【第92節】
ーー建安5年(西暦200年)2月・・・・【袁紹】は、遂に軍令を下した!〔官渡城〕に迎撃陣を置く【曹操】を一挙に殲滅する為の”本軍主力”の渡河地点を確保する為、”先遣軍”の進撃を命じたのである!(※第3の勢力である【呉の孫策】は、”許都襲撃”の体勢をほぼ完了し終え、まさに挙国全軍の北上を開始せんとして居た時であった。)
ーーその先鋒軍の顔ぶれは・・・参謀として「郭図」、将帥として
【顔良】、副将として「淳于瓊」が充当されていた。
その兵力は凡そ3万!その戦術目的は、黄河北岸の「黎陽城」から渡河を強行して、対岸の〔白馬城〕の敵を封じ込める事であった。敵を『白馬城』内に完封し、その間に本軍主力は、この〔白馬の渡し〕
=白馬津を利用して全部隊を南岸に渡河揚陸しきる・・・・これが袁紹軍の企図する、戦術の第1段階であった。
これに対する白馬の守兵はせいぜい2千。手出しする事も出来ぬまま、その渡河を許し、ひたすら救援軍を待っての籠城戦を固持せざるを得無かった・・・・それを承知で曹操が此処に兵を置いた理由は一体、何なのか??ーーそして程無く・・・・曹操軍の最前基地である《白馬城》は、顔良軍の大部隊によって、当然の如くに完全包囲されたのだった。
然し、この時も亦沮授は諫言している。「顔良は性格が軽率で、武勇には優れているものの、彼一人に任せてはなりませぬ!」
・・・・だがやはり、袁紹は聞き入れなかった。軍師としての己の進言を悉く退ける主君の姿に、沮授はすっかり悲観的になり始めていた。その為、この直後(本軍と共に、業城を出撃する直前)彼は一族を集めると、嘆息しながら全財産を一族の者達に分与して言った。
「そもそも勢いと云うものが有れば、その威光は全てのものに及んで上手くゆくが、勢いが無くなれば、一身を保つ事も出来無い。なんと悲しい事ではないか・・・・。」
弟の沮宗が、訝しんで尋ねた。「曹操軍など兵馬の数も少なく、問題にもならないと言うのに、兄上は何を心配されているのですか?」 【沮授】は答えて言う・・・・。
「曹操には優れた才略がある上、帝を擁して
それを財産としている。それに比べて我が方は、公孫讃に勝ったとは云うものの、実のところ軍兵は疲弊しきっている。処が、将軍達は自信過剰で驕りきり主君も相手を軽く視ていい気になっている。持久戦に持ち込むべきものを短期決戦に出ていってしまう。
我が軍の敗北は、この挙兵によって決定づけられたと言ってよかろう。揚雄の言葉に『戦国の六国は冷静な判断を失って、秦の為に周を弱くしてやった』・・・・とあるが、曹操の為に漢を弱めている現状こそ、我々は同じ轍を踏もうとしていると言えるのだ・・・。」
(※第56〜57章で詳述した如く、旗挙げ以来の大軍師・参謀であった此の【沮授】と【田豊】は、曹操との決着に関しては〔持久戦を主張〕して已まなかった。だが袁紹は密かに両者の追い落としを画策する『郭図』・『逢紀』等の言を容れ、短期決戦(大会戦)方針を採用。ばかりか、其れまで袁軍が維持して来た《監軍体制=沮授の大統帥》を奪い、その権限を縮小分散してしまっていた。更には、この直前、袁軍の至宝とも言うべき【田豊】を獄に閉じ込めてしまうと云う愚挙を行なっていたのであった・・・・)ー→出来うれば、読者諸氏には、第56・57章を再読した後に此の6章をお読み戴きたい。
ー−−初夏4月・・・・
顔良の白馬城完全包囲に気をよくした【袁紹】は
いよいよ自ずからが腰を上げた。 本軍主力10余万を率いると河水(黄河)の北岸〔黎陽城〕に進出を果したのである。袁紹の誇る、その〔家臣団〕・・・・・
【参謀】としては→「田豊」(投獄中)「沮授」・「郭図」・「逢紀」・「許攸」・「荀ェ」などなど。【部将】としては→「顔良」・「文醜」・「張合卩」・「高覧」・「淳于瓊」・「蒋奇」・「審配」など勇将・猛将も多い。特に【顔良】と【文醜】の両将は、袁紹全軍を統轄する実戦部隊の両軸であり、交替で常に先鋒の任をこなす一級の武人であった。両将の征く処に敵は無く、平定戦では敵の主将を一刀の下に斬り捨てること数度に及ぶ。名士・『孔融』は、両将を評して
『勇ハ三軍ニ冠タリ!』 と讃えている。
今の時点では「関羽」や「張飛」よりは、数段格上の武名を天下に馳せている。この頃、一将が万単位の軍団を率いる事は皆無であった(そもそも、軍の構想を万単位で抱ける、そんな大国は袁氏だけであった)が、この両将に限っては特別であった。大兵をよく統帥した。純然たる野戦型の武将である。【文醜】の方は、かつて『趙雲(子龍)』と一騎打ちして引き分けている。
【張合卩】も亦、その武勇と人柄を全軍に知られ、公孫讃は彼によって追い詰められた、と言ってよい程の活躍をしていた。ーーこの錚々たる家臣団を擁した大軍団は今、これまで『袁』・『曹』両者の版図を隔離させて来た河水=黄河を押し渡り、間髪を置かず、一挙に曹操領土内へ雪崩れ込まんとしていた。一会戦に向かう単独軍としては、光武帝以来の、未曾有の規模である。
一方、〔官渡城〕に在る【曹操】・・・・・この白馬包囲の直前、”或る1人の守将”の身を案じていた。白馬から更に100余キロ東(下流)に在る〔甄城〕を守備していた重臣である。−−その守将とは・・・・
【程c仲徳】であった。この程c、曹操からは殊のほか重んじられ愛でられていた。なにせ歳は曹操より14歳も年長で、何と、この時すでに60歳の「バリバリ爺さん」であったのだ。彼の活躍期は寧ろこれからの60代であり、70に成っても尚、第一戦で白刃をかい潜ってみせようとする「超元気じるしの爺様」である。身の丈八尺三寸(190センチ)と巨将の中でも図抜けており、顎と頬にたわわな白髯をたくわえていた。脂切った眼光で白髪の奥からギロリと一睨みされたら、新たに参入して来た武将達など、思わず直立不動になってしまう。何故なら彼は、親族以外では数少ない旗挙げ以来の最古参であり、曹操の歴史を一から十まで知り尽し、苦楽を共にして来ていたのであった。では生粋の軍人であるかと言えば、とんでもない。寧ろ彼は一貫して軍師として登場する場面の方が多いのである。それも、ここぞと云う時に「直言軍師」として発言する。その才能は一級品の折紙付である。
『程c 謀有リテ、能ク大事ヲ断ズ』(魏志)『才策謀略、世ノ奇士ナリ』(正史)・・・・と迄絶賛されるのである。但し、彼には持病が有った(?)病名はさしづめ《老人性頑固症侯群》 とでも呼ぼうか。ーーカルテには・・・・
『性、剛戻ニシテ、人ト多ク逆ウ』 とある。だから反感を買って、ちょくちょく誣告されたらしい。
『人、cノ謀反ヲ告グ。』然し、曹操の信頼は絶大であった。
『太祖、賜待スルコト益々厚シ。』 逆に曹操は、悪口を言われた程cの待遇を一段と高めてみせたのである。これには讒言した方も口あんぐり、二度と言わなくなる。超1流の人心掌握術と言えよう。2流の奸言を鵜呑みにして、1流の者達を遠避け、獄にまでつなぐ”誰か”とは雲泥の違いである。
処でこの程cジイサマ、これ迄に4つ大きな功績を残して来ていた。中でも【最大のもの】は
〔3城死守・信じて主の帰還を助く〕 の一事であった。
−−今を去ること7年前、父親(曹嵩)を陶謙の配下に惨殺された曹操は、烈火の如くに逆上し、前後の見境いも無しに除州に攻め込み、30万とも言われる「民間人の大虐殺」を行った。(全くの腹いせで、これにより《悪虐曹操!》のイメージを天下に植えつけ「曹操イコール虐殺」の固定観念を民衆レベルにすら与えてしまった、曹操末代までの痛恨事であった。のち〔荊州平定〕時には、《曹操来たる!》の噂さだけで、何と数十万人もの民衆が故郷を捨て、【劉備】と一緒に逃亡しようとする事になるのも、”この一件”が、根深く尾を引いてゆくのだった。)ーーこの時、それまで曹操の首席参謀であった【陳宮】が、ガラ空きとなった曹操の根拠地・兌州と豫州とで叛旗を翻したのである。
するや両州の諸群は、瞬く間に叛乱側になびき、曹操は帰るべき国を失った”根無し草状況”に追い込まれたのである!!(既述) きっかけは陳宮の個人的怨みである。それまで首席であった地位を、遅れて出仕した【荀ケ】に取って代られ・・・・曹操からお払い箱にされた!と憤慨し、《今に見ておれ!》とホゾを固めたのである。
きっかけはそうであるが、”真の原因”は、曹操自身に有ったと言えるだろう。なんとなれば、その頃の曹操は覇業達成を焦る余り万事をおしなべて〔武力強圧主義〕で押し通そうとしていたのである。つまり、在地の地方中小豪族(士大夫)達を力で捻じ伏せ、己の支配下に置く政策一辺倒だったのである。
当然、各地で反感を招いたが、沛国の『袁忠』・『桓曄』は逃亡を余儀無くされ、批判の急先鋒だった英才・【辺譲】は無実の罪で処刑された。そうした火種が燻っている最中の、二度に渡る徐州大虐殺であった。〔曹操に兌州牧の資格無し!〕と云う声が、既にして渦巻いていたのである・・・・。それを見極めた【陳宮】は、許や王楷らとも語らい、曹操を恐れていた陳留太守の【張獏】を説得。更に両者は、さすらっていた【呂布】を盟主に担ぎ上げ、着々と根廻しをしつつ、決行の機会を窺っていたのだった。ーーかくて曹操は、帰るべき根拠地を失いかけた。・・・・その時、天の佑けか命の綱か僅かに残ってくれたのが、〈甄〉〈范〉〈東阿〉の3城だけであった。兌州でも黄河沿いの、ほんの北部の1角に過ぎなかったが程cはその1つ《甄城》を【荀ケ】と守っていた。然し、どうも〔范城〕の様子が怪しい。守将・革斤允の一族全てが敵の手に落ち、人質にされたようなのだ。・・・・・荀ケが言う・・・・
「今、兌州は叛旗を翻し、唯この三城が存在するだけです。陳宮らが強力な軍勢で向って来た時、三城の間には深い心の結び付きが無い限り、三城は必ず動揺しましょう。地元出身のあなたには、民の人望が有ります。帰郷して彼らを説得すれば、ほぼ安全となりましょう。お願い致します!」
それを受けた程cは直ちに范へと急行し、その守将・革斤允に対し、一世一代の説得を行なった。程cの故郷は、ここ兌州東郡であり、互いをよく識る間柄であった。
「聞けば、呂布は君の母・弟・妻や子を捕えているとのこと。孝子として、実際気が気でないで御座ろうと推察仕まつる・・・・然れど今、天下は大変な乱れようで、英雄が次々に起ち上がっておりまする。必ずや一世に秀でた人物で、よく天下の動乱を鎮める者が居りましょう。これは、智恵ある者なら充分に見分けられる事です主君を正しく選んだ者は栄え、選び損なった者は亡びます。陳宮は叛旗を翻して呂布を迎え入れ、百城みな呼応しました。よく大事を成す様に見えますが・・・然し貴殿から監察して、呂布は一体どう云う人物でありましょうか?そもそも呂布は粗雑な神経で親しむ者は少なく、剛情で無礼、匹夫の武勇に過ぎませぬ。陳宮らは成行から仮に一緒になっているので、主君を助ける事が出来ませぬ。兵力は多いとはいえ結局成功しないに決まっておる。それに比べて曹使君は不世出の智力を持ち、恐らくは天の下されたお方です。貴殿が飽まで范を固守され私めが東阿を守りぬけば田単の功績を立てられましょう。共に心を一にして戦いましょうぞ忠節に外れて悪事に加担し、母子共に滅亡するのと、どちらがよいであろうかどうか貴殿には、とくとその事を考慮して欲しい。」
この言葉を聴いた革斤允は涙を流して答えた。
「あえて二心を抱く事は致しませぬ!」
折しも敵将・氾嶷が誘降の為に乗り込んで来た。そこで革斤允は城外で面会し、伏兵に彼を刺殺させた後、帰城すると、《范城》を守り通した。【程c】は更に指示して、倉亭津の渡しを断ち切らせ、陳宮軍の渡河を防いだ。直後、自身は東阿城へ駆けつけ、終に〈甄〉・〈范〉・〈東阿〉の3城は持ちこたえ、曹操の帰還を果させたのである。
「君の力がなければ、儂は、帰る場所が無くなるところだった!」曹操がしみじみ感謝する処、これ深甚なものであった。そして、この時から、彼は『程c』と名乗らされたのである。それ迄の名は『程立』と言った。だが、3城死守の直後、戦友の荀ケが、曹操に彼の〔夢の話し〕を持ち出してくれたのである・・・・「程仲徳どのは、若い頃しょっちゅう同じ夢を見たそうで御座います。それは〔己が泰山に登って両手で太陽を捧げる〕と云うものだったとか」
・・・無論、太陽は天下人たるべき曹操を指す。あっけらかんとした”ゴマスリ”である。
「おお、それは誠に良い話ではないか!卿は最後まで儂の腹心となって呉れるに違い無い。では今から、名前でも太陽を捧げ続けるがよい」と云う訳で「立」の上に「日」が付けられ、『c』と成ったのである。ゴマスリも大きく出られると、却って嫌味ではなくなる。曹操もトンチが効く。
【2つ目の功】は、呂布との死闘のさ中、蝗の大群に襲われ両者兵糧を全て失った窮地の時、それを見透かした『袁紹』が、人質を出して俺の下に付かないか、と従属を勧告して来た。流石の曹操も弱気になり、それを呑もうとしたのである。が、曹操を一喝、どやしつけて堪えさせた・・・・のが、この程cであった。
【3つ目】は、或る意味では最大の功であるが、〔献帝奉戴〕を強力に進言、実現させたものである。これには『荀ケ』の力が最大ではあったが、寧ろ曹操の本音にピッタリと合致して頷かせたのは、程cの発想の方が大きかったと、言えよう。荀ケと程cとは、同床異夢だったのである。・・・・荀ケは筋金入りの「漢室復興論者」で、曹操の到達点を朝廷守護の《覇王》とさせる事を理想としていた。
それに対し、程cは、全くシビアな
「漢室利用論者」であった。曹操の到達点は覇王どまりではなく、もっと上の《皇帝》であり、【新王朝の樹立】に在るべきだとしていたのである。その為には、使えるものは使って、不用になったら捨てればよいと割り切る。
『いやしくも国家に利益が有るならば、内部(朝廷)から統制はされず、専断する事も許される』・・・・と、観ていたのである。それこそ曹操の望む処であったから、曹操は思い切って、大きく一歩を踏み込んだのであった・・・・。
【4つ目】は・・・・・転がり込んで来た劉備が、裏切って出奔する以前に、〔劉備殺害を進言〕していた事である。
『劉備ハ 雄才有リテ 甚ダ衆ノ心ヲ得、終ニ人ノ下為ラザラン。早ク之ヲ図ルニ如カズ。』ーーだが、曹操はこう判断した。
『方今ハ、英雄ヲ収ムルノ時ナリ。一人ヲ殺シテ、天下ノ心ヲ失ウハ不可ナリ』 その後、曹操が、劉備を袁術討滅の為に徐州に派遣した事を聞き知った程cと郭嘉は、車で駆けつけて其の措置の撤回を直言する。
「劉備を自由にしてはなりません!虎を野に放つ如きものでございます。奴を自由にすれば、必ず変事が起こりますぞ!」然し後の祭りで、曹操はホゾを噛む事と成った。
ちなみに、この【程c】−−正史では・・・・
人物批評家(黒子)として、又は事件予告者として、各紙葉にちょくちょく登場させられている。人生経験も豊富な老人の眼なら、読む方も納得するだろうと陳寿は考えたのかも知れない。
ーーアリャリャア〜〜!!思わず知らず、だいぶ寄り道してしまったが、読者諸氏には、本書独自の『紀年本末体』ゆえと許して戴き、さて話しを現場に戻そう。
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【程c】が守る城兵は僅か700に過ぎない。 《甄城》は
7年前の三城死守以来の由緒有る城だし、何より【程c】が惜しい。そこで曹操は使者を遣って、援兵2千を送ろうとした。すると、何と・・・・程cの爺サマは、余計な事をして呉れるな!と、それを断って寄こしたのである。
『袁紹は10万の軍勢を抱え、向こう所敵無しと思い込んでおります。今、私の兵が少ないのを見れば、必ずや軽くみて、押し寄せて来る事はないでしょう。もし私の兵を増やせば、通過の際、攻撃せずには置かないでしょう。攻撃して来れば必ず敵が勝ち、我が方は破れ元々の軍兵と援軍ともに無駄に損う事になります。どうか公には、お疑いなされますな。』
「こりゃ又、程cの胆は、孟賁・夏育以上だわいな!!」
【曹操】は(臆面も無く帰順して来たばかりの)鬼才参謀『賈言羽』に、感想をこう漏して快哉した。・・・・・だが、こんな小城の1つや2つは、エピソードとしては面白いが、全局面からすれば何の影響も無い些細な話しではある。ーー今、重大なのは、敵の大軍に包囲されてしまった《白馬城の救出》であった。無論、捨て置く訳にはゆかない。見殺しにしたとあっては味方の信頼を失うし、全軍の志気にも関わる。第一、総兵力の少ない曹操軍にとっては、白馬に居る2千の将兵は、掛け替えのない貴重な戦力であった。(では何故、曹操は、こうした無駄・無益と言える様な味方陣の配置をしたのであろうか??それはさて置き)何としてでも救出して、生還させなくてはならない!
「白馬包囲さる!」の急報に接した曹操は、自から西進して守将の『劉延』を救援しようとした。その時、軍師の【荀攸】が進言
「今、我が兵数は少なく、まともには対抗でき
ません。敵の兵力を分散させましょう。」そして、その具体策を示してみせた。
「殿には〔延津〕にまで進出された後、兵を北岸に渡河させて、敵の背後を衝くふりを示されませ。袁紹はそれに対応する為、西へ動くに違いありません。その後で、軽鋭の兵によって〔白馬〕を襲撃し、その不意を突きますれば顔良を生け捕りに出来ましょう。」
−−荀攸が指定してみせた《延津》の位置は、ちょうど
〔官渡〕と〔白馬〕の中間地点に当たる。・・・・今、北岸の『黎陽城』に大挙集結している袁紹本軍に、そっくりそのまま白馬(南岸)に渡ってしまわれては、もはや《白馬救出》は破綻する。だから、その敵主力を分断する必要があるそこで、そのエサとして”囮部隊”を渡河させて、敵の大軍をおびき寄せる。その地点が《延津》と云う訳である。 ・・・・敵は大軍のため動きが鈍い。モタモタしている間にこっちはサッと退き返して、手薄な《白馬》を撃つ。
「よし、その手でいこう!!」 善く言えば臨機応変、悪く言えば出たとこ勝負・・・曹操は荀攸の策に従い、素速く動いた。
(※尚この策は『兵法36計』の「第六計」・・・声東撃西=東に声して西を撃つ・・・に通じる)
この《延津》には、既に半年前から志願した【于禁】が歩兵2千をもって守備していた。逃走した劉備を徐州に急襲した際に、念のための阻止ラインとして着陣させていたのであった。
延津まで一気に駆け寄せると直ちに1部を北岸に渡河させて、盛んに気勢を挙げさせた。すると、案の定・・・・
【袁紹】は曹軍の渡河を聞くと即座に兵を分けて自ら西の延津へと向かった。【曹操】は、この揚動作戦が図に当たった事を確認するや、即刻北岸の兵を撤収させて再合流すると、今度こそ 《白馬》を目指して駆けに駆けた。
元より機動力を最優先させて篇成した、最精鋭の騎兵部隊である。のち〔虎豹騎〕として恐れられる、精強騎馬部隊の原形がここに在った。ーー速い、速い。その突き進む様は、疾風か怒濤か!?袁紹が気づかぬうちにケリをつけてしまわねばならない。通常騎馬軍の3倍速で突き進む。この中には勿論、”胡騎”のスペシャリスト【張遼】が居て、先鋒を指揮している。
そしてその横には・・・・名馬《赤兎》に乗る(?)
【関羽雲長】の姿も在った。関羽は自ら志願して先鋒に加わっている。一刻も早く赫々たる武勲を挙げて劉備の元に戻りたい。だから関羽は、出陣した時から心に決めている。
《−−敵将、顔良の首を取る!》
・・・・この一事だけが、関羽の戦いであった。
白馬城を包囲していた【顔良】が、敵の奇襲に気づいたのは、10余里(4キロ)手前の時点であった。
「ほう、向こうからやって来たのか?そいつは手間が省けてよいわ!」顔良は少し驚いたが、そこは豪胆であり、兵力も十二分であった。何しろ顔良は、諸将ひしめく大袁紹軍中に在って、その武勇は【文醜】と一、二を争う猛将である。河朔平定戦では、向かうところ敵無しの実績を誇る。
「小生意気な奴め。一瞬にして捻り潰してくれるわ!」
直ぐに陣形を整え直すと、顔良は迎撃に出た。−−是を沮授は心配したのである。勇猛であるだけに恐れを知らず、こちらから突っ込みたがる。・・・・だが【顔良】は、こうして今まで連戦連勝して来たのだ。また彼は、単なる猪武者でも無かった。一軍を統帥する器量である。2里ほど兵を進めると其処に留まり、兵力の優越を利した”鶴翼の陣”を折り敷いて、曹操の来功に備えたのである。自身も陣形の要にとどまり、応変にも臨めるよう指揮車に位置した。但し、背後の白馬城を牽制しておく為に兵力の半分は置き残し、若干兵力が縮小してはいた。
一方、激走して来た【曹操】も、顔良軍の手前で一旦陣容を立て直す。暫し両軍相対峙する格好となった。
「張遼どの、あの顔良はこの関羽雲長が仕止める。よいな!?」
【関羽】が翳す長刀(薙刀)の彼方には、車蓋の付いた指揮車の屋根と、房飾りの有る大師旗が望見できた。
然し、何しろこの味方の軍中には・・・・待衛の〔許ネ者〕をはじめ、裨将軍の〔徐晃〕・揚武将軍の〔張繍〕・揚武中郎将の〔曹洪〕・討虜校尉の〔楽進〕・督軍校尉の〔夏侯淵〕、そして〔曹仁〕・〔曹純〕の兄弟などなど我こそ一番手柄を立てんと勇みたつ豪の者供が打ち揃っているのである。それらを尻目に、関羽が必ずしも顔良を討ち取れるとは限らないのだった。
「元より心得ており申す。存分に致されよ。この張遼、露払いを仕まつろう!」 「有難し!!」 2人の会話はそれだけだったが、互いに全てを理解し合っていた。
曹操が、スラリと指揮刀を抜き放ち、高々と天にかざすと・・・・・ビュンと大気を切り裂いた。ーー遂に此処に、
官渡の戦いの火蓋が切って落とされたのである!
【張遼】率いる先鋒部隊が、馬腹を蹴ってドッと
攻め掛かる。【顔良】側も前面の騎兵を繰り出して両軍激突、忽ち凄まじい大混戦となった。・・・・所謂〔白馬の戦い〕が開始されたのである。こうなればもう、何万もの男達のおめきの中に、関羽の姿は見えないーーだが・・・・よ〜く観ると、戦場の一ヶ所だけが斧の先の様に押し割られている。張遼率いる胡騎の最精鋭が敵の本陣めがけて、一直線に突き進んでいるのだった。そしてその斧の甲に当たる位置には・・・・・赤味を帯びた巨馬に跨り、美しい髯の巨将が、雑魚などには一切眼もくれず、引っ下げた薙刀を一旋する事も無く、只ゆったりと進んでいた。
<−−・・・!>流石に顔良は異様なものを感じた。
「左右両翼に伝令!突進している敵の先鋒を両脇から押し包み後続から孤立させて殲滅せよ!!」
やがて狙い通り、斧の刃先の速度がやや鈍る。
「よしよし、一気に揉み潰せ・・・・・。」 余裕綽々で顎ヒゲを撫でしごく顔良。−−と・・・・それまで隠れていた斧の甲から唯1騎、猛烈な勢いで飛び出して来る巨将が見えた。その余りの突進力に思わず士卒の類は次々と身をかわし、彼の前には一筋、真空の突貫路が出現してしまっているではないか!
「ム、赤い巨馬に長い髯・・・・あれは関羽か!?」
言いも終らぬうちに、巨馬巨将が眼前に迫る。
「小癪な!」凡将なら周囲に下知して彼を阻止させようとしたであろうが、顔良は違った。歴戦の武勇が、彼に馬腹を蹴らせていた。自信が有ったのだ。−−が、両者が擦れ違ったその瞬間、それが過信であったと気づいた・・・・か、どうか?
関羽の薙刀が一閃した刹那、既に顔良の胴は、鎧ごと真っ二つにされ、ドサリと地上に落下していたのだった。この大乱戦のさ中、一言を発する暇も無い、信じ難い出来事であった・・・・。然し関羽は極く当然の事の如くに淡々と下馬すると何の怨みも無かった相手の骸に手を合わせ、一礼。その首を掻き切って小脇に抱える。そして再び赤兎馬に跨ると、何事も無かった様に馬首を巡らせた。
「−−!!」
「・・・・ウ、ウ、ウ、ウワァ〜!
顔良どのが討ち取られたぞう〜!!」
「が、顔良様が斬られたぞう〜!!」
驚いたのは敵兵である。己の眼の前で、然も大本営のド真ン中、殺しても死なんと思われていた総大将が、丸で赤児の手を捻るが如くに屠り去られてしまったのである・・・・白昼の悪夢であった一瞬、戦場全体に慄然たる静寂が出現した・・・・。
【関羽】が戦場を悠然と闊歩しても、もはや誰ひとり撃ち掛かろうとする者とて無く、恰も巨神を仰ぎ見る信者の群れの如き観を呈した。
『曹公、張遼及ビ羽ヲシテ先鋒トナシ、之ヲ撃タシム。羽、良ノ麾蓋ヲ望見シ、馬ニ策ッテ良ヲ万衆ノ中ニ刺シ、其ノ首ヲ斬リ還ル。紹ノ諸将、能ク当ル者ナシ。』・・・・《正史・関羽伝》
「今ぞ!烏合の敵を追い潰せ〜い!!」曹操の疳高い激声に我に返らされた中・後軍は、ソレッ!とばかりに襲い掛かった。張遼が、徐晃が、そして楽進・曹洪・張繍が、はたまた曹仁・曹純夏侯淵らが、ここを先途と猛勇を振るう。関羽も亦曹操に敵将の首を示して置き残すと、再び戦場に突入していった。
「天っ晴れなり関雲長!復た征くか!?」
「未だ未だ曹公の厚恩には及びませぬ。それを取り戻しに参りまする!」 「よう申した。その言、然と覚えておく。いざ参れ!」
「では、もうひと暴れ仕つります。」軽く会釈してクルリと踵を返すと、”其れ”を至極く当然の事として、ただ粛々と死地へ赴く武人の姿ーーその威風堂々とした後姿に、曹操は、えも謂いわれぬ、
”男の美しさ” を、見て居た・・・・・。
袁紹軍中には、顔良より強い者は居無い。然も指令を下すべき者であったのだ。いかに総兵が上廻ろうと、もはや”組織”としては其の機能を失っていた。将兵は狼狽たえ怯えた。そこへ容赦も無く、また再び巨神が襲い掛かった。−−かくて、白馬を包囲していた袁紹軍(顔良軍)は見る影も無い迄に撃ち破られ、四散した
〔白馬城〕の包囲は解かれ、城兵は勿論、その住民全てをも撤収し、官渡方面への脱出に成功した。そして、緒戦に大勝しえた事により、敢えて白馬に阻止線を置いておいた曹操の目論見は、美事に実を結んだ事となったのである・・・・。
この、官渡の決戦・緒戦に於ける〔白馬の戦い〕での軍功の第1は、誰が観ても【関羽】である。大袁軍に猛将在り!と天下に名を知られていた【顔良】を一閃の裡に屠った男の名は、ここにおいて一挙に彼を凌ぎ、天下無双の豪雄として、
遍く 〔三国志世界〕に轟き渡る事となったのである!!
今や、その名も高し、【関羽 雲長】!!
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