第94節
危うし!官渡城
                                  


官渡・・・とは、官営の渡し場、と云う意味からの地名である。余りにも広い黄河には橋が架けられ無いから、要所に渡し場を設けた。そして其の渡し場を「」と呼んだ。 だから「白馬津」・「延津は当時も黄河の現役の渡し場として使用されている。だが〔官渡〕の方は、かつて黄河が40キロほど南を流れていた頃の名残りであって当時も既に”単なる地名”に過ぎ無くなっていた。
(当時の黄河は暴れ川として治水が困難であった事が窺える)詰り当時の黄河は「官渡」から40`北の所を、北東方向へ斜め上に向かって流れている。と云う事は、曹操が築いた《官渡城砦》の北方には、袁紹の大軍が布陣するには充分な、40〜70キロに亘る大氾濫平原が広がっている事になる。袁紹軍其処(官渡と黄河の間)へ大軍を乗り込ませて陣を敷き、官渡城を押し包もうとしているのであった
処で我々は、ここで黄河とその周辺ーー即ち”中原”と呼ばれる「中国北部」についての、重大な誤謬を避けて措かねばならない官渡の戦いが繰り広げられた戦場の地形は、大草原であったのか?大砂漠であったのか?はたまたジャングルであったのか?
その地勢・地形によって、作戦・戦術も全く異なって来る訳であるから、 見逃せないポイントの1つとなる。 この事は、ひいては、この時代の中国北方(中原)の生活環境・数々の戦闘の背景にも関わる重大要素である。さて、茶褐色に濁りきった
世界の大濁流黄河についてだが、1800年前は・・・・
清らかに澄んだ、美しく透明な大流であったのだ
だから人々は単に
「河」又は「河水」とだけ呼んでおり黄河では無かったのである。然るに現代の我々が知る【黄河】の流れは、上流の黄土高原を浸食した、泥の様に濁りきったダークなイメージである。何故、こうも様相が変わってしまったのか!?答えはであり歴代皇帝による植林なしの大伐採である。元来、黄河の全流域は、太古以来の豊かな大森林に被われていたと言う。後漢・三国時代においても尚、北の 大地は緑に溢れていた事が判ってきた。 上流の黄土高原は勿論、中流域の長安・洛陽の「渭水ライン」、 更には許都も業卩ぎょう城も、そして此の官渡の地も、全て美しい森に被われた城郭都市であったのだ。現代の見るも無残な剥き出しの荒廃地とは、およそ無縁な別世界であり、Ω状に屈曲する大黄河一円は緑したたる大森林地帯であったのである・・・・そして何と、その北方の森にはアジア象がのし歩き水辺には水牛が青草を食み、サイなどの野獣が棲息して居たのだ(事実、殷墟いんきょから子象の骨が丸ごと納められている形で出土している。)
『安念海』教授いわく、
かつての黄土高原は、緑あふれる広大な平原でした。松や柏などの森林が生い繁り、森の周辺には豊かな草原が広がっていました。森は清らかな水をふんだんに貯え、水辺では象や犀・そして水牛などが群れ、戯れて居たと、想われます。」・・・・と云う事は当時の中国は、北方の地(黄河一帯)でさえ、大食漢の象が生きていける程の森や草原が在ったと云う事であり、南方(長江流域)に至ってはジャングル状態に近い風景であったとも想像される。そう謂えば、長安を脱出した献帝一行が、焦土と化した「洛陽」に辿り着いた時、食べるに事欠き、野の植物を探して飢えを凌いだと云う記述があったが、焼跡のすぐ周辺が豊かな森であれば、それも頷ける。いずれにせよ、「官渡の戦い」を森の奥から象サン達が覗いて居たとしたら、何か不思議だが愉快な気もするではないか?
ーー余談だが、その《太古以来の豊かな森》を消滅させたのは、人間どもの文化生活への欲求に外ならない。当時、森から切り出す『木』は、唯一のエネルギー資源であり、火力の源であった。又、巨大建造物には不可欠な資材でもあった。宮殿や城1つ造るのには山林の50や100は潰された。更に腹一杯喰う為には森を潰し、其処を田地や畑地に変える事となる。歴代皇帝は「伐採担当官」を置き、森林伐採専門の囚人達を大量に辺境に送り込ませ、再生の計画無しに、どんどん森を潰していった。
植林などと云う、まどろっこしい事はしなくても、幾らでも森は在った。自分の代さえ間に合えばいいのだ。ーーだがやがて・・・無尽蔵と思われた森の木は切り尽くされ、あちこちに黄色い地肌が剥き出しの荒地が出現していく。漢の時代になると、文献上にチラホラ
黄河と謂う文字が散見され出す。森林破壊による土壌の流出が起こり始め、ついに〔河水〕は濁りだしたのだ。《官渡戦》の頃は、まさに森の精霊たちが悲鳴を挙げ始めた時期に一致する。だから曹操一族の陵墓(地下に造る)などは、《木》に代り、大量のレンガ=(磚せん)だけを用いている。尚、森林の破壊を加速度的に進めたのは、《鉄器》の普及であった事は言う迄も無い。
−−さて、話しを戻そう。
詰り、官渡周辺の一帯は・・・河水(黄河)に因る大氾濫平原ではあったが、基本的には森に被われていた
と、想像される。少なくとも、広大な河川敷状態では無く、至る所に森陰は在ったであろう。 (のち曹操は、この森陰を利用しての決定的軍事作戦を採る事となる。)
処で、曹操が「許都」を守り、袁紹軍の侵攻を喰い止めようとする此の
官渡城は、通常の(庶民も住む)城郭都市では無い。純粋に軍事目的の為だけに築かれた「城砦」であった。その規模は、州郡なみの城市からみれば、決して大きいとは言え無かった。せいぜい県の城郭クラスの一里(400メートル)四方であったろう。時間的にも、それが限度一杯だった。だが中規模とは謂え、軍事戦闘専門用、とりわけ防禦の為だけに、あの曹操が心血を注いで築いた城砦である。 この後に、
大敵を半年以上(9ヶ月)も防ぎ切ってゆく史実から推して
、守りは極めて堅固な構えであったと想像される。蓋し官渡城は、曹操が己の全知全能を傾けて作らせた”名城”であったと謂えよう。現代官渡城に関する資料は一切見つかっておらず、我々としては只、幻と成った往時の名城を偲ぶしか無い。が、官渡城周辺の地勢的環境については、当時の様子を或る程度までは復刻し得る。
先ず、城のすぐ
北側には・・・・天然の要害が在る。
渠水きょすい=(鴻溝水)と云う川である。(※城の辺りから『官渡水』とも呼ばれていた。)この川は黄河の支流で、城の前をまっすぐ東へ流れていた。官渡城の曹操軍にとっては、此の渠水こそ、
〔最後の防衛ライン〕
となる。もし、敵に此の渠水まで進出されたなら、曹操軍は重大な危機に追い詰められた事になる・・・ また、城の西側には圃田沢ほでんたくと呼ばれる大湿地帯が在る。曹操は念には念を入れ、それを鉄壁な”底なし沼”状態にする為渠水の一部を決壊させて水浸しにしてある。従って、西側からの敵の襲来は、ほぼ不可能状態と言ってよいだろう。・・・・つまり、城の「北」と「西」の2方面からは、敵が大挙して攻め寄せる事を封じた地形を厳選した結果、曹操は此処に防衛拠点を定めた。
・・・・それが官渡城の地勢的要件】であったのだ。
尚言う迄も無いが、城の真
100キロに〔許都〕が在り、唯一の補給ルートであった。・・・・と謂うことは攻防の行方を決する最大の注目点は東側である。即ち、袁紹軍に”渠水”を渡られて、城の東側に迫られた時をもって戦局はガクンと、曹操破滅の局面に近づいた事態を迎える事となる・・・・と思って戴いてよい。 さて、その官渡城そのものだがーーグルリをがっちりした城壁で囲み、その周辺には深い濠を漲り巡らせてある。各門ごとには門楼が在り、城の四隅にも角楼が 設けられ、城壁の要所要所にも望楼が構えて在る。今そこには、軍中で最も遠目が効き、視力3.0の物見兵を24時間体制で、敵の動向監視に当てていた。詰り視認による情報キャッチである。基本地形は氾濫平原であるから、森陰が在ろうとも、大軍の動きであれば、およその動向は察知できる。更に曹操がそれ以上に重大視していたのは、城外に於ける情報戦であった。曹操得意の機動戦も、適格な敵情報なくしては活かせ無い。だから大量の間者を四方八方に蜘蛛の巣の如く張り巡らせてあった。
曹操は、
《情報戦を制した者こそが勝者と成る!》・・・・事を胆に銘じて居た。だからこそ、この1年有余の期間、入念に自分の足と眼で戦場周辺の隅々までを駆け巡り、裏道や間道に至る迄をすっかり頭の中に叩き込んで置いたのである。 折角の情報も、それを受け取った肝腎の総帥が、その地形をイメージ出来無いでは、宝をゴミ箱に捨てる様なもの、何の役にも立たない。それに対する袁紹は王者然として、この点を全く実施せず、出たトコ勝負だった。何と言っても曹操は、当代随一の、『孫氏の兵法』のオーソリティである。自ずからが解釈や註を入れて編纂し直し後世に伝えた程の兵法家でもあった。『孫氏』の「用間編」には・・・・
爵禄、百金ヲシンデ、敵ノじょうヲ知ラザルハ不仁ふじんノ至リなり と、ある。当然その重大性は、曹操の胸襟に深く刻み込まれている。然し情報には互いにニセ情報(死間という)も含まれている。それら虚実の中から真実を掴み取るのも、多くの情報の中からどれが本当に必要・有効なものであるかを判断するのも、全て総帥たる曹操と袁紹の、個人の器に懸かって来る。更に『諜報活動』も、この範疇に含まれる。戦況が膠着状態になれば・・・・袁紹は、曹操本人以外の幕僚諸将すべてに対して、密かに、好条件附きの誘降の密書を送り付けていく。これは、兵力において圧倒的な袁紹にとっては、極めて有効な攻略手段と成る。敗戦必至の状況ともなれば、一挙に裏切りのナダレ現象を呼び起こせる。それに対する曹操・・・・そんな事は先刻承知だが、見て見ぬ振りをした儘、いちいち聞き咎めたり、詮索する事をしない。一寸でも疑いだしたら負けである。敵の術中に嵌る。キリが無くなり、身動きが取れなくなる。ここでは、主君と家臣との、1対1の信頼関係が試される事になる。この手は曹操も使う。お互い様だが、劣勢の曹操の方が分が悪く、殆んど期待は出来無いが、だからこそ手だけはしっかり打って措かねばならなかった。 謀略戦は、戦闘以前に既に始まっている・・・・・。
7月、【袁紹軍】が大きく動いた。それまで鳴りを潜めて居た10万余の大軍が、一挙に50キロも南下したのである!!そして、その陽武ようぶの地に、ドッカリと本陣を置く構えを見せたのであった。これにより、袁・曹両軍の距離は、一挙にググッと縮まった。【官渡】と【陽武】の間は僅か20`である
それにしても、今迄の袁紹軍の動きは、随分と鈍い。何と3ヶ月★★★もの間、黄河南岸の「延津えんしん」にへばり附いたままであった。一体、3ヶ月もの間、袁紹は何をして居たのであろうか?? ・・・・
答えは、輸送であった。10万人の胃袋を満たさ なくてはならない。それも今後に備えて、少なくとも1ヶ月分の食糧備蓄を、黄河の南岸に確保して措かねばならなかったのだ。途方も無い量となる。しかも不便な事に、いちいち黄河の両岸で、荷駄の積み下ろし作業をしなければならなかった。その上、《南船北馬》の袁紹軍には、巨船が無い。小舟でのピストン輸送となる。だから3ヶ月も懸かったのだ。そして、どうにか其のメドが着いたのが、この7月なのであった。ーーこうしたモタつき振りを観ると、どうも袁紹軍は出陣の最初から、この『輜重問題』を甘く見ているフシが窺える。少なくとも、後廻しの問題とみていた様に思われる。2月に出動させた先遣部隊の「顔良」にしても、白馬の小城ひとつ落とせず2ヶ月間もただ漫然と包囲を続けて居た。確かに白馬津を確保する目的は果しているが、袁紹本軍が出動して来る迄に2ヶ月を要するとは、余りにも”間”が空き過ぎている。どうやら袁紹は、取り合えず顔良を出撃させ、その後に慌てて兵糧輸送に動いた形跡がある。10万以上の大軍を持ちながら、いざ黄河を越えてみて、兵糧輸送の困難さに気付いた・・・・こんな、煮え切らぬ態度の袁紹の姿が想像されてならない。−−では何故、こんな事態を招いてしまったのであろうか?
それは、袁紹が後漢王朝の《寛治理念》=『ゆるやかなる統治』を踏襲した事に根源が有ったのだ。具体的には、袁紹が大人風たいじんかぜを吹かせ
名士の意見を、よく聴き過ぎた☆☆☆☆★★★】ためである。「田豊」や「沮授」という古参名士を放逐した事から、ともすると袁紹の君主権が強かった様に受け取られがちだが、寧ろ実態はその反対であったのだ。内実袁紹は基本的には、彼ら名士】達を厚遇し続けて来ていた。詰り、彼等を尊重しその建策をよく聴き入れ採用していたのである。この事は、名門一族としての代々からの方針でもあった。謂わば、4世3公の名門なるが故のシガラミ=既得権益集団に囲まれて居た、と言える。そして何より現実問題としても、名士層 (豪族出身者が多い)の協力無くしては、広範な領土を維持、統治し得無いからであった。だが反面、それは君主権の弱さを示す事でもあり、君主の専断を阻害する事にも通じた。”成り上がり者”の曹操の如き、強力な独断専権の政・軍事力を発揮し得無いのであった。それは、今や天下随一の大国と成った君主・袁紹自身が最も歯痒く感じ始めていた。だが急には方針転換も出来ず、苛立ちだけが募って来る・・・・どこかで一発、ガツンと君主の権威を誇示したい!その鬱憤の捌け口が古参名士の「田豊」・「沮授」に向けられたのであった。袁紹陣営には、他から見れば羨ましい程に、錚々たる名士達が名を連ねて居た。折角集めた彼等から、反発は招きたく無い。そこで白羽の矢をたてられ〔スケープゴード〕にされたのが、引退・隠居まぢかで、人々からは尊敬されており、然も猛反発はしそうもない直参の老人2人だったのである。《この年老いた両人なら、新規参入した他の名士達から反発は受けまい。》・・・・だが、この2人に対する袁紹の、君主としての強圧的態度は、寧ろ、例外中の例外であったのである。ーーだから、この「官渡戦」に於いても袁紹はあちらも聴き、こちらも立てると云う具合で、結果論としては、
『優柔不断のそしり』 を招かざるを得無くなっていた。
〔長期持久戦略〕か〔短期決戦戦術〕かの、2つの意見に揺れ続けた挙句・・・威勢の良い短期決戦に傾いて開戦したのはいいが肝腎な兵糧輸送体制が準備出来て居無かった。 そこで慌てて輜重集めに奔走し始めた。だが思う様に進捗しない。何せ10万余もの大軍を扱うのは、
初めての体験なのだった。−−この初期段階の「兵糧輸送体制の遅れ」があたかもボタンの掛け違いの如くに、これからも常に後手後手のまま、ズッと続いていく事になる。ちなみに袁紹は、この大食糧備蓄基地を 烏巣に置いた。其処から50キロを運んで、官渡の最前線に届ける・・・・システムとした。(西へ25キロの故市こしにも置いたが、こちらは補助的なものであり、大集積基地は飽くまで【烏巣うそう】であった。)
官渡周辺の俯瞰図 謂う迄も無く、この食糧基地の在り処は、軍事機密の中でも最重要の、機密中の機密である。 (※ トップシークレットより厳重な
クリプト”である。)この場所が曹操に漏れたら、えらい事になる。ぶん盗られでもしたら、大逆転されかねない。眼の色変えて襲って来るだろう・・・・。だから流石に袁紹も、その為の防”間”対策には完璧を期している。【烏巣】周辺一円には、猫の仔一匹通さぬ厳戒体制を敷かせていた。その前面の数箇所には、分厚い関門を設け、誰彼とわず必ず誰何(すいか)させた。 そして何より、その守備の司令官には勇将中の勇将淳于瓊を配していたこの淳于瓊じゅんうけいは、かつて霊帝が天下の若手を集めて創設した〔西園の8校尉〕の一人として、袁紹や曹操と肩を並べ、将来を嘱望された逸材・大器であった。そんな勇将を最前線では無く、後方に配備して居たのである。つまり、それだけ袁紹も、此の烏巣基地を重大視していたと謂う事であった。
8月・・・・袁紹軍が前進を開始した。全ての準備を整え終えた袁紹は、その全軍を横に展開 しつつ、陽武から更に南へと、ジリッ、ジリッと前線を押し上げにかかったのであるこの時、沮授が、最後の諫言を試みている。彼は既に袁紹の勘気を被むり、軍を取り上げられ、辞去を申し入れていた。
「不肖この沮授、最後の御奉公かと思い、あえて殿に進言仕ります。 いま両軍を観まするに、北方の軍勢(袁軍)は数の上では多くはありますが、その戦闘経験の少なさからして、勇猛果敢さでは南方(曹軍)に及びません逆に南方(曹軍)の食糧は底をつき、経済面では北方(袁軍)に及びませぬ。これらを総合して考えますれば南方は短期決戦を有利とし北方は持久戦を有利とします。どうか殿には、ゆっくり戦局を持ち堪えられ月日を引き延ばして戦うのが最前の策とお考え下さいますように!」
「ええい未だ言うか今更カビの生えた議論を蒸し返して何とする?それに、我が軍が”弱兵”とは聞き捨てならん我が将兵を愚弄し、その志気を削ぐ心算なのか!これ以上言えば、ただは置かんぞ!退って居れイ!!」
袁紹は沮授の進言などには見向きもせず、
既定方針通り、《前線の押し上げ》を命じた。(と、されている)−−そして遂に・・・・
袁紹全軍は、曹操最後の 防衛ライン『渠水きょすい』に迄達したのであるとうとう、1本の川を挟んで両軍が向かい合う、決戦モードに突入したのだ!!然も、袁紹は、その圧倒的な兵力差に物を言わせて、【官渡城】の前面に、何と、
東西
数十里(20キロ余)にも及ぶ砦群を構築して見せたのである・・・・渠水の岸辺を埋め尽くす、信じ難い数の人馬の大密集・・・・!!
「ス、スッゲエ〜〜!!こりゃ、見たくも無かった光景だなア・・・・。これとやるのかあ〜・・・!」
独眼流の【
夏侯惇かこうとん】も、思わず感歎の溜息を突く様な、袁紹大軍団の出現であった。こんな大軍団の偉容は、かつて誰も眼にした事もない・・・・未だ完全包囲に迄は至らないが、横一線の東の前線(袁軍左翼)を、『く』の字に折り曲げて、渠水を渡らせれば・・・・曹操は官渡城内に〔袋の鼠〕となる。それを阻止する為に、曹操側も、城の東を重点に、前哨の砦を幾つか設けて在った。(西は泥沢地)尚、戦場の空間(地形的スペース)についてだが・・・・曹操軍の生命線とも謂える『城の南側』だけは、分厚い防禦配備をして、敵の侵入を防いだと想われる。
』は川、『西』は泥湿地で守り、『東側』で敵と向き合い、『』は必死の防禦陣 (完全包囲を阻止しきるだけの兵力と陣地)を構えて、補給ルートを確保した
・・・・これが筆者の想定であるが、諸氏には如何であろうか?
ちなみに、官渡城の城壁の素材だが、当時の一般論として、又、構築期間から推しても《石積み》では無く、巨大な
土塁方式〕であったと想われる。従って、「北側」の城壁は、川の中に突き出した格好では無く、(土塁だと溶け崩れてしまう) 渠水と城壁の間には、若干の空間が在り、其処へ敵が薄い陣を構える事は可能ではあったと想われる。同様な理由で、城の「西側」にも幾分かのスペースは在ったろう。が何と言っても最大の攻防スペースは城の『東』と『南』であり、順序として袁紹軍は先ず【東側】の完全占拠を狙い、そのスペースに全軍(本陣)を進出させて、官渡城包囲の基点とした・・・・・
9月・・・・(白馬の戦いからは7ヶ月が経過)
「あの、目障りな砦を全て潰してしまえ
」 袁紹の命令一下、
曹操側(渠水南岸)の前哨シールド(数箇所の砦)に対する
一斉攻撃が開始された。満を持して、渠水の北岸に詰め寄って居た袁軍は、いよいよ官渡城包囲の前段階として、曹軍さいごの防衛ラインに襲い掛かったのである。其れに対して曹操は、城を出て最前線の陣頭に立った。そして鬼の様な形相となって叫ぶ。「渡河中の敵を射殺せそして岸辺に揚がった瞬間を叩いて、渠水の中へ追い落とすのだ」−−然し・・・・曹操の懸命な督戦指揮も、ここでは何の役にも立たなかった。策を弄する空間も、時間も、そして兵力も足り無かった。10万
が一斉に向かって来たのだ。手の施し様も、防ぎ様も無い。忽ち諸砦は、大軍の洪水の中に孤立しかかった。奮戦すればする程、被害が甚大に成るばかりである。袁紹側は、白馬・延津戦の借りを返してやる!とばかりの猛攻勢であった。
《−−まずい!!》そんな絶望的な事態に陥った時そこで咄嗟の決断が出来るのが曹操の真骨頂である
「よし、此処はこれ迄じゃ。退け〜イ
全軍、ひとつに成って、官渡城内へ駆け戻れエ〜!!」城の東側に展開させて居た砦群の放棄を命じたのであった。もし、この下命が一刻でも遅れていたら、曹操軍の致命傷とも成り兼ねない際どい撤収であった・・・
この戦闘場面の記述については
正史は極めてシンプルである 袁紹は陣営ヲ連ラネテ少シズツ前進シ、官渡ニ接近シ、合戦トナッタガ、太祖(曹操)ノ軍ハ負ケ戦サトナリ、砦ニ引キ返シタ。』
袁紹ハ陣営ヲ連ネテ少しズツ前進シ、砂山ニ沿ッテ陣ヲ敷キ、其レハ東西数十里ニ亘ッタ(曹操)モ亦、陣営ヲ分ケテ相対シ、合戦シタガ、負ケ戦サトナッタ。其ノ時ノ(曹操)ノ兵ハ1万ニモ満タナカッタが、10分ノ2、3ガ傷付イタ。』
『正史』の記述通りだとすれば、互いの兵力は・・・・
袁紹軍】・10余万・・・・に対する
曹操軍はたったの1万弱であった。ーーこれが事実であればーーまさに至弱』を以って『至強』に当たる曹操は・・・・絶体絶命・絶望状況の会戦である。官渡戦の期間中、曹操軍には何処からも〔援軍〕が来たと云う記述が見られ無いのだから、益々もって、ここ官渡城内の兵力だけが全てだった事になる。(南の許都にも若干の兵力は置いていたとしても)
10倍の敵に包囲されたまま、この後の100日間を戦い抜くのである。ーー然し・・・12月に終局を迎える迄のこの後の3ヶ月間、双方の軍事行動を追跡する場合・・・・ 『正史=陳寿』が記した10万VS1万の記述は、誰に於いても、すんなり受け容れられるものでは無い。そこら辺りの考察については、《第58節・決戦前夜》に既述したが、重大な事なので、検めて要点を抜粋し、掲げて措く。
         
実はここに【曹操の兵力について】通説の1万余★ ★ ★に、異議を唱える先生が居る。『正史・三国志』の補注を担当している、裴松之はいしょうし氏である。氏は、4つの理由を根拠に、曹操軍の兵力は、決して1万余などと云う、弱少な兵力では無かった・・・と反駁している。−−裴松之】によれば・・・・
魏の武帝(曹操)は、最初に兵を挙げた時、既に5千の軍勢を持っていた。以後百戦百勝、負けた事は10回に2、3回に過ぎぬ。ただ一度、黄巾を破っただけで、将兵30余万を受け入れており、その他、併合した者は記し切れぬ程である。征伐戦闘によって損耗したとしても、これ程少ない筈が無い。そもそも陣営を築いて対峙し合うのに、鋒を交えて決戦するのとは異なる。「正史」に〔袁紹の軍勢は10余万、陣営は東西数十里(25キロ)に渡っていた〕と言っている。曹操が如何に機に臨み変に応じ、不世出の才略を持っていたとしても、どうして数千の兵力を以って、長期に亘って抵抗する事が可能であろうか。論理的に言っても、そうで無かったと密かに考える。
袁紹は数十里に渡って屯営を作り、曹操は陣営を分けて其れと相対する事が出来た
・・・・是れが、兵力が少なかった筈は無いと云う理由の第1である。
袁紹がもし、10倍の軍勢を持っていたならば、道理からして当然、全力を挙げて包囲陣を固め、出入りを断ち切らせるに違い無い。それなのに公は、除晃らにその輸送車を襲撃させているし、曹公自身で出撃して淳于瓊らを攻撃し、軍旗を翻しながら往復しても、全く抵抗や妨碍に会っていない明らかに、袁紹の方では制御できなかったのだ。是れが、余り少なかった筈は無いと云う理由の第2である。
諸書には全て、曹操側が穴埋めにした袁紹の軍勢(捕虜)は8万だったとか、或いは7万だったとか言っている。そもそも、8万人が逃げ散ったなら、8千人でよく捕縛し得るものではないのに、袁紹の大軍勢は皆、手を拱いて捕えられた。どうして力づくで彼等を制御し得たであろうか。是れが、余り少なかった筈は無いと云う理由の第3である。
記述する者(正史の陳寿)が、数の少なさによって見事さを示したいと考えたのであって事実を記録したものではない
(第4の理由に)「鐘遙しょうよう伝」を調べると、『曹公が袁紹と対峙して居る時、鐘遙は司隷校尉であったが、2000余匹の馬を送って軍に補給した』と言っている。「正史」と「世語」ではいずれも、曹公はその時600余匹の騎馬を持っていたと言っているが、鐘遙の送った軍馬は一体、どこへ消えてしまったのか・・・・!?』
ーー全面的にでは無いにせよ、示唆に富む内容を含んでいよう。また、議論の多い処でもあるが・・・・いずれにせよ、最終的に判断を下すのは、読者自身に委ねられる、根本的かつ重大な、未解決の課題ではある・・・・。 (※以上、《第58節》よりの抜粋部分)
更には、正史・先主(劉備)伝の既述に、
五年(200年)、曹公は東に向い先主を征討し、先主は敗北した曹公は悉く其の軍勢を手に入れ☆☆★★★★★★★★先主の妻子を捕虜にし、合わせて関羽を捕えて帰還した、とある。これ1つ取っても、そうであるが、これに加えて『カク・張繍』コンビも帰順しているのである。
・・・・と、なれば・・・・『裴松之』の指摘の方が、的を得ている!と謂わざるを得まい。−−とまあ、この事を念頭に置きながら、筆者は筆を進めていく事にしよう・・・・。
                
かくて曹操軍は、官渡城内に、その全軍が立て籠もる(追い込まれる)と云う事態に直面する事と成ったのである。ーーと謂う事は・・・・黄河南岸の大氾濫平原全体が、袁紹の手に落ちた事になる。此処には、曹操政権独特の、広大な『屯田』が在る。今年の収穫物は全てオジャン(青田刈りしたとしても) となり、曹操軍は兵糧に窮する事態をも意味するのであった。今や、曹操の勢力範囲は《官渡城》の本軍と、その南方80キロに在る《許都》周辺の一角に限られる、最悪・最小の状況と成ってしまった。然も官渡城は、ほぼ完全包囲されている・・・・。
逆に袁紹にとっては、仕上げの段階に差し掛かった訳である。今迄の処、大筋に於いては、袁紹の采配ぶりに、致命的なミスに成る様なものは、何も現われていない。白馬・延津の一敗も、局地戦での小競り合いに過ぎず、作戦遂行上に伴う微少な損耗と言える。−−だが翻って、曹操の立場にすれば、苦しいながらも、「兵法的」には、これでやっと対等に戦える場を得た
と、強弁し得る。官渡城砦に籠城する事に因って、兵力の分散をしなくても済む。古来より、
攻城戦は、1対10を以って、はじめて均衡する・・・・と、されるからである。
これなら《やれる!》・・・・か・・・??
果して《鬼才軍神》と呼ばれる曹操の頭脳には、この最大のピンチを克服すべき、勝利の成算・図式が描かれて居るのであろうか!?それとも、只管、相手のミスを待つ、《無手勝流》で臨んで居るのか!?曹操の腹の裡も、そして其の戦局の行方も今は未だ誰にも判ら無い。但、言えるのはーー
袁軍絶対優位曹軍絶対不利の客観情勢は、
微動だにして居無い
事実のみである

 ーー危うし、《官渡城》!!
挿絵94
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