第95節
スーパーウェポン登場
                                  

りんの戦法ーー兵法家・墨子ぼくしの言う、攻城戦における常套手段の1つである。・・・・ついに【官渡城】を包囲した袁紹は不用意に力攻めする愚を避け、先ずは常識通り、手順を踏んだ〔正攻法〕に取り掛かった。軍事総督でもある勇将審配の進言を採用したのである。 敵城の前面に土の丘を築き、その上に櫓を組んで弓矢を射掛けるのが宜しゅう御座ろう弓矢攻撃に拠る空中戦の勧めであった。 「ーーウム、それが正道じゃな。」
袁紹本初】は、常識の人である。 蓋し、ここで謂う”常識”又は
”定石”とは・・・・過去のあらゆるデータを分析し尽くした結果に基ずく、最良最善の手立てを意味する。10倍の兵力を有する場合この”常識”は恐ろしく手ごわい!この建策を採用した袁紹は先ず・・・・官渡城のグルリにその城壁に面した、
幾十もの人工の丘(小山)を造らせたその丘の高さは、城壁の高さにほぼ等しく、頂上を平らにして”台地”を持たせた。
この砂丘の場所は、かつて若き張良(前漢太祖・劉邦の宰相)が、秦の始皇帝の暗殺を狙って鉄槌を投げさせた、かの有名な博浪沙ばくろうさの地でもある。
次には其の山々の台地上に、巨大なを組ませた。 これが完成すると今度は、城内を隅々まで見下ろすには十二分の高さの、】=石弓用の高楼が丸で林の如くに官渡城を覆い尽くした。
詰り官渡城を、上からグルリと丸見えの俯瞰状態に置いた上で、上空から狙い定めた強弩の雨を射ち降ろすと謂う戦法であった。放物線を描いて射ち上げるのでは無く、頭の上から鋭角的に”
射込む”のである!これは城内の将兵にとっては、極めて恐しい事態と成る。城壁を越えて何となく飛んで来る”流れ矢”では無い。貫通力数倍の直撃弾を喰らう様なものである。当れば即死する然も漫然と飛来するのでは無く、四方八方から狙撃されるのである・・・・!!
ちなみに、この時代の弓には2種類あった。手で引く〔弓〕と機械仕掛けの=ボーガンである。だが実際の戦場で弓隊として使われるのは、後者の《弩》が常識であった。 は、つるを引き絞った状態のまま、鉤牙こうがと呼ばれる爪(フック)にロックして置き、望山ぼうざんと言う照準器で狙いを定め懸刀けんとうと呼ばれる引き金を(指で)チョイと引くだけでよい。この機械仕掛けの”ミソ”は、ぎゅうと呼ばれる調整弁である。(下図参照) 弩の発射装置 だから物陰に身を潜めた低い姿勢でも射る事が可能であり、狭隘な地形での奇襲(待ち伏せ)攻撃には最も有効とされた。無論、今回の様なケースでも、力を貯えて置けるので腕が疲れず、その上、固定できるから〔狙撃〕にも最適であった。但し、矢の方は
木臂もくひ云う銃身の溝にポンと置く(乗せる)だけだった為、上下運動の激しい「騎馬」には用えず(矢が溝から落ちてしまう)、騎射の場合は普通の《弓》が用いられた。
尚、弦の張りの強さを表わす指数は、『こく』と云う単位で示され、1石は約30s重であった。セッティングを手だけでする場合の(軽)弩は3石=90sだが、足を引っ掛けながら全身でセッティングする(強)弩は6石=180s重もの強さがあった。この当時の軍隊では、
6石=(180s重)の《強弩》が標準装備されていた。
ーーさて肝腎な
有効射程距離であるが・・・・
日本の弓(和弓)の場合は約50〜60メートル(大的おおまと)、
アーチェリー競技会では約90メートルとされる。それに対して【弩】の場合は「3石弩」が170メートル、標準装備されていた
「6石弩」は実に
280メートルであった。この強度を産む秘密は、(漢代までは)上記の「鉤牙=弦を懸ける爪」・「懸刀=引き金」「牛=前2者を調整する弁」の3パーツが直接本体に取り付けられていたのを、青銅製のボックス(銅郭)の中にワンセットにして組み込んだ為、高い強度に耐えられる構造へと進化した事に因る。又、命中精度の方は、射手(一般兵士)の腕前いかんに懸かって来る割合が高いが、おおむ命中率50%と謂うのが一応の目安であった様だ。何故なら漢の王朝では毎年の秋に秋射しゅうしゃと称する技能テストが実施され、兵士は12本中6本クリアーすれば合格。それ以上は1本毎に15日間の休暇が増やされた。反対に、6本以下なら罰が与えられた・・・と云う事から推測される数字である。無論、狙う敵との距離が近ければ近い程、この命中精度はグンと高まる。今回のケースでは、恐らく有効射程の半分(140メートル)程度の所に居る敵を狙えばよい事に成るのだから、外れ=無駄矢は殆んど無いであろう。
尚、
(部分の)長さは130cm。竹や木をニカワ★★★で動物の角や筋と張り合わせた複合製で、黒漆を塗った分厚い物であった。矢を置く、発射装置の部分(木臂もくひ)55cmで、その先端の孔に弓をガッチリ固定させていた。指の滑り止め・肩に当たる部分の丸み・支える左手部分の膨らみ具合など、使い勝手の良い物であった。
弩の構造図
又、射込まれる
だが・・・・強弩が発明された最初の頃(新石器時代)・・・・やじり(矢の切っ先)が、石を尖らせた物であった事から「石弓」とも言われる。そもそも《矢》は基本的には”消耗品”である故、なるべく高価な材料は使いたく無い。と謂って、貫通力が劣るでは話しに成らない。そこで普通は、本体には竹や木を用い、肝腎な鏃(切っ先を硬い物にした。最高級なら「鉄」を用いたい処だが、鉄にせよ青銅にせよ、当時はいずれも稀少金属(レアメタルであったから、古代以来の「石」を、そのまま使用する事もあった。だがまあ、『大国である袁紹軍』の事ではあるから、鏃は「青銅」であったと想われる。(無論、鉄矢も存在した。)
尚、当時標準装備されていた此の《強弩》に弱点が有るとすればそれは
セッティングに要する時間が長い事であろうか。有効射程280メートルとして、次の装填で、足を掛けて弦を張り直し・矢を置き・照準を合わせる・・・・・このタイムロスの間に、騎馬隊が突っ込んで来たとすれば丁度2の矢を放つか放たない瞬間に重なってしまう。 この関係は、恰も日本の戦国時代に於ける火縄銃VS騎馬軍》とのタイム関係に酷似している。どちらも騎馬に対しては、一発撃ったら後方へ退がる・・・・と謂うのが一般的戦法であった。然し、11世紀の宋の時代(信長の500年前)になると、この弩の弱点は分業体制の考案により克服されてゆく。「セッティングする者」+「渡す(戻す)役の者」+「射手」の3人が1チームと成った流れ作業に因って、速射を可能にしたのである。
※又、複数の矢を同時に、しかも連射できる
連弩と呼ばれる最新兵器が、実戦に於いて登場して来るのも、三国時代あたり(諸葛孔明が発明したとされる”元戎”は有名)からであるが、これについては今後の機会に譲る。
さて、話しは『官渡城』の戦場である・・・・
この袁紹軍による”上空”からの強弩攻撃は、城内に籠った曹操軍にとって、大きな脅威と成っていった。四六時中大量のスナイパー(狙撃手)に狙われて居るのと同じである。一寸でも気を抜けば、忽ち何百本もの弩矢が飛んで来て即死した。・・・・ついには、城内の僅かな移動にも、将兵は楯を傘代わりに使わざるを得無い程になった。来る日も来る日も是れが続くと、城兵達の口数が減り、その顔から笑いが失せ、気力が萎えていってしまう。心理的に圧迫され続けた挙句、ただビクビク、オドオドばかりして、戦う気力・志気の低下を招いてしまう。実際にも、命を奪われる兵士達の数が日増しに増加し続けた・・・・為す術も無く、一方的にやられっ放しである。この儘では将兵達の気分は《俺等の命も風前の灯か》と云う、惨めな廃兵の心境と成り、ついには〔不測な事態〕を招来し、敵と戦う前に内部崩壊すら起こし兼ねない、全くの閉塞状況・手詰まり状況であった・・・・。
一方の
袁紹陣営は・・・・余裕綽々しゃくしゃく。酒盛りこそして居無いが、半ばは”勝ったも同然”とばかりの、堂々たる布陣を見せ付けていた。 「ーーで、どうじゃ、敵城内の様子は?」
「話しにも成り申さぬ。ただ只管、亀の如くに首をすくめ、震え上がって居るばかりで御座居まする。」
「フフ、曹操の奴め、今頃になって己の増長を悔やんでも、もう間に合わぬわ。」
「兵士等が完全に音を挙げる迄、徹底的に矢の雨を喰らわしてやりましょう!」
「ム、善きに計らえ。まあ、その前に、一献いっこん参ろうぞ。」

・・・・ねぎらいを兼ねて、幕僚達と杯を重ねていた其の時であった。
 グア〜ン、ズズ〜ン・・・・
ーー地響き・・・・!?ーー落雷・・・・!?一瞬、大地が震え、体が揺れた気がした。「な、何だ?今の音は!?」
と、又しても猛烈な振動と共に、大崩壊音が起こった。
「地震か?見て参れ!」飛び出した参謀の一人が入口で叫んだ。 「大変です!味方のやぐらが次々に崩れ落ちています

「なにィ〜??どう謂う事だ??」
「口で申し上げるより、その目で御覧あれ!!」
帷幕に在った全員が表に飛び出して見ると・・・・その眼の前には信じられぬ光景が展開されていた
袁紹はじめ全員が愕然と言葉を失い、ただ唖然として棒立った。−−官渡城をグルリと囲んで林立していた、弩弓攻撃用の巨大櫓群が・・・・・
城内から
飛来して来る巨岩
を浴びて片っ端から次々に吹っ飛び、崩れ落ちてゆくではないか・・・・!!
ヒューー〜〜〜・・・・・・ビューーーーーン
ヒューー〜〜〜〜ドガ〜ン!!バリバリ・・メリメリメキ・・・・
次々に飛来する大爆撃弾!大雷撃!!弩弓どころの比では無い!一瞬にして瓦礫と化す巨大楼閣群からは、濛々と砂塵が巻き上がって、戦場一面が驚天動地の阿鼻地獄と成ってゆく!!
第1次大爆撃はおよそ百数十発・・・・2刻(30分」以上にも及んだ。ーーそして・・・・人工丘上の巨大楼閣の半数以上が崩壊したその頃になると、それまでシュンと尻尾を巻いていた曹軍の兵士達が、城壁の上に鈴生りになって躍り上がり、手を打ち、万歳を叫んでいた。
「やったあ〜!!いいぞ、いいぞ〜
「やれ、やれ〜
もっとやれ〜」今まで自分達を狙い続けて来た、城外の高楼が、轟音と共に次から次へと崩れ落ちていく。
「ざま〜見ろ!!」 「お、また命中したぞ!」
ウォ〜〜!!と云う雄叫びで、官渡城全体が沸き立ち、志気の形勢は、完全に敵味方が一変していた。5人掛かりでやっとこさ持ち上げられる様な巨石が、ビューン、ヒューンと大気を引き裂く唸りを挙げながら、城壁を越え、宙を飛んでゆく。そして、袁紹軍が築いた丘の上の高楼群めがけて、情け容赦も無く落下していく。重爆撃に晒された無防備都市の様なものである。その様は、丸で落雷に直撃されて打ち砕かれるソドム大災害の如くであったーー。城の周囲に、これ見よがしに林立していた櫓と高楼の摩天楼が、面白い様に破砕されてゆき・・・2次・3次雷撃が敢行された後となっては、もはや辺り1円には1本の柱すら立ち残る物は無かった・・・・・。
−−これぞ、
天才曹操猛徳が、
        窮地の中から産み落とした
スーパーウェポン!!
この官渡の戦いに於いて、ついに此の世に、其の姿を現わした「超秘密兵器」!敵をして「落雷・雷撃の如シ」と恐怖のどん底に叩き込んだ「ウルトラ・スーパーウェポン」・・・・その名も・・・・

霹靂車へきれきしゃ】!!ー〔巨大投石兵器〕であった。 空中戦には空中戦で立ち向かう・・・・然も、ここぞ!と云う時に、相手のド肝を抜く圧倒的・壊滅的なパワーを見せつけ黙らせる。こんな物凄い秘密兵器を密かに開発し、温存・秘匿して居たとは・・・・!!
それにしても曹操とは、《恐るべき天才》である。その才能の尽きる試しが無い。 この新兵器の発明は、科学・物理工学分野の才能の煌めきか!?いつ、そんな知識を身に修めて居たのか?殆んど"独創"である。流石と言うか、凄いと言うか、曹操の頭の中は、一体どうなっているのだろうか?
今から1800年も前の人類の話しである。日本など、いまだ小国家すら無い時代の事である。(※この投石機を使い、元・モンゴル帝国が、樊城・襄陽を陥落させ、南宋を事実上亡ばしたのは、此の時から千年以上も後の1274年の事である。)只ただ驚嘆してしまう。しかも適宜、必要に応じて、丸で袋の中から取り出すかの如く、いとも簡単に其れを実現させてしまう・・・・参った!もはや、『天才』−−と、呼ぶしかあるまい。
ちなみに筆者は、この《霹靂車=発石車》を、現代に再現してみようと、教え子達と実験してみた事がある。(無論、1/10程度の縮小版ではあるが。)好事家諸氏の為に、その折のレポートを抜粋して措く。
               ↓
   『−−原理・構造は至ってシンプルであったと想像する。
(1)先ず、A・B両端をもつ杉の材木を腕木(梢)としてシーソー状態にする
(2)その腕木の支点を中心からずらして片端のA(石を置く方)が地面に着く様にする
(3)この時、腕木を長くして、その振り出し幅を大きくする為に、支点Cを地上
   から高い位置に固定させるよう背の高い木製の
台(車)を組む
(4)すると腕木の他の端Bは、地上からかなり高い位置に止まる。
   このBから長い縄を何本も垂らして
〔引き綱〕にする。
(5)この綱を複数の人間が、一斉に引き降ろすとBが下がり、反動でAが上がる(投手の腕の様に振り出される)テコの原理位置エネルギー応用である
(6)その振り出される(跳ね上がる)Aの先端に石を入れるを吊り下げる
・・・・実は、ここ(6)が発明の最大ポイントであり、曹操の新機軸であった。
直接Aに石を乗せるのでは無く、Aを第2の支点として、更に袋を吊るす縄の分だけ遅れて始動するPが、しなりを加えて最後に振り出されるからである。 霹靂車の模型図 スローモーションビデオで解析してみた処・・・・Aの腕木が振り切られて停止した直後に、今度は遅れて円運動していたPが振り切られて石を空中に発射する。この二重(2回)の振り切り動作の連動に因って、振り出しの初速は更に倍加され、飛距離が大きく伸びる事に成ってゆく。例えるならオーバースローのピッチャーが、先っぽに石をくるんだタオルを握って、腕を振る・・・・と同じ格好である。
(結論)→→引き綱Bの位置エネルギーがAを振り出させ、Aは更にPを振り出すと云う2段階発射を、一連の動作の中に凝縮してあるのである
処で、我が実験チームの最大の心配事は、思惑通り、
石がスムースにリリースされるかどうか・・・・であった。結果、石は(歓声と共に)見事、引っ掛けていた袋の紐から外れ、宇宙の彼方(河原)に飛び出していったのである腕木の長さは3メートル。台の車高が2メートル。石の重量は約2.5キロ。・・・・で→→→飛距離は・・・・な、何と380メートルに達した。感動的な瞬間であった』  −−てな、塩梅ではありました・・・。


                 
この霹靂へきれきの登場に拠り、袁紹軍の高楼群は完全に破壊し尽くされた。と同時に、城の周囲には500m以上の安全地帯が確保された事になる。・・・・つまり曹操は、官渡城完全包囲の危機に見舞われた時、新兵器の投入に拠って「制空権」を制する事で、その危機を脱したのである。ーー処で、曹操はこの「発石車=霹靂車」を何時の時点で準備したか、である。いくら何でも、高楼群に取り囲まれてから、俄かに捻り出した物では無いだろう。それでは試し撃ち(照準調整は特に難しい)を含めた試作・失敗の猶予期間が間に合わない。発明は失敗の積み重ねである事を考えれば、相当早い時期に取り組んだ筈である。それに大量の巨木や頑丈で長い縄、弾頭にふさわしい巨石の備蓄などなど、とても1ヶ月や2ヶ月では完成すまい。・・・・と云う事は、曹操の戦術眼は、開戦以前のズ〜っと早い段階から既に、包囲される事は織り込み済みで、しかも高楼群の出現も読み込んで居た、と云う事である!では、後世『官渡の戦い』と呼ばれるに違いない、此の一大決戦のシナリオを、曹操と云う人物は、果してどの様に観て居ると謂うのであろうか??

他方、「空中戦」に破れた袁紹ーーいいとこ無しであるが、カッとしない点は流石に”大人たいじん”の風格が有る。・・・・では、これならどうだ!とばかりに、今度は地中戦を挑んだ。あの★★公孫讃こうそんさん」を葬った地下道作戦を実行させたのである。官渡城内からはブラインドとなる、人工丘の裏側から、縦穴を掘り、其処から密かにトンネルを掘り進め、城の真下に潜り込もうと云うのであった。主目的は、公孫讃の「バベルの易京城十段構え」を瓦解させた如くに、城郭そのものを土台から根こそぎ崩壊させようとするものであった。其処までやれなくても、少なくとも夜間に城内に潜入して城門を内側から開けるか、破壊してしまおうとするものでもあった。この地下道作戦のノウハウは、袁紹軍のお手の物の戦術と成っており、やはり古来より、攻城戦の常套手段(常識)とされていた。だが、地下道戦術は曹操も亦、「張繍ちょうしゅう」との退却戦で、その驚愕の機略を見事に発揮していた。「空中戦」の次は「地中戦」
・・・・と、曹操は読んでいたらしい。おさおさ怠り無く、しっかりと
地中探知レーダーを設置してあったのである。そのレーダーの正体は、地中に埋め込まれた大瓶おおがめであった。かめの中に水を張り、地下の震動が水面に伝わり、さざ波が立ったら異常有り!と観る。又は、瓶の口に薄い皮を張り、耳の良い熟練者が、そこに耳をつけて物音を聴き取る。
「矢張、敵が地下道を掘り進んでいる事に間違いはありませぬ」
「そうであろうの。グズ袁紹がやりそうな事よ。」
曹操は別段驚いた風も無く、即座に対抗策を下知した。官渡城の
城壁の内側に沿って、グルリと〔深い塹壕〕を掘らせたのである。これだと、敵の地下道が城壁の下まで達した時、曹操側の掘った深い縦穴(内壕)にぶつかり発見されてしまう。ばかりか曹操は、その内壕に大量の(河の)水を注ぎ込ませた。・・・・延々と地下道(トンネル)を掘り進んで来た敵は、やっとの事で城壁の下を過ぎた途端、大洪水に襲われる事となった。文字どうり、それ迄の苦労が水の泡と成ってしまった訳である。
かくて「空中戦」に続き『地下戦』でも袁紹は再び破れたのである
《−−しぶとい奴め・・・・

此の後は暫く、両軍睨み合いの膠着こうちゃく状態と成っていった。そうなると袁・曹両軍とも
兵糧問題が深刻な課題と成った。曹操側は城内の備蓄が底をつき始め、袁紹側も10万余の胃袋を満たすのに必死のピストン輸送を繰り返す。無論、曹操側の方が、事態は逼迫していた。
袁紹側は遅れるだけだが、曹操側は兵糧そのものが無いのである。奇襲部隊を編成して、袁紹側の輸送車を襲撃させ、幾度も焼き打ちにしたりもしたが、所詮、こちらの食糧が増える訳では無かった。単なる嫌がらせの域を出ていない。
背に腹は代えられず、已む無く周辺農民に、家庭用備蓄の穀物までも追徴課税で取り立てる。たび重なる徴税に農民が離反していく。その上、
許都でも不穏な空気が流れ出す。官吏や将軍の中には、大きな動揺が起こっているとも聞く・・・・
曹操最大のピンチが訪れていた。
《・・・・官渡を棄て、許都に退くべきやも知れんな・・・・。》
『許都』に戻れば、兵糧の悩みから少しは解放されるし、兵力もまとまる。不穏な動きを止める事もできる・・・・。
流石の曹操も打つ手を見い出せず本気で★★★許都への撤退を考え始めた時期である。
そこで曹操は、己の頭脳とも呼べる、
許都の【荀ケに対して、その意向を伝えて打診した。
兵糧が底をついて来た。こちらは官渡を退き上げ、許都に戻り、袁紹を誘き寄せる心算だが、そちらの様子はどうか』 文面では、「敵を誘き出す」などと糊塗しているが《逃げ出したい!》と謂う、弱気の表明に外ならない。直ぐ様、荀ケの返書が届いた。荀ケは9年前(29歳の時)一時的に袁紹の元に在籍していたから、敵国の本質にも通じていた。
只今、我が兵糧は乏しいとは申しましても、未だ  項羽と劉邦が犖陽けいよう成皐せいこうで睨み合った時程では御座居ません。この時、劉邦と項羽は、どちらも先に引き退こうとは致しませんでした。先に退いた方が、屈服を余儀なくされるからです。今は両軍とも苦しいのです。
絶対に退いてはなりませんぞ殿は敵の10分の1の兵力を以って、もう半年間も敵の首根っこを押さえ続けて居られるのです。前進が出来無いと言って弱気に成ってはなりませぬ敵の内情が露わになり、勢いが尽き涯てれば、必ず変事が起きるでありましょう。今こそ奇策を用いる時機であります。殿には其の軍才がお有りです。逃がしてはなりません袁紹は全軍を官渡に集結させ、殿と勝敗を決しようとして居ります。
殿は至弱を以って至強にぶつかって居られる
のですもし制圧できないならば、必ず付け込まれる事となります
今こそ、天下分け目の時ですぞ!!それに袁紹は一平民の豪傑と云うだけで、人を集める事は出来ても、用いる事は出来ません。そもそも殿は神の如き勇武と素晴しい英智が有る上に、それを支えるものとして、帝を奉戴していると云う大きな正義をお持ちですなんぞ向う処、成功しない事が有りましょうや 窮地に立たされ、弱気に落ち込もうとする主君を、叱咤しった激励するものであった。曹操が此の手紙を見せると、軍師の言羽(かく)も言った。
「殿は聡明さにおいて袁紹に勝ち、勇敢さにおいても袁紹に勝ち、人の使い方においては袁紹に勝ち、機を逃さず決断する点において袁紹に勝って居られます。この4つの勝ちをお持ちになりながら、半年かかって方付けられないのは、ひとえに万全を期される為であります。必ず機を逃さず決断を下されたならば、たちどころに片づける事が出来ましょう。
それもこれも、ここ官渡に頑張り続けるからこそ可能なのです。」
「−−なるほど、その通りじゃ
曹操は最も苦しい此の時期を、賢臣達の励ましによって乗り切ろうとしていた・・・・。
−−9月下旬・・・・・はなってあった間者かんじゃから、重大情報が入った。敵の大輜重部隊が黄河を渡り続々と「延津」に集結中!との事であった。 指揮部将は『韓荀』で、その運送車両は実に数千台に及ぶとの内容であった。諦めずに、粘り強い〔情報活動〕を続行せせて来た、地道な努力が、ここに来て結実したのである。「これを襲わせましょうその大将の韓荀(韓猛・韓若とも)は向こう意気が強くて敵を軽く視る男です。攻撃すれば必ず撃破できましょう。」
軍師の【荀攸じゅんゆうが、膠着状況打開の一環として、
奇襲攻撃を進言した。 「よし!こちらから仕掛けよう。」
この半年間、ズ〜ッと〔守り〕一辺倒に徹して来た。いや、守勢を強いられて来ていた。この先の未来に、希望を見い出そうとするならば、自からの手で、何処かに風穴を開けるしかない。
《希望は、行動の中にこそ在る・・・・!!》
「ーーで、誰を派遣するのがベストか?」
徐晃じょこうが宜しゅう御座居ます。」 軍師たるもの、将軍1人1人の個性・持ち味まで熟知していた。
偏将軍の徐晃じょこう。魏の5星将(張遼・楽進・于禁・張郤・徐晃)の中でも
1番慎ましく慎重そのものの性格であった。軍を率いる時は、いつも遠くまで物見を出しあらかじめ勝てない場合の配慮をして措き、その後で戦うタイプであった。だが一転して追撃戦となるや、兵士には食事の暇も与え無かった。詰り慎重に戦機を窺うが、此処ぞと云う時には鬼と化す名将であった。この状況では、最適な人選と言える。曹操はそんな徐晃とは対照的な【
史渙しかん】をペアとして組ませると、奇襲部隊の準備を命じた。そこに、第2報が届けられた。
「敵の輜重しちょう車両は延津を出発、〔
故市こし〕に向っている模様で御座居ます。故市には敵の食糧基地が在ります。今、故市の倉庫は空っぽで、これを補充する為の行動だと思われまする。」
・・・・ついに曹操の情報網は、袁紹軍の食糧備蓄基地の1つを捕捉したのである!これは大きい。ジリ貧の戦局に風穴を開けられるかも知れない。
「ウムよく其処まで探りだしたな。だが未だ故市よりもっと巨大な基地が在る筈じゃ!何としても其れを探り出せ!」
その奇襲作戦・・・・徐晃と史渙は、うまうまと敵のすきくぐって見事、
故市付近で、敵の食糧車両数千台を、悉く焼き尽くすと云う大戦果を挙げて帰城を果した。
・・・・だが、この『正史の記述』には、《重大な問題》が潜んでいる。どうしても筆者には引っ掛かるのである。裴松之も指弾する曹操軍の兵力★★】についてである。これは陳寿が、ちょっと筆を滑らせた類の問題では無く、正史そのものの信憑性に関わる〕根本的な大問題を含む。例えば、この徐晃の故市奇襲作戦ひとつ採ってみても、どうやって城を抜け出し、警戒厳重な敵陣営の中を、途中で全く気付かれずにに進軍し、奇襲し得たか??常識的には掩護地域(曹操軍の支配地域)がかなり広くなければ、無理であろう。又、稀少な戦力を、この時期に分割・引き抜くのは、余りにも危険すぎる。総攻撃されたら防ぎきれまい。ーー更に・・・・袁紹軍は何故、東西数十里にも及ぶ戦線を築いたのか??僅か1万にも満たぬ相手に10万を超える大軍団が採る陣形では無い。その上、口では短期決戦を唱えながら、袁紹の動きは余りにも慎重に過ぎて、臆病とさえ映る。
そうは自在に手を出せない★★★★★★だけの大兵力を、曹操は持っていた
・・・からだとすれば、納得できる。この後の戦局に於いても、曹操の動きは殆んど自由である。又、既述の如く、最終局面の摩訶不思議な珍事態(8万の正規軍が僅か2、3千の部隊にあっさり皆殺しにされる)が、起きてしまう。
★ 筆者の結論はこうである。ーー正史といえども、

『官渡の戦いに於ける
兵力の記述は、意図的な誇張・捏造である!』・・・・少なくとも至弱を以って至強を倒すと云うフレーズ・命題の為に、陳寿の筆は作意を以って運ばれている。いかに慎重に全巻に気を配って糊塗しても、又、登場人物の口を借りて語らせようとも、それは全て辻褄合わせに過ぎず、処々にボロが現われて、結局、破綻してしまっている。筆者は、陳寿を”大先生”と呼ぶ者であり、こき下ろす心算など毛頭ない。但し、陳寿先生も人の子・・・・曹魏系の「にサービスして見せなくてはならぬ環境・状況に置かれて居たのである。(穿って言えば事実厳選の、些か無味乾燥気味な、己の記述方針の中に唯1ヶ所だけ、男のロマンを正面から挿入してみたかった為もあろうか。)−−いずれにせよ、歴史の真実は・・・・
曹操軍もかなりの大兵力を有し、食糧にも窮しては居無かった。』・・・・と観てこそ、百日以上に渡る官渡の戦いの全てに納得がいく。青州兵30万と、初年度にさえ100万石(斛)を挙げた屯田制は、一体どこへ消えてしまったのであろう・・・??読者諸氏に擱かれても、そうした疑問を持たれて、この『官渡の大決戦』を観て戴ければ、歴史の記録と謂うものの味わいが、又ひとつ深まろうと言うものではあるまいか


ーーさて2月〜9月まで対峙状況に在った戦局は、

いよいよ【官渡の大決戦】の
クライマックスへと動いてゆく・・・・。
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