第93節
男も惚れる関羽の背中
                                    

「・・・・馬鹿めわしの顔に泥を塗りおって・・・・!!
顔良討ち死にの報せを聞いて袁紹は唾棄する様に顔をしかめたとは謂え、袁紹軍全体から観れば、さしたる損害とは言え無い。主力は、そっくり此処に在る。「兎に角、全軍が河水(黄河)を渡る事じゃそして、この大兵力を集中使用して、一挙に敵を殲滅するのじゃ」 然し、袁紹が全軍に渡河を命じようとした時、沮授が再度、諫言した。 勝敗とは、どう転ぶか判らないもの。充分に考慮なさらなければなりません。延津へ渡河を果した後は、軍営を留めつつ兵を分けて官渡に派遣なされるのが適当と存じます。全軍の1点集中使用は避けるべきです。もし勝ち戦さとなりますれば、その上で延津に留まっている大軍を増派しても、遅くはありません。万一、思い通りにいかなかった場合は、全軍を官渡に進めていたら、帰還できなくなりましょうぞ。」
 巷間こうかん謂われている通り、彼我ひがの兵力差が10倍であるとするならば、この発言は、余りにも弱気すぎるであろう・・・・) だが袁紹は、兵力の集中使用に固執して、その諌めを聞き入れようとはしなかった。
上の者は、野心を満たすのに汲々とし、下の者は手柄を立てるのに専心している。嗚呼、悠々と流れる河水(黄河)よ、私はもう戻れないのか・・・・」  この段階で嘆くのも早過ぎる・・・・・)
沮授は慨嘆し病気を口実に辞去を申し出た。袁紹は許さず留め置いたが、すっかり気分を害し、沮授から1軍を取り上げ、郭図の軍に吸収させてしまった。事実上の罷免である。
                   (
もし10倍であれば袁紹の方が正しいであろう・・・・) 袁紹軍は、曹操が「延津」⇔「白馬」を往復している間に、急いで(無事)全軍の渡河を完了★★☆☆☆☆★★した。うまくすれば、白馬から帰還して来る曹操を、ここ「延津」付近で捕捉する事が出来るかも知れなかった。捕捉する迄ゆかなくとも追撃はし易くなる筈であった。とは言え、何せ、10万近い人馬の一斉渡河である。壮観であった。澄んだ川面一杯に、小船と人間の大群が、びっしりと帯状に続いた。騎兵や輜重は勿論 船舶を使うが、歩兵達は牛ノ皮袋を背負って流れ・泳ぎ渡った。いずれにせよ10万近い大軍団がついに黄河を南に渡り切り曹操領内に侵入したのである!!そしてその大軍団は、そのまま延津の南へと進出していった・・・・・
「白馬の戦い」に続く、
延津えんしんの戦いが始まろうとしていた。
ーーだが、袁紹にしてみれば・・・・彼の最終目標は飽く迄

官渡かんと城砦じょうさいでありその南の許都きょとである。(この、後世、「延津の戦い」と呼ばれる戦闘も、実際は、その途中に生じた、1地点での”小ぜり合い”に過ぎないのではある。)この時、袁紹は、主力を延津に残したまま、官渡に向かって西進帰途中にある曹操を追撃すべく、顔良と並び称されていた文醜を、更に南へと先遣させた。その部隊の1属将として昨年末、単騎で逃亡して来てた居た劉備も加えられていた。ー→ (久しぶりの『劉備』の登場でアリマス)
一方・・・・曹操は、6百の騎兵と共に、一足早く〔延津〕に到達。その南方の南阪と云う小高い丘に部隊を集結させると、簡易の物見櫓を組んで敵の動きを見張らせていた。曹操とて真の狙いは、官渡城への無事帰還』であった。だが、追尾されながらの退却戦では、せっかく救出した白馬城兵の被害は甚大となり、当初の目論見は破綻してしまう・・・そこで逆に、此処で敵にひと泡ふかせて時間を稼ぎ、その間に足の遅い歩兵を無事に帰還させようとする、苦肉の策を選んだのである。−−だが・・・殆んど遭遇戦、若しくは”出会い頭”と言ってもよい程の早い時間に、敵の先鋒軍の姿が見えて来た。文醜(と劉備』)の率いる騎兵部隊であった。「5、600騎が近づいております!」物見の兵が緊迫した声で曹操に告げた。「わかった。逐次、報告せよ。」暫くするとまた報告が来た。 「騎兵の数が増々多くなっております!歩兵は数え切れぬ大軍であります!」
「ム、御苦労。もう報告せずともよい。この後は儂自身が観よう。」
そして麾下きかの将兵(騎兵)に下命した。
「全騎、くらを外して、馬を休ませよ!」
「−−
えっ!下馬するので御座いますか大軍が眼下に迫って来ているのにと、血気に燃える将兵達はみな驚いた。が、曹操の落ち着き払った姿を見ると、皆それに従った。全員が曹操の機略の妙・神威を識っている。・・・・と、将の一人が叫んだ。
「あ!あんな所に輜重隊が居るぞ!!」

諸将が小手をかざして望見すると・・・・白馬から跡を附いて来た味方の輜重部隊が、今頃ノコノコと街道を此方に向かって来るではないか・・・・
「バカ引き返せ何を考えてるんだ
「殿、あの儘では、みすみす輜重の全部を敵に奪われますぞ
直ちに合流して救いましょう!」
敵騎兵は5、6千に成ってしまいました!我等の騎兵は600弱、この儘では無理です。やはり、あの輜重隊と一緒になって、白馬へ立て籠もるか、さも無くば・・・・。」
諸将は流石に恐慌を来たし始めた。
「静まれ〜い!各々方お静かに!」
 凛呼たる大声がそのざわめきの中に響き渡った。軍師・【荀攸じゅんゆうが、ボーッとしている日頃に似合わず、シャキッとして立って居た。       
「あれは敵を釣る”えさ”で御座る。殿の智略の現われなのだ。どうしてそれがお判りにならぬのかな?退きあげるなど、とんでもない事ですぞ!」
曹操はそれを聞くと、荀攸に目配せしてニコリと笑って見せた。 「・・・・殿、いずれにせよ、もう我々は馬に乗っていた方が宜しいのではありませぬか?」 戦いたくてウズウズしている将兵達の心が、曹操の口元に集まった。
「−−未だだ・・・・!」文醜と劉備の騎馬軍5、6千が、刻々と眼の前に押し寄せて来ていた。こちらの10倍に達する大軍であった。ーーだが、曹操の返事は自信に満ちている・・・と、もう少しでこの丘に辿り着こうとしている輜重隊の背後に、敵の騎馬軍が近づいた。
くらを着けよ!」遂に輜重部隊は敵に追いつかれ、兵達は荷駄を全て置き捨てて、一目散に逃げ出した。街道上には、大量の食糧と武器・弓矢などが残された。・・・・すると、それまで整然と駆け寄せていた敵の軍形が、突如、ご茶ご茶に乱れ始めたではないか早い者勝ちの、略奪競争が始まったのである。
《ーー引っ掛かったな!》 荀攸の愚鈍顔が、少しほころんだ。

よし、乗馬!」・・・・《そうか、おとりだったのだ!》と、全員が心の中で、快哉かいさいを叫んでいた。雑魚ザコには目を呉れず、牙門旗がもんきだけを狙え!将さえ討てば敵軍は総崩れじゃ!」
白馬戦における顔良の前例が全員の脳裡をよぎった。

「オオゥー!!」
待ちに待たされて全身に覇気が充溢しきっていた将兵達であった。しかも眼の前の敵は戦さそっち退けで、武器や食糧を奪い合っている。当時の習いとして、戦利品はその部隊ごとのものとされていたのだ。その上まさか6千の騎馬軍にたかが6百の相手が向かって来ようとは想ってもいない。
「突っ込め〜ィ!!」
曹操の号令一下、鎖を放たれた猟犬の如く、猛り立った精鋭達がドド〜ッと丘を駆け下る。弛みきった敵軍めがけて殺到して来る曹軍の大突貫に、敵の大部隊は、只愕然と恐慌を来たすばかり・・・・。
この延津の戦いで・・・・袁紹側の将帥・文醜は曹操の精鋭騎兵に集中的に狙われて、その首を取られた
・・・・だが、もう一人の弱将・
劉備の方は、北方の本軍に逃げおうせている。逃げ足だけは超一流の、ダメ男の本領発揮と言った処である。
然し、この2将の生死の差については・・・・其処に何等かの
暗黙の了解が有った・・・と観る方が小説的には余程面白い。又、『正史』には何処にも記述は無いが、(演義が脚色している様に)
文醜
の首も【関羽】が討ち取った可能性は、無きにしも非ず・・・・ではある。但し、「顔良」を斬った事は、人物『』のあちこちに出て来るが、文醜を斬ったと云う記述は一切無い。関羽ほどの人物については記述漏れは考えられぬから、やはり直接には首を挙げていない・・・・とするのが正しい態度であろう。然し、前後関係から推して、この曹操の騎馬部隊の中に関羽が居た事は先ず間違い無い。又、攻め寄せた袁紹軍の指揮官の一人として劉備が指名されていた事も『正史』に明記されている。すなわち、
死ぬ時は一緒》と誓い合った義兄弟主従の2人が同じ戦場で味方となって遭遇したのである。劉備関羽】が互いに遠目で、互いを視認し合う場面も可能性としてはゼロでは無い。いや寧ろ、劉備の方は一軍の将帥として、牙門旗ないしは蓋車を用いていたであろうから、「文醜」同様、曹操側からは大いに目立った筈である。それ故、関羽がそれとなく戦場の劉備を守り、張遼も劉備個人には手を出させなかった・・・とすれば小説的には、より劇的効果は上がろう。とは言え、関羽の忠義心を十二分に識る曹操は、敢えて関羽に劉備を討て!”とは、100パーセント命じては居まい。敵は【袁紹】なのである。
−−かくて曹操は、その緒戦となる《白馬》・《延津》の両戦闘に於いて、智謀を以って勝利をもぎ取り、無事『官渡』への帰還を果したのである。一方の袁紹は、小競り合いに過ぎぬ局地戦とは言え、「顔良」・「文醜」と云う2大将帥を討ち取られ面目丸潰れ、そのプライドを甚く傷付けられて居た。又、出鼻を挫かれた将兵の志気は、著しく低下せざるを得無い結果と成ったのである。ーーそれにしても・・・・と考えざるを得無い。如何に緒戦の小競り合いとは謂え、スコアは100対0の、曹操の一方的な完全勝利・パーフェクトである!巷間謂われていた「顔良」と「文醜」は、実は大した部将では無かった?はたまた、曹操の方が凄ご過ぎるのか!?・・・・
とは謂い状、大局的には袁紹軍の絶対的 優勢ビクともして居無かった。本軍主力は全くの無傷であり、一旦敗走した兵達も再び合流していた。官渡へ向けての大決戦は、これからが本番なのであった・・・・・。
官渡に帰着した曹操は、直ちに上表して、
関羽漢寿亭侯 に封じた。そして、このかんじゅていこうの肩書は、彼の
        末代までの(永遠の)定冠詞と成る・・・・
処で・・・・この白馬・延津の戦いに関する【関羽】のエピソードは、小説作家にとっては、まさに”宝の山”である。『三国志演義』の羅貫中(彼と其の集団)も、ここを先途と、大向こう受けするフィクションをオンパレードさせている。
〔其の1〕手柄を立てさせると、劉備の元へと去ってしまう事を恐れた曹操は・・・・
         初め関羽を「許都」に留めて置くが、余りに強い顔良と文醜に手を焼き、
         ついに両将退治を関羽に求めて出馬させる。
〔其の2〕顔良だけでは無く、文醜の方も、関羽が単騎出撃していって、
                   一刀の下に斬り倒す。両軍注視の真っ只中でである。
〔其の3〕爵位についても・・・・寿亭侯の印を突き返して、「漢」の字を入れさせ、
      自分は曹操に降ったのでは無く漢室の臣として従っているのだと言わしめる
〔其の4〕曹操から下賜された新しい戦袍せんぽうを下着にし、劉備から拝領した古い戦袍
          を上に着続け、兄・劉備の事を片時も忘れ無い・・・・などなど・・・・
いずれも、関羽の晴れ姿を描くには打って付けの場面設定とされ必然、曹操の方は矮小化されている。ま、確かに其の方が痛快至極ではアリマスな!
                   
さて我々は、此処でちょっと、眼を曹操の”背後”に向けて措こう。付記すれば、是れ迄いずれの史書や解説書も、この視点を軽視採用・検討する事をしていないのである。・・・・だが、官渡の戦場から遙か南東へ数百キロ、其処・呉の地には、曹操を出し抜いて「天下」を狙う気宇壮大な大人傑が居たのである。
御存知、
孫策箔符そんさくはくふであった。
僅か5年の間に江東〜江南全部を平定した、此の25歳の血気盛んな人物は、袁紹と曹操の激突を、我が覇業最大のチャンスと捉え、許都襲撃を企図し、両者衰亡の間隙を虎視眈々と窺って居た。そして袁・曹開戦と成った事実を確認した上で、ついに此の3月、挙国全軍体制を以って、北上を開始していたのであった一体、曹操はその逼迫ひっぱく状況を、どの様に捉えていたか・・・・については、どの史書にも記述が無い。だが然し・・・・曹操の心中をおもんぱかるに、その不安と心配は、恐怖の叫びを上げるばかりのものであった・・・・と想像するに難く無い。それまでは何とか懐柔策で友好関係を保って来たが、そんなものは苦し紛れの一時凌ぎである事は、当事者同士が一番よく識り尽くしていた。そして、それ以上の打開策も見つからぬ儘、ついに袁紹軍の襲来を迎えたのであった・・・・だが、もはや開戦の火蓋が切られた今と成っては、とてもの事、孫策軍に対して、少ない味方の兵力を割く余裕など無い。〈−−その時は、その時だ・・・・。〉この腹を括った開き直りこそが、曹操の本音・曹操陣営の実態であったろう。 先の事をアレコレ悩むよりは、兎に角まず、眼の前の課題に対して、全力で立ち向かう。一見、複合的に見える問題・悩みも、慌てず騒がず冷静に分析してみれば・・・・それは結局、1つ1つをクリアーしてゆく事の連続に過ぎぬ・・・・とは言うものの、曹操絶体絶命の大ピンチである事に変わりは無い。
だが此の時、時運曹操に味方した!・・・と、謂うより他に適当な言辞が見当たらないーー孫策暗殺さる!!』その報が官渡の曹操に届けられたのは、白馬〜延津の戦いが終わった直後の4月の事であった。曹操の吐く、ホ〜ッと云う、大きな安堵の溜息が聞こえて来る様だ。これに拠り、呉国の北征計画は一挙に頓挫し、【孫策伯符】の覇望ははかなついえ去っのであった。ーー仮定の話しで、もし、この《呉の北上》が実行されていたら、曹操の運命はどう成っていたであろうか?少なくとも、孫策の暗殺が、あと半年遅かったなら、曹操が一体どんな行動と決断を下したか??筆者のヤジウマ根性は、そんな空想にも及んでしまうのだが・・・・いずれにせ曹操は唯一最大の不安材料から解放され
これで彼は、その持てる全身全霊を、対袁紹戦に傾注する事が可能と成ったのである。


                  
ーー話しを、袁紹軍中に居る劉備に戻そう。戦局がやや膠着こうちゃくした6月・・・・孫策の横死により、曹操の背後が安全と成った事をマズイと観た『袁紹』は、実戦向きでは無い【劉備】に一軍を与えると、戦場を離脱 させ、汝南じょなんへ派遣した。当然ながら、誓い通りに馳せ付けて来て呉れて居た趙雲も、その軍に従った。「汝南郡」は豫州よしゅう南部、《許都》の真南に当たる一帯である。詰り、曹操の後背地である。汝南黄巾軍を名乗る一団が蟠踞ばんきょし、不安定な地域ではあった。其処に居た劉辟りゅうへきと云う男は、それまで曹操に降っていたのだが、袁紹の誘いに乗って、突然、叛旗を翻したのである。白馬・延津戦が終わっても尚、世間一般は、〔袁紹優位〕と、観ていた事が判る一例ではある。・・・・劉備の任務は、その劉辟を支援して、 曹操の背後を脅かし、兵力を分散させる為の派遣であった。そこで劉備は、河水(黄河)北岸を100キロ以上西進してから、大きく左まわりに廻り込み、隠彊いんきょうの諸県を荒し廻った。その動きに、多くの県が(袁紹側に)同調した。
袁紹は劉備に対し、部将としての武勇を認めず、せいぜい後方攪乱のゲリラの親分にこそ相応しい・・・・と観て居たのであろう。

                  
「−−!おお・・・・!!」 【劉備は言葉を失い手で顔を覆うと膝を折って泣き崩れた。それは信じて居ればこそ信じられぬ出来事であった。心待ちに念じて居たからこそ、夢かと疑う様な光景であった。
「兄者、戻って来た・・・・

懐かしい
関羽の姿が眼の前に在った。その関羽も笑った儘大粒の涙をボロボロ落として居る。
「ウ、ウ、ウ・・・・済まぬ、済まなかった
自分が情け無くて、お主には顔向けも出来ぬ・・・・嗚呼、だが嬉しい有難いぞ
「ーー御夫人方も、無事お連れ致しました・・・・

「おお、済まぬ、有難い・・・・嬉しい・・・関羽、雲長よお〜!!大の男同志が、人目も憚らず、ヒシと抱き合って大声を挙げて泣きじゃくって居た。
ちなみに、関羽が汝南に在る劉備の元へ帰って来るについては曹操の異様な程の温情が有った。
王者・覇者ノ度量ガ無ケレバ、誰ガ是レ程ノ態度ヲ採レヨウカ。是レハ実ニ、曹操ノ偉大サデアル。』と、うるさ型の裴松之先生も大絶讃している程の寛大さであった。
《何時かはきっと、己の下に納めるべき英傑・・・・》として、曹操は〔〕と〔を以って誘い続けたのである。ーー《直ぐには帰化・帰順しないであろうが、俺の傍に在って俺と一緒に呼吸してさえ居れば、いずれ必ず俺の凄さ・魅力を識って、その生き方について考え直すであろう》・・・・曹操には、そうした自信が有ったのだ。虚名ばかりで未来の無い劉備と、この俺とを比べれば・・・答えは自ずから決まっているではないか。今は去っても、それは一時の事に過ぎぬ。そして、曹操は、重い恩賞を下賜し続けた。だが、関羽と云う人物は、流石の曹操を以ってしても、その予想の枠をはみ出してしまう人間であった。〔利〕や〔理〕より『』を重んずる人間であったのだ。【曹操と関羽】、【関羽と曹操】ーー其の両者の、根本的な人生観の相違は・・・・「義」と云う抽象的な概念よりも、「利」や「理」と云う合理性を尊重する曹操には、ついに最後まで同調し終えぬ、別な世界に関羽は生きていた。互いに互いを認め、理解は出来るが、一緒には成れ無い・・・・それが、人間と云う独自な性を有する生き物の面白さであろうか。
関羽は、今迄に曹操から贈られたが何ひとつ手を付けて居無い全ての財物に封印を施して置き返すと、感謝と訣別の心を書状にしたため、劉備の夫人達を伴って、密かに辞去(出奔)したのであった。それを知った側近の者達は関羽一行を追跡しようとしただが曹操は、それを押し止どめて言った。
彼は彼なりに主君に尽くしているのだ。あれも亦、一つの忠義の姿である。追ってはならぬ。

羽 顔良ヲ殺スニ及ビ、曹公(曹操) 其ノ必ズ去ルヲ知リ、重ク賞賜しょうはいヲ加ウ。羽 ことごとク其ノたまウ所ヲ封ジ、拝書告辞はいしょこくじシテ先主
(劉備)
ニ 袁ノ軍ニはしル。  左右コレヲ追ワント欲ス。曹公 いわク、彼 各々おのおの 其ノ主ノ為ニス。追ウなかレ、ト。』
曹操には又、男のロマンを愛でる心が有ったのである・・・・ 演義では、「漢寿亭侯」の印綬を置き残した関羽は、シ覇陵橋の上で、尚も別れを惜しむ曹操からの餞別せんべつ戦袍せんぽうを、青龍偃月刀せいりゅうえんげつとうの先で引っ掛けると、その太鼓橋たいこばしを渡り去る。
中国の挿絵
そして、同道する劉備の妻子を護る為、未だ曹操の意向が届いていない
5つの関で、心ならずも守将達を次々と斬り捨てては関所を突破していく・・・・だが残念ながら(?)演義が設定した5つの関所の位置は、史実を全く無視した、劉備の居る汝南の、遙か西方の、トンデモナクすっとん狂な方向である事は改めて述べる迄も有るまい。但しこのフィクションは、雑劇などでも
関雲長・千里独行の外題で、今も人気場面とされている。
さて、関羽と夫人達を迎えた劉備軍は、「劉辟」と協同して、尚も汝南各地を荒らし廻った。その為、「許都」以南の曹操側官民は恐慌を来たし頻りに曹操に救援を求めて来た。だが今は官渡の戦場から兵を引き抜く訳にはいかない。曹操は頭が痛い
ついには、「許都」の在る潁川郡えいせんぐん内でさえも、叛旗をひるがえす県が現われる。荀ケが守っているから、献帝を奪われる様な事はあるまいが、非常にマズイ状況である。・・・・就中なかんずく曹操の権威が、相対的に最も低く成った時期と言える。放置しておけば、ドミノ倒し現象が起こり、曹操の拠って立つ足場が崩壊してしまう・・・・。
この時、一族の
曹仁そうじんが進言して来た。
我が大軍は、目前の急務が有るから救援できない情勢にあると、南方では判断して居ります。そこへ劉備が、強力な軍を擁して向かって来たのですから、彼等が叛旗を翻すのも当然です。然し劉備は、袁紹の軍隊を率いてから日も浅く、未だ思いのまま動かせる迄には成っておりません。その弱点を突けば、撃ち破る事が出来ます!」だから是非、この自分を出撃させて呉れ・・・・と云う意気込みであった。−−確かに劉備は、戦さ下手である。武将としてだけで観れば、2流以下かも知れ無い。まして今は、借り物の軍兵を与えられているのだ。
「良し、征け
劉備退治はお前に任せる」そこで曹仁は、足の速い騎兵だけで軍を編成すると、一気に劉備軍へと向かった。

この時、関羽が忠告した。「両夫人が居られます。ここは、まともに戦わず、ひとまず北へ逃れましょう。」
「そうじゃな。関羽と趙雲も揃った!北で張飛を待とう。そして、皆揃ったら、こんな境遇とはおさらばしよう・・・・!」
その結果、曹仁は半月も懸からずに、劉備部隊を撃破、敗走に追いやった。劉備一行は北へ奔り、再び袁紹本軍と合流した
そこで劉備は、関羽が戻った事、彼が顔良を斬ったのは義理の為であった事を袁紹に打ち明け、了諾を得る。ーーそして機を観て《荊州・劉表との同盟強化》=曹操の背後を突く強襲部隊の《即時派遣要請》を提言した。そして其の折・・・・それとなく、自分が其の仲介役に成ってもよい旨も、抜け目なく匂わせて措いた。そうして措けば、やがて【
劉表】と交渉を持っても、変に腹の裡を探られ無いで済む。・・・・と云う事は、劉備は此の時期すでに、『次を読む』作業に入っていたと謂う事になる。ーー曹操と袁紹がまさにこれから激突せんとする此の時、劉備は先ず、トバッチリを喰わぬ事に気を配った。どっちが勝ち、どっちが負けようと知った事ではない。劉備達は袁紹の麾下部将で終わる心算など毛頭ない。飽く迄自立独立した英雄に成る事”が最終の目的である。それが為に、この幾十年を無駄にして来た・・・と言ってもよい程に、この当初の目的だけは固執し続けて来たのだ。それが劉備と云う男であり、人生も此処まで来てしまえば、もう今更、安逸な道へは戻れない・・・・そんな自分達が人様のケンカで巻き添えを喰らい、滅亡してゆくなど。以っての外である。そこで劉備は再度★★、自分達を「汝南」へ派遣して欲しいと頼み込んだ。危ない戦場からは遠去かって措こうと云う魂胆である。然も汝南は、『劉表』の前庭である。その気に成れば、何時でも握手できる。
「誠に身勝手な御相談で恐縮なのですが、うちの関羽について、御高配を賜われぬでありましょうか・・・・」と、切り出した。いかに義理の為とは解って居ても、やはり味方の顔良将軍を斬った事実は、味方同士の間に気マズイ空気を醸し出し、お互いの為にならない。居たたまれぬ思いの関羽の姿を見るに忍びない・・・・だから自分達をもう一度、汝南に征かせて欲しい。もし征く時は、袁紹殿の手を煩わせぬよう、身内の将兵だけでよい・・・・。
袁紹は、この劉備の申し出を、鷹揚に認めた。袁紹としても、戦さ下手な劉備が、何かと問題を抱えた関羽を引き連れて舞い戻ったとなれば、もはや其の存在は、単なる厄介者に過ぎ無く成っていたのだ。
《−−しめた!!かくて劉備集団は久々に、御目付役抜きの〔自分達だけで行動する自由を得たのである。劉備部隊は西廻りで再び汝南へ入ると、地元の聾都きょうとらと合流し、やがてその軍勢は数千人にふくれ上がった。これに対して曹操も再び、「蔡陽」を将として劉備の撃退に向かわせた。だが、今度の劉備軍は強かった!関羽と趙雲は、顔なじみの兵士等と共に、縦横無尽に斬りまくり、敵を圧倒した。−−そして、敵将・蔡陽の首級は・・・・何と
張飛がぶら下げて、一同の前に現われたのであった!!
「ガハハハハ、手ぶらじゃ、みんなに合わす顔が無いと思ってヨ〜。じっとチャンスを待ってたとこさ!」久しく手入れもせずにヒゲ伸び放題の野武士化(野生化した?)風貌の張飛は、豪快に笑い飛ばしながら、巨きな目玉からボロボロと涙を吹き出させている。
「おい張飛、お前、手ぶらとか何とか言って、一体”アレ”は何だョお〜?」関羽が冷やかす様に、肩先で弟の肩を軽く押し退けながら揶揄した。「デヘヘヘ・・・・気が付いたァ??」柄にも無く張飛が赤面してテレまくった。そこで見遣った趙雲、思わず驚声を発した
「あれ〜?レレレ〜?どうしたんすかア〜!?」
「シッ、馬鹿。そんなデカイ声で言うな!」
まさしく美女と野獣!!・・・何と張飛はチャッカリと、その背後に、それはそれは可愛らしい娘を従えていたのである!!
※『魏略』に謂う・・・『建安5年(200年)、当時、夏侯霸(夏侯淵の次男)の従妹の13・4歳の少女が、本籍地の郡に居住していたが薪木取りに出かけて、張飛に捕まった。張飛は彼女が良家の娘であると知ると、そのまま自分の妻とした。彼女は娘を(2人)生みその娘が(姉妹とも次々と) 後主・劉禅の皇后となった・・・・・
「おいおい、そりゃホントかいな? いや〜目出度い目出度い!
うん張飛よ、デカシタではないか!」 と劉備。
「転んでも只では起きん奴とは判っていたが、ワハハハ、お前も中々やるもんだなあ〜!」 と関兄貴。
「どんな子が生まれて来るか、ちょっと不安かなあ?特に娘なら是が非にも父親には似ない方が・・・・」 と小声で趙雲。
「イイモン!何言われても。ボク今、しあわせなんだモ〜ン!」
いやあ〜魏略の謂う事が本当なら、誠に目出度い仕儀ではある
ま、事の真偽は兎も角、いずれにせよ・・・・

劉備】、【関羽】、【張飛】、そして趙雲と・・・・やっと 義兄弟全員 が、この汝南の地で手を取り合い、ひとつの心
ひとつの小宇宙にまとまった・・・・!!
劉備の「人望」は汝南の地でも活きた。汝南黄巾軍を名乗る者達が、悉く劉備に同調し、反・曹操の大きなうねりが形成され始めたのである。このまま情勢が推移すれば、直接《許都》を攻撃できる可能性すら出て来た。劉備軍だけでは無理としても、もし袁紹が本軍の3分の1を裂いて合流させ、本気でやる心算なら官渡に釘付けの曹操は動けず、許都は陥落するであろう。『許都の陥落』は、即ち曹操の滅亡である。袁紹、必勝の機であった だが此の時、袁紹が為した事は・・・・手持ち兵力をケチって、僅か1千の騎兵を「韓荀」に与え官渡←→許都の間に割り込ませ、補給線を攪乱させると云う、全く見当外れで些細な指令を発しただけであった。曹操との直接対決を絶対視し、飽くまで正面から堂々と渡り合い、曹操本人を押し潰して、若い時からの因縁に終止符を打つ事に拘り続ける袁紹の、それが覇王としての面目であり、行き方であったのだろう。又、客観的に観ても、袁紹側には、負ける要素が全く無く、有るのは唯、揺ぎ無い必勝の到達点と必然性だけであった。いかに勝つか?では無く、
どの様に
勝って見せるか−−それだけが袁紹の総帥としての役割・采配の振るい処であった。・・・どうやっても勝てる、
勝つ方法は幾つでも有ったのである・・・・。
だから、分っては居ても圧倒的物量の優位を活かす事をしない。その結果・・・・・西から其の中間点に割り込んだ「韓荀」部隊は、許都の西方50キロの陽戳ようよう城から出撃して来た曹仁によって、〈鶏洛山けいらくざん〉で撃滅されてしまった。兵数と言い、目標地点と言い、何とも中途半端な用兵に因って、袁紹は千載一遇の大チャンスを逸してしまったのである。−−では、この絶好の機会を見逃さず、主君・袁紹に進言する軍師は居無かったのであろうか??
居たのである。軍師参謀の【許攸きょゆうであった。 彼は私生活に於いては悪どい蓄財に励む人物ではあったが、その軍才には定評があった。
「殿、何をして居られるのですか? 今や勝ったも同然、もう曹操と攻め合う必要は有りませんぞこの儘奴を釘付けにして置いて、その隙に軍の半分を別ルートから南へ進ませ、許都に急襲を掛け、献帝をお迎えするのですそうすれば、事は立ち処に成就いたします」 だが袁紹の反応は、許攸の面目をいたく傷付ける、過反応とも言えるものであった。
うるさい!誤茶誤茶ぬかすで無いわ。儂は王者の戦いを致すのじゃ。王たる者に相応しく、真っ正面から曹操の奴を押し潰してやるのだ!奴は儂の眼と鼻の先に居るではないか。此処まで出張って来たからには、何が何でも儂自身の手で、奴の息の根を止めるのじゃ!儂の心、王者の戦いが解らぬ奴は、すっ込んでおれ よほど蟲の居所も悪かったのか、袁紹は満座の中で許攸を怒鳴り飛ばした。・・・・この一事が、後で袁紹の命取りに成ろうとは、当人達でさえも未だ気付いて居無い時の事ではあった。
しかし結果として、この
許攸は、官渡の決戦のゆくえを左右する最大のキーパーソンと成ってゆく・・・。幾分でも、袁紹の観念の中に、白馬・延津の戦闘で、兵の分派に因り、王者の面目を潰されたとの思いが生じていたーーとすれば曹操の緒戦の目的は完全に達せられた事となる・・・・いずれにせよ、袁紹は丸で気付いて居無いが、既にして彼は細かな部分では、幾つもの失点を重ねて居たのである。
−−だが衆寡敵せず・・・・曹操軍はジリジリと後退を余儀無くされ、

官渡の城砦へと追い詰められてゆく
                     のだった・・・・・
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