第101節
戦乱に、別天楽土を咲かせた男
                             悪名高き モンロー主義者
 









処で、この荊州だが・・・・或る男が登場するまでは
点々バラバラ、四分五裂状態であった。現在の平和と繁栄など 夢想だにし得無い、混沌
(カオス)状況の裡に在ったのである

各地に、
宗部そうぶとか宗伍そうごとか呼ばれる、土豪勢力が盤踞ばんきょし、州としての統制は効かず、管轄下の郡・県単位があたかも、独立都市国家の如き観を呈していた。たとえば、董卓〜王允〜李催の長安政権時代(189年195年)の頃を観れば・・・・
長江の南部
(長沙ちょうさ)には「蘇代そだい」が、長江の北部(なん)には
貝羽ばいう」が、更に北部一帯
(南陽なんよう)は『袁術軍』によって制圧されている・・・・と云う有様であった。
それを、
一代・わずか10年掛けずに、既述した如くの 天下の要地〕に仕立て上げた男・・・・・・


−−その人物こそ、
    
劉表りゅうひょう 景升けいしょう その人であった!!
 劉表の肖像
しかも、彼が荊州に刺史★★として赴いた時、彼の脇には1兵の随員すら無く、単騎、丸裸状態での登場であった。この時、劉表すでに50歳・・・老境と言ってもよい。兵力無く、若さも時間も無い。有るのは唯、混沌とした現地の難問だけ、と云うスタートであった。ーー尋常な男では無い・・・・処が・・・・、
彼の評判は当時から1800年の間、一貫してすこぶる悪い 理由は至って明快である・・・・(直接「劉表」の責任では無いが)その子・劉jの代に、荊州を悪玉「曹操」に、あっさり明け渡してしまったからである。又、彼を頼って逃げ込んで来た《三国志演義のヒーロー達》を活躍させなかった・・・・からである。単に、同じ劉姓と云うだけで、異例の厚遇で接し続けたのにも、拘らずである。生前の業績を一切棚上げされ、死後の責任だけを追及されたのでは堪ったものでは無い、と思うのだが・・・・・

一応参考までに〔
当時の人々〕の劉表に対する評価を列挙しておく。但し、断っておくが、現存する資料は全て【敵側からの物】のみである。故に、読者諸氏には、劉表の人物を、即断すべきでは無い・・・・。


               

言羽(かく)・・・・『劉表は、平和な時代なら「三公」に成れる人物であるが、事態の変化を見抜く事が出来ず、猜疑心が強く、決断力が無い故、何事も成し遂げられないであろう』 王粲おうさん・・・・『劉表は、荊楚けいその地域で悠然として、じっと時代の変転を観望し、自分では西伯(周の文王)に成れると思い込んでいる。動乱を避けて荊州に赴いた人物達は全て天下の俊才傑人だが、劉表は任用すべき人物の見分けがつかず、そのため国は危ういのに、輔佐が居無い。』
王介(もうかい)・・・・『劉表は、士大夫や庶民 その数多く、強力であるが、将来を見通す思慮を持たず、基礎を固める事もしていない。政令もいい加減だと聞く。』
荀攸じゅんゆう・・・・『天下に騒動が起こっているのに、劉表は長江・漢水を保持して動こうとしない。彼が周囲に対して野心を持たぬ事は察知できる。』
郭嘉かくか・・・・『劉表は、劉備を任用できないに違い無い彼はただ、座って議論して居る人物に過ぎ無い。(座談ノ客のみ)自分で劉備を統御するだけの才能が無い事をわきまえている。劉備を任用すれば恐らく制御せいぎょできないだろうし、軽く任用すれば働こうとしないであろう。』(だから、国をからにして、北方へ遠征しても心配は無い。) 
傅子ふし書・・・・『劉表が「劉望之」を処刑したあと、荊州の士人は皆、危険を感じた。そもそも、劉表の本心は彼を軽視している訳では無かったが、彼の率直な発言が劉表の感情に逆らった為、殺したのである。讒言ざんげんが付け込めたのは、率直さを受け入れる度量が無かったからである。』

 劉望之の弟・「劉翼」が、逃亡中に送った【申し開きの書

『私の愚かさ・浅薄さから申して、言語・行動には御心に背く事が多く、次第に積み重なって、言い訳の効かぬ状態と成る事を懸念いたします。それ故にこそ逃亡いたしますが、以前の恩恵は忘れるものでは御座居ませぬ。』
 【陳寿ちんじゅ・・・・
外寛内忌。好謀無決、有才而不能用、
   聞善而不能容。廃嫡立庶、舎礼崇愛
。』
 外寛内忌がいかんないきぼうこのメドモけつ無ク、さい有レドモ
 もちイルあたワズ、ヲ聞ケドモルルあたわワズ。  ちゃくヲ廃シテしょヲ立テ、礼ヲテテ愛ヲたっとブ。

劉表は漢江の南を支配し、表向きは寛大でありながら、内心は猜疑心が強かった。謀略を好んで決断力が無く、有能な人材が居ても用いる事が出来ず、よい意見を耳にしながらも、聞き入れる事が出来無かった。嫡子を退けて庶子を後継者に立て、礼制度を省みずに、愛情を優先した。後継者の時代になってからつまずき苦しみ、社稷しゃしょくが転覆したのも、不幸な出来事とは言え無い。
 最後に、やや時代が上った
後漢書の評価も
                             照会して措く。
みち およばざるに、して天運をおさめ、あと三分さんぶん
   なぞらえんと欲す。其れお、木禺ぼくぐうの人にけるが如きなり
。』
『人としての道を尽くしても居無いのに、寝転がったまま天運を得ようと思い、自分から決断・行動もせずに、自分が天下三分のキャスティングボードを握っている気で居た。その在り様は、丸で、人間世界に紛れ込んで突っ立て居る、木彫人形の様なものだ。』

−−と・・・
以上、散々である。それにしても〔デク人形!〕とはチトひどい・・・・そして、こうした非難の傾向は、時代が後世になればなる程、益々厳しくなってゆくのである・・・・。





                             


−−劉表りゅうひょう 景升けいしょう・・・・・・
出身はえき山陽郡で、地元の人間では無い。前漢・景帝けいていの子、「」の末裔まつえいとされる皇族の身分として、142に生まれた。 (※ 曹操は155年、劉備は161年、生まれ)
17歳で師事した王暢おうようの教えは・・・「倹約の為、身を滅ぼした者は稀である。是によって世の風俗を正すのだ!」と、云うものであった。だが劉表は、そのケチとも言える極端な姿には賛同せず、ほどほど(中庸)が善いと感じ取ってゆく。中央政界に任用された20代は、宦官勢力の絶頂期に当り、25歳の時に〔第一次・党錮とうこきん〕にぶつかり、追求を逃れて身を潜めた。
宦官達が眼の仇とした〔清流士大夫〕のリーダーである「三君」
に続く、中堅指導者層(8×3=24名)の中の、
八及はっきゅう』の1人として、彼の名も挙げられた。(※後漢書のランク付では・・・・
  「3君」→「8俊」→「8顧」→「8及」→「8厨」・・・・詳細は既述)

風貌も8尺以上(190p)大変立派(ちょう八尺余、姿貌 甚 偉しぼうはなはだい)で、清流派官僚の期待の星であった。やがて党錮の禁が解除 (黄巾勢力と士大夫層が手を結ぶ事を宦官が恐れた為)されると、大将軍・「何進」の属官に引き立てられ、近衛軍監察官(北軍中侯)に就く。直後、何進が暗殺され、董卓が9歳の劉協(献帝)を立て、洛陽で専横を始める。それに対し、翌190年・・・袁紹を盟主とする反・董卓連合軍が結成される。この後、遅れて参戦して来た、あの『江東の虎』【孫堅そんけんが洛陽へ攻めのぼる途次、荊州刺史だった「王叡おうえい」を血祭りに挙げた。この事件により、荊州には、朝廷から任じられた正式な長官は居無くなり、「荊州刺史」の座は空白状態となってしまった。ーー そこで「董卓政権」は、その権力の空白地・荊州の〔刺史〕に皇族出身の劉表を任命した。董卓の思惑・狙いは連合軍を背後から牽制させる為であった。だが劉表は反董卓勢力が屯して居る状況下・・・・軍勢を率いて包囲の中を南下することあたわず、単騎で★★★敵中をり抜けて、荊州の任地へ赴かざるを得無かった。(・・・・元来、地方への長官の赴任は”単身”と規定されてはいた。建前上、朝廷が任じる者は全て有徳の君子なのだから、赴任先の民から慕われて当然・・・と、されたからであった。然し実際には、「部曲」と呼ばれる私兵集団を率いて行ったのである。だが劉表は、それも出来無かったのだった) −−時に、劉表49歳・・・・男盛りを、妖怪の跋扈ばっこする中央政界でまれた半生であった。いも甘いもめ尽くした年齢でもある。・・・・引き受ける(受任する)からには、当然、赴任先の『荊州』の情勢やら人脈やらを、全てインプットした上での出立ではあったろう。・・・・だが手元に1兵も無い。文字通りの「単身」赴任であった。果たして何うなる事やら心許無い限りではあったが、却って”肝の据わった”旅立ちとなった
そんな劉表が、先ず最初にやった事ーーそれは、州都・新野しんやの政庁へ向かわぬ事であった。まっしぐらに、狙い定めた人物の元へと向かったのである。今後、最も頼りに成り得る人物・・・・
萠良かいりょう萠越かいえつ兄弟と、蔡瑁さいぼうの居る宜城ぎじょうへ、
          予告も無しに単騎で乗り着けたのであった
都・長安(洛陽から強行遷都せんと)から遙々はるばるって来たのに州政庁へも立ち寄らずに、直に現われた新長官の出現に、「3人」ともビックリした。と同時に、自分達を頼りと見込んで呉れた、新任長官への好意を抱かずには居られ無かった。彼等とて、野心の固まりである。混沌状態の荊州の地で己の地歩を更に拡げるには
『州刺史』と云う”権威”の利用価値を、直ちに理解する。何1つ持たぬ劉表も亦、謙虚であった。さっそく腹を割った話し合いとなった。
たのむ。どうか教えて欲しい。わしは一体、どうしたら良いであろうか
刺史ししとして州をべらなくてはならぬ。威令をゆき届かせる為には、軍権を持つ事が肝要なところまでは解る。だが果して宗部そうぶ勢力割拠する中で、儂の下に軍兵は集まるであろうか」 素直に頭を垂れ、教えを乞うた。それに対して
兄の
萠良かいりょう子柔しじゅうは、先ず刺史としての心構えを説いた。
「民衆が付き従わないのは、仁愛が不足していたからでした。又、付き従いながらも治まらないのは、信義が不足していたからです。仮にも仁義の道が実施されれば、人民は水が下へ流れる如く、身を寄せて来るでありましょう。その心構えさえ有れば、どうして行く先々での不服従を心配される必要がありましょうや。」ーーそう励まして呉れるのは有難い事だった。又、その内容も正に其の通りである。ではあるが、今一番聴きたいのは〔軍勢の集め方〕である。劉表は、すがる思いで弟の『萠越』を見た。それを察し、萠越は、劉表にそれだけの度胸と度量が有るかどうかを推し測りつつ、ゆっくりと話しを進めてゆく。
萠越かいえつの字は異度いど・・・・文官には不釣合な程にたくましく骨太で劉表に負けぬ位の堂々たる巨魁きょかいであった。
平和時の政事は仁愛と道義を第1とし、混乱時の政事は、時宜に適した〔策謀〕を第1とするもので御座る。」
「その事は、身にしみて居る。」両者の眼が合い、うなずき合った。

「戦さは兵力の多さに懸かっているのでは無く、人物を配下に治めるかどうかに懸かっており申す。 (荊州の北部に駐屯して居る)
袁術は武勇を保ちながら決断力が無く、(長沙郡の)蘇代と(南郡の)貝羽は、単なる武人で問題になりませぬ。宗部(地域豪族)の指導者達は貪欲で乱暴な者が多く、部下の頭痛の種になっているのが現状で御座居まする。」
流石に、現地の実態は、地元に住む人間にしか分からない。
「彼等の中に、私が昔から面倒を見てやっていた者も居りますれば、その者を利を以って誘えば、必ず手下を引き連れてやって参りましょう・・・・。」
迫力ある萠越の眼に、力がこもった。
「殿には、
道に外れた者を処刑し★★☆その他の者をいたわり、使用なされよ
《・・・・その覚悟が、お有りですかな・・・・?》

「ウム、断じてやろう!!
《・・・・フム、腹は据わって居るようじゃな・・・・》

「ーーさすれば・・・・州全体の民は、生を楽しむ気持を抱き、殿の立派な御徳を耳にし、必ずや幼な児を背負うて、やって来るで御座居ましょう。軍兵が集まり民衆が付き従ってから、南の〔江陵〕を占拠し、北は〔襄陽〕を守らば、荊州8郡、檄を飛ばすだけで平定これ成りましょうぞ。その計成れば、もはや袁術ごときが遣って来たろうとも、何の憂いが有りましょうや
!!
ーー
荊州の「州都」は、北寄りに過ぎる〔新野しんや〕を棄て、新しく、漢水の南岸都市の《襄陽じょうよう》と定める。そして其処を根拠に、北方からの脅威を心配せずに、じっくりと州経営を推し進めてゆく

この具体策を聴かされるや、劉表の顔が輝いた。
「子柔(萠良)のげん雍季ようきの論議と同じであり、異度(萠越)の計略は臼犯きゅうはんの計り事と同じである
!!

眼の前から暗雲が消え去り、希望の光が差し込んで来た様な思いであった。
「−−実行には、私が責任を持ちまする

それまで黙って控えて居た、やや小柄な武将が、つと立ち上がった。ゴツイ萠越に比べると、なかなかの美丈夫である。
「一気にカタ★★をつけましょうぞ
!!
この武将の名はーー
蔡瑁さいぼう・・・・字は徳珪とくけい・・・以後20年間劉表の懐刀ふところがたなとなって、軍権を掌握していく人物となる。又、彼の美人のは、のちに劉表の後妻となり、寵愛を受ける事となる。ーーかくて劉表は、赴任初日にして、何と、《頭脳》と《力》
〔参謀〕と〔将軍〕の両方を手に入れたのである。
《よし、これで、やれるぞ。あとは唯、実行あるのみ
!!
荊州の新長官・劉表景升
                     腹をくくった。

さっそく、萠越の「策謀の実行に取り掛かる。ーー即ち、広大な荊州全土に人を派わして、新長官(刺史)就任の披露パーティへの出席を触れ廻らせた。
《フム、どんな奴か、ひと目見て措いてやろう。ついでに、
           俺様の力も見せつけて置いて呉れよう

武力自慢の各地の首領どもが、手勢を引き連れて、続々と
襄陽じょうように集まって来た。《他の奴等に出し抜かれてたまるか!とばかりに、何と、55人もの猛者もさ達が出向いて来た。やがて兵力を城外に留め置くと、首領達はゾロゾロと、華やかに飾られた式場に入った・・・・と、一同席に着くや、完全武装の蔡瑁の手勢が、ドッと首領達を取り囲んで武装解除する。一網打尽である。訳が解らずオドオドして居る首領達の前に・・・・左右に萠越萠良を従えて、軍装の新長官が登壇した。
8尺以上(190p)もある巨人であった。その貫禄たるや、55人の猛者供も威圧される様な、重厚さであった。
(有威容器観・・・・・威容いよう 器観きかん り) 思わず全員が威儀を正し、拝謁の姿勢となってしまった。其処へ、すかさず萠越が、大声たいせいを発した。
「是れより、新しき州刺史様の、重大な御命令が発せられる。
 つつしみ、心して拝聴せよ
」−−すると・・・・
仁王立ちになった
劉表が、ゾロリと佩刀はいとうを抜き放った。

「ーーー
斬り捨てぇ〜い!!
劉表の鬼声一下、白刃をかざした蔡瑁の手勢が、無言のまま一斉に首領達に襲い掛かった・・・・そして・・・・ものの5分も経たぬ内に・・・・
55人全てがその場で斬殺された 間髪を置かぬ、果断な行動であった。そこに躊躇ためらいなど微塵みじんも見られ無い。式場はたちまちにして血の海と化したが、劉表はドッカと主座に腰を降ろして顔色ひとつ変えず、一部始終を見届けた

彼の人生の中で、劉表景升が”武の者”として輝いた、
                        最高の一瞬であった。

 ・・・・やる時にはやる男なのだ・・・・
!!
次には、何も知らずに城外に蝟集いしゅうして居る大軍の処置である。急に事実を告げれば、暴動・暴発にも成ろう。そこで・・・前以って萠越がリストアップしておいた、目星しき者達だけを城内に呼び入れ、忠誠を誓わせ、新たに指揮権を授け直した。この時も、新長官・劉表は、実に堂々として、その場を厳然と取り仕切った。−−結果・・・・突然だったが、いや、突然・唖然だったからこそ尚更、新たに”幸運”を手に入れた者達に、不満の有ろう筈も無かった。思いもせず大抜擢だいばってきされ、郡や県の長に、突如、大出世する事となった彼等は皆、畏怖恐懼いふきょうくして新長官(刺史)・劉表に固く忠誠を誓った。
 こうして・・・・
前任者を一同に集めておいて、
全員を誅滅ちゅうめつし去り、新たに後任者を発令する
と云う、前代未聞のトンデモナイ形で、アッと言う間に、それらの配下の兵達を全て己の「部曲」に組み入れ、荊州全軍が劉表の統帥下に入ったのである。いかに【萠越】の策謀が完璧であったにせよ、いざ皆殺しとなれば、余程の胆力が無い限り、成し得る芸当では無い。ーー劉表は、単なるお坊チャマ育ちのオジンでは無かったのだ・・・・。
尚、この日出席しなかった江夏の「張虎ちょうこ」と「陳生ちんせい」に対しては、軍勢を派する事をせず、萠良と广龍ほうだけを出向かせ、説得
帰順させている。

翌年
(191年)末、北方に居座っていた袁術が、
荊州奪取を狙って派兵して来た。・・・・その侵攻軍の主将は、
董卓を長安に退却させたばかりの、あの★★ 
「江東の虎」・
孫堅であった。これに対し劉表は、黄祖を迎撃に送り出した。しかし、孫堅軍は余りにも強く、黄祖は連戦連敗の退却で、州都・襄陽は風前の灯火に晒される危機にまで陥った。−−しかし(その後の詳細は〔第63節〕で既述した如く)単騎で黄祖を深追いした孫堅は、ケンの山中で落命。かくて劉表は、辛くも袁術の野望を砕く事に成功する。
−−その翌年(192年)の4月、『董卓とうたく』は王允おういん呂布りょふに暗殺され、その王允も6月に李催に殺され、天下は争乱の時代へと突入する。もはやコップの中の政権と成った長安の李催・郭は、一人でも味方・シンパ勢力を獲得したくて、劉表に官爵を贈りつけて来る。・・・・即ちそれ迄は〔荊州・刺史であった劉表に軍令違反者を処刑できる権限を示すを与え、朝廷からの正式な軍権を認める〔荊州・の地位を授与したのであると同時に、《鎮南将軍》にも任じて寄こした。これにより、以後、劉表は、鎮南将軍と、呼ばれてゆく事となる。
50の坂を過ぎた劉表は、荊州内を完全に統轄すると、外からの敵に対しては断固として戦い、ついには荊州全土から外敵を駆逐、一掃した。そして軍事的にも、武装兵力10万を擁する一大国家と成ってゆくのである。−−然して・・・・この後、劉表の軍隊は、生涯一度たりとも、国境を越えて、他国へ侵攻する事は無いのである。その力もチャンスも有ったにも拘らずである・・・・この件に関しての答えは既に出尽くしている。一言でいえば・・・劉表の器量の小ささ・凡庸さであると。
・・・・だが、この答えは、乱世に於ける”軍事・覇権争い”と云う一側面から観た場合には当て嵌まっても、”治世・平安”と云う民衆の最も欲する側面からの評価に欠けた、片手落ちの評価と言わざるを得無い。


ここで我々にとって、真に問題となり、かつ最大の課題とすべきは・・・・一体、劉表は・・・・
何を目指して居た人物なのか?》 又は、
《何を目指さなかった人物なのか?》と云う恐ろしく困難な、人間探求の旅である。なぜ困難かと言えば、それに直に答えて呉れる史料は皆無ゆえである。我々は、事実の中から推測するばかりなのである・・・・。
つらつらおもん観るに・・・・少なくとも劉表が、
他国への侵略意図》を持って居無かった事だけは、結果論的に判定し得る。では彼にとって「軍事・安全保障」は、どうでも良かったのか??・・・・そんな事は無い。彼の対外戦略は首尾一貫している。当時最大の勢力・袁紹との同盟』を維持してゆくのである。いわゆる、群雄達の基本戦略であり古来より採用されて来た、常識的な遠交近攻戦略と言えよう誰が観ても、「曹操」より「袁紹軍」の方が圧倒的に優勢であった。(兵力だけでも10倍)強い者と同盟する・・・・この選択を
誤ちとは言えまい。とは言え、隣接する曹操は、確かに
”勢い”は有る。それを観て重臣の一人・
王儁おうしゅんは進言した。
曹公は天下の傑物です。必ず覇道を起こし、桓公・文公の功業を継承できる男です。今、殿は何と、近くの者を放置して、遠方の者に味方される。もし突然の危機が有る場合、遙かに砂漠の北からの救援を期待しても、困難ではないでしょうか。」
ーーだが劉表は、従わない。・・・・いずれ曹操は、大袁紹軍との血みどろの消耗戦で疲弊しきり、亡びるであろう・・・・60歳に成る迄のほぼ10年間、彼は此の方針に沿って曹操と対する。特に北方の防禦には重点を置き、勇将・文聘ぶんぺいを配した。又、曹操と戦う張繍ちょうしゅう】・【賈クかく】コンビを支援して、えんを固めさせ、曹操の南下を阻止している。この時は、袁紹との同盟効果が最大限に作用し、「袁紹による許都襲撃の危惧」の報に、慌てて引き返した曹操を追撃して惨敗させた。更に、『夏侯惇』・『李典』の南下に対しては、劉備を使ってしょうで撃退させ2度目にも博望坡はくぼうはで『夏侯惇』・『于禁』の威力偵察軍を撃退させている。こうして国の安全を保ちつつ、劉表はもっぱら内政に力を注ぎ、既述の如き、大隆盛を荊州にもたらすのであった。
劉表は猜疑心が強く、 ”人材を用い得無かった”と言うが・・・・
萠良かいりょう萠越かいえつ兄弟が居るではないか。伊籍いせき向朗こうろう霍峻かくしゅん頼恭らいきょうが居る。武将としても、黄祖こうそ黄忠こうちゅう文聘ぶんぺい李厳りげん呉巨ごきょなどを要所に配している。勇侠の士・孫賓碩そんひんせきを迎えたり、あの奇才・禰衡でいこうも迎え、そして劉備一行を迎え入れている。
ー−
懐は深い・・・・民間の名士・学者を厚遇するに至っては、その数の多さは知れず、荊州学派を育て上げ、その総力叡智を結集させて『後定・五経章句』を編纂完成させていく。その一方で、民の反乱は一度として無い。(長沙で張羨ちょうせんが騒いだ事は有ったが、即刻鎮圧している。)劉表の治世18年間のうち、こうして前半は順風満帆で進んでいった。そして劉表の、その徹底した〔モンロー主義政策〕のお陰で、この人口激減期の戦国乱世の生き地獄の中に、ポッカリと荊州の地にだけは、別天楽土の黄金郷が花開き、栄え続けたのあであった・・・・。


−−だが、西暦
200年(建安五年)・・・・《官渡の戦い》で、袁紹軍がまさかの大敗北★★★★★★★を喫し、劉備が逃げ込んで来た頃から、劉表の周辺は『内』・『外』ともにかまびすしくなってゆく。
内なる問題とは、後継者問題であり、
外なる問題とは、対・曹操戦略の見直し問題である。
・・・・そして、 
更に重大な問題 が、彼を襲う。老齢に伴う、自身の健康不安であった。−−史料には明記されず判然とはしないが・・・・死の直前・数年間は、体力・気力ともに萎え衰え始めている様だ。特に、対外的には最も重大局面を迎えた、最期の1〜2年間は、病床に伏して居た様に想われる。そこ迄で無くとも、66歳と言えば、当時では完全な老人である惜しむらくは、劉表の寿命・・・・と云う処であろうか?−−だが逆に、もし彼が元気で在り続けて居たら、果たして『対・曹操戦』に、どんな態度で臨んでいたか? 忖度そんたくしてみるのも、あながち無意味な作業では無いかも知れ無い・・・・。

さて、その後継者問題である。劉表は、先妻との間に長男の【劉gりゅうきをもうけていた。(その先妻は病死なのか謀殺されたかは判らないが)後妻と成ったのは、将軍・蔡瑁』の実の姉である。当然の事ながら、蔡瑁の方から勧めた政略結婚であろう。劉表にしても、股肱と頼む軍権の統帥者・蔡瑁との関係が深まる、結構な話であった。(蔡瑁の風貌の既述から推して、その姉である蔡夫人も美人であったろう。)
蔡夫人は、次男となる【劉jりゅうそうを産む。195年に生まれている (赴任は190年)から、蔡瑁は、劉表の就任初期段階で、姉を嫁がせていた事になる。『劉g』と『劉j』本人の出来具合は判然としないが、もうお判りの通り、蔡瑁と蔡夫人は、幼い『劉j』を後継にする為に強力に運動する事となる。・・・・だが、劉表は、敢えて後継指名を明確にしない。そうする事によって、蔡瑁らをシビリアン・コントロールした様に想われる。一方、蔡瑁側は
劉表の病状悪化を利用して事を進め、長男・gを「江夏太守」に転出させて、父親・劉表の近くから追い払い、既成事実を演出していく。これには当然、萠兄弟の同意が得られている。
(
後述するが、この時、劉gは【或る人物】と密談して、
                      己の出処進退・態度決定を委ねた、とされる。)
父・劉表の病気が重くなると、劉gは「江夏」から見舞いに帰って来た。だが蔡瑁と張允は、父子が顔を合わせて感情の交流がおこり、劉表の気が変わって、長男・劉gに跡を任せる心算に成るのを恐れた。
将軍(劉表)は、貴方に江夏の鎮撫を御命令なさり、国の東の固めになさったのです。その任務は極めて重大であります。今、軍勢を放り出しておいでになったのですから、きっと御立腹なさるでありましょう。親の機嫌を損い、病気を重くさせるのは、親孝行ではありませぬぞ」 と、言い立て、劉gを戸の外で押し留め、ついに父・劉表と面会させ無かった。劉gは涙ながらに立ち去った・・・・とある。と、云う事は、父親としての劉表は息子の一方だけを偏愛して居たのでは無かったのであろう。

対外問題・・・・即ち、「対・曹操戦略」を巡っても、
家臣団との間に意見の違いが顕在化して来る。萠越・萠良・蔡瑁の「三位一体」の、在郷重臣達は、盛んに”曹操への帰順”をほのめかし始める。【曹・魏】の国力が如何に強大と成ったか、その軍事力と抗する事の危険性を、何とか劉表に認識させようとして来る。だが、劉表には、全くその気配は生じ無い。
ーー畢竟ひっきょう、この両者の意見の相違は・・・・
「君主」と「家臣」の《根本的な立場の違い》から来る、〔より本源的な対立の原形であった。あっさり言ってしまえば・・・・ 
降服した場合に生き残れるかどうか

 己の命が保証され、今の地位・栄華を保てるかどうか
              ・・・・の見通しの違いであろう。
劉表は曹操に対して2度に渡り、正式な使者を送り込み、敵情視察をさせている。1回目は、その使者・『韓崇かんすう』が、3重臣達の意向を代表する親・曹操派的人物である事を承知の上で、赴かせている。案の定、帰還した「韓崇」は曹操を大きく評価して曹操への帰順を勧告する。即座に投獄した。親・曹操派である3重臣への警告である。
2回目の使者・『
劉先りゅうせん』は、敢えて曹操を批判する様な言辞を曹操との面談で交して帰還している。今度は劉表の強い意向をバックアップした、堂々たる使者ぶりであった。其処には、一国一城の主たる劉表の、不屈の気概が窺える。



ーーさて、
劉表が最も非難されるのは・・・・
昨年(
207年)、曹操が〔北伐の大遠征〕に出発した際、劉備の★★★進言を受け入れず、空になった曹操の根拠地を突き、「許都」の『献帝』を奪い、「業卩城」を占拠しなかった点である。
その前の件では、
200年の《官渡決戦》の際、背後から曹操を襲わなかった点である。(こちらは既述した。)
ーーだが、然し・・・・劉表は動かない”のでは無く、
動けなく成っていた・・・・・既に此の時期の劉表は、
死の床に就いて居た可能性が高い。少なくとも・・・・《荊州》を、三国志の注目の的、争奪の地・主戦場にまで仕上げた男ーー
劉表景升余命★★幾許いくばくも無かったのである。そして・・・・
彼は終始一貫して、飽迄〔荊州の牧〕で在り続けたそれ以上でも無く、それ以下でも無かった
人生も終盤、50の坂で与えられた天地(職場)で、己に為し得る”最高の仕事(傑作)
を創り遺して逝こうとしていた”・・・・様に思われて仕方無い。 (これは筆者自身、50の坂を越えてから初めて、痛切に、そう思い至る様に成って来たからである。ましてや、当時の寿命から推して、そうした”つのる思い”は強烈であったろう。)ーー敢えて最大限の表現を用いさせて戴くなら・・・・

《地獄の如き現世の中に、せめて1つだけでも、人々が栄え歓ぶ別天地を築き上げてみせる!!》・・・・そうした(一種、芸術家的・職人気質的) 信念と情熱とを、彼の裡に見い出すのは、余りにもロマンチストに過ぎるであろうか・・・・。
それとも矢張りーー彼・劉表景升は、前時代的な”古き善き忠臣”の最後の1人であった・・・・との観方こそが、最も客観的なものなのであろうか?−−いずれにせよ
完成した作品は、もう自分のものでは無い。”それ”をどう扱いどう評価するのかは、彼の後の者達の仕事なのだ。自分の責務・使命はーー完璧なものを創り上げて、それをそっくり次代に渡す事に在るのだ・・・・。
少なくとも、民衆史』の視点からすれば・・・・これほど偉大な治世者は、亦と無いのである。人が人を殺し合い、生計たつきを失い、飢えと病気に苦しむ時代に在って、戦争も無く、安心して暮らせる、穏やかな心の平安を与えて下さる劉表サマは、生神様いきがみさまの如く有り難い御方で在ったのだ!!
思い至れば・・・・『三国志』中に出て来る批判・評価は、敢えて名も無き庶民の立場側から言わせれば、それらは全て、身勝手な〔圧政者達の論理〕である。民を収奪し、己の栄達のみを願う風潮が、当然の如くに横行する時代状況下に在って唯1人民を守り、学問を愛し続け、その平和を20年近くの長きに渡って維持発展させるのは、大変な偉業である。並大抵な決意では達成できまい。当時も今も「腰抜け」と悪名高い
劉表景升
・・・・三国時代が現出する直前の、”混沌状況期”に於いては、むしろ、最大の偉人・最大の功労者とすら言えよう。


−−それを獣たちが狙っている・・・・それに対して66年間の劉表の寿命は、今まさに尽き涯てんとしていた。

《思い起こせば16年前、50歳であった。私は、漢王朝の臣たる刺史として、此の地を預かった者である。時移ろい、昨今は各自が、あたかも任地を”己の国家★★★☆☆”であるかの如くに振舞って居るが、それこそ根本的な心得違いであるのだ。他人がどう在れこの【劉表景升】だけは、”己の任地☆☆☆★★”をキッチリ治めて見せるのだ!それが、真の忠義・忠節であり、民への責務なのだ!》

・・・・徹底した、この
荊州モンロー主義の思想を抱く男が、もし健康体であったら・・・・果たして彼は、単独で曹操の野望と激突したか?それとも、あっさり官を捨て折れ退いたか?はた又、呉との同盟を結んで対抗しようと試みたか・・・・??

−−それに答えて見せる事なく、彼は間も無く此の世を去る。

己が一代で築き上げて来た、
乱世に咲かせたユートピア〕の行く末も、
己の国にが伏せて居た事も知らずして、


劉表景昇66年の生涯を、閉じんとしていた 【第102節】 龍の棲む淵 (伝説の始まり) →へ