−−さて・・・・話しは、〔官渡の戦い〕 の事・・・・
とは言え、此処でちょっと、『おさらい』 をして措こう。何故なら我々は、是れまで【第1章】〜【第5章】に於いて余りにも多くの
英雄達に出会い、そして又、数多の戦いを追って来た為にやや頭の中が、ゴチャゴチャ状態に成りかけて居られる方も有るやも知れず? (と云う、筆者の老婆心が為せる仕業) 故である。ちなみに、
〔袁紹〕VS〔曹操〕の激突は、西暦200年の事である。
そこで念の為その2年前の198年辺りから、時勢の流れを(手短に)振り返って措こう。
ー−先ず、『天下の情勢』だが・・・・・
〔T〕黄河以北(河朔)は→→【公孫讃】VS【袁紹】
〔U〕黄河〜長江は→→【曹操】VS【呂布】・・・・(東)
【曹操】VS【張繍】・・・・(南)
※197年に帝位を僭称した【袁術】は自業自滅の彷徨中 ※呂布に徐州を乗っ取ら
れた【劉備】一行は曹操の元に転がり込んだまま、厚遇を受けて居た。
〔V〕長江以南は →→【孫策】が快進撃中
〔W〕西の荊州は→→文治政策の【劉表】が専守防衛
・・・・と云った塩梅・・・・・・
次に、『当面するライバル相互間の優劣』だが、
〔T〕の黄河以北(河朔)は、【袁紹】が圧倒。【公孫讃】を易京城(バベルの城)に立て籠もらせ、その周囲を次々に支配下に収めつつ在った。問題は(世人の注目は)・・・・
〔U〕の曹操周辺についてであった。早晩、袁紹の来襲(激突)は必至と目される。曹操としてはそのXデー迄には、何としてでも《腹背の敵》を始末して措く必要性に迫られて居た。難敵は東(徐州)の【呂布】。南の「張繍」自体は弱小だが、バックに劉表(荊州軍)が控えて居るだけに、小ウルサイ存在。この2者とも、攻め込むだけの軍事能力は持た無いがーー袁紹との決戦が始まった後となれば・・・・その存在は曹操にとっての致命的な脅威と化すであろう。〔V〕の【孫策】の急成長は不気味だが、遠方ゆえ今の処(2年前の段階では)曹操の直接的脅威とは成り得て居無い【袁術】は、もはや頓死寸前で論外・・・・
最後にーーー『曹操』と『袁紹』夫れ夫れの2年前からの動きを年表風に整理して措こう。
198年・・・・【曹操】陣営の動き
★(前半)3月〜7月→南進=〔張繍討伐戦〕→失敗
※ 張繍を包囲中に、袁紹の軍師・田豊が《許都急襲》を進言。その情報を得た荀ケからの要請に応じた曹操は、包囲を解いて急遽撤退を開始するも、既に荊州軍に廻り込まれ、退路を絶たれて袋のネズミ状況に追い込まれる。(5月)だが敵前(安衆城)で、大モグラ作戦=大トンネル作戦の奇策に拠って其のその危地を脱し、7月に許都に帰着
★(後半)9月〜12月→東進=〔呂布討滅戦〕→徐州下丕城に呂布を屠る。 (★) 江東の『孫策』に対しては、《討逆将軍》号と《呉侯》の爵位を贈って、取りあえず慰撫政策(友好関係)を保つ。
★198年・・・・【袁紹】陣営
曹操の南進を知った、軍師の『田豊』(基本的には長期持久戦略論者)が、持論を棄てて迄も、《許都急襲》を進言するも、袁紹は、我が子の病気を口実に動かず。予定通りに華北の完全制圧を優先してゆく。
★199年・・・・(決戦前年)
〔2月〕ー→曹操側唯一の黄河北岸拠点であった、河内郡(官渡の西寄り)の《射犬城》が謀反して、袁紹側に寝返る。
〔3月〕ー→永年の敵対者であった公孫讃をついに易京城
(バベルの城)に屠る。これに拠り袁紹は、黄河以北(河朔)の完全制圧を果す。その結果、袁紹軍の総兵力は推定60万と成り、あとは南下して曹操を屠るのみに至る。
〔4月〕ー→曹操は、袁紹の全ての官位を剥奪する。
ー→曹操は《射犬》に「曹仁」と「史渙」を派遣
〔5月〕ー→曹操みずから黄河を渡り、《射犬城》を奪還。以前
に裏切った「魏仲」を取り立てて城主に置く。
〔6月〕ー→淮南で『袁術』、野垂れ死にする。
〔8月〕ー→曹操は再度、黄河を渡り、業卩城(袁紹の拠城)から
僅か70キロの《黎陽城》付近を荒らし廻る(※この
挑発的な行動の目的については、第21節にて既述してある。)
〔9月〕ー→曹操自身は許都に帰還するも、
その兵力は【官渡城】に残置・常駐させる。
〔11月〕ー→あの『賈ク・張繍』コンビが、ぬけしゃあしゃあと帰順して来る。これに拠り、曹操も亦、後背の憂いが除去され、対袁紹戦に専念し得る状況を達成。
〔12月〕ー→いよいよ曹操自身も【官渡城】に入城し、
陣地の強化・整備に集中する
ー→2年半の間、曹操の元に在った劉備が脱出
(裏切り)、徐州・小沛で独立。袁紹と同盟を結ぶ。
★200年・・・・(決戦の年)
〔1月〕ー→曹操は”暗殺計画”が有ったとして、そのグループである、献帝周辺の《廷臣派》を一挙に大粛清してしまう。是れにより、獅子身中の虫であった朝廷側に因るクーデターの懸念(内憂)を取り除き、許都に在る献帝を丸裸に孤立させ、懸念材料の払拭に成功する。
〔その直後〕ー→曹操みずから精鋭騎兵部隊(虎豹騎)を率い、徐州・小沛に独立した劉備を急襲する。泡を喰らった劉備は、妻子も部下も打ち棄て単騎逃亡。【袁紹】を頼って北に奔る。『張飛』は以後、消息知らずとなる。 下丕に在った『関羽』は其れを知り降服。曹操は特別待遇で関羽を迎える。(※結果的に、劉備3兄弟は敵・味方に分裂。)
2月ー→遂に【袁紹】は全軍に出撃を下命!天下平定の第2段階へと、その覇業の歩を進め出す。
そして、其の先鋒部隊である『顔良』が黄河北岸に出現。本軍主力の渡河点である 《白馬津》の確保に動き出す。
※江東を平定し終えた【孫策】は、好機到来とばかりに、”許都襲撃”に向け、その全軍10万近くの北上を開始する。
と以上が、《官渡決戦》迄の、『袁』・『曹』両陣営の動きと周辺の状況であった・・・
一流は一流を識る。二流は、相手が一流である事を認めたがらない。自分の方が上だと考える事自体、二流である。一流は、それを笑って受け容れる・・・・。
初メ曹公(曹操)、羽(関羽)ノ人為ヲ壮トシテ
其ノ心神、久留ノ意 無キヲ察シ、張遼ニ謂イテ曰ク卿、試ミニ情ヲ以テ之ニ問エ ト。
(ーー羽、答えて曰く・・・・)
「吾、極メテ曹公ノ、我ヲ待ツコト厚キヲ知ル。然レドモ吾、劉将軍(劉備)ノ厚恩ヲ受ケ、誓ウニ共ニ死スルヲ以テス。之ニ背ク不可ズ。吾、終ニ留ラジ。吾、要ズ当ニ効ヲ立テ、以テ曹公ニ報イテ乃メテ去ルベシ・・・・。」
その関羽の心根を聴いた【張遼】は、悩んだ。もし、有りの儘を報告したら、曹操は関羽を殺すかも知れ無い。味方であれば頼もしいが、敵と成った暁には、恐ろしい力を発揮する強敵と成るであろう。”親友”を死に追いやる様な事を、自分の口からは言え無い。−−だが、報告しなければ、主君に仕える士道に背く事になる・・・・関羽が〔曹操への恩か、劉備との情宜か〕の、二者択一の決断を迫られ、結局・・・・《曹操への恩は功を立てて清算し得るが、劉備との絆は生命を賭したものだ!》・・・・と判決した如く、張遼も亦、義理と人情を秤に掛ける事となったのである。
「曹公は君であり父であり、嗚呼、関羽は兄弟に過ぎぬ!」
張遼は敢えて口に出して己を断ち切り、結局、曹操に有りの儘の真実・関羽の真意を伝えた。
「−−そうか。君に仕えて其の根本を忘れ無いのは、天下の義士である!・・・・いつ頃、立ち去ると思うか?」
「関羽どのは、公の御恩を受けて居ります故、必ず手柄を立てて公に恩返しをしてから、立ち去るでありましょう。」
【関羽】は、曹操に降った直後から、手厚い礼遇を以って迎えられている。偏将軍(偏は副の意で、准将)に上表されただけではなく、賓客待遇で、全ての行動が自由であった無論、劉備の『甘・麋』両夫人に毎日拝謁しては身辺に気を配り、優しい言葉で慰め続ける事も認められていた。投降条件の第一は、主君の夫人達を守護し奉る事であったのだ。
・・・・曹公、羽ヲ禽ニシ以テ帰ル。拝シテ偏将軍トシ、之ヲ礼スルコト甚ダ厚シ。
超一流の【曹操】は、果して関羽に対して、如何なる処置を採ろうとするのであろうか?また【関羽】は、如何なる働きを果して立ち去ろうとするのか・・・・!?決戦の大勢とは別に、人間個々の、そんな思いをも呑み込みつつ、今まさにーー
《官渡の決戦》は始まろうとしている・・・・・
※尚、『正史・三国志』は・・・・【魏】=曹氏を正統とする立場から、魏の武帝(曹操)のハイライトである〔官渡の戦い〕の叙述は、すこぶる詳しく記されている。(逆に、大敗北となった〔赤壁の戦い〕は実に素っ気無く、たった一行で片付けられている)・・・・但し、その立場上、陳寿の筆はともすると、(殊に彼我の兵力差については)劇的効果を狙ったものとも見えるのだが・・・・
ーーさて・・・・両者が持てる総兵力は、60万と8万・・・そのうち、官渡に臨むのは、袁紹軍50万に曹操軍7万・・・・
是れを観る世の風評は、専っぱら〔至強〕と〔至弱〕の対決で、おのずから結果は眼に見えていると、謂われているのだが、果して・・・・・
【第92節】 遂に激突!白馬の戦い →へ