第98節
孤影残照
                                      消えゆく 白色矮星
時代の大局から観れば、この官渡の戦いは結局、河朔の
王者
袁紹が、曹操の覇業を早める人身御供(手助け役)を演ずる事と
成った出来事であったと言えよう。その結果、四世三公を誇って来た

袁氏は、衰退の一途を辿って滅亡の淵へと追いやられ、逆に1地
方のダークホースに過ぎ無かった
曹操に、天下併呑の道を大きく
開かせた
三国志初期の1大ターニングポイント・・・・・・
それが
官渡の大決戦であった。ーー『正史 (陳寿) の筆使いは
誠に簡潔でありながら、一幅の
壮大な叙事詩と成っている。
たいして長くないので、此処に転載し、改めて〔決戦の流れ全体〕を
総覧して措こう。漢文の芳醇な香りを満喫できるであろう・・・・。

(※尚、場面に応じて、原文に”色分け”をして措く。)



                                       


二月。紹遣郭圖・淳于瓊・顔良。 二月。紹(袁紹)、郭図・淳于瓊・
                     顔良を遣わし、東郡太守劉延を                                                     
攻東郡太守劉延於白馬。     白馬に攻めしむ。                                         
紹引兵至黎陽將渡河。         紹、兵を引き黎陽に至り、
                           まさに河を渡らんとす。

  夏。四月。公北救延。  夏、四月。公(曹操)北して延(劉延)を救う。
荀攸説公曰。今兵少不敵。 荀攸、公に説いていわく、
                     「いま兵少なく敵せず。其の勢を

分其勢乃可。公到延津。  分かたばすなわち可なり.。公、延津に到り
若將渡兵向其後者紹必西應之。まさに兵を渡らせ、其の後に
                       向わんとする者の如くせば、

                       紹必ず西して之に応ぜん。
然後輕兵襲白馬             然る後、軽兵もて白馬を襲い、
掩其不備顔良可禽也。 
其の不備をおそわば、顔良、えじきにす可し」と。
公從之。
             公、之に従う

紹聞兵渡。即分兵西應之。 紹、兵の渡るを聞き、ただちに兵を
                        分ちて西せしめ、
之に応ず。
公乃引軍兼行趣白馬。    公乃ち軍を引き兼行し白馬に趣く。
未至十餘里。良大驚來逆戦。未だ至らざること十余里。
                  良(顔良)大いに驚き、来りて逆戦す。
使張遼・關羽前登撃破。    張遼・関羽をして前登し撃破せしむ。
斬良遂解白馬圍。       良(顔良)を斬る、遂に白馬の囲みを解く。
徙其民循河而西。         其の民をうつして河にしたがい西す。
紹於是渡河追公軍至延津南(袁紹)ここに於いて河を渡り、
                  公(曹操)の軍を追うて延津の南に至る。
公勒兵駐營南阪下。      公、兵をろくして南阪の下に駐営し、
使登壘望之。曰。          塁に登りて之を望ましむ。曰く、
可五六百騎。          「五、六百騎ばかり」 と。
有頃復白。            しばらく有りもうす。
騎稍多。歩兵不可勝數。    「騎やや多し。歩兵はげて
                              かぞ不可べからず」 と。

公曰。勿復白。         公 いわく 「復たもうなかれ」 と。
乃令騎解鞍放馬。       すなわち、騎をして鞍を解き、馬を放たしむ。
是時白馬輜重就道。       の時、白馬の輜重、道に就く。
諸將以爲。敵騎多。        諸将おもえらく、敵騎多し、
不如還保營。          かえりて営を保つに不如しかず、と。
荀攸曰。此所以餌敵。      荀攸曰く、「此れ敵をする所以ゆえん
如何去之。            如何いかんぞ之を去らんや」と。
紹騎將文醜與劉備將五六千騎前後至。
         紹の騎将文醜、劉備と五六千騎をひきいて前後に至る。
諸將復白。可上馬。      諸将 復たもうす、「馬に上るし」と
公曰。未也。           公 曰く、「まだし」 と。
有頃騎至稍多。         しばらく有り、騎 至ること やや多し。
或分趣輜重。           或は分れて輜重におもむく。
公曰。可矣。乃皆上馬。  公 曰く 「可矣よし」と。はじめて皆、馬に上る。
時騎不滿六百。         時に、騎六百に満たず。
遂縦兵撃大破之。        ついに兵をはなち撃ち、大いに之を破る。
斬醜。良・醜皆紹名將也。   醜を斬る。良・醜は皆、紹の名将なり。
再戰悉禽。紹軍大震。  再び戦いことごとく禽にす。紹の軍、大いに震う。
公還軍官渡。紹進保陽武。
  公 還りて官渡に軍す。
                   紹 進んで陽武を保つ。

關羽亡歸劉備。         関羽 げて劉備に帰す。

八月。紹連營稍前。
       八月。紹、営を連ねやや前み、
依沙土追爲屯。東西數十里。土追(博浪沙)に依り屯を為す。東西数十里
公亦分營與相當。           公もまた、営を分かち、ともにい当たる。
合戰不利。時公兵不滿萬。  合戦して不利。時に公の兵、万に満たず。
傷者十ニ三。           傷者、十にニ三あり。
紹復進臨官渡起土山地道。  紹 復た進んで官渡に臨み、
                      土山地道を起こす。

公亦於内作之以相應。     公も亦、内に於いて之を作り
                       ってい応ず。

紹射營中矢如雨下。       紹、営中に射、矢、雨の如く下る。
行者皆蒙楯。衆大懼。      行く者、皆、楯をこうむる。衆大いにおそれる。
時公糧少。             時に公の糧少し。
與荀ケ書議欲還許。       荀ケに書を与え、議して
                            許に還らんと欲す。

ケ以爲。              ケ(荀ケ)おもえらく(以ってこたえて曰く)

紹悉衆聚官渡          『紹、衆を悉し官渡に聚め、
欲與公決勝敗。         公と勝敗を決せんと欲す。
公以至弱當至彊。        公、至弱を以って至強に当たる。
若不能制必爲所乘。 し制するあたわずんば必ず乗ずる所とらん。
是天下之大機也。        是れ、天下の大機なり。
且紹布衣之雄耳。        且つ、紹は布衣ふいの雄のみ。
能聚人而不能用。        く人をあつむるも、用いるあたわず。
夫以公之神武明哲而輔 夫れ、公の神武明哲を以ってしてたすくるに
以大順何向而不済。 
  大順を以ってせば、何に向うてか
                              らざらんや』 と。

公從之。              公(曹操)、これに従う。

孫策聞公與紹相持。
      孫策、公の紹と相い持するを聞き、
乃謀襲許。            乃ち許を襲わんと謀る。
未發。爲刺客所殺。       未まだ発せず、刺客の殺す所と為る。
汝南降賊劉辟等叛應紹略許下汝南の降賊・劉辟りゅうへきそむいて
                         紹に応じ、許下を略す。
紹使劉備助辟。         紹、劉備をして辟を助けしむ。
公使曹仁撃破之。備走。    公、曹仁を使わして之を撃破せしむ。
                             備、走る。

遂破辟屯。            遂に辟の屯を破る。

袁紹運穀車數千乘至。     袁紹、穀車・数千乗を運び至る。
公用荀攸計遣徐晃・史渙邀撃大破之。盡焼其車。
         公、荀攸の計を用い、徐晃・史渙を遣わし
           むかえ撃ち、大いに之を破る。ことごとく 其の車を焼く。


公與紹相拒連月。        公、紹と相い拒むこと連月。
雖比戰斬將。           しきりに戦い将を斬るといえども、
然衆少糧盡士卒疲乏。     しかも衆少なく糧尽き、士卒、疲乏す。
公謂運者曰。           公、運ぶ者に謂いて曰く
却十五日爲汝破紹。      のち15日にてなんじの為に紹を破らん。 
不復勞汝矣。           復た汝を労せず」、 と。

冬。十月。紹遣軍運穀。     冬、10月。紹、軍を遣わし穀を運び、
使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之。淳于瓊ら五人をして兵・
                      万余人を将いて之を送り、

宿紹營北四十里。        紹の営の北40里に宿せしむ。
紹謀臣許攸貪財。紹不能足。 紹の謀臣・許攸、財をむさぼる。
                           紹、足らしむるあたわず。
來奔。因説公撃瓊等。   来奔す。因りて公に瓊らを撃たんと説く。
左右疑之。荀攸・賈言羽勸公。 左右これを疑う。
                           荀攸・賈クかく、公に勧む。


公乃留曹洪守。       公、乃ち、曹洪を留め守らしめ、
自將歩騎五千人夜往。   自ら歩騎5千人を将いて、夜、往く。
會明至。            たまたま明けがたに至る。
瓊等望見公兵少出陣門外。瓊ら公の兵少なきを望見し、
                              陣門外に出づ。

公急撃之。瓊退保營。   公、急に之を撃つ。瓊、退き、営を保つ。
遂攻之。紹遣騎救瓊。 遂に之を攻む。紹、騎をして瓊を救わしむ。
左右或言。          左右、或いは言う。
賊騎稍近。請分兵拒之。 「賊騎やや近し。請う、兵を分ちて
                              これを拒がん」 と。

公怒曰。            公、怒りて曰く
賊在背後乃白。       「賊、背後に在らばはじめてもうせ」、と
士卒皆殊死戰。        士卒みな殊死(死を覚悟)して戦う。
大破瓊等皆斬之。      大いに瓊らを破り、皆これを斬る。


紹初聞公之撃瓊謂長子譚曰紹、初め公の瓊を撃つを聞き、
                           長子・譚に謂いて曰く、
就彼攻瓊等吾攻拔其營  「彼の瓊らを攻むるに就きて、吾、
                             其の営を攻抜せば

彼固無所歸矣。        彼、もとより帰する所無し」、と。
乃使張合卩・高覧攻曹洪。乃ち張合卩ちょうごう・高覧をして曹洪を攻めしむ。
合卩等聞瓊破遂來降。   合卩ら瓊の破るを聞き、遂に来降す。

紹衆大潰。        紹の衆、大いについゆ。

紹及譚棄軍走渡河。     紹と譚、軍を棄て走り河を渡り、
追之不及。           之を追うも及ばず。
盡收其輜重・圖書・珍寶虜其衆
          尽く其の輜重・図書・珍宝を収め、其の衆を虜にす。

公収紹書中得許下及軍中人書。 公、紹の書を収め、中に許下
                        及び軍中の人の書を得たり。
皆焚之。            みな之をく。
冀州諸郡多擧城邑降者。 冀州の諸郡・城邑はこぞりてくだる者多し。


初桓帝時有黄星。      初め桓帝の時、黄星あり、
見於楚宋之分。       楚宋そそうの分(分野説)にあらわる。
遼東殷馗。善天文。言。  遼東の殷馗いんき、天文を善くす。言う。
後五十歳當有眞人起於梁・沛閨Bのち五十ねんまさに真人まびとあり、
                          梁・沛の間に起こるべし。
其鋒不可當。         其の鋒、当たるべからず」、と。
至是凡五十年而公破紹天下莫敵矣。
ここに至りて、凡そ五十年にして、公、紹を破り、天下に敵するなし。
二月。紹遣郭圖・淳于瓊・顔良。攻東郡太守劉延於白馬。
紹引兵至黎陽將渡河。夏。四月。公北救延。荀攸説公曰。今兵
少不敵。分其勢乃可。公到延津。若將渡兵向其後者紹必西應之。
然後輕兵襲白馬掩其不備顔良可禽也。公從之。紹聞兵渡。即分
兵西應之。公乃引軍兼行趣白馬。未至十餘里。良大驚來逆戦。
使張遼・關羽前登撃破。斬良遂解白馬圍。徙其民循河而西。
紹於是渡河追公軍至延津南公勒兵駐營南阪下。使登壘望之。
曰。可五六百騎。有頃復白。騎稍多。歩兵不可勝數。公曰。勿
復白。乃令騎解鞍放馬。是時白馬輜重就道。諸將以爲。敵騎多。
不如還保營。荀攸曰。此所以餌敵。紹騎將文醜與劉備將五六千
騎前後至。諸將復白。可上馬。公曰。未也。有頃騎至稍多。或分
趣輜重。公曰。可矣。乃皆上馬。時騎不滿六百。遂縦兵撃大破之。
斬醜。良・醜皆紹名將也。再戰悉禽。紹軍大震。
公還軍官渡。紹進保陽武。關羽亡歸劉備。八月。紹連營稍前。
依沙
土追爲屯。東西數十里。公亦分營與相當。合戰不利。時
公兵不滿萬。傷者十ニ三。紹復進臨官渡起土山地道。公亦於内
作之以相應。紹射營中矢如雨下。行者皆蒙楯。衆大懼。時公糧少。
與荀ケ書議欲還許。ケ以爲。 紹悉衆聚官渡欲與公決勝敗。欲與
公決勝敗。公以至弱當至彊。若不能制必爲所乘。是天下之大機
也。且紹布衣之雄耳。能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔
以大順何向而不済。公從之。
孫策聞公與紹相持。乃謀襲許。未發。爲刺客所殺。汝南降賊劉辟等
叛應紹略許下紹使劉備助辟。公使曹仁撃破之。備走。遂破辟屯。
袁紹運穀車數千乘至。公用荀攸計遣徐晃・史渙邀撃大破之。盡焼
其車。公與紹相拒連月。雖比戰斬將。然衆少糧盡士卒疲乏。公謂
運者曰。却十五日爲汝破紹。不復勞汝矣。冬。十月。紹遣軍運穀。
使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之。宿紹營北四十里。
紹謀臣許攸貪財。紹不能足。來奔。因説公撃瓊等。左右疑之。荀攸・
賈言羽勸公。 公乃留曹洪守。自將歩騎五千人夜往。會明至。瓊等
望見公兵少出陣門外。公急撃之。瓊退保營。遂攻之。紹遣騎救瓊。
左右或言。賊騎稍近。請分兵拒之。公怒曰。賊在背後乃白。士卒皆
殊死戰。大破瓊等皆斬之。紹初聞公之撃瓊謂長子譚曰就彼攻瓊等
吾攻拔其營彼固無所歸矣。乃使張
合卩・高覧攻曹洪。等聞瓊破遂
來降紹衆大潰。紹及譚棄軍走渡河。追之不及。盡收其輜重・圖書・
珍寶虜其衆。公収紹書中得許下及軍中人書。皆焚之。冀州諸郡多
擧城邑降者。初桓帝時有黄星。見於楚宋之分。遼東殷馗。善天文。
言。後五十歳當有眞人起於梁・沛閨B其鋒不可當。
至是凡五十年而公破紹天下莫敵矣。
ーーと、以上が官渡の戦いについての、正史
(魏書・武帝紀)の記述の全てである。真に凛冽たる文章で、呆っ気ない
程である。処で、お気付きの如く、『正史』の中には、〔
霹靂車〕だの、
枚の使用〕だの、来降した〔許攸との曹操の問答〕などの記述は無い。
では筆者は、そうした部分の記述を”創作した”のかと言えば、そんな
事は無く、それらは全て、
裴松之補註として採り上げた、
その他の2、3級史料の中の記述に拠る・・・・・のである。
(即ち、本書・
三国統一志の基本的なシュチュエーションは、
正史』を根と幹とし、そうした補註』を枝葉として構成され
ている・・・それが今更ながらに判然となった次第ではある。とは言え、
補註史料を”史実”と観て戴ければの、オッカナ・ビックリの前提では
あるが。)

          
筆者は、勝者より敗者に、より多くの思いを懐く。一敗地にまみれた時
こそ、その人間の”地”が現われると思う故である。曹操にしろ、誰に
せよ、敗れる事は有る。その時、どう立ち直ろうとするか??本物の
資質・人間力が問われて来る。−−官渡戦敗北・・・その直後、袁紹
本人の人間性は勿論、周囲の人間達との真の関係が、冷厳な事実
となって露わに成ってゆく。それまで隠れて居た諸々の鬼どもが、クッ
キリと見えて来る・・・・。

『袁軍、大敗北ス!!』の報はたちま業卩ぎょう城にも届いた。
その業卩城の地下牢には・・・手枷・足枷・首枷を嵌められた
至宝
閉じ込められて居た。 敗走する兵士達が皆、胸を叩いて泣き、「もし
田豊様が此処に居られたら、こんなザマには成ら無かったろうに!」
と慕われ、尊敬されている名軍師の、無残な姿であった。
その地下牢を訪ねる者が有った。
「田豊殿、我が軍は官渡の戦いで大敗北を喫した模様で御座居ます。
あなた様の言を聴き入れず、こんな酷い処置をした所為だと私は思っ
て居ります。ですからきっと、是からは田豊殿は尊重され、軍師に復帰
して御活躍いただけるものと思って居ります。もう暫らくの辛抱だと思っ
て、御自愛下さりませ

だが、
田豊はニコリともせず、静かに彼に告げて言った。
いや、そうは成るまい。もし戦さに勝った
のであれば儂は生命を全う出来たに違い無いが、今、戦さに負けた
とすれば
・・・・儂はこのまま殺されるであろう。」
「まさか
ーーそんな事は・・・・。」
いや儂には全てが見える。誰が何を告げ、殿がどう為されるかも
分かっている
。」
命からがら黄河を渡った袁紹は、対岸に駆けつけて呉れた次男
袁熙」の出迎えを受け、漸く死地を脱する事が出来たと実感した。
万を超える味方の軍が、威風堂々の陣を張って居たのである。
ホッと安堵した袁紹は、思わず本音を漏らした。

冀州の人々は、我が軍の敗北を知れば、みな儂の事を案じて
呉れるに違い無い
。・・・・ただ田別駕(田豊)だけは、以前に儂を
諌め、一般の者とは違っていた。儂は彼に顔を合わせるのが
恥ずかしい
・・・・。」
この時点では、流石に袁紹も、素直に自分の不明を恥じ、田豊を
見直している。ーーだが、その田豊をそしり、地下牢に送り込んだ
張本人の
逢紀ほうきは、今や己の危機と悟り、帰国するや否や直ち
に袁紹に再び、讒言ざんげん攻勢を掛けた。
「殿、田豊の様子をこの眼で見て参りましたが、奴め、殿が退却
されたと聞くや、 手を打って大笑いし、ソレ見た事かと、自分の
言葉が的中したのを喜んで居りましたぞ

「−−何ィ〜奴め、儂を馬鹿にしているのか!?
「はい、敗戦を憂う処か、ザマを見ろ!と謂う心が
                        明々白々でありました。」
おのれ〜、許せん!付け上がりおって〜。案の定であったか。
殺せ殺してしまえ!!
「−−ハッ。お心の儘に!!」 逢紀は、袁紹の気が変わらない
裡にとばかり、直ちに
田豊を処刑させてしまった・・・・。

袁紹本初は基本的に・・・・己は最も高潔で、人に
優れた存在だとする〔
選良〕意識の強い人物であった。「済まぬ」
とか「申し訳ない」とか、他者に頭を下げる要の無い生育環境に
在り続けて来ていた。 と同時に、常に周囲には、責任の分担を
引き受けて呉れる多くのブレーン達が居た。その結果、袁紹は、
知らず知らずの裡に、己の実力・実体以上の評価を獲得してし
まった。そして、その事は、当の袁紹自身が一番よく解っていた。
そうした、無理に背伸びして、己を大きく見せ掛けようとする人間
が、いざと成った時に先ず起こす反応は・・・・己の非や失敗を認
める事では無く、其れを指摘される事を恐れる”
自己防衛本能
であった。〔選良〕意識が強ければ強い程、その傾向は顕著となり、
理性より感情の方に針が振れ、率直さより屈辱感に捉われる。
大敗北を喫して、本拠地・業卩に戻った袁紹が、先ず一番初めに
やった事は、この《
田豊殺害》であったのだ・・・・! 人々の嘆く
まい事か。
袁氏の没落を暗示する不吉な前兆として、口にこそ出
さぬが、人々の心は暗く重く成っていった・・・・。

この「
田豊」と並び賞された、袁紹陣営のもう1人の名軍師・『沮授
・・・・彼も亦、違った形で生命を断たれたのだった。ーー沮授は、
袁紹が黄河を渡って落ち延びる際、その本営衆・近衛軍から除外
されていた為、生け捕りにされてしまったのである。然し、此の時、
沮授は、己の身の処し方を鮮明にした。
「儂は降参したのでは無いぞ!ただ逃げ遅れて、
                    軍兵に捕えられただけである!」
大声で叫んで投降者では無い旨を宣言して憚らなかったのである。
然し将兵は、そんな彼を事のほか丁重に扱った。曹操から前もって
命令されていたからである。・・・・実は『
曹操沮授は昔なじみ
の間柄であり、曹操は沮授の優秀さを充分識っていたのであった。
だから曹操は、沮授が捕まったと聞くや、彼との対面を楽しみに待
ち受けていた。

おお沮授よ、別々の世界に住み、ついに音信不通と成っていたが
きょう君を捕虜にする事に成ろうとは、思いも寄ら無かったよ
。」
冀州(袁紹)は策を間違って北方に逃走する羽目になりました。私は
智恵も武勇も共に尽きてしまった以上、捕虜にされても当たり前です

「いやいや、そうでは無い。本初(袁紹)が智謀に欠け君の計略を用い
無かった為だ。今、動乱が起こって12年以上にもなるが、国家は未
だ安定していない。願わくば、君と一緒に、それをしたいものだ
。」
叔父も母も弟も、袁氏に生命を託しております。
もし公に特別の思し召しを受けられますならば、一刻も早く、私を死
なせて下され。それが私の幸福と云うもので御座る
。」
ああ矢張、君はそう云う人であったか!私がもっと早く君を味方に
していたら、天下平定は考慮の余地も無い程に簡単だったろうに
!」
そう言うと、曹操は尚も沮授を厚く遇し続けた。・・・・が沮授は飽く迄
も、袁紹の元へ帰ろうとして帰順を拒んだ。 北方へ帰ったとしても、
待っているのは”逆スパイ”呼ばわりされた上での処刑であろう。
それを承知で、沮授は忠節を貫き、わざと下手な脱走をして見せて、
捕えられた・・・・彼は、袁紹に天下取りの道筋を示して来た者として
己の身の処し方を誤る様な人物では無かった。出処進退をキッチリ
と心得た人物であったのだ。−−その心情を察した曹操は、沮授の
望み通りに、彼に死を与えたのであった。

問題は・・・・誰が真の忠臣であるのかを見極められ無かった
袁紹である。だが沮授は、それを含めて全ての責任は自分に
有ると慚愧・達観し、従容として死に赴いたのであった。
それにつけても袁紹は、あたら『田豊』・『沮授』と云う、掛け替えの
無い2大忠臣・2大軍師を、みすみす使いこなせず、惜しんでも惜し
み切れない〔至宝〕を、その些細な感情の下に捨て殺しにしてしまっ
たとは・・・・。

この件について、同時代の孫盛そんせい(魏の安国)と云う人物が、
                             評論を残している。

田豊と沮授の計略を観察すると、張良と陳平と言えども、どうして
是れに勝る事があろうか。だから君主にとっては、才能を見分ける
事が大切であり、臣下にとっては、主君を見定める事が大事なの
である。君主が、忠義で善良な者を任用すれば、覇王の業が盛え
る事となり、 臣下が暗君に仕えれば、転覆滅亡の禍いを招くので
ある。存立と滅亡、栄誉と屈辱は、恒に必ずこれに基ずく。
 田豊は袁紹の敗北を見通し、敗北すれば己は必ず殺されると知
りながら、甘んじて虎の口に入り込む様な危険を冒して忠諫を尽く
した。烈士は主君に対して、自分の生命を省みないものだ。

そしてこの後に、”
当時の主従関係の在り様”を、現代の我々に知
らせて呉れる貴重な一文を残してくれている。

そもそも諸侯の臣たる者は、主君の賢愚に因って
任官したり辞去したりするのは自由と云う建前がある。
・・・・この一文は、非常に重大な史料である。
主従関係は自由なものであり、臣下の方から己の
意志で、自在に主君を選べる
・・・・
それが当時は当り前
であったのだ!!
ちょっと驚く。ビックリだ。我々はむしろ、そうで無い★★★★★主従の方を多く
採り上げて来ているから、何か違和感すら覚える。だが世の中の
一般的風潮は、必ずしもそうでは無く、寧ろ〔フリーな離合集散〕が
当然とされているのであった。−−そう気付いた上で、我等の登場
人物を改めて見直した時、そこに〔契約以上の深い人間的な絆〕が
見えて来るであろう・・・・。
して、田豊は袁紹の純然たる臣下では無いのだ。逝きて将に
汝を去り、彼の楽土に適かんーーとあるが、”乱れた国を去り、
有道の国に仕えるのは許される”と謂う意味である。


翌、201年(建安六年)・・・・西暦では3世紀劈頭へきとうの年である。
官渡の決戦に敗れた袁紹の本拠地・《
》では城邑まちまちの多くが
叛旗を翻した。当然であろう。だが、官渡戦で大敗北を喫したとは
言え、袁紹全軍が崩壊した訳では無かった。
《幽州》には次男の〔袁熙えんき軍〕が、《へい州》にもおいの〔高幹こうかん軍〕が無傷
で残っていた。又、袁紹自身が率いた遠征の敗残軍も、(正史の10
余万全滅説とは異なり) かなりの数は生還したと想われる。

※なお此処で、我々が改めて〔官渡戦の結末〕について、確認して
置くべき点はーー
曹操は〔迎撃戦に勝った〕のであり袁氏の侵攻を
黄河の線で、何とか防いだ★★★★★★過ぎない・・・・と云う一面を忘
れてはならない
事であろう。無論、曹操が守勢から攻勢へと転ずる、
絶対的優位を獲得した
点が、最大の結果ではある。
そして曹操は、この機を逃す筈も無く、引き続き《北》と《東》の袁氏
の版図に向って、各地に攻勢を仕掛けてゆくのであった。ではある
が尚、官渡戦の一敗に因って、袁氏が直ちに完全崩壊した・・・・と
するのは時期早尚であろう。事実、官渡敗北直後の
袁紹は、
未だ復活の望みを抱いて
、精力的に戦後処置に当たった
のである。ーー袁紹は先ず、残存の全軍を集中させ、兎にも角にも
《冀州内》に起こった反抗勢力を3ヶ月以内に、ほぼ完全に鎮定して
見せたのである。この時点では流石に4世3公の《大袁家の威光》
は、未まだ保たれていた、と謂えようか。
 だが勢いに乗る曹操は呵責ない。袁紹が冀州の建て直しに躍起
になっている間にも、黄河南岸の全てを己の版図とすべく、軍事と
誘降の二本立てで、グングンと雪崩れの如くに進んだ。そして遂に
其の鉾先は黄河を越えて、直接、冀州へと迫り始めたのであった。
放っては置けない。根拠地・冀州が危なくなって来たのだ。 そこで
袁紹は、全軍を再編成して業卩城に集結させると、捲土重来・巻き
返しを狙って、再び曹操と対決すべく黄河へ向って南下を開始した。
−−
3月、袁紹軍は倉亭そうていに布陣した。「倉亭」は、あの「白馬」
より更に東北に100キロ下流の北岸に位置する。それだけ曹操の
勢力圏が、黄河下流方面に拡張されていた訳である。
−−
4月、その〔倉亭〕に対して、至る所で渡河を果した曹操側の
諸勢力は、ひとつの大兵力と成るや、3方向から袁紹軍を押し包む
形で総攻撃を仕掛けた。この戦いは、半年前の〔官渡戦〕とは、両
軍の様相は全く逆転していた。兵力は寧ろ曹操側の方が上廻って
いたし、そして何より決定的に異なっていたのは、”時の勢い”と、
両軍将兵の自信・士気の高揚の差=必勝の絶対的確信の差であ
った。・・・・結果、
袁紹軍、最初から押しまくられ、
又しても大敗北を喫した。袁紹は北(業卩城)へ逃げ戻った。
「放って置け。追うには及ばん。もはや奴は2度と出て来れぬわ!」
曹操は十二分にダメージを与えたと観るや追撃はせず拡げた版図
の確定に取り組む方針に専念した。
−−
9月、戦勝の仕置きを終えた曹操は「荀ケ」の待つ許都
に戻った。そして、今や覇者と成った
曹操は、献帝に会っ
て、官渡戦の戦勝報告(上言)を行なった。折りしも此の時の2人の
関係は最悪の状態であった。官渡戦の直前に《
曹操暗殺の密勅
を発し、事が発覚したとして、帝の周辺に居た股肱の者達が、悉く
処刑されたばかりであった。・・・・下座で上言する曹操と、玉座で
これを聴く献帝の心理のわだかまりには、一体どんな思いが有ったかを
想起しながら、その言辞を観てみよう。

大将軍・業卩侯の袁紹は、先に冀州の牧・韓馥と共に、元・大司
馬の劉虞を
(新しい皇帝に)擁立せんとし、金璽を彫り、元任の長畢瑜
を劉虞の元に派遣し、天命の定めを説き聴かせました。又、袁紹は
わたくしに書簡を寄こして、
『甄城に首都を置くべきである。擁立する方
が居られるのだから』
と申しました。そして勝手に金銀の印を鋳造し、
孝廉・計吏は全て袁紹の元に出頭いたしました。従弟の済陰太守・
袁叙は、袁紹に書簡を送って申しました。

『今、四海の内は崩壊し、天の意志は実に我が袁家の上に向けら
れており、神の示すしるしも現われていますが、南兄(袁術)の臣下が、
彼を天子の位にお就かせしようと致しました時、南兄のいった言葉
では、年齢に従えば北兄(袁紹)が上であるし、官位に従えば北兄が
重いとのことです。そこで天子の印璽を送る心算でおりましたが、
たまたま曹操に道を断ち切られました。』 と。

袁紹の一族は累代、国の重恩を受けて居りますのに、凶逆無道
ぶりは此処まで来ておりました。そこで兵馬を指揮して官渡で合戦
を行ない、聖朝の御威光のお陰をもちまして、袁紹の大将・淳于瓊
ら8人の首を斬る事が出来、その結果、
徹底的に撃ち破り、袁紹は
子の袁譚と身ひとつで逃れ去りました。およそ斬った首は7万余級、
輜重・財物は巨額にのぼります。

表面上は飽くまで漢朝廷の守護者として、何の抑揚もつけずに、
ただ淡々と事務口調で報告する曹操・・・・その最後の 『徹底的に
撃ち破り』の部分を聴いた時、献帝の顔は、思わず蒼ざめたに違い
無い。クーデターの『徹底的』処刑の影がオーバーラップした筈である。
益々強大化してゆく
曹操孟徳、それに反比例して弱体の一途
を辿る漢王朝の権威・・・・献帝劉協はこのまま諦めて、
二度と自らの意志を現わそうとはしなく成るのだろうか・・・・
!?


                      



この後、袁紹は一切、大軍を動かす事は無くなった。
官渡・倉亭」の両大戦に破れた事実は、袁紹の体内から全て
の楽観的希望を奪い去っていった・・・・ポキリと挫折の音がした。
暫らくは虚勢を張った日々が続いたが、その精神的ダメージは、
肉体を正直に蝕んでいった。眼から生気が薄れ、時々ボンヤリ
と 気持が虚ろになる。気持が肉体を病ませていく。 そして遂に
病いを発するや・・・・袁紹はそれを望んだかの如くに、
翌年(202年)5月ーー後継者を指名する事もなく、憂悶の
裡に吐血して世を去っていった・・・・・。

歴史は敗者には冷酷である。
正史』 は、其の最期を、わずかにこう記すのみである。
冀州ノ城邑ノ多クガ叛旗ヲ翻シタ。袁紹ハ其レ等ヲ撃破シテ
 再ビ平定シタ。戦イニ敗レテ後発病シ、建安七年
(202年)
 憂悶ノ裡ニ死ンダ。


四世三公の大名門であった
袁紹本初の享年は、
ついに不明のままである
・・・・・。
   

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