第105節
三顧の礼

                              ダメ男の ”奥行き”






「−−関羽、張飛、供をせよ。」
206年(建安11年)、晩秋の或る朝であった。
「どちらへ参られます?」
荊州に長く留まるうち、
関羽は既に48歳に成っている。

「今度は、虎でも狩りますかな?」
張飛は、てっきり今日も亦、主従連れ立っての”狩り”の誘いだと思っている。
「虎ではない。に会いに行くのじゃ

「はあ〜
?? あの・・・・天に昇る、”龍” で御座居ますか
関羽は我が耳を疑い、思わず張飛と顔を見合わせた。

会うだけでは無い。〕を得て来るのじゃ

主君は至って上機嫌である。

「−−ん・・・・
??
40歳に成った張飛も、怪訝な顔をして兄者の顔を見返した。

この2人には、今さら”文官”を迎えるなどと云う発想は殆んど無い。探すとすれば、飽くまで”武人”ひと筋であった。と言うよりも、この2人の武将には、知ろうにも、人材に関する情報源が無かったのである。この類の情報は、全て「名士」達が握っている。だがその名士社会からは、彼ら軍人達は、全く相手にされて居無かったのだ。天下に勇名を轟かせる関羽・張飛と謂えども、社会的身分は《軍人》なのであり、その
軍人の地位は、〔最も低いものと、観られている時代であった。そう云う社会的背景・時代状況の厳しい現実を、武人・張飛は、己の身を以って味わう事となる。後日談であるが・・・・補註に載る、『零陵先賢伝れいりょうせんけんでん』に有るエピソード・・・
張飛が、諸葛亮と一緒に、在郷名士の劉巴りゅうはを訪れて宿泊した折の事ーー(※劉巴は、荊州零陵郡蒸陽県出身の在郷名士。その頃は、再三に渡って劉表から招聘を受け、”茂才”にも推挙されたが断り続けて野に在った。一時は曹操の家臣となるが、最後は劉備に使える人物。)
張飛は宴席で、主人の劉巴から
           ”完全無視”されたのである

一緒に行った諸葛亮に対しては大ニコニコで歓談痛飲するが、
張飛には口をきこうともせぬ態度を取り続けた・・のである。
誰が見ても明らかな、恣意的な無視であった。一方の張飛には、「一人デ万人ニ相当スル豪勇」と言われるだけの”自負”がある。その武勇は紛れも無く、天下にあまねく轟き渡っていた。にも拘らず、『名士・劉巴』は、『軍人・張飛』を眼中に入れ無かったのだ。やがて、それに気付いた張飛は、かんかんに腹を立て始めた。酒癖の悪い張飛が酔い始めているから、諸葛亮は此のままではマズイと思い、劉巴の方に取り成して言った。
「張飛は全くの武人ではありますが、足下を敬慕して居ります。
我が御主君(劉備)は今まさに文武の力を結集して、大業を定めようとして居られるのです。足下は高い天分を具えて居られますがこの際、少しは我慢して下され。」
だが、言われた劉巴は平然として、我が生き方を貫き通して言うのだった。

そもそも、大丈夫が此の世に生きていくからには、当然、四海の英雄と交わるべきであります。何で、軍人ふぜいなんぞと語り合う必要が有りましょうやーー言う間でも無く・・”英雄”とは
名士」を指す。軍人である張飛は幾ら武功を挙げて、その名を天下に知られようと、決して”英雄”では在り得無い・・・・ガツンと言い放たれたのである。
《・・・・ガ〜ン・・・・!!無論この場面は、劉巴と張飛と云う、個人的関係から起きた出来事では無い。『名士』と『軍人』と云う、社会全体における両者の地位を象徴する、典型的な一場面であった。それにしても、面と向かって言い捨てなくても良さそうなものだが・・・・ちなみに、その後の顛末がどう収まったのかは定かでは無い。が、張飛を含めた武人達は、「名士社会」との厚い壁に対して”鬱屈した感情”を抱いていたであろう事は想像に難く無い。個人の力量では如何ともし難い〔無視〕と〔反感〕・・・・両者の距離は、当時の社会状況を写し出す、極く当り前なコモンセンスであった・・・・と、言い得るのである。従って、いま急に、『龍を得る』などと言われても、一体、何の事やら、ピンとは来れない両将であったのだ。

「我が帷幕に、大軍師を迎えるのじゃ!」

「な〜んだ、徐庶の仲間を増やす訳ですな?」

「いや、その徐庶が、自分など足元にも及ばないと言っている御仁じゃ!」
張飛の余りの無頓着さに、劉備は些か気色ばんで見せる。

「ーー名は何と?」 「諸葛亮、字は孔明と申す。」

「ショカツ??変な姓じゃな。」
 「−−歳は?」 「確か、27。」 

「若う御座るな。」 「ガキでは在りませんか。」

「千年に一人の大天才だと謂われて居るそうじゃ!」

「そんな者が、本当に居るとお思いなのですかな?」

「ふん、どうせ又、名士連中のハッタリに決まっていますさ!」

ここの処、主君・劉備は、すっかり宴会漬けでヤワに成ってしまい
『名士病』に伝染した様だ。余りにも、「名士」連中を買い被り過ぎて居る・・・・としか思え無い。

「巷では、
伏龍とか臥龍と呼ばれて居るそうじゃ。」

「ほう〜・・・・我等も是非、お目に掛かりたいものじゃな。」

関羽の語感には、皮肉の響きが籠っていた。

「だから、これから一緒に参る。」


「で、その臥龍とやらは、一体いずこに潜んで居るのですかな?」

「水鏡先生や徐庶の話しでは、
隆中草盧そうろを得ていると
                                  聴いた。」
「な〜んだ、又えらく近い所ですな。隆中なら、一っ走りで御座る。たかが若僧一人、殿みずから行かれる事もありませぬ。
 この張飛が乗り込んで、直ぐにでも、引っ張って来ましょうぞ。」

「いや、ならぬ。そう云うレベルの人物では無いのじゃ。こちらから頭を低くして、お迎えすべき御仁だ。」

《ーーこりゃ又、えらい張り切り様だな・・・・。》まあ、特に予定が在る訳でも無いし、物見遊山がてらに、野駆けでもするとしようか。

趙雲よ、その方には留守を頼む。」−−糟糠そうこうの妻かん夫人が、身籠っていたのだ。劉備としては、嬉しい誤算であった。半ば諦めかけていた矢先の事である。もしかしたら、50近い此の歳に成って初めて、血を分けた我が子・男児の誕生が期待できるのだ (※女児は何人生まれても”子”とは表記されない。人数は定かではないが、此れ迄に
           劉備は、女児を複数もうけてはいたから、所謂 〔種無し〕では無い。)
4年前に、養子として劉封りゅうほうを後継ぎに立ててはあるが、劉備も人の子・・・・己の血を分けた直系の子が欲しいに決まっている。己の年齢からして、一粒種となる可能性が強い。こちらも重大で気掛かりであった。
”奥”の方は、万事にソツの無い趙雲子龍に任せるに限る30歳を過ぎたばかりの趙雲は、本当に頼り甲斐の有る男であった。「関羽」・「張飛」の大先輩を立てながらも、2人に伍して決して遜色ない存在感を持っていた。変にクセが無い分、人間としては両先輩よりずっとバランスが取れている。情も深く細やかで女性を見下す風な処が殆んど無い。だから劉備は、趙雲を主騎として信任していた。主騎とは、主君と其の家族の警護役である。趙雲なら、誠心誠意『甘夫人』を見守り、励まして呉れるであろう。




                                     


主従3騎、中秋の野を駆ける。ぬける様な碧霄だった。空気は高く澄み渡り、実に気持の好い日であった・・・・。
劉備の愛馬は
的盧てきろと言う。 ”凶馬”変じて”竜馬”と成ったとされる。
伯楽」なる者が著した『相馬経』と云う、馬の人相見(馬相占い)の書物によれば、【的盧】は・・・・
馬ノ額ニ白イ斑点(十文字の白い星)ガ、くちマデ届キ、歯マデ入リ込ンデイル物デ、楡雁ゆがんト言ワレ、又、的盧てきろト言ワレル。供廻ともまわリノ者ガ乗レバ旅先デ不慮ノ死ヲ遂ゲ、主人ガ乗レバ棄市きしの刑(死刑)ニ会ウ。凶馬きょうばナリ。・・・・と謂う御託宣であった。この”馬相占い”の書物の事を、劉表の重臣・萠越かいえつが識っていた。そこで彼は、主君・劉表に対して忠告した。
「不吉な馬です。乗り手にたたります。どうか、お乗りになりませぬように
」 これを信じた劉表は、ていよく劉備に押し付けたものであった。食客の伊籍いせきが、劉備にその事を教えて呉れたが、劉備は全く意にも介さなかった。
天下を大放浪して来たこの劉備玄徳に、何を今さら不吉など在りましょうぞ。死生は天が定める処、たかが馬一匹にどうこうされる事もありますまい。
伊籍はすっかり感服し、以後親しく交際して、やがては臣従する事となる・・・・とされる。

更に『演義』は、或る人物を登場させて、「不吉な的盧を売ってしまいなされ!」と言わしめる。それに答えて、人徳の士・劉備はこう答えて見せたとする。
売買には売手と買手がおる筈じゃ。 では、その買手が凶事に遭うではないか。そんな事は出来ぬ!」 又、既述した如く、的盧に活躍の場を与える為に、例の檀渓だんけい越えを持ち出し、ついでに劉表の猜疑深さをも演出している。

尚、名馬・
『的盧』ハ、一日千里ヲ征ク・・・・とされた。
”名馬”ついでにもう一頭・・・・今、劉備の横に並んでいる
関羽の愛馬とされるのは御存知・・・・名馬中の名馬で・・・・
一日千里、八百余きん(180s)ヲ
三国志上最高の名馬・・・・
赤兎せきとであろう。但し、この《赤兎》に関しても、その所有者は呂布りょふであったと、『曹瞞伝そうまんでん』に載るだけで、他の史書には一切記述は無い。呂布が亡んだ時に、関羽がそれを受け継いだとするのは、完全に「演義」のフィクションである。万・万が一、そうであったとしても、呂布の滅亡は198年末の事であり、爾来9年が過ぎた今(207年)現在の「赤兎」は、馬齢(人間の7〜8倍に相当する馬の寿命)からして既に”ヨボヨボの駄馬”と成り涯てている筈である。人間なら、さしずめ百歳位に相当する
(だがそれでは余りにも”ロマン”が無さ過ぎるから筆者も此処は
  眼を瞑って、ウソを承知で「演義」に従って措こうかナ〜??)
天下の名馬、『的盧』と『赤兎』の2頭が並ぶとは、まさに壮快この上もない。だが何故か、「演義」は、”張飛の愛馬”だけには命名して居無い。キャラクター上の差別化である。



−−話題が些か外れてしまったが・・・・


さて、
劉備】・【関羽】・【張飛】の主従3人は、一路、 
隆中りゅうちゅう 目指して碧空の下を疾駆してゆく・・・・。

(と、筆者は記すのではあるが・・・・)既述した如く、いずれの史書・史料にも《三顧の礼》に赴く”
途中の様子や場面”の記述は一文字も無い・・・・と、なれば、此処はもはや、エンタティナーの名作・三国志演義』の独壇場である。そこで、ひと先ず、その場面を、『演義』の描き方でザッと紹介して措こう。無論、全部が全部、「羅貫中」の創作である。尚、「演義」は、実際は此の数年前の、『徐庶』の手柄であった〔博望坡の撃退劇〕を、出仕したばかりの諸葛亮の大活躍に使う為に、劉備の居城を「樊城」では無く「新野」としている。更に、邪魔な『徐庶』を曹操の元(許都)へ出奔させてしまっている。史実では、徐庶の母親が曹操の人質にされた為に、劉備の下を去るのは翌年8〜9月の事であり、諸葛亮と徐庶は、劉備最大の危機の時期に半年以上を共に過ごして居るのである。(詳細は別章にて詳述する。)

−−さて、その《三顧》1回目では・・・・
3主従は途中で数人の農夫達が歌う『
天蓋てんがいの詩』を聞き、それが諸葛亮の作であると知る。更に諸葛亮の住む場所は臥龍崗がりょうこうと呼ばれていると知らされる。そして、其の住まいを歌った古体詩を載せる。
一帯の高岡 流水を枕にす   高岡は屈曲して 雲根を圧し
流水は潺湲せんかんとして石髄せきずいを飛ばす 勢いは困龍こんりゅうの石上にわだかまるがごとく 形は単鳳の松蔭のうちに在るが如し
柴門は半ばおおいて茅盧ぼうろを閉し   中に高人有り 臥して起きず
修竹こもごも加わりて翠屏すいへいつらね  四時 籬落まがきに 野の花かおれり
牀頭まくらべに堆積するは 皆な黄巻  座上に往来するものに白丁はくてい無し
戸を叩く蒼猿そうえん 時にこのみを献じ    門を守る老鶴ろうかく 夜にふみを聴く
嚢裏のうりの名琴は 古錦につつまれ    壁間の宝剣は 七星を
盧中の先生は 独り幽雅     閑来に 親しく自ら畊稼に勤む
もっぱら春雷の夢を驚かして  かえらしむるを待ち
一声長くうそぶきて 天下を安んぜんとす

劉備は下馬して、自ら柴門を叩くが、召使いの少年が出て来て、諸葛亮の不在を聞かされる。仕方なく帰途につくが、その途中で崔州平さいしゅうへいに出会い、一家言を聴いて別れ、「新野城」に戻る。
ーーその《三顧の2回目》は・・・・
折りしも冬の真っ盛り、北風の中に白い雪が吹きつけ始める。臥龍崗に近づくと、道端の酒屋から歌声が聞こえて来る。その歌詞は、後に主君に功業を打ち立てさせる、名宰相・大軍師が名君と出会った時の様子を歌ったものであった・・・・。
壮士 功名 尚お未だ成らず   嗚呼ああ 久しく陽春に遭わず
君見ずや 東海の老叟ろうそう(太公望呂尚ろしょう) 荊榛けいしんを辞して 後車 遂に文王ぶんおうと親しむ 八百の諸侯 期せずして会し 白魚 舟に入って 孟津もうしんわたり 牧野に一戦して 血はたてを流し 鷹揚おうようの偉烈は武臣に冠たり    又た見ずや 高陽の酒徒(麗食其れいいき) 草中より起ち
芒陽ぼうとうの隆準公(劉邦)に長揖ちょうゆう王覇おうはを高談して人の耳を驚かし
洗うをめて坐にまねき 英風をうやまう  東してせいの七十ニ城を下し
天下に人のあとを継ぐもの無し  二人の功績 尚お此くの如し
今に至るまで 誰かえて英雄を論ぜん

その者の歌が終わると、もう一人が机を叩きながら次の歌を歌い始める。歌の大意は、天下乱るる中、野に在って悠々とうそぶく隠者の心意気を示すものであった・・・・。
吾が皇(劉邦)剣をひっさげて寰海てんかを清め 創業してもといを垂るること四百載 桓・霊の李業すえより 火徳衰え 奸臣賊子鼎ダイていだい調もてあそ
青蛇 御座のかたわらに飛び下り  又た妖虹ようこうの玉堂に降るを見る
群盗 四方より蟻の如くあつまり  奸雄百輩 皆なタカの如く揚がる
吾がともがら長嘯ちょうしょうして 空しく手を拍ち もだえ来たりては村店にて村酒を飲む 独り其の身を善くすれば 尽日ひねもす 安らかなり
   何ぞもちいん 千古に名の朽ちざる事を

劉備は、この2人のうち、どちらかが諸葛亮に違い無いと思い、名を尋ねる。すると其の2人は、グウゼンにも、学友の石広元せきこうげん
(石韜せきとう)
孟公威もうこういであった。挨拶を交して臥龍崗へと向かう劉備。少年に付いて中門に入ると、門の上に大きな対聯ついれん(額)が懸けてある。
       淡泊たんぱく もって志を明らかにし
       寧静ねいせいにして 遠きを致す

劉備が見入って居ると、草堂の中からマタシテモ詩を吟ずる声が聞こえて来る。
    おおとり千仞せんじん皇翔こうしょうし     あおぎりに非ざればまず
    士は一方に伏処ふくしょし       主に非ざればらず
    隴畝ろうほ躬耕きゅうこうするを楽しみ   吾れは吾がいおりを愛す
    いささたかぶりを琴書に寄せ    もって 天の時を待たん

これぞ、諸葛亮先生!!・・・・と思いきや、
               今度は弟の 
諸葛きん であった。
仕方無く、置手紙(後述)を残して門を出ると、マタマタ今度は、驢馬ロバに乗った人物の吟詠を聞く。それにしても、皆んな揃いも揃って、よく歌うもんだ。
一夜 北風寒く  万里 雪雲厚し  長空 雪乱れてひるがえ
江山のもとの姿を改め尽くす  おもてを仰むけて 太虚を観れば
疑うらくは れ 玉龍の闘うかと  紛紛ふんぷんとして鱗甲りんこう飛び
頃刻けいこくにして宇宙にあまねし  ろばって小橋を過ぎ
         独り梅花のせたるを歎ず

今度の今度こそ、諸葛亮に違い無いと思った劉備は、的盧から転がり落ちる様にして駆け寄った。しかし残念ながら、その人物は、たまたまグウゼンにも岳父の『黄承彦こうしょうげんであった。
−−かくて2度に渡る訪問は空振りに終わる。然し其の代りに、読者に「臥龍崗」の様子を伝え、その上、「崔州平」・「石広元」・「孟公威」・「諸葛均」・「黄承彦」と云った周辺人物を次々に登場させている。更には、古体詩を多用して、諸葛亮への期待を徐々に盛り上げて置くのである。演義もなかなかヤルものだ!!

                      
(此処からは、統一志版の小説仕立として描くが、史料が一切無い故、
                    演義をベースとせざるを得無いので悪しからず・・・・)









ーー206年(建安11年)ーー秋・・・・・
「門前に乗り着けるのは失礼に当る故、此処からは徒歩で参る」平らかな原野を過ぎ、山道に差し掛かると劉備が告げた。主君が歩くと言うのだから、3人ともに愛馬のくつわを取って歩き出す。だらだら坂を登り始めるが、やがて民家は疎らとなり、道には人影すら無い。
「こんな山奥に居て、一体、天下の何が判ると謂うのだ・・・・?」
流石に関羽の感想は、張飛とは一味違う。

−−・・・と、何処からか、歌声が木漏れて来た。

蒼天 円蓋えんがいの如く   陸地 碁局ききょくに似たり
世人 黒白こくびゃく分かる   往来して 栄辱えいじょくを争う
栄ゆる者は おのずから安安たるも 
はずかしめらるる者は 定まりて碌碌ろくろくたらん
南陽に 隠君いんくん有り   高眠こうみん して足らず


「ーー!!張飛、見て参れ!」
「(ア・ノ・ネ〜) 唄の主は、こちらの山雅やまがつ(キコリ)様で御座った!」
張飛は皮肉を言った。
「−−では・・・・あの歌は?」
「ああ、ありゃあ、臥龍先生が作ってくれた、キコリ仕事の唄ですだ。調子が好いもんで、皆〜んな唄っとりますじゃ。」
「おお、では、孔明先生の御宅は、この近くかな!?」
「んだ。この山〜、あと2つ越えりゃあ、途のドン詰りに見えて来らあです。村のモンは皆、其のお山を【
臥龍崗】って呼んじょりますじゃ。」
「ひぇ〜、あと2つも山歩きかア!分かっていたら、此処まで乗馬してくりゃ良かったですなあ・・・・。」
「いやいや、大切な御仁にお会いするのじゃ。これ位の山の2つや3つ、何程の事があろうか。それにしても【臥龍崗】とは・・・・間違いあるまい!どうも失礼いたした。では参ろうぞ!!」
1つ越え、山を2つ越えると・・・・行く手に崖が見えて来た。山隘やまあいから天空に突き出した岩影が、そう言われれば・・・・『龍のとぐろ』にも見える。−−と、曲りうねった山道の彼方から、又しても詩吟が流れて来た。耳をそばだてると、こんどの歌詞は可なり難解で高尚な内容であった。

歩みて出ず斉城せいじょうの門   遙かに望む蕩陰とういんの里
里中に 三墳さんふんあり   累々として 正にあい似たり
問うてみよ 是れが家の墓なるかと   
田彊でんきょう古治子こやしなり
力はく 南山を排し   文は能く 地紀ちきを絶つ
一朝 讒言ざんげんこうむれば   ニ桃にとうもて 三子を殺す
誰か能く 此のはかりごとを成せしや   
国相こくしょうせい晏子あんしなり


「関羽、今度はそなた見て参れ
「−−ハッ。手応えが有りそうですな


「・・・・こちらの御仁で御座居ました。」
先刻の樵とは異なり、見るからに聡明そうな若者であった。
「あなた様は、もしやして諸葛孔明先生では在られませぬか?」
「いえ、私は其の孔明の弟、諸葛均と申す者に御座居ます。」
「おお!御舎弟殿で御座居ましたか。 私は劉備玄徳と申す者。孔明先生の御高名を識り、今お伺い致そうとして、罷り越す途中して、先生は御在宅であられましょうや?」
「・・・さて?私めは、近くの学友に会いに来たところ。判りませぬ。折角ですから、兄の庵が見える所まで御一緒致しましょう。」
「それはかたじけない。ところで、今の歌は?」
「ああ、あれは兄が好きで(創って)、時々口ずさむものですから、何時しか私も覚えてしまいました。兄は、故郷に由来する隠者の詩だと笑って居りました。題は【
梁父吟】と申します。」

道々、諸葛均は、その歌詞に出て来る
2桃3子を殺すの故事来歴を話しながら、ゆったりと歩む。

梁父りょうほ」は山東省の名山・泰山たいざんの麓の小山で、歴代皇帝が「禅」・葬儀の祭祀を行なった事で有名。本来は葬歌。
尚、この梁父吟りょうほぎんだけは、正史諸葛亮伝に・・・・
好為梁父吟ーー好んで梁父吟を為すとの記載がある。但し、単に『為す』だけでは、孔明が「創った」のか、「歌を好んだ」のかは、判然としない。
(春秋時代)せいの国、景王けいおうの臣に3勇(古治子こやし公孫接こうそんせつ田彊でんきょう)あり。力を頼み、横暴不遜の振舞い多し。宰相・晏嬰あんえい(晏子あんし)これを憂い、進言して景王に言わしむ。
「3勇、己を自負する
(より大きな功労を立てたと自認する)者、この2桃を取れ」と。公(公孫接)、田(田彊)、(夫れ夫れに手柄を自慢して)これを奪う。古(古治子)、憤る(自分が主君の水難を救った大手柄を述べ立てて桃を要求する)や、公、田、及ばざるを認め、2者は軽挙を恥じて(恥を知る士である事を示す為に)自刃す。古(古治子)も亦、(己の言動が仲間を恥ずかしめて自殺させた事を後悔し)一人生きるを潔しとせず、自ら後を追う。是れ、晏子あんしの『2桃にとう3子さんしを殺す』の故事なり。
「兄・孔明は、昔から自分を管仲かんちゅう楽毅がっきに擬すことが好きで、この晏子あんしも亦、兄の好きな人物の一人で御座居ます。私が思うに、兄・孔明は、何時の日にか、これら大軍師の如く智謀を駆使して世に出でて功業を為さんとして居られる御覚悟かと。」

そう言いつつ諸葛均が指さす彼方を見て遣れば・・・・鬱蒼とした山隘に、周囲の景色に溶け込む様に、幽かに家屋らしき物が見えた。  「私はこれにて・・・・。」
一見、何も手を加えた風には見えないが、孔明の住まいは、風雅なたたずまいの裡に在った。藁葺わらぶき屋根の、
草盧そうろと呼ぶに相応しい、つましさである・・・・
     座上往来 白丁なし
     戸を叩く蒼猿は 時に果を献じ
     門を守る老鶴は 夜に経を聴く
     曩裏の名琴 古錦を蔵し
     壁間の宝剣 松文を映ず
     盧中の先生 独り幽雅

が、最初の訪問は不首尾に終わった。柴門前の柿の木に小僧が居るだけで家人は不在・・・・先生の常として、何日後に帰宅するやら判らぬと云う事であった。
「無駄足で御座居ましたな・・・・。」  「その様じゃな・・・・。」




     

2度目の訪問は、寒風吹き荒ぶ12月半ば過ぎの小雪まじりの朝となった。3日間の斎戒沐浴さいかいもくよくを済ませた劉備が、再び関羽・張飛の2股肱ここうに同道を命ずると、誇り高い関羽は憤然として言った。「何もこんな日に、殿がわざわざ御自身で行かれなくとも良いでは御座らぬかたかが白面の書生一人、呼びつければ宜しゅう御座る。否応申したら、拙者が引っ括って連れて来ましょう程に
張飛の方は一番の年下の為に、粗暴に振舞わざるを得無い処が有ったが、自分より格上の「名士」達に対してはカラッキシで、ともすると”青菜に塩”の態度であった。それに対し自負心強烈な関羽の方は、己より目上とされる者には常に昂然こうぜんと胸を張る矜持きょうじみなぎっていた。
《そこまで名士とやらに、我々がへつらう必要など有りませんぞ!》

「いや、そう云う訳には参らぬ。最高の礼を尽くして御迎え致す。今の儂には是が非でも必要な御人じゃによって・・・

人生も終盤、50の坂を迎えようとしている劉備は、流石に事ここに至って、
己の限界〕を悟ったのである。苦労しても苦労しても、何時もスルリと指の間からこぼれ落ちてしまう希望・・・・自分なりには精一杯の努力をして来た心算で、一応は現在も、「漢の左将軍」・「豫州よしゅう太守」・「宜城亭侯ぎじょうていこう」の肩書を有する・・・・だが、其れ等は全て虚名で、実態は寸土たりとも持たぬ放浪者でしか在り得無い。
《ーーこんな筈では無かったのに・・・・。》
《儂らの夢は是れだけのものだったと謂うのか・・・・。》
《このままジリ貧で生涯を閉じよ、と謂うのか・・・・!?》
7年にも及ぶ宴会漬けの日々ーー華やかな日常が続けば続く程劉備玄徳の裡には、忸怩じくじたる慚愧ざんきの念だけが鬱積うっせきしていった。但し、この
ケタ外れのダメ男の唯一の取り柄は、
折而不撓せつじふにょう・・・・くじけてたゆま・・・・の虚仮コケの一念であった。  旗挙げ以来20数年を経た今、ようやく晩年にして、やっと己の欠点
弱点に気が付いたのだ。ーーそれにしても、トコトン阿呆、つくづく 脳天気、しみじみ極楽トンボの46歳であった。とは謂え、見方によっては・・・・晩年を迎えても尚、青年時代のこころざしを忘れずに居続けられる図太い人間・・・・それが、劉備玄徳
     ”
真の奥行きと云うものであろうか??


          
劉備集団は、そのスタートから仁侠的血盟に拠る、傭兵集団であった。その集団が小さいうちは、それで充分であり、その結束力は強固な上にも強固であった。だが、ヤクザが国を治めた例しが無い如く、仁侠集団は発展性に欠けた。かつて一時、徐州をそっくり譲り得た折、家臣団の中には、「名士」の代表的人物である『陳羣ちんぐん』が居た。然し彼は、劉備集団内に留まっては呉れ無かった。陳羣の建策すら、関羽や張飛を差し置いては採用できぬ程に、集団内における2将の存在は重いのであった。彼等の行動規範の第一は、仁侠と云う「枠組」を守り通す事であり、理や知の「内容」で動くのでは無かった。その結果、知や理”は
義と情”によって駆逐されてしまっていたのだった
−−これは、内輪揉め的問題では無い。政治権力の根幹に関わる重大問題である。
仁侠が基本的に、異質なものへの排他性はらむ限り、社会的認知は得られない。例の、張飛に対する『劉巴』の態度も
名士を排除してしまう閉鎖集団に向かっての、「名士層」からの
警告とも観るべきであろう。決して一個人のみに浴びせられた
私情では無く、劉備集団の持つ特異な「知的閉鎖性」に対する、
社会の手厳しい批判(評価)なのである。
これでは将来性が閉ざされてしまう。仁侠的忠節は有難いが、
政事は別モノである。政事は綺麗事では動かない。詰まる処ーー政事はで動く。いかに多くの者達に、多用な”利”を感じさせるかである。それは、「武」の善く果す処ではない。別な領域である。広範で多種多様な”利”を、あまねく天下に納得させるのは、やはり”理”を識る名士でなければ果せ無い。現状の如き、単なる仁侠に拠る武力集団で在り続ける限り、政事担当能力はゼロと云う事なのだ。大物名士、できれば超大物を招き入れる事によって、その閉塞状況を打破せねばならなかったのだ。だから、2度と決して、陳羣らへの二の舞だけは犯してはならない。その為には先ず、善意の元凶と成っている関羽と張飛を、捻じ伏せなければ、質的大変換は果せ無い。
兄貴”としてでは無く、”主君”たる劉備が、断固として、それを率先して見せなくてはならなかった。

「これは兄弟に対する要請では無い!
         主従における”
主命”である!!」
かつて無い厳しい劉備の不退転の表情を見て、何か言おうとする張飛を手で制すと、関羽はハッと慎んで頭を垂れた。
その昔、「もはや”兄者”では無く、我等の”御主君”様じゃ!」と張飛を諭したのは、他ならぬ関羽自身であった事を、あだや忘れて居た訳では無かったのである。






「見よ、 じゃ! が天に馳せ昇るぞ!」
「おお、正しく・・・・!」
途中、あやにくの大雪となった。馬上、眼を開けられぬ程の風雪である。一度来て、見覚えある筈の景色だったが、一面の降雪によって辺りの様相は一変していた。そんな中、劉備が指さす岩肌には、雪が描き出した一匹の巨龍が、天空に向かって今まさに昇らんとする姿が、クッキリと浮き出ていたのだった。
「なる程、
臥龍崗とは此の事か・・・・
晩秋に訪れた時には判然としなかったが、今、岩頭に雪を散りめられたがけ一面には、間違うことなく鮮明に、龍が天に昇らんとする壮姿が浮かび揚がっていた・・・・!

「やっ、雪が掃き清められているぞ!」
草盧の手前、一筋の雪の小径こみちが付けられていた。
「これは人手によるもの。きっと今日こそは会えまするぞ!」

推量した張飛が、自慢半分に叫んだ。雪の帽子を被った柴門に近づくと、草庵の内より女人の歌う声がこぼれて来た。何時しか風は止み、唯、静こころ無い初雪だけが、しんしんと肩に舞う。
3人は、余りの美声に寒さも忘れて耳を澄ませる。

    鳳凰おおとりは 千里を休まずけるとも
    あおぎりの樹でなければ 翼を休めぬ
    士となる人は あばら家住まい
    英主でなくば 仕えはしませり
    耕す朧畝ろうほに 稔りを楽しみ
    炉端で奏でる 琴の音に
    やがて 天の時を待つ・・・・

「その方達は、此処にて待て!」歌声が止むのを待つと、劉備はそう言い置いて、独り柴門をくぐった。戸口で全身の雪を払い、草堂に上がる。
「−−お待ち申し上げて居りました。」諸葛亮の妻女と思しき女人が独り、惚れ惚れする様な挙措で控えて居た。
「おお、これは御妻女か!前触れも無く、誠に失礼仕ります。私は劉備玄徳と申す者にて、諸葛孔明先生を慕い、是非にもお会いしたくて、又しても推参いたしました。」
良人おっとより、本日賓客ひんきゃくあるやも知れず、充分に”だん”を馳走して差し上げるよう、申し聴かされておりまする。」
綺麗な仕草で顔を上げた妻女を見ると、これは何と、噂の醜女しこめとは似ても似つかぬ佳人であった。理智が、内から輝く様な才媛である。外見の美醜ではなく、女性と謂えども、その内面の豊かさで、人間的存在として認めて呉れる良人を探し求めた才女であった。金髪に軽いウェーブが掛かっている。彼女がひっそりと人目を忍ぶ様に、この山奥に住む理由の一つが、そこにあった・・・・。



「左様か、又も御不在であったか・・・・。残念ではあるが、致し方あるまい。」
諸葛亮は、妻にさえ、詳しい事情は秘している様であった。

「−−では、お言葉に甘えて、しばし暖を取らせて戴こうか。」

「外でお待ちの御供の方々も、こちらに御呼び致します。」


「おお、そうしてやって下され。すっかり凍えて居りましょう程に、
 さぞ喜びましょう。」  「では・・・・。」

暫らくすると、ドカドカと2将が入って来た。

「山深き里ゆえ、粗末な物しか御座いませぬが、どうぞ御体を
                           お温め下されませ。」
「おお有難い!これほど火が恋しいモノとは知らなんだわい。」

「御妻女、お手数かけまするな。」
「いえ、こちらこそ生憎あいにく主人不在にて、私ごとき妻の身で殿方様に御目おめもじ致すとは、誠に申し訳御座いませぬ。」

「アリャ〜!では、今度も不首尾ですか?−−あっ、いやいや
 仕方無い、仕方無いですな。こんな上品な御妻女直々の持成もてなしあらば、雪中を来た甲斐があった、と謂うものじゃ!うん。」

「これ張飛、口を慎め!」
妻女は婉然えんぜんとして、張飛の言葉を受け流すと、
                          心地よい声音こわねで言う。
「今、御酒ごしゅもお持ち致します。」

「や!それは何よりの馳走じゃ!」

ーーやがて、炉辺ですっかりぬくとまった頃・・・・

「御妻女。折角の訪問、我が至誠をしたためていきたい。
        申し訳ござらぬが、筆を貸しては戴けませぬか?」

「はい。どうぞ、主人の机を御使い下さいませ。許しは得て
             御座居ますれば、心置き無くなされませ。」
「では・・・・。」

酒を酌み交わす2将を残して、劉備は独り、奥の間へと案内された。文机ひとつだけの、清々とした部屋であった。ちょうど、雪明りが、机上に差し込んでいる。

備、久しく高名を慕う。両次、晋謁しんえつせんと欲して、わずして空しくかこる。惆悵しゅうちょう、何に似ん。ひそかに念う、漢朝の苗裔びょうえい、みだりに名爵を得る。伏して観るに、朝廷陵替りょうたい、綱紀は乱れ、群雄は国を乱し、悪党は君をあざむく。吾に匡済きょうさいの誠ありといえども、経綸けいりんの策に乏しきを如何いかんせん。仰ぎ望む。先生、呂望ろぼうの大才をべ、子房しぼう鴻略こうりゃくを施せば、これ天下の幸甚こうじん社稷しゃしょくの幸甚。
再び斎戒沐浴して、特に尊顔を拝し、まのあたり鄙悃ひこんを傾けん事を願う。すべて、鑒原かんげんうやせつ


霏霏ひひとして舞う雪の臥龍崗を、主従3騎が去っていく・・・・。
紺碧の白皚皚はくがいがい・・・・そして次のは、どんな色が、劉備一行を迎えて呉れるのであろうか・・・・


ケタ外れのダメ男劉備玄徳と、
    雲を呼ぶ龍諸葛亮孔明との、


美しくも運命的な《出会いの時》が、
         刻一刻と近づきつつあった・・・・
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