【第100節】
「−−それじゃあ、みんな・・・・逃げるとしようか!」
【劉備 玄徳】は、サバサバした顔でそう言うと、
ヨッコラショッと、腰を上げた。
「今度ばかりは、ちょっと違うぞ。我等は今、み〜んな一緒に居るんだからな・・・・!」
そんな主君を見遣りながら、【関羽】は呟く。
《−−・・・逃げると見えるか?
それとも・・・・明日への旅立ちと見えるか・・・だな・・・。》
〔官渡〕で袁紹をの覇望打ち砕いた【曹操】が、みずから来襲して来た・・・・と知るや、
【劉備】・【関羽】・【張飛】・【趙雲】・(糜竺、孫乾) ら
一行は、いち路、州境を南へ越えて、荊州は『劉表』の元へと逃走を開始した。彼ら義兄弟集団の、〔大放浪〕は未だ終わらない。−−思えば・・・・201年(建安六年)9月、
〔23歳〕故郷のシ豕県を出でてから17年・・・・・。
『公孫王贊』→『陶謙』→『呂布』→『曹操』→
『袁紹』→と、その時々の眼星しい親分の元にワラジを脱ぎ、
結局は、明日をも知れぬ 《渡り鳥人生》・《根無し草人生》を繰り返すばかり・・・・青春の日々は遠く去り、
劉備は早、〔40歳〕 と成っていた。
彼等の人生に残された時間は、最早あと幾許も無い・・・・。
−−さて、処で・・・・官渡決戦の間、劉備一行は
何処に居たのか??・・・・思い出して戴けるであろうか? →→『正史』の簡略な記述によって、そこら辺りを確認して措こう。(※下図を参照にして戴きたい)
『曹公、袁紹と官渡に相い拒ぐ。汝南の黄巾・劉辟ら、曹公に叛きて(袁)紹に応ず。(袁)紹、先主(劉備)を遣わして兵を将い、辟らと許下(許都の南方)を略す。(この時) 関羽、亡げて先主に帰す。
(下図→→→の1回目)
曹公、曹仁を遣わして兵を将い、先主を撃つ。
(下図→→→1)
先主、(袁)紹の軍に還り、陰かに(袁)紹を離れんと欲す。乃ち(袁)紹に説き、南、荊州牧・劉表に連らんとす。(袁)紹、先主を
遣わし本兵を将いしむ。復た(再び)汝南に至り、賊・共都らと衆・数千人を合む。 (下図→→→の2回目)
曹公、蔡楊を遣わして之れを撃たしむ(しかし)先主の殺す所と為る
(※袁紹は、その成功を観て、南北から「許都」を挟み撃ちに出来るかどうか、北からの増援部隊(→→→)を送り込む。然しそのケチな少部隊は、曹仁(→→→2)によって撃退され、袁紹の
”思い付き”は頓挫する。)
『曹公、既に紹を(官渡に)破り、自ずから南のかた先主を撃つ。先主、糜竺・孫乾を遣わして、劉表と相い聞せしむ。』
↓
↓
★即ち、官渡戦の間、【劉備】たち一行の居た場所は・・・・
「汝南」であった。汝南は「許都」の在る豫州の南部に位置し、西は〔荊州〕に接している。ちなみに、劉備一行の存在意義は『官渡に陣取る曹操の背後を脅かす』と、云う役割であった。その為に、袁紹本軍から離脱して、”自分達だけの小宇宙”を形づくる事に成功していたのだった。それを上手く引き出した劉備は、流石と言おうか?(尤も、袁紹は、劉備なんぞ、使い捨てカイロ程度にしか思って居無かったのだが、それを含めて、やはり流石だった?)−−その(汝南の)劉備・・・・曹操と袁紹とが官渡の地で血みどろの死闘を展開して呉れるものと期待して居た。両者は大激突し、双方とも足腰立たぬ程に傷ついて呉れる筈である。そう成れば、自分の出番も廻って来よう・・・・。
ーーだが・・・・出番が来たら一体どうする??そもそも〔出番〕とはどう云う事か?・・・自分達は何を為すべきか???ハッキリ言って、劉備は何の見通しも持って居無かった。いや、持てないのが現実であった。兵力だとて、1万カツカツである。それも、袁紹の威光で参入して居る、外人部隊を含めてのものである。自分たち独自で、一体なにが出来ようか?いかに志だけは高くても、現実の劉備グループは、単なる【傭兵集団】・【雇われの根無し草】に過ぎぬではないか?ーーだとすれば、せめて考えられるのは・・・弱小集団が生き残る為の”道筋”をつけて措く事だけである。・・・
生き残る為には、取り合えず、「官渡決戦のゆくえ」を、正確に見通して置かねばならない。予想としては、袁紹が最後には勝つだろう、と観ていた。だが曹操の戦さ上手・底力の強さは、外の誰よりも劉備自身が一番骨身に堪えて、よ〜く識って居た。もしも!
と云う事も有り得る。袁紹が勝った場合は、取り合えず劉備一行は安泰である。上手く立ち廻れば、再び「徐州の牧」くらいには納まれるだろう。だが万一、曹操が勝てば、これはヤバイ。今、自分達は、曹操を裏切って、その裏庭を踏み荒して居る訳だから、官渡の決着が付き次第、襲い掛かって来られよう。本気で来られたら、とても敵対できる様な相手では無い。逃げるしか無い。逃げる事には、もうウンザリする程、慣れっ子には成っているが、では今度は一体、何処へ逃げる?・・・だが何時もの通り、今回も亦その問題は然程、難しいものでは無かった。誰が考えても、答えは1つである。西に隣接する《荊州》【劉表】を頼るしか無いではないかーー思えば(思わなくても)・・・劉備玄徳の人生は常に
”お他人様を頼り、縋りつく”放浪の連続であり、その縋り付かれた相手の殆んどは、破滅していた。世間では〔有徳の士〕などと祭り上げて来て呉れたが、その実態は〔疫病神〕そのものの航跡でしか無い・・・・・とまれ、その【劉表】に対しては官渡に対峙して居る「袁紹」からも、そして「曹操」からも、頻りに誘いの手が伸びていた。10万以上の軍を有する〔劉表の動向〕は、両者にとって気が気では無かったのだ。彼・劉表が味方した側が、絶対に優位に立つ・・・・と云う事は、官渡決戦のキャスティングボードを握る
”影の主役”は、実はこの『劉表』の動向いかんに懸かっていたとも、言えるのであった。−−だが、【劉表】は、「袁」・「曹」の双方ともに対して生返事するばかりで、実際に行動を起こそうとはして居無かった。彼は彼なりに、天下の形勢を観望して居たのである。然し、そんな主君の煮え切らない態度に対して重臣の「韓嵩」と「劉光」が、業を煮やして進言した。
「豪傑が互いに抗争し、両雄が対峙し合って居ります今、天下がどちらに傾くかは、将軍(劉表)の態度に懸かっています。将軍にはもし大事を成すお気持が有られるならば、起ち挙がって彼等の疲弊に付け込むべきです。もし、そうで無いならば、当然、服属する相手を選択なさって下さりませ。将軍は10万の軍勢を擁して、安閑として座ったまま、成り行きを観望して居られます。そもそも、賢者を見ながら応援の手を差し伸べもせず、和睦を請うて来ているのに、それも為さらないなら、この2つの怨みは必ずや将軍に集中するでありましょう。将軍は、中立で居られる事は不可能なので御座居まする!!」
劉表の優柔不断さをグサリと突いた至言であり、荊州の人士誰しもが思い至る時局観である。それ故に韓嵩と劉光の二人は、この後、参謀総長の【萠越】等と共に、今度は〔曹操との同盟〕を勧めた。・・・・然し、天下の中で唯独り・劉表本人だけが、これらの一切を否定し聞き入れようとはし無かった。
【劉表】は此の時、58歳の老境に在った。
『劉表ハ表向キハ寛大デ、外目ニハ学者デおっとりシテ見エルガ内心ハ猜疑心ガ強ク、謀略ヲ好ンデ、決断力が無イ。』と、正史・陳寿は『評』に於いて、【劉表】を散々に扱き下ろしている。
(※『評』とは、一人一人の「伝」の、記述の最後のまとめ部分、即ち、陳寿自身による
”総合人物評価”)だが、(筆者が思うに)彼は決してそれだけの人物では無い。劉表の人生については、後節で詳しく紹介するが、この戦乱の世の真っ最中、それまで小豪族が乱立し、点々バラバラだった「荊州」を、今や天下随一の豊かな国、安心して学問に打ち込める様な〔最高の学研の府〕にまで創り上げて来たのであったそれも、裸一貫の、たった自分一代で、僅か9年の裡に(192年に単身赴任)花咲かせて見せたのである!! つまり、三国志の中でも
”1級の治世者”と観ても可笑しく無いのである。但し軍事畑では確かに2流と謂われても仕方ない面も亦、事実であるかも知れ無い。1級の治世者だが、為政者としては2流として終わるのか?
・・・・さて、そんな【劉表】に対し、汝南に居る【劉備】は、万一に備えて(官渡戦の結果がどっちに転んでも良い様に)、誼しみを通じて措く事にした。直載に言えば逃げ場を確保して措く事にしたのである。ここら辺の”嗅覚の鋭さ”は、この17年間の〔飼い犬人生〕が、せめて劉備に身に着けさせたプレゼントであろう。生き残りの極意・テクニックである。そこで劉備は、謹厳実直そのものの『麋竺』と『孫乾』を選んで使者に立て、(同盟を策する袁紹ルートとは別立の裏技で)懇ろに幾度も往来させた。汝南と荊州は隣接しているのだから、往き来には何の支障も無かった。それとなく、《亡命の受け入れ》を要請させたのだ。この要請は、非戦・不戦の”モンロー主義”をゆく劉表側にもメリットが有った。表向きには『客将』として迎えておき、その実劉備部隊を『傭兵集団』として、荊州の入口(北面)に置き、袁紹か曹操か、官渡戦に勝ち上がった勝者の来攻を、その瓶の細首部分で防ぐ、楯代わり(爪牙)に成らせるのだ。(史書に記述は無いが・・・退くに退けない、亡命受け入れの使者に立った麋竺・孫乾は、唯一の手持ちカードとして、当然その事を積極的に持ち掛けたであろう。)
それにしても、劉備と云う人物は、「陶謙」と言い「劉表」と言い、老境を迎えた人間からは、特別に”好感”を持たれるらしい。ギラギラした処が無い分、老人には安心感を与えるのかも知れ無い。野心を茫洋とした個性で、上手く、くるんでしまう。ちなみに、同じ『劉姓』である事も、両者間に親しみを生む大きな要因の一つであった。中国の人々は、同姓であるだけで、即、〔一族と見做す習俗〕を有していた。大陸の人々は其の点、、大らかなものである。況してや『劉』姓は、漢王室の血筋を表わす特別なブランドであった。【劉備の方】は、限り無く”偽ブランド”だが、今や大手を振って通用する様に成っていたから、劉表にとっても却って好都合な訳であった。こうして両者間には、友好のムードが急速に高まっていった・・・・。
「−−なにい〜〜!!袁紹軍
10万が全滅しただとお〜〜!?」
劉備主従は絶句した・・・・・。
一体、どうやったら、そんな負け方が出来るのだ??
どうやったら、そんな大勝利が可能に成ると言うのだ・・・・??
「−−来るぞ・・・・。」 「来ますな。」・・・・覚悟して置こう・・・・と云う、暗黙の了解であった。つまり、勝った【曹操】が来たら、一戦に及ばず、それを契機に、「荊州」へ向おうと云う事である。
今、劉備一行は、黄巾党を名乗る地元豪族共都と手を組んでいた。共都は今迄、結構役に立っていた。曹操が派遣してきた蔡陽との戦さでは、その配下の農民兵達が主力となって奮戦し、見事に撃退していた。無論、指揮を取った関羽・張飛・趙雲らの無双の力は有ったにせよ、そのお陰で軍としての兵力を、何とか維持しているのであった。だが無論、荊州への亡命の件は、共都には一切伝えてない。受け入れ側の劉表が「黄巾党までは御免蒙る」と言うに決まっている。ま、些か気が引けるが、その時まで放っとこうと云う訳であった。
−−そして予想通り、翌201年の冬、官渡戦以後の足場を固めた【曹操】は、自ずからが兵を率いて【劉備】を駆逐しようと乗り出して来た。『曹公既ニ紹ヲ破リ、自ラ南ノかた先主ヲ撃ツ。』
「それじゃあ、みんな・・・・逃げるとしようか!」
この時、「共都」の農民兵達は、曹操によって、アッと云う間に蹴散らされ、散り散りとなって、再び農地へ戻り、そして消滅した。
だが曹操は、深追いしては来無かった。当面は、劉備を裏庭から追い払いさえすれば、それで良かったのである。曹操には今、他にやるべき事があったのだ。「袁紹」を叩きのめして北と東へ拡げた領土を、ガッチリ固めてしまう事が急務であった。先ずは、基盤固め・基礎づくりを完璧に仕上げてしまう事であった。だから劉備を深追いして、戦線をこれ以上、南へ延ばす事は、得策では無かったのである。無論、劉備もそれを読み切って居た。
一方、劉備がやって来ると聞くや、【劉表】は何と、自ずから郊外まで出向いて待ち受けると云う、破格の歓迎ぶりを見せたのである。−−『表、自ラ郊ニ迎エ、上賓ノ礼ヲ以ッテ之ヲ待ツ。(表自郊迎。以上賓禮待之)』・・・・〔荊州〕にはこれ迄にも、中原の戦乱を逃れて来た一般の避難民が、何百万人と云う単位で存在していた。その中には多くの亡命希望者が含まれ、みな劉表から手厚い庇護を受けている。然し、その殆んどが文人(名士・文化人)達であった。劉備の如き、天下に名を知られた軍事武装集団を受け容れるのは、初めての事と言ってよかった。【劉備】は、ここ幾年かの大放浪の裡に、すっかり世間からは《有徳の武将》と云う名声を頂戴している。実態は虚名に近いのだが、世評と云うものは恐ろしいもので、今では恰も、それが実像として先行していた。無論、劉備はそこら辺りは、充分承知の上、今ではチャッカリそれを利用する術も心得ている。又、そう云う風に振舞う自覚も身に着けていた。言ってみれば、劉備もすっかり大人に成っていた、と云う処であろうか。【劉表】は、そんな劉備を州都襄陽に招き、何日にも渡って歓迎の宴を張って持て成し続けた。
ーーそして、この劉備に対する、最上客としての礼遇の態度は、劉表が没する其の日迄、ついぞ変わる事無く・・・・・何と、足掛け
8年もの間続いてゆくのであった。(劉備40〜47歳まで)
『三国志演義』では、劉表を矮小化させる為に「裴松之」の補註に在る『世語』のエピソードを採用している。(無論、有り得ない事と、但し書きの付く与太話であるが、”或る名馬”が出て来るので、念のため紹介して措く。)ーーその『世語』によれば・・・・
『かつて劉備を招いて宴会を催した時萠越・蔡瑁(共に劉表の腹臣)は宴会を利用して劉備を討ち取ろうと図った。劉備はこれに気付き厠へ行くと偽り、ひそかに逃走した。劉備の乗馬の名は的盧と言ったが、劉備はこの的盧に乗って疾走したところ、襄陽城の西に在る〔檀渓〕の水中に落ち込んでしまい、溺れて脱出でき無かった。 劉備が「的盧よ、今日は厄日だ。努力せよ!」と急き立てると、的盧は何と、ひと飛び三丈(2.5メートル)も躍り上がり、かくて、〔檀渓〕を通過する事が出来た。筏(いかだ)に乗って河を渡り河の中ほど迄来ると、追っ手がやって来て劉表の意向だと言って劉備に陳謝し、「なんと御帰宅の早い事か」と、言った。』
ーーと云う事になっているので御参考までに・・・・。
さて、一頻りの宴が済むと、やがて劉表は、劉備に軍兵を与えた上、その直前までは州都であった巨大都市『新野城』を彼の居城とし、北の守りを任せたのであった。これは、相当に思い切った配属である。・・・・何故なら、この『新野城』は、その直前までは”州都”であり続けて来た、荊州の中でも一、二を争う巨大城市なのであり、何よりも、曹操の手から荊州を守る為の、最重要拠点なのであったからである。それにしても、劉表の配下には、他に将は幾らでも居た(例えば文聘)筈である。何も選りに選って、外から舞い込んで来たばかりの客将をその要地に配さずともよいのであった。(とは言うものの、9年前に、単身赴任して来た劉表には、所謂、譜代の家臣・将が居無かったが) これはどうも、劉表個人の意志と言うよりは、在来の重臣達の総意で、劉備を〔捨て駒〕として、最も危険度の高い地点へ送り込んだ・・・・と云うのが真相であろう。但し、それを以って、劉表の猜疑心が強いと言うのは、チト、酷に過ぎよう。『演義』が描いた様に、劉表が真底から”劉備の乗っ取りを疑っている”なら、最初から小城にでも押し込めて措けばよいし、第1、迎え入れなければよいであろう。と云う事は、劉表は劉備一行にかなり高い軍事能力を認めていたと云う事になる。又、劉備であれば、〔絶対に寝返れない、曹操との因縁〕があった。戦うしか、劉備には選択の道は無い。もう天下に逃げ延びる地は、劉備には無いのである・・・・もし、劉表が猜疑心を抱くとすれば、それは劉備に対するよりも寧ろ、劉表と共に此処9年間、手を組んで来た〔在地の重臣〕に対する不信であった・・・・と云う事になる。それが単身赴任して来た、劉表の泣き所ではあった。
実際、劉備一行は、その《爪牙》としての期待に応えている
数年後の事・・・・曹操は、袁紹病没後の袁一族を討滅する為に「北伐」を敢行するが、その準備の一環として背後の南方を牽制して措く意味で、荊州北部に兵を送り込んで来る。(年度は不明)
【夏侯惇】と【于禁】を主将とする、万余の軍勢が進攻して来た!との報に接した劉備は「新野城」から100キロ北方に出撃し国境近くの〔博望坡〕に迎撃陣を張った。(坡とはダラダラ坂の事)
そしてこの【博望の戦い】に於いて、劉備軍は美事な策謀を駆使して、曹軍屈指の2勇将を撃退して見せるのであった。
『劉備ハ 伏兵ヲ設ケ、或ル日みずから自軍ノ屯営ヲ焼キ払ッテ、逃走シタト見セカケタ。夏侯惇らハ追イ討チヲ掛ケ、伏兵ニヨッテ 撃破サレタ。』・・・・この〔博望〕の戦いぶりは、単純に力押しするだけの、今迄の劉備軍のものとは、明らかに異質である。そこに初めて〔軍師〕の影が見え隠れする・・・・。
ーーでは、その〔軍師〕とは一体 【誰】 なのか?
・・・・絶対に「孔明」ではない。諸葛孔明は、この時点では未だ出仕していない。この《史実》だけはハッキリしている。
・・・・どうやら、その軍師は、孔明の親友である、
【徐庶 元直】 らしい。
なぜ、「らしい」のか?ーー実は、この徐庶と云う人物・・・・正史の至る所に、『当代超一級の才能の持ち主』と絶讃されているにも拘らず、不思議な事に、正式な個人としての『伝』のスペースを正史中に与えられていないのである。
(その原因として考えられる事とすれば・・・・陳寿としては、理由はどうあれ、結果的に、劉備が生きるか死ぬかの肝腎な時に、主君を見捨てて曹操に仕官していった徐庶の行為を、心情的に、どうしても評価出来無かった為のであろう・・・か?それとも、曹一族の手により、記録・史料を抹殺された為に、手元に「伝」を立てるだけの資料が足りなかった故であろうか?)
又、彼の本名にしても、『除庶』とか『徐福』とか記される、不可思議・不詳な人物である。ただ、後年、「諸葛孔明」が、彼を評した記述が残っている。
『そもそも職務に携わる者は、人々の意見を求めて参考にし、主君の利益を上げる様にさなくてはならない。もしも僅かな不満によって人を遠ざけ、自分と意見の違う者を非難して検討し直す事を厭うならば、仕事に欠陥を生じ、損失を招くであろう。異なる意見を検討し直して、適切な施策が出来れば、それはちょうど、破れ草履を捨てて珠玉を手に入れる様なものである。とは謂え、人間は残念ながら、そう全ての事に気を配れ無いものだ。ただ徐元直(徐庶)だけは、こうした事に対処して迷わなかった。仮にも徐元直の十分の一の謙虚さと国家に対する忠誠を尽くす事が出来るならば、私も過失を少なくする事が出来るであろうに・・・・。』
−−と云う事は、【徐庶 元直】という人物は、小説的には、どんな場面にも自由に登場可能であり、大活躍させても構わない、恰好の〔舞台廻し役〕に成り得るのである。ちなみに、具体的な記述が在るのは、徐庶が心ならずも、劉備の元を去る時だけである。・・・・故郷に残して来た母親を曹操の人質に取られ、已む無く曹操の所へと去ってゆく場面である。然し、それは、この後208年の〔赤壁の戦い〕の直前である。それまでの間ーーつまり劉備が荊州に居候している最初の数年間を、劉備は〔軍師〕として、この【徐庶】を重く用いていた・・・・らしいのである。
そして、この徐庶が、学友であった【諸葛孔明】を、劉備に推挙し
”世紀の邂逅”を演出してゆく事となるのである・・・・。
ちなみに、『三国志演義』では・・・・
この〔博望坡〕の戦勝を、神の如き天才軍師・諸葛亮孔明の鮮烈デビューに用いている。無論、史実では無く、孔明は未だ、劉備の顔さえ知らない。(故に、この場面を如何に描いているか?を見るだけで、自分が今、手にした書籍が『演義』をベースにしたものなのか、それとも史実を重視したものであるかが即断し得るのである。)
然し、この虚構は、後世、余りにも有名な場面として伝えられて
いるので、そのフィクション(荒筋)を簡略に照会して措く事とする。
『(第三十九回)
博望坡にて 軍師 初めて兵を用う
劉備は諸葛亮を得て以来、師に対する礼を以って待遇した。関羽と張飛は面白くない。
「孔明は若造だ。一体どれ程の才能・学問が有ると謂うのか。
兄貴は奴を大事にし過ぎだ。それに、奴の実際の腕前も見て居無いじゃないか!」
それに対し劉備は言った。
「私が孔明を得たのは、ちょうど魚が水を得た様なものだ。だから、お前達、これ以上グズグズ言うな。」 関羽と張飛は不承不承に説得され、黙って退出した。
・・・・・・(略)・・・・・・
すると突然、曹操の命を受けた夏侯惇が10万の軍勢を率い、新野めざして攻め寄せて来たとの知らせが入った。これを聞いた張飛は関羽に言った。
「孔明に迎え撃たせればよいではないか。」
話し合っている処に、劉備が二人を呼び入れて言った。
「夏侯惇が軍勢を率いて攻めて来た。どの様に迎え撃てばよいだろうか。」
「哥哥(あにき)、《水》に行かせればよいではないか。」 と張飛。
「智恵は孔明が頼みだが、武勇はニ弟が頼りだ。なんで孔明に押し付けられようか。」と劉備。 関羽と張飛が退出すると、劉備は諸葛亮を呼んで相談した。諸葛亮は言った。
「関羽と張飛の二人が、私の指示に従わない事だけが心配です。主公(との)には、私に軍勢を指揮させようと為さるなら、剣と印をお貸し下さい。」
劉備が直ぐさま剣と印を渡すと、諸葛亮は諸将を集め、指示を与えようとした。その時、張飛は関羽に言うのだった。
「しばらく言う事を聞いて、お手並み拝見とゆこうじゃないか。」諸葛亮は指示して言った
「博望坡の左に山が在って、豫山と言う。右に林が在って、安林と言い、兵馬を潜ませる事が出来る。そこで、雲長どのは一千の軍勢を率い豫山に行って潜伏し、敵軍が来ても其のまま通過させ、攻撃しないように!敵の輜重や食糧・秣は必ず後方に配置されている故、南の方角から火の手が上がるのを合図に、軍勢を率いて出撃し、直ちに其の食糧や秣に火を着けよ!翼徳どのは一千の軍勢を率いて安林の裏の谷に潜伏し、南の方角から火の手が上がるのを合図に、直ちに出撃して、博望城の食糧や秣の置き場に火を掛け、これを燃やせ!関平と劉封は五百の軍勢を率い、火の着き易い物を準備して博望坡の裏手の両側で待機し、初更(午後7〜9時)ころ、敵軍が到着したなら、直ちに火を掛けよ!」
又、樊城から趙雲を呼び戻して先鋒を命じたが「勝ってはならない。ひたすら負けよ!」と指示。そして、「主公には御自身で一手の軍勢を率いて後詰をなさって下さい。 ・・・・では、めいめい予定通り行動し、暮れ暮れも手違い無きよう!」 と言った。
すると関羽が問うた。
「我等がみな出撃して敵を迎え撃つ間、軍師はどう為されるのか。」
「私はひたすら、この県城を守備する。」
その答えを聞いた張飛は、カラカラと大笑いして言った。
「我等がみな、死に物狂いで合戦している間、お前は何と、家の中でジッとして居るのか。そりゃまた結構な話だ。」
すると諸葛亮は毅然として言った。
「ここに剣と印がある。命令に背く者は斬る!!」 劉備も言った。
「お前達も、『籌ヲ帷幄ノ中ニ運ラシ、勝チヲ千里ノ外ニ決ス』という言葉を聞いた事があろう。2弟は命令に背いてはならぬ。」
張飛はフンと鼻で笑って出て行こうとした。関羽は、そんな末弟にこう言った。
「まあ、取り合えず、奴の計略が図に当たるか、外れるか、見て居ようじゃないか。それから奴を追及しても、遅くはありまい。」
そうして2人、出て行った。諸将は皆、未だ諸葛亮が兵法に通じている事を知ら無かったので、一応は命令に従いはしたものの、心中は半信半疑であった。
諸葛亮は劉備に向って言った。
「主公には今から直ぐ軍勢を率いて博望山の麓に陣を築いて下さい。明日の夕刻、敵軍が必ず到着します。そのとき主公は直ぐに陣営を棄てて逃げ出し、火の手が上がるのを合図に、軍勢を巡らして攻撃して下さい。私は麋竺・麋芳と共に城を守り、孫乾・簡雍に祝宴の用意をさせ、功労簿を準備して、凱旋をお待ちして居りまする。」
ーー(※戦闘の模様は略すが、要は・・・・孔明の智略は、何から何まで寸分の狂いも無くピタリ、ピタリと適中し、何と僅か8千の兵力で、夏侯惇軍10万(実際は1万〜2万程度であったろう)の大軍団を撃滅・潰走させてしまう!!・・・・のである。)−−−
夏侯惇は敗軍を集め、許昌(許都)に帰って行った。かたや、諸葛亮も全軍を撤退させたが、関羽と張飛は、「孔明はまことの英傑だ!」と言い合った。数里も行かないうちに、麋竺と麋芳が軍勢を率い、一台の小さな車を取り囲みながら来るのが見えた。車中に一人、端座するのは、これぞ諸葛亮。関羽と張飛は馬から下り、車の前に平伏した。
・・・・(略)・・・と、まあ、講談・読み物としては、誠に痛快極まりない話しと成っているのである。
又、もう一人の天才・・・・孔明とは「臥龍」・「鳳雛」と並び称された【ホウ統】(广に龍の字)の出仕についても、不明な点が多く、彼の前半生は『正史』に記述が見えない。「徐庶」同様、小説家には都合の好い天才である。ハッキリしているのは、【ホウ統】が劉備に出仕したのは、208年の《赤壁の戦い》の後である事と、初めは呉の【周瑜】に登用されている点である。彼・ホウ統の目星しい活躍は、劉備に仕える214年の段階であり、現時点からは10余年も後の事なのだ。ーー処が・・・・
『鳳雛』と云う大そうな評判の割には、余りにも遅い【三国志への登場】を待ち切れず、『演義』は勝手にフライング(虚構)する。
すなわち、赤壁戦のみぎり、孔明の意向を受けて曹操と接触し、弁舌を駆使して丸め込み、大船団を鎖でつながせてしまう、所謂、〔連環の計〕を成功させ、影の主役に仕立ててしまうのである。だが、これは史実としては、絶対に有り得無い事である。
さて、話しを・・・荊州に居候する事になった、あの、ダメ男【劉備】の処へ戻そう。と云う事は、荊州に流れて来た劉備が、諸葛孔明との出会いを果す時が、徐々に、近づきつつあると云う事である。だが我々は、その”世紀の出会い”に辿り着く前にもう1つ、ダメ男・劉備に関する或る重大な”お家の事情”を知ってしまう事となる。後から思えば劉備は〔早まった事〕をしてしまっているのである。
−−劉備は「養子」を迎え、その少年を〔跡継ぎ〕に決めてしまったのである。 それは此の後の荊州での居候時代、甘夫人が実子の『劉禅』(幼名は阿斗)を産む、2〜3年前の出来事である。
その養子と成ったのは【劉封】と云う、多分12〜13歳の凛とした少年である。
『劉封ハ、本来・羅侯デアッタ寇氏ノ子デアリ、長沙ノ劉氏ノ甥デアル。劉備ガ荊州ニ来タ時、未ダ後継ガ無カッタノデ、劉封ヲ養子ニシタ。・・・・(劉封は)武芸ヲ身ニ着ケ、気力ハ人ニ立勝ッテ居タ。』
はや齢40余才になる今日まで”子宝”に恵まれ無かった劉備はまさか養子縁組の2、3年後に〔我が子が産まれる〕などとは、思いもして居無かったのである。サなきダニ、この【劉封】少年が、劉備集団から可愛がられ、丁重に扱われたのは、ほんの3〜4年の間だけであった。・・・つまり・・・207年に、後主・劉禅(阿斗)が産まれるに及んで、跡取りと決められた【劉封】の立場は、俄然、複雑で微妙なものと化してゆく。
−−何やら”悲劇”の予感がする・・・・。
※その点、『演義』は、劉封の養子縁組を、劉禅(阿斗)の産まれた後に設定する。明らかに、未来の残酷さを薄め、”予防線”を張ったのである。そして関羽には、「既に後継の阿斗様が居られるのに、この養子取りは、将来の禍根になりましょうぞ!」 と、猛反対させて措く。
−−と、謂う事は・・・・・・。
かくの如く・・・・・201年(建安六年)・・・・・
『天下大放浪』の涯てに、久々に安住の場所を得た
劉備一行は、その後、208年までの足掛け
8年を、この荊州の地で、無為徒食の裡に、
ただ漫然と費やしてゆくのである。
その間のエピソードとして、2つの、信憑性の無い”胡乱話し”が、
裴松之の『補注』に掲載されている。
(そこが又、裴松之のオモシロイ所ではあるのだが・・・・)
〔その1〕 −−『漢晋春秋』ーー
『曹公が(烏丸を討伐し、袁一族を根絶やしにして)柳城より
許都に帰還した後のこと、劉表は劉備に向って言った。
「君の進言を採用しなかった為に、この大きな機会を逸して
しまった。」
それに劉備はこう答えた。
「いま天下は分裂しており、毎日が戦争の連続ですから、機会の到来は、これが最後だとは言えますまい。もし今後、機会に応ずる事が出来ますならば、今回の事は未だ、残念がる程の事ではありませぬ。」
・・・為す事も無く、荊州の一隅で、ただ安閑と年月を過ごして居る劉備一行を尻目に、【曹操】は壮キ心ノ已ム事モ無ク、連日連夜不眠不休の大車輪であった。そして遂に207年(今から6年後)、【曹操】は遼東の大遠征を決断し、本人みずからが其の全軍団の先頭に立ったのである。当然、その時、献帝の居る「許都」はガラ空き同然となった。この時、劉備は「−−そこを突け!」と劉表を嗾け進言した・・・が、グズの劉表はそれを聴き入れ無かった・・・と、『漢晋春秋』は、言いたいのである。
−−だが此の時、劉表65歳。既に重い病魔に犯されて居た筈である。(劉表は、その翌年の8月に病没する。)
「あの時、君の進言を採用しなかったので、大きなチャンスを
失ってしまって後悔して居る。」 などとは、言う訳が無い。
劉表の死後に、彼の息子が採った行動 (詳細は後述) を、
心よからず思う者達が、非難を込めて強調する為の牽強附会・
”濡れ衣”の類のエピソードである。
〔その2〕 −−『九州春秋』−−
(そんな無聊の日々に在った劉備の様子について)
『備、荊州に住すること数年。嘗て(劉)表の坐(宴席)に於いて、
起ちて厠に至り、髀裏(内股)に肉の生ずるを見、慨然として
涕を流す。坐に還るに、表、怪しみて備に問う。備いわく、
「吾、常て身は鞍を離れず、髀の肉、皆な
消えたり。今、復た騎せざれば、
髀の裏に 肉 生ぜり。
日月は馳するが若く、老いは将に至らんとす矣。而るに功業は建たず、是を以って悲しむ耳」 と。』
所謂、世に有名な【髀肉の嘆】の故事成語の起源である。・・・・宴会でトイレ立った劉備は、そのトイレの中で、幾久しく軍馬に乗る事も無くなった己の脾に、いつの間にか贅肉が付いている事に気付き、今更ながらに、己の不甲斐無さに愕然としたのであった。(※何故、トイレの中で気付いたのか?ーーの答については、既述した如く、当時の貴人の厠は、超豪華な個室で、褥(ベッド)が備わり、専門の侍女付きであり、小用1回毎に、着衣を全て取り替えたから、着替えの時に気付いたのである。)
日月若馳 老將至矣
若き日月は馳せさり、将に老いに至らんとするに、
功業不建 是以悲耳
いまだ功業建つることなし。是れを以って悲しむある耳
ーー天下相手に大放浪しまくった・・・・
ケタ外れのダメ男
ーーー劉備玄徳・・・・・この時すでに46歳。
ここ荊州で酒宴に明け暮れ、惰眠を貪ること
7年の長きに及ぶ。そして何時しか、3兄弟で
挙兵して以来、実に22年の歳月が
流れ去っていた・・・・・。
もはや若き日の夢も情熱も涸れ涯て、安逸な日常の中に没するのか劉備・・・・・ダメ男は矢張り、ダメなまま朽ち涯てるのか?
それとも、悲しみ嘆く心が未だ残っているだけはマシと、謂うものなのか?いずれにせよ、この儘では、【劉備】・【関羽】・【張飛】、そして【趙雲】たちに明日は無い・・・・・
−−だが、だが然しであった。
そんなダメ男の人生をガラリと一変させ、再び
その夢を呼び醒まし、『天下』と云う現実の高みへと運んで呉れる、
【龍】が出現するのである!!
そして・・・・その【龍】の背に乗った時から、
50間近いダメ男は、もう、ダメ男で無くなる。
そんな素晴しい出会いが待っている。
ーー人生、未だ未だ、捨てたものでは無い・・・・。( ヨッ!! )
【第101節】 戦乱に、別天楽土を咲かせた男→へ