【第96節】
※クリプト=(極秘情報より厳戒の)最高機密
10月
・・・・ついに、曹操の元に官渡決戦の戦局を大逆転する〔キイ・パーソン〕が現われる。宿敵、袁紹側の現役参謀・【許攸】であった。この【許攸子遠】と云う人物、現代の価値規範ではナマなかには説明し切れない”ブッ飛んだ”一面を持つ。現代なら、さしずめ〔二重人格〕の烙印を捺され兼ねまい。
『許攸ハ貪欲デ、身持ガ治マラナイ』・・・・・「荀ケ」評
『許子遠ハ貪欲淫蕩、性格・行動ノ不純ナ人物』・袁術評
その一方で、荀ケを「王佐の才の持主!」と見抜き、未出世の曹操を、唯一人「天下を安んじる者!」と理解した「何禺頁伯求」は、『許子遠ハ不純ナ人物トハ言エ、危難ニ立チ向ッテ行キ泥ヲ被ル事ヲ嫌ワヌ。危難ヲ救済スル人物トシテハ一番デアル』・・・・と、評価している。
【許攸】は若い時、宮廷にはびこる宦官勢力を一掃すべく、クーデタアを画策(一説には、霊帝もろともの暗殺を計画)した経歴を持つ者である。そもそも士大夫(名士の前進)評価の価値基準はーー漢朝に対する忠節度・忠誠心が最優先であった。故に、日常生活が悪どい守銭奴・拝金主義者であろうとも、朝廷に対する節義さえ堅固なら、一級の人物として評価され得た・・・・と謂う事であろう。
「士大夫」だ、「名士」だとカッコよく自称しても、所詮、彼等も己の繁栄を追求する生身の人間に外ならないのである。そう云う意味では、【許攸】は実に素直で、己の欲望を覆そうともしない純粋さが有った??ーーこれ等の毀誉褒貶をひっくるめて言えば・・・・『時代の転換期が産んだ鬼っ子』とでも位置づけるべき人物か?
皮肉にも此の3人(袁紹・曹操・許攸)は、若く未だ駆け出しの頃、互いに親しく共に学び遊んだ仲間であった。と云うのも、3人ともが既述した〔奔走の友〕の会のメンバーであった故である。以来『許攸』は、兄貴分の【袁紹】とつるんで行動を共にして来ていた。袁紹が董卓に捨てゼリフを浴びせて「洛陽宮から脱出した時」も一緒。その後、袁紹が「旗挙げした時」も一緒であった。爾来、今日まで袁紹のブレーン(参謀)として重きを成し、厚遇も受けて来ていたのである。・・・・・だが、許攸と云う男には、重大な欠陥が在った。しかも当人は、それを欠陥だとは思って居無いと云う、甚だ厄介な体質のものであった。とにかくケタ外れに、金銭に貪欲でガメツイのである。その上、常に、己への待遇が不充分だと嘯く心根の持ち主であった。だから事々に、君主・袁紹との特別な関係(奔走の友)をひけらかし、周囲に対しても鼻持ちならぬ態度で公然と悪どい蓄財を行なっていた。現代で言うなら、地位利用職権乱用による「斡旋利得罪」・「背任横領罪」・「収賄罪」に当たりそうな事を、一族挙げて平然と行なっている。(無論、時代状況や社会の倫理観が、現代とは全く異なるから、彼一人だけが非難されるべきものでは無いが、それにしても物事には「限度・ホド」 と謂うものが有ろう。)こうした行為の根底には、《今、袁紹が此の地位に在るのも、全て俺様の御陰なんだから、これ位はやって当然じゃ!誰からも、文句を言われる筋合は無い!》と云う不遜な買い被りがあった・・・だが、余りの猛烈さに、大人風を装う袁紹も、流石に最近は彼の存在が鼻につき、すっかり煙たがって居た。だから先日、〔許都襲撃・献帝奪取の案〕を建策して来た際、ついに腹に据え兼ねていた袁紹は、群臣の面前で許攸を罵倒したのである。
・・・・これで先ず、特異体質の許攸は、甚く己のプライドを傷付けられた。そこへ追い打ちを掛ける様な事態が発生
した。彼の一族の者が不法蓄財の廉で、厳格で知られる
烈臣・【審配】の手によって検挙投獄されたのである。その妻子もろとも同罪とする峻烈な措置であった。(前々から野放しにされて来ていたのに、此処へ来て急に検挙されるとは、裏に重臣間の権力闘争が存在していた事を髣髴とさせる。)
これに対し許攸は、当然の事として袁紹に無罪放免を要求した。だが袁紹は、それをニベも無く撥ねつけた。2度までもプライドを傷付けられた許攸は、すっかり腹を立てると同時に、袁紹の下に居る事のメリットに限界を感じ取った。そしてアレコレ考えた末に達した結論は・・・・袁紹を見限り、《曹操側に奔る!!》であった。(この事からしても、曹操の実力・兵力が可也大きかったであろう事の傍証と言えよう。)
曹操ハ許攸ガ来降シテ来タト聞クヤ、跣デ飛ビ出シ、手ヲ叩イテ大笑シナガラ出迎エタ。実にタイミングがよい。良過ぎる程にジャストタイミングである。無論、許攸は其の機を測っていた・・・・とされる。ーーだが反面、冷静に大局を観ればもし此の時、許攸が『烏巣情報』を齎さなかったとしたら、一体、曹操にはどんな手立てが有ったと言うのか?然も許攸が激怒して寝返ったとされる直接的な理由は、事もあろうに彼自身の所為では無く、親類縁者の民事事件(犯罪)とされる。
大体、この戦局重大な真っ最中に、袁紹や審配が、そんな瑣末な民間の事件に首を突っ込むであろうか?戦後にゆっくり処理すれば済む些事である。−−それを理由に許攸が寝返りの決心をした、とするには不自然さが付き纏う。決戦直前の此の時に限って、それ迄ズ〜っと黙認されていた民事事件を暴き立てる・・・・
曹操にしてみれば、余りにも幸運過ぎる〔敵失〕ではないか!?それこそ降って湧いた様な〔僥倖〕に有り付いた事になる。第一、袁紹とて、今そんな事をしたら寝返られるかも位は判断できた筈だ。曹操も、そんな偶然を期待しては居無かった。
筆者は、此処にも曹操の《能動性》を感得する。つまり、謀略=事前の内応が約束されていた・・・・と観たい。許攸の体質・貪欲さを一番よく観察して居たのは幼馴染の曹操ではなかったか。『3ツ児の魂百迄も』・『雀100まで踊り忘れず』である。であればーー座して自滅を待つ様な曹操ではない。「奔走の友」の微妙な関係(袁紹・許攸・曹操)を最大限に活かす時であった・・・・で、なければ、官渡決戦の帰趨は、余りにも偶然な僥倖のみに負んぶされ過ぎては居無いだろうか??・・・・と云う事は、曹操は”ダメ元”で、許攸にも誘降=(寝返り)の密書を送り付けていた
・・・・と云う事である。蓋し、両軍ともに、【謀略戦】も亦、実戦以上に激しかった訳である。ーーいぜれにせよ・・・やって来た相手は現役バリバリの、【敵の高級参謀】である。
「おお、子遠よ。君が来て呉れたからには
我が事は成功したのも同然じゃ!」
許攸には〈裏切った〉と云う感覚は無い・・・実は此の2人、〔奔走の友〕の会以前からの”幼なじみ”で、かつては互いを幼名で呼び合った仲でもあったのだ。だから、《帰って来てやった》位の気持が有る。事実、袁紹陣営においては、しばしば曹操とは戦うべきでは無い!との発言も為していた。だが流石に許攸は、”幼なじみ”と云う抽象的なツテを頼んで、手ぶらでやって来た訳では無かった。それ処か、自分を最大限に高く売り込む為に、
《最重要機密事項》を携えて来ていたのである。そして、その《超機密情報》は、今、このタイミングでこそ、最大の価値を発揮するものであった。その為にこそ許攸は投降していった・・
とも考えられる。いずれにせよ許攸は其の情報の値段を吊り上げて、己を高く売り込む為の問答を、それとなく曹操に仕掛けた。
「今、袁氏の軍は勢いが盛んだが、君はどう対処する心算で居るんだい?(これと言った妙案も無いだろう)そもそも君の所には、どれ程の糧食が有るのかね?(相当追い込まれているのはお見通しだぜ)」
許攸は平気でタメグチ(仲間内言葉)をきいた。
「未だ1年間は支えられるナ。」
曹操の方も、別に気にする風も見せずに答える。
「おいおい、そんな事は無いだろうに。もう一度、正確に言い直してみて欲しいなア。」
「ウ〜ン、ま、半年は支えられるってトコかな?」
この段階では、曹操も流石に、相手を丸ごと信用はして居無い。
「ハハ、そりゃ無いぜ。君は、袁氏を撃ち破る気は無いとでも言うのかい?俺と君の間で、どうしてそんな見え透いたウソをつくんかナア〜〜?」
ここで変にヘソを曲げられても叶わない。曹操も遂にシャッポを脱ぐ事にした。
「ハハハ、今のはジョーク、軽い冗談だよ。・・・・実の処は、1ヶ月分程しか無い。としたら、どうしたらいいと思う?お前の事だ。何か好い土産話しを持って来て呉れているんだろう?」
「そうそう、幼馴染の旧友同士、お互い隠し事は無しで行こうや。
・・・・と、ここ迄は友人としての会話と云う事で・・・・今迄の非礼をお詫び申し上げまする。ーーさて、」
と、許攸は居ずまいを正すや、臣下の礼をとり、言葉使いもガラリと変えた。
「殿は単独の軍で対峙して居られ、外部からの救援は無い上に、糧食は既に尽きています。正に危急の時であります」
曹操は頷くしか無かった。許攸は充分に間を取ると・・・いよいよ本題を提示して見せる。
「私だけしか知らない、袁紹軍の機密が、此処に御座居ます。」 と、己の胸を指して言う。
「今、袁氏の輜重は1万余台あります。それが何処に在るか・・・」
「示して呉れると言うのか!?」
「いかにも。」 それが本当ならドエライ情報である!!
「その兵糧の備蓄基地は2ヶ所あります。その1つは故市先日、殿は其れを奇襲させました故、先刻御存知の筈。然し、是れは、飽くまでも、補助的基地に過ぎませぬ。唯一最大のものは・・・・」
思わず曹操も、咽をゴクンと鳴らした。
「最大のものは・・・・
【烏巣】に置かれております!!」
「−−・・・・!!」
シークレット(極秘情報)を超えた、
クリプト(最高機密)である!!
咄嗟に、曹操の頭の中には〔烏巣〕の景色がパッと浮かんだ。と同時に、其処へ至る、幾筋もの間道も閃く。
ここが曹操の凄い処である。何年にも渡って戦場の隅々まで事前に、入念な実地踏査を繰り返して来ていたのである。
「しかも駐屯する淳于瓊は驕り高ぶり、兵卒はだらけきっており、厳重な防備もして居りません。ですから今軽鋭の兵によって之を襲撃し、不意を突いて到り、その貯蔵を焼き払えば、3日を過ぎずに、袁氏はおのずから敗れましょうぞ!」
曹操の喜ぶまい事か!この《烏巣》と云う地名を聴いた瞬間から、曹操のメインコンピューターはフル稼働に入った・・・ついに敵の急所・弱点が発覚したのだ!!
許攸が曹操に奔る直前、袁紹は【淳于瓊】ら 5名の将に
1万余の軍兵を統率させ、輸送車群を迎えに北へ(烏巣)へ赴かせていた。この折、『沮授』が最後の進言をしている。
「淳于瓊将軍とは別に、蒋奇将軍を派遣し
別働隊として外側を守らせ、曹操の略奪を断つべきであります。」
「なあに将軍5人も居るんだぞ。本来ならば淳于瓊1人で充分じゃわい。故市の時は油断して居たからじゃ。おお、そうじゃ。お前には今から希望通りヒマを与えて仕わす。只今からは、精々のんびりと、此処で我が勝利を見物して居れ。」 「−−・・・・。」
これが、若い時から、覇業の道筋を示し続けて来て
呉れた大恩人に対する、袁紹本初の処置(仕打)であった。袁紹としては・・・「俺はもう、他人から一々指図を受けねばならぬ様な、青二才では無いのだ!何時まで俺をガキ扱いする心算なのだ!いい加減にしろっ!!」・・・・と謂う、自立宣言の意味合もを含めていたのであろう。なお沮授の、この進言をみても、曹操軍の兵力が1万以下だった事は有り得無いが・・・・とにかく実際、淳于瓊らは40里(16キロ)北東の《烏巣》に至り、其処に宿営してそのまま警護軍と成って居たのである。
さて、【敵の最高機密】を手に入れた曹操は、許攸からの情報を幕僚達に示し、意見を求めた。すると、立つ者立つ者、次々に不信を表明した。〔逆スパイ〕・〔おびき出しの謀略〕かも知れぬと疑った。皆からそう言われると、流石に曹操も自信がグラつき、少し不安になる。有り得ない事では無いからであった。だがそんな帷幕の大勢の中、軍師の【荀攸】と、先日来降したばかりの体験者?【賈言羽】(=かく)の2人だけは、揃って〔烏巣襲撃〕を、強く支持した。
−−右か?左か?・・・・運命の分かれ目、
決断の仕どころであった。
後世の我々は、切羽詰まっての”賭け”と観るか?それとも冷静沈着な”ロジック”と観るか?はた又、その両方であったと観るか?いずれにせよ、曹操はスパッと決断したのである。
《ーー俺は動く!!》 ・・・・と。
※後年、呉国の「胡綜」は其の回想録の中で、此の場面を、次の様に書き記している。
『かつて許攸は、袁紹の元を去って曹操に身を寄せ、しっかりした見通しのもとに建策を行いましたが、直ぐさま其の意見が採用された結果、袁紹の軍を破り、曹操の為に天下経営の事業の基礎を固める事が出来たので御座居ます。もし曹氏が許子遠を信用せず、疑惑を懐いて彼の策を採用する決心が着きませんでしたならば、現在、天下は袁氏のものであったので御座居ます。』
そして此処からが、曹操の本領発揮、軍人としての才略がキラめく場面と成る・・・・敵の莫大な食糧は、曹操軍にとって、涎が出る程に魅惑的な獲物であった。もう直き、こちらの兵糧は底を着く。だから、その備蓄基地を襲い、奪う!・・・・《食え無くなったら、軍は崩壊する!》思わず舌舐めずりしたくなる様な話しであった。が曹操はこの「兵糧を奪う!」と云う、甘い誘惑に負け無かった。
《惜しまず、全て焼き捨てる!!》
《奪うのでは無く、焼き尽くすのだ!!》ーーこの1点にだけ、絞り込んだ。そして、これが曹操の鋭さ、炯眼なのであった。惜しいとか、勿体無い、などとは考えない。作戦目標は飽く迄シンプルに限る。と言うより、熟考してみれば、他に選択の余地などは無かったのである。もし奪うとなれば、様々な難問が発生して来てしまう・・・・先ず、奇襲の際は最も有効とされる「火攻め」を封じられる事となり、1万以上の淳于瓊の軍と、まともに渡り合わねばならなくなる。となると、ほぼ全軍を率いていかねば勝利は見込めない。その結果、官渡城はガラ空き同然になってしまう・・・又もし、『烏巣』の敵を全滅できたとしてさえ、大量の輜重を抱えての帰り道は、敵の追撃を呼び逆に包囲殲滅される危険性が高い。土台奪って持ち帰る事は、不可能なのだ。ではいっそ思い切って、官渡城を捨て、烏巣に拠る策はどうか?囲碁で言う処の「振り替わり」を試みたらどう成るか・・・・・・アレコレ検討した結果、「烏巣」は城砦ではなく、単なる無防備な倉庫群に過ぎ無いらしい。城壁と云うより、厚い土塀で囲んだ、柵付きの砦らしい。とても立て籠もって10万近い大軍を防ぎきれるモノでは無かろう結局は、兵糧に火を掛けて逃げ出す羽目になるが、この場合、帰りたくても官渡城は既に敵の手に渡っている。その先に待ち受けているのは《野垂れ死に》である・・・・こう考えて来れば、結論は矢張り、
《焼き討ち・奇襲攻撃》しか無いのであった。
これが成功すれば、袁紹は戦線を維持できず、退却を余儀なくされる事だけは確実だ。食い物の無い軍は戦えない。大パニックと成るであろう。そして其処に必ずや、勝機が生まれるに違い無い戦局がゴチャゴチャと成り、何が何だか判らない程に錯綜したら、しめたものである。そうなれば、後はもう曹操の独壇場である。臨機応変、縦横無尽の軍略を発揮できる・・・・袁紹の慌てふためく間抜け顔が眼に浮かぶ。
《そう言えば、あ奴のビックリ顔は、若い頃からだったな》
曹操はふと、20数年も昔の袁紹の姿を想い出していた。
《ボンボンだったから、からかい甲斐が有ったもんだ。》・・・・未だ2人ともが若く、屯ろっては放蕩の日々を過ごしていた頃ーー
(曹瞞伝によれば)
曹操が他人様の結婚式にもぐり込んで、花嫁をかっさらって来ると云う悪戯をした。当然、両家の人々が血相変えて追い掛けて来る。「逃げろ〜!」と、悪たれ連中は駆け出す。その追いかけっこが面白いのだ。処が、まさか曹操がそこ迄やるとは想って居無かった兄貴分の袁紹は、泡を喰らって逃げる途中、窪みに嵌って腰を抜かしてしまった。「お〜い、手を貸せ。此処から引き上げて呉れ〜!」だが巨大漢の袁紹は重過ぎて、仲間の力では引き上げられない。する裡に、追っ手がどんどん近づいて来る。その時、脇でニタニタして居た張本人の曹操が、大声で追っ手に向って叫んだ。
「お〜い、此処に嫁さらいの犯人が隠れて居るぞ〜う!」 「ーーへっ・・・・??」
眼を点にした袁紹は、次の瞬間、ピューーッと、遙か彼方を駆けていた・・・・。
《ーー袁紹よ、あの時のビックリ顔と同じになるか??》
〔烏巣を奇襲して、敵の全食糧を焼き尽くす!
その混乱に乗じて、敵本軍を撃破する!〕
『作戦目標』が決まれば、次は奇襲部隊の兵力と人選である。
※『正史』には・・・・
「曹操ハ、自ラガ5千ノ歩・騎兵ヲ率イテ、奇襲ヲ敢行スル事トシタ」・・・・と、ある。だがここにも、陳寿先生の記述の無理が現われている。実際に、この数字の通りであったなら、官渡城の守兵はたったの"2千弱"になってしまう。袁紹軍10余万のうち、烏巣の淳于瓊に1万、救援部隊として1〜2万を派遣しても、官渡城を包囲する本軍主力は8万である。その悉くを、残りの2千が殲滅してしまう・・・・・事になる。官渡に残った曹操兵は、城を撃って出て一人当たり40人の敵を殺さねばならない。然も味方は一兵たりとも死んではならない計算になるーー絶対に有り得無い!やはり曹操軍の総兵力は最低でも5万は下るまい。そして尚かつ重大な事は・・・・官渡城の東〜東北方面にかけては、少なくとも此の時期、【曹操軍の支配・維持地域は相当な広範囲で確保されていた】・・・・と、想わざるを得無い。−−何故なら(実戦の結果から判る事であるが)、歩・騎5千もの部隊が、敵の監視網や斥候に全く見つからずに、敵が包囲している密集地域を、「東へ何キロも移動」して居なければ、その結末・戦果には至らないからである。(後に詳述)
さて奇襲の具体的な「作戦要項」だが・・・・・奇襲部隊は5千(実際はもっと多い筈)としておこう。将と虎豹騎(親衛騎兵)以外は、全て歩兵である。騎兵は足は速いが、とにかく目立つ。その上、人間だけなら、夜陰に乗じて進む事も容易だ。それに目標地点までは50〜60キロに過ぎない。・・・・と謂う事で、部隊編成は歩兵中心でいいだろう。一方、「官渡城の守り」には万一を考えて、血族である【曹洪】を残していく。『荀攸』・『賈言羽』ら軍師・参謀たちも奇襲部隊には不要ゆえ、城に留まり才智を振るう。
詰り・・・奇襲軍の才略は、全て曹操が自分で、臨機応変に振るう事とし、主だった部将は全て連れていく。
『夏侯惇』・ 『張遼』 ・ 『徐晃』・ 『許ネ者』・
『曹仁』 ・ 『于禁』・・・・ そして『許攸』を。
次は、最大の課題である、〔いかに〕〔どうやって〕奇襲を成功させるかの、「隠密行動作戦」の中身である。途中で見つかったら、万事休す。奇襲作戦そのものが瓦解・失敗する。万が一にも発見されたら、奇襲部隊と城兵との両方ともが潰滅の危機に曝される。失敗、即ち、発見される事は絶対に許されないのだ。
【烏巣】まで直線で60キロ。大きく迂回したり、ジグザグ行軍すれば、行程は100キロ以上と成る。然も、敵陣内を進まねばならない。 姿を隠せる森陰も有るが、この季節、その半ばは落葉していた。袁紹側も、烏巣に近づく程、見張りや歩哨・斥候兵をビッシリ配置して居るであろう。−−見つからない方が不思議だ・・・・いや必ず発見されると覚悟しておいた方がよいだろう・・・・であれば、と、曹操は考えた。−−そして・・・・この官渡戦中〔最大の奇策〕を着想する。まさに此の曹操の、アッと驚くアイデアこそが官渡大決戦の勝利を決めたと言ってよい
ーーその機略とは・・・・・
【敵に成りすます】!!と謂う、
トンデモナイ方法であった。
5千人もの大部隊が、そっくり袁紹軍に化けて、堂々と敵中を行軍していってしまおうと謂うのであった!!少人数なら却って怪しまれる。いっそ5千人の大部隊丸ごとなら、《まさか!?》と思うであろう。人間の”常識”と云う盲点を突き、その心理のヒダを見透かした、まさに神業的発想である。−−となれば仕上げは奇襲部隊の〔変装・偽装〕である。・・・・と言っても、将兵個々人の武器防具などの軍装は、特にいじる必要は無かった。この時代、軍装に己(味方)の軍に独特なマーク・ロゴを入れる事は、未だ無かった。敵と味方とを識別する目印は、軍旗と幟だけである。個々人を示す”旗指物”の類は、特に装着して居無かったのだ。即ち、中世に於ける「武士・騎士」の様な《恩賞制度》は未だ存在せず、当時の軍人・武人の社会的地位は、個人としては最下層と位置づけられているに過ぎ無かったのである。だから個々人の働きは大して評価されず、”部隊単位”の評価が中心であった。(故に後、呉の呂蒙=あの悪ガキは、己の部隊を目立たせる為に、私的に前借してまで”赤揃え・赤備え”の部隊を創設した事が、正史に特記されている。)詰り、各種の軍旗だけを「袁紹軍」に”すり替える”だけで良かったのである。これだけなら、そう準備に手間ひまは懸からない。とは謂え、この偽装工作は、飽くまで、見つかった時の為の『最後の保険』とした出来る限り、発見されぬ事が重要である。そこで行軍は闇夜におこない、夜の明けぬ裡に目的地・〔烏巣〕に着く・・・事を念頭に置いた。奇襲効果が最大に挙がるのは未明である。敵が眠りこけ、緊張が一番ゆるんで居る時間帯に当たる晩秋だから、日没から日の出までの時間は長くなっていた。暗闇と呼べる時間帯は、10時間ほど有る。歩兵の行軍速度は、普通なら時速4キロだが、今回は足手まといの輜重を伴わないから、時速は6〜7キロも可能だ。強行軍すれば、60キロを走破して、夜明け前にギリギリ到着し得る。然し、これでは、肝腎な戦闘時に疲労困憊状態と成ってしまう。又、途中に全く時間的ゆとりが無く、一寸した事故が発生しただけでも、未明の到着は不可能となる。曹操が描く、理想的な〔烏巣奇襲作戦〕は・・・・・・
兵達が体力的にゆとり有る状態で、夜明け前には確実に烏巣に着いている であり、正史の記述では、ほぼ此の理想通りに事は運んでいるーーとすれば、行軍距離60キロであればー→距離÷時間=絶対無理な絵空事・・・・と成る。
・・・・つまり、夜行軍の距離は、実際では、もっと短くてよかったのである。と云う事は→→奇襲部隊のスタート地点は、官渡城では無く、もっとズット東北寄りの前進基地からであった事になる。
矢張り、曹操側の支配地域は、かなり東北方面にまで確保されていた証左となる。とても総兵力1万弱では、出来る芸当では無い。曹操軍も相当な大兵力であったと
観る説の、有力な状況証拠であろう・・・・。
「あと15日で、お前達の為に、袁紹を撃ち破り、これ以上お前達に、苦労は掛けさせぬぞ!」
疲労困憊しつつも、健気に軍務に励む兵士達(輜重隊委員)を見て、思わず曹操はこう漏らしたーーと、『正史』には記述がある。正史は、曹操の人間味を示すと同時に、曹操の予言能力をも、それとなく伏線に敷いて置くのである。
−−あと15日・・・・・
※処で、注目の【許攸】であるがーー幼馴染・旧友を鼻にかけ、後年(不詳年)、誅殺される事になる。
『許攸は自己の勲功を恃んで、時に太祖(曹操)と戯れ合う事があり、同席して居ても何時も折目を正そうとせず、太祖の幼時の字を呼んで、「阿瞞(原本は畏れ多いので”某甲”と記してある)貴方は私を手に入れなければ、冀州(袁紹の本領地)を獲得できなかったのですぞ」 と、言う程だった。太祖は笑って、「お前の言葉は正しい」と言っていたが、然し心中では彼を嫌悪した。 その後、随行して業卩城の東門を通った時、振り返って側に居る者に向って「この男は儂を手に入れなかったら、此の門を出入り出来無かっただろう」 と言った。この事を言上する者が居り、ついに逮捕された。』
『太祖は嫌悪の情が強い性格で、我慢できない相手が居た。魯国の孔融、南陽の許攸・婁圭はみな、昔の関係を恃んで、不遜な態度をとった事から処刑された。』・・・・のである。
それにしても曹操と云う男は凄い。敵の最高機密(クリプト)を得た事は強運だったとしても、そのツキを瞬く間に、己の力で現実化してしまう。その間髪置かぬ、情報処理能力と大胆な行動力!!凡人であれば、折角のクリプトを即座に活用できたであろうか?
其処に、曹操の〔神武〕が有った!!
運命の”其の時”まで・・・・
ーーあと15日・・・・・
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