第107節
水魚の交わり
                                  劉備ファミリーの序列




諸葛亮が出仕するや、劉備の生活は一変した。
それ迄の7年間と云うものは、ひがな一日を持て余し、どうやって時間潰しをするかの明け暮れであった・・・・。連日の様に狩りに興じ、連夜の如くに宴に招かれては、贅沢な毎日の連続ではあった。好きな時に寝て、好きな時間にのんびりと起きる。歌舞音玉に浸り、談笑に花を咲かせて居ればよかった。暮らし振りを見る限り、王侯貴族そのもの、満ち足りた日々であった。

−−だが・・・・かつて天下を向こうに廻して、覇業の夢を追い続けて来た男には、それを心から愉しむ事は出来無かった・・・・恒に、心の何処かに、うつろな空しさが付きまとっていた。
《・・・・一去七年いっきょしちねん・・・・俺には、やるべき事が在る筈だ・・・・
 こんな事をして居る場合では有るまいに・・・・!》
己の道を見失った男が其処に居た。己の進むべき未来が判らぬ人間の、苦しく辛い暗黒が其処には在ったーー。


 ・・・・それが一変したのだ!!

諸葛亮孔明と云う、未まだ世に知られる事のない、深淵に潜んでいたに邂逅する事に拠って。 劉備玄徳は、そのの背に乗ろうと必死になった。朝から晩まで、他のものには目も呉れず、ひたすらすがり付き、教えを乞うた。一日中、諸葛亮に懸かり切りであった。 食事は勿論、寝台まで並べて対話し続ける熱の入れようであった。それはそうであろう。充実感が有る毎日が真底嬉しくて、胸が躍り、血が騒ぐ。
何と謂っても、
国を創ろう!』と言うのである。ゼロから一気に、人間界で最大の業績を成し遂げようと謂うのである。愉しからざる訳が無い。ーーそもそも、人間の欲望の中で最大のもの・・・・それは《権力欲》・《支配欲》に外ならない。小例は他者への優越感に始まり、中例は巨額な富の支配、大例は殺生与奪の権力であろうか。そして其の最大のものが《国家権力》、即ち皇帝である。全てが許され、満たされる・・・・欲望の終着駅なのである。洋の東西、時代の前後を問わず、人間が望み得る最大の欲望、究極の願望・・・・直載に言えば・・・・感情の赴く儘に人を殺そうが女を奪おうが、美食の限りを尽くそうが、黄金の寝台に眠ろうが
形而下けいじかの事”は何でも可能となるのだ。どんな綺麗事を言おうと善政を誓おうとも、覇業と云うものの根底には、個人的な欲望が隠し様も無く顔を出す。その余りにも生々しい個人の業を、一見、公けの事蹟として薄め、正当化して呉れるかの如くに立ち現われて来るのが、人々からの尊崇、讃美である。こちらは、
形而上けいじじょうの愉悦”である。この、個人と公人、形而上と形而下の、2つの顔を持つ、《欲望の権化ごんげ》・《究極の煩悩ぼんのう》・・・・その獲得が、現実のものと成るかも知れ無いのだ!!
年齢から謂って、これがラストチャンスであろう。若い頃は、
何十回失敗しても、最後に成功さえすれば、失敗などと云うものは、実際には存在しないのだ!》と、言いきかせ、粘り続けて来た人生だが、その人生哲学も、寿命の壁には克てない。いかに極楽蜻蛉とんぼのダメ男といえども、流石に余命を考えると《是れが最後!》と、悟らざるを得無かった。何を差し置いても、
飛天の極意ごくい治地の奥義おうぎを学ばねばならぬ。

・・・・そして劉備は、眼から鱗を落とした。若い諸葛亮の一言一句に絶句した。《そうか、そうであったのか!》
「ウム、国を持つとは、そう云う事なのか・・・!!」
この齢に成る迄、こんな事を言って呉れた者は誰も居無かった。
「−−国家とは、《組織》です!」
「組織としての国家こそが、個々人の能力を最大限に引き出すのです。その組織を、隅々まで活かし動かすもの、それが《法》で御座居ます。」
「この法の前には、何ぴとと雖も従わなければなりませぬ。」
「その法を定める王たる者は、何を以って其の基準とすべきや?」
諸葛亮から教えを乞わねばならぬ事は、尽きる果てが無い。一日が100時間だとしても、とうてい足りるものでは無かった。そして、つくづく思うのだった。
この劉備が一尾の””であるとするなら、
 
孔明と云う””が無ければ、もはや天下を
               泳ぐ事もあたわない
・・・・。
処が劉備のそうした内的変貌に気付かぬ者達が居た。
義兄弟を自負している関羽張飛であった。まさか、初老を迎えようとしている”兄者”が、王者として生まれ変わらんとしているなど、とても予想できない。
ただ最近は、”軍師”にたぶらかされたのか、一日中入り浸りで、孔明べったりにしか見えない。2人の所へは足すら向けない。10日が20日となり、1ヶ月も続いては、関羽・張飛とて面白くない。
「・・・・関兄、俺達はどうも放ったらかしにされてやしねえか?血盟以来の義兄弟が軽く扱われてると思うんだが・・・・。」
「ああ。確かに孔明殿は頭脳明晰な天才軍師かも知れぬが、俺達の仲は、そう云うもんでは無い!」
関羽と張飛の顔から笑顔が消え、日に日に不機嫌に成っていった。張飛などは、憂さ晴らしの為に、ついに兵卒に八つ当りして、必要以上の猛訓練を強制し始めた。その結果、堪り兼ねた部隊長達が、劉備に直訴に及ぶ事態にまで発展した。

呼ばれた張飛は、不貞腐れてソッポを向くし、同席の関羽も亦、
仏頂面でニコリともしない。
「・・・・どうしたんだ?二人とも不可おかしいぞ。」
「ーー不可しいのは、そちらではないですか!」
関羽の声には、怒気が含まれている。
「そうじゃ!義兄弟の誓いをないがしろにしているのはどちらだ!」

張飛は、眼に涙をにじませて、机を叩いた。
「−−ん・・・・?2人とも、何を言い出すんだ。儂が何時、大事な御前達を、蔑ろにした?何で儂が、永年苦楽を共にして来た御前達を軽んずる?え!」
張飛は、劉備の優しい言葉に、ボロボロと涙をこぼし出す。
「口先だけじゃ!・・・・軍師殿ばかりが必要で、我等など、そこいらの石くれ同然だと思っている!」

一瞬、劉備はポカンとした。《−−ああ〜・・・・、そう云う事か!》
劉備は思わず、心の中で苦笑した。稚戯に等しい、然し、愛すべき2将の心根である。何がし、血盟当時の、なつかしい痴話喧嘩を髣髴ほうふつとさせる。四十、五十に成っても、互いに””は変わらない。
「そうか、済まなかった。軍師殿との接し方が、もし、お主達に、そう云う風に思われる振舞いだったとすれば、これ、この通り、儂は頭を下げるぞ!」
言うや劉備は、2将の前に、深く頭を垂れて見せた。

「−−あっ・・・・!」 「−−うっ・・・・!」
「どうだ?許して呉れるか?」
劉備は、上目使いに、巨大なダダッ子を窺った。この低頭によって、だいぶ機嫌は回復した様である。そこで劉備は、しみじみとした口調で、時々深い溜息を交えながら、己の真心を、関羽・張飛の義兄弟に語り聴かせる。

「−−だがの、儂の気持も察して欲しい。・・・・血盟以来、関羽も張飛も、こんなダメな儂を主と仰いで呉れ続け、命さえ投げ打って来て呉れた。儂には勿体無い、過ぎた仲間であると、いつも思って来た。いっそ、こんな儂を見捨てて、もっと有能な主君に仕えてくれれば、御前達にもこんな惨めな境遇を味あわせなくても済んだものをと、己の不甲斐無さを切なく思い、嘆いて来た。この儘では、あたら天下無双の英雄2人を、終に花咲かせてやれもせず、義兄弟ゆえに朽ち果てさせてしまうのか・・・・2人の為にも何とかせねば成らん、との一心じゃったのだ。そんな今の儂の心境は、ちょうど魚に水が必要な様に、儂に進むべき道を示し、為すべき事を教えて呉れる大軍師が必要なのじゃ。」
しんみりと己のつたなさ、弟達への申し訳なさを語る劉備に、関羽も張飛も”兄者”の真の姿を認めようとしていた。

「この劉備玄徳と関羽雲長、そして張飛益徳の3人は、生まれた日は違っても、死ぬ時は一緒と固く誓い合った【義兄弟】!出会って以来20有余年・・・・苦楽を常に共にして来た今や、我等はもはや本物の肉親である。いや其れ以上のえにしで強く結ばれて居る。たとえ天地が引っ繰り返ったとしても、この絆の深さは不変不動、無窮である!!」
それが劉備の”心の叫び”である事は、その眼差まなざしの真剣さと、身体全体が発する温もりでよ〜く分かる。

「ーーそして又、儂と諸葛亮孔明との関係は、謂わば・・・・・・

水魚の交わりなのじゃ。は自在で、誰にでも恵みをもたらす。つまり、儂だけではなく、儂とは一心同体の御前達も、
天下と云う海を得て、思う存分泳ぎ廻り、力を振える様に成る・・・・と、謂う事なのじゃ。だから軍師殿は、我等3人にとって等しく大切な御仁という事なのだ。御前達の折角の武勇を、真に活かして呉れる道標みおつくしが、諸葛亮孔明どのなのじゃ。それ故、儂にとっては、どちらも無くてはならぬ大切な股肱であり、掛け替えの無い友であり師なのだ・・・・!!」
心の底から発する劉備の苦衷くちゅうは、関・張の二人にも解る。いや、二人だからこそ解った。
「・・・・天下と云う海か・・・・久し振りに、長兄の口から”天下”という言葉を聞いた気がする・・・・。」
衰えを知らぬ関羽の眼光が、キラリと光った。口にこそ出さずに来たが、関羽とて、此処7年の無聊ぶりょうを決して心良く思って居た訳では無かったのだ。それを今、そう表現した。
「また以前の様に、暴れられるのか!?」
張飛は、こう言い表わした。そして最早この時、2将の表情からはわだかまっていたモヤモヤがすっかり消え去り、以前にも増した熱き感動の輝きに溢れていた・・・・・。
於是與亮情好日密。關羽・張飛等不悦。先主
解之曰。孤之有孔明猶魚之有水也。願諸君勿
復言。羽・飛乃止。

是與ここに於いて亮と情好じょうこう、日に密なり。関羽・張飛らよろこばず。
先主、これを解していわく、われの孔明あるは、お魚の水あるごとし。願わくは諸君、た言うなかれ、と。羽・飛 すなわ

                 ーー『正史・諸葛亮伝』ーー
(※ 是れが、いわゆる 水魚の交わり の語源である。)
甘夫人の胎内には、新たな生命が宿っていた。最近しきりに母体を蹴っては、己の小さな命を主張し始めている。
だが夫・劉備の関心は、もっぱら”臥龍”獲得に注がれ、諸葛亮が出仕してからは尚の事、その心は政事向きの方面に没頭している様で、奥へは足さえ運んで来ない。現状に於ける夫の優先事項は、我が子の誕生では在り得無かったのだ。
その上、所詮、男とは、母体内に在る我が子に関しては、親としての実感が持てないものなのだった。オギャアと此の世に姿を現わし存在を抱き上げ、視認し肌に触れて初めて、やっと実感が出て来るものなのだ。それ以前の段階では、男と云う生き物は、女性よりは随分と鈍感でしかない。
そんな男女の差異が有る中でも、とりわけ劉備は甘夫人からは当てにされて居無い。いかに戦国・戦乱の習いとは謂え、甘夫人は是れ迄に何と、3度も夫から見棄てられている。一度は夫の留守を襲われ、あとの2回は置き去りにされた。4回目が無いとは言えないのだ。『兄弟は手足の如く、妻子は衣服の如し!』・・・・と、言い放つ夫の言が、むしろ主君の採るべき態度として讃えられる時代ではあったが、それにしても、女性に対する配慮が完全に欠落している。曹操が妻子に見せるフェミニストぶりに比べたら、劉備には艶っぽさが殆んど無い。(尤も、女禍が有っては”仁君”には仕立て上げられないから、この位に徹底していた方が、いっそ好都合ではあるのだが)

ちなみに、この
甘夫人・・・・彼女こそ、この時代に於ける最も普通の、か弱く従順な、在るべき女性の一典型であった。庶民の出自であったが為に、寿命の涯てる其の日迄、終に『正妻の座』には就けなかった女性である。最初に気安く迎えられた当時の低い身分のまま、従順なそばめの地位で在り続ける。故に彼女の生没年すら伝わらない。 (尤も、皇后クラスで無いと、一般に女性の扱いはかくの如くではあった。尚、諸葛亮によって甘夫人が皇后に認定されるのは、彼女の死後である。)劉備が豫州の牧時代に、その妾として迎えられるが正妻が次々と亡くなるので、奥向きの切り盛りは事実上、彼女が一手に担っていく事となった。だが”身の程”を心得てか、正妻の座を願う事もせず、3度見棄てられる浮目に遭っても愚痴1つ言わず次々に代わる正妻に大人しく仕え続けて来ている。そして今も是れからも、身分はしょうと云う側室の儘であり、年下の正妻・【夫人に仕える立場に甘んじて居る。

そんな【甘夫人】が、誰よりも頼りにし、心を預けているのは、
趙雲子龍その人であった。夫の劉備以上にである。甘夫人の周辺に在る男性と言えば、夫の劉備、関羽、張飛、趙雲であった。諸葛亮とは未だ、顔を合わせた程度でしかない。
 この内、関羽と張飛は、甘夫人が迎えられる以前からの義兄弟であり、親族の無い夫にとっては肉親以上の特別関係者なのであった。この3者の絆の間には到底割り込めない、強烈な仁侠のオーラがあった。だから夫人の方からは、口を挟む余地の無い別世界に近い。気軽に甘えたり、ねだったりの関係には、どうしても成れない。
だからと言って、2人から粗略に扱われる事など決して無いし、関羽などは曹操の人質期間中、主君に仕える如くに誠心誠意を尽くして呉れた。涙が出る程に有難かったが、正妻は糜夫人であり、甘夫人は2番手であった。その序列態度には何の不満も無いが、やはり其の行為は、”情”より”義”から来る動機によるものであり、何処とはなしに堅苦しさを感じずには居られない。

それに比べると『趙雲』には、余計な堅苦しさを感じずに、素直な気持で接せられた。7年遅れて出仕した趙雲の方も、甘夫人と同様な立場に在った。義兄弟の3者とは、どうしても距離を置かざるを得無い。年齢的にも差があり、むしろ甘夫人に近い。どこかしら似た者同士の様な親近感が有った。そして何よりも、趙雲自身の人間性が、最大の原因であった。
−−趙雲ちょううん 子龍しりゅう・・・・
身長八尺(180cm)、姿や貌が際立って立派であった・・・・と、『趙雲別伝』に特記される程の美丈夫であった。趙雲の肖像 その上、劉備陣営に在っては、最も人間的にバランスのとれた人物であると観てよいだろう。おごりが全く無い。誰に対しても見下す様な処が無く、かと言って謙虚過ぎもしない。関羽や張飛の様に「義」を前面に押し出すアクの強さを感じさせず、その言動は常に誠実で、清廉な心根が滲み出ていた。然し、いざと成れば、たとえ主君であっても是々非々の姿勢で直言を厭わない。又、不言実行型で、ここぞ!と云う場面では、必ず期待以上の活躍をして呉れる。無条件に信頼できる、頼もしさ此の上もない存在である。
派手さは無いが、いぶし銀の様に底光りする、渋い男で在り続ける。殊に、劉備周辺で己の生を全うした武将は少ないのだが、彼は2代に渡り、最後まで諸葛亮を支える貴重な重鎮の役目を果すのである。そうした、実質的・実際的な功労を認めて
陳寿も、其の
(1人1人の伝の最後に加える総合人物評価)において
彊摯壮猛、並作爪牙。其灌・滕之徒歟。
ーー
彊摯壮猛きょうしそうもうニシテ、並ビニ爪牙そうがル。
            かんとうノ徒
。』・・・・として、
前漢建国期の武将であった「灌嬰かんえい」や「滕公とうこう夏侯嬰かこうえい」タイプの、堅実・誠実型の人物だと称讃している。ちなみに、前漢建国期の有力武将と言えば、
韓信かんしん」・「黥布げいふ」・「彭越ほうえつの名が先ず挙げられるが、彼等は確かに派手に大活躍したが、結局、最期を全うする事なく世を去る。それに比べたら華やかさには欠けるが、灌嬰
夏侯嬰は重臣として其の生涯を全うしたのである。ーー詰り、趙雲と云う人物は、関羽や張飛の様な派手さは無いが生涯を通じて”実の有る男”であった・・・・と評されるのである。平素は粗野な面は一切見せぬ貴公子だが、ひとたび戦場に立つや、
常山じょうざんの趙子龍、一身 れ すべきもなり! と、
主君を驚愕せしめる程の豪壮さを秘めている。これは決して、褒め過ぎではない。これから後の歴史が、それを証明してゆく。そもそも趙雲自身は、そんな風に自分を評価している処すら無い自然体なのである。およそ現世の毀誉褒貶きよほうへんに、これほど執着しない人物もめずらしい。
又、女性に対しても、毅然とした潔さを有する男であった。後に、偏将軍として桂陽郡太守を兼務した時の事・・・・それまで太守であった趙範と云う男は、趙雲の機嫌を取って、己の身の安全を確保しようとした。
樊氏はんしと云う非常ナル美人を提供したのだ。趙範の兄嫁に当る絶世の美女で、若後家となっていた為、我こそはと名乗り出る男達は退きも切らず、彼女との再婚は、男どもの羨望の的になっていた・・・・と云う按配であった。だが趙雲は、この据え膳をキッパリ拒絶した。「同姓である故、趙範殿の兄さんなら私の兄と同じ事になるではないか
儒教社会に於いては、同姓結婚はタブーである。が、この場合は何とでも言い訳できるケースであった。だから、これ程の美形を勿体無い、とばかりに、彼女を娶るよう熱心に勧める者がいた。然し趙雲は、女の見目みめに惑わされる様なやわな者では無かった。

「趙範は切羽詰って降伏したに過ぎず、その心底は未まだ測り兼ねる状況だ。
第一、天下に女は大勢いるのだから。」
”真の意味で女に強い”、彼の面目が躍如として伝わるエピソードである。かくて趙雲は美貌の樊氏を娶らなかった。窮余の一策に失敗した趙範は、やはり逃亡したが、絶世の美女を手に入れなかった事については、趙雲は何の未練も持たなかった。

 (男たる者、ウソでもいいから、美人を前にして、そんな事を言ってみたいものだ・・・・。)


趙雲のバランス感覚を示す、こんな事実もある。諸葛亮が出仕する以前、劉備が荊州に逃げ込んだ頃の事ーー曹操の命で進攻して来た夏侯惇を、れいの
博望坡はくぼうはで迎撃して、みごと勝利した。この時、趙雲は夏侯蘭かこうらんを生け捕りにした。夏侯蘭は趙雲と同郷の者で、幼い頃からの知り合いであった。そこで助命嘆願した上法律に詳しい人材として推薦した。その結果、劉備は夏侯蘭を〔軍正〕として取り立てた。だが、それ以後、趙雲自身は、決して自分の方からは、夏侯蘭に接近しようとはせず、現在もそうしている
これが関羽や張飛であったなら、恐らく善意の余り交渉を持ち続ける事であろう。その結果、幼な友達は、助命して呉れた相手に一生頭が上がらない。又その一方で、彼との特別な関係から、周囲に対しては、己の実力以上の影響力を持ち始め、家臣団の中に不要な軋轢あつれきやら反発を生む事となろう・・・・趙雲は、そう云う配慮が出来る人間でもあった。
そもそも趙雲子龍と云う男は、劉備を知る以前からして、物欲とか名誉欲の類からは、程遠い所に立っていた。その青春時代から、彼の価値観は物質世界には無かった。己の人生の目的を設定する際、単なる「武人」ではなく、より精神世界を重んずる『士大夫』と成る事を目指したのであった。彼の思い描く『士大夫したいふ像』とは・・・「名士」と「武人」の中間に位置する評価を受ける武将で、その両方の要素を兼ね備えた均衡の取れた人間・・・なのであった。若き趙雲は、それを目指した。爾来、その様に生きる事をこそ、己の至上価値として心に期したのだった。 だが、若き趙雲が最初に仕えた
公孫讃は、血の繋がった一族の者をしか信頼せず、むしろ家臣(名士)を排除する姿勢の主君であった。若き趙雲の、燃える様な思いを理解して呉れぬ主君でしか在り得無かった。
そこへ落ち延びて来たのが
劉備であった。己の赤心を解ろうともしない公孫讃に比して、劉備の人を大切にする器量は、すばらしく新鮮で、感動的ですらあった。
《俺が、生涯仕えるのは、この人だ
!!
理想に燃える趙雲は、劉備の其の人物にすっかり魅惑されてしまった。その家臣には関羽と張飛と云う、憧れの武人も居た。
この時以来、趙雲子龍は、
《いつの日か必ず、劉備様の下で己の理想を実現してみせる!》
と、深く心に誓ったのである。<そして7年待って、劉備の下へ出仕したのだ。何も7年間も待つ必要は無いと思われるが、士大夫たる者、2君に仕える事は許されない・・・・とするのが、趙雲の趙雲たる所以ゆえんであった。最初に仕えた公孫讃がバベルの城で滅亡する迄、兄の喪を理由に、身を野に置き続けて居た。己を認めて呉れぬ主君ではあったが、主君は主君である。この7年の間に天下は大激変し、群雄割拠の時代は終わりを告げようとしていた。そして
袁紹曹操2雄時代が始まった。その際、趙雲ほどの英傑であれば、主君選びは思いのままである。にも拘らず、彼が選んだのは袁紹でも曹操でも無かった。この2強に比すれば塵芥ちりあくたに過ぎない、大放浪中の劉備を、何の躊躇ためらいも無く選んだのである。しかも劉備自身は最悪の状況下に在り、未来には何の光明も見い出し得無い、悲惨・暗澹たるドン詰まり時期だと謂うのにであった。これだけを観ても、趙雲子龍が、そんじょそこらの部将では無い事が判ろう。筋金入りの本物である。

この趙雲の本物ぶりは、諸葛亮こそが最も高く評価してゆく。彼を己の信頼の中心に置き、我が右腕としていくのであった。趙雲も亦、諸葛亮を心から尊敬し、その期待に応えてゆく。

ズッと後、劉備は
」の4大将軍を設けるが
遅れて仕官した
馬超黄忠に華を持たせる為、実力からして当然就けるべき趙雲を外している。
《此処はひとつ、事情を察して我慢して呉れぬか・・・・。》
そんな断りを言う必要も無く、意にも介さぬ趙雲であった。誠に奥ゆかしくも、頼りになる男である。関羽や張飛の2大看板には、とてもそんな事を頼める筈も無い。そこら辺の”阿吽あうんの呼吸”は、既に現時点でも、この主従の間には出来上がっている。流石に劉備は、趙雲の其の人物をよく呑み込んでいた。

趙雲を主騎に任じているのである。本来”主騎”とは、主君の専属警護役である。然し劉備ファミリーの場合、趙雲の生真面目きまじめな人柄と情の厚さは、いつしか其の枠を超えて、主君の家族への★★☆☆警護と奉仕★★をも含む様になっていた。つまり劉備は”女性に強い”趙雲に、〔奥向き〕に関する総目付役を兼務させていたのである。これ程の適材適所はあるまい。万事にソツなく気配りが為され、そのうえ誠心誠意の真心が通っていた。
(※事実この後、この措置のお陰で、『阿斗』は2度に渡って、趙雲に命を救われる事となる。)

臨月が近づいている甘夫人にとっては、そんな趙雲の存在は、殊のほか不可欠な心の支えと成っていた。この2人の関係には、出会った当初から、似た者同志の共感が在った。互いに、遅れて来た者の気兼ねや、一番下の位置に甘んじて居られる澄んだ心根などを共有していた。年齢も近い。自然に情が濃くなる。無論、女性に潔白な趙雲であるから、恋愛感情とは異なるが、彼女を大切に思う心は、此の世で最も強いと言ってよいものと成っていった。
ーーそして、その【甘夫人】が、ついに男児を出産した。よわい47にして初めて得た男子である。劉備の歓びたるや尋常では無かった。もう晩年に近い歳からして、実子を得る事は諦めかけていた矢先の事である。若い父親とは違って、限り有る人間の命を受け継いでいく『生命連鎖』としての歓びを、より重く実感する劉備であったのだ。然も、功業を継ぐべき男児である。諸葛亮が示して呉れた、「新しい国の建設」にも、張り合いが出ると謂うものだ。
だから、其の児には
劉禅りゅうぜんと謂う名が命名された・・・世を清め平らかにする者、又、国を譲られるに相応しい有徳者たれ・・との願いが込めらた命名である。幼名は・・・・甘夫人が身籠った時に、北斗七星を呑んだ夢を見たとされ阿斗あととした。
               (※阿は、「阿瞞」「阿蒙」など、児童に冠せられる一般的な愛称)
この『阿斗様』誕生で、劉備主従、その麾下の者達全員が祝賀の念に沸き立った。連日連夜に亘って宴が催され、ファミィリーの慶事として歓び合った。
−−だが・・・・此処に1人だけ、微妙な立場に立たされる事となる人間が居た。劉備に乞われて、4年(3年?)前に”
養子”に迎えられていた劉封りゅうほうである。この時、彼は12・3歳であった。未だ無垢そのものの純真な少年である。乞うて養子に迎えた位だから、その人間的資質や気宇・気力はズバ抜けた少年であった。
・・・・だが、「血は争えない」と謂うのが世の常である。劉封に対する風向きは、本人の意識しない此の瞬間から、微妙に変わり始めてゆく。ーーそんな或る日・・・・劉封少年は、関羽に呼ばれる。
「何用で御座居ますか、叔父上おじうえ?」
”父”の義兄弟である関羽は、劉封にとっては”叔父”となる。
「劉封よ、申し付けて置く事がある。」
今迄は『劉封』と呼んでいたのが、『劉封』と、呼び捨てに変わっていた。

「よいか劉封、阿斗様ご誕生となった上からは、その方、ユメユメ心得違い無きよう、父上に忠孝を尽くすのだぞ!」

「ハイ。・・・・ですが、私は心得違いなど致しては居りませぬ!」
少年の気迫は、関羽にも引けを取らない。

「・・・・ヌ。この儂に、口答え致すか!」
「いえ、口答えでは御座居ませぬ。私が何時、心得違いを致し
ましたか?おっしゃって下されば、直ちに改めまする。私は常に、父上の為なら、命も惜しまぬ覚悟で居ります。」

「それで善い。お前も儂も、劉備玄徳の”家臣”であるのだ。だから、〔後主は阿斗様!〕 と、心して居れよ。」

「・・・・父上からは、何も聴いて居りませぬ・・・・。」

「これは我等、家臣一同の決定じゃ。」

「これは叔父上、異な事をお聞き致しまするな。家臣が主君を差し置いて事を決するとは、亡国の始まりではありませぬか?」

「黙れ!利いた風な口を叩くで無い。お前如き若僧に何が判る?ただ素直にハイと従って居れば善いのだ!」

想わぬ反撃に、年甲斐も無く関羽は激昂してしまった。こんなり取りになるはずでは無かった。情を込めて、優しく悟す心算つもりで居たのだ。  「・・・・・・。」
「−−もうよい、退がれ。くどくは言わぬ。”子”である前に忠烈な
”臣下”で在って欲しいだけじゃ。」
「はい、御忠告、かたじけのう存知ます。」

「・・・・ウム・・・・。」
この一件は明らかに関羽の一存で、秘密裏の会話であった。だが、この劉封に対する”態度の変容”は、関羽一人に限った事では無く、その後は全ての重臣達の接し方となってゆくのであった。

 すなわち、阿斗誕生の瞬間から、劉封の立場は暗黙の裡に、〔御主君の子〕として扱われる事から、〔一人の部将〕として接せ
られる事へと方向転換したのであった。しかし流石に、面と向かってズカリと言い放ったのは、関羽だけであった。これはやがて、劉封が長ずるに及んだ時、〔怨み〕 と成る危険を孕んだ、きわどい一場面であったのだ。まさか此の事が12年後、関羽を窮地に追い込み、劉封自身もが破滅する伏線に成ってゆこうとは、両者ともに夢想だにしては居無かった・・・・。


劉封・・・・わずか20余歳にして最期を迎える
  此の人物・・・・諸葛亮や劉備をスーパーヒーローとして描く、
  『三国志演義』にとっては、誠に困る邪魔者・厄介者として、
  史実を捻じ曲げ、真実を覆い隠さねばならぬ存在である。
  ーー詳細はいずれ描くが・・・・
      詰まる所 (演義ファンにはショックではあろうが)・・・・
血を分けた「劉禅」との権力闘争を危惧した諸葛亮の指示により父の劉備から自殺を強要されて、怨めしく涯てていくのである。
ハッキリ言えば、諸葛亮と劉備の共同謀議によって、粛清の対象と見做され、殺されるのである。
劉備と諸葛亮は”子殺し★★★”を行なうのである!!
純情一途に忠義を尽くし、各地を転戦しては数々の武勲を積み重ね続けたにも関わらず、”政治”と謂う非情な魔物は、いざとなれば親子の縁さえも平然と犠牲にしていくのだ。歴史の真実はシビアである。ーー
正史は、その冷厳な事実を(当然の事だが)史実として隠さず劉封伝りゅうほうでんの中で淡々と記している。
だが、これは
三国志演義にとっては、何が何でも隠蔽いんぺい糊塗せねばならぬヤバイ史実である。儒教倫理の厳しい古代中国に於いては、養子縁組は、即ち、実の親子であった。況してや、劉備は有徳の君主であり、孔明は決して過ちを犯さぬ清廉の君子でなくてはならぬのである。だから”自殺★★”の原因・その責任は、全て劉封の”自業自得”とされ、読者は納得させられてゆくのである・・・



           

だが其れは未だ未だ先の出来事である。
今はただ、大軍師を迎えた喜びと、「阿斗様」
誕生を祝う二重のウキウキした空気が、
陣営内を一杯に覆っていた


この《第107節》も、目出度い諸葛亮の出仕に水を指すのが
目的では無い。ただ筆者が指摘して措きたいのは・・・・

激動の戦国時代を生き延び、ましてや新たな国を建てようとする為には、綺麗事だけでは済まされないシビアな現実が存在する
                           ・・・・と謂う事である。
そして其の事は、たとえ宇宙ニ垂ル様な大天才と言えども、決して例外では無いのであり、否、寧ろ、智謀とは正に、往々にして、そうした汚れであり、人を欺く事なのである其れがスッキリ、すんなり成功するか?それともドロドロ無限地獄へ落ち込むか?・・・・その在り様が(後世の)評価の対象に過ぎぬものなのであろう・・・・。(読者の受けを狙って?)面白可笑しく都合の好い改竄かいざん捏造ねつぞうを行なう事は、読み物小説になら許されもしようが、歴史とは、そう云うものでは無いのである。

そんな中、この男児出産を、父親以上に祝福した人物が居た。勿論、趙雲である。甘夫人出産までの長い日々、変わらぬ心情で何くれとなく気を配り続けて来た趙雲にとっては、この『阿斗様』は格別な存在である。特に臨月が近づく頃、劉備は諸葛亮を得る事に心が向きっぱなしであった。又、誕生後も、諸葛亮との対談で夜も日も明けぬ状況である。自然、趙雲は事実上の父親役となった。その献身ぶり、可愛いがり様は
男乳母と言ってよい程であった。それは間接的に、甘夫人を大切に想う事につながる。甘夫人も亦、この出産を通して、これまで以上に、趙雲に対する感謝・信頼の念を、より深いものとするのであった。
是れが後日、
趙雲伝説を産む深層の動機にも繋がってゆく・・・・



次節では、その男達の伝説について触れてみよう。
   
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