【第104節】
−−【龍】が潜んでいた。
白面の一書生に姿を変えて、この部屋の隅に紛れ込んで居る。
・・・・だが、【劉備】には、それが判ら無い。
とても龍の化身だとは見抜け無い・・・・。
その「臥龍」「伏龍」の話しは、しっかり聴かされているにも拘らず劉備は全く気付けないで居る。そもそも、軍人・劉備は、社会階層の異なる『名士』に対しては及び腰で、その情報にも疎くなっていた。彼が、そうなってしまったのには訳が有った。
《ーーもうゴタゴタは懲り懲りだ・・・・》と云う思いが、心の何処かに在ったのである。劉備とて、己がこの歳に成る迄、未だに〔傭兵集団の隊長〕でしか在り得無い原因は解っている。折角、徐州1国を手に入れても、結局は失ってしまった其の原因が、ひとえに【名士不在】に尽きる事は、百も承知して居るのだった・・・・「名士」無くしては、国の統治・経営は成り立たない。特に在地の名士・地方豪族の協力と承認なしでは、人々の暮らしを永く保て無い。国を保つのは「武力」では無く、「経済」である。その両者を融合してゆくのが「政事」であり、その政事を指導する者こそ『名士』であった。にも拘らず、今も劉備の家臣団には「名士」が居無い。とは謂え、かつては一流の名士を召し抱えた事もあったのだ。
【陳羣】や【陳登】と云う、当時を代表する一級の人材であった。豫州や徐州を一時支配した時、この両者を召し出して別駕(政事参与・副官)と、したのだ。ーーだが・・・・この2人とも、劉備の元を去り、今は曹操の重臣と成っている・・・・何故か??
1つには、劉備集団に未来への展望を託すだけの力量が無かった事もあろう。だが、決定的だったのは・・・・『関羽や張飛』と云う、仁侠的血盟関係に有る〔挙兵以来の重臣〕の占める発言力の強さに、その原因が在った。折角、陳羣らが建策・進言しても、最終決裁は【義兄弟】が決定する。これでは馬鹿らしくて、存在する意義が無い。一方、義兄弟にしてみれば、新参者がデカイ顔するのは面白く無い。劉備は其の間に挟まれて、両方に気を遣い、なだめ廻らねばならなくなる。ホトホト気骨が折れた。「どっちを選ぶのだ!」・・・・と、詰め寄られれば、結局、仁侠的結合に帰納してしまう・・・・。
一流名士・【陳羣】に見限られる様な集団には、以後、誰も参入して来ようとはしなくなったーー。
だが、ここへ来て、劉備集団にも転機が訪れ始めていた。何と言っても、ここ荊州は学研の地であった。”荊州学”と呼ばれる勉強法が存在する程に、北方の戦禍を避けて集まる人材の宝庫でもあったのだ。ヒマを持て余し、『脾肉の嘆』を囲って居る劉備にも、宴席を通じての顔見知りが出来てくる。その代表が、
『水鏡先生』こと【司馬徽】であった。やがて親しくなると、司馬徽は自分の門下生の一人を劉備に紹介して呉れた。「チト風変わりな奴でしてな。」と、司馬徽が話す処によれば・・・・
彼の元の名は『徐福』と言い、家柄も何もない(単家)出身、えらい極道者で人殺し迄してしまったと言う。とっ捕まったが黙秘して名も言わない。頭に来た役人は市中に柱を立てて縛り付け、名前を教えた者には情報料を払うとした。処が後難を恐れて誰一人として申し出て来る者は無かった。相当のヤクザ者だったらしい。結局、悪党仲間が駆けつけて来て、彼を助け出してしまった。大ボスだったのだろう。ーーこの1件で何かを感じたのか、当時としては未だ”新興宗教”だった〔仏門〕に入り、郷里の寺で修業を始めたのだと言う。周囲は元ヤクザの大幹部と知って近づこうともしない中、彼は黙々と修業に専念し、独り毎早朝に掃除を欠かさず、真面目に読経・写経を修めたと言う。この生活が、彼の学研の才能を開眼させたのであろうか、やがて荊州へ出て司馬徽の門下生となった・・・・と、云う事であった。
「それは又、随分と面白い男で御座るな〜!
是非に1度、私に会わせてみて下され。」劉備は其のムチャクチャな経歴を聞いて、その若者がエラク気に入ったどこか、若い頃の自分と同じ仁侠の肌合を感じたのである。
「無論、奴は、今では我が門下の中でも指折りの秀才で御座る。
御所望とあらば、早速にも出向かせましょう。煮るなり焼くなり御存分にしてみて下され。調理しだいでは、なかなか乙な味が
出て来るでありましょう程にナ。アッハハハハ・・・・!!」
その【徐庶】(元・徐福)は、劉備に出仕するや、軍才を発揮する機会を得る。夏侯惇・于禁らに率いられた2万の曹操軍が、国境を犯して侵攻して来たのである。当時、劉備集団は、曹操の南下を抑える役割として、劉表から「新野城」を与えられていた。手勢は5千であった。劉備軍は徐庶を軍師として、迎撃に出陣した。会戦地点は、新野の北80キロ余の《博望の地》であった。国境を50キロ侵攻された位置である。ここで徐庶は軍師として、周到な作戦を披瀝して見せた。−−その結果は既述の如く、伏兵ニヨル奇襲を仕掛け、みごと我に4倍する敵軍を撃退するものとなった。
そんな【徐庶】が、近頃チラホラと、『名士界のホープ』の情報を小出しに漏らす様になって来ていた。 今日も亦・・・・
「我が陣営は、つくづく人材不足ですなア〜。」と、溜息をついて見せる。 「おや、どうした?」
「いや、我が陣に臥龍さえ居て呉れたらなア〜と、つい、親友の事を考えて居りました。」
「おお臥龍とな!その噂は常々、水鏡先生から聴かされて居るのじゃが、いっかな其の名をなかなかに明かしては戴けんのだ
「はは〜ん、臥龍は未だ、出仕すべき先を決めて居無いので御座いましょう。」
「そちは今、”親友”と申したな。では、名も顔も、その所在も存じておろう。」
「はい、それはもう、よく存じております。私などは、彼の足元にも及ばぬ大天才で御座います!
「お主ほどの人物が、足元にも及ばぬとな!?」
「−−臥龍とは・・・諸葛亮、諸葛亮孔明を指しております。今、”隆中”の草盧にて、時を待って居りまする。」
「−−ショ カツ・ コウ メイ・・・・とな!?」
「はい。名の”亮”は、明るい。
字も”孔いに明るい”で御座る。」
徐庶は字に書いて見せる。
「臥龍・孔明さえ来て呉れれば、劉玄徳殿の未来は、
大きく開かれるでしょうに・・・・。」
「有難い。よくぞ教えて呉れた。礼を申す。−−では、ひとつ、ついでに彼を連れて来ては呉れまいか?」
この劉備の、余りの安易さに、徐庶は己達・『名士全体の誇り』をいたく傷付けられた思いがした。
《−−この男は、我々「名士」の重要さを、未まだに認識し切れて居無いのか!!》 この事は、中国社会に於ける名士層全体の地位に関わる、重大問題である。今、「名士の地位」は、ようやく世の中から認知され始めたばかりであり、その評価が定まっている訳では無かった。高くも低くも成り得る、微妙な段階に差し掛かっている。だから名士間の横の繋がり、連帯意識は深く強い。お互いが”運命共同体”なのであった。謂わんや【孔明】は、名士界の未来を象徴する最大のホープ・最高の隠し玉なのである。その孔明への評価・処遇の如何は、今後の名士層全体の地位と待遇を決定づける、重大な規準となる。・・・・そう安々と呼び出せない。
《水鏡先生の”焦らし作戦”も、それを懸念しての事であられたか
そこで徐庶は、司馬徽の意図を察して・・・・〔孔明を最大限に高く売り込む〕よう行動する。主君の要請を蹴り、名士の連帯を最優先させたのである。ここには、美しい君臣関係など見られ無いシビアな駆け引きが目につく。
「此ノ人ハ、就イテ見ル可ク、屈シテ致ス可カラザル也。将軍(劉備)宜シク駕ヲ枉ゲテ、之ヲ顧ミル可シ。」
「いいえ、諸葛亮孔明は天下の大才で御座います。こちらから迎えに出向くべき人物であり、決して連れて来られる様な者ではありませぬぞ。劉備玄徳ご自身が、礼を尽くして、自から訪れなければならぬ程の天才であります。もし臥龍を得んと欲するのであれば、是非そう為さるべきで御座居ます!!」
「・・・・そう云うもので有ろうかのう〜!?」
「はい。そうで有るべき至高の価値を秘めて居ります。」
ーー処が・・・・更に聴けば、相手は未だ27歳の白面(無位無官)の書生ではないか!こちらは徐州の牧を務め、天下にその人在りと知られる、歴っきとした(正式な)《漢の左将軍》・《宜城亭侯》・《豫州牧》の肩書に在るのだ。年齢も親子ほどの差が有るではないか・・・・。
「−−解った・・・・。いずれ、そうしよう。」
それでも尚、煮え切らぬ【劉備玄徳】であった。
『臥龍、目醒メル!!』・・・と云う知らせが水鏡先生から密かに、徐庶の元に届けられた。徐庶は取る物も取りあえず、直ぐ様、「サロン・ド・水鏡」へと駆け着けた。
「おお孔明、久し振りだなあ!やっと、山を降りる決心が着いたのか?」
「ああ、時局が私を呼び醒まして呉れた様だ。そろそろ潮時かなと、観た。」
「それは重畳!君の様な大天才が、何時迄も野に在る時節では無く成っている。」 「確かに、そう思う。」
「−−処で、私の勝手な判断で迷惑だったかも知れ無いが・・・・劉玄徳殿が余りにもノンビリ構えて居るものだから・・つい、君の事を告げてしまったよ。悪かったかなあ?」
《やはり、そうで有ったか》と、苦笑した後、諸葛亮は答えた。
「いや、それは有り難い事だとも。−−実は・・・・私はもう何年も前から、劉備玄徳に出仕しようと考えて居たんだ。だから、明後日にでも面会すべく、こうして山を降りて来て居たんだ。」
「おお、矢張そうで有ったか!薄々は感じて居たんだが、君の大望の所在が何辺に在りやと、いまいちハッキリせぬもので、つい・・・・。」
「いや、いいんだよ。君の配慮には、本当に感謝して居るよ。」
「あと、君を紹介する際、出来るだけ高く売り込んで措いた。
皇帝が三公を招聘する為に、家を三たび訪れて礼を尽くすと同じ様に、君には《三顧の礼》を尽くす
べきだとね・・・・。だから、君自身がこちらから出向いたんでは、
我々を安売りする事になりはしないか?」
「・・・・劉将軍は直ぐ動き出しそうだったかい?」
「いやあ〜、それが、どうにも煮え切らなくてね〜・・・・。」
「多分、そんな処だろうとは、想って居たよ。本人に其の気が有れば、とっくに来ている筈だからね。でも、有難い。”其の手”は
こちらから使わせて貰う事にするよ。」
それまで2人の会話をニコニコ聞いて居た【司馬徽】が、最後に若者達に言い渡した。
「・・・・くれぐれも”我々の理想”を忘れない様にナ。此処に居る我々が、ガッカリする様な振舞いだけは致すで無いぞよ。それさえ常に胸中に在れば、あとはお前の才能を存分に発揮して、世の人の為に尽くすがいい・・・・。」
「はい、よく解って居ります。いずれ此の手で、《名士が国を動かす時代》を築いて見せまする!」
−−新しい時代を築く・・・・
【諸葛亮孔明】は、遠くを見る様な眼で言うのであった。
−−さて、この節の冒頭に戻って・・・・
今、龍・諸葛亮の潜む”部屋”とは・・・・
この当時、有力者の元へは、”食客”に成る目的で、全国各地から集まる者が多かった。【劉備玄徳】の名を慕い、その”大部屋”を訪れる者も亦多かった。様々な人間が、夫れ夫れの思惑を抱いて面会に訪れて来る。その接見の場所が、この部屋であった。が、毎日の事なので時間制限があり、予定の刻限が来ると、打ち切りとしていた。劉備の場合、会見が済み、空き室になった時は、その接客室を自分の”趣味工作室”としても併用していた。珍しく、机と椅子の有る室内なので、細かい手作業には都合が良かったのである。ーーさて、初見の者は必ずその部屋へ通される。大らかな劉備らしく、やかましいチェックなど一切無い床への平座りではなく、机と椅子が(教会風に)しつらえてある。待って居る間、互いが対面しないで済むから、静粛が保たれるし、順番争いでゴタゴタする事も無い。その為の工夫である。
この日も既に、前の席から多くの者達で埋まり、部屋は一杯であった。皆、自分を売り込みに来て居る訳だから、時間切れになる前にと、主人席の近くに座りたい。見知らぬ者同士、誰も無駄口を叩かない。見るからに豪腕そうな者も在れば、文官志望と知れる者も居る。そんな中、【諸葛亮】は、わざと目立たぬ様最後列の隅にひっそり席を取った。
−−やがて、何の前触れも無く、この樊城の【主人】が、颯爽として入って来た。
「やあ、皆さん、どうも遠路はるばる御苦労で御座った!」
気さくである。背は7尺5寸(175センチ)、身長の割に、ずいぶん腕が長く見える。前の席にゆったりと座り、訪問者達と対面の形となった。−−耳がデカイ!噂さ以上である。”福耳”を通り越して、偉大ですらある。
『身長七尺五寸、手ヲ垂ルレバ膝ヨリ下リ、
顧レバ自ラ其ノ耳ヲ見ル。』 『大耳児。』
(※ 長い手は武勇の象徴。大耳と目は、聡明さや度量の広さを
暗示している。皇帝に成った様な大人物の記述には、こうした
独特な容貌を付記するのが著者の礼儀・常套作法ではあった。)
・・・・だが、何処か、どっしりとした厚味が有る。狩りから帰ったばかりであろうか?軽い武装姿であった。全体としては、武人としても堂々たる風貌である。眼は優しく、その表情には謙虚な人柄が滲み出ている。一言でいえば、”大人の風格”を具えている・・・・。
『弘毅寛厚ニシテ 人ヲ知リ 士ヲ待ス。
蓋シ 高祖ノ風、英雄ノ器有リ。』 (正史・陳寿)
『雄才有リテ 甚ダ衆ノ心ヲ得、
終ニ人ノ下 為ラザラン。』 (魏の程c)
『天下雄ヲ称シ、一世ノ憚ル所ナリ。』 (呉の陸遜)
諸葛亮は其れだけ確認し終わると、後は眼を閉じ、ひっそりと只、座って居た・・・・。
−−どれ程の時間が経ったのであろうか?気がつくと、一同はゾロゾロと帰り始めていた。本日は時間切れ、打ち切りとなったのである。だが諸葛亮は、独り其のまま居残った。薄暗くなった部屋の隅に居る人物に、劉備はチラと視線を送ったが、よくは見えない。声も掛けずに無視した。時々あるケースだった。時間切れの後も居残って、泣き付かれるのだ。
《どうせ、こ奴も、その類だろう・・・・。》
タカを括って、放ったらかす事にした。
《そのうち、諦めて帰るじゃろう・・・・。》
−ー『書生ノ意ヲ以テ、之ニ待ス』ーー劉備は傍から、昨日の続きを取り出すと、”趣味の時間”に取り掛かった。こう見えても、劉備は結構手先が器用である。幼い日々、生計を助ける為にワラジや莚をよく編んだものだ。この処の楽しみの1つは《旗飾り》を作る事であった。余り静かなので、そのうち劉備は、すっかり作業に没頭してしまい、此の部屋に、もう1人の人物が在る事を、つい忘れてしまった。
軍旗の周りのフサフサを編み上げていくのである。たまたま上質のヤク(旄牛)の尻っ尾を大量に届けて呉れた者があり、其れを材料に、軍旗に取り付けてゆく作業である。
こうして、部屋の中には、2人の男だけが残った・・・・。
「将軍、お話しが御座居ます!」
《−−!?》突然、無礼な奴じゃなと思いつつ、劉備は眼を上げた。 《未だ残って居たのか?》・・・・と、其処には、スラリと素晴しく背の高い、白面の若者が、スックリと立って居た。
『身長八尺、容貌 甚ダ偉ニシテ、
時人 是レヲ異トス。』 (陳寿・諸葛亮集)
「将軍(劉備様)、貴方は大望を持たれるべき御方で在りながら、只そうして旗飾りを結わえて居られるばかりとは、何たる様でありましょうや!」
青二才の分際が、”漢の左将軍”に対して吐くべき言葉では無い。ムカッと来た。
「何を言うか!!」 劉備は憤然として立ち上がった。そして、その若僧をハッタと睨みつけた。
《−−これは!!》・・・眉目秀麗にして、飽くまで涼やかな眼の光・・・・”賢者”とは正に、此の若者の相を指すのであろうか!!47歳と成った劉備が、これ迄の人生の中で出会って来た、多くの人物の誰にも優れた、清々しくも異相・偉相の持ち主であった!劉備の直感が、彼の怒りを見る見る裡に退かせてゆくのが、自分でも判った。
「−−儂は只、ちょっと憂さ晴らしをして居るだけじゃ・・・・。」
劉備はバツの悪さに、ポイと旗飾りを放り出して見せた。すると青年は、たたみ掛ける様に、一気に本題へと斬り込んで来た。
「将軍、劉鎮南将軍(劉表)を、曹公(曹操)に比べれば如何が観られますか!?」
その若者の全体から発する、何とも謂えぬ重厚な存在感が、一種不思議なオーラと成って、対する相手を釈然とさせる・・・・。
《ほう!この儂に対して、こんな事を真正面から尋く者など、
今迄は居無かったぞ・・・・。》
来訪者の殆んどは、何とか抱えて貰おうと必死に成るものだが、この若者には、そうしたケレンが感じられ無い。
「・・・・及ばないな・・・・。」
「では、将軍ご自身と比べては、
如何がで御座居ますか!?」
真摯に答えざるを得ぬ様な、気迫が漲っていた。
「・・・・やはり、及ばない・・・・」”及ばない”処では無い比べられるのも面はゆい様な現状である。片や、100万の兵を擁する覇王の中の覇王、こなた、寸土も持てぬ居候・・・・
「今、誰も彼も、曹操に及ばないのに、将軍の
軍勢は高々数千に過ぎませぬ。このまま手を
拱いて、敵と相対するのは、無謀と謂うものではありませぬか!?」
正に其の通りであった。ズバリ、現在の劉備が一番不安を抱いている案件なのだ。今度、本気で攻められたら、もう此の世に安住の地は無い。死ぬまで、日陰者・お尋ね者として、全国を逃げ廻って涯てる事になる・・・・・。
《−−これは・・・・もしかして・・・・!!》
劉備玄徳は改めて青年を凝視めると、居住まいを正した。眼の前の青年は其処に在るだけで・・・・劉備がかつて、青雲の志を抱いて旗挙げした頃の自分の姿を思い出させる重みがあった。
「儂も亦、それを心配して居る処なのだ。だが、打開策が見当たらんのじゃ・・・・。」 己の存亡に関わる最大の緊急課題である。もし答えが在るものなら、縋ってでも聴きたい事であった。
「どうすれば善いのであろうか!?」
もう、ケチな見栄は無かった。虚心に腹を割って見せていた。
「−−現在、荊州は人口が多いのに・・・・少ないのです!」
《−−??・・・・》
「実際は禹域(中国)で最も人口が多いのに、戸籍に載っている者は、極く一部の者達だけなのです。幽霊人口が何百万と居るのです。ですから、一戸当り何人と平均して徴兵すれば、今の儘では、戸籍の民は喜びませぬ。不公平感に怒りましょう。そこで将軍は、劉表殿にお話しなされ、およそ戸籍に載らぬ家あらば、みな戸籍に入れさせるのです。その後に徴兵令を下せば、たちどころに軍勢は増強されましょう。」
「−−そうか!そうで有ったか!!」
劉備は思わず、手を拳で叩いた。
「・・・・で、予想としては?」
「ざっと見積もっても、10万は下りませぬ。」
「な、何!何と10万と言うか!?」
「多くを申さば、20万も可なり。」
「に、に、二十万・・・・!?」
「その全ては無理としても、将軍は其の何割かを手に入れる事たちどころに叶いましょうぞ。」
いざとなれば、クーデタアを起こして、全権を掌握なされれば宜しゅう御座居ます。私は、其れを成功させるだけの人脈を、既に持って居りまするーーとは、流石に、今は言わない。
「・・・・ウ〜ン・・・・。」
思いも寄らぬ大軍であった。既に在る荊州10万を加えれば30万になる。
《それなら曹操と対抗できる!》
そんな事は考えてもみなかった。話し半分だとしても、その発想がスゴイ!!劉備の眼から、ウロコが落ちた。そして、眼の前に居る青年が”神”の様に思えた。
「・・・・おお、失礼した。そう言えば未だ、貴尊の御名前を御伺いしていませんでしたな。」
青年はニコリとして答えた。
「私は諸葛亮、字を孔明と申す者に御座居ます。」
「−−え!それではやはり貴公が、あの高名な臥龍先生でありましたか・・・・!!」
この若者が諸葛亮孔明であるなら、それは軍事総監・蔡瑁の親戚でないか。蔡瑁には2人の姉が居るが、上の姉は劉表の後妻と成り「劉j」を産んでいた。が、此処のところ、その「上の姉」の方は、最近とみに劉備の”乗っ取り”を邪推・猜疑しているらしい
・・・・もし、劉表がその妻の奸言を鵜呑みにでもしたら、追い出された劉備には、もはや行き場が無いのだった。処が、此の諸葛亮と云う青年は、「その姉の妹の娘」を妻に持って居る筈である
ーーだとすれば・・・・この青年が傍に居て呉れるだけでも、その女の邪推・猜疑から逃れる事にも通じよう。その上、つい最近、軍師と成って呉れたばかりの【徐庶】が、〔三顧の礼〕で迎えよと言った相手だ・・・・!
「おお有難や、かたじけなや!今宵は何と嘉き日じゃ!天に謝し地に伏して我が身を祝いたい気持ですぞ!ああ、それにしてもよくぞ、よくぞおいで下された・・・・!!」
劉備は感激の余り、孔明の手を取ると、両の瞼に涙さえ浮かべるのであった。
時に、【諸葛亮孔明】27歳、
【劉備玄徳】47歳の出会い
であった・・・・!
【劉備玄徳】は【諸葛亮孔明】を自室へと誘った。そして対面して座すや、床に頭を着けたのである。
「孔明先生、不肖この劉備玄徳、伏して御願い申し上げます。是非、是非、私に進むべき道をお示し下され!!」
これには諸葛亮の方がビックリした。20歳も年下の若僧に天下の左将軍が、躊躇らいも無く土下座したのだ。
《ーーやはり、此の仁だ・・・・!!》若者は感激した。いや、感動した。そして此の時、はっきりと、諸葛亮は・・・・
《此の人物と生死を共にしよう!》 と、心に決めた。
「吾が君、御手をお上げ下され。
又、先生との呼称も、勿体無う御座居ます。」
「おお、我が君とおっしゃって下さるか!」
「はい、この諸葛亮、只今この時を以って、劉玄徳様の臣として、生涯、お仕えする事をお誓い致します!」
「有難し、有難いことじゃ・・・・!!」
「いえ私こそ、嬉しゅう御座居ます。」
今は未だ幻の国ーー”蜀”・・・・その主役同志が出会った、
《歴史的瞬間》であった!!
主従と成った2人の男同志が、互いに手を取り合って、互いを認め合った。 孔明の手は熱く、劉備の手は意外とひんやりしていた。
「では、主従固めの一献を傾けましょうぞ!」
「よかろう、祝杯じゃ!」
「今宵は、美しく月が満ちておりまする。城の高楼に
昇りましょうか?」
「おお、それは好い趣向じゃ。
2人して、あの満月に誓うとしよう・・・・!」
劉備が酒を、孔明が杯を携えて樊城の高楼に出る。其処には深いイエローの満月が、皓々と其の光で、静かに2人の英雄を照らし出していた。両者は互いに、互いの杯に並々と、濁り酒を満たせ合った。
「・・・・臣・亮、ここに劉玄徳様に、一命を捧げ申す・・・・!」
「劉備玄徳、ここに諸葛亮孔明を、我が股肱として迎え、終生、水魚の交わりを以って遇すべし・・・・!」
両者互いを凝視め合い、而して月に向いて杯を上ぐ。しかる後互いの腕を交差させ、互いが杯に唇を当てると、両者同時に杯を仰る。咽元を美酒が落ちて、五臓六腑に浸み渡る・・・・
そしてここに、人知れぬ【月光の誓い】が成った。
「−−殿・・・・《蜀に国》 を建てられませ!!」
とうとう、其れを口にする時が来た。
「・・・・蜀・・・・蜀に・・・・”国”・・・・と、申すか?」
余りにも意外な言葉であった。「−−左様で御座居ます。」
若き諸葛亮の顔は月光を浴びて、丸で穏やかな黄金色に輝いて見える。
「我が手で、この儂の手で、
新しい”国”を築け・・・・と言うのか!?」
デカ過ぎる話しであった。夢にすら見た事の無い、壮大な構想であった。もともと、劉備・関羽・張飛の義兄弟の夢は・・・〔漢朝の忠臣として功名を為し、漢王室を復興させる事〕であった。その結果として、1州の主に成る事が出来れば本望と謂うものである
・・・・と考えて生きて来たのであった。
「その策は、既に此の胸の裡に御座居ます。」
天才の発する言の葉に、ただ驚くばかりの劉備である。
「−−正直申して・・・・俄には信じられぬ・・・・。愚昧な儂には、
余りにも過大な構想ではなかろうか・・・・?」
20万の軍兵の話なら理解も及ぼうが、《新国家》などと謂う途方も無い話しとなると、皆目見当すらも着か無かった・・・。
一瞬、薄墨の様な群雲が、月光を遮って流れた。
「−−今は只、この劉備玄徳・・・・諸葛孔明と云う”龍”の背に乗って、失いかけて居た己の〔若き日の夢〕に、再び向かって歩めそうな気がする耳じゃ・・・・。」
傍らで静かに、それを聞いて居た青年・諸葛亮の横顔が、花の様に微笑んだ。その時、群雲は去り、さえぎるもの無き円月が、城楼に語り続ける2人の英雄を、皓々と照らしていた。
濁り酒が、身に沁みて美味い・・・・。
−−と・・・・以上、筆者は此の【第104節】で・・・・
《裴松之の補註》に載るーー『魏略』及び『九州春秋』に拠る、【劉備と孔明の出会いの場面】を記してきた。
次節で描く、有名な【三顧の礼】に比べれば、謂わば
もう一つの、と、言えるであろう
ちなみに、この二人の”出会いの場面”についての、
『正史』の記述は誠にアッケナイ。「諸葛亮伝」の中に、
僅かに5文字→『凡三往乃見。』
・・・・凡そ三たび往いて乃ち見る。−−これが全てである。
その前文の『由是先主遂詣亮。』・・・・是れに由りて先主遂に亮に詣る。・・・・を加えても12文字だけである。
「先主(劉備)伝」には、一文字の記述も無い。
これでは余りにも味気ないーーと思ったのであろうか。裴松之は「絶対に在り得ない事である!」と言いつつも、この『魏略』の場面を補註として掲載しているのである。
だが、当時の逼迫した時局状況から推して、
”孔明の方から劉備に会いに行った”・・・・とする、この『魏略』と『九州春秋』の記述も、あながちデタラメだとして完全否定しまうのには忍びない・・・・と筆者は思ったゆえに、敢えてこの「節」を立てた次第である。
尚、念の為(筆者が、どの程度の部分を小説化しているかを識って戴く為)に、補註・『魏略』の全文を以下に載せて措く。
※ ちなみに、『魏略』は、魏の郎中・「魚拳」撰で、『典略』と云う
厖大な史料の一部か?と謂われている。
時代的には、『正史』とほぼ同じリアルタイムの物である。
無論、次節では、『正史』に僅か5文字で記されている、あの、世に有名な【三顧の礼】による二人の邂逅を描くのであるが、一体どちらが真実であるか?又は、どちらがより真実らしく在るか?
・・・・については、読者諸氏の判定に委ねるものである。
ーー『魏略』 に言う。
諸葛亮は、次に荊州が(曹操から)襲撃を受けると悟ったが、劉表は軟弱で軍事に疎かった。そこで諸葛亮は北へ赴き、劉備と会見した。劉備は諸葛亮と旧知で無い上、彼が若輩なのを見て、書生に対する態度で接した。会合が終わって、客がみな帰ってからも、諸葛亮だけが後に残ったが、劉備は猶も彼が何を言いたいのか訊ね様ともしなかった。劉備は、軍旗を飾る牛毛を繋ぎ合わせるのが好きであったが、丁度この時、旄牛の尾を呉れた人が居て、劉備は之を手で繋ぎ合わせて居た。そこで諸葛亮は前に進み出て言った。
「将軍には遠大なる志を持たれるのが当然でありますのに、只旗飾りを結わえて居られるだけとは・・・・!」
劉備は諸葛亮が只者では無い事を悟り、そこで旗飾りを投げ出して答えた。
「何を言うか。儂は些か憂さを晴らして居ただけじゃ。」
すると諸葛亮は言った。
「将軍は劉鎮南将軍(劉表)を曹公に比較して如何思われますか?
劉備は言った。「及ばない。」 諸葛亮はまた言った。
「将軍ご自身と比べて見ては如何ですか?」
「やはり及ばない。」
「今、誰も彼も(曹操に)及ばないのに、将軍の軍勢は、せいぜい数千に過ぎませぬ。是れで敵と相い対するのは無謀・無策ではありませぬか!」
「儂も亦、それを心配して居るのだ。如何すれば善かろう?」
「現在、荊州は人口は少なく無いのに、戸籍に載っている者は少しです。”一戸当り何人”と、平均して兵を取り立てれば、民心は喜ばないでしょう。鎮南将軍にお話になって、国中に命令を下し、およそ戸籍に載っていない家あれば、戸籍に入れさせ、その後で彼等を取り立てて軍勢を増すのが宜しいでしょう。」
『九州春秋』の記述も亦、これと同様である。
臣 裴松之は考える。
諸葛亮の(出師の)表に、『先帝は、臣を身分卑しき者とされずに曲げて自分の方から訪問なさり、三たび臣のあばら屋を訪れて臣に当代の情勢について御質問なさった』と有る事からすれば、諸葛亮の方から先に劉備を訪れたのでは無い事は、明白である。見聞の違いから記事が異なり、夫れ夫れ独自の説が生れるとは言っても、事実との喰い違いが是れ程迄になるとは実にもって不可解な事と言えよう。
−−以上、裴松之の補註に載る 『魏略』 よりーー
−−では、次節では・・・・いよいよ、
『正史』に記されている・・・・
〔先主遂詣亮。凡三往乃見。〕・・・・に基づいて、
臥龍こと【諸葛亮孔明】と、ダメ男こと
【劉備玄徳】の邂逅を見てゆこう。
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