【第99節】 エル ドラド
ー−【荊州】・・・・・・・この章を開くに当たって、いや、
三国志を語るからには、我々は是が非にも、此の「大州」の当時の実情・その豊かさを識って措かねばならない。何となれば・・・・
〔三国志とは、この荊州争奪の歴史であった!〕
・・・・・と言っても、決して過言では無いからである。
荊州・・・州とは言うが、日本全土の3倍近い広さである。華北・中原5州ーー「冀州・兌州・青州・徐州・豫州」を全部合わせた面積を占めている。早くから文明の栄えた、華北の地に在る各州の面積は小さい。東京や大阪がそうである様に、都市型文化圏の行政単位は小さく成らざるを得無い。それに対し、蛮地=後進地域と見做されて来た、南の3州(揚・荊・益)はバカデカイ!400年前に定められ、もはや実情に追い付かぬ行政区画がそのまま残され
(放置さ)れて来ていたのである。従って今では、その実質的国力たるや、極めて隆盛であったのだ。その繁栄の理由・背景として先ず【荊州】の持つ重要性を、項目として挙げて置く。
〔A〕−−経済的な重要地である。
〔B〕−−戦略上の重要地である。
〔C〕−−新文化圏としての要地である、の3項である。
次の統計表を見て戴こう。前漢時代(AD2年)と後漢時代(153年)の天下13州の人口の増減・推移、約150年間である。尚数値は時の政府(王朝)の手による”公式発表”である。これを観ると・・・・・
何と1000万人も減少!
しているのである。ーー普通、人類の歴史としては当然な事として、人口は時代進行と共に増加してゆくものである。だが前漢〜後漢に渡る時代は、
〔恐るべき人口激減期であった!〕 事が判る。
この150年間に、戸数では254万戸が”消滅”しているのである!
ちなみに、この頃の日本列島(倭)の総人口は、ほぼ200万と云うのが通説である。当時の日本人が、”5回全滅したと同じ”と云う、驚異的な数字である・・・・いかに三国志の時代・・・「死」が、日常に充満していたかーーうち続く戦禍の犠牲者達、疫病の蔓延・蝗の襲来・地球寒冷期の収穫減・・・・前世紀の反動と言える地力の低下・政治の無策が、更に追い撃ちを掛ける。飢えた流民の列、餓死者の山、ついには人が人を喰らう・・・・「夥しい死」が、日常茶飯に進行していた。特に、戦乱の舞台と成って来た〔華北・中原諸州〕は何と、50パーセントの激減を示している!!
人生わずか20年、6歳で一人前、15にして老人
信じられぬが、事実、そう云う時代が在った。〔三国志の世界〕は、「生」と「死」が、すぐ来る時代であったのだ・・・・。
そんな中で、逆に大幅な増加を示している州が3つ在る。
海側から西に向って、「揚」・「荊」・「益」の3州である。
この3州は、謂わば〔長江3州〕と言ってよい。この3州だけで、中国総面積の南半分以上を占めている。−−さて、注目の
【荊州】だが・・・・実に200%の増加率である。とりわけても、南部4郡は500%(5倍!)と云う、驚異的な増加ぶりである。ーーとは謂え、実際には、この資料には「ウラ」が有り、飽く迄も凡その数値、参考程度に観るべきであろう。何故なら当時、戸籍に登録されない”幽霊人口”が、相当の割合で存在して居たからである。内訳は3種類あった。
〔1つ〕は、豪族・貴族の私的農民・・・・国(朝廷)の戸籍に載る事によって、過酷な重税や労役の対象にされるのを忌避する為の者達。これが殆んどを占めた。〔2つ〕は、兵士や役人の家の者=特別扱いで免税の為、戸籍には載せない。〔3つ〕は、(曹操の様な)屯田に働く農民達である。特に〔1〕の、地方豪族の隷属農民に対しては、あの『曹操』と言えども、未まだに手を着けられないのが現状であった。下手に手を着けると、豪族達の猛反発を買う。自領の経営・政情に深刻な不安定要素を持ち込む事となり、大ヤケドする恐れが有ったのだ。(結局、400年後の大「唐」帝国出現まで黙認され続けた。)逆に言えば、それだからこそ曹操は自力で《屯田制》を発展させて来たのである。ここには既に〔君主権〕VS〔貴族階級〕と云う、次の時代の権力構造の原形が垣間みられる。・・・・処で、前掲の統計資料は153年時点・・・・つまり、今から50年も前のものである。ーーだが然し、実はこの空白の50年間こそ、戦乱は激烈を極めていたのだ。人口の「南増北減傾向」は、より顕著となり、民族の大移動は更に進んだであろう事は、想像に難くない。と言う事は、【荊州】の隆盛は資料以上に進んでいた!と観るべきである
就中、南部4郡は、中国随一の『大穀倉地帯』であった!
日本の国土を、全て耕地に置き換えた面積に匹敵するだけの水田面積が、既に備わっている訳だ。増加する人口にも十分対応できた更にこの先、北方からの先進技術と労働力を吸収して、大幅な開発・発展能力を潜在させている。ーー以上・・・・【荊州】を手に入れる事の、「A・経済上の重大さ」が判って戴けただろうか?
そればかりでは無い。人口の大小は即〔軍事動員力〕に直結する重要・死活問題でもある。荊州の戸数は70万戸。計算上新たに
”10万の軍隊”を創り出す事が可能である。しかも、長期遠征に兵糧の心配なく使用できる。ーーつまり【荊州を奪う者】は軍事力の強大化を保証されるのである。ばかりか、その者は、これから先の将来、この荊州を食糧補充基地として、未来永劫に渡っての「恒久的安定供給」を確保できる事になる。(曹操はこの後、北伐の度に食糧輸送に戦々恐々とする。屯田制を敷いてはいるが、急激に巨大化し戦闘を繰り返す、彼の軍事国家には、未だ未だ食糧問題は未解決な重大難問であったのだ。)
畢竟、曹操であれ誰であれ、天下を狙う者にとっては、この【荊州】は、絶対に必要不可欠な”黄金地帯”なのであった。
又【荊州】は地勢的に、中国大陸のド真ん中に位置しており、長江や漢水(長江の1大支流)の水上交通、四方に伸びる街道の交差地として、〔交易の要地〕でもあった。従って「農業」のみならず、「商業
交易」に因っても莫大な富・利益をもたらす大商業圏でもあった
−−それにしても、識れば識る程、生唾が出て来る様な”御馳走の山”・・・・それが【荊州】なのである。
次に〔B〕項の〔戦略上の重大性〕について観てみよう
大雑把に言えば・・・・【荊州】は、重要な諸州に全て隣接する、そのド真ん中に在る・・・・と云う事である。
〔東〕ー→〈揚州〉・・・・(呉の孫権が大勢力を有して居る)
〔西〕ー→〈益州〉・・・・(もう一つの大肥沃地帯)
〔南〕ー→〈交州〉・・・・(広い海に出られる)
〔北〕ー→〈司州〉と〈豫州〉・・・・(政治上の要地が多い)
5州に連なる国なのである。(特に曹操にとっては、『東』・呉の孫権を討伐する為には、重大な出撃基地となる。又、孫権にとっては、それを阻止し、逆に天下に覇を唱える為の万全の構えとなる。)
更に、荊州の州都・【襄陽】は、古来より戦略上の重大拠点として機能して来た。何と言っても、中原(曹操の本拠地)を一気に衝ける位置に在る。(逆も亦いえる。それ迄は、「新野」が州都であったが、余りにも曹操に近い為、劉表が『襄陽』に移都していた。)
『襄陽』の岸を流れる漢水を西に遡上すれば漢中に、下れば長江に出られる。陸路では、北の守りの前線基地である南陽へも、南下して長江水軍の母港である江陵にも通ずる。要するに
この『襄陽』を押さえる事は、曹操にとって、「許都」の安泰に直結する。逆に言えば、此処を劉表が押さえて居る限り、中原の諸城市は常に荊州軍の侵攻の脅威に晒されている事となる。
のち、三国を統一する【晋】も、此処・襄陽から兵を進め、【呉】を亡ぼす事となる。更に今後も中世に至る迄、「襄陽」は中国史の転換期には、必ず、〔兵家必争の地〕となってゆく”宿命の城市”で在り続ける。(※【元】が【南宋】を亡ぼすのも、ここ襄陽の争奪に懸かった)
かように、『襄陽』は戦略上、この時代でも必争の要地であり、又、《荊州》が今後の天下統一・覇権の行方にとって、どれほど重要なのか、判って戴けただろうと思う。
では最後に〔C〕項の、
〔新・文化圏としての重み〕 について観てみよう。
劈頭に、其れをシンボリックに記せばーー荊州の別天地は・・・・
1人の天才軍師・【雲を待つ龍】を育てた!・・・・
と言えようか。顧みるに今や荊州は『天下の学問所』と謂える程の一大文化国家とも成っていたのである。それ迄の文化圏と言えば、「長安」を中心とする『漢中』と、「洛陽」を中心とする『中原』の2大文化圏に代表されていた・・・だが、この戦乱の世、その兵禍を免れる為に、『中原』や『漢中』の文化人達の多くが、平和の続く【荊州】を目指して、つどい集まった。−−『書ヲ負イ、器ヲ荷イ、遠キヨリシテ至ル者』・・・・実に数百名が”亡命文化人”として客遇されていた。彼等にしてみれば、今の戦乱の世では、信じられぬ、”別天楽土”であったろう・・・・その結果、〔荊州学派〕とも言うべき、自由闊達で新しい思考・思想が、其処に生まれつつあった。従来からの勉学の王道は、儒教の古典をチマチマと字句解釈してゆく”訓詁章句”と呼ばれる勉学方法であった。然し、今の荊州では、そんな旧来の勉学方法に拘泥する事無く、より本質的な解釈を、『経学』=儒教の釈義学・に与えようとする事が盛んに成っていたのである。代表例は、州の統治者である《劉表》が、「宋忠」ら儒学者達を総動員して編纂させた『後定・五経章句』の完成である。その根本思考・学研姿勢は・・・後漢時代の主流とされた煩瑣な”訓詁章句”
(1字1字の意味を明らかにし、文の切れ目と続きを指摘する)には拘泥せず原典に直接、本義を見い出すと云う斬新な学び方である
−−それは、「時代の自由精神の表現であった!」と、後世の研究者達に称される、進取の気風が息づいていた。又、荊州に集った文化人達は、州都の「襄陽」に幾つもの私的・文化サロンを形成して居た。その1つに『水鏡先生』と尊称される【司馬徽】のサロンも含まれる。ーー其処には、若く無名な俊秀達が、ダイヤモンドの原石の如くに溢れ返って居た。その中でも特に抜きん出た
【鳳雛】と【伏龍】が双璧と噂されている。その「伏龍」は別名を【臥龍】とも呼ばれ、ズバリと、物の本質を掴み取る、天才的思考法を修得し終えたばかりであった。彼等の名は、やがて小さなサロンから巣立って、時代・社会的な名声を得て重みを増し、究極には
時の為政者・英雄達への評価を担う《名士》と成る事であろう。曹操にせよ誰にせよ、覇王・覇者たらんとする者にとって、彼ら名士の評価は益々重大になって来る。〔天下人〕たる己の正当性を認められるか否か・・・・彼等こそ『世論』そのものなのである。是非にも自陣営に取り込みたい人士達であり、荊州は〔有用な人材の宝庫〕なのでもあった・・・・。
蓋し【荊州】 は・・・・
”エルドラド”=〔黄金境〕であった。
まさに、
〔荊州を得る者は天下を制す〕
・・・・なのである!!
そんな荊州へ向かって今”或る武闘集団”が動き出そうとしていたーー誰あろう・・・・御存知、あの大放浪を続ける、
ケタ外れのダメ男一行であった!
−−果たして、その黄金境は、彼等・・・・
劉備・関羽・張飛・趙雲たちの身の上に、一体、
どんな宿命をもたらすのであろうか・・・・!?
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