【第97節】
サイレント・アーミィ
10月も終わろうとしていた。官渡での睨み合いは、はや半年以上を経過している。曹操側の兵糧は底をつきかけていた
然し、許攸の情報を得た後も、見た目には、これと言った変化も無く、袁・曹両軍は、相変わらずの膠着状態を続けていた。だが実は・・・・ここ幾日もの間、夜中になると、官渡城の南門が僅かに開かれ、小さな部隊が五月雨の様にチョロッ、チョロッと東へ向って移動を繰り返し続けていたのである。そんな小部隊が目指す地点は、官渡城の遙か東、袁紹側からはブラインドに成っている、こんもりとした河岸砂丘の裏側であった。うまい事に森陰も有る。其処を覗いてみると・・・・居るは居るは何時の間に集結したのか、およそ5千もの将兵が、物音ひとつ立てず、ひそと、謂集して居るではないか・・・!!
そして某日夜半、ついに曹操は、乾坤一擲、その秘密基地から大奇襲作戦に出撃したのであった。目指すは、官渡城の北東60キロ、敵の大食糧備蓄基地烏巣である。人は是れを『烏巣の戦い』と呼ぶ。ーー曹操軍5千は、影の如く音も無い、
サイレント・アーミーと化した。馬の口を縛り、蹄(ひづめ)にも厚手の布を重ね巻いた。(この時代には未だ”蹄鉄”は発明されておらず、皮袋かワラジ状の物を履かせていた。) 兵のしわぶき一つ聞こえ無い。粛々とした月影と成って進む。それも其の筈、何と兵士の全員が、口に
〔枚(ばい)〕と呼ばれる木の棒を噛んでいたのだ。いかにも曹操らしい徹底した消音(サイレント)措置である!その兵達は、夫れ夫れ手に薪を持っている。やがては其れが焼き討ち用の火種と成るであろう。 『何が有っても堂々と胸を張り、平然として居れ!』、
そして、『もし途中で敵兵に誰何(すいか)されても、返答は将校に任せて素知らぬ振りを押し通せ』と云うのが、兵士達に与えられた指令であった。行程の半分である30キロ迄は、森の中の間道を選んだ甲斐あって、何事も無く過ぎようとしていた。
「よし、”枚”は捨てよ。馬の口輪と蹄の音消しも解いてやれ。全て普段通りの軍装に戻るのじゃ!」
それまで〔影の軍隊〕だった曹操の5千は、この中間点で隠密行動をかなぐり捨てた。威風堂々、正規軍として、その正体を現わしたのだ。但その代わりに、全軍が臆面も無く『袁』の旗幟を<昂然と押し立てている。そんな中夏侯惇だけは馬に乗らず兵卒の列に紛れ込んでいた。彼の”独眼流”は、敵味方の双方に余りにも知れ渡っていたからであった。ーーと、突然、5千人の脚が止まった。ヒヤリとする一瞬が来たのだ。部隊の中程に在る曹操が見遣ると・・・・部隊の先頭で、敵の哨戒兵が、軍務に忠実に質問をしていた。だが最初から、咎め立てする風も無い。余りに堂々としている5千もの大部隊の威容に気圧され、端から却って恐縮し、慇懃・低姿勢であった。そして何より、『袁』と染め抜かれた軍旗が物を言っている。 「どちらへ行かれますか?」
「曹操めが後軍を荒らす事を懸念された袁公が、烏巣の防備を増強するため遣わされた軍である!」
「ハ、御苦労様であります!」 「ウム、曹操の奴め等がウロつくとの報も有る。心して見張って居れ!」 誰かが気合を入れた様である。 「ハハッ!」
「おお、それからな、我等は此処へ来る迄に、何度もこの様に足止めされ、一々立ち止まされる為に、貴重な時間を浪費させられ往生しておる。そこでだ。その方、ひとっ走りして、此処ら辺に居る物見兵達に、我々の事を告げておけ!お前の働きで我が軍が順調に進めたなら袁公に報告してやる。名を告げて直ぐ行け!」
「ハハッ、有り難き倖せ!」
「ウン、お前の様な軍務に熱心な者が居る限り、曹操めも、此処にはやって来れまい。」
部隊前方の、そんな遣り取りを見て居た曹操は、プッと吹き出しそうになるのを堪えながら、思わず左右に、こう漏らした。
「ムフフ、連中も、なかなかの役者じゃのう〜。」
その後、幾隊かの物見兵の姿を見かけたが、誰も咎めようとはしなくなった。先程の真面目人間が、早速にも周辺に援軍の通過を触れ廻った為であろう。
−−そして遂に、「シ卞水」=(支流の一本)を越えた。烏巣まであと20キロ弱である。と云う事は・・・此処からは、もっともっと哨戒線が幾重にも厳重に配置されいるのは自明の事である。
「松明に火を着けよ!」 影の軍隊は一転して、全軍アカアカと松明に火を灯し、本街道を堂々と行軍し始めた。「枚」も捨てさせ馬の口縄も外し、全く通常の姿に戻ったのである。こんな大軍が真夜中に、明りも灯さず忍び足で進めば、確実に怪しまれる。
味方であれば、そんな事はしない。やがて予想通り、行く先々に柵門が現われては、篝火(かがりび)の中に敵の歩哨線が浮かび上がって来た。「後軍増援の為の部隊であ〜る!先を急ぐ故、罷り通〜る!」 居丈高に馬上から鬼将軍に怒鳴られて、守兵達は慌てて柵門を開ける。「御苦労!我等が通過の後は、しっかり門を閉じ、以後は何ぴとたりとも通すでないぞ!」 余りにも整然と堂々たる行軍姿に、寝ていた兵まで飛び起きて来て直立不動に見送っている。「・・・フフ、皆、よくやるわい・・・」 緊迫する集団の中程で、曹操だけは頼もし気に諸将の横顔を見廻した。こうして、二重三重の哨戒線も、見事に欺き通し、奇襲部隊は尚も進む。
行く手に最後の支流である濮水が見えて来た。此処から烏巣迄は、残すところ数キロである。 曹操は東の空を仰ぎ見た。未だ、朝の気配すら無い。全て順調だ。
「よし、松明を消せ!馬の口を縛り直せ!」 此処まで来ればもう
”枚”など噛ませる必要も無い。兵士の隅々まで緊迫感が漲っている。 「歩調を落として、歩みながら休ませよ。烏巣に着いたらそのまま攻撃に移るぞ!」多少疲れていても兵の勢いを重要視する曹操であった。ーーそして曹操軍は又再び、《影の軍隊》 に変身を果した。
烏巣は、本格的砦の〔内陣〕と、主に米倉庫だけの〔外陣〕とに、二重の濠で囲まれている砦であった。その砦全体の周囲は城壁ではなく、”アラモ砦”の様に丸太を塀の如く打ち込んだ、柵状の防壁で構築されていた。−−その烏巣の屯営内は、昨夜の酒盛り(打ち合わせ)が効いて、今もグッスリと深い眠りに落ちている。無論、酒盛り(打ち合わせ)の話題は、敵の攻撃が有る事を前提にしたものであった。・・・・とは言え、今日・明日の事としてでは無かった。又、彼等、守将たちの根本認識には、たとえ奇襲攻撃が有ったとしても、其れは先日の 〔故市襲撃〕 の如く、精々500〜
600の騎兵による輜重部隊の搬入途中を襲う、単発・当て逃げ攻撃を想定するものであった。 「ウーン・・・・ムムムム・・・・。」
烏巣守備軍の司令官・淳于瓊が、満ち足りた眠りの中で寝返りを打った。外は未だ、真っ暗な時間帯であった。大酒をくらった訳では無いが、冷え込みも厳しくなって来ている時節柄、多少は呑み過ぎたかも知れない。だが、そのお陰で皆、気持よい眠りの中に居た。夫れ夫れの営舎に戻った、督将の「目圭元進」、騎督の「韓呂子」・「呂威王黄」・「趙叡」等も同様であった。
「将軍、大変で御座居ます!!お起き下さい!」
「・・・・ン?−−ん??何事ぞ!?」
「敵襲であります!敵部隊が屯営に火を放っております!!」「・・・ム。して、既に外陣が破られたのか?」
流石に淳于瓊は袁紹が選んだだけある豪胆な部将であった。慌てない。12年前、霊帝は新進気鋭の当代1流の若手を集めて西園の八校尉を置いた。曹操、袁紹らと肩を並べて、この淳于瓊も選ばれている。落ち着いて軍装を身に着ける。
「いえ、未だ破られておりません。」
「では、燃えているのは、外陣の倉庫だけだな?」
暗い幕舎の中からでも、表の火焔の明るさが透けて映っている。
「だと思いますが、然とは判りませぬ。取り合えず、御注進に駆けつけました!」
「よし、あとは儂自身の眼で確かめる。ついて参れ!」
外に出た途端、辺りは昼かと見紛うばかりの明るさであった。火の海と化した”外陣”の炎が、”内陣”迄を赤々と照らし出しているのだった。穀物の焼け焦げる臭いと煙とが内陣の屯営内にも既に充満していた。柵の外から、無数の火矢が射込まれている。寝惚け眼の守備兵達が、その火矢を揉み消そうと右往左往しては、大混乱状態であった。
「まずいな。火矢が届かぬ距離まで敵を押し戻そう。”外陣”へ撃って出るぞ!慌てず、兵を整えよ。」 「ハハッ、承知!」淳于瓊はテキパキと指示を出すと、高楼に登り、敵軍の様子を観察した。
《−−これは・・・!》予想外の大部隊だと観た。《どうする!?》
淳于瓊は自問自答した。未だ燃えずに残っている、内陣の厖大な糧秣への態度を決め兼ねたのだ。《守るか?捨てて敵兵だけに逆襲するか?》守るとすれば、火矢を消し、延焼を防ぐ為に、兵を残さねばならない。《矢張り兵糧を全て失う訳にはいかぬな》その判断の中には、純粋に戦術・戦略面からの決定とは別に、彼の司令官としての〔面子〕が、微妙に作用していた。淳于瓊の心の何処かに「兵糧を全て失った部将」と云う汚名が、一瞬だけ横切ったのである。《数刻、持ち堪えれば、おっつけ救援の軍が来よう。》 これだけの火の手が上がっているのだから、官渡に居る本軍も異変に気付かぬ筈は有るまい・・・・追い込まれた時にこそ、その人物の真価が問われるのだが、淳于瓊の場合は、希望的観測の方に其の心情が傾いてしまった。
「よし、半分は消火部隊に残し、後の半分で撃って出る。数刻もちこたえれば、官渡から来た援軍とで、敵を挟み撃ちに出来る。
ゆくぞ!」 「オウ〜!!」
曹操は烏巣に着いた時、ニンマリするより、呆れ返った。
《・・・・なんじゃ、これは?》丸で、夜襲して下さいと言わんばかりの烏巣の姿であった。兵力の大部分が、柵門の外にゲル(テント)を張って、野営して居たのであった。無防備状態、丸裸同然の姿であった。砦内に入りたくても1万人が眠るスペースは、無かったのである。烏巣は元々、食糧備蓄基地として築かれた砦であったから、その敷地は「内陣」・「外陣」ともに、殆んどが倉庫群で占められている。きん=(口の中に禾の字)と呼ばれるサイロ型の円筒状の高床式倉庫で、びっしりと埋め尽くされていた。輜重用の牛の大群も囲われている。何しろ10万人の胃袋を3ヶ月は満たそうとする厖大な穀物を、全て此処に集積して在るのだから、途轍もない数の「きん」が密集林立している。きんの大きさは直径3メートル、高さは5メートル、容量は3500斛(石)が貯蔵できる。10余万の軍隊の1ヶ月分なら70基、3ヶ月なら200基以上が必要になる計算だ。円形に建てた木の柱の周囲を、板や莚・土で塗り固めてあるが、一旦火が着けば、手の施し様が無い位、よく燃える。砦の至る所に、発火点が無数に転がって居るのと同じ事であった。然も、兵糧を積んだ荷車が、至る所に無造作に放置された儘であった。・・・つまり、食糧基地は根本的に、敵が〔略奪を目的〕にしない限り、《火攻め》を防ぐ事は不可能なのである。蓋し、最大の防禦は、攻撃途上の阻止線で押し留める事であった。懐に入られたらほぼお手上げ状態なのである。ーー畢竟、曹操が影の軍隊に成り済まし、哨戒線を次々と突破し終えた其の時を以って、この【烏巣の戦い】の帰趨は、事実上定まった・・・・と言ってもよかろう。
”影の軍隊”が音も無く、ゲルに忍び寄った。と同時に身の軽い兵達が、夜陰に紛れて柵を乗り越え、営門兵の背後に忍び降りる・・・・そして次の瞬間、叫び声も上げさせぬ間に、ゲルで寝ていた敵兵3千と歩哨・営門兵などの命が、暗闇の中で鏖殺されていた。”外陣”の各門が、内側から開かれる。 転瞬、ドッと興る閧の声と共に曹操の奇襲軍は、東西南北各門から一斉に
”外陣”へ雪崩れ込んでいった。兵達は手に手に火の着いた薪を持ち『きん』に放火しまくった。一基が燃え上がれば、後はもう次から次へと延焼していく。外陣にも宿営して居た兵達はびっくりして跳び出して来るが、とても組織的抵抗にはならない。あちこちで斬られ、突き殺されていく。淳于瓊が目を醒ましたのは、そんな時であった。外陣の倉庫群は全て燃え上がり、野営していた兵力は皆殺しとなり、外陣に居る兵達も次々に斬り殺され、内陣(本丸)へ向かって、火矢が盛んに射込まれ始めていたのであった。”内陣”の倉庫群が燃え出したら、砦の兵力はあぶり出された格好となって大パニックを起こし、とても統率など出来無くなる。そこで淳于瓊は目圭元進、韓呂子、呂威王黄、趙叡に各門からの一斉出撃を命じると自らも正門を開き、火の海の外陣へ撃って出た。
然し既に此の時、曹操は之を予期して門の両側で手薬煉しいて待機して居たのであった。淳于瓊が撃って出た途端に、彼等を待ち受けていた曹操軍が、逆に一斉にこの獲物に襲い掛かった。押しまくられ斬り立てられた砦の兵達は忽ち散を乱して「内陣」に逃げ込む。それを追って曹操軍が、ついに内陣へまで雪崩れ込んでいった。ーー火が放たれる。牛が逃げ惑う。烏巣の砦全体が炎に包まれ、大混乱に陥っていく・・・・。
官渡で対峙していた袁紹本軍10万が、異変に気付いた。夜明けの時刻より前に、東の空が不気味な赤さで染め上がっているのが望見できたのだ。
「や、あれは烏巣の方角ぞ!基地が襲われたか!?」
この突然勃発した重大な危機に、総帥の袁紹は、眠気の残る頭脳で考えた。
「この烏巣奇襲には、必ず曹操本人が行って居る筈だ。あいつはそう云う奴だ・・・・と言う事は、官渡城はガラ空き同然か?よし、奴が一か八かの勝負に出て来たなら、こちらも総攻撃で官渡城を潰してやる。曹操めの帰る塒(ねぐら)を無くして、奴の息の根を止めてやるわい・・・・!」
「それが宜しゅう御座居ましょう。この際、官渡城を落とし一挙に
”許都”へ攻め込み、献帝を奪いましょう!」
今や参謀長と成っている郭図が、これに賛同した。
「よし、張合卩、高覧!お前達に官渡城総攻撃の先鋒を命ずる。3万の兵で襲い掛かれ!儂も直ぐ、その後から5万の兵で乗り込むぞ!」 すると其の命令に対して当の張合卩が強く反対した。
「あいや殿、お待ち下され。もし烏巣の食糧を全て失う事となれば我等は忽ち進退に窮する事となり、自滅致します。淳于瓊らが敗れれば、殿の事業はそれで終わりですぞ!どうか我等を直ちに、烏巣救援に向わせて下され!それが先決で御座居ます!」
憤然、郭図が猛反対する。
「張合卩将軍の計略は誤っておる。敵の本陣を攻撃する方がマシであります。情勢から言って、官渡城攻撃を知れば、曹操は必ず引き返して来ます。そこを叩けば一石二鳥。これぞ、救援しなくても、事態を自然に解決する遣り方と謂うものです!」
高覧が亦、それに反対する。
「官渡周辺の曹操陣営は堅固ですぞ!其れを攻撃しても陥せないに違いありませぬ。もし淳于瓊らが捕えられでもすれば、我々は全て捕虜となりましょう。」
左右から言われて袁紹は確信が持て無くなった。
郭図は〔官渡城への総攻撃〕を、張合卩と高覧は〔烏巣救援〕を主張して譲らない。こんな時、今迄なら軍師の【田豊】と【沮授】が居て、全員を納得させる方針をズバリと示して呉れて来た。だがその「田豊」は業卩城の地下牢に繋がれ、引退させられた「沮授」はもう、この軍議の席に呼ばれる事は無かった・・・・。
「・・・ム、よし分かった。烏巣には直ちに1万の軽装騎兵を送ろうだが、儂は何うあっても、官渡城を陥としたい。そこで全局の様子を観る為に、本軍主力は此処に待機させ、張合卩・高覧は夫れ夫れ5千の兵を率いて、官渡を攻撃せよ!」
双方の言い分を採り入れたのはいいが、最も肝腎な、総帥としての意志が曖昧である。そして是れが、袁紹と云う人物の実態であった。鷹揚で大人風には映るが、常に確心が無い。結局、何とも宙ぶらりんな対応策しか出て来無かった・・・・張合卩と高覧は納得しかねた顔付だったが主君の厳命である。直ちに5千ずつの兵を率いて、官渡城攻撃に向った。−−だが官渡城の前面に展開して居た曹洪は、『荀攸』や『賈言羽』の指示を受けて、予じめ陣形を整えこれを迎え撃った。必の定、張合卩・高覧の合わせて1万の袁紹軍は、忽ち撃退される浮き目に遭った。(※これを観ても、官渡城周辺の曹操側兵力が少なくとも1万以上、恐らく3〜4万は居たであろう事が推量される) 敗れて本軍に退き上げて来た張合卩に対して、郭図は己の作戦失敗の責任を、張合卩に転嫁、讒言した。
「殿、張合卩らは初めから不満タラタラで、勝つ心算は無かったのです!寧ろ当て付けの為にワザと敗れたに違いありませんぞ!」
張合卩と高覧は、その雰囲気を察し、自分達の身の危険を感じた。袁紹は曹操と違って、これまでの人生で敗戦・敗北の体験が全く無い。カッと来て、何をするか判らない・・・・実際はどうあれ、部下がそう思ってしまう様な事(田豊沮授への処置などなど)を、次々にやって来たツケが、こんな大切な局面で廻った来たのである・・・・。
一方、【烏巣】では・・・・・内陣(本丸に当たる敷地)に押し戻された淳于瓊らが、必死の反撃に出ていた。
「頑張れ!この火を見て、既に官渡からの騎馬部隊がこちらに向っていよう。あと少し凌ぎ切れば、敵を挟み撃ちに出来る。何としても踏ん張るんだ!」
既に倉庫には殆んど火が廻り、消火作業は放棄せざるを得無い状況に成っている。だから却って、戦闘のみに専念し得た。
「曹操さま〜!敵の増援軍が背後に迫っているとの報告であります。兵を割いて後方の守りに当たらせますか?」
奇襲軍5千が一番恐れていた事態が起ころうとしていた。だが、曹操は答える。「構うな、そんなモンは放って置け!先ず、眼の前の敵を殲滅してしまうのだ!」 袁紹とはエライ違いである。腹が据わって、迷わない。
「ホレ、もたもたして居たら挟み撃ちに成るぞ!死にたく無かったら余計な事を考えずに、とっとと片づけてしまえ」
「承知!!」
この緊急警報に因って、曹操軍の攻撃は一段と苛烈となり、ついに副将の目圭元進、騎督の韓呂子、趙叡、呂威王黄の首が挙げられ、主将である淳于瓊も捕えられ・・・・・
烏巣軍は・・・・全滅した。敵の増援軍が到着する、ほんの少し前の、際どい決着であった。
−−捕虜千余名は全員が鼻を削ぎ落とされた。牛や馬は唇や舌を切り取った。 (人間の舌を切ったとされるのは誤伝。ま、大勢に影響は無い)
だが鼻を削がれても尚、淳于瓊は死ななかった。無残な顔で引き据えられた淳于瓊に、曹操が尋ねる。この2人、若き日には共に〔西園の八校尉〕として、将来を嘱望された間柄でもあった。
「何故、此ノ様ナ結果ニ成ッタト思ウカ?」
無残に敗れた【淳于瓊】であったが、彼は決して己を
卑下する様な部将では無かった。又、責任を他人に擦り付ける様な人物でも無った。眼の前に”裏切り者”の【許攸】が居るにも拘らず、罵声を浴びせるでもない。
「勝敗ハ当然”天”ニ在ル。何ヲ今更、尋ネル必要ガ有ロウカ!」
曹操は一瞬、彼を欲しいと思った。ーーだが、隣りに居た許攸がそんな曹操にささやいた。
「今、彼ヲ許シテモ、明朝、鏡ヲ見レバ、ソレコソ絶対ニ、我々ニ対スル怨ミヲ忘レハ シマセンゾ。」
これには曹操も、二の句は継げ無かった。 「・・・・斬リ捨テヨ!」
折りしも、袁紹の増援軍が到着した。それに対し曹操軍の将兵は鼻を削ぎ落とされた首や、焼け爛れた頭蓋、牛馬の長い舌などを槍や刀の先に突き刺して、高々と翳して見せた。
「お前達も、こう成りたいかあ〜!!」
【許】の大音声だいおんじょうが、明けかけた早朝の大気を劈つんざいて敵兵の心胆を縮み上がらせた。其れを見せつけられた袁軍の兵卒達は度肝を抜かれて震え上がった。百戦錬磨の曹操軍に比べ、袁紹軍の兵卒は、こんな凄惨な戦いの経験に乏しかった。一言でいえば、《弱兵》であった。だから、羅刹の如き形相の曹操軍がワッと攻め掛かるや一斉に戦闘を放棄して、一目散に逃亡し始めた。
「我等はこのまま北上し、業卩城を陥と〜す!」曹操は平然と全軍に”嘘”をついた。何処かに必ず居る筈の、敵の間諜にニセの情報を掴ませる為であった。更に、こちら側からも多数の間諜を放ち、曹操が袁軍の本拠地・業卩城を襲うかの如き〔ニセ情報〕を、盛んに発信した。そして、それに真実味を加える為、実際にも北へ向って全軍を進めたのである。ーーだがその実・・・・曹操軍は数里も進まぬうちにクルリと反転、西に向って、官渡に居続ける敵本軍の背後に、その退路を絶つべく廻り込んでいった・・・・。
その時刻ーー官渡の袁紹陣営には、大きな衝撃が走っていた。
「御注〜進〜ん!烏、烏巣の砦が潰滅!淳于瓊将軍ら全て討ち死に!我が軍の糧秣も全て、全て焼き払われましたア〜!!」
「−−なんだと!?」
「更に、救援部隊も返り討ちに遭い、敗走いたしました。」
「−−!!!」
「・・・・し、して、その後の曹操の動きは!?」
「業卩城を襲うべく北上中との情報が、次々に届いております。」
「そは、まことか!?」
「ーー・・・・。」
「ーー・・・・。」
「−−どうするのじゃ?開戦以来、我が方には、良い事は1つも無いではないか・・・・。」
「そうですな。全てに敗れておる。一体この10ヶ月間、我々は何をしたと言うのだ!?」
帷幕いばくの其処此処そこここで、ヒソヒソ話しが交される。
「−−嗚呼ああ、こんな時に田豊殿が居て下さったらなあ!」
「そうじゃのう〜、田豊殿は牢獄だし、沮授殿は蟄居ちっきょさせられてしまった・・・・。」
陰鬱に暗く沈んだ袁紹陣内に、更に追い打ちを掛ける如き、重大事態が発生した。
最前線に陣取って居た張合卩ちょうごうと高覧こうらんとが曹操側に寝返ったのである!
この両将は攻撃用の櫓を焼き払うと、兵を率いたまま、敵将・『曹洪』の下へ投降していった。初め曹洪は、2人の投降を信じようとせず、拒絶した。特に【張合卩】は袁紹軍の中でも出色の勇将とされていた。《ーーそんな人物が、本当に寝返るものか・・・・?》
曹操軍で言えば、「張遼クラス」の星将が2人も寝返った事態に相当する。考えられない事である。
《敵の謀略に違いない!》と、先ず、疑って構えるのが守将としては当然の態度である・・・・だが此の時、軍師の【荀攸】が言った。
「張合卩は自分の計略が採用され無かったのに腹を立てて、やって来たのです。即ち彼は袁紹に愛想をつかして見限ったのです。今の場合は疑う必要は有りませんな。」
−−この後、張合卩を迎えた曹操は大喜びした。
「昔、伍子胥ごししょは、暗愚な主君を早く自覚しなかった為、主君の命めいで自殺させられた。君が愚かな主君に見切りをつけてやって来て呉れたのは、微子びしが殷いんを去り、韓信かんしんが漢に帰服した様な痛快事じゃな!」
やがて【張合卩】は、偏将軍・都亭侯に取り立てられ、魏の
”五星将”の1人となる・・・・。
「信じられぬ・・・・」暫し茫然と腰を落とす袁紹であった。
「・・・・ここは一旦退き上げて、出直そう・・・・。」
流石に袁紹も、事態の深刻さに重い腰を浮かそうとした。
「大丈夫で御座居ます!」
声を励まして叫んだのは、『郭図』であった。
「我が軍は未だ10万の大兵力を有して居るのです。ガタガタ慌てず、ゆったりと業へ戻る事が出来まする。」
郭図はなお、”敗戦”とは受け取って居無い。−−然し、現実は
「烏巣」の全食糧を焼き捨てられ、ピカイチの勇将・張合卩には
見限られ、その上、退路まで断たれようとする惨憺たる事実・・・・最早これは糊塗しようも無い。
「ウグググ・・・・!」歯ぎしりし、握った拳を戦慄わななかせても、もう何うにもならない。この頃には、袁軍の全将兵が状況を知って怯え切り浮き足立っていた。互いに、裏切るのではないかと、疑心暗鬼が横行し始めてさえいる。ーー君主としての統帥が崩壊する前に撤退するしかない。・・・・だが、意気消沈して退却行動に出ようとした矢先、曹操は其れを許さなかった。ニセ袁軍として陣内に紛れ込んで来ていた奇襲部隊が仮面をかなぐり捨て、突如、味方に襲い掛かったのである。
「うわ〜、寝返りだア〜!」
「裏切りだぞ〜!」
この攪乱作戦によって、袁紹10万は、組織だった”軍”としての行動を、完全に奪い去られ・・・・崩壊した・・・・大パニックに陥って無闇に逃げ惑う袁紹軍に対し、官渡から出撃して来た曹洪軍が更に襲い掛かり、全線に渡って収拾不能な大恐慌となった。
「急げ〜!曹軍に先を越されたら、河水(黄河)を渡れなく成るぞ〜〜!!」
ここに至って、『業卩城攻撃のニセ情報』が効いて来た。袁紹軍は戦闘をおっぽり出して、我先にと北へ奔る。一刻も早く黄河に辿り着こうと、大潰走し始めたのであるもう、こうなると、兵が何万・何十万居ようとも、”軍”とは言え無かった・・・・一旦崩壊した大軍ほど惨めなものは無い。全く収拾が着かなくなる。夫れ夫れが只、己の命だけを全うしようとして逃げ惑う。他人様など身分に関係なくニの次だ。下手をすれば、主君と雖ども無視され兼ねぬそんな大パニックに成る前に、先ず、袁紹自身が逃げ始めた。
将兵を全て残し、僅かな近衛兵に守らせての”脱出行”となった。
・・・・・そこには大柄な袁紹の、しかし小さな背中が在った。その背中に、曹操の声が響いた。
ココニ花嫁サライノ犯人ガ居ルゾ〜〜・・・
かくて、官渡に攻め寄せた、あの大袁紹軍は、散々に追い立てられ、斬りまくられ、終ついには黄河南岸の縁へりに追い籠められてしまった。 そして何と、10万あった総兵力のうち、7万とも8万とも謂われる驚愕すべき死者を出して潰滅していく・・・・・のである。多くの兵が溺死したとされる。四世三公の大名門、袁一族の総帥『袁紹本初』は、僅か800の将兵と共に、命からがら黄河を北へ逃げ渡る羽目となったのである。
(※実際には、かなりの兵力が無事に黄河を渡って帰還した筈である。でなければ、以後の袁紹の素早い立ち直りにも説明がつかない。)
こうして、世に名高い【官渡の戦い】は、
世の大方の予想を覆して、
〔曹操軍の完全大勝利〕の裡に、幕を閉じたのであった・・・・・。
この戦いには、大きな教訓が幾つも含まれていよう。又『曹操』と『袁紹』と云う2人の人間の、全人的対比が際立って面白い。そして更に2人と関わる人間達の、人としての生き様・思考、理想と現実のギャップなど、味わうべき事も多い。後世に在る我々は、是れを以って”他山の石”と為すことが出来るであろうか・・・・・。
ーーいずれにせよ、この一大決戦の勝者は、これから始まる【三国志】の〔主役の権利〕を獲得し、
敗者は歴史の舞台から消え去ってゆく運命にあったその瞬間まで天下最強と自他共に認めていた
河朔かさくの覇者・『袁紹本初』はーーその巨大な役割を終え最期の時を迎えた”白色矮星わいせい”と化し
て、英雄淘汰の暗闇の中に消滅してゆく・・・・・。
【第98節】 孤影残照 (破れし者・勝てし者)→へ