【第103節】
今はただ、書物と己の頭脳の裡にだけ閉じ込められている
【理想国家】・・・・民の安寧と豊かな暮らし、そして誰もが
心穏やかに互いを思い遣る平和な国家・・・・
それを、此の世に実現させる!ーー学び詰めた青春の日々の総括として、漸く熟成された選良たる者の決意と方向性・・・
《それが、人に優れた才を与えられた、
我が天命であり、使命なのだ!》
全ての学問を修め終え、そろそろ実世界にデビューすべき秋を迎えた、【諸葛亮孔明】が辿り着いた、『己を活かす道』・『己の生きてゆく意味』の結実であった。
《だが、その実現の過程・道筋は又、修羅の道に成るであろう・・・》
彼が結論とする、理想国家実現の為の実際的方策ーーそれは、学友達の様に既存体制内に就職して、徐々に世の中を変革するのでは無く・・・・思い切って、一挙に全てを新たにしてしまう為の
〔創国・建国〕なのでしか有り得無かった!!
そう決意して、新ためて現実世界を眺むれば・・・・既に在る国は汚濁の中に埋もれ、起こりつつある国も亦、その手は大量の血と怨みに犯されている。
《ーー新しい国を興すしかない・・・・!》
誰しもが未だ見た事も無い「理想の国」だが、唯独り、この青年の胸の裡だけには、未だ見ぬ、「処女なる国」の姿が朧に見えている。ーーとは謂え、若き諸葛亮が誰にも、何にも捕らわれず、唯独り、己の結論に到達する迄の道程の中には、必ずしも「先ず理想ありき」の書生的思考だけが存在して居た訳では無かった。
寧ろ、現実を踏まえ、状況を整理してゆく過程で、情報を総合的に分析していった結果・・・・必然的に1つの方向が観えて来たのだった。そして其の分析結果の示す方向が、己の才を振るうに足る理想と合致したのであった。これは、ひとり孔明個人の問題に留まらない。この時代に続く、世紀を超えた『貴族社会全盛』の魁としての課題をも内包する「思想の実行」・「壮大なる実験」でもあった・・
とも、我々は観るべきであろうか?
此処で我々は、諸葛亮孔明が《やれる!!》 と決意したその「思考の過程」を追ってみよう。ーー先ず最初、諸葛亮の眼前には、己の将来に対する、「6つの選択肢」が存在していた。それに対して、彼の裡には「3つの選択基準」・ポイントが有った筈である。そのポイントとは、
〔A〕−−個人的理由として・・・・
* 己の才能が十二分に発揮し得る環境か?
* 自分の肌合にそぐうものであるか?
〔B〕−−客観的・社会的理由として・・・・
* 現実性が有るか否か?
* 時間的制約(己一代の寿命)に間に合うか否か?
* 社会的正義・通念に背くものでは無いか?
* 長期に渡る(世紀単位の)永遠性が有るか?
〔C〕−−純粋な理想として・・・・
* 人民の幸福に寄与できるか?
* 人の命を奪う事(戦争の犠牲)を最小限に止どめられる
か?・・・・である。
では、最初に挙げた【6つの選択肢】を掲げてみよう。
《1》・・・・「魏」・曹操陣営に出仕する道
《2》・・・・「呉」・孫権陣営に出仕する道
《3》・・・・各地の残存勢力を糾合し対抗する道
《4》・・・・人民蜂起を組織、指導する道
《5》・・・・官に就かず、別分野で名を残す道
《6》・・・・それ以外の道
この中で、最も早く実現可能なのは《1》と《2》である。特に《1》の
〔魏・曹操に出仕する〕は、最有力である。然し反面、帷幕は既に多士済々、”建国”と謂う視点の局面も、ほぼ終盤段階にあり、新たな大戦略を立てる必要性は、殆んど無い。然も、曹操個人の才能は底光りする程に優れており、独裁体質は周知の通りである。とても遅れて来た新参者と共に手を携えて、などと云うタイプでは無い。第一、その過激強烈な個性が為して来た数々の負の遺産(大量殺戮・手段を選ばぬ冷酷さ)・・・・その人間性が、生理的にどうにも好きに成れそうも無い。−−有力だが、ひと先ず除外して措こう。
《2》の〔呉・孫権に出仕する〕は、遣り甲斐と云う点だけで観れば、国家としては未成熟で、今後の活躍の場は、《1》より大きい。だが如何んせん、国力不足で、到底、単独で曹操の魏には対抗し切れまい。どころか、このまま推移すれば、早晩、併呑される運命上に在る。歴代の君主にも寿命運が薄い。人材的にも、地元意識の強い一級人士が出揃いつつあり、新規参入者は要らぬ気を使う羽目にも成ろうか。その上すでに、兄の『諸葛瑾』が出仕して重きを成して居る。−−《1》よりは劣る故、削除しよう・・・・。
《3》の〔各地の残存勢力糾合〕については、その大前提として、糾合する為の”大義名分”・・・・『献帝』の動座・拉致誘拐が不可欠になる。又、残存勢力の分布は辺境・奥地に偏在して居り会同の席を設定するだけで年数を費やしてしまうだろう。時局は其れを待っては呉れまい。仮に連合の条約が結ばれたとしても、現実に動けぬし、盟主も無く、その力も微々たるものに過ぎまい。−−絵空事の部類ゆえ、削除。
《4》の〔人民蜂起を組織する〕については・・・・既に”黄巾の乱”の熱は醒め、人民は大いなる挫折感・幻滅を味わった直後である。かつての様な盛り上がりは期待できない。そもそも状況が一変している。『曹操』と云う、強大な障壁が存在して居る。そして何より孔明自身、そうした土臭い個性では無い。曹操の天下統一日程には、とても間に合わない。−−故に、これも亦、削除。
《5》の〔では、いっそ、生涯野に在って、政事とは無縁に、別分野で後世に名を残すとするか?〕・・・・それは己のプライドが許さない。天から授かった才能は、その為のものでは無いであろう。−−これは論外と言うものだ。
以上、整理すれば、やはり《1》の〔曹操への出仕〕である。だが是れは結果として、何も孔明でなくとも、孟公威(学友)でも選ぶ普通の道である。然も、単に実現性が高いのみで、己の意には悉く反した選択である。権門に擦り寄る輩と同列視されても仕方無い
そこで《6》の〔その他の道〕を、真剣に模索する事となる・・・
それは当然、名士社会が次代に目指す、自己高揚・自分達の社会的地位の確固たる足場固め・基盤強化へと連鎖するものとなる謂わば、「名士階級の理想」の中味と言う事になる。
処で一口に『名士層』とは言っても、其の形態は様々であり、又、時代の流れと共に中味も変容する。
郷里社会で影響力を行使する・・・・【在地型】。
州や郡の行政単位へ任官する・・・・【地方型】。
国家官僚として朝廷進出を果す・・・【中央型】。
群雄の幕臣と成って才を振るう・・・・【自営型】。
このうち、中央進出組には、自家撞着が起きていたーー誰が観ても、今の”後漢国家”は腐敗し切っている。だが、儒教倫理の束縛から、「王朝への忠誠・大義」を口にせねばならない。皇帝(王朝)への批判は禁忌・タブーである。朝廷に対する忠誠心こそが、儒教倫理の根幹を成すからである。もし批判した者は、「人物評価」で名士界から除外追放されるであろう。かと言って、腐敗した国家に接近し過ぎても亦、「人物評価」は下がる。どう仕様も無い、ジレンマである。そこで模索されたのが・・・・
〔群雄勢力への、幕僚としての参画〕であった。其処では何の束縛も無く、己の才能を存分に発揮できた。但し、この場合に問題と成るのはーー『名士階級=後の貴族階級』と、曹操に代表される『君主権との折り合い』であった。その初期段階に於いては、「名士達の力」は、時として、君主の行動を規制し、左右し得る程に大きいものであった。・・・・然し、その「群雄」達も徐々に淘汰され、今では其の陣営は限られて来ている。”曹魏政権”を例にとれば、曹操の『君主権』は一段と強化確立されつつ在り、もはや「名士の意志」を直接的に実現する事は不可能に近い。単に、君主の下で働く〔役人〕に成り下がり始めて居る・・・・。
”名士界のホープ”として、自他共に認められつつ在る孔明の胸襟には、その名士層の閉塞状況を、何とかして超越せねばならない
と謂う、無意識裡の使命感が存在して居たであろう。−−そして、此処からが孔明独自の発想となる。
《全く新しい国家を創り出す!!》・・・これであれば
〔名士層の名士層に拠る理想的国家機構〕が樹立可能である。
ーー実は、この孔明の、発想の大転換に寄与したであろう、先達による”試考モデル”が既に存在していた。無論、机上プランではあったが・・・・
世に謂う、 【天下三分の計】 である!
古くは秦滅亡の頃、〔萠通〕が、「劉邦」「項羽」に対抗する策として「韓信」に『天下を三分し、其の1つに割拠せよ!』と説いていた。又最近では、呉の【魯肅】や【周瑜】らが、しきりに君主(孫権)に進言している。
「曹操に対抗する為には、荊州と益州に1大根拠地を拡げるべきである!」と。この情報は、呉に仕える兄の諸葛瑾から、それとなく伝わって来ていた。ーーはっきり3分している訳では無く、寧ろ【天下2分論】・【南北拮抗論】であるが最も現実に即した戦略と言える。・・・・それに対し、魏と呉の既成勢力に出仕する心算の無い孔明にとっては、南北対峙の一角に喰い込んで、「2分」では無く、【天下を3分して新勢力と成る!】・・・・道しか無い訳であった。その意味では、又それを実行するとなれば、俄然、【天下三分の計】は孔明のもの・・・・と、言って良いかも知れ無い。尚、その際、孔明が其の大前提とした重要事項を確認して措こう。−−それは・・・・
《呉との同盟》である!三分の計とは称するが、『周瑜』が喝破している通り、本質は”南北対決”なのである。北の巨人(曹操)と対峙するには、南部全土(呉・蜀地方連合)でゆくしかない・・・・と云う点が、【壮大なる策謀】の成否の鍵となる。そして更に、最も重要な事は、最終的には、【天下統一を果たす!!】と云う意思を持つ事であった。天下三分・南北対峙が目的なのでは無い飽くまで最終目標は〔統一国家の完成〕なのである。天下三分は手段・計なのであって、目的では無いのである。己の理想とする世の中を、あまねく中国全土にゆき渡らせる・・・・それを果すのは、天下統一なのだ。その気概なくしては、新しい国家の建設など、とても覚束ないではないか!
今は未だ、「無」である。余りにも現実離れした、夢想に過ぎ無いのか?では、その際、必要となる〔具体的条件〕とは何であるか?
《・・・・己自身は、新国家の君主と成るべきではない。飽くまでコンダクター・プロデューサー・設計者でなければならない。個人の野望だけで動いていると看られたら、事業はすぐに破綻するであろう。又、それに相応しいカリスマ性も、今は具えて居無い。何と言っても”時間”が無い。曹操が呉を討ち、天下統一をほぼ成し遂げてしまっては、一巻の終わりである。急がねばならない。さて現実に其れに該当する「天・地・人」は、直ぐに揃えられるか!?》
−−天下をグルリと見渡せば・・・・
《居た、居た!居るではないか!!》全ての条件にピッタリの(決して充分とは言えぬが)、既得の人望・名声と大義名分を兼ね備えている人物・・・・然も、周囲に参謀たる「名士」の影すら無い男ーー謙虚な個性で、進言を受け入れざるを得無い状況に在る人物。失うものとて何も無い、負の過去をバネにし得る男・・・・そうした人物が居るではないか!!
そう、己の「答え」を確信するや、その瞬間から、諸葛亮の夢は夢では無くなった。だとすれば、直ちに「現実の作業」に取り掛からねばならない。孔明の足は、その為の地へと向かい、すぐに自分なりの下準備を始めたのであった。ーーそして今・・・・あとは・・・・
〔邂逅〕の瞬間を待つばかりとして居たのである。
ーーその男とは・・・勿論、御存知【劉備玄徳】である。
ここで両者の〔歴史的出会い〕を紹介する前に、現時点の劉備にまつわる、『天の時』・『地の利』・『人の和』の分析を、孔明と共に整理して措こう。
〔天・地・人〕・・・・一般には、この三者を兼ね備える者だけが【英雄・覇者】たる資格を持つとされる。果たして劉備玄徳は、現在、その3つを満たしている人物であろうか?若しくは、近い将来、この3つを満たす事が可能な状況に在る人物・・・と、観る事ができるかどうか?そして若し、孔明が劉備に出仕して、主君と仰いで彼を導き、動かす時、この3条件は「理想」を実現させる為に、味方として作用し得るのか・・・・?
検証して見る。
〔1〕・『天の時』・・・・たっぷり”時間”を懸けられる余裕が有れば、万策に於いて無理をしないで済む。だが現実には、〔曹操の南征・荊州侵攻〕は目前と観なければならない。−−と云う事は、残念ながら、この「天の時」こそ、劉備には最も欠けている要素である。つまり、〔天下三分〕の大戦略構想より先に、先ずは曹操来襲の場合に備えて、緊急事態への対応・緊急避難の具体策を準備して措かねばならない。劉備の内心は今、その一件が愁眉の急として、最も不安がって居る点であろう。何とかギリギリ間に合わせねばならない。「国興し」の第一歩はその後だ。いや、後廻しにせざるを得まい。
〔2〕・『地の利』・・・荊州と益州とを、新しき国家の版図として「呉」と同盟し、強大な「魏」と対抗、鼎立する!理想的には「呉」と長く友好を保ち、「魏」の内部崩壊(=独裁力の強烈な曹操の死に続く反動・混乱)をきっかけに、武力侵攻を果し・・・・天下統一の最大の障害である「魏」を滅ぼす・・・・幸い荊・益の両州とも、今の処は一応独立して居り、「魏」・「呉」の、どちらにも属して居無い。今ならチャンスは有る!「魏」と「呉」と国境を接する〔荊州〕は・・・・早晩、我が「新たなる国=蜀」を交えた三者争奪の地となろうが、最低、『益州』一州でも、新国家としての経営は成り立つであろう。(理由は後述)その土台の上に、荊州のどれだけを占有し得るかが、生命線と成ろう。できれば〔荊・益〕の両州ともを、是非おさえたい・・・・。
〔3〕・『人の和』・・・・人材・人脈の確保ーーこれこそ今、孔明に為し得る最大の任務であった。人材の宝庫とも謂える荊州の地に於いて、其処に居る名士層・地域豪族との横の連携を築き上げて置くこと・・・将来、新国家の根拠地とすべき荊州経営に当っては地元名士層と地域豪族の支持なくしては、その基盤すら保つ事は出来無いのだ。今後、建国して版図を拡げるに従い、有能な人材は幾ら居ても足りない程になるであろう。今の処、劉備の周辺に人材は少ないが・・・・その代わりに、【関羽】・【張飛】・【趙雲】と云う、万夫不当の優れた武将、大軍を任せ得るだけの実戦指揮官が居る。幕閣にはいずれ、水鏡サロンはじめ、荊州名士層の殆んどを取り込んでいけばよい。その為にこそ自分は、10余年を掛けて着々と、《政事ネットワーク》を完成させて来たのだその唯一の財産である人材を、如何に有効に登用し、信頼関係を育ててゆくか・・・それは一に懸かって、君主たるべき劉備玄徳の器と心掛けに拠る。 いつ迄も「仁侠集団の親分」・「傭兵集団の頭目」根性で居て貰っては困る。確かに、”義兄弟の契り”に拠る人間関係は美わしいが、それに凝り固まって、みずから偏狭性を排除しない儘ならば、将来への発展性は望め無い。
果たして、今まで”ケタ外れのダメ男”で在り続けて来た、【劉備玄徳】と云う人間は、諸葛亮の眼に叶う器量を内在させて居るのか?孔明自身の眼で、直に見届けるしかあるまい。但、既に劉備が苦杯の人生を懸けて得て来た『徳望』と『名声』だけは他の2国の君主(曹操・孫権)には無い、最大の財産であり、殆んど唯一彼の魅力の全てである。その徳望・名声も、基礎は「漢王室の復興」・漢朝の末裔であると云う、当人の思い込み(欺瞞性)の上に拠って立つものであるにせよ、人心が其の虚構を本当だとする限り、それは最早、”真実”として、最大限に尊重するべきである徳に拠る政事を慕い、人が集まる事を、新国家の金看板として高々と掲げなくてはなるまい・・・・この分野=治民経世については自分に絶対の自信が有る。だから其れは自分に任せておいて貰えばよい。とは言え、劉備集団の古参重臣は皆、百戦錬磨。それなりの自負と矜持を持って居り、新参の孔明とは年齢的にも親子ほども違う。又、古参重臣と新来名士の関係、関羽・張飛に代表される軍部と官僚との軋轢などなど、その協調体制を確固不動のものに仕上げなければならない。ーーそれらを統合する為には・・・・己は常に私心を捨て、清廉潔白であらねばなるまい。
《・・・3国中、最も国力の劣る出発とは成ろうが、それを支えるのは民である事、その民に対しては誠心誠意、仁愛を以ってする決意を新たにし、そして国を興そう・・・・。》
次に、孔明が新国家の土台とする処の【益州】について観る。(荊州は既述)
この表を観れば判然とする事であるが、戦乱に因る人口激減期にあって、全国最大の増加(約300万人)が観られ、今は中国最大の人口(約800万人=当時の日本の総人口の4倍!)を擁する州が、この【益州】である。
東に隣接する此処〔荊州〕と合わせれば、人口では「呉」に優り、「魏」にも充分対抗し得る。・・・・つまり、食糧・兵員ともに全く手を着けられていない、豊満な『処女の地』であったのだ。
戦乱の”真空地帯”として、今も繁栄を謳歌している。・・・・そもそも益州の巴蜀地域には古代より、中原の殷・周文明に匹敵する”原始文明”が存在していた事実が判明しつつある。爾来、独自の発展を遂げ、春秋戦国期にはーー『其ノ地ヲ取レバ国ヲ広ムルニ足リ、其ノ財ヲ得レバ民ヲ富マシ、兵ヲ繕クスルニ足ル。』・・・・とされる、物資豊かな土地であった。又、大漢帝国の創業者・劉邦が、強大な項羽に対抗し得たのも、この益州の「食」を占めた故であった。現在の【益州】は、それに数倍する豊かな独立を保っている。然も、現在のの当主は、臣下からさえ「暗弱」と評される【劉璋】ときている・・・・触れなば落ちん、美味しい土地・・・・余力さえ有れば、誰しもが向かいたい垂涎の的ーーそれが〔益州の経済力〕である。
更にもう1つ、重大な点が在る。
「益州ハ険塞ナリ!」なのである。即ち、州全体の周囲が大山脈・大山塊に守られた、巨大なジークフリート・ラインの要塞そのものなのである。その中心である広大な成都盆地
本州に匹敵)に入る道筋・ルートは2つしか無い。「東の長江峡谷」と「北の高山越え」である。然も、両道とも、人跡を寄せ付けない険阻極まる、難道中の難道であった。
〔東の長江ルート〕は・・・延々と両岸に山嶽が迫り、流れも激しく、およそ長江らしからぬ荒々しさを見せる。攻めるに難く、守るに易い。
〔北の山嶽ルート〕は唯一の陸路で、『蜀の桟道』と呼ばれる難道で、富士山頂より高い地点も含め、『ああ危うい哉高い哉!蜀道の難きこと青天に上るよりも難し!
(李白)・・・・とされている。
人一人通る事すら困難な山峡さえ在る、険悪ルートである。ひと
たび占拠すれば、防禦は易く、堅い。
−−こうして彼の大構想・・・・
〔天下三分の計〕は形成されていったのである。
即ち、【諸葛亮】の登場なくしては「蜀」の国なく、
蜀の国なくして『三国志』は無し!
処で、我々が『蜀』と呼び習わしている国家は、正確には当時存在して居無かった表記である。正しくは、『漢』なのである。せいぜい許されて「李漢」である。”李”は末っ子の意で前漢・後漢に続く王朝と観る場合に用いた。君主と成った劉備の大義は、生涯「漢王朝の復興」の思いで凝り固まって居たからである。劉備自身は「蜀」とは、1度も言わない。・・・・やがて諸葛亮の手によって姿を現わす事となる、「劉備の新政権」は飽くまで「漢」を受け継ぐものなのであって、盗って替わるものでは無いのであった。『自分は漢の末裔である』などと吹聴し続けて来た欺瞞が、何時しか劉備自身を膏盲に至らしめた格好である。
〔蜀〕の表記は、【陳寿】が『正史・三国志』を著した時、「魏史」、「呉史」に続き、まさか「漢史」とは記せないので、その所在地の地方名を採って〔蜀史〕とした事から派生しているのである。だが我々も面倒臭いから、言い慣わしに従い《蜀》又は《蜀漢》の表記を採用してゆく事としよう。
ーー歴史はいよいよ、三国志の時を迎えようとしている・・・!!
だが此処で、冷厳な数字を再確認して措こう。今、中国には漢民族5000万人が生きている。それが「三国時代が終焉する」30年後には500万人となり・・・・4500万人の命が消えてゆく。何と90パーセントの人間が消え涯てる・・・・是れは国(朝廷)への納税対象者の人口推移(戸籍登録者)であるから、大部分は地方豪族に吸収されたものであり、いかに朝廷(官)の支配能力が低下し、地方の時代と成っていたかを示す証明ではあるが、それが全てでは無かろう。諸葛亮孔明の登場なくば、その増減は如何なるものに成っていたであろうか・・・・?「蜀」の出現による「三国時代の戦争」なくば、その増減は大きく異なっていたであろうか・・・・??
歴史と云う壮大で巨大な流れの中に占める、
”一個人の全体に及ぼす影響力”は、一体どれ程のものとして認識されるべきなのであろうか!?ーー考えさせられる、冷厳な「死の進行」である・・・・。
処で、お目当ての【劉備】は・・・ここ数年来、劉表の客将(爪牙=傭兵隊長)として『新野城』に無聊を囲って居た。
『備、荊州に住すること数年。嘗て(劉)表の坐(宴席)に於いて、
起ちて厠に至り、髀裏(内股)に肉の生ずるを見、慨然として涕を流す。坐に還るに、表、怪しみて備に問う。備いわく、
「吾、常て身は鞍を離れず、髀の肉、皆な消えたり。今、復た騎せざれば、髀の裏に 肉 生ぜり。日月は馳するが若く、老いは将に至らんとす矣。而るに功業は建たず、是を以って悲しむ耳」 と。』
荊州へ追い落とされて数年経った或る日、劉表との酒宴の席での事・・・・中座して厠から戻って来た劉備の様子がおかしい。いつもは明るい酒なのに、泣き上戸の如く、ハラハラと涙をこぼし始めたのである。訝しんだ劉表が尋ねると、今トイレで気が付いたのだが・・・・と、訳を話した。
「兵を挙げて十数年、私は常に馬の鞍から離れませんでしたので脾の肉はみな落ちておりました。処が今はもう、的盧に乗る事もなく、こうしてただ無聊を囲うのみ。脾にもすっかり肉が付いておりました・・・・歳月はあっと言う間に過ぎ去り、老年の域に達せんとするに、未だ何らの功業を立てる事あたわずに居るばかり・・・・!それを悲しみ嘆いて居るので御座居ます・・・・。」
−−所謂、『脾肉の嘆』 であるが、ものは考えようでもある。
曹操によって、此の地に封じ込まれて、手も足も出せない劉備だが、この荊州の地は御存知の如く、今や天下の学問所・・・・俊秀達が集う人材の宝庫である。うすボンヤリと、己を嘆いて居る場合では無いではないか。その気になってチョット動きさえすれば、直ぐ手の届く所に、『鳳雛』や『臥龍』と云う、超一級の人物が在るではないか・・・!(尤も此の逸話は、劉表にしてみたら、トンデモナク無礼・失礼千万な、劉備の言い草である。恰も劉表がもたらして来ている平和が不満で、戦争を起こせと非難している様な、手前勝手な感想である。7年もの長きに渡って”ただ飯”を食わせて貰って居る者が、その主人に対して発すべき言葉では無い。ま、大した問題では無いが)
この時、諸葛亮孔明21歳
劉備は曹操により近い新野城を宛がわれ、防衛の為の楯北藩・爪牙にならされて居たのである。捨て石・体のいい番犬代わりであった−−が、孔明は、直ぐに劉備と接触しようとはしなかった。
6年前の事であった。・・・・いかに『天才』・『臥龍』と呼ばれようとも、弱冠20歳そこそこの白面書生では、世間はその人生体験の無さから、信任する事を躊躇らうであろう。たとえ信任されても、どこかに「世間知らず」・「たかが書生」と云う不安な気持が残るのは当然である・・・・・その人心の機微を、孔明は理解していた。これから始めようとする大戦略の前には、些かの不信・不安が在ってもならぬ。全面的信頼あってこそ成り立つ事業である。全幅の信頼を得、全てを一任されてこそ成り立つ構想である。又、21歳段階の孔明自身には・・・・未だやらねばならぬ事が在った。既述した如く、出仕する前に、この荊州の地に人脈基盤を形成して措かねばならなかった。出仕してからでは遅過ぎる。無用な憶測や警戒心を生ずる恐れがあった。事前に成して措くべきであった。
−−そして今、それも整い、年齢も27歳と成っていた。
《頃は好し!》
劉備本人の人格も、その周辺の人物像も、充分に把握・確認する事も出来た。又、劉備自身が、こう言ったと伝え聞いた。
日月若馳 老將至矣 功業不建 是以悲耳
若き日月は馳せさり、将に老いに至らんとするに、いまだ功業建つることなし。是れを以って悲しむある耳・・・・と。
−−が、如何なる事か??肝腎な、劉備からの打診すら来ない。御本尊が気付いて呉れぬのだ。これには参った。時を失してはならない。『曹操の野望』は、間も無く此処・「荊州」に向かって来よう。もうタイムリミットも迫りつつあると云うのに、一体、劉備は何をやっているのであろうか・・・・??
サロン(名士社会)のスポンサー・广龍徳公は言って呉れている。
『孔明は伏龍、士元は鳳雛、
それを写し出す水鏡が司馬徽である!』 と。
又、サロンの主宰者・水鏡先生(司馬徽)も、
『当地には臥龍や鳳雛がおる!』と言って呉れている。
学友の〔徐庶〕に至っては、もう4年も前から劉備に仕えている。
然も、参謀として《葉の戦い》・・・・夏侯惇・于禁軍を破り、曹操の威力偵察部隊を撃退した・・・・では、奇計を用いて勝利するなど、劉備の身辺に在って重きを成している。当然、この自分の存在が伝わらぬ筈は無い。いかに”名士オンチ”の劉備と謂えどもそれ等が一つも聞こえぬ筈は無いのだが・・・・・
《ーーハハ〜ン、そうか!》一寸考えれば、不思議な事では無い。・・・・自分(孔明)が余りにも出仕先を秘匿して来た為、サロンの仲間も、〔孔明の真意〕 を測り兼ねて居るのだ。
《今の段階では、海のものとも山のものとも着かぬ劉備に、我等
最大のホープを売り込んで善いものか?善意でする紹介が、
却って迷惑がられるのではないか?》・・・・と、二の足を踏んで呉れていたのだ。《チト、態度曖昧な日々が長過ぎたかな・・・・。》
苦笑すると、孔明は自ずから行動を起こす事にした。
時は206年(建安11年)、【曹操】は華北全土をほぼ平定し終わり、来るべき”万里の長城越え”を準備している年に当たる。
時局は風雲急を告げ、華北完全制覇を終えれば、後は「曹操の南征」が迫っている。劉備も、居城を「新野」から『樊城』に移されていた。州都・襄陽の対岸軍事都市である。 つまり、劉表は、いよいよ”曹操の荊州侵攻近し!”と看て、劉備部隊を、より己の身辺近くに置いて、その単独行動(逃亡)を抑え、死なば諸共とさせる魂胆であった。さほどに迄、時局は急展開の様相を呈していたのである。最早これ以上、安閑として、劉備からのアポを待っては居られ無い。こちらにはこちらの、遠大な計画が在るのだ!
臥龍こと【諸葛亮孔明】の居・〔隆中〕と、
【劉備玄徳】の居城〔樊城〕とは其の隔つる空間は、僅かに20里(8キロ)。
二人は、近く、そして遠かった・・・・・。
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