尹」の7人、
【昭儀】は「王」1人だけか。
官位の無い地位の低い【姫】は6人ーー
「孫」・「李」・「周」・「劉」・「宋」・「趙」・・・・で合計13人
・・・なになに、女児は”子”とは記さず単に〔女〕で、数に加え無いのか。じゃあ女児を百人産んでも『子は無い』って事だ。基本的には此の時代、女性には《人権》なんてモノは無かったと謂う訳だ
さて、”女だけの城”に関しては・・・・先ず、
何と言っても【正妻】の座に在る(在った)のは誰かーーが最大のポイント。これは単に、その女性が「女人界」のトップに君臨すると言うに留まらず、曹操の後継者、つまり次代の王は誰かと云う、曹一族と周辺重臣たち最大の関心事と直結する。
微妙、かつ超重大な事案でもある。
正室ーー『丁氏』・・・名は「玉英」と言ったらしい。
夫・曹操が未だメジャーになる前からの”正妻”であった。然し
2人の間には、子宝が授からなかった。その頃、側室(妾)の「劉夫人」が、曹家の嫡男となる男児をもうけた。
『曹昂』(子脩)である。が、彼女は、次に女児(清河長公主)を産んで直ぐ、他界してしまった。
そこで丁氏(玉英)は、曹昂を引き取り、我が子として養育した。
丁夫人の曹昂に対する愛情の注ぎ方は、並外れて深く、やがて曹昂も丁夫人を実の母として、心から慕った。この母子の関係は傍目から見ると、度を越すと言える程に、慈愛に満ち、濃いものであった。ーー実は・・・この異常とも言える丁夫人の愛は、裏返すと、夫・曹操との関係が冷却していた証拠に違い無かった。
当時の曹操は、一族の生き残りを賭けて闘いに明け暮れ、家庭や夫婦間の事を顧みる裕りが無かったと言える。その上、(どうやら)丁夫人は気位の高い妻だったらしい。その実家が、当時の曹家よりは上位にある実力者の家柄だった故である。愛情は有るが頭が上がらない。ともすると我々は、曹操と言えば、無理矢理にでも女を押し倒して”事を為す”如きイメージを抱きがちなのだが、事実は然に非ず。この最初の正妻に対しては、実にジェントルマンであり続けた。寧ろ”いじらしい”程に純情でさえ在った。
だから、疲れ果てて偶に帰宅しても、すんなりリラックスした状態で愛情を表現し得無い。また、戦闘と公務に忙殺され、心身ともに疲れ果てて居れば、優しい言葉の一つも掛けられ無い場面が度重なったであろう。
〈私の事なんて、どうでもいいのね・・・・。〉
そんな状態が何度か繰り返される裡に、どこか気不味い空気が夫婦間に生じてゆき、ついには足が遠のき始める。”奥”には、
もっと気兼ねなく接せれれる女達は幾らでも居た・・・・。
〈いいわよ、私には曹昂が居るんだから・・・・。〉
やがて夫婦間は冷え切っていった。そんな男女の溝を決定的にする事件が起こった。
−−《曹昂の戦死》である。然も、曹操の身代わりと成って死んだのであった。その上、丁夫人を逆上させたのは、事も有ろうに曹操は、略奪した人妻(鄒氏)を抱いて居る処を襲撃されたのだ。(※第20節にて詳述)曹昂は逃げる途中、動けなくなった父の馬を見て、己の馬を父に差し出したのである。みずから命を捨てて曹操を脱出させたのであった。(曹操が奪い取った可能性も大きいが)既に一人前の男として自立していた曹昂にとって、生死の極限状況での咄嗟の判断は、己の命より父の命の重大さであった。一個人としての母親への愛より、一族にとっての総帥たる父への尊崇を選んだのであろう。
(※親は子を産めるが、子は親を産めないから、親の方が大事
・・・・とする妙な社会倫理観も存在していた。)
然し、丁夫人の眼には、そうは映らない。我が子を見殺しにして、己だけが助かった非情な夫、冷酷な男・・・・
〈やっぱり、そう云う人間だったのだわ。〉愛の全てと望みの全てを注いで来た我が子が、此の世から居無くなった。いや、夫によって奪い去られたとしか言い様の無い深い怨みと悲しみ・・・・もはや夫婦とは言い難い、無残な結末を迎えようとしていた。
顔を合わせる度に、妻は節度も無い程に号泣し、夫を面罵した。
−−將我兒殺之、念都不復念ーー
「私の子を殺したのはアナタです!私の大事な子を殺して
おきながら、平気な顔をして居らっしゃる!!」
会話は成立しない。度重なると、夫婦間は冷え切る。その上、丁夫人は自分からサッサと実家に帰ってしまった。だが曹操とて、人の子であり、人の子の親である。一族の為であるとは謂え、己の来し方に忸怩たる思いは在った・・・・。
冷却期間を置いた後、《錫以環王夬》を為した。
『環』とは、輪に成った首飾り→→”還る”を意味する。
『王夬』とは、一ヶ所だけ玉の欠けた首飾り→→”訣れ”を意味する。『錫』は”賜え”の意である。・・・・つまり、「環」と「王夬」の2種類の首飾りを送り・・・・元に戻る事を意味する「環」か?訣別を意味する「王夬」か?どちらかを選んで送って寄こし賜え・・・と問わせたのである。然し、もはや彼女は、夫・曹操の如何なる行為をも一切無視したのである。
〈今さら何よ・・・・!〉”子を産めぬ身”である事は悟って居たであろうから、自分が正妻の座に在り続ける事の不可能を熟知していたに違い無い。それに何と言っても、互いを尊認し合うと云う夫婦の基盤自体が最初から齟齬を来たしていた。此の世で最も多忙な男の妻で在り続ける虚ろさ、情愛も通わぬ実態の無い正妻の空しさ・・・・それを唯一支えて居た愛息の死・・・・その余りに表面的な夫婦関係・・・・ほとほと耐え切れぬ限界で有ったのであろう。
「丁玉英」は、この時代の女性としては珍しく、己の感情を
包み隠して居無い。唯々諾々と男に従う世間一般の女性とは異なっていた様だ。単なる依怙地では無い様に思われる。”女”である前に、”人間”としての自分を、無言の裡に主張している。
時代の制約には無頓着な曹操も、夫として、一人の男性として時代の常識を超えた、そんな彼女の何ものかに、どこか惹かれるものが残って居たのであろう・・・・無視に対しても立腹せず、
逆にわざわざ、彼女の里に足を運んだのである。
その場面を、『魏略』は、しっとりとしたタッチで次の如くに
描いている。
−−その時、丁夫人は独り機を織って居た。
「曹孟徳さまがお見えになりました。」
侍女の取り継ぎにも、無言で機を織り続ける。
−−やがて、曹操が部屋に入って来た。足音で判る。
尚も機を織る丁夫人・・・・
曹操がそっと背後に近づいた。
「−−玉英、許しておくれ・・・・。」耳元で囁きながら、曹操は彼女の背に手を廻し、優しく擦りながら続けた。
「こっちを向きなさい。一緒に車で帰ろう。」
−−顧我、共載歸乎・・・・我ヲ顧リミヨ。共ニ載セテ帰ラン。
然し、丁夫人は振り向きも、答えようともせず、ただ機を織り続ける。一度、二度、三度と同じ機の音だけが鳴った・・・・。
《もう、勘弁して呉れてもいいじゃないか。》
曹操は妻の肩から手を離すと、ため息を吐いた。そして一歩、二歩、三歩と、妻の後姿を見詰めたまま後ずさりした。機音は乱れる事無く、同じリズムを繰り返す。
とうとう戸口まで来てしまった。
「・・・・やり直してみて呉れる気は無いのだろうか!?」
−−得無尚可邪・・・・尚オ、可ナルヲ得ル無キヤ?
曹操がもう一度、妻に呼び掛けた。丁玉英はどんな気持であったろうか。「・・・・・。」
機のリズムを更に3回待ったが、やはり答えは無かった・・・・。
「−−じゃあ、これで本当にお別れだ・・・・。」
−−真訣矣・・・・真ニ 訣レ矣ナ。
夫の足音が戸外に消えていった。機布に織り込まれたのは、丁玉英の悲しき心か、尽きない怨みか・・・・機を織る単調なリズムだけが、いつ涯てるともなく続いて、そして・・・・途切れた。
織り上げられた絹の衣は、零れた涙に、しとど濡れて、一対の男女の終わりを告げているかの如くであった・・・・。
その後の玉英であるが
ーー時々《女だけの城》に出入りしている。
丁夫人の次に、正妻として繰上げ指名されたのは【卞夫人】であった。現在の正妻であり、曹丕・曹・曹植の母親でもある、あの「卞厚」である。(※卞夫人については、第6節にて詳述)その「卞夫人」から密かに招待されると、拒む事もせずに応じているのである。招く方も招く方だが、離縁されて尚、招かれて行く女心が解らない。
やがて丁夫人は実家で没するが、やはり『卞夫人』の提言を容れ曹操はきちんとした埋葬を許可している。これも常識では、有り得る事では無い。突き詰めて言えば、「曹操と丁夫人の夫婦関係」は三国時代に於いては全て”異様”である。女性の人権などと云うものは、欠片も無い時代に於いて、余りにも『丁玉英』の振舞いは、自由奔放を許され過ぎていよう。
一体、女性が勝手に実家に帰ったり出来たものだろうか?ましてや夫は、独裁官の曹操である。そもそも、夫に対して楯突く如き態度や悪罵が許されるのか?・・・・否!第7節で詳述した如く、この時代の女性達に権利や自由などと謂うものは一切無かったただ只管、男どもの付属品の地位でしか在り得なかったのであるにも関わらず、そのうえ曹操は、態々自分の方から妻の実家へと足を運んで、復縁を乞いに迎えにまで行っている。 夫の態度としては殆んど全面降伏に近い、異常な迄の気配りである。
ーーでは何故、彼女だけが、こんな我が儘を許されたのか・・・?
どうやら是れは、曹操の優しさ・愛情の深さとか、丁玉英の気の強さ・性格の激しさとか云う、個々内面レベルだけでは説明のつかぬ、別の事情が在ったと気付くべきであろう。又、次に正妻と成った卞夫人が、離別後も丁玉英を以前同様”正妻”として遇し続けたのも異様だし、卞夫人の優しさと云う”美談”だけでは済まされぬ、別の背景が想起される。決定的なのは、卞夫人の提案と云う形を採ってはいるが、勝手に飛び出して行った前の妻の死に際してまで、曹家としての正式な葬儀を出している点である。
是れはもう、曹操と丁玉英と云う、個人レベルの問題では無い。
此処まで書けば、賢明なる読者諸氏には、もうハハ〜ンとお分かりであろうが、若き日の曹操が、そこまで気を遣い続ける事情・背景にはーー
彼女を出した《丁一族の実力》が、曹一族には絶対必要不可欠なものであった!・・・・からに他ならない。
その、『丁一族』の実力を示す、もう一つの例を挙げてみよう。
丁玉英とはほぼ同世代・兄弟姉妹であった可能性の高い【丁沖】は、既に過度の飲酒・アルコール中毒が原因で死亡しているが、196年の〔献帝奉戴〕の際には、朝廷内に在って、強く曹操に奉戴を勧め、その決心を固めさせた人物であった。曹操とは若い頃から”義兄弟の仲”であり、曹操の回想によれば・・・・
『むかし、同じ県に丁幼陽(丁沖)と云う者が居た。その人は衣冠の良士であり、学問を修めた逸材だった。私は彼を敬愛し、互いに行き来し、同宿したものだ。のちに丁沖は神経を病んだ。回復すると、元の様に交際したが私は用心のため帰らせるようにした。その折に、私はこう言ったものだ。
「もし発作を起こし、武器でも振り廻されたら敵わないからね」と。そして二人は大笑いしたものだった。』 と云う間柄であった。
さて、その『丁沖』の息子【丁儀】が大変な秀才で優れた士大夫だと云う評判を聞くや、曹操は「丁儀」本人には会った事も無いのに、何と愛する我が娘(のちの清河長公主)との縁談を推し進めたのである。これは曹操が、《丁一族》との結び付きを強く望んで居た証拠であろう。・・・・ちなみに、その時のエピソード・・・・
曹操は其の縁談について、『曹丕』に相談してみた。
すると、曹丕はこう言った。
「女性と云うものは、夫の容貌を気にするものです。丁儀は片目が不自由ですから、妹は好い顔をしないでしょう。妹は、夏侯惇の子に嫁がせるのが善いのではないでしょうか。」
結局、その言葉に従って、曹操は愛娘を「夏侯楙」に嫁がせた。
(ちなみに、この夏侯楙は女好きの為、夫婦仲は至って悪く、
後年、危うく死刑に成りそうとなる様な人物であった。)
処が直後、「丁儀」を副官として出仕させてみると、才気は煥発、予想以上の大人物と判った。
「丁儀なら、たとえ盲目でも娘を呉れてやったものを!まんまと
小僧 (曹丕) に嵌められたわい。」ーーと、曹操は悔しがった
・・・・と伝えられる。
★ このエピソードからは、『曹丕』の鬱屈した情念が窺える。
絶大な実家の力をバックとする〔丁夫人〕の子ではなく、二重の意味で”よそ者”の〔卞夫人〕を母親とする男児の、狡すっからい抵抗である。曹丕にとって《丁一族》は己が正統な〔曹家の後継者〕である事を主張する時、打破否定すべき相手・最強のライバルに他ならなかったのである。又一方、曹丕の実母である「卞夫人」は卞夫人で、「丁夫人」を味方に付け、我が子の行く末に好環境を作って措こうと、膝を屈して礼を尽くさざるを得無い相手であったのである・・・・。
では全体、この《丁一族》の力・・・・「曹家」と「丁家」との関係とは、どの様なものだったのであろうか?
ところが我々は、それを調べる上で、実は大きな障壁にブチ当たるのである。
陳寿は何故か、正史の中に「丁一族」の一人たりとも《伝》を設けていないのだ。その理由は・・・・列伝を立てようにも、資料や記録が全て消滅されていた故だと想われる。たぶん、丁一族に関する記録資料一切の抹殺を命じたのは、曹丕であったに違い無い。ーー何故なら・・・・この後の後継者争いに於いて丁一族は、”反曹丕派”として策動し、敗れて処刑される経緯を辿るからである。
更にはズッと後、【司馬懿仲達】が大クーデターを起こして〔曹魏〕の息の根を止めた時にも、曹魏側「曹爽」の大ブレインの中に丁一族の『丁謐』が居て処刑されており・・・・陳寿は、
〔晋の司馬氏〕に遠慮して、正史の中から反逆者・丁一族を列伝から省いたとも考えられる。
−−と云う訳で、青史の合間から窺い知れる、〔曹氏〕と〔丁氏〕との関係は朧ではあるが・・・・少なくとも丁氏は、曹氏の本貫地・沛国言焦県に在って、曹嵩と曹操の父子2代に渡り、正妻を嫁がせているのである!〔中央政界とのコネが有る曹家〕 と、〔地元では絶大な力を有する丁家〕との合体を、両者が強く望んだ結果と言えよう。そうした旗挙げ以前よりの、運命共同体的結合から推すと、たぶん曹丕にも丁家から正妻を娶るレールが敷かれていた筈である。それに反発して、甄洛を略奪してアッと言う間に正妻にしてしまった心理背景も有ったろうか?それとも絶世の美女甄氏の美貌は、そんな事など問題にしない程に曹丕の独占欲を燃え立たせたのであろうか?
いずれにせよ、沛国と云う本貫地においては、丁一族の力は、それ程までに有力で、大きな勢力を保有していた事が窺われる。
事実、この”丁一族”は、三国が統一される迄、次々と”曹家”に有能な人材を送り込み続け、(多少の波瀾は有るにせよ)曹氏を支えてゆく。
尚、【沛国の曹氏】は、「丁一族」だけではなく、側室を送り出している『劉一族』や、軍団中枢を支える『夏侯一族』との連帯を、その旗挙げの当初から強化しようとしていた。逆に言えば、曹操は郷里の夏侯氏・丁氏・劉氏の協力無くしては世に出る事すら覚束かず、今後も、其の政権基盤の重大な味方として自覚せざるを得無いのであった。そして又、この本貫地における、分厚い〔縁戚一門の団結力〕こそが、他国には観られない(羨ましい)曹・魏政権の絶対的強味とも成っているのであった。
−−と云う次第で、最初の正妻・【丁玉英】は、些か特別な存在・女性であり過ぎたのでアリマシタ。ま、余りにお里(実家)の力が強すぎるのも、女の幸せにとっては如何なものか・・・・と、単純に言い切れ得無いのが又、古今東西、複雑で推し測り難い男と女の仲・・・・やはり「丁玉英」と云う女性は、曹操孟徳にとっては
《永遠の心の妻》だった・・・・・
曹操、臨終の、しみじみとした追憶の言葉が残っている・・・・
「我が一生には、何の後悔も無い。
ただ一つの心残りは・・・・玉英のこと・・・・。
もし、あの世で子脩(曹昂)と再会し、『母上は
いずこに居られるのですか?』と問われたら、
儂は何と答えたらよいのだろうか・・・・。」
何と謂う優しさ、情もろさよ・・・・。”超人”とまで言われた鉄面皮の下の曹操孟徳は、墓の中にまで、妻へのすまなさ、愛うしさを持って逝った・・・・・。
さて、204年現在に於ける”女だけの城”の城主(正妻)は【卞夫人】であるが・・・・彼女については既に第6節に於いて、その人柄や様々なエピソードを詳述してあるので、此処では重複を避けて”姑”と成った彼女と、長男・「曹丕」の”嫁”との関係を観てみよう。古来より、”嫁・姑”の関係は、上下貴賎の区別なく、厄介なモノと相場は決まっているのだが・・・こと「卞厚」と「甄洛」の2人の場合は、全く様子が異なっていた。まことに情愛に満ちた、円満で波風も立たぬ、美しいものであったのだ。それには賢夫人の誉れも高い【卞厚】の、類い稀なる人柄が大きく寄与している事は誰の眼にも明らかであった。
とは言え、嫁たる【甄洛】の人となりも亦、それなりのものが
有った。単に”絶世の美女”と謂われるだけの、容姿のみの女性では無かったのである。そんな彼女の生い立ちやエピソードを、
『正史・文昭甄皇后伝』及び『魏略』・『魏書』に見てみよう。
(※尚、甄氏の名は伝わらない。”洛”としているのは筆者の勝手な思い込みに
過ぎないので悪しからず)
甄皇后は冀州中山郡無極県の人で、漢王朝の太保甄邯の後裔であって、家は代々2千石の官吏であった。父の甄逸は3男5女をもうけるが、【甄洛】は其の末っ子で、3歳の時に父が亡くなっている。
幼少の頃から大人に成るまで、遊びふざける事を好まなかった。
−−8歳の時・・・・表で曲馬師が芸をしているのを、家族や姉達はみな高殿で見物したが、彼女だけは行かなかった。姉達が不思議に思って訳を尋ねると、「こんな物は、だいたい女の人が見るものでしょうか。」と言って興味も示さなかったと云う。
−−9歳になると・・・・書法を好み、字を見る度に覚えてしまいたびたび兄達の筆や硯を使ったので、兄がたしなめた。
「お前は女の仕事を習うべきだ。文字を習って学問をし、
女博士にでも成る心算か!?」
「聞く処によれば、昔のすぐれた女性は、過ぎ去った時代の成功失敗の跡を学んで、自分の戒めとしない者は無かったそうです。文字を知らなければ、何によってそれらの事を見たらよいのでしょう。」余りにしっかりした考えなので兄は驚き、以後は応援してやった。(魏書より)
−−10歳の頃・・・・戦乱と飢餓の為、民衆はみな金・銀・珠玉・宝物を売りに出した。甄家には穀物の貯えが随分あった為に、これらの物品をかなり買い込んだ。すると甄洛は眉をひそめて母に告げた。
「今、世の中が乱れているのに、家では宝物を沢山買い込んでいます。罪科の無い一人の男子も、宝石を抱いていれば、罪を負わされて身を滅ぼすとか・・・・。又、廻りの者がみな飢えに苦しんで居るのですから、親類や近所の方々に穀物を振舞って差し上げ、広く恩恵を施すに越した事は御座いません。」家中の者がその通りだと言い、即座に彼女の言葉に従った。(正史より)
僅か10余歳の末っ子の娘の言葉に、何故それ程の重さが認められていたのか・・・・?実は、幼年期に、人相見で有名な「劉良」が、子供達の人相を見た際、彼女を指さして告げていたのだ。
「この娘さんの高貴な事は、口では表現できない程です!
大切にされるが宜しい。」
−−14歳の時・・・次兄の甄儼が死去し、後に一人息子と兄嫁が遺された。甄洛は兄嫁に慎みと敬意を以って仕え、事ある毎に其の労苦を引き受け、遺児を慈しみ育て、心の籠った慈愛を注いだ。だが兄嫁に対する姑の接し方は厳しかった。そこで彼女は母を諌めて言う。
「兄さんは不幸にも若死にされ、お義姉さんは若いのに操を立て一人っ子を気に掛けて留まって居られます。道理から言えば、彼女の処遇は嫁に対する様に為さるのが当然でしょうが、愛情は娘に対するのと同じに為さいますように。」
母は其の言葉に感動して涙を流し、すぐに彼女と兄嫁とを一緒に暮らさせた。二人は常住坐臥、いつも連れ立っており、ますます親密な愛情を持つようになった・・・・と云う。 (魏略)
そんな【甄洛】はやがて、絶世の美貌を兼ね備える女性と
成るが、当時、河北全土を手中におさめていた〔袁紹〕は、彼女の存在を知り、次男・袁熙の妻に迎えた。
そして・・・・其処から
甄洛の運命は大きく激動するのだった。その経緯を『正史』は極く簡潔に記す。
『建安年間、袁紹が次男・袁熙の為に彼女を嫁として迎え入れた袁熙が地方に出て幽州刺史と成ると、甄氏はあとに残って姑の世話をした。冀州が(曹操によって)平定されると、曹丕は業卩において甄氏を迎え入れて寵愛し、曹叡と東郷公主をもうけた。』
−−時は流れ、日月は過ぎ、大分のちの話になるが・・・・
卞夫人が夫・曹操の出征に供をし、甄洛が留守をした折の事・・・
姑・卞夫人の体調は幾分不調であった。甄洛は見舞いに行く事も出来ず、卞夫人の身を案じて終日涙ぐんでいた。
側仕えの者が、なんど快癒の報せを伝えても、
「お母様は家においでの時でも、持病を起こされると快癒まで
いつも長い時間が懸かるのが常だったわ。今すぐ病気が治るなんて早過ぎるではありませんか。これは、私の心を慰めようとして下さっているだけに違い無いわ・・・・」一層心配を強め、手紙を送った。それだけ、日頃から卞夫人の世話をし、体調まで知り尽くして居た事が知れる。やがて卞夫人本人から、治癒の返事が届き、甄洛は喜びに浸った・・・・半年ぶりに軍が帰還し、目通りした時には、両者ともが感極まって落涙し、周囲の者達が感動する程であった。
「この人は、本当に孝行な嫁です・・・・。」
又、甄洛だけが病気で業卩に留まった時は逆に、
「息子達は、お母様と一緒なのですから、私に何の心配が
在りましょう!」 (魏書)
嫁と姑の仲は、至って上手くいっている様子である。
−−だが10数年後・・・・【郭】と云う女の出現により、この《女だけの城》は激震に襲われる!
然し今は、そんな予兆も無く、
曹操の”奥”は幸せに溢れている。
だが一つだけ、『卞厚』夫人に意識すまいとしても、鬱勃と湧いて来る”不安”が在った。ーーそれは・・・・夫・曹操が「環夫人」が産んだ男児・【曹沖】を溺愛している点であった。〔神童〕と謂われる天才児である。
儂の世継ぎは”曹沖”じゃ!
などと、酔った席で夫が口走った噂も流れて来ている。
《−−負けないわ!!》
それは、環夫人個人に対抗する為の決意では無い。曹操の正妻と成ってから10年。己の宿命に対する断固たる心構えであった。
《他人を妬んでも詮無きこと。己の為す事のみを律すれば善し》
−−【卞厚】・・・・賢夫人と言ってよいであろう。
ちなみに、曹操はのち、正妻(后)の下に、〔夫人〕・〔昭儀〕・〔ul〕・〔容華〕・〔美人〕の5等の位階を置く事になる。代が変わると、更に、〔貴嬪〕・〔淑媛〕・〔脩容〕・〔順成〕・〔良人〕の5等が加わる。3代目では、〔淑妃〕・〔昭華〕・〔脩儀〕が加わり、順成は廃される。ーーこの《女だけの城》の兵力増強?を、隆盛と観るか、堕落と観るか・・・・・
参考までに、この《女だけの城》に住む、その他の
〔側室〕と、その産んだ男子の名を記して措く。尚、
(★)印はーー早逝した者
(☆)印はーー短命だった者である。
【夫人】(諸侯待遇)では、
〔劉〕・・・・昂(戦死)・鑠(★)
〔環〕・・・・沖・拠・守・
〔杜〕・・・・林・袞・
〔秦〕・・・・王玄(★)・峻・
〔尹〕・・・・矩(★)
【昭儀】(県侯待遇)では
〔王〕・・・・幹
【姫】(侍女)では
〔孫〕・・・・上(★)・彪・勤(★)
〔李〕・・・・乗(★)・整(☆)・京(★)
〔周〕・・・・均(☆)
〔劉〕・・・・棘(★)
〔宋〕・・・・徽
〔趙〕・・・・茂
曹操が生した子(男児)の、ほぼ半数が早死にしている。曹丕の子に至っては、何と!・・・・9人中6名が早逝する事となる。
単純に考えても、この子達は、庶民の子等より数倍は栄養も良く生活環境も良かった筈である・・・・。では一体、この時代、貧しい庶民の幼児死亡率は、どれ程であったのか?戦慄さえ覚える数字である!!が反面、《女だけの城》に居る、世継ぎ候補だからこその数字であると観るならば・・・・其処に、『正史』では記す事の出来得無い、何等かの”意志”・隠された”企図”の暗い淵を覗く思いがして、更に異なった意味の戦慄を覚える・・・・。
いずれにせよーーこの《女だけの城》では、女自身が命を長らえる事自体が難しく、更に其の上、我が子を無事に育て上げると云う、一見当たり前の事が、実は至難の業であった事実が窺い知れるのである・・・・。
そんな”奥”の事情など、全く意にも介さず、
【曹操孟徳】の覇道は、
いよいよ佳境に入って、
一段と凄まじいものと
なってゆくのであった・・・!!
【第111節】 横槊賦詩 (め手に血刀、ゆん手に詩集)→へ