第106節
ダンディな軍師
                               孔明の出盧 





光まばゆい外の春景色・・・・その陽光が余りにもまぶしくて、漆黒しっこくにさえ見える座敷の奥に妻が居た。そして、その溢れる光と、室内の陰との間の、そのどちらでも無い濡れ縁に、淡くたたずむ良人が居た。ーー丸で、流れが止まった様な穏やかな時の裡・・・・
その光でも影でも無い空間に在る
諸葛亮の肩先に、薄桃色の花びらが、一片ひとひら舞った・・・・。

「折り入って、そなたに話しがある・・・・」えんに立つ良人おっとは、うららな外の景色をでたまま、ポツリと言った。 「はい・・・・。」
ーー
建安12年(207年)の、或る春のあしたの事であった。

「本日、私はこのいおりを出る事となる。程無く、劉備玄徳殿がお見えになるであろう。今日限りを以って、そなたを離縁いたす故、承知して欲しい。」
後手姿の孔明の足元に、更に一片ひとひら
                 又一片ひとひらと薄紅色の花弁がほころぶ。
「御配慮、勿体無もったいのう御座居ます。わたくし、嫁いだ時から、この日の有るを心致して居りました。こんな私に、深い愛情を注いで戴き、本当に毎日が幸せで御座居ました。」
良人おっとの背に向かって、正座したままの妻の声であった。

「すまぬ、許して呉れ。」

孔明は、ようよう春めいて来た庭先を見つめた儘であった。

「いえ、許すなどと、おっしゃらないで下さいませ。・・・女の幸せは時の長さでは測れませぬ。世の夫婦の何倍もの幸せを、私達は育んで来て居ります。私に何の不満が御座居ましょう。今、私の心に在るのは、あなた様が御出世なさる、只その嬉しさだけで御座居ます。」
日頃は、これほど多弁な女性では無かった。孔明は、そんな妻の健気けなげな心根に、つと、手を取った。
「そう言って呉れるか・・・・。私も、本当に良き妻に巡り会えたと
 思っているよ。多くの言の葉を費やしても、所詮は男の都合。
 私の身勝手なのだが・・・・。」
「それ以上は、御話し下さいますな。私は今も充分に幸せで
 御座居ますし、これからも幸せで居られます。
           さ、目出度き御出立の御用意を為されませ。」

良人の手をそっと振りほどくと、妻はことさらたのし気に立ち上がり、奥へと向かった。3日前より、良人が斎戒沐浴さいかいもくよくしている事を識り、己も亦、密かに身を清めて居る妻であったのだ・・・・。




一方・・・・劉備玄徳47歳・・・・思えば此の幾星霜、自分なりには常に天下を臨むこころざしに基づいて暴れ廻って来た。だが結局、大放浪を繰り返すばかりで気がつけば今も、またまた他人様の世話になって居る・・・・この後の人生を、一体どうしたら善いのか、さっぱり判らない。己に附いて来て呉れた天下の豪勇、関羽張飛趙雲にも、この儘では陽の目を見せて遣れそうにない。現状では、遅かれ早かれ、いずれ曹操に追い詰められ、何処か天下の隅っこで、野垂れ死にするしか無いーー何とかしなくては・・・・!と思うが、其の途が全然判らない。何にすがったら善いのか?其れすら見い出せない、ドン詰りであった。お先真っ暗、絶望的状況なのだった。
外見は大人風たいじんふうで、淡々と生きている様に観られがちな劉備だが、その奥処おくがには自己嫌悪と自信喪失の暗渠あんきょが、深い傷跡と共に、この男を苦しめ続けていたのである。
−−其処に
光明が見えて来たのだ!!年齢だの、実績だのは物の数では無い。いや寧ろ此の際、全く若くて斬新な時代感覚を有する人間こそが唯一、閉塞状況の打開力を持って居るに違い無い。自分達が識らぬ間にうしなってしまった、若いエネルギー・旺盛な覇気・・・・義兄弟達が如何に不満であろうとも、劉備集団の浮沈・死命を握る人物なのだ。自分達が生き残れるか何うかの瀬戸際なのである。たった3度の往来で、生きる途が判るなら、お安い御用である。こんな頭でよかったら、何度でも下げて見せよう!
3度目隆中訪問は、
                 春まだ浅い、その日の事であった。
趙雲、今回は、そちも一緒に参れ。」

劉備主従4人が、臥龍岡の草盧に着いたのは、正午前となった。

「今度、あ奴が、居留守でも使ったなら、我々の好きな様にさせて
 戴きますぞ!宜しゅう御座居ますな!」
流石さすがに今度は、張飛までもが御機嫌斜めであった。3回目のともを仰せつかる迄の間、
関羽張飛は、互いに顔を合わせる度にさんざん不満・不愉快をぶつけ合った。
『我ら武人をさげすむ名士を、何で此処まで礼遇しようとするのだ!』

『それも高が27歳の、何の実績も無い書生相手ではないか!』

『天下の左将軍と、3大豪傑がノコノコと雁首そろえて、
                       呼び付けられているんだ!』
『どうも最近の長兄は、名士達との宴会漬けで、すっかり奴等に
                      丸め込まれてしまって居る!』
『いくら”主命”と言われても、もう、これが我ら武勇の者の
                              我慢の限界だ!』
趙雲だけは初めて同道できる事を素直に喜んでいる風だった。
「今度こそ、必ず居られる
!!もし、居られなんだら、好きな様に致すが良かろうぞ。」
主君が余りにも自信たっぷりなものだから、関羽と張飛はシブシブ従って来て居る。



「−−あっ!!」見慣れた柴門の前に、あの妻女がたたずみ、一行を出迎えて呉れて居たのだ。

《いよいよ龍の出現か!我が限られし人生に光明が射すのか?》

47にして初めて、劉備玄徳の心は、若者の如くに踊った。

「三たびの御来訪、心より御待ち致して居りました。本日は、皆様方に、主人の在宅をお伝え出来る事となり、私も我が事の如くに喜んで居ります。」

ヒラヒラと、劉備の肩にも、淡く桃色の花びらが舞う。
「おお!ついに先生にお会い出来るか!!」
劉備の顔が、パッと輝いた。妻女も花の様に微笑えんでいる。

「主人は朝から、あちらの草堂に籠って居ります。」

なるほど、妻女の示す先には、小じんまりとした、いおり風の草堂が在る。3回目の今日まで、在るとは全く気付かなかった草堂であった。それもその筈、1回目は門内に入るも叶わず、2回目は大雪であった。
「そち達は、この柴門に控えて居れ。」
玄徳は独り、恋しき人に会うかの如く、胸の高鳴りを覚えつつ、草堂に歩を踏み入れた。


《−−これは・・・・




一刻、また一刻と、春の陽光は穏やかに天空を滑っていった・・・・
初めの一刻は、やっと会えた安堵からか、門外の3将も、春うらら
の野山を愛でる気持で和んで居た。然し、次の一刻となると、次第にんでくる。
張飛は鼻毛を抜き始めた。関羽も、後ろ手で往ったり来たりを始める。7年遅参の趙雲だけは、大先輩の様にはゆかず、手持ち無沙汰に佇立して居た。・・・・欠伸あくびが出る。腰を降ろす訳にもいかぬ。一応は警護の役である。が、所在も無い瞬刻の連続は、途轍もなく長く感じられる。
二刻目が流れ出した頃、とうとう張飛がシビレを切らした。
「・・・・遅いなあ・・・・。」「確かにチト、時間が掛かり過ぎる・・・・。」
「左様で御座居ますなあ・・・・。」
3人の気持が一致した。
「チクと覗いて来て呉りょうぞ。」 「叱られは致しませぬか?」
「なに、そっと見て来るだけだ。2人で様子を見て来るから、お主は此処を守って居れ。」

趙雲を歩哨に残すと、関羽と張飛の兄弟は、そろりと柴門を潜った。そして忍び足で草堂に近づく。

−−と、其処に見た光景に、2人は愕然となった。な、なんと、主君は直立不動のまま、草堂の入口に立たされ続けて居たのだ

《これは一体・・・・?》
合点がいかず、思わず顔を見合わせた兄弟が、あやしみつつ草堂の中を見透かしてみて・・・・仰天した・・・・!!

あろう事か、草堂内の人物は、昼寝をして居るではないか

寝台に長々と横たわり、スヤスヤと午睡をむさぼって居たのだ!
《−−ウウ・・・・こ、この野郎〜!!》 ムラムラッと、怒気が体に充満して来た。既に2時間以上が経っていた。
《あ奴、何様の心算で居やがるんだ!?》
天下の英雄達を3度も呼び寄せた上に、今度は其の眼の前でノウノウと昼寝をして平気で居るとは!!
《御主君も御主君だ。何で、そこまで我慢する必要が有ろうか!》

関羽と張飛は実際に言葉を交した訳では無かったが、互いの気持は手に取る様に判った。
《よう〜し!目に物見せてやる!!》

2人は眼顔めがおうなずき合うと、憤怒の一歩を踏み出そうとした。

−−HASSHI!!
怒鳴り込もうとした瞬前、劉備の猛烈な”気”が、2人の巨人を圧していた。振り返った主君の、其の物凄い形相・・・・
−−!!
血盟以来20数年間、今まで一度も見た事の無い、劉備玄徳の恐ろしき気迫であった。
邪魔すな戻れ!!是れは、玄徳と孔明、
        雲と龍の両者だけの宿命である

声は低いが、ヤクザの親分時代に似た、いや其れを凌ぐ如き鋭く重い眼光であった。めつけられた2人は、思わず直立して居た。天下の2大巨勇がビビる位だから、その形相たるや鬼神を欺くかの如きであったと言えよう。
し、然し・・・・天下の左将軍を、2時間以上も庭先に立たせて置くとは、以っての外!!
流石に声は殺したが、関羽の怒りは納まらない。

ウヌ、火を着けて叩き起こしてやる!!
兄者、その役は俺に任せろ
張飛なら、やり兼ねない。

先生は只、何時も通り、既に眠って居られて知らないのだ。儂が待つのは儂の一存じゃ。儂の心なのじゃ!気に喰わぬなら儂を殴れ!さも無くば直ぐ戻れ”主命”ぞ!門前にて控えて居れ!

と、寝台上の人影が動いた。「ウ、ウ〜ン・・・・。」と、寝返り一つ、こちらに背を向けると、再び眠り続ける。

さ、・・・・さ、さ、さあ!それを潮に、2兄弟は門外へ去った。だが然し、それからが又、大変だった。不承不承、草堂から離れて来たものの、関羽・張飛のプライドとアイデンティティは、いたく傷付けられていた。反発の炎に包まれたまま、一向に納まらないいや却って、我慢を強いられた事に因って、出会う以前から2人の諸葛亮への反感は、一層増幅される事となったのである。この時もし、なだめ役の趙雲が居なければ一体どう成っていた事やら・・・


転瞬、孔明の姿はサッと寝台を滑るや、衝立の陰に消えていった。ーーと・・・・・門外で荒れ狂わんとして居た関羽・張飛と、それをなだめて居る趙雲の耳に、朗々たる臥龍の吟ずる深い声が響いて来たーー
       大夢  誰か 先ず覚む
       平生  我   自ら知る
       草堂  春眠  足れり
       窓外  日   遅々たり

《−−これが、龍の姿なのか・・・・
劉備玄徳は今、己の眼の前に居る人物に、自分の魂が穏やかに吸い込まれる様な、心地良い陶酔感を覚えていた。多くの英雄・豪傑と交わり、酸いも甘いもめ尽くして来た47歳が弱冠27歳の白面人士に惹き付けられてゆく・・・・。こんな、えも謂われぬ体験は、かつて無かった事であった。

其処に現われた
諸葛亮孔明の出で立ちはーー
      
『頭には
糸侖巾かんきんを戴き、その手に鷹の羽毛扇うもうせん
 身には
鶴敞かくしょうしろくつpくろ糸條おび
 かんばせ冠玉かんぎょくの如く唇は朱をぬれるがごと
 飄々然ひょうひょうぜんとして神仙のおもむき有り・・・・』

         (三国志演義・第116回で、敵将・鍾会の夢の中に現われる孔明の姿)

無位無官の一介の書生とは凡そ掛け離れた・・・・ゆったりとした
清雅の中にも、大きく人を惹きつける、大軍師の趣きである。

《そうだとも。不肖・劉備玄徳は、この若き御方こそを、我が軍師として、お迎えに伺ったのだ
》その謙虚で坦懐な心根がおのずと劉備の居住まい全体の裡に現われていた。対する孔明の居住まいの裡にも亦、己の一命を捧げて仕えんとする誠が溢れていた。実は孔明も気付いているのだった。
《これ迄の非礼、お許し下されよ。よくぞ此処まで、我が意をお汲み取り下されました。流石に、この諸葛亮が惚れ込んだ御人だ!


ーー以心伝心、相思相愛・・・・人が人として、初めて出会った時に感じ得る、互いの好感度の最良のファースト・インプレッション・・・それが、互いに、無言で対面しただけの段階で、早くも成立していたのだった。こればかりは理屈では無い。その人間同士が持ち合う”相性あいしょう”であり、大仰に言えば、その人間同士に定められていた
”宿縁”・”えにし”以外の何ものでも無かった・・・・。


「改めた御挨拶申し上げまする。私は漢の臣にして左将軍を拝命する劉備玄徳、中山靖王・劉勝の末裔ながら、いまだ愚昧にして己の進むべき道、採るべき方策すら識らぬ俗物に御座居ます。
この度、先生の御高名を慕い、三たびの訪問にて、ようやく本日お会い出来る事と相成り、真に心嬉しく、生涯最良の佳き日と、己自身を寿ほいで居りまする。先生、どうぞ、この愚かな私に、進むべき道をお示し下さいませ。劉備玄徳、ここに深く深く頭を垂れて御願い申し上げまする
!!

「これは丁重なる御挨拶、痛み入りまする。」 
孔明はそう言うと、歩を進めて己の位置を戸口側に変えた。劉備の立つ位置が、上座となった。
「臣・亮、三たび訪れらるるを以って、我が光栄の極みと致し、生涯、この身命を貴方様に捧げ奉りましょうぞ。」
嗚呼ああ有り難きかな!劉備玄徳、よわい四十と七にして、初めて大軍師を得るか・・・・
!!
思わず知らずに手を取って感激する劉備に、孔明のやわらかな美笑ほほえみが、清々すがすがしく輝いていた・・・・。


           
関羽・張飛・趙雲が呼ばれた。「大仰な奴め。俺達を呼び付けるとは、どれ程の者か。この眼でしかと見届けて呉れるわ
口には出さぬが関羽も張飛と同じ心境であった。趙雲だけはやや違って、対抗する様な、突っ張った気持にはなって居無い。だが、いざ実際に対面するや、関羽も張飛も、発すべき言葉を失っていた。・・・・是れ迄の人生で未まだ嘗て接した事の無い、何とも言い難い相手の《存在感》であった。肩を怒らせた”武”の威圧だけでは、どうにも対抗しきれぬ、何か自分達とは丸きり異質な重厚感である。思わず、大きな宇宙に吸い込まれていってしまう・・・・・。

「先ず第1に、我等に差し迫った、緊急な課題について、お話し申し上げまする。」
《・・・・”我等”だと!? 気安く言うな・・・・。》
それでも尚、相手の大きさに引き込まれまいと、心の何処かが、面子を保とうと抗っている。

「今もし、曹操軍100万、此の荊州の地に迫ったら、諸兄いかが為されるや?」
ーービシリと本題に入って来た。
「・・・・ウ、ウウウウウ・・・・。」

「−−曹操に降られるや!?」

愚かで些細な全てがブッ飛んだ。
「否
それだけは断じて有り得無ぬぞ我等、曹操と相い交えること既に久し。力及ばず此処に至ると雖ども、屈する気など毛頭御座らぬ
「そうじゃとも
あ奴に屈する位なら、死んだ方がマシじゃ。必ず
”借り”は返して見せる

「私も、曹操に仕える気など欠片かけらも御座居ませぬ


関羽、張飛、趙雲の順で、口々に異を唱えた。

「成る程・・・・流石は、『劉備の下に忠臣在り!』と言われる方々。この孔明、諸将が決意のほど、然と胸に刻みました!而れども、今、我が御主君がお持ちの兵力は如何ほどで御座るか?」

「・・・・万にも満たぬ。数千であろう・・・・。」

劉備を筆頭に、一同、慙愧に堪えず、思わず伏し目がちになってしまう。数千で百万に対抗し得ぬは、幼児でも判る理である・・・・。

《−−で、何うすると言うのだ??》
無言の時間の中に、おのずから期待感が醸成されていく・・・・。

「こちらも100万の軍を持ちましょうではありませぬか。」
「−−?・・・・
??
「荊州全体で100万。我が直属軍が20万では如何がで御座居ますか?関・張・趙の指揮あらば、互角に戦えると思いますが?」

「そ、それなら、互角以上だ。勝てる!!」
「だが、一体、そんな大軍が、何処に有ると申されるのじゃ?」
期待3分と怪訝けげんが7分であった。
「方々は、今や此の荊州が、天下第一の大州である事を御存知でありましょうか?中原の諸州を合わせた以上の大国なのです。然るに兵が少ない。ーー実は・・・・戸籍に載らなぬ幽霊人口が、何と300万人は居るので御座る。」

「・・・・幽霊人口・・・・300万人・・・・?」
「途方も無い数ですな!」 「では、荊州の本当の人口は?」
「800万は下りますまい。」 「それは多いのか?」
「徐州に并州・幽州・涼州・更に交州を加えたよりも多いのです。」
「−−ええ〜ッ!!」具体的に言われて、張飛は仰天した。 「幽霊人口を調べ尽くし、それを悉く戸籍に登録し、然る後に兵を徴されよ。さすれば、今に加えるに20万の軍兵が、たちどころに得られましょう。」
「−−おお・・・・!!」と、3星将は、互いの眼を見張り合った。劉備だけは、孔明の意図する、3将の反応ぶりを背中で感じ取りつつ観察していた。
「曹軍100万と号すれども、実際に遠征して来たれる軍容は凡そ20万余りでありましょう。兵数の上では、充分対抗できまする。但し、あちらは一兵卒に至る迄、歴戦の勇士にして、こちらは実戦経験なき弱兵を急募する事になりまする。その弱兵を短期間でよく強兵とするは、今ここに居られる3星将、関羽殿、張飛殿、そして趙雲殿の御役目に御座る!」
「−−ム・・・・!」得たとばかり、3星将は強く頷いた。思えばここ数年、それが出来無くてイライラして居たのだ。

「特に関羽将軍。御貴殿には、”水軍”を強化して戴く。何となれば曹操軍に当るには、現状の我等のみにては不可なり!此処に集いし我等は皆、曹操に降るを善しとせずも、荊州の世論、必ずしも徹底抗戦とは言い難し。寧ろ、安逸に降服・帰順を是とする輩多し
・・・・と、思し召されよ。左様な状況を鑑みた時、一旦戦さとなればせっかく得たる20万の軍兵も、あたら頼むに足らずと云う事態、生ずるやも知れませぬ。」

悔しいが、荊州の大勢は、その様に動きつつある。

「そこで、当面、我等が生き残る道は唯1つ・・・・。
              〔呉軍との連盟に在り〕、と 心得られよ!」

重大な内容であった。『』の存在など、意識した事の無い武将達である。
「いずれ、長江・漢水に兵を出すの日、必ずや来たりましょう。」

漢水は長江の大支流で、現在の劉備の居城である
    〔樊城はんじょうと、対岸の州都・襄陽じょうようとの間を流れている。
「南船北馬・・・・水戦となれば、利は江南に有り。その江南軍と合流する為の水軍で御座る。関羽将軍、いかが!?」

「よ〜く解り申した。今、手元に在るは弱小船団に過ぎませぬ。御期待に応えて見せまする!」
久々の軍議に、武将達の顔に、本来の生気が甦っている。
「・・・・さて、現実問題として、曹操軍の来襲を何時と観るか?」
一同、ゴクリと息を呑んだ。
「今は建安12年(207年)の春・・・・。早ければ来年中、遅くとも再来年には来攻あると観るが至当!」
ギョッとするような話しであった。

「・・・来年・・・ですか「−−遅くとも2年後・・・・!?」
言われてみて、今更ながら愕然とする。ノホホンと過ごして来た自分達の無知無能ぶりが改めて悔やまれる。いや、薄々とは感じていたのである。判っては居ても、打開策が見当たらぬのであった。だから、気づかぬ振りをしたまま、誰もその事に触れようとはせず1日1日をウヤムヤに過して来ていたのであった。《何とかなるさ》は、もう通用しない。
《嗚呼、今、大軍師を得るも、時、余りにも遅きに失したか!・・・・つまる処、結局俺は、ただ他人に傭われるだけの、ゴロつき集団の親玉の儘で終わるのか?!》
天下を望むなぞ、青二才の時の、誰でもが抱く、単なるザレ事と成り涯てるか・・・・・

「劉 玄徳様!!」
言われて劉備はハッと我に返った。
「荊州(劉表)は、抗すや伏するや!?」

孔明は一転、敢えて主君に発言を求めた。劉備は答える。
「劉表殿には既に病い篤く、実権は萠良・萠越兄弟と蔡瑁が握っておる。この3者は抗戦の意思無しと思われる。跡目を継ぐのは、彼等が推す〔劉j〕となり申そう。抗戦派の長男・〔劉g〕殿に従う者は極めて少数であろう。」
「・・・・と謂う事は、もし曹操が来襲したとしたら、これに抗する勢力は我等のみ・・・・と、覚悟すべきでありまする。仮に我等がそれ迄に、数万の軍を得ていたとしても、これは厳しい状況と言わざるを得ませぬ。」
劉備・関羽・張飛・趙雲の4人は押し黙り、軍師の口元を見る。
「では、最悪の事態を想定して、我等が生き延びる具体的な戦術をお示し致す。」ーーこれぞ正に《
幕僚会議》である・・・こんな会議がしてみたかったのだ。こちらが訊たい事に、的確以上に答えて呉れる、こんな軍師が欲しかったのだ・・・・!!劉備は何十年来の辛酸の感慨に、思わず目頭が熱くなっていた。

「北から進攻して来る曹操軍に対し、我等は先ず、水軍の確保を第一義と致す。詰り、長江の水軍基地である江陵確保の為、素早く南下する。江陵の水軍には楼船(巨大な城塞艦)多く、一気に20万の人馬を運ぶ能力を有している。この水軍を手に入れ、長江に押し出せば、追撃する曹操軍に船無く、ただ我等を見送るだけとなり申す。万が一、荊州降服するも、我等は無傷にて呉の地へと向かえまする。さすれば、呉との連盟も、互角の立場にて成立叶いましょう。」
江陵と漢水の位置図丸で其の光景が眼の前に見える様な要領である。「但し、この”江陵水軍”には、艦船を持たぬ曹操とて、第一に眼を付けて狙って参りましょう。我等が南下する際には、是が非でも、曹操の急追を押さえ込まねばなりませぬ。この重き役目は、張飛殿並びに趙雲殿の任務と心得られたし。いかが?」
殿軍しんがり・・・・で御座るな!猫の仔一匹通すもんではありませんぞ。
 のう、趙雲!」 豪将・張飛益徳は、久々に腕をさすった。
「はい、事の重さ、肝に銘じまする!」
孔明は頼もし気に3星将を見渡した。その上で、更に続けた。

「然し、戦さは生ける魔物。いかなる事態発生するやも知れず、万が一にも”江陵水軍”入手あたわぬ場合に備えねばならず。関羽将軍には、漢水にて独自の水軍を指揮して戴く。不測の事態にも対応できるよう、予め本隊に近い漢水にて常時待機。本軍と並走するかの如く、本軍の南下を見守りながら、いざと謂う時の”命綱”になって戴く。もし我等に一艘の船も無き時は、即ち、全滅・・・・我等みな、生きては居らぬ事と成り涯てまする。これを弱気と考えますや、いかに?」

「・・・・いや誠に・・・・実戦は寧ろ、作戦通りいかぬ事の連続とも
申せましょう。もし拙者が若ければ、この任にも不満を申し立てたやも知れぬが、この歳とも成れば、最悪をも考慮する謙虚さに、ただ感服つかまつる耳。」
「この
関羽水軍は又、遊撃軍として反転攻勢に出る場合の我が軍の先鋒となる事も兼務といたす。」

孔明はつと立つと、羽毛扇を胸の前に立てて言い放った。
しかして是れは、負け戦さである。間違いも無く、〔
敗走作戦〕である!いかに犠牲を少なくして脱出、退却するかを本義とするものである・・・・この旨、努々おさおさ忘れる事なかれ!!」

一同が見守る中、諸葛亮の軍扇がサッと天空を指した。
我等の大業は、先ずこの危難を脱した後、その向こうにこそ始まる!・・・・と、決意して戴こう。」

暫し、誰も口をきかなかった。いや、きけなかった。日夜、内心であれほど不安でり続けて来た自分達の心が嘘の様である。これほど明快に答えが出せるものとは、今でも信じられぬ思いである

「−−・・・・。」
この沈黙が、各人に去来する思いの深さを表している・・・・。

《−−おお、そうか!!》
孔明の目配せに気づいた劉備が、やっと言った。
「では、これにて”軍議”を終える。各人、軍師の示された策の意をよく噛み締め、夫れ夫れ今後に備えて呉れ。儂はこの後、此処に残り、軍師殿と二人だけで御話を拝聴する心算じゃ。」

頃合を測った様に、戸口に妻女が姿を見せた。 「御3将様には、どうぞこちらへ。心ばかりの祝いの膳を整えて御座居ます。」
ーーさて、いよいよ・・・・・



後世、隆中対りゅうちゅうたいとか草盧対そうろたいと呼ばれる、
軍師・諸葛亮孔明が初めて、主君・劉備玄徳に、
       〔建国の大戦略構想 を語る時が来た。
因みに
たいとは、皇帝の下問に対する臣下の答えの事である。 又、原典(正史)では、劉備の一人称をと記すが、この”孤”も亦、王侯を示す自称であり、一介の客将には分不相応であう。
 つまり、【隆中対】なるものは全て、後日に正史の著者・陳寿が
憶測したものなのである。
いかに”会話部分”を説得力を持たせつつ臨場感を醸し出して記述するか・・・それこそが、古代の歴史家の使命であり、才腕の振るい処であった。そして其れを我々は
〔歴史〕又は〔史実〕と見做すのである。
  先ず、劉備が下問する。
漢室傾頽。姦臣竊命。主上蒙塵。漢室傾頽けいたいし姦臣めいぬすみ、主上しゅじょう 蒙塵もうじんす。
弧不度徳量力。われ 徳をはかり 力をはからず。
欲信大義於天下而智術浅短遂用猖獗至于今日
大義を天下にべんと欲すれども、智術浅短にして、ついもっ猖獗しょうけつし、今日に至る。
然志猶未已。然れどもこころざしお 未まだまず。
君謂計将安出。君 おもうに 計 まさに いずくに出でんとするか。
漢朝は傾き崩れ、姦臣どもは天命を盗み、皇帝は都を離れて居られる。私は自らの徳や力を思慮に入れず、天下に大義を浸透させたいと願っては居るが、智恵も術策も不足している為、結局躓き、今日に及んでいる。然し、志は今も猶お捨て切れない。一体、どの様にしたらよいものだろうか!?
これに対する答えとして、諸葛亮孔明は、己の大戦略構想を開陳して見せる。−−要は・・・・荊州益州の重大2州を基盤とした【】を建国し、呉国との連合を絶対条件として、今の世に、3極構造(鼎立)を現出させる事に拠り、北の大国・魏に対抗せよ・・・・と説くのである。所謂いわゆる天下三分の計と呼ばれ、諸葛亮孔明を宇宙ニ垂ラしめた』、大軍師畢生ひっせいのバックボーン戦略である。最終目標は、魏を打倒し、やがて天下再統一を果そうとする、壮大な夢を披瀝する一幕である。


      
    ーー亮答曰。 亮、答えて曰く、ーー
自董卓已来。豪傑並起。跨州連郡者不可勝數。
董卓り以来、豪傑並び起こり、州にまたがり郡を連ぬる者、げて数う不可べからず。
曹操比於袁紹則名微而衆寡。
曹操は袁紹に比すれば、すなわち名は微にして衆はすくなし。
然操遂能克紹以弱爲疆者。非惟天時。抑亦人謀也。 しかも操、つい
く紹にち、弱を以って強とりたるは、ただ天時のみにあらず。そもそまた 人謀なり。

今操已擁百萬之衆。挾天子以令諸侯。
今、操 すでに百万の衆を擁し、天子をさしはさみて以って諸侯に令す。

此誠不可與爭鋒。
此れ誠に、ともにほこを争う不可べからず。

孫權據有江東。已歴三世。孫権は江東を拠有きょゆうし、すでに三世をたり。
國險而民附。賢能爲用。  国 険にして民 附き、賢能 これが用をす。
此可與爲援而不可圖也。  此れともに援と為すべきも、図る不可べからず。

荊州北據漢シ正。利盡南海。荊州は、北、漢シ正べんに拠り、利、南海を尽くす。
東連呉會。西通巴蜀。此用武之國。
                    東は呉会に連なり、西は巴蜀はしょくに通ず。此れ用武ようぶの国
而其主不能守。此殆天所以資將軍。
          しかるに其の主、守るあたわず。此れほとんど天、将軍(劉備)をたすくる所以ゆえん
將軍豈有意乎。  将軍、に 意 有り

益州險塞。沃野千里。天府之土。益州険塞けんさい沃野よくや千里、天府てんぷなり。
高祖因之以成帝業。高祖、之れにりて以って帝業を成しき。
劉璋闇弱。張魯在北。
劉璋りゅうしょう、暗弱にして、張魯ちょうろ 北に在り。
民殷國富。而不知存恤。 民 さかんに 国 富めども存恤そんじゅつを知らず。
智能士思得明君。智能の士、明君を得んと思う。

將軍既帝室之胄。信義著於四海。
                  将軍、既に帝室のちすじ、信義は四海にあらわる。

總攬英雄思賢如渇。 英雄を総攬そうらんし、賢を思うこと かわくが如し。

若跨有荊・益保其巖阻。西和諸戎南撫夷越。し荊・益を跨有こゆうし、其の厳阻げんそを保ち、西のかた諸戎しょじゅう (ていきょう・鮮卑)を和し、南のかた夷越いえつし、
外結好孫権内修政理。 外は好を孫権に結び、内は政理を修め、
天下有變則命一上將將荊州之軍以向宛洛。將軍身率益州之衆出於秦川。百姓孰敢箪食壺漿以迎將軍者乎。

天下に変有らば、則ち 一上将いちじょうしょうに命じて、荊州の軍をひきいて以って宛洛に向かわしめ、将軍(劉備) づから益州の衆をしたがえて秦川しんがわに出でなば、百姓 たれか 敢えて箪食壺漿たんしこしょう(竹に盛った飯と壺に入った飲物)して、以って将軍を迎えざる者あらん
誠如是則覇業可成漢室可興矣。
誠に是くの如くんば 則ち覇業成るく、漢室 興るし・・・・と。
先主曰。善。   先主(劉備)いわく、し、と。
《−−ああ、それにしても、只一人の人物に出会っただけで、
                こうも世界が変わるものか・・・・!?》
きのう迄はただの脇役ーー今や時代の主人公たらんとする自分!
今朝までは、何も考えなくて済んだただの客・・・それが今や、次から次へと驚くばかりの思考の連続・・・・改めて、軍師・諸葛亮に驚嘆する劉備であった。
ケタ外れのダメ男は、この出会いによって、果たして本当に変身できるのか?・・・・それもこれも、全て、雲を呼ぶ龍
諸葛亮孔明の頭脳と心の裡に秘められた大略いかんである。




出盧しゅつろーーいよいよ人が世に出て活躍する事を指す。古来より使われて来たが、原典は此の、諸葛亮孔明が世に出る吉日の事蹟から成立した熟成語である。
 すなわち、臥龍が遂に”草盧を出て”世に姿を現わすのである。
この語感には、祝う気分、期待する気分、そして晴れがましく目出度いニュアンスが含まれている。
が然し、それだけであっただろうか?ーー
孔明の妻・・・その名すら伝わらぬ、醜女しこめとされ、結婚生活数年にも満たず、子を成す事も許されず、当然の如くに捨て去られた女性・・・・果たして孔明は、その後の生涯で、この妻をしのぶ事は有ったのだろうか・・・・?それとも、一度として想いも出されぬ存在であったのであろうか?

その妻を振り返ることなく、孔明は劉備と共に柴門を出た。

出盧 である。
隆中の陽光は西に傾き、あかね色の光が山のを染めていた。少し坂道を下って3将と合流すると、劉備一行は深々と頭を垂れ、門前に小さくたたずむ妻女に、別れの挨拶を送った。

「−−乗馬!」
馬首を巡らせながら、馬上の面々は手を振った。駒音も高く、たのし気である。
孔明劉備が並び関羽張飛趙雲の3将が是れに続く。
「−−いざ、出立

男達が晴れやかに動き出した。
そのはるけき行く手に待っているのは、花をも欺く智謀のそのか?
        

 はたまた、荒野の如き苦難の道か・・・・・
     








やがて、一度も振り返らぬ良人の背が、


           春のあかねに消えていった・・・・・。 【第107節】 水魚の交わり(劉備ファミリーの序列)→へ