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★★★★《覇業に最も近い男》★★★★
「よお〜、久し振りだなあ〜!元気であったか?」
・・・・と声を掛けられそうな程に、暫らく我々は、【曹操】やその周囲の者達と離れていた。因みにこの【第8章】では”その後の曹操”および彼の事蹟・周辺人物などを、《赤壁で3英雄が会同する》直前までを追う。だが其の前に、これ迄の記憶を呼び醒ます為に、此処までの〔曹操史〕を極く簡略に見て措く事としよう。
それは、取りも直さず、三国志前半に於ける最大の山場である《赤壁の大決戦》に至る、曹操孟徳の覇望の過程でもある。
《曹操・前半生史》
−−下図参照ーー
155年(数え1歳)ーー豫州沛国言焦県に生まれる。
(後漢・桓帝・永寿元年)
184年(29歳)ーー騎都尉に任命される。・・・・(5彩棒の逸話)
黄巾の乱での功により、済南国の相と成る。
(※187年→曹丕うまれる)
188年(33歳)ーー8月・・・霊帝により、「西園の八校尉」
の一人に任じられる。
189年(34歳)ーー4月・・・・霊帝逝去
董卓の専横始まる→都を離れて故郷に戻り、
陳留で反董卓の兵を挙げる。
190年(35歳)ーー反董卓連合軍が動かぬ中、独り
「シ卞水の戦い」に臨むも徐栄に敗れる。
然し、この行為によって曹操の名は全国区と成る。
(※劉表が刺史として荊州に赴く)
191年(36歳)ーー韓馥から冀州を奪い取った【袁紹】により
東郡太守となり、黒山賊の鎮圧に当る。
192年(37歳)ーー
4月・・・・呂布が董卓を誅殺する。
5月・・・・青州の黄巾軍が兌州に侵攻。刺史の劉岱が
敗死した為、迎えられて「兌州刺史」と成る。
その後、降伏した黄巾を”青州兵”として組織。
一躍、大兵力の所有者に躍り出る。
(※袁紹は「界橋の戦い」で公孫讃を撃破して華北の雄となる。)
(※曹植うまれる)
193年(38歳)ーー「拠の戦い」で【袁術】を撃破。
★破れた袁術は遙か〈寿春〉へと落ち延び、居座る。
父・曹嵩の仇を討つとして《徐州・大虐殺》を行う。
194年(39歳)ーー再度の徐州侵攻中に、呂布・陳宮に根拠地
の兌州を奪われかかる。
「濮陽の戦い」で【呂布】と対峙するも、
蝗の襲来により決着つかず。
(※劉備が棚ボタで徐州牧に就く)
195年(40歳)ーー兌州争奪戦で呂布を「定陶の戦い」に
破り、根拠地を奪回して《兌州牧》と成る。
★破れた呂布は、徐州の劉備を頼る。
(※長安の『献帝』は、洛陽めざして”東帰行”を始める)
196年(41歳)ーー武平に侵攻。
8月・・・・許に〔献帝奉戴〕。
10月・・・・みずから大将軍に就くが、実力c純唐フ袁紹の怒りを買った為、その肩書を袁紹に譲り、己は『司空』と成り、着々と政権の強化を進める。
〔屯田制〕を始める。
★呂布に破れた劉備が身を寄せて来る。
上表して豫州牧に任じてやる。
197年(42歳)ーー1月・・・・宛城で【張繍】を降伏させるが
【賈ク】の謀略による美女・鄒氏に溺れ、
大敗北を喫する。長子・曹ミや典韋を失う。
皇帝を僭称したものの財政破綻した『袁術』が、
破れ被れで陳国に侵攻して来るも、鎧袖一触に撃退する。
198年(43歳)ーー12月・・・・長い攻防戦の後、
【呂布】を下丕に攻め亡ぼす。
(※江東の地を平定した【孫策】を討逆将軍・呉侯に
封じ、姻戚関係を結び、懐柔策を施す。)
199年(44歳)ーー3月・・・・「易京」で【公孫讃】自殺。
これにより、『袁紹』は黄河以北をほぼ完全制覇。
天下統一を視野に南下して曹操を討つ準備に入る。
これに対抗して、「官渡」に防禦拠点を作る。
6月・・・・【袁術】は、寿春郊外で”野垂れ死”にする。
★居候していた『劉備』が脱出して小沛で独立、袁紹と結ぶ。
200年(45歳)ーー
1月・・・・暗殺計画を準備していたとして、廷臣派を
血の粛清で一掃する。
4月・・・・袁紹との決戦中に〔許都襲撃〕を準備していた
【孫策】が暗殺される。
10月・・・・《官渡の戦い》 で、袁紹軍を大破!
人生最大の危機を脱し、一躍、覇者候補に躍り出る。
201年(46歳)ーー汝南に居た劉備を攻め、敗れた劉備は、
荊州・劉表の元に身を寄せる。
202年(47歳)ーー
5月・・・・【袁紹】後継者を指名しない儘、失意の裡に死亡。
是れにより、袁一族は、後継者争いで真っ2つに割れてゆく。
〈A〉・・・・末子・『袁尚』の逢紀・審配派
〈B〉・・・・長男・『袁譚』の辛評・郭図派
このうち〈A〉の袁尚が、父(袁紹)の大将軍・冀州牧の地位を引き継ぐが、〈B〉の袁譚も車騎将軍を名乗り、骨肉あい喰む泥沼状態にのめり込んでゆく。
曹操は、この内紛を利用して、河北平定に乗り出す。
9月・・・・曹軍は白馬津から黄河を押し渡り、
〔黎陽城〕に進攻。包囲体勢に入る。
203年(48歳)ーー
3月・・・・その〔黎陽城〕を陥とし、袁尚・袁譚兄弟は敗走。
4月・・・・袁氏の本拠・〔業卩城〕を攻めるも、戦果あがらず退却。
8月・・・・(内紛を煽る為)反転して南下、汝南郡へ進駐。するや
思惑通り、袁尚と袁譚は内戦を開始。不利となった
〈B〉の袁譚は、事も有ろうに、”曹操との同盟”に踏み切る。
204年(49歳)ーー〈A〉の袁尚は〔業卩城〕を出て、
〈B〉の袁譚を〔平原城〕に包囲する。
曹操はその虚を突き、袁尚の本拠・〔業卩城〕へ進攻。
敵将・蘇由が降伏してくる。
7月・・・・救援に駆け戻って来た袁尚を、業卩城の西で撃破。
破れた袁尚は、〔南皮城〕の『袁熙』を頼って北方へ逃走。
8月・・・・〔業卩城〕を陥落させ、守将の「審配」を斬る。
(※曹丕、曹操を出し抜いて甄氏を略奪)
9月・・・・曹操は《冀州牧》に就官。
12月・・・・袁譚との同盟を破棄。その〔平原城〕へ進攻。
袁譚は平原城を退き、北の〔南皮城〕に籠る。
・・・・と、以上、我々は、今や実力c純唐ノ伸し上がり、
天下統一に驀進する、49歳までの曹操を追って来たのであった。
すなわち、208年の《赤壁の戦い》までは、
”あと4年”の時点である。
もはや中国・北半分の完全制覇は目前であり、曹操の覇道は、今まさに絶頂期へと向かわんとしているのであった。
(※読者諸氏には、これで幾分かは、記憶を甦らせて
戴けたであろうか?)
−−では我々は、ここで再び、
西暦205年・建安10年・・・・ちょうど50歳を迎えようと
している【曹操孟徳】の元へとワープするとしよう。
【第8章】 《第110節》 女だけの城 →へ